チェンソーアイドル咲季ちゃん 〜プロデューサーのに触りたいので1番を目指します〜 作:寝て起きたら異世界じゃなくて会議室だった
ジュクジュク……ジュクジュクジュク……。
暗湿な地下ボイラー室の静寂を切り裂き、気味の悪い蠢動音が響き渡っていた。崩れ去ったコンクリートの瓦礫の隙間から、ぬめり気のある漆黒の影が這い出してくる。それはコウモリ型のデータゴーストとは比較にならないほど禍々しく、無数の湿った触手と粘着質なノイズ波形を蠢かせる悪質データゴースト――『蛭のデータゴースト』だった。
「グフフフ……コウモリノ奴、無念ダッタナ……。ダガ、疲弊シ切ッタコノ『最高のアイドル候補生』ノデータ……頂戴スルトシヨウ……」
「な……何よ、あのバケモノ……っ!?」
藤田ことねが悲鳴を上げ、手帳を胸元で抱きしめながら身を縮める。コベニはすでに腰を抜かしたまま涙目になり、カタカタと顎を鳴らしていた。
コウモリ型の悪質データゴーストとの死闘を終えたばかりの花海咲季は、俺の腕の中で荒い息を吐いていた。胸の爆音エンジンは激しいオーバーヒートを起こし、紅蓮のオーラは完全に鎮火している。破れたレッスン着から覗く肌は限界を超えた熱量で赤く火照り、全身から汗が絶え間なく滴り落ちていた。指一本動かすことすらままならないほどの極限状態。
「咲季……! 立つんじゃない、もう動くな!」
俺が叫ぶが、咲季は虚ろな瞳で俺を見上げ、弱々しく唇を動かした。
「プロ……デューサー……。逃げ……なさい……。私は……まだ……あんたのを……触ってないんだから……ここで……」
「黙って休んでいろ! バカ者!」
俺は咲季を庇うように立ち塞がった。しかし、一般のプロデューサーに過ぎない俺に、巨大なデータエラーの塊を止める術などあるはずもない。
蛭のデータゴーストが無数の触手を鎌首のように持ち上げ、音圧を帯びた粘着液状のノイズ弾丸を放ってきた。
ドガガガガガッ!
「くっ……!?」
俺は咲季を抱えて泥臭く床を転がった。背後にあった配管が激しく炸裂し、熱湯と高圧蒸気が吹き荒れる。強烈な衝撃波が二人を吹き飛ばし、硬いコンクリートの床へ叩きつけられた。
「グフフ……無駄ダ無駄ダ! 疲労困憊ノアイドル候補生ト、無力ナプロデューサーナゾ、ワタシノノイズデータノ餌食ニ過ギン!」
蛭のデータゴーストの触手が、蛇のようにうねりながら咲季の華奢な足首へと巻き付いた。
「あっ……!」
「咲季っ!」
咲季の身体が強引に引きずられていく。触手から放たれる青いデータエラーの火花が、咲季の肌を焼き、体力を削ぎ落としていく。咲季は激痛に顔を歪めながらも、必死に手を伸ばしてきた。
「プロ……デューサー……っ! 手を……取って……っ!」
俺は手を伸ばした。だが、あと数センチのところで触手が俺の腕を弾き飛ばす。
「ハハハハ! 素晴ラシイ情熱ダ! だがその熱量こそが、ワタシのデータネットワークを肥大化させる最高の栄養素なのだよ!」
蛭のデータゴーストの体内から、耳を刺すような高周波のノイズが放出される。咲季の胸のエンジンが、カチ……カチ……と弱々しく不発弾のような音を立て始めた。このままではスター性のデータそのものを吸い尽くされ、二度とステージに立てない廃人へと変えられてしまう。
「離せ……! 咲季から離れろ!」
俺は落ちていた金属パイプを拾い上げ、狂ったように蛭のデータゴーストの触手へ叩きつけた。だが、鉄パイプは一瞬でデータノイズに侵食され、青い散りとなって崩れ去る。
「無意味ナ抵抗ヲ……失せろ、プロデューサー!」
巨大な触手の一本が鞭のようにしなり、俺の胸元へと一直線に振り下ろされた。視界が真っ赤に染まるほどの衝撃。肋骨が悲鳴を上げ、俺の身体はボイラー室の壁へと激しく激突した。
「プロデューサーーーーーっ!!」
咲季の絶叫が空間に響き渡る。その叫びに応えるように、彼女の胸の奥で、消えかけていたエンジンが一瞬だけ途切れ途切れに火花を散らした。
「あんた……私以外の……プロデューサーなのに……なんで……っ!」
咲季の瞳に、血走ったような狂気が戻ってくる。彼女は歯を食いしばり、自分の爪が割れるのも構わず、コンクリートの床に指を立てて這い進もうとした。
「私の……私のプロデューサーに……手を出すんじゃないわよぉぉぉっ!!」
ドクンッ……!
限界を超えた脈動。だが、あまりにも体力が残っていなかった。咲季の口から大量の汗と吐息が溢れ出し、彼女は再び床へと崩れ落ちた。
「終わりだ、愚かな少女たちよ。初星学園の未来ごと、ワタシの体内で消化されるがいい!」
蛭のデータゴーストが巨大なノイズ口を開き、咲季を丸呑みにしようと無数の触手を押し寄せたその瞬間――。
カツ……カツ……と、不気味なほど落ち着いた靴音が、地下廊下の静寂を踏み鳴らして近づいてきた。
「……うるさいわね。静かにしなさいよ、駄ノイズ」
氷のように冷徹で、澄み切った声が響き渡る。
ボイラー室の入口に立っていたのは、ジャージ姿の少女――月村手毬だった。彼女の表情には一切の動揺もなく、その眼光は目の前のバケモノをゴミを見るような冷ややかな視線で射抜いていた。
「手毬……!?」
俺が血吐く思いで声を上げると、手毬はチラリとこちらを一瞥し、短く鼻を鳴らした。
「プロデューサー、無様ね。……それと咲季、アンタのその汚い叫び声、不協和音で不快極まりないわ」
「な……手毬……あんた……」
咲季が途切れ途切れに声を絞り出す。手毬は二人の前にゆっくりと踏み出すと、右手に装着した特製のマイクデバイスを静かに掲げた。そのデバイスからは、学園の治安維持機構が管理する最高等級の判定ユニットデータが青白い光となって溢れ出していた。
「グアッ……!? キサマ、何者ダ!? ワタシの邪魔ヲスル気カ!」
蛭のデータゴーストが警戒し、触手を手毬へと向けた。だが、手毬は微動だにしない。彼女の唇が、静かに、そして絶対的な確信を持って小さな音を紡ぎ出す。
手毬は狐の印を結ぶように指を交差させ、判定コードを起動した。
「――――コン」
その瞬間、空間が物理的な意味で歪んだ。
ズザザザザザザザザッ!!
ボイラー室の空間データが次元ごと引き裂かれ、暗闇の中から『巨木のような巨大な狐型の判定データゴースト』――学園最高峰の消去プログラムが、巨大な顎を開いて次元の裂け目から突如として出現した。
「ナっ……!? 狐型の判定ユニット……!? なぜ学園の判定員レベルのプログラムがこんな候補生に――ガアぁぁぁぁぁっ!?」
蛭のデータゴーストが悲鳴を上げる間すらなかった。
バコンッ!!
巨大な狐型ユニットの顎が、ボイラー室の天井ごと蛭のデータゴーストの巨体を一瞬で噛み砕き、その凶悪なノイズデータを丸呑みにして消去したのだ。
圧倒的な音圧と衝撃波が室内を駆け抜け、無数の黒いデータエラーがプログラムの胎内へと吸収されていく。一瞬前まで猛威を振るっていた漆黒の異形は、データの一片すら残さず、完全に消滅した。
空間の裂け目が静かに閉じ、狐型の判定ユニットが光の粒子となって霧散していく。
ボイラー室に残されたのは、粉砕されたコンクリートの瓦礫と、呆然と佇むことねやコベニ、そして荒い息をつく手毬だけだった。
「……ふぅ」
手毬はマイクデバイスの電源を落とし、冷ややかに息を吐いた。
「まったく……手のかかる奴ら。スランプで潰れるなら勝手に潰れればいいのに、私の視界に入るところで不快なノイズを出さないでよ」
手毬はそう吐き捨てると、くるりと背を向け、崩れた出口に向かって歩き出した。
激闘は終わった。静寂が戻ってきたボイラー室で、俺は倒れた咲季を強く抱きしめ、深く、深く息を吐き出したのだった。