昨日より荷物を軽くした効果は、それなりにあった。
縄梯子が楽な道具へ変わったわけではないし、両腕には前日の疲れがしっかり残っている。それでも、携帯灯や試薬の一部をリオへ持ってもらったおかげで、昨日ほど何度も休まずに井戸の途中まで降りることができた。
「魔女さん、今日は速いですね」
頭上から聞こえたリオの声へ、私は縄を握ったまま答えた。
「昨日と比較すれば、かなりの進歩です。もっとも、世間一般の速度と比べてはいけませんよ」
「まだ半分くらいですけど」
「進歩を評価する時は、残りではなく過去を見るものです」
余計なことを話していると本当に腕が疲れるため、そこから先は静かに降りてもらった。
水面近くの足場へ辿り着き、私は縄梯子から両手を離した。続いて降りてきたリオが隣へ立つのを待ってから、携帯灯へ魔力を流す。井戸の内側には、昨日と同じく大樹の根を走る銀色の線が淡く光り、その奥では金属製の扉が開いたままになっていた。
扉の向こうに続く通路も、昨日とは違って最初から明るい。天井へ埋め込まれた細長い照明が均一な白い光を放ち、黒っぽい壁と床を照らしている。
長い年月閉ざされていたはずの施設とは思えないほど、内部は清潔だった。床にはほとんど埃がなく、壁にも苔や錆は見当たらない。空気は乾いているものの淀んではおらず、どこかで今も換気設備が動いているらしい。
「本当に入るんですよね」
入口の前で、リオが少し声を潜めた。
「そのために来たのですが、今ならまだ地上へ戻れますよ」
「魔女さんは?」
「私は入ります」
「じゃあ僕も行きます」
昨日までなら、その答えを聞いて少し安心していたかもしれない。しかし、実際に通路を前にすると、彼の声にもわずかな緊張が混じっていることが分かった。
「約束を忘れないでください。勝手に触らず、私より前へ出ず、危険だと言ったら戻ること。特に一つ目は重要です」
「分かっています」
「旧文明の遺物は、見た目が安全そうでも触った瞬間に動くことがあります。私は昨日、自分で実演しました」
「あれは魔女さんが触ったから扉が開いたんですよね」
「ですから、同じ失敗を二人で繰り返す必要はありません」
私はオルドから借りた黒い携行認証子を取り出し、通路へ一歩足を踏み入れた。
その瞬間、板の中央にある円形の窪みへ青い光が宿った。施設の内部から、昨日聞いたものと同じ平坦な声が響く。
『認証子を確認。樹冠管理権限を照合します』
足を止めて待っていると、短い間のあとに別の音声が続いた。
『中央管理権限との通信に失敗しました。緊急規定に基づき、所持者を暫定管理員として登録します』
黒い板の表面へ、私には読めない細かな記号が次々と浮かび上がる。
「魔女さん、管理員になりましたよ」
リオは少し嬉しそうだった。自分が選ばれたわけでもないのに、なぜか誇らしげである。
「私は薬師なのですが、五百年前の施設には職業を確認する項目がないようですね」
『第三樹冠管理槽へようこそ』
「歓迎もされています」
「頼んだ覚えはありません」
施設は私たちの会話を無視し、同じ調子で案内を続けた。
『現在、複数の重大障害を検出しています』
私は通路の奥を見た。
「歓迎の直後に伝える内容としては、かなり感じが悪いですね」
五百年前の人々がどのような礼儀作法を持っていたのかは知らないが、少なくとも客を安心させる技術については、現在の宿屋の方が優れているらしい。
通路を十数歩進むと、壁の一部が透明になり、その中へ文字が浮かび上がった。
『第三管理槽 総合稼働率十二パーセント』
『栄養供給系 再起動完了』
『根圏循環系 一部復旧』
『花粉媒介誘引系 誤作動継続』
最後の項目を見た瞬間、今朝から街へ集まっている動物たちの姿が頭へ浮かんだ。
「この『花粉媒介誘引系』というものが、鳥や鹿を集めているのでしょうね」
「止められますか?」
「試してみます」
私は壁の表示へ手を近づけたが、特に反応はなかった。そこで携行認証子をかざしてみると、文字が切り替わる。
『操作には第二種以上の管理権限が必要です』
『暫定管理員権限では実行できません』
私は黒い板を眺めた。
「管理員になったはずなのですが」
「暫定だからじゃないですか?」
「何も管理できないのであれば、見学者と呼んでもらった方が正確ですね」
肩書きだけ立派で権限がないという状況は、五百年前にも存在したらしい。人類社会の一部は、文明の崩壊を越えて正しく受け継がれているようだった。
通路の壁には、透明な管が何本も走っている。管の中を流れているのは、昨日採取したものと同じ青白い液体だろう。小さな光の粒が流れに沿って移動し、時折、壁の奥へ枝分かれして消えていく。
私は携行灯を使う必要がないほど明るい通路を歩きながら、壁や床の継ぎ目を観察した。目立った損傷はないものの、一部の表示は消えたままで、閉じた扉の中には反応しないものもある。総合稼働率十二パーセントという表示は、決して大げさではなさそうだった。
しばらく進むと通路が広がり、天井の高い部屋へ出た。
中央には、二階建ての家ほどもある巨大な円筒が据えられていた。表面は硝子に似た透明な素材で作られ、内部は淡い青色の液体で満たされている。
その中へ、何本もの巨大な根が沈んでいた。
大樹の根だろう。しかし、地上や井戸で見たものより遥かに太く、植物の一部というより巨大な建造物の柱に近い。表面の広い範囲を銀色の構造が覆い、ところどころでは金属らしい管が根の内部へ直接入り込んでいる。
それでも木と機械が接合されているようには見えなかった。植物の繊維は金属を避けず、その上を包み込むように伸びている。逆に銀色の構造も根へ食い込みながら、組織の一部として自然に形を変えていた。
どこまでが生き物で、どこからが人工物なのか、境界そのものが存在しないように見える。
さらに奇妙なのは、根が液体の中でごくゆっくりと収縮していることだった。一定の間隔で表面がわずかに脈打ち、それに合わせて周囲の液体へ小さな波が広がっている。
「これ、動いていますよね」
リオが私の背後から円筒を覗き込んだ。
「そう見えますね」
「木の根って、こんなふうに動くんですか?」
「私の知る木は動きません。少なくとも、目で分かるほどの脈は打ちませんよ」
植物というより、巨大な臓器を見ているようだった。私はその感想を口に出さなかった。リオを不安にさせたくなかったこともあるが、自分自身があまり想像したくなかったためである。
円筒へ近づくと、透明な表面へ文字が浮かび上がった。
『中央樹冠個体 生存状態:継続』
『構造維持率 三十四パーセント』
リオが数字を読み、少し首を傾げた。
「三十四って、低いんですか?」
「百点満点なら、学校ではかなり怒られる数字ですね」
「木も怒られるんですか?」
「今はそういう話ではありません」
表示は私たちの会話を待たず、さらに多くの情報を並べていった。
『自己修復系 機能不全』
『外部供給系 長期断絶』
『生体魔力炉 出力低下』
『第二・第四管理槽 応答なし』
どの項目も、よい状態を示すものには見えない。
私は携行認証子を円筒へ近づけ、より詳しい情報を表示できないか試した。すると複数の項目が開き、最後に一つの数字が大きく示された。
『推定残存維持期間:百八十三日』
私は表示を見たまま、すぐには意味を理解できなかった。
百八十三日。
半年ほどである。
「これ、何が百八十三日なんです?」
リオも不安を感じたらしく、先ほどより小さな声で尋ねた。
「それを今から確認します。できれば、私たちの考えている意味ではないことを願いましょう」
しかし、施設は期待していた方向へ説明してくれなかった。
『中央樹冠個体は、推定期間経過後に構造維持限界へ到達します』
『構造崩壊時、中央居住区予測被害率七十二パーセント』
部屋の中では、液体を循環させる低い作動音が続いている。先ほどまで気にならなかったその音が、急に大きくなったように感じられた。
街の中心に立つ大樹は、幹だけで小さな城ほども太い。枝は中央広場から遠く離れた区画の上まで広がり、街の大半を覆っている。
あれが倒れる。
単に横へ傾くだけでも、多くの家が潰れるだろう。根元から崩れれば、地下の井戸や建物の基礎までどうなるか分からない。
予測被害率七十二パーセントという数字が、何を基準に計算されたものかは不明である。それでも、安全と呼べる数字でないことだけは理解できた。
「昨日まで、普通だったのに」
リオは円筒の中の根を見つめていた。
今度は冗談を返す気にはなれなかった。
「普通に見えていただけなのでしょうね。人が気づかないところで、長い時間をかけて壊れ続けていたのかもしれません」
五百年間、街の人々は大樹があることを当たり前だと思って暮らしてきた。その間、地下では管理施設が一つずつ停止し、外部からの供給が失われ、大樹そのものが少しずつ限界へ近づいていた。
大樹が何も訴えなかったのではない。
訴えるための設備さえ止まっていたのだろう。
「いつから、こんな状態だったのです?」
私は携行認証子を使い、施設の障害履歴を呼び出した。
円筒の横へ長い記録が表示される。
『五〇一年九ヶ月前 外部通信網喪失』
『五〇一年九ヶ月前 中央管理権限消失』
『五〇一年八ヶ月前 東部保全区画との同期停止』
『五〇一年八ヶ月前 緊急独立運転へ移行』
私は日付を確認した。
大規模な情報断絶が起きたとされる時期と、ほとんど一致している。
その後の記録は、長い年月の中で少しずつ機能が失われていく過程を示していた。主要な魔力供給が途絶え、約三百年前には第二管理槽が停止し、さらに百年以上前には第四管理槽も応答しなくなっている。
残った第三管理槽も、完全に動いていたわけではない。最低限の監視機能だけを維持しながら、必要な権限も供給も失った状態で、大樹の衰弱を記録し続けていたらしい。
そして七日前。
『中央樹冠個体 臨界値到達』
施設が大樹の危機を認識したのは、昨日ではなかった。
では、どうして昨日になって突然動き出したのか。
その答えは、さらに下の記録へ残されていた。
『一日前 東部保全区画より微弱同期信号を検出』
『自動復旧条件成立』
『第三管理槽再起動』
私は三行を読み直した。
「巨大ドームの方が先だったんですね」
リオが小さく言った。
「その可能性が高そうです」
昨日、地上から見た時には、大樹から光が伸び、その呼びかけへ東のドームが応答したように見えた。しかし実際には、その前に東部保全区画から微弱な信号が届いていた。
第三管理槽はその信号を受け取ったことで、長い停止状態から復旧条件を満たした。
大樹から東へ伸びた光は呼びかけではなく、返答だったのだろう。
「東部保全区画とは、何をする施設ですか?」
私は音声へ問いかけた。
返事まで少し間があった。情報を探しているのか、残された機能が少ないせいなのかは分からない。
『東部保全区画は、大規模環境崩壊時における生態系避難・保存施設です』
私はリオと顔を見合わせた。
「生き物を保存する施設?」
「そう言っていますね」
誰も入ることができなかった巨大ドーム。表面へ傷一つつかず、鳥すら上空を避け、夜には時折謎の光を放つ建造物。
それが、昔の人類によって生態系を避難させるために作られた施設だった可能性がある。
問題は、何から避難させる必要があったのかである。
「東部保全区画の現在の状態は?」
『通信断絶』
「内部に人間はいますか?」
『情報取得不能』
「入口はどこにあります?」
『照会には中央管理権限が必要です』
私はしばらく音声が返ってきた天井付近を見上げた。
「あなたは本当に、聞きたい部分になると役に立ちませんね」
「傷ついたりしないんですか?」
リオが小声で尋ねる。
「しないでしょう。少し羨ましいです」
次に、大樹そのものの役割を確認することにした。
「中央樹冠個体は、何のために存在していますか?」
『中央樹冠個体は、中央環境維持網の中核です』
具体的な機能を求めると、大気浄化、地下水循環、魔力濃度の安定化、周辺温度の調整、土壌再生、生物誘導など、多数の項目が表示された。
さらに影響範囲を示す地図が浮かぶ。
中心には大樹があり、そこから大きな円が広がっている。街だけではない。私が住む森、西の古代遺跡群、そして東の巨大ドームまでが、その範囲に含まれていた。
大樹は街の象徴として立っているだけではなかった。
この地域の環境そのものを、五百年以上にわたって支えてきたのである。
もし完全に停止すれば、街が巨大な木を一本失うだけでは済まない。井戸の水位や土壌、周囲の魔力環境、生き物の分布まで変わる可能性があった。
「修復する方法はありますか?」
私の問いに、今度はすぐ答えが返った。
『主要修復には中央管理権限が必要です』
「その権限は、どこにあります?」
『中央管理権限 最終記録地点――東部保全区画』
私は目を閉じ、短く息を吐いた。
非常に分かりやすい答えだった。
そして、非常に嬉しくない答えでもある。
「嫌なところへ話が繋がりましたね」
「でも、行く場所が分かったじゃないですか」
リオは、わずかながら希望を見つけたようだった。
「分かりやすいことと、行きやすいことは別ですよ。あのドームには、これまで誰一人入れなかったのです」
「でも昨日、反応したんですよね?」
「反応したことが歓迎を意味するとは限りません」
それでも、ほかに方法がない以上、東部保全区画を調べる必要がある。五百年前の管理権限を探し出し、それを使って大樹を修復する。
言葉にするだけなら簡単だった。
実際にそれを行う人間が、私でなければもっとよかった。
「魔女さん、行くんですよね?」
リオの問いに、私は円筒の中で脈打つ大樹の根を見た。
本音を言えば、行きたくない。
私は森の家で薬を作り、街から持ち込まれる少し妙な依頼を解決する程度の生活を望んでいる。誰も入ったことのない巨大な施設へ出向き、五百年前の管理権限を探す仕事など、薬師の職務には含まれていないはずだった。
しかし、残り百八十三日という数字を見てしまった。
街に住む人々の顔も知っている。
知らなければ逃げられたかもしれないが、知ってしまった以上、何もしないという選択は取りづらい。
「行くことにはなるでしょうね」
私が答えると、リオの目が明るくなった。
「僕も――」
「駄目です」
「まだ何も言ってませんよ」
「顔に書いてあります」
彼は不満そうに口を閉じたが、今すぐ議論する必要はない。そもそも東へ向かう準備も、同行者も決まっていない。
私は施設へ、現在の復旧によって大樹の残存期間が変化したか尋ねた。
『暫定延命処理を実行中』
『更新後推定残存維持期間:二百二十一日』
第三管理槽の再起動によって、三十八日ほど延びている。
さらに処理が安定した場合の最大予測は、二百七十日前後だった。
およそ九ヶ月。
十分ではない。
しかし、今日や明日にすべてが崩壊するわけでもない。
準備をする時間はある。
「今日はここまでにしましょう」
私は携行認証子を鞄へ戻した。
「もう帰るんですか?」
リオは、部屋の奥へ続く別の通路を見ていた。探せばまだ情報も設備も見つかるだろう。
「これ以上一度に情報を増やすと、判断を間違える可能性があります。それに、ここへ入るための装備も人員も十分ではありません」
「でも、大樹は壊れかけているんですよね」
「二百日以上あります。今日無理をして、私が先に壊れる必要はありません」
体力だけではなく、判断力にも限界はある。分からないことへ出会った時に必要なのは、勢いよく奥へ進むことではなく、一度持ち帰り、調べ、準備を整えることだ。
五百年前の人類がその手順を守っていたのかどうかは分からない。
ただ、現在の人類まで同じ失敗を繰り返す必要はない。
私たちは来た道を戻り始めた。
背後では、大樹の根が液体の中で静かに脈を打ち続けている。
その姿は、街の巨大な樹がまだ生きている証にも見えたし、残された時間を一度ずつ数えているようにも見えた。