森の家へ戻った頃には、太陽が西へ傾き、木々の隙間から差し込む光が少し赤みを帯びていた。朝に作っていた軟膏は作業台の隅ですっかり冷え、鍋の中で大人しく固まっている。本来であれば昼過ぎには瓶へ詰め、翌日の納品に備えていたはずだった。
「あなたは何も悪くないのに、巻き込まれましたね」
私は小鍋へそう声をかけた。もちろん返事はなかったが、今日出会った旧文明の施設よりは、こちらの方がまだ話を静かに聞いてくれている気がした。
ひとまず軟膏へ布を被せ、作業台の中央を空ける。そこへ井戸から採取した水、地下施設の入口付近から滲み出していた透明な液体、それから比較用として普段使っている湧水を並べた。見た目だけなら三つともほとんど同じで、どれも澄んでおり、沈殿物らしきものも見当たらない。
最初に匂いを確かめると、井戸水にはごく薄い甘さがあり、地下の液体にはそれより明確な香りが混じっていた。砂糖を溶かした時のような単純な甘さではなく、花の蜜と乾いた薬草の中間に近い。湧水には当然ながら何もなく、鼻を近づけても冷たい石と土の匂いがするだけだった。
次に、それぞれを小皿へ分け、試験紙と数種類の試薬を順番に使った。酸性度にも大きな差はなく、一般的な糖や毒物を調べる反応もほとんど出ない。甘いのだから糖分だろうと考えていた私は、早くも最初の予想を外されることになった。
「味が甘いから糖とは限らない、ということですね。人間も、魔女と呼ばれているから魔女とは限りませんし」
誰に説明するでもなく口にしたが、液体は私の主張へ賛同してくれなかった。
糖ではないなら、別の溶質が味覚へ作用している可能性がある。私は三枚の蒸発皿へ同じ量ずつ液体を入れ、弱い火でゆっくりと水分を飛ばし始めた。その間に、別の試料へ魔力感応粉を落としてみる。
湧水へ落とした粉は、ほとんど変化しなかった。井戸水ではごく弱い青色が浮かび、地下の液体ではそれよりはっきりと発光する。ただし光り方が妙だった。魔力を含む水なら粉全体がぼんやり明るくなることが多いのに、今回は細い筋が液体の内部を走るように光っている。
私は拡大鏡を取り出し、地下の液体を一滴だけ透明板へ落とした。光の角度を変えながら覗き込むと、その中に肉眼ではほとんど見えないほど小さな結晶状の粒子が浮かんでいる。形は均一で、自然に砕けた鉱物というより、最初から同じ寸法へ揃えられたものに見えた。
針先で触れてみても、粒子は崩れない。軽く押すと位置を変えるだけで、弾力のようなものさえ感じられた。
「石ではありませんね。少なくとも、私の知っている石では」
今度はごく弱い魔力を透明板へ流してみた。すると粒子はゆっくりと動き出し、互いに寄り集まって一本の細い線を作った。魔力を止めればその場で動きを止め、再び流すと線の先がいくつにも枝分かれしていく。
偶然ではないことを確かめるため、私は魔力の向きを変えた。粒子の集まりも、それに合わせるように向きを変える。強さを少し上げると動きは速くなったが、透明板の端へ達する前に互いを支え合うような網目を作り、それ以上は進まなかった。
まるで、何かを組み立てようとしている。
その考えが浮かんだところで、私は魔力を止めた。興味本位で正体の分からないものへ力を与え続けるのは、井戸水を大勢で味見した街の人々を笑えなくなる行為である。
「生きてはいませんよね?」
透明板の上の粒子へ尋ねてみた。返事はなかったので、ひとまず安心した。動いているだけなら研究対象で済むが、こちらを認識して返事までされると、瓶へ戻してよいものかという別の問題が発生する。
旧文明には、魔力へ反応して形状を変える素材や、損傷しても自ら構造を修復する金属が存在したとされている。大樹の根へ埋め込まれていた銀色の線も、同じ技術によるものかもしれない。この微粒子は、水や栄養を運ぶだけではなく、傷んだ根の内部へ入り込み、必要な場所で構造を組み直すための材料なのではないだろうか。
もっとも、それは現時点では仮説に過ぎない。分からないものへ便利そうな名前をつけるだけなら簡単だが、それで理解したことにはならない。
蒸発皿の水分が減ってきたため、私は火をさらに弱めた。湧水の皿にはごく少量の白い鉱物が残り、井戸水には薄い膜が広がっている。地下の液体からは、それより厚い乳白色の膜ができていた。乾いた膜を小刀の先で慎重に削ると、甘い香りが先ほどより強く立ち上る。
味を確かめるべきか、一瞬だけ考えた。
私は小刀の先と、自分の舌の距離を確認し、すぐにその案を捨てた。正体不明の井戸水を飲んだ人々について、つい今朝まで散々呆れていたのである。森へ戻った途端に同じことをすれば、私の好奇心説は人類全体ではなく、単なる自己紹介になってしまう。
代わりに少量の膜を別の試薬へ溶かすと、植物の成長促進薬に含まれる魔力塩と似た反応が出た。ただし濃度は比較にならないほど高く、普通の薬草へそのまま与えれば、成長する前に組織を壊しかねない。
私は井戸の底で聞いた音声を思い出した。
『管理対象への供給経路を再接続します』
大樹が人工的な管理を必要とする植物であるなら、地下施設から根へ栄養分や魔力を送り込む仕組みがあっても不思議ではない。この白い物質と、魔力へ反応する微粒子は、その供給物の一部なのだろう。施設が再起動したことで大量の液体が流れ始め、その一部が近くの井戸へ混ざったと考えれば、水が甘くなった理由も説明できる。
井戸水の異常だけを見れば、原因にはかなり近づいた。
しかし、肝心の問題は何一つ小さくなっていない。なぜ施設は今になって再起動したのか。大樹の葉が変色したのは回復なのか、それとも別の異常なのか。東の巨大ドームは、なぜその動きへ応答したのか。
地下施設、大樹、巨大ドーム。それぞれが偶然同じ日に動き始めたと考えるには、あまりにも出来すぎていた。
私は実験結果を紙へ書き留め、三つの試料へ新しい封をした。地下の液体には「飲用禁止」と大きく書き、その下へ念のため「甘くても禁止」と付け加える。街の人々へ渡す予定はないが、注意書きは大きいほどよい。骨折した腕へ捻挫薬を塗った男の件から、私はそのことを学んでいる。
窓の外へ目を向けると、森の木々の向こうに大樹の上部がわずかに見えていた。夕暮れが深まるほど、青緑色へ変わった葉の光は鮮明になり、巨大な樹冠が遠くの空へ浮かび上がっている。
幻想的で、美しい光景だった。
だからこそ、私は素直に安心できなかった。美しいものが安全であるとは限らないし、旧文明の設備が美観を目的として大樹を光らせたとも思えない。
明日は、準備を整えて地下施設へ入る必要がある。できれば誰か別の人間に任せたかったが、中で何を調べるべきか説明するためには、結局私自身も同行しなければならないだろう。
私は冷えた軟膏の鍋と、実験道具で埋まった作業台を見比べた。
「仕事を変えたいですね」
誰もいない部屋で呟いてみたが、薬師を辞めて何になれば旧文明の地下施設へ行かずに済むのかは、最後まで思いつかなかった。