第1話 海賊とカラス
二〇二六年五月二十八日。
蓮根奎星(はすね けいせい)は、十七歳になった。
だからといって、世界が昨日までと違って見えたわけではない。
朝起きれば、カーテンの隙間から薄汚れた初夏の日差しが差し込み、机の上には開きっぱなしの漫画と、飲み残した炭酸飲料のペットボトルが転がっていた。制服のシャツには昨日食べたカレーうどんの汁が一滴ついていて、スマートフォンの充電は十二パーセントしかなかった。
十七歳という響きに、本人が期待していたものは何もない。
「十七かぁ」
鏡の前で歯を磨きながら、奎星はぼんやり呟いた。
寝癖がひどい。
右側だけが妙に跳ねている。
水をつけて押さえてみる。
戻る。
押さえる。
戻る。
「……元気だなお前」
寝癖に負けた。
そんな十七歳の朝だった。
学校へ行けば、担任から進路希望調査の紙を突き返された。
「蓮根」
「はい」
「これは何だ」
紙の中央を教師が指で叩いた。
第一志望。
海賊。
第二志望。
未定。
第三志望。
なんとかなる。
奎星はしばらく紙を眺め、それから首を傾げた。
「進路希望調査ですけど」
「俺は紙の種類を訊いてるんじゃない」
「海賊って公務員でしたっけ」
「知らん」
「じゃあ民間か」
「そういう話でもない」
教室の後ろで笑いが起きた。
教師は眉間を押さえた。
「もう高校二年だぞ。少しは将来のことを考えろ」
「考えてますよ」
「何を」
奎星は顎に手を当てた。
少し真面目に考えた。
「適当に飯食って」
「うん」
「適当に遊んで」
「うん」
「金なくなったら友達に借りて」
「雲行きが怪しくなったな」
「パチンコで増やす」
「廊下に立て」
「なんで!?」
十七歳の誕生日は、だいたいそんな具合に始まった。
だから、その日の夕方。
自宅のベッドに寝転がりながら、床に落ちたリモコンへ何気なく手を伸ばし、
「来い」
と言ったとき。
三メートル離れたリモコンが、床から跳ね上がって奎星の手の中へ飛び込んできても、
彼は三秒ほど、それを理解できなかった。
「…………」
右手を見る。
リモコンを見る。
床を見る。
もう一度、右手を見る。
「……え?」
試しに、机の上のポテトチップスへ手を伸ばした。
「来い」
袋が飛んできた。
顔面に当たった。
「いってえ!」
ベッドから飛び起きる。
ポテトチップスの袋が床へ落ちた。
その瞬間だった。
机が浮いた。
「え」
椅子も浮いた。
「え?」
漫画が浮いた。
ゴミ箱が浮いた。
「ちょ、ちょちょちょ――」
飲みかけのペットボトルが天井へ上がり、ティッシュ箱が回転し、制服のズボンが生き物のように宙で踊り始めた。
「待て待て待て! なんだこれ!」
奎星が両手を振り回した途端、
すとん。
すべてが落ちた。
机が床を打つ。
椅子が倒れる。
漫画が雪崩になる。
そして炭酸飲料のペットボトルだけが、奎星の頭に落ちた。
「痛っ!」
沈黙。
遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。
奎星は頭を押さえたまま、散らかった部屋を見回した。
「…………超能力?」
口にしてみる。
なんとも安っぽい。
「いや、でも超能力だよな」
しばらく考えてから、彼はポテトチップスを拾った。
そして食べた。
それ以上考えるのをやめた。
人間というものは、理解できない事態に遭遇したとき、必ずしも真相を追求するとは限らない。
とりわけ蓮根奎星という少年は、面倒なものを後日に回す才能だけなら、昔から並外れていた。
翌日には、さらに器用になった。
冷蔵庫から麦茶を手元へ飛ばし。
離れた場所にあるスマートフォンを引き寄せ。
一度だけ、母親の肩越しに醤油差しを飛ばして怒られた。
「奎星! 今なんか飛んだわよ!」
「気のせいじゃね」
「醤油が?」
「最近の醤油は飛ぶんじゃね」
「便利ねえ」
母は納得した。
この家では、息子だけでなく母親もわりと適当だった。
能力が現れてから一日。
五月二十九日の夕方。
学校から帰ってきた奎星は、自室の扉を開けたところで足を止めた。
机の上に、見覚えのない封筒が置かれていた。
白ではない。
夜明け前の空のような、ごく淡い藍色。
表には銀色の文字で、ただ一行。
蓮根奎星 殿
「……何これ」
両親からの誕生日祝いにしては、雰囲気が物騒である。
封蝋には、見覚えのない印が押されていた。
円の中に波。
波の向こうに山。
その上を、大きな翼を持つ鳥が飛んでいる。
奎星は封を切った。
中から厚い和紙が現れた。
文字は墨で書かれている。
しかし筆跡は驚くほど整っており、一文字一文字が、紙の上に直接刻み込まれているようだった。
⸻
蓮根奎星 殿
このたび、貴殿における魔力覚醒の発現を、我が国魔法教育管理局ならびに国立魔法学校マホウトコロが正式に確認いたしました。
貴殿は二〇二六年五月二十八日をもって、魔法使いとしての覚醒基準を満たしております。
つきましては、国際魔法使い機密保持法ならびに我が国魔法教育法の定めに基づき、国立魔法学校マホウトコロ上級課程第二学年への編入を許可いたします。
未成熟な魔力は、使用者本人の意思にかかわらず、周囲の人間および物品に重大な影響を及ぼす場合があります。
正しき知識を学び、自らの魔力を律すること。
これは魔法を持つ者すべてに課された責務です。
詳細につきましては、担当教員を派遣のうえ説明いたします。
貴殿が学びの門をくぐる日を、心よりお待ちしております。
国立魔法学校マホウトコロ
校長 九重院 紫苑
⸻
奎星は読み終えた。
もう一度読んだ。
三行目くらいで面倒になった。
「…………何これ、こわ〜」
丸めた。
ゴミ箱へ投げた。
外れた。
床に落ちた。
拾わなかった。
そして寝た。
*
午前一時四十三分。
コン。
奎星は眠っていた。
コン、コン。
眉が動く。
コン。
「……んだよ……」
コンコンコンコン。
「うっせえなぁ……」
奎星は布団を頭まで被った。
コンコンコンコンコンコン。
「新聞ならいらねえぞ!」
夜中の一時に新聞が来るはずもない。
目を擦りながら体を起こす。
また音がした。
窓だ。
カーテンを開ける。
真っ暗なガラスの向こうに、何かいる。
黒い。
目が二つある。
「うわっ」
奎星は一歩退いた。
そこにいたのは、一羽の鴉だった。
街灯の明かりを黒い羽が鈍く返している。
嘴には、一通の封筒。
「……お前かよ」
窓を開ける。
湿った夜気が部屋へ流れ込んだ。
鴉は当然のような顔で部屋へ入った。
「何おまえ。あげるもんは何もねえよ」
鴉は答えず、机まで飛んだ。
嘴にくわえていた封筒を置く。
先ほど捨てたものと、まったく同じだった。
「……なんだよこれ」
奎星は頭を掻いた。
腹が鳴った。
ぐううううう。
思った以上に大きかった。
鴉が首を傾げる。
奎星は腹を押さえた。
「腹減ったな……」
ふと。
鴉を見る。
鴉も見る。
沈黙。
「…………」
「…………カァ?」
奎星の目が細くなった。
「鴉って……食えるのかな」
「カァ?」
ガシッ。
「カァァァァッ!?」
両手で捕まえた。
「焼いたらいけんのかな。鳥だし」
「カァー! カァーッ!」
「静かにしろって。近所迷惑――」
ぼんっ。
白い煙が奎星の顔面を覆った。
「うわっ!?」
手の中の感触が変わった。
羽ではない。
柔らかい。
それなりに重い。
煙が晴れる。
奎星は固まった。
腕の中に、小柄な女がいた。
身長は百五十五センチほどだろう。
奎星より二十センチほど低い。
年齢は二十代前半に見えた。
艶のある黒髪を顎のあたりで真っ直ぐ切り揃え、前髪も寸分違わぬ線を描いている。くっきりとした二重の目は美しいが、いまは針ほどに細められ、奎星を睨みつけていた。
衣服も普通ではなかった。
墨を流したような濃紺の長衣。
形こそ着物に近いが、袖は動きやすいよう短く仕立てられ、その下から白銀の細い刺繍が施された黒の袖が覗いている。帯の代わりに革と組紐を合わせた細身の腰帯を締め、そこには黒檀らしき細い杖が差されていた。
襟元には、銀糸で小さな翼の紋。
古い日本の装束と、軍服と、どこかの祭司の衣を混ぜたような、不思議な服だった。
しかしそんなことより。
奎星はいま。
見知らぬ女性をお姫様抱っこしていた。
「…………誰?」
女のこめかみに青筋が浮いた。
「離しなさい」
「はい」
奎星はゆっくり彼女を床へ下ろした。
ものすごく丁寧に。
女は着衣の乱れを直した。
咳払いを一つ。
そして、何事もなかったように背筋を伸ばした。
「初めまして」
声は落ち着いている。
落ち着きすぎている。
「国立魔法学校マホウトコロにて魔法史を担当しております。烏丸スズメと申します」
「スズメ?」
「はい」
「鴉だったのに?」
「よく言われます」
真顔だった。
「親、名前つけるとき鳥だけ合ってればいいと思ったの?」
「初対面で家庭の命名事情に踏み込まないでください」
「すみません」
烏丸スズメは机の上の手紙を指した。
「そちらをご覧いただけましたか」
「見た」
「お返事がありませんでしたので」
「ゴミ箱に捨てた」
「見れば分かります」
床に転がっている一通目を見ながら、スズメは言った。
ほんのわずかに、声が低くなった。
「お返事がないので、直接伺いました」
「いや夜中の一時に来る?」
「三度ノックしました」
「宅配便でももうちょい時間考えるよ」
「あなたが昼間に無視したからでしょう」
「俺のせいなの?」
「九割ほど」
「残り一割は?」
「私の苛立ちです」
「認めるんだ」
スズメは息を吐いた。
「蓮根奎星さん」
「はい」
「昨日から、ご自分の周囲で異常な現象が起きていませんか」
奎星は目を逸らした。
「まあ……ちょっと」
「物が飛ぶ」
「ちょっと」
「物が浮く」
「ちょっと」
「壊れる」
「それは前から」
「部屋が?」
「俺が」
「でしょうね」
即答だった。
「あなたは昨日、十七歳の誕生日を迎えた。それを境に、休眠状態にあった魔力が急速に表面化しています」
「魔力ねえ」
「はい」
「それ信じろって?」
「私は今、鴉から人間になりましたが」
「手品かもしれない」
「ずいぶん大掛かりな手品ですね」
「最近のマジシャンすごいから」
「では」
スズメは静かに奎星を見た。
「あなたの魔力が暴走し、友人の首を折ったとしても、手品で済ませますか」
奎星の笑みが消えた。
スズメの声音は変わっていなかった。
だからこそ、その言葉だけが妙に重かった。
「……物騒だな」
「魔法とはそういうものです」
「でも俺、誰か傷つける気なんかねえし」
「意思は関係ありません」
スズメは机の端へ指を置いた。
「未熟な魔法使いの魔力は、恐怖、怒り、焦燥、悲嘆――本人すら自覚していない感情に反応することがあります。あなたが望まなくても、人を傷つける可能性がある」
奎星は鼻を鳴らした。
「そんなん知るかよ」
スズメの眉が動いた。
「俺の人生だろ。勝手に魔法がどうとか学校がどうとか言われてもさ。俺は昨日まで普通だったんだよ。いきなり来て、危険だから学校行けって」
「普通?」
スズメの視線が机へ移った。
「あ」
奎星も気づいた。
机の隅。
学校から持ち帰った進路希望調査。
スズメが拾い上げる。
沈黙。
「第一志望……海賊」
「…………」
「第二志望、未定」
「…………」
「第三志望、なんとかなる」
「返して」
スズメは深いため息をついた。
「あなたの人生に口を出したい者など、元からあまりいないのでは?」
「失礼すぎない?」
「少なくとも進路指導の先生は匙を投げかけています」
「なんで分かるんだよ」
紙の隅に赤ペンで、
ふざけるな。月曜までに再提出。
と書いてあった。
奎星は紙を奪い返した。
「とにかく、俺は学校とか嫌なんだよ。今の学校ですら面倒なのに、魔法の学校ってなんだよ」
「あなたは、魔法がどれほど危険なのか分かっていません」
「ふーん」
スズメの目が細くなる。
「……今、試してみますか」
奎星は彼女を見る。
「何を」
「魔法を」
「いいよ」
「よろしいのですね?」
「やれるもんならやってみろよ、スズメちゃん」
ぴくっ。
彼女の右手が動いた。
腰の杖を抜く。
「ウィンガーディアム・レビオーサ」
「…………へ?」
身体が浮いた。
最初は尻がベッドから離れただけだった。
次に足が浮いた。
そして体全体がふわりと天井へ向かった。
「お」
一メートル。
「お、お?」
二メートル。
「おおおお!?」
天井が近づく。
「待って待って待って! これやばい!」
「何がです?」
スズメは涼しい顔をしていた。
「頭! 頭ぶつかる!」
「魔法ですから、ぶつけません」
「そういう問題じゃない!」
奎星は空中でじたばたした。
「おろして! おろしてスズメちゃん!」
「烏丸先生です」
「そこ今こだわる!?」
「大切なことです」
「おろしてください烏丸先生!!」
「よくできました」
杖が下がる。
奎星の身体はゆっくりと下降し、ベッドの上へ戻った。
マットレスが沈む。
奎星はしばらく固まっていた。
額には汗が浮かんでいる。
やがて。
「…………す」
「す?」
「すげえ……!」
目が輝いた。
さっきまでの恐怖はどこへやら。
「今の何!? 浮いた! 俺浮いたよな!?」
「浮かせました」
「俺にもできんの!?」
「あなたも昨日、物を浮かせたでしょう」
「あ、ああ……」
奎星は自分の両手を見た。
先ほどまで胡散臭いだけだった言葉が、急に形を持ち始める。
魔法。
その二文字が、初めて現実として胸に落ちた。
「魔法は物を浮かせるだけではありません」
スズメは杖をしまった。
「物を変化させる。消失させる。姿を変える。傷を癒す。記憶に干渉する。そして――」
一拍。
「人を攻撃することも、爆発を起こすこともできます」
奎星が顔を上げた。
「爆発?」
「……」
「爆発!?」
「なぜそこにだけ食いつくのです」
「できんの!? 俺にも!?」
「最もあなたには教える気がなくなりました」
「なんでよ! 教えてよ!」
「では、入学する意思があると?」
「うっ」
奎星は腕を組んだ。
学校。
勉強。
規則。
教師。
寮。
嫌いな単語ばかりだ。
頭の中で天秤が揺れた。
片方に自由。
片方に爆発。
かなり悩んだ。
そして、もっと重要な問題に気づいた。
「……ご飯は?」
「は?」
「ご飯、出る?」
スズメは数秒黙った。
「出ます」
「何食?」
「朝昼晩の三食です。あなたは十七歳ですから、上級課程第二学年への編入となり、寄宿舎で生活していただきます」
「三食?」
「はい」
「無料?」
「学費その他については魔法教育制度による補助があります。少なくとも食費をその場で払う必要はありません」
「行きましょう」
「決断が軽い」
「俺、昔から教育には興味あったんだよね」
「三十秒前まで学校が嫌いだと言っていました」
「人は成長するものだから」
「あなたの場合は空腹でしょう」
「それも人を成長させる」
スズメは額を押さえた。
「……では、明朝お迎えに上がります。必要最低限の荷物をまとめておいてください」
「明朝?」
「はい」
「明日の朝!?」
「明朝というのは一般的に明日の朝を意味します」
「急すぎんだろ!」
「昨日手紙を送りました」
「捨てたけど」
「だからでしょう」
奎星は頭を抱えた。
「親になんて言うんだよ。『俺、魔法使いなんで転校します』って?」
「ご両親には私から説明いたします」
「納得するわけねえじゃん」
スズメは窓辺へ歩いた。
「それは明日のお楽しみということで」
「その言い方怖いんだけど」
彼女の身体が白い煙に包まれた。
ぼん。
一羽の鴉が窓枠に立っていた。
「おお……」
奎星が近づく。
「なあ」
「カァ」
「やっぱ鴉って食え――」
「カァァッ!」
嘴で額をつつかれた。
「痛っ!」
鴉は夜空へ飛び立った。
黒い翼は街灯の光を横切り、やがて闇へ溶けた。
奎星はしばらく窓の外を眺めていた。
それから机へ戻る。
進路希望調査が目に入る。
第一志望 海賊。
奎星は鼻で笑った。
「魔法使い、か……」
その夜。
なぜだか寝付くまで、少し時間がかかった。
*
翌朝。
「昨日さあ」
食パンをかじりながら奎星は言った。
父が新聞から目を上げる。
母が味噌汁を飲む。
「変な夢見た」
「どんな?」
「おかっぱ頭の女が夜中に部屋来てさ」
「うん」
「鴉から人間になって」
「うん」
「魔法学校入れって」
父が頷いた。
「疲れてるな」
「だよな」
母も頷いた。
「スマホ見すぎよ」
「だよな」
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「あら、誰かしら」
母が立ち上がり、モニターを見る。
そして首を傾げた。
「奎星」
「ん?」
「こんな感じの方?」
奎星は食パンを口にくわえたまま画面を覗いた。
紺色の長衣。
揃った前髪。
無表情。
昨夜の女が、玄関前に立っている。
奎星の口からパンが落ちた。
「スズメちゃんだ……」
モニター越しに、
「烏丸先生です」
と聞こえた。
奎星は凍った。
「聞こえてんの!?」
数分後。
烏丸スズメは蓮根家の居間にいた。
「朝早くから失礼いたします。国立魔法学校マホウトコロ教員の烏丸スズメと申します」
畳に正座し、深々と頭を下げる。
昨日とは別人のように礼儀正しい。
母は頬に手を当てた。
「あらまあ」
父も頷いた。
「どうもどうも」
「あらまあまあ。可愛らしい先生ねえ」
「恐縮です」
「お茶飲みます?」
「お気遣いなく」
「羊羹もあるわよ」
「では少しだけ」
「馴染むなよ!」
奎星が叫んだ。
母が振り返る。
「何よ朝から」
「ちょっと待てって父さん母さん! こんな怪しいやつ家に入れんの!?」
「怪しくありません」
スズメは湯呑みを持ったまま答えた。
「国立魔法学校マホウトコロの教員です」
「その肩書きが怪しいんだよ!」
父が新聞を畳んだ。
「で、魔法って何なんです?」
「昨日教えたでしょう」
「俺じゃねえよ!」
スズメは両親へ向き直った。
「単刀直入に申し上げます。息子さんには魔法使いとしての素質があります。正確には、二日前に魔力が覚醒しました」
母が目を丸くした。
「まあ」
父も目を丸くした。
「へえ」
「反応薄っ!」
「そういえば」
父が腕を組んだ。
「奎星が最近、妙なことばっかりするなあとは思ってたんだ」
「納得すんなよ父さん!」
「醤油飛ばしてたし」
「見てたの!?」
「見てた」
「止めろよ!」
母が「あ」と声を上げた。
「そういえば私、小さいころ、お母さんから魔法がどうとか聞いたことある気がするわ」
スズメの表情がわずかに変わった。
「お母様というのは、蓮根八重子さんでしょうか」
居間が、少しだけ静かになった。
奎星の指が止まった。
「……ばあちゃん?」
「はい」
スズメは静かに頷いた。
「蓮根奎星君の祖母、蓮根八重子さんは、かつてマホウトコロに在籍していた魔女です」
「え」
奎星は笑いかけて――笑えなかった。
「ばあちゃんが?」
「記録に残っています」
母が懐かしそうに目を細める。
「あら……だからあの話、本当だったのね」
「何、母さん知ってたの?」
「子どものころよ。杖で空を飛んだとか、お城みたいな学校にいたとか。てっきり昔話だと思ってたわ」
八重子。
十六歳の冬まで、この家にしょっちゅう遊びに来ていた祖母。
奎星に小遣いを渡しては母に怒られ。
ゲームの操作を覚えようとしては三分で諦め。
最後に病室で会ったときも、痩せた手で奎星の頬をつまんだ。
――奎星も、やりたいこと見つけな。
何気ない言葉だった。
遺言だと気づいたのは、それから数日後だった。
奎星はテーブルの木目を見つめた。
スズメの声が続く。
「魔力が必ず子へ受け継がれるとは限りません。ご両親には発現せず、隔世的に奎星君へ受け継がれたのでしょう」
母が残念そうに口を尖らせた。
「私も魔法使いたかったわぁ」
奎星が顔を上げる。
「そこ!?」
「空飛びたいじゃない」
父が頷く。
「通勤楽そうだな」
「なんでそんな納得早いの二人とも!」
「だっておばあちゃんの話が本当だったならねえ」
「いやもっと疑おうよ! オレオレ詐欺とか心配になるレベルだよ!」
スズメは羊羹を一口食べた。
「美味しいですね」
「でしょ?」
「仲良くなるな!」
父がスズメを見る。
「それで、息子はどうなるんでしょう」
「魔力の制御を学ばせる必要があります。本人の了承は昨夜いただきましたので、マホウトコロ上級課程第二学年へ編入していただきたいと考えております」
「了承してねえよ! 三食出るって聞いただけ!」
「『行きましょう』とはっきり仰いました」
「証拠あんのかよ!」
スズメは袖から小さな巻物を取り出した。
指で叩く。
巻物から奎星の声が流れた。
『行きましょう』
奎星が固まる。
「録音!?」
「記録魔法です」
『俺、昔から教育には興味あったんだよね』
「消せぇぇぇ!」
父が吹き出した。
母は腹を抱えて笑っている。
スズメは何事もなかったように巻物をしまった。
「お父様、お母様」
姿勢を正す。
「息子さんを、我々の学校へ迎え入れてもよろしいでしょうか」
父と母は顔を見合わせた。
一秒。
二秒。
二人同時に言った。
「どーぞどーぞ」
「おい!」
母が笑う。
「こんなドラ息子でよければ」
「可愛い息子にドラ息子って言う!?」
父も頷いた。
「烏丸先生、ビシビシやってください」
「承知しました」
「承知すんな!」
「しばらくは学校の寄宿舎で生活していただきます。夏季、冬季、春季の休暇には帰省可能です」
「あら寂しくなるわねえ」
言いながら母の口元は少し笑っていた。
「ちょっと嬉しそうじゃね?」
「そんなことないわよ」
「目が笑ってんだよ」
「気のせいよ」
現在通っている高校については、「家庭の都合に伴う転居および転校」として処理されることになった。
魔法社会には、どうやら一般社会と折り合いをつけるための専門部署まであるらしい。
「転校は合ってるけどさ……」
一時間後。
奎星は玄関に立っていた。
背中には黒いリュック。
右手には大きな手提げ鞄。
足元は履き潰した黒いコンバース。
スズメが荷物を見る。
「多くありませんか」
「必要最低限」
「何が入っているのです?」
「服」
「はい」
「漫画」
「置いていってください」
「無理」
「お菓子」
「置いていってください」
「もっと無理」
奎星は手提げ袋を抱きしめた。
「俺、魔法社会がどんなとこか知らねえんだぞ。向こうで心が折れたとき、これ食ってこっちの世界思い出すんだよ」
「ポテトチップスで?」
「のり塩を舐めんな」
「学校にも菓子くらいあります」
奎星が固まる。
「……あるの?」
「あります」
「じゃあ減らす」
「現金ですね」
スズメは家の外へ出た。
杖を取り出す。
「これから移動に入ります。その前に、ご自宅周辺へ一時的な隠蔽結界を施します」
杖先が空をなぞる。
細い光が走った。
風もないのに、家の周囲の木々がざわめく。
光は糸となり、糸は円となり、蓮根家を包み込んだ。
外の道路を歩いていた人が、突然こちらを見なくなる。
車が通る。
誰も気づかない。
奎星は玄関先から道路を見た。
「……見えてない?」
「はい。この敷地内で多少奇妙なことが起きても、一般の方々からは認識されません」
「すげえ……」
スズメは空を見上げた。
「これより、ウミツバメに乗って学校へ向かいます」
「ウミツバメ?」
「はい」
「鳥?」
「来ますよ」
遠くの空に、黒い点があった。
点はゆっくり大きくなる。
奎星は目を細める。
「……あれ?」
さらに大きくなる。
「待って」
さらに。
さらに。
「でかくね?」
翼が太陽を隠した。
ばさり。
その一度の羽ばたきで、庭の草が一斉になびく。
巨大な鳥が空から降りてくる。
翼を広げれば、小型飛行機ほどある。
黒みを帯びた濃灰色の羽。
長い翼。
鋭い嘴。
つややかな目。
巨大なウミツバメは、家の前へ静かに着地した。
奎星の口が開く。
「でっか〜……!」
「声が間抜けです」
「いやこれ見て第一声カッコよくできる奴いないだろ!」
鳥が首を下げる。
背中には特殊な鞍が取り付けられていた。
スズメは慣れた様子で荷物を固定する。
「一般社会からは見えませんので、ご安心を」
「これ見えたらニュースだろ」
「『東京上空に巨大鳥、専門家も困惑』でしょうね」
「ちょっと見たいな」
「駄目です」
奎星が鞍へ足をかけたところで、スズメは両親へ向き直った。
深く頭を下げる。
「では、息子さんをお預かりいたします」
「よろしくお願いします」
父も頭を下げた。
母も続く。
奎星はウミツバメの背中に跨がった。
家を見る。
見慣れた玄関。
植木鉢。
母が選んだ妙に可愛い表札。
父が休日に洗う古い車。
昨日まで、明日も明後日もここにいると思っていた。
「……じゃ、行ってくる」
ぶっきらぼうに言った。
母が笑った。
「奎星」
「ん?」
振り返る。
母は何も言わず、腕を広げていた。
「…………」
奎星は顔をしかめた。
「いや、いいってそういうの」
母は腕を広げたまま。
「高校生だぞ俺」
母は動かない。
「十七だぞ」
動かない。
「……はあ」
奎星はウミツバメから降りた。
ゆっくり歩く。
そして母の腕の中に入った。
思ったより強く抱きしめられた。
柔軟剤の匂いがした。
小さいころから変わらない匂いだった。
「体に気をつけるのよ」
母の声だけが、少し震えていた。
「……ありがと、母さん」
父が近づく。
奎星が身構える。
「父さんはいいって」
「なんでだ」
「男同士じゃん」
「関係あるか」
父にも抱きしめられた。
「烏丸先生の言うことをちゃんと聞くんだぞ」
「俺が聞かないの知ってるだろ」
「知ってるから言ってるんだ」
「なるほど」
父の背中を軽く叩く。
離れる。
玄関の横に、祖母が昔くれた小さな木札が掛かっていた。
交通安全。
八重子の字で、裏にひと言だけ書いてある。
好きに生きろ。迷惑だけはほどほどに。
奎星はそれを一瞬見た。
――奎星も、やりたいこと見つけな。
病室の声が、ふいに蘇った。
「……ばあちゃんさ」
両親が見る。
奎星は木札から目を離した。
「いや。なんでもね」
もう一度、巨大な鳥の背へ乗る。
今度は振り返らなかった。
「行きますよ」
スズメが前に座る。
「落ちたりしない?」
「落ちません」
「絶対?」
「たぶん」
「たぶん!?」
巨大なウミツバメが翼を広げた。
「ちょ、心の準備――」
地面が離れた。
「うおおおおおおおおおおっ!?」
一気に家が小さくなる。
風が顔を打つ。
屋根。
電柱。
道路。
街。
それらすべてが、みるみる足元へ沈んでいく。
奎星は慌てて鞍を掴んだ。
「速っ! 怖っ!」
「前を見てください」
「無理無理無理! これシートベルトとかないの!?」
「魔法で固定されています」
「先に言えよ!」
「聞かれませんでしたので」
「性格悪いな先生!」
「よく言われます」
雲を抜ける。
突然、世界が青くなった。
眼下には街。
その向こうには、陽を受けて光る海。
家も学校も、昨日まで自分のすべてだと思っていたものが、どんどん小さくなっていく。
奎星は口を閉じた。
風だけが耳を鳴らした。
父と母の姿は、もう見えない。
やがて街そのものが地平の霞へ溶けていった。
「……スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「マホウトコロって、どんなとこ?」
スズメは少しだけ振り返った。
初めて。
ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「あなたが想像しているより、ずっと面倒なところですよ」
「帰っていい?」
「もう遅いです」
「マジかよ」
ウミツバメは南へ向かう。
広大な海の向こう。
一般の地図には、ただ無人の火山島として記される場所。
その頂に。
白く透き通る羊脂玉で築かれた、古い宮殿があることを。
淡い桃色の魔法衣をまとった少年少女たちが、杖を手に空を駆けていることを。
そして、そのさらに地下深く。
何百年ものあいだ誰にも触れられなかったものが、
この朝。
ほんのわずかに、
目を覚ましたことを。
蓮根奎星は、まだ知らない。
十七年間、何ひとつやりたいことを見つけられなかった少年の人生は、
その日。
海の上で、
唐突に進路を変えた。