乙女ゲーのヒロインに転生したけど、悪役令嬢のステータスがALL999,999,999,999だったので無条件降伏した件 作:華洛
平穏。
平和。
実に素晴らしい言葉だと、僕は思う。
問題があるとすれば――生まれてこのかた、そのどちらともほとんど縁がないことだろうか。
前触れもなく帰郷してきたスカーレットお姉さまは、執務室に現れるなり、こう言った。
『しばらくアリハランス第二王子を預かってちょうだい。ただ、アルタナティブ領にいると分かると面倒だから、これがこの領地にいる間の身分証明書一式よ』
『偽造品じゃないですか!』
『失礼ね。これを使えば周辺各国へ渡航もできるし、政府機関に問い合わせしても全く瑕疵が発見できない“本物”の身分証明書よ』
思った以上にやばい品だった。
偽造の域を超えている。
もはや国家に対する挑戦状ではないだろうか。
『とりあえず領地にいる間は、適当に仕事を振って、仕事以外を考えられないくらい働かせなさい。恋愛脳は他に考えることがあると何をやらかすか分からないもの』
『スカーレットお姉さま! 不敬ですよ!』
『私に敬ってほしいのなら、敬われるだけの態度と行動を取るべきね』
なにを言っているんだ、この人は。
相手は王族だ。
敬って然るべき相手である。
ああ……胃が痛い。
当のアリハランス殿下――いまは仮の身分証に従って“アンバランス”と呼ぶべきなのだろうか――も、苦笑いしていた。
苦笑いで済ませてくれているあたり、懐が深いのか、もう色々と諦めているのか判断に困る。
『……ところでお父様は、別邸にいるのかしら?』
『ええ。スカーレットお姉さまが静養させるために建てた建物におられます』
『そう。ちょっと聞きたいことがあるから、親子喧嘩(はなしあい)をしてくるわ』
『待っ――』
止める間もなく、スカーレットお姉さまは消えた。
ああ、くそっ。
僕は慌てて席を立つ。
「……なんとお呼びすればよろしいでしょうか」
「その身分証にある“アンバランス”でいいよ。スカーレット嬢が言った通り、この領地にいる間の私は、没落した貴族の次男で、食い扶持を得るために雇われている、しがない自由人という設定だからね」
「……承知しました。アンバランス様」
「呼び捨てでもいいよ」
「……ご冗談を」
「――第二王子の肩書も、今回の件でいつまで残るか分からないものだから、そう気にすることもないんだけどね」
……絶対に厄日だ。
でも今は、アンバランス様のことよりもスカーレットお姉さまだ。
僕が執務室を飛び出すと、後を追うようにアンバランス様も出てきた。
……まあ、部屋に一人置いておくのも無礼か。
外へ出て、別邸のある屋敷の方へ向かう。
するとほどなくして、破壊音が鳴り響いた。
嫌な予感しかしない。
急いで駆けつけた先で見たものに、僕は思わず目を覆いたくなった。
別邸は無残に破壊されていた。
そしてその中心には、巨大な人型を象った紅い魔力に身を包んだスカーレットお姉さま。
魔力の腕で父を掴み上げ、何かを訊き出しているようだった。
うん。
親子喧嘩ではない。
どう見ても一方的な尋問である。
ただ、それよりも問題なのは――
草木に身を隠すようにして、胸元を押さえ、蹲っている“物体”がそこにあったことだ。
「レディ。大丈夫かい」
心配そうに駆け寄るアンバランス様。
「…………」
物体は答えない。
ただ、小刻みに震えていた。
「アンバランス様。土の魔術は使えますか?」
「……小規模ならできるよ」
「では、穴を作って、その物体を埋めてください」
「何を言ってるんだい。こんな苦しそうにしている令嬢に、そんな真似ができるわけがないだろう!」
「……令嬢」
アンバランス様の言葉に、僕は少しだけ考えた。
そうか。
世間一般の分類で言えば、あれは令嬢なのか。
初めて知った。
てっきりこの世でもっとも悍ましく邪悪な這い寄る混沌属性の魔女と思っていた。
そうこうしているうちに、スカーレットお姉さまは父から聞きたいことを聞き出せたのか、父を放り投げ、そのまま去っていった。
そして、お姉さまの気配が完全に遠ざかった瞬間。
その物体は、すっくと立ち上がった。
「ああ。スカーレットお姉さま……なんて強く、なんて気高く、なんて美しいのでしょう。あのお姿を拝見しているだけで、子宮がきゅうっと甘く痺れてしまいますわ」
驚き、茫然とするアンバランス様。
この物体は、遺憾ながら僕の双子の妹、レッドダイヤ・アルタナティブだ。
スカーレットお姉さまへ執着し、偏愛し、崇拝している異常者。
スカーレットお姉さまの視界に自分ごときが入るのは烏滸がましいと、普段は徹底して姿を隠す。
一緒の空気を吸うことすら畏れ多いらしく、自分の吐いた息をスカーレットお姉さまに吸わせたくないという理由で、お姉さまが近くにいる間はできるだけ息を止めている。
意味が分からない。
そして、僕の平穏と平和を破壊する二人目でもある。
「あら、お兄様。いらしたの」
「……お前は相変わらずだな。それで、手に持っている物はなんだ」
「お父様はお疲れのようでしたので、ハーブティーですわ。お飲みいただければ、心も身体も軽くなって、永い安息を得られるはずですの」
「……成分はなんだ」
ダイヤは人差し指を唇に当てて、小さく首を傾げた。
見る者が見れば愛らしい仕草なのだろう。
でも僕には、死刑執行書に花模様の封をする仕草にしか見えない。
「アルタナティブ家の当主代行として聞く。そのハーブティーの成分はなんだ」
「まあ、お兄様ったら。そんなに強くお尋ねにならなくても、ちゃんとお答えしますわ」
ダイヤはにっこりと微笑んだ。
「ヒュドラの血99.999999%、紅茶0.000001%。舌に触れた瞬間から苦悶が全身を巡り、骨の髄まで熱と痛みに灼かれながら、最後はとても静かに眠れるよう調整してありますの。ええ、とても優しいお茶ですわ」
「ダイヤ。それは世間一般ではハーブティーとは言わない。ただの毒だ!」
「まあ、人聞きの悪い」
ダイヤは目を丸くし、本気で心外そうに胸へ手を当てた。
「毒だなんて。そんな乱暴なものではありませんわ。これは、お姉さまを邪険になさる、この世に不要な塵へ手向ける、慈悲の一杯ですの。せめて最期くらいは、苦しみの中にも安らぎを――そう願う娘心ではありませんか」
「娘心で人を毒殺しようとするな」
「酷いですわ、お兄様。わたくし、いつだって家族想いですのよ? ただ、お姉さまを悲しませる存在は、血縁であろうと臓腑を引きずり出して畑の肥やしにした方が世のためですわね、と考えているだけですのに」
「考えるな。口にするな。実行しようとするな」
「でも、お姉さまがお涙をこぼされる瞬間というのは、きっと宝石よりも美しいのでしょうね」
うっとりと、ダイヤは頬へ手を添える。
「その尊い一滴が、憎悪によるものでも、絶望によるものでも、悔しさによるものでも構いませんわ。ああ……できることならその涙を銀のスプーンで受け止めて、聖遺物として家宝にしたいくらい」
「アンバランス様。これが僕の妹です」
「紹介の仕方がおかしいだろう!?」
「いいえ、お兄様。まだまだですわ」
ダイヤは静かに首を振った。
「わたくしはただ、お姉さまにもっと人らしい感情を味わっていただきたいだけ。怒り、悲しみ、屈辱、恍惚、そして執着。そういった濃密な感情でお姉さまの胸がいっぱいになる瞬間を、この目で見届けたいのです。できれば、その原因の一端はわたくしでありたいですわね」
「それは慕っていると言っていい感情なのか……?」
アンバランス様が、心底困惑した声で呟く。
「もちろんですわ」
ダイヤは即答した。
「敬愛とは、ただ傅くことではありませんもの。相手の心に一生消えない傷を刻みつけ、自分という存在を魂へ縫い込んでこそ、本物でしょう?」
「怖い!」
アンバランス様が一歩下がった。
正しい反応だと思う。
「お兄様は分かっていませんわ。わたくし、お姉さまの視界に入るのも烏滸がましいとは思っておりますの。けれど同時に、お姉さまの記憶の奥底へ、焼け跡みたいに残りたいとも思っておりますのよ」
矛盾している。
なのに本人の中では両立しているのが、最悪だった。
「お姉さまの吐息ひとつで砕け散ってしまえたら本望ですし、逆にお姉さまの心をかき乱して眠れなくさせられたら、それはそれで至上の悦びですわ。愛とはそういうものでしょう?」
「たぶん違う!」
アンバランス様が叫んだ。
その声には、王族としての品位より、純粋な恐怖が勝っていた。
「まあ、なんて初心なお方」
ダイヤはくすくすと笑った。
「でも安心してくださいまし。わたくし、自制はできますの。お姉さまが明確に嫌がることは、できるだけ避けるよう努力しておりますもの。だって、お姉さまに嫌われたくありませんもの」
「全然安心できない」
「たとえば、今もそうですわ」
ダイヤは手にしたカップを見下ろして、恍惚とした目をした。
「お父様にこのお茶を飲ませれば、お姉さまは少しくらい眉を寄せてくださるかもしれない。呆れでも、怒りでも、侮蔑でも構いません。わたくしに向けてくださる感情なら、なんでもご褒美ですもの」
「お前の感情の受け皿はどうなってるんだ……」
「普通ですわ。人よりも少し多い、かもしれないですわね」
誇らしげに言うな。
「それにほら! ごらんになって」
空間が黒く波紋を打ち、歪む。
そこから七つの頭がぬるりと姿を現した。
「お姉さまのような立派なレディになるため、森で修行しておりましたら、たまたま出会った親切で優しく綺麗なお姉さま――スカー様が譲ってくださったんですの」
絶対にろくでもない出会いだ。
「この子たちはね。
傲慢のルシファー、
強欲のマモン、
嫉妬のレヴィアタン、
憤怒のサタン、
色欲のアスモデウス、
暴食のベルゼブブ、
怠惰のベルフェゴール――
皆、とても素直で可愛らしいのですわ。まるで子犬みたいで愛おしいでしょう?」
「ひとつも同意できない」
「そしてこちらが黄金の聖杯、アンリ・アンユ」
黒い液体がどろりと揺れる。
まるであらゆる悪意を凝縮させたような底なしの黒さ。
ダイヤはそれをうっとりと見つめた。
「見ていると、不思議と心が安らぐのです。そう、薪の火を見て落ち着くのと同じですわ」
冒険者たちから、薪の火の光、音、香りに包まれることで、リラックス効果があると聞いたことがある。
ただその杯の中身を見ても、リラックスどころか、人としての何かが塗り潰されそうな気配がある。
「この杯のように世界を等しく汚泥へ沈めてしまえば、お姉さまのお足元だけが唯一の聖域になるのだと思えて」
……なるほど。
無理だ。
この物体を僕ひとりで処理し続けるのは限界がある。
「ダイヤ。お前はスカーレットお姉さまの在学中に、王都へ行きたいと言っていたな」
「ええ!」
「アンバランス様は王都から来られた。王都の礼儀作法にも詳しい。この方が領地にいる間、お前の教師として色々と教えてくださる」
「ま、待ってくれ」
「僕は仕事があるので失礼します」
スカーレットお姉さまは、アンバランス様に仕事を振って、仕事以外のことを考えられないようにしろと言っていた。
この物体の教師をしていれば、たしかに他のことを考える余裕はないだろう。
それに、僕の負担も減る。
うん。
実に合理的な判断だ。