魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第四十二節 一本の根から

 荷車が街へ戻る頃には、中央広場の露店はすべて片づけられていた。大樹の枝が低く垂れた一帯には縄が張られ、その内側を衛兵が灯りを持って歩いている。石畳を白く覆っていた花弁も、井戸までの道筋だけは両脇へ掃き寄せられていた。誰が何をするべきか、私たちが薬を作っている間にガレスが決めてくれたらしい。

 

 井戸のそばでは、管理人の老人が板と木箱を組み合わせた台を用意していた。私を見ると何か言いかけ、それより先に荷台へ手を差し出してくる。降りる時まで助けてもらうのは多少気が引けたが、三本の薬瓶を落とす方が困るので、ありがたく頼ることにした。

 

「これで直るのか」

 

 老人は薬箱へ目を落としたまま尋ねた。いつもの井戸水についての言い合いを始める気配はなく、握っている灯りの柄へ、節の太い指が強く食い込んでいる。

 

「まず一本の根で確かめます。よければ量を増やしますが、途中で水の色が変わっても、味で確かめるのはやめてくださいね」

 

「分かっとる。鍵も隊長へ渡した」

 

 老人は空になった腰の留め金を指で叩き、それから私が器具を置きやすい位置へ灯りを寄せた。井戸を任されている人に鍵を手放させるのは、私が薬棚を他人へ預けるようなものかもしれない。私はそこには触れず、台を用意してくれたことへ礼を言って薬箱を開いた。

 

 携行認証子をかざすと、第三管理槽の図が井戸の上へ浮かび上がった。大樹の地下へ広がる根は細かな枝分かれまで描かれていたが、現在の状態を示す光がついているのは一部だけで、残りは暗い線のまま沈んでいる。リオは自分の記録を図の隣へ広げ、パン屋の煙突と、観察していた三本の枝を指で示した。

 

「これが東側です。最初に花が増えたのが、この枝で……下にある根は、どれですか?」

 

 上の枝と下の根を一本ずつ結べると思っていたらしい。施設が重なり合った循環経路を表示すると、リオは眉を寄せ、紙を少し回して眺め直した。私は彼の図を地図の目印に合わせ、花が散った時刻も照合するよう第三管理槽へ頼んだ。

 

 試験には、比較的状態の保たれている西側の根を選んだ。弱り切った場所へ最初から試すことはできないし、元気な場所だけで確かめても、ほかへ使えるかは分からない。施設が示したのは、細い循環がまだ残っているものの、余分な供給物を抱えて流れの鈍くなった分岐だった。

 

『末梢診療回路を使用できます。全域隔離を維持したまま、選択した分岐への少量投与が可能です』

 

 井戸の縁にある採取口の隣から、もう一本の銀色の管がせり出した。こちらは薬を送るための口らしく、二本の間には戻ってきた循環液を受ける小さな窪みも作られている。今日は梯子を使わずに済むと分かり、私は第三管理槽に対する評価を少し上げたが、口に出すと別の階段を案内されそうなので黙っておいた。

 

 ディンが薬箱を押さえ、セラが試料皿を並べる間に、私は一番穏やかな処方の瓶を投与口へ繋いだ。薬だけを送り込むのではなく、薄めた供給液へ少量ずつ混ぜる。大樹の中に残ったものを動かすためにも、完全に止められていた流れを、根が受け取れる強さで再開する必要があった。

 

 リオは砂時計を台へ置き、筆を持ち直した。森の家で数えた時より顔が硬く、砂がまだ落ちていないのに、何度も細いくびれへ目を向けている。私は試料皿を一枚彼の前へ置き、時刻と同じくらい、実際に起きた変化も書いてほしいと頼んだ。

 

「七回に分けます。ただし、前と同じ速さで光るとは限りません。遅れたら、遅れたまま記録してください」

 

「数え間違えたら?」

 

「私も見ています。二人とも間違えた時には、施設にも働いてもらいましょう」

 

 リオは少しだけ笑い、ようやく砂時計を返した。私は投与量の上限を確認してから弁を開き、最初の薬を送り込んだ。

 

 透明な管の中を、薄い琥珀色の液体が下りていく。井戸の上に浮かんだ根の図へ小さな光が灯り、少し遅れて、戻りの採取口から粘り気のある雫が落ちた。黒い棒を浸すと、途切れがちだった緑色の一部が繋がり、その中へ乳白色の輪がぼんやり浮かんでいる。

 

 二回目までは、森の家で行った試験とよく似ていた。白い輪は細くなり、弱かった緑の間をゆっくり移動している。しかし三回目を入れたあと、戻ってくる雫の間隔が長くなった。リオの記録にある時間を過ぎても次の反応は現れず、施設の図でも同じ場所に光が留まっている。

 

「次の時間です」

 

 リオは筆を握ったまま私を見た。私は弁へ触れず、採取口に溜まった雫を新しい皿へ移した。

 

「まだ入れません。戻りが遅れています」

 

「足りないから、動かないんじゃ……」

 

 口にしてから、彼は薬瓶と井戸を見比べた。もっと与えれば元気になるという考えが、今回の大樹には通じなかったことを思い出したらしい。私は棒の緑色が失われていないことを確かめ、第三管理槽へ根の内側の圧を尋ねた。

 

 流れは遅いが、詰まってはいなかった。薬が預かった供給物を、根が少しずつ受け取っているために時間がかかっている。急に次を送れば、飲み込む前の口へもう一匙押し込むことになるだろう。

 

「今は待ちます。この根には、小皿の試料より時間が必要なようです」

 

 井戸の上を風が通り、老人が灯りの火を手で庇った。リオは砂の落ちる量を確かめ、記録の余白へ小さく書き足している。私は白い輪の位置を見失わないよう棒を支えたまま、次の雫を待った。

 

 やがて採取口の先が膨らみ、琥珀色の雫が皿へ落ちた。棒へ触れさせると、先ほどまで同じ場所へ重なっていた白い輪が、緑色の中へ細くほどけていく。第三管理槽からも、根の中にあった供給の偏りが弱まっていると報告された。

 

「四回目をお願いします」

 

 私が言うと、リオは大きく頷きかけ、慌てて筆を紙へ戻した。さっきまでの間隔を消すのではなく、その下に実際の時間を書き残している。後から比べられるようにしたのだろう。

 

 残りの投与も、根から戻ってくる反応に合わせて進めた。五回目のあとは比較的早く、六回目にはまた少し時間がかかり、七回目を終えた頃には、予定していたより長く灯りの油を使っていた。それでも棒の緑色は途切れず、乳白色も一か所へ固まることなく、細い筋となって全体を巡っている。

 

 私はそこで薬の追加を止め、薄い供給液だけを少しずつ流した。薬がある間だけ整って見えているのか、根が自分でも受け取れるようになったのかを確かめたかった。何度か試料を交換しても緑色は崩れず、第三管理槽の図では、一本の根の先へ淡い光が伸び始めた。

 

「もう、この根は治ったんですか?」

 

 リオは嬉しそうに尋ねたあと、私の返答を待つように唇を結んだ。私は枝全体の図ではなく、明るくなった分岐を指した。

 

「食べ始められたところです。元気な頃の量へ戻すのは、もう少し先になります」

 

 頭上では相変わらず花が散り、東の枝も暗いままだった。それでもリオは、地図に灯った小さな光から目を離さなかった。街じゅうから見えるほどの変化ではなくても、自分の記録が役に立った場所を、ようやく確かめられたのだと思う。

 

 続く二種類の薬も、それぞれに合う根の分岐で少量ずつ試した。過剰な供給を受けた場所は反応が遅く、不足した場所では、薬より先に薄い供給液を長めに通す必要があった。三本の瓶を別々に用意した判断は間違っていなかったが、同じ処方を使う根同士でも、待ち時間まで揃えることはできなかった。

 

 試験を終えると、第三管理槽は三種類の処方と投与中の反応をまとめて登録した。安全隔離を一度に解除するのではなく、状態を確認できた分岐から管理された供給へ切り替える。増産する薬も初めから全量を作らず、現在の根の状態を測り直しながら、小さなまとまりごとに調整することになった。

 

『移行処方を承認しました。根系群ごとの段階的供給を開始できます』

 

 井戸の下から、久しぶりに低い作動音が聞こえた。大樹が最初に目覚めた時のように地面を震わせるものではなく、閉じていた管の奥へ、細い流れが戻る音だった。老人が灯りを少し下げ、長く見守ってきた井戸の底を覗き込んだ。

 

 リオは用紙の端へ「最初の根、供給再開」と書き、それを私へ見せた。私は頷き、次の根を記すための余白も残しておいてほしいと頼んだ。彼は何枚あるか鞄の中を確かめ、足りなければパン屋から包み紙を持ってくると言った。

 

「その前に、何か食べてください。手が空いている間に少しでも」

 

「魔女さんは?」

 

「私の分もお願いします。今日は薬師に供給が足りていません」

 

 リオは初めて素直に笑い、衛兵が用意していた食べ物を取りに向かった。私は三本の薬瓶を台へ戻し、一本だけ流れを取り戻した根の図を見上げた。まだ明るい場所は小さかったが、その光は、次の雫が落ちるまで消えずに続いていた。

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