フーシャ村から〇〇町まで、直線で八十二キロある。
間に山が三つ。トンネルはない。海沿いの県道を回れば車で二時間半。ヘリなら二十分だが、この地域を担当するヘリは、県庁所在地の格納庫に置いてある。
だから、シャンクスは走った。
尾根から尾根へ、着地のたびに岩が砕けた。木立を薙ぎ、谷を跨ぎ、赤い影が山を越えていく。
それでも、**四十一分かかった。**
現場に着いた時、四ブロック目が消えかけていた。
救助隊の隊長が、瓦礫の陰から双眼鏡を下ろした。三十四分と言われた応援は、まだ来ない。目の前では、腕が四本ある何かが、鉄筋を口に運んでいた。
そこに、上から何かが落ちてきた。
隊長は、後にこう証言している。
——赤い髪の男が降りてきて、歩いていった。走ってもいなかった。手ぶらだった。何か構えたようにも見えなかった。
——四本腕がそいつに向かって腕を全部振り下ろした。当たらなかった。当たらないというより、そこに男がいなかった。
——そこから先は、正直、見えなかった。
——**五十秒だ。**時計を見てたから間違いない。五十秒で、あれが地面に倒れて動かなくなった。
——それで、その人は、埃も払わずにこっちに来て、一番に言ったのが「怪我人は」だった。
トリガー使用者は、意識を失ったまま拘束された。緑色に光っていた血管が、少しずつ元の色に戻っていった。中の人間は、二十四歳の男だった。
シャンクスの服には、汚れ一つついていなかった。
「赤髪さん、あの、供述調書の——」
「後で送る」
「え」
「後で送る。**急ぎだ**」
男は、それだけ言って、また山の方へ跳んだ。
県の記録には、その日の初動対応時刻が残っている。
通報から制圧完了まで、四十三分。
**そして村へ戻るのに、また四十分以上かかった。**
シャンクスが村に戻ったのは、日付が変わってからだった。
パーティーズバーの明かりが、まだ点いていた。
戸が開く前に、中から開いた。
「シャンクスさん!!」
マキノだった。髪が乱れていた。三時間、村中を走り回った人間の顔をしていた。
「ルフィが、いません」
シャンクスの表情が、抜けた。
「役場も、消防団も、みんなで探しました。海も見ました。全部の家に聞きました。でも」
マキノの手が、震えていた。
「山の入り口に、これが」
差し出された掌の上に、サンダルが片方あった。
小さかった。
子供のものだった。
シャンクスが、それを受け取った。
「……マキノさん。あいつ、飛び出した後、どこ行った」
「一回、店に戻ってきたんです」
「戻ってきた?」
「はい」マキノの目が、少し赤くなった。「あなたが出ていった後、漁師さんたちが……言ってたんです。『あのヒーロー、口だけだな』って。『赤髪ってのも大したことねぇな』って」
シャンクスは、黙って聞いていた。
「そしたらルフィが、戸口から入ってきて」
マキノは、そこで一度言葉を切った。
「掴みかかったんです。二人がかりで止めたんですけど、ずっと叫んでて。**『シャンクスの悪口言うな』**って」
サンダルを持つ手が、少し動いた。
「……自分でさっき、腰抜けって言ってたのに」
マキノは、そこで泣きそうになるのをこらえた。
「言った後、また怒って出ていって。それきりです」
シャンクスは、サンダルを見た。
二秒。
次の瞬間、店の前から赤い髪が消えていた。
戸が、風圧で内側に開いた。
山の中腹、開けた岩場。
ヒグマは、上機嫌だった。
「おら、どうした。もう終わりか」
ヒグマの拳が、ルフィの体を叩いた。
ルフィは吹き飛んで、岩に当たって、跳ね返って、地面を転がった。
そして、立ち上がった。
「……効かねぇ」
ふらついていた。血は出ていなかった。ゴムの体は、打撃を全部逃がす。骨も折れない。内臓も潰れない。
だから、立ち上がる。
もう二十回、そうしていた。
「効かねぇって言ってんだろ!!」
ルフィが叫んだ。
叫んで、走った。
拳を振りかぶって、ヒグマに殴りかかって——ヒグマの腹に当たって、跳ね返って、また転がった。
ゴムの拳は、伸びるだけだ。重さがない。
**七歳の腕力しか、乗っていない。**
「……ハハ」ヒグマが笑った。「ハハハハ!!」
笑い声が、途中で止まった。
「——おい」
顔から、笑いが消えた。
「なんで、立つんだよ」
ルフィは、立っていた。
「なんで**泣かねぇんだよ**、おめぇ」
ヒグマの声が、変わっていた。
殴っても効かない。潰しても壊れない。二十回吹き飛ばしても、二十回立ち上がって、同じ目でこっちを見ている。
**この俺様がこんなガキに恐怖を与えられてない。**
それが、この男には耐えられなかった。
「ふざけんなよ」
ヒグマの背中の毛が逆立った。腕の筋肉が膨れ上がった。爪が、伸びた。
「**ふざけんなよ、ガキがァ!!!**」
ルフィが、両手で顔を庇った。
それでも、逃げなかった。
爪が、振り下ろされ——
——止まった。
ヒグマの腕が、途中で止まっていた。
自分の意思ではなかった。
誰かが、後ろから手首を掴んでいた。
「……よう」
声がした。
ルフィが、指の隙間から見上げた。
赤い髪だった。
「シャン、クジュゥ……」
ヒグマが腕を振り払った。振り払えた。シャンクスの方が、力を抜いたからだった。
ヒグマは三歩下がって、その男を睨みつけた。
シャンクスは、ヒグマを見ていなかった。
しゃがみ込んで、地面のルフィを覗き込んでいた。
顔中が土だらけだった。唇が切れて腫れていた。片方のサンダルがなかった。膝も肘も擦り剥けていた。
シャンクスは、それを見て——**にやりと笑った。**
「おい、ルフィ」
「**お前のパンチは、ピストルみてぇに強いんじゃなかったのか?**」
ルフィの顔が、真っ赤になった。
「**うるへぇ!!**」
唇が腫れているせいで、そう聞こえた。
「うるへぇって言ったか今」
「うるへぇ!!!」
シャンクスは声を上げて笑った。
この山に来てから、初めて出した大きな声だった。
それから、笑ったまま、少しだけ声を落とした。
「……ルフィ」
「なんだよ」
「**マキノさんから聞いたよ**」
ルフィが、顔を上げた。
「俺が出てった後、漁師どもに掴みかかったんだってな」
「…………」
「**俺のために、そんなに怒ってくれたんだってな**」
ルフィの口が、開いて、閉じた。
何か言おうとして、何も出てこなかった。
目が、泳いだ。
シャンクスは、その頭に手を置いた。
「**ありがとう**」
ルフィは、下を向いた。
肩が、震えた。
「…………ちがう」
小さい声だった。
「ちがう。おれ、お前のこと、腰抜けって」
「知ってる」
「言った。おれ、言った」
「知ってるよ」
シャンクスは、笑っていた。
「それでも怒ってくれたんだろ?お前」
「——**おい、こっちを見ろぉ!!**」
ヒグマが吠えた。
無視されていた。この男に、完全に無視されていた。
シャンクスが、ようやく立ち上がった。
そして、そこで初めてヒグマの方を向いた。
その時、ヒグマは気づいた。
男の服に、汚れが、ない。
夕方、赤い光が空を裂いて隣町へ飛んでいくのを、この山の上から見た。その方角で何が起きているかは、ラジオで聞いていた。町が三つ消えたと言っていた。
それから、まだ何時間も経っていない。
なのに、目の前の男は。
「……おい」
ヒグマの喉が鳴った。
「あの光、テメェか」
「ああ」
「〇〇町、行ってたのか」
「行ってた」
ヒグマの目が、男の全身をなぞった。
髪も、服も、靴も。血も、埃も、焦げも、傷も。
何一つ、ついていない。
「……**なんで、無傷なんだよ**」
シャンクスは、答えなかった。
代わりに、一歩前に出た。
「あの店にはルフィがいた。婆さんがいた。マキノさんがいた。あそこでお前を取り押さえりゃ、誰か死んでた。**だから出した**」
もう一歩。
「でもここは、山だ」
もう一歩。
「**誰もいねぇ**」
ヒグマの足が、下がった。
この男は、さっきから声を荒げていない。構えてもいない。手ぶらで、歩いてくるだけだ。
なのに、下がっていた。
「く、来んなァ!!」
**ヒグマの背が、膨れ上がった。**
個性「クマ」——半獣型の異形。だが、この男の個性には、まだ先があった。
骨が鳴った。背丈が、三メートルを超えた。全身が黒い毛で覆われて、腕が丸太になった。爪が、鉈の長さになった。
ヒグマは、その爪を、地面のルフィの上に構えた。
「動くなよ!! 動いたら、このガキを——」
シャンクスの足が、止まった。
そして、少しだけ、顔を上げた。
「……おい」
声の温度が、変わっていた。
「**個性を使うんだな?**」
風が、止んだ。
「**それは、脅しの道具じゃねぇんだぞ**」
ヒグマの背中に、汗が噴き出した。
「う、うるせぇ!! ガキがどうなっても——」
「おれはな」
シャンクスが、遮った。
「酒をかけられようが、唾を吐きかけられようが」
顔を上げた。
「**大抵のことは、水に流してやる**」
一拍。
「**だがな**」
その瞬間、山が鳴った。
「**おれは——友達を傷つけるやつは、許さねぇ!!!**」
光ったわけではない。音が鳴ったわけでもない。
ただ、**空気が重くなった。**
山の木が、一斉に鳴った。鳥が、一羽残らず飛び立った。岩場の砂が、地面から浮き上がって、震えた。
ヒグマの体が、硬直した。
三メートルの巨躯が、動かなかった。爪を振り下ろすことも、下ろすこともできず、ただ、震えていた。
瞳孔が、開いていた。
——**死ぬ。**
それしか、頭になかった。
目の前の男は、まだ一歩も動いていない。個性を使った様子もない。それどころか、手を挙げてすらいない。
なのに、体が、生き物として理解していた。
「な、なんだ、これ……なんだよ、これェ……!!」
ヒグマが、爪を振り下ろした。
恐怖に押されて、めちゃくちゃに振り下ろした。
当たらなかった。
そこに、男がいなかった。
次の瞬間、ヒグマの巨体が、地面から浮いた。
何をされたのか分からなかった。腹に何かが入って、三メートルの体が宙に持ち上がって、そのまま岩に叩きつけられた。岩が割れた。
起き上がろうとした顔を、掴まれた。
地面に、埋められた。
振り回した腕は、全部空を切った。反撃は一発も届かなかった。届く前に、体のどこかに衝撃が入って、姿勢が崩れた。
三メートルの怪物が、手ぶらの男に、一方的に解体されていた。
ルフィは、座り込んだまま、それを見ていた。
口が、半分開いていた。
あの、朝から晩まで一秒も黙っていない子供が、何も言えずにいた。
三ヶ月間、この男が本気で戦うところを、一度も見たことがなかった。
堤防を見回って、婆さんを探して、酔っ払いを座らせて話を聞いていた男が。
いま、目の前にいた。
「…………**つぇええ**」
声が、漏れた。
ヒグマが、逃げた。
理性ではなかった。生き物としての逃走だった。
逃げながら、片腕で岩を掴んで、**それを、ルフィのいる方へ投げた。**
狙ってすらいなかった。ただ、こっちを見るなという一心だった。
二百キロの岩が、宙を飛んだ。
シャンクスは、追うのをやめた。
振り返って、岩を蹴り上げた。岩が砕けて、破片が夜空に散った。
破片が落ち切った時には、もう、山の斜面に巨体の影はなかった。
木立の奥へ、地響きが遠ざかっていく。
追えば、追いつく。三十秒で終わる話だった。
シャンクスは、一歩踏み出して——止まった。
背後を見た。
岩場に、小さいのが座り込んでいた。
夜の山だ。灯りはない。ここから村まで、下りで三十分。この子は、片方サンダルを失くしている。
**一人にはできない。**
選ぶまでに、一秒もかからなかった。
「……なあ」
山を下りながら、ルフィが言った。さっきから百回目くらいだった。
「なあ、今の何。今の。最後のやつじゃなくて、その前の。空気がぐわってなったやつ」
「なんでもねぇ」
「個性か!? シャンクスの個性か!? そうだろ!? なあ!!」
「違う」
「じゃあなんだよ!!」
シャンクスは、少しだけ黙った。
「**覇気**っつうんだ」
「はき?」
「海の向こうの、古い技術だ。個性じゃねぇ」
「じゃあ何なんだよ!!」
「気合いだ」
「ぜんぜんわかんねぇ!!」
「そりゃそうだ。**知ってるやつが、世界に何人もいねぇからな**」
ルフィの目が、変わった。
「**鍛えりゃ誰でも使える**」シャンクスは前を向いたまま言った。「ただ、たどり着くやつがいねぇだけだ」
「教えろ!!」
「やだね」
「なんでだよ!!」
「うるせぇな。お前、いま殴られてたとこだろうが」
「殴られてねぇ! 効かねぇもん!」
「ピストルのパンチはどうした」
「**うるへぇ!!**」
シャンクスは笑った。
それから、立ち止まって、ルフィの肩を掴んだ。
少しだけ、強かった。
「ルフィ」
「なんだよ」
「**もう二度と、一人で行くな**」
ルフィは、答えなかった。
その顔を見て、シャンクスは、これは伝わっていないな、と思った。
思って、それ以上は言わなかった。
言ったところで、この子はきっと、また行く。
二人は、山を下り始めた。
月が出ていた。村の明かりが、坂の下に見えた。
シャンクスは、この時、一つだけ間違えていた。
**ヒグマが、まだ山にいると思っていたことだ。**
山にはもう、別のものが下りてきていた。
ヒグマさんがそのまま酒場戻ってきたら多分皆殺しされてたと思うんで漁師さんがヴィラン役を請け負ってくれました南無南無