魔女さんと、世界の忘れもの   作:醤油マヨ

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第八節 花の朝

 翌朝、私は鳥の声で目を覚ました。

 

 森に住んでいる以上、鳥の声で目が覚めること自体は珍しくない。春先などは日の出より早く鳴き始める種類もいるし、屋根の上で縄張り争いを始めるものまでいる。普段なら布団の中でしばらく無視していれば、そのうち気にならなくなる程度のものだった。

 

 しかし、その日は数がおかしかった。

 

 最初は夢の続きかと思ったほどである。窓の外から聞こえる鳴き声が一種類や二種類ではなく、森中の鳥が家の周囲へ集まってきたように重なっていた。高い声、低い声、木の幹を叩く音、それに大きな翼が屋根の上を擦る音まで混ざっている。

 

 私は布団の中で目を開け、天井を見つめた。

 

「見なかったことにして、もう一度寝るという選択肢はありますかね」

 

 誰に尋ねたわけでもない。

 

 当然ながら許可も下りなかった。

 

 屋根の上を何かが歩き、ぱらぱらと細かな土が落ちてきたため、私は諦めて寝台から起き上がった。窓まで行き、外の様子を確かめる。

 

 思わず窓枠へ手をついた。

 

 家の周囲にある木々という木々へ、大量の鳥が止まっていた。普段よく見る小鳥だけではない。カラスや山鳩、森の奥にいるはずの大型の鳥まで混じっている。枝が重さでしなるほど集まっている場所さえあった。

 

 それだけなら、何らかの理由で一時的に群れが集まった可能性もある。

 

 妙なのは、その向きだった。

 

 ほとんどすべての鳥が、街の方角を向いている。

 

 首を動かしたり羽繕いをしたりしているものはいるものの、飛び立てば街へ向かい、別の鳥も同じ方向からやってくる。まるで森全体から少しずつ生き物が吸い寄せられているようだった。

 

 私は昨日採取した地下液の瓶へ目を向けた。

 

 大樹。

 

 甘い供給物。

 

 生態維持処理。

 

 嫌な言葉同士が、朝から勝手に頭の中で繋がっていく。

 

「今日は静かに軟膏を瓶詰めする予定だったのですが」

 

 予定というものは、立てた直後が最も美しい。

 

 実行される頃には、大抵何かに踏まれている。

 

 私は簡単に朝食を済ませ、地下へ入るための装備を確認した。昨日のうちにある程度準備していたため、今日は携帯灯を複数、採取瓶と試薬、防毒用の布、包帯、止血薬、解毒剤、それから火炎除けの護符を鞄へ入れる。

 

 最後に護身用の短杖を手に取った。

 

 私は多少の魔力を扱うことができる。火を起こしたり、明かりを作ったり、軽い物を動かしたり、薬を煮る際の温度を微調整したりする程度なら困らない。

 

 ただし、それを戦闘能力と呼んでよいかどうかはかなり疑わしい。

 

 何か恐ろしいものが地下から出てきた場合、私の基本方針は戦って倒すことではなく、相手より速く逃げることである。

 

 そこで問題になるのが、私があまり速くないことだった。

 

 私は短杖を鞄の脇へ差し込みながら、昨日の縄梯子を思い出した。

 

「今日は何も追いかけてこないことを祈りましょう」

 

 祈るだけなら体力を使わない。

 

 家の外へ出ると、異変は鳥だけではないことがすぐに分かった。

 

 森の小道を、野兎が二羽並んで街の方角へ走っていく。その少し後ろでは、普段なら人の気配を感じただけで藪へ隠れる野鼠が、こちらをほとんど気にせず同じ方向へ進んでいた。

 

 さらに歩いていくと、木々の向こうに鹿まで見えた。

 

 何かから逃げている様子ではない。

 

 むしろ落ち着いている。

 

 それでも全員が、示し合わせたように街へ向かっている。

 

 私は道端で一度立ち止まり、空気をゆっくり吸い込んだ。

 

 土。

 

 湿った木。

 

 朝露。

 

 その奥に、ごく薄い甘い香りが混ざっている。

 

 昨日調べた地下液と同じ系統の匂いだった。

 

「なるほど。今度は水ではなく空気ですか」

 

 昨日の実験結果から考えるなら、大樹へ供給されている物質そのものが空気中へ出ているとは限らない。花粉や香気成分、あるいは魔力による誘引かもしれない。

 

 何にせよ、動物たちへ何らかの影響を与えていることは間違いなさそうだった。

 

 街門へ着くと、その考えはさらに強くなった。

 

 二人の衛兵が、門の前に居座る三頭の鹿を追い払おうとしていた。一人が両腕を広げて近づけば、鹿は数歩だけ後ろへ下がる。しかし衛兵が門へ戻ると、また同じ場所まで進んでくる。

 

 人間側だけが疲れている。

 

「魔女さん、ちょうどよかった!」

 

 私を見つけた衛兵が、助かったという顔をした。

 

 私は先に釘を刺すことにした。

 

「鹿は専門外ですよ」

 

「朝からずっとこんな調子なんだ。追い払っても戻ってくるし、森から次々増えてる」

 

「大樹へ向かっているのでしょう。門を閉めて、中へ入れないようにするのが一番簡単だと思います」

 

「そうすると荷馬車まで入れなくなるぞ」

 

「鹿の群れを市場へ通すよりは問題が少ないでしょう」

 

「魔女さんなら何とかできないか?」

 

 私は衛兵を見た。

 

 彼はかなり真剣だった。

 

「私を何だと思っています?」

 

「魔女」

 

 少しも迷わなかった。

 

「聞いた私が悪かったですね」

 

 魔女という職業の守備範囲が、私の知らないところでかなり広がっているらしい。この調子なら、そのうち壊れた屋根や夫婦喧嘩まで持ち込まれるかもしれない。

 

 ひとまず動物は傷つけず、街への侵入だけ防ぐよう頼んで中央広場へ向かう。

 

 大樹が見えるところまで来た時、私は思わず歩みを止めた。

 

 昨日とは、明らかに姿が違っていた。

 

 淡い青緑色へ変化した枝の至るところに、白い花が咲いている。

 

 一輪や二輪ではない。

 

 巨大な樹冠全体へ散るように、数え切れないほどの花が開いていた。遠くから見れば白い霞が枝へかかったようで、近づくほど、一つ一つの花が掌ほどの大きさを持つことが分かる。

 

 花弁は薄く半透明で、その中心部だけが弱い青色に光っている。

 

 そして、森の中で感じた甘い香りは、ここでははっきりと分かるほど強かった。

 

 枝には大量の鳥が集まっていた。

 

 大樹そのものが街の中へもう一つ森を作ったような光景である。

 

 美しい。

 

 だからこそ、あまり安心できなかった。

 

 自然の植物が突然一晩で大量の花を咲かせるのであれば、それはそれで珍しい。しかし、この大樹の地下では昨日、五百年以上眠っていた可能性のある施設が再起動している。

 

 偶然と考えるには、少し無理がある。

 

「魔女さん!」

 

 人混みの向こうからリオが走ってきた。

 

「昨日の夜から咲き始めたんですよ。最初は少しだったのに、朝になったらこんなに増えてて」

 

「井戸は?」

 

「まだ封鎖してます。でも、水は昨日より甘くなったらしいです」

 

 私は少しだけ安心した。

 

「誰か飲みました?」

 

 リオの顔が微妙なものになる。

 

「管理人のお爺さんが」

 

「封鎖していますよね?」

 

「しています」

 

「飲まないようにも言いましたよね?」

 

「言いました」

 

「では、どうして飲めたのでしょう」

 

「管理人のお爺さんなので、鍵を持ってます」

 

 私は目を閉じた。

 

 仕組みとしては非常に分かりやすい。

 

 理解したくはなかった。

 

「昨日飲んでも何ともなかったから、今日も大丈夫だろうって言ってました」

 

「人間は一度生還すると、その行動が安全だったと考える傾向があるのですね」

 

「元気でしたよ」

 

「そういう問題ではありません」

 

 私は管理人の老人を探した。

 

 彼は少し離れたところで、こちらを見ないように大樹を眺めている。

 

 後で話をする必要がありそうだった。

 

 もっとも、今は井戸水より大樹の状態を優先するべきだろう。

 

 私は樹皮へ近づき、直接触れない程度の距離から光の筋を観察した。

 

 昨日より明らかに明るい。

 

 青白い線は幹の奥から一定の間隔で明滅し、そのたび樹冠の花もわずかに光を強めている。

 

 地下施設から何かが送り込まれている。

 

 昨日の分析結果とも一致する。

 

 ただ、その目的が大樹の回復なのか、別の処理なのかまでは分からない。

 

 携帯認証子があれば、地下でさらに情報を得られる可能性がある。

 

「今日は下へ入るんですよね?」

 

 リオが私の荷物を見て尋ねた。

 

「その予定です。昨日より装備は増やしましたし、何か起きても最低限は対応できるようにしています」

 

「僕も行きます」

 

「駄目です」

 

 即答すると、リオは不満そうな顔をした。

 

「どうしてです?」

 

「昨日は入口を見るだけでしたが、今日は施設の奥へ進む予定です。何があるのか分かりません」

 

「だから一人で行く方が危なくないですか?」

 

 私は返事を止めた。

 

 嫌なところを突かれた。

 

「魔女さん、昨日の梯子だけでかなり疲れてましたよね」

 

「過去の失敗をいつまでも持ち出すものではありません」

 

「昨日です」

 

 昨日だった。

 

 時間は何の助けにもなっていない。

 

「中で何かあって、魔女さんが動けなくなったらどうするんです? 僕がいれば、少なくとも地上に知らせに戻れます」

 

 理屈としては正しい。

 

 本来なら、昨日井戸へ入りたがっていた探索者の中から誰かを連れていくべきなのだろう。しかし旧文明の施設へ入る前から「何か持ち帰れるものはあるか」と目を輝かせていた人間を、まだ正体の分からない場所へ同行させるのは別の意味で不安だった。

 

 リオは十五、六の少年である。

 

 戦闘能力は期待できない。

 

 しかし、少なくとも昨日は私の指示を守った。

 

 そして何より、私より走れる。

 

 最後の一点はかなり重要だった。

 

「分かりました」

 

 私が言うと、リオの顔が明るくなった。

 

「いいんですか?」

 

「ただし条件があります。私より前へ出ないこと、勝手に何かへ触らないこと、危険だと言ったらすぐに地上へ戻ること。この三つは必ず守ってください」

 

「絶対守ります」

 

「『たぶん』ではなく?」

 

「絶対です」

 

 私は彼の顔をしばらく見た。

 

 本人なりに真面目なようだった。

 

「では許可します。ただし、私が『逃げて』と言った場合は、本当に私を置いて逃げてください」

 

「置いていくんですか?」

 

「あなたまで一緒に捕まるより、一人でも地上へ戻る方が合理的でしょう」

 

「でも魔女さんは?」

 

「その時の私が何とかします」

 

「できるんです?」

 

「できるよう努力します」

 

「そこは絶対って言わないんですね」

 

「根拠のない約束はしない主義です」

 

 リオは何とも言えない顔をしたが、それ以上は反論しなかった。

 

 私たちは井戸の前へ向かった。

 

 今日は昨日より荷物が多い。

 

 そのため、重いものの一部は最初からリオに持ってもらうことにした。

 

「魔女さんの荷物、昨日より軽くなってません?」

 

「役割分担です」

 

「僕の方が重いですよ」

 

「若者には未来がありますから」

 

「荷物の重さと関係あります?」

 

「体力の話です」

 

 私は縄梯子へ手をかけた。

 

 昨日の筋肉痛が、早くも両腕へ存在を主張している。

 

「先にリオが降ります?」

 

 自分から提案しておいて、少し考える。

 

 私より先へ出ないこと。

 

 今そう約束させたばかりだった。

 

「やはり私が先に行きます」

 

「大丈夫ですか?」

 

「今の質問で少し不安になりましたが、行きます」

 

 携帯灯を鞄へ固定し、私は梯子へ足をかけた。

 

 昨日は水の異常を調べるため、偶然地下施設を見つけた。

 

 今日は違う。

 

 自分の意思で、あの扉の向こうへ入る。

 

 怖くないと言えば嘘になる。

 

 それでも、分からないまま放置するには、大樹に起きている変化が大きすぎた。

 

 私は一段ずつ慎重に梯子を降り始めた。

 

 昨日よりは少しだけ慣れている。

 

 少なくとも、そう思うことにした。

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