山道の途中で、悲鳴が聞こえた。
人間の声だった。
高くて、割れていて、言葉になっていなかった。それでも、聞いた人間の背筋を一瞬で凍らせる種類の音だった。
シャンクスの足が止まった。
距離、二百メートルほど。木立の向こう。方角は、さっきヒグマが逃げていった方だ。
「……ヒグマか」
悲鳴が、途中で切れた。
切れ方が、悪かった。
シャンクスは端末を取り出した。この場所を送って、応援を呼ぶ。それが手順だ。三十秒でいい。三十秒あれば——
横で、小さい影が動いた。
「おい」
ルフィが、走り出していた。
「ルフィ!!」
振り返らなかった。
返事も、しなかった。
あの、朝から晩まで一秒も口を閉じていない子供が、何も言わずに、悲鳴のした方へ走っていた。
シャンクスは端末を落とした。
木立を抜けた先は、沢だった。
月が出ていた。だから、見えてしまった。
水辺に、**それ**がいた。
四足だった。体高は、大人が三人立っても届かない。頭が体に対して大きすぎて、口が顔の半分を占めていた。牙が、口の外まで生えて、下顎の骨を突き破っていた。
皮膚の下で、血管が緑色に光っていた。
脈打つたびに、体積が増えていた。
その口の中に、黒い毛の塊があった。
三メートルあった巨体は、もう、そう見えなかった。片方の腕が、少し離れた岩の上にあった。爪が、鉈の長さのままだった。
ヒグマだったもの。
ルフィが、沢の入り口で立ち止まっていた。
動かなかった。
声も、出していなかった。
化け物が、咀嚼をやめた。
顔を、上げた。
目が、ルフィを見た。
シャンクスが木立を抜けたのは、その一秒後だった。
距離、四十メートル。
化け物までの直線上に、ルフィがいる。
——**読めない。**
走りながら、シャンクスの背筋が冷えた。
二十年、相手の動きは全部、動く前に分かった。筋肉が張る。呼吸が変わる。視線が固定される。殺意には形があり、形があるものには先がある。だから間に合ってきた。
だが、目の前のそれには、**予兆が一つもなかった。**
怒っていない。憎んでもいない。誰かを殺したいとも思っていない。薬に食い荒らされて、意志も、恨みも、恐怖も、全部溶けていた。
残っているのは、**腹が減っている**という一点だけだった。
だから、来ない。
二十年かけて読めるようになったものが、一つも来ないまま——
それは、動いた。
四十メートルが、消えた。
シャンクスが地面を蹴ったのと、化け物が跳んだのが、同時だった。
だが、化け物の方が、ルフィに近かった。
二十メートル。
十メートル。
ルフィは、動かなかった。
顎が、開いた。
人間の子供が丸ごと入る大きさだった。上顎に月が反射して、牙が白く光った。
三メートル。
牙の先が、ルフィの髪に触れた。
——**足りない。**
あと〇・二秒。
その〇・二秒で、届くものが、一つだけあった。
シャンクスは、ルフィの襟を掴んで、背中側へ放り投げた。
そして、
顎が、閉じた。
ルフィが、沢の石の上に転がった。
起き上がって、振り返った。
化け物の口の端から、赤いものが垂れていた。
その前に、赤い髪の男が立っていた。
化け物が、顔を上げた。
その目が、また、後ろの小さい影を捉えようとして——
シャンクスが、顔を上げた。
「**——おい**」
声が、低かった。
聞いた者が、後に何と言えばいいか分からなかった、という種類の低さだった。
「**そっちを見るな**」
その瞬間。
**山が、鳴った。**
光ったわけではない。音が鳴ったわけでもない。
ただ、**世界が、重くなった。**
沢の水面が、地面ごと震えた。木の葉が、一斉に落ちた。半径百メートルの鳥という鳥が、羽ばたきもせずに枝から落ちた。
化け物の全身が、止まった。
三人分の体高がある巨体が、途中の姿勢のまま、動かなくなった。
瞳孔が、限界まで開いた。
薬に溶かされて、意志も恨みも恐怖もなくなったはずのその体が、**生き物として、理解していた。**
目の前にいるのは、**格が違う**。
口の端から泡が噴いた。四本の脚が、同時に折れた。
巨体が、沢の水に倒れ込んだ。
水柱が上がって、月を割った。
それきり、動かなくなった。
白目を剥いていた。
沢に、静けさが戻った。
シャンクスは、そこに立っていた。
立っていたが、膝が、ゆっくり落ちた。
「**シャンクス!!!**」
ルフィが、石の上を走った。
転んで、また立って、走った。
男の前にたどり着いて——そこで、動けなくなった。
どこを触ればいいのか、分からなかった。
手が、宙で震えていた。
「シャンクスゥゥゥ!」
「おい!どうしたルフィ」
「シャンクスゥゥウウウ」
「泣くなよ!男だろ??」
シャンクスは、笑っていた
「シャンクス、だ、だってぇぇええ!!」
言葉が、波を打つ
「うでがぁぁぁぁぁぁあああ」
ルフィは喉が叫んばかりに叫んだ
そしてそれを見たシャンクスは優しく喋る
「ルフィ」
シャンクスが、残った腕を上げた。
その手で、ルフィの頭を掴んだ。
「**腕の1本ぐらい、安いもんだ**」
「うわあああああんん!!!」
「お前が助かって良かったよ」
シャンクスは、ルフィの顔を、自分の方に向けさせた。
血で汚れた手だった。それでも、力は優しかった。
「**無事でよかった**」
ルフィが、声を上げて泣いた。
沢の音より、大きかった。
シャンクスは、その頭を抱えたまま、動かなかった。
しばらくして、山の下の方から、サイレンが聞こえてきた。
落とした端末が、木立の中で、まだ光っていた。
シャンクスが村を発つのは、それから九日後だった。
その九日間、ルフィは一言も喋らなかった。
村の人間の誰も、あの子の声を聞いていなかった。あれだけうるさかった子供が、である。マキノが肉を出しても、何も言わずに食べて、何も言わずに帰った。
港に、村の人間が全員出ていた。
役場の職員が泣いていた。漁師の二人が、深く頭を下げて、それから顔を上げられなくなっていた。マキノは、ずっと前掛けで顔を押さえていた。
ルフィは、堤防の端にいた。
誰とも喋らずに、そこに座っていた。
「ルフィ」
声をかけられて、肩が跳ねた。
顔を、上げなかった。
「行くぞ」
「…………」
「おい」
「…………」
シャンクスは、隣に来て、しゃがんだ。
左腕の付け根は、包帯の上から上着を羽織って隠していた。顔色は、まだ良くなかった。
しばらく、波の音だけがしていた。
「……なあ、ルフィ」
シャンクスは、海を見ながら言った。
「お前、これ、くれって言ってたよな」
右手を、頭に持っていった。
被っていた麦わら帽子を、取った。
ルフィが、顔を上げた。
「やらねぇって言ったよな」
「…………」
「気が変わった」
シャンクスは、その帽子を、ルフィの頭に載せた。
大きすぎて、目まで隠れた。
「これはな、俺の大事な帽子だ」
声が、少しだけ低かった。
「**預けとくよ**」
ルフィが、帽子の下から、シャンクスを見た。
「**いつか、立派なヒーローになって——返しに来い**」
九日ぶりに、声が出た。
喉が潰れたような、掠れた音だった。
「……ちがう」
「…」
ルフィが、立ち上がった。
帽子を、両手で押さえた。
顔が、ぐしゃぐしゃだった。それでも、目だけは逸らさなかった。
「立派なヒーローじゃ、ねぇ」
「ルフィ」
「**おれは——シャンクスを超えるヒーローになる**」
風が、止まった。
シャンクスの動きが、止まった。
その言葉を、この男は昔、どこかで聞いたことがあった。
**ロジャーさん!俺何時かロジャーさんを超えるヒーローになってやるからな!**
二十数年経って、それが、自分に帰ってきた。
シャンクスはそれを聞き、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
声を上げて、腹の底から、笑った。
「……そうかい」
立ち上がって、右手でルフィの帽子のつばを、ぐっと押し下げた。
「**なら、返しに来る頃には、俺より強くなってろよ**」
船が出た。
沖まで五十メートルほど進んだところで、堤防の上に、小さいのが立った。
大きすぎる麦わら帽子を、両手で押さえていた。
そして、腹の底から、叫んだ。
「**シャンクス!!!**」
男が、振り返った。
残った右手を、上げた。
「**おれは!!!**」
声が、割れた。
「**おれは——英雄王(キングヒーロー)に、なる!!!!**」
村の人間が、一斉に堤防を見た。
空席の椅子の話だった。二十数年、誰も座れていない椅子の話だった。日本のNo.1でも、アメリカのNo.1でも届いていない場所の話だった。
それを、たった七歳の子供が、海に向かって叫んでいた。
シャンクスは、笑っていた。
もう「無理だ」とは、言わなかった。
風が出た。
船が、水平線の方へ滑っていく。
堤防の上の小さい影は、船が見えなくなるまで、そこに立っていた。
——**大ヒーロー時代が始まって、二十四年目の夏だった。**
あれっすね、悲鳴が聞こえたんでヒーローとして心より先に体が動いちゃったんっすよね……多分