戸が、乱暴に開いた。
入ってきたのは、テレビで見た顔だった。
背が、鴨居に届いていた。屈んで入ってきて、店の中で立ち上がると、天井まであと三十センチもなかった。腕が太い。人間の腿ほどある。手の先が、黒い爪になっていた。
異形型。個性「クマ」。指名手配。
男は、鼻を鳴らしニヤニヤとしながら店を見回した。
「おいおい客、少ねぇな」
カウンターにいた漁師二人が、椅子を鳴らして立った。ヒグマが視線だけ向けると、二人はそのまま座り直した。
「おい女」とヒグマがカウンターに肘を突き、マキノを呼んだ「酒」
マキノの顔から色が引いていた。それでも声は出た。
「……申し訳ありません。今、切らしてまして」
「あるだろ」
ヒグマが指をさした。
カウンターの内側、棚の一番上。一本だけ残った瓶。
「あれは——」
「あれでいい」
マキノは動かなかった。
ヒグマが腕を伸ばした。マキノの頭の上を掠めて、瓶を掴んだ。栓を歯で噛み千切って、そのまま呷った。
半分ほど飲んで、口を離した。
「まじぃ酒だ」
それから、ヒグマは残り半分を、隣に座っていた赤髪の男の頭に、ぶちまけた。
シャンクスは、動かなかった。
動けなかったわけじゃない。動かなかった。
頭の中で、勝手に線が引かれていく。長年の癖だ。消そうと思って消えるものでもない。
——距離。カウンターの端まで三歩。天井、低い。跳べば頭を打つ。
——ヒグマの右腕、伸ばして一メートル八十。爪の届く弧。カウンターの木は盾にならない。あの腕なら三枚まとめて割れる。
——マキノ、真後ろ。避けられない位置。
——客、四人。出口は一つ。
そして。
——ルフィ。
椅子の上で膝立ちになって、こっちを見ている。距離、二メートル弱。
**ヒグマから見て、一番近くにある、一番小さい的。**
異形型は追い詰められると、必ず「掴めるもの」を掴む。二十年、それを見てきた。取り押さえにかかった瞬間、あの腕が伸びる先は、俺じゃない。
三秒で終わる。
終わった後に、誰も血を流していなければ、の話だが。
だからシャンクスは、笑った。
濡れた前髪をかき上げて、床に落ちた瓶の破片を、しゃがんで拾い始めた。
「あーあ。一本しか残ってなかったのにな」
ヒグマが眉を寄せた。
「……あ?」
「マキノさん、雑巾ある? 自分で拭くから」
視線を、自分に集める。
この男が苛立つ相手は、俺だけでいい。
「てめぇ、俺が誰かわかってんのか??」
ヒグマは新聞を取り出し自慢げに言った
「俺は800万の賞金首だぞ、つまり第一級のヴィランってわけだ」
【56人殺したのさ、てめぇみたいな生意気なやつを】
「分かったら今後気をつけろよ?」
とヒグマが睨みを利かせるがシャンクスはそれを聞きながらもいそいそと瓶の破片を拾う
「気色わりぃ野郎だな」ヒグマが嘲笑うように吐き捨てた。「ちったァ怒れよ腰抜け野郎」
「怒っても酒は戻ってこねぇだろ」
ヒグマは、しばらくその男を見下ろしていた。
それから、興味を失った。
「おい!!」
声が上がった。
ルフィだった。椅子の上に立って、ヒグマを指さしていた。
「お前、テレビのやつだろ!! 手配されてんだぞ!!」
店の空気が止まった。
シャンクスの、破片を拾う手が止まった。
「おいルフィ」
「なんだ!! 悪いことしたやつだろ!!」ルフィはやめなかった。「ヒーローに捕まるからな!! すぐ捕まるからな、お前!!」
ヒグマが、振り返った。
腕が伸びた。
ルフィの襟が掴まれて、体が持ち上がった。足が椅子から離れて、宙で揺れた。
カウンターの上で、シャンクスの左手が動いた。
板を掴んだ。
——爪、ルフィの首から十センチ。
——投げるなら壁。壁なら死なない。落とすなら床。床でも死なない。
——だが、こっちが動いたら、そのまま突き刺すかもしれない
手は、そこで止まった。
板を掴んだまま、動かなかった。
カウンターの内側で、マキノがそれを見ていた。見て、口を押さえた。
「……ガキが」
ヒグマがルフィの顔を覗き込んだ。
ルフィは睨み返していた。持ち上げられたまま、足をばたつかせながら、一歩も引いていなかった。
「捕まるわけねぇだろ」ヒグマが笑った。「この村にゃ、ヒーローなんざ一人もいねぇんだよ」
ヒグマは、ルフィを椅子の上に放り出した。
そのまま戸口へ向かい、屈んで、外へ出ていった。
戸が、開けっ放しになっていた。
誰も、しばらく喋らなかった。
シャンクスがカウンターから手を離した。掴んでいたところの木が、四本の指の形にへこんでいた。
「……マキノさん。カウンター、弁償するよ」
マキノは答えなかった。
答えられなかった。
「**なんで戦わなかったんだよ!!**」
ルフィが叫んだ。
椅子の上に立ったまま、顔を真っ赤にして、シャンクスを見下ろしていた。
「お前ヒーローだろ!! 悪いやつだったろ!! 指名手配のやつだったろ!!」
「ルフィ」
「なんで殴らなかったんだよ!! 酒かけられたんだぞ!! 俺、掴まれたんだぞ!!」
シャンクスは、濡れた髪のまま、椅子に座り直した。
そして、静かに言った。
「**暴力で解決するのが、ヒーローじゃねぇ**」
それが、ルフィの中で何かを壊した。
「……嘘つき」
「ルフィ」
「**嘘つきだ!!**」
ルフィは椅子から飛び降りた。
「かっこいいこと言ってるけど、ちげぇだろ!! 怖かっただけだろ!!」
シャンクスは、何も言わなかった。
「**この腰抜け!!!**」
戸が鳴った。
小さい背中が、坂道を駆け下りていった。
店の中に、誰も追いかける者はいなかった。
しばらくして、マキノが口を開いた。
割れた瓶を、黙って片付けながら。
「……シャンクスさん」
「うん?」
「あの子には、言わないんですか」
シャンクスは、グラスの底を見ていた。
「言えるかよ」
濡れた前髪から、まだ雫が落ちていた。
「**『お前がそこにいたからだ』**なんて」
マキノは、それ以上何も聞かなかった。
シャンクスは立ち上がって、上着を取った。
「行ってくる」
「え」
「あいつを捕まえてくる。今度は、誰もいねぇとこでな」
山道を登り切ったところで、見えた。
尾根の一つ向こう、木立の切れ間。大きな背中が、のんびりと歩いている。追いつくまで、あと四分。逃げられる要素は、何もなかった。
シャンクスは足を速めた。
その時、端末が鳴った。
鳴り方が何時ものと違った。
立ち止まって、耳に当てた。
『——赤髪、聞こえるか。緊急要請だ』
「今、手が塞がってる。指名手配犯を追ってる」
『**〇〇町だ**』
シャンクスの足が、止まった。
『トリガー使用者。**すでに三ブロック消えてる。**応援は最短で四十分、それまでに町がもたない。**お前が一番近い**』
風が鳴った。
尾根の向こうで、大きな背中が、木立の間に消えていくのが見えた。
シャンクスは、そこを見ていた。
二秒。
「……いま行く」
『助かる』
通話が切れた。
シャンクスはすぐにマキノの店にかけ直した。
「マキノさん。俺はちょっと今から隣町に行き。しばらく村を空ける」
『え——』
「**ヒグマは、まだ山にいる。**戸締まりして、子供を外に出さず。全部の家に回ってくれ。役場にも言ってくれ」
『わ、わかりました』
「頼む」
『あの、シャンクスさん』
「なんだ」
『**ルフィが、まだ帰ってないんです**』
風の音が、少し大きくなった。
「……探してくれ」
『はい』
「すまないマキノさん、頼む」
シャンクスは通話を切った。
尾根の向こうを、もう一度だけ見た。
それから、反対を向いて、走り出した。
地面が割れた。空気が裂けた。赤い影が、山を一つ跨いで、隣町の方角へ飛んでいった。
その音を、山の上から見上げている者がいた。
ヒグマだった。
空を裂いていく赤い光を、口を半開きにして眺めていた。
やがて、それが遠ざかって、見えなくなった。
ヒグマは、村を見下ろした。
夕方の、坂ばかりの小さな村。信号が二つ。片方は、五年前から黄色に点滅したままだ。
ヒグマは、笑った。
「……**あいつはあの時の腰抜け野郎か??**」