午後の授業が始まっても、蓮根奎星は教室へ戻らなかった。
闇の魔術に対する防衛術の教室を出たあと、自分がどこをどう歩いたのか、ほとんど覚えていない。羊脂玉でできた長い回廊を抜け、下級課程の子どもたちが駆けていく階段を避け、見知らぬ中庭を横切り、気づけば普段の生活では使わない校舎の裏手まで来ていた。
午後のマホウトコロは、いつもなら奎星の目を引くものに満ちている。頭上を飛んでいく箒、勝手に枝を刈る庭木、池の水面を歩く小さな魔法生物、廊下の角で喧嘩をしている肖像画。ほんの一か月前なら、その一つ一つに立ち止まり、誰かを捕まえては「あれ何?」と訊いていただろう。
今日は何も目に入らなかった。
腰には杖があった。
神代榊の木と、鬼火鳥の尾羽で作られた杖。あれほど気に入っていたのに、今は腰へ触れるたび、そこに刃物でも差しているような気分になる。
授業開始の鐘が鳴り、しばらくすると校舎のあちこちから教師の声が聞こえ始めた。奎星はそれに背を向け、行き先も決めないまま歩き続けた。
「蓮根君?」
後ろから穏やかな声をかけられたのは、古い渡り廊下を通り過ぎようとしたときだった。
奎星が振り返ると、久我朔弥が立っていた。濃灰色の長衣を着た長身の教師は、何冊かの本を片腕に抱え、いつもの人当たりのよい表情を浮かべている。しかし、奎星の顔を見た途端、その笑みはわずかに薄くなった。
「授業中では?」
「……うん」
「何かあったと聞きました」
奎星は答えなかった。
久我は少し距離を置いたまま、無理に近づこうとはしなかった。
「朝比奈君のことですか」
その名前を聞いた瞬間、奎星の喉の奥が縮んだ。
目の前に、さっきの光景が戻ってくる。
壁へ飛んでいく楓。その間へ飛び込んだ日向。鈍い音。床へ落ちた身体。泣きながら名前を呼ぶ楓。
「……先生」
奎星は俯いた。
「はい」
「悪いけど、一人にしてくれない?」
久我はしばらく彼を見つめていた。
いつもなら、奎星が「天才」と言われれば簡単に笑うことを、久我は知っている。少し褒めればすぐ胸を張り、難しい理論を理解できれば誰かに報告したがる。そんな少年が、今は顔を上げようともしなかった。
「分かりました」
久我は静かに答えた。
「今は、声をかけないほうがよさそうですね」
「……ごめん」
「謝る必要はありませんよ」
久我は一度だけ奎星の腰にある杖へ視線を落とし、それ以上何も言わずに歩き去った。
足音が遠ざかる。
奎星は再び歩き始めた。
誰にも見つかりたくなかった。
楓にも、岳にも、伊織にも会いたくなかった。日向がどうなったのか知るのが怖く、それなのに知らないままでいる自分にも嫌気が差した。
スズメにも会いたくなかった。
御影にも。
特に御影には、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
対人訓練を許可してくれた。一か月しか魔法を学んでいない自分に、ようやく人と杖を向け合う機会をくれた。それなのに、最初の日にこれだ。
「……最悪じゃん」
誰もいない道で、声が漏れた。
やがて奎星は、校舎の裏をずっと下った場所にある古い石段を見つけた。先は雑木林に隠れている。何も考えずに進むと、石段は途中で途切れ、その先には苔の生えた低い石垣があるだけだった。
海もほとんど見えず、木々に遮られて校舎さえよく見えない。景色としては、この島でもかなり悪い場所だろう。
誰も来ない。
それだけでよかった。
奎星は石垣の前へ座り込み、両膝を抱えた。それから、ゆっくり杖を抜く。
夕方の薄い光を受けた神代榊は、いつもと何も変わらなかった。火傷の跡も、ひびもなく、握れば相変わらず指へ吸いつくように馴染む。
そのことが余計に嫌だった。
「……なんでだよ」
指で杖の表面をなぞる。
何度思い返しても、分からない。
あの瞬間、自分は魔力を出しすぎていなかった。一度目の敗北を分析して、楓の動きを見て、撃つ瞬間も落ち着いていた。御影に教わった通りだった。スズメと何百回も練習した出力だった。
それなのに。
「なんで、あんな……」
杖先から魔力が出た瞬間の感覚だけは、まだ手に残っている。
自分の魔法なのに、自分のものではないように膨れ上がった。
けれど、そんなことを誰かへ言ったら、言い訳に聞こえる気がした。
結果として杖を振ったのは自分だ。日向を壁へ叩きつける原因になった魔法を撃ったのも自分だ。
「結局、できなかったじゃん……」
御影の言葉を思い出す。
殺さずに止めるほうが難しい。
必要な力だけを使う。
それができる魔法使いになりたいと思ったばかりだった。
「御影先生、許可出してくれたのに」
奎星は膝へ額を押しつけた。
何のために一か月練習したのだろう。
大量の魔力を持っているから危険だと言われ、その危険をなくすために毎日訓練してきた。人形なら壊れても直せる。壁ならレパロで直る。
でも、人間は。
日向は。
修復呪文では直せない。
以前、スズメに訊いたことがあった。
死んだ人間は生き返らせられるのか。
できません。
あのときの淡々とした返事が、今になって恐ろしく思えた。
奎星は杖を握った。
以前なら、そこから何かができるという感覚が嬉しかった。今は違う。この小さな棒の先から、自分は何を出してしまうのだろう。
それが怖かった。
時間が過ぎた。
どれほど座っていたのか分からない。
夕方だった森は、いつの間にか夜へ変わっていた。木々の間から見える空は濃い藍色になり、虫の声が辺りを満たしている。
遠くで鐘が鳴った。
奎星はぼんやり顔を上げる。
夕食の鐘よりも後だ。
ということは。
「……補習」
スズメと約束していた時間は、とうに過ぎている。
奎星は力なく笑った。
「スズメちゃん、怒るかな……」
「怒っていますよ」
背後から声がした。
「うわっ!」
奎星が振り返る。
石段の上に、スズメが立っていた。
いつもの整った前髪は少し乱れ、肩で息をしている。小柄な身体を包む濃紺の教員用魔法衣にも、森を歩いたせいなのか枯葉が一枚ついていた。
奎星は目を丸くした。
これまで、どんなことが起きても表情をほとんど崩さない女だった。そのスズメが、息を切らしている。
「……走ってきた?」
「走っていません」
明らかに走っていた。
「汗かいてるけど」
「暑いので」
六月末の夜である。
「髪もぐちゃぐちゃ」
「あなたを探していたら風に吹かれました」
「……探してた?」
スズメは返事をせずに石段を下りてくると、奎星の前で立ち止まった。眉を寄せている。怒っている顔だ。
「補習を無断で欠席するとは、どういうつもりですか」
いつもと同じ口調だった。
奎星は少しだけ安心した。
だから、下を向いた。
「……ごめん」
その声を聞いた瞬間、スズメの表情が変わった。
普段なら「次から気をつけてください」と続けるところだった。今日は言わなかった。
代わりに、奎星の隣へ腰を下ろす。
「朝比奈君のことですか」
奎星の指が、杖の周りで強く閉じた。
「……日向に怪我させたんだ」
スズメは何も言わない。
「俺が撃った」
「はい」
「ちゃんとやったつもりだったんだ。御影先生に教えてもらった通り、魔力も絞った。楓に勝ちたかったけど、吹っ飛ばしたいなんて思ってなかった」
声が少しずつ掠れる。
「でも、あんなの出た」
スズメは黙って聞いている。
「俺、何が駄目だったか分かんないんだよ」
それが一番怖かった。
失敗なら直せる。
奎星はこれまで、そうしてきた。強すぎれば弱くする。弱すぎれば足す。杖の振りが悪ければ直す。軌道が違えば変える。失敗の理由を見つければ、次は変えられる。
けれど、今日の失敗には理由がない。
少なくとも、自分には分からない。
「またやったらどうしよう」
スズメが奎星を見る。
彼は自分の杖を見たままだった。
「次は日向じゃなくて、楓かもしれない。岳とか伊織かもしれないし、スズメちゃんかもしれない」
初めて、その声に明確な恐怖があった。
「……俺、もう魔法使いたいのか分かんない」
奎星は笑おうとした。
失敗した。
「自分が怖い」
スズメは、「大丈夫ですよ」とは言わなかった。「あなたのせいではありません」とも、「事故ですから忘れましょう」とも言わなかった。
その代わり、ゆっくり立ち上がった。
「蓮根君」
「ん?」
「悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか」
奎星が顔を上げた。
「……何それ」
「ここは趣味が悪すぎます」
周囲を見る。苔、木、暗い石垣。確かに景色はよくない。
「一人になりたいって思って歩いてたら、ここになった」
「あなたらしいですね」
「悪口?」
「感想です」
スズメは小さく手招きした。
「来てください」
「どこ?」
「秘密です」
「スズメちゃんが秘密とか言うと怖いんだけど」
「置いていきますよ」
「行く」
奎星は立ち上がった。
スズメが連れていったのは、本校舎の裏側だった。
普段、生徒たちが使う道から外れ、古い石造りの階段を上っていく。途中には蔦に覆われた小さな門があり、その先はさらに狭い道になっていた。
「こんなとこあったんだ」
「ほとんど使われていませんから」
「立入禁止?」
「正式には違います」
「先生だけ入っていい?」
「そういうわけでもありません」
「じゃあ俺来てもよかった?」
「見つけられれば」
スズメは杖先へ小さな光を灯した。
「ルーモス」
光に照らされた石段は、ところどころ欠けている。奎星も杖を出しかけたが、手が止まった。
スズメは気づいていた。
けれど何も言わず、自分の光だけで前を照らした。
道の終わりに、古い塔があった。
本校舎より高い場所に建てられた、細身の石造塔である。外壁は潮風に晒されて白く褪せ、円形の屋根の一部は崩れかけていた。
「昔、天体と魔力潮汐を観測するために使われていた塔です」
「魔力潮汐?」
「魔力にも、地域や時間による僅かな変動があります。詳しくは高等魔法理論で習ってください」
「今聞きたい」
「今日は授業ではありません」
「珍し」
スズメが古い扉を開く。
中には螺旋階段が続いていた。
二人は黙って上っていく。階段は思った以上に長く、奎星は途中で何度も「まだ?」と訊いた。そのたびにスズメは「もう少しです」と答えたが、三度目には「あなたは体力までありませんね」と付け加えた。
「スズメちゃん、こんなとこ一人で来てたの?」
「学生の頃は」
「何歳?」
「中級課程の頃からです」
「悩みとかあったんだ」
スズメが振り返った。
「私を何だと思っているのですか」
「歴史と古代魔術以外には動じない生物」
「失礼ですね」
「今日走って俺探してたじゃん」
スズメが前を向く。
「走っていません」
「まだ言うの?」
「着きました」
誤魔化した。
塔の最上部にある重い扉を開いた瞬間、奎星は言葉を失った。
島が、全部見えた。
眼下には、羊脂玉で築かれたマホウトコロの校舎が月明かりを浴びて淡く輝いている。いくつもの屋根と回廊が山の形に沿って連なり、窓には夜の灯りが小さく点っていた。
少し離れたところには寮。さらに下には着陸場があり、巨大なウミツバメの影が何羽も身体を寄せて眠っている。
そのすべてを囲むように、海があった。
夜の海。黒に近い濃紺の水面へ月の光が一本の道を作り、遥か水平線まで伸びている。
頭上には星。
東京では見たことがないほど多かった。
奎星はしばらく何も言えなかった。
「……すげえ」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「でしょう」
スズメが手すりの近くへ歩く。
「学生だった頃、よくここへ来ていました」
「スズメちゃんも授業サボって?」
「サボってはいません」
「そこは真面目なんだ」
「あなたと一緒にしないでください」
塔の床には、昔の観測器具がいくつか残っていた。青銅製の輪、星座盤、方角を示す古びた羅針儀。二人は壊れかけた長椅子へ腰を下ろした。
海から吹き上げる風が、スズメの黒髪を揺らす。
「誰か連れてきたことある?」
奎星が訊いた。
「ありません」
「先生とか友達にも?」
「はい」
奎星が横を見る。
「じゃあ俺、初めて?」
「そうなりますね」
スズメは海を見たまま答えた。
何でもないことのように。
けれど、奎星には少しだけ意味のあることに聞こえた。
「……そっか」
さっきまでとは違う沈黙が流れた。
嫌ではなかった。
遠くで、大食堂の鐘が小さく聞こえる。
奎星は再び杖を取り出した。
今度も、魔法は使わない。
ただ、膝の上へ置く。
「スズメちゃん」
「はい」
「さっきの話」
「はい」
「俺、本当に自分が怖いんだ」
スズメはしばらく海を眺めていた。
そして、静かに口を開いた。
「私は、人の記憶を失わせたことがあります」
奎星が横を向く。
スズメの横顔は静かだった。けれど、普段の無表情とは違う。遠いものを見る顔だった。
「魔法省記録局にいた頃のことです」
奎星は息を止める。
あの日、理由を訊いても教えてくれなかった。一年で記録局を辞めた理由。
「私には、十歳上の先輩がいました。非常に優秀な人で、古代魔術に関しても私より知識があった」
スズメの指が、膝の上で組まれる。
「記録局には、現代では正しい使用法の分からない魔法具や巻物も保管されています。もちろん、勝手に使用することは禁止されていました」
「……使ったの?」
「はい」
スズメは否定しなかった。
「正確には、研究目的として上司から閲覧許可を得ていた巻物を、先輩と私が許可された区域の外へ持ち出しました」
「何の魔法?」
「記憶に関わる古代魔術です」
スズメの声が、少しだけ低くなる。
「当時の私たちは、その術を『記憶を失わせる魔法』だとは考えていませんでした。記憶を一時的に外部へ写し取り、別の媒体へ保存するための技術ではないかと推測していたのです」
「それって……記憶を取り出す?」
「そうです」
古い巻物。欠けた術式。読めない文字。残された数少ない記録。
二人の研究者は、それらを繋ぎ合わせた。
理論上、成功するはずだった。
「検証には、人間の魔力反応が必要でした。協力してくれたのは、記録局へよく出入りしていた一人の少女です」
スズメは目を閉じた。
「彼女も魔法使いでした。危険なことをするつもりはなかった。私たちも、危険だとは思っていなかった」
そこで一度、言葉が止まる。
「けれど、失敗しました」
術式が発動した瞬間、少女は倒れた。
目を覚ましたとき、家族の名前は覚えていた。自分の名前も、学校も、魔法の使い方も。
けれど、いくつかの記憶だけが抜け落ちていた。
幼い頃に母親と見た祭り。初めて箒へ乗った日。親友と出会った日のこと。
思い出そうとしても、何もない。
写真を見ても、それが自分の記憶だと感じられない。
「治療は?」
奎星が小さく訊く。
「しました」
スズメは答えた。
「魔法省の医療部門も。聖マンゴの研究者にも照会しました。記憶修復を専門とする術者にも診てもらいました」
「戻った?」
長い間、スズメは答えなかった。
やがて、首を振る。
「戻りませんでした」
奎星の胸の奥が重く沈んだ。
「事故のあと、私は報告書を書きました」
スズメは続ける。
「なぜ事故が起きたのか。どの文献解釈が誤っていたのか。どの手順に問題があったのか。なぜ持ち出しを止められなかったのか。再発を防ぐにはどうすべきか」
記録局の職員として、完璧に。できる限り正確に。感情を抜いて、何度も書き直した。
「上司からは、よくできていると言われました。報告書をもとに保管規則も変わり、同じ形式の事故は、それ以来一度も起きていません」
「じゃあ……」
「ええ」
スズメは微かに笑った。悲しい笑い方だった。
「記録としては、完璧でした」
風が吹く。
その声だけが、少し揺れた。
「でも、どれほど正確に原因を書いても、どれほど優れた再発防止策を書いても、その子の記憶は戻らなかった」
奎星は何も言えなかった。
「私は記録することが好きでした」
スズメは夜の校舎を見る。
「昔の人が何を考え、何をして、何を間違えたのか。それを残せば、未来の人は同じ失敗をしなくて済む。そう信じていましたし、今もその考え自体は間違っていないと思っています」
「じゃあ、なんで辞めたの?」
「記録するだけでは、足りないと思ったからです」
スズメは奎星を見る。
「何かが起きてから、それを正確に書くことはできます。ですが、私はあの事故のあと、起きる前に止める側へ行きたいと思うようになりました」
「それで先生?」
「はい」
生徒が危険な魔法へ手を出す前に。才能の使い方を間違える前に。知らないから失敗するのなら、知識を渡す。力を扱えないなら、扱えるまで教える。
「だからマホウトコロへ戻りました」
奎星はスズメの顔を見ていた。
初めて会った夜。
危険だから学校へ来い。魔法の使い方を教える必要がある。
あの言葉が、今は全く違って聞こえる。
「スズメちゃん」
「はい」
「その事故のあと、古代魔術やめようと思わなかった?」
スズメは一度、膝の上の自分の手を見る。
「思いました」
あっさりとした答えだった。
「巻物を見るのも嫌でした。記録局を辞めた後、半年ほどは古代魔術の本も開けなかった」
「じゃあなんで今、第零書庫に入れるほど研究してんの?」
海の匂いを含んだ風が、二人の間を通る。
「怖かったからです」
奎星が眉を寄せる。
「怖いのに?」
「怖いものを、怖いまま分からないものにしておくほうが嫌だった」
スズメの声は静かだった。
「私が逃げても、その魔術は消えません。巻物も残る。いつか別の誰かが見つける。そのとき、私が知っている失敗を伝えられなければ、本当に同じことが起こるかもしれない」
「……」
「だから戻りました。最初から勉強し直して、資格を取り、研究を再開して、今は第零書庫への入庫を許されています」
スズメの目が、奎星の杖へ落ちる。
「私は今でも、あの日のことを忘れていません」
「忘れられない?」
「忘れてはいけないと思っています」
奎星の指が、杖の上で動く。
「忘れなかったら、辛くない?」
「辛いですよ」
それも、簡単に認めた。
「でも、辛いことと、前へ進めないことは同じではありません」
奎星は顔を上げる。
スズメは、慰めるような笑顔を浮かべていなかった。いつもの、少し真面目で、少し口うるさい教師の顔だった。
「今日、何が起きたのかは調べる必要があります。あなたの魔法がなぜあれほど増幅したのか、私にもまだ分かりません」
奎星の目が僅かに動く。
初めて、誰かがそこを否定しなかった。
「でも」
スズメは続ける。
「理由が何であれ、朝比奈君が怪我をした事実は消えません」
「……うん」
「あなたが杖を振ったことも」
「うん」
「だから、怖いなら怖がってください」
奎星がスズメを見る。
「無理に今日、また杖を振る必要はありません。でも、怖いという理由だけで全部捨てるかどうかは、今日決めなくてもいいと思います」
少しだけ、声が柔らかくなる。
「蓮根君は、失敗したら原因を探すでしょう」
「……いつもは」
「では今回も同じです」
「見つかんなかったら?」
「一緒に探します」
即答だった。
奎星は何も言えなくなった。
スズメは「一緒に」と言った。
教師だから、きっと、それだけなのかもしれない。
けれど今は、その一言で十分だった。
奎星は杖を握り直した。
もう怖くないわけではない。むしろ、怖さは変わらない。日向が倒れた光景だって、たぶんしばらく忘れられない。
それでも。
「……明日」
「はい」
「日向んとこ、謝りに行く」
スズメが頷いた。
「それがいいですね」
少し間を置いてから、スズメは尋ねた。
「ついていきましょうか?」
奎星は考えた。
すぐに首を振る。
「いや」
「そうですか」
「これは俺一人でやらなきゃいけない気がする」
スズメは奎星の横顔を見る。
一か月前、食事が三食出るというだけで入学を決めた少年。面倒なことは何でも後回しにし、進路希望へ海賊と書いた少年。
その少年が今、逃げずに、自分で行くと言った。
「分かりました」
スズメはそれ以上何も言わなかった。
奎星は海を見る。
遠く、寮の灯りが見える。そのどこかに、岳と伊織がいる。医務室には、日向と楓がいる。
「……なあスズメちゃん」
「何ですか」
「いつかさ」
奎星は少し迷ってから言った。
「俺のこと、第零書庫に連れてってよ」
スズメの眉間に皺が寄る。
「なぜそうなるのですか」
「だって」
奎星はスズメを見る。
「スズメちゃんがそこまでして見てるもの、俺も見たい」
「…………」
「古代魔術」
「危険だから入庫制限があると、今の話を聞いて理解しませんでしたか?」
「理解したよ」
「では」
「だから勉強する」
スズメの言葉が止まる。
奎星は少し笑った。いつもの馬鹿っぽい笑い方に、ほんの少しだけ戻っていた。
「スズメちゃんが『こいつなら見ても大丈夫』って思えるくらい、いっぱい勉強するから」
「随分先になると思いますよ」
「百年?」
「そこまでは」
「じゃあ可能性あるじゃん」
「なぜそこだけ前向きなのですか」
奎星は笑う。
スズメも、少しだけ笑った。
「で、第零書庫ってどこにあんの?」
「教えません」
「地下?」
「教えません」
「校長室の後ろ?」
「違――」
スズメが止まる。
奎星の目が輝いた。
「今、違うって言った!」
「言っていません」
「言ったよ!」
「忘れてください」
「じゃあ校長室じゃないんだ」
「蓮根君」
「入口に鍵ある?」
「教えません」
「アロホモラで開く?」
「開きません」
また、スズメが止まった。
奎星がにやりと笑う。
「はい、二個目」
「……あなた、こういうときだけ頭が回りますね」
「俺、理論の理解速いらしいから」
「久我先生に褒められたことを都合よく使わないでください」
奎星はさらに身を乗り出す。
「じゃあ鍵じゃないなら、合言葉?」
「違います」
「杖?」
「…………」
「杖なんだ?」
「もう何も答えません」
「でも九重院先生とスズメちゃんしか入れないんだろ?」
「はい」
「同じ杖使ってるわけじゃない」
スズメの顔が、ほんの少し嫌な予感を覚えた顔になる。
「じゃあ、入口が人を見てんの?」
「…………」
「スズメちゃん」
「何ですか」
「もしかして、スズメちゃん自身が鍵?」
沈黙。
海風が吹く。
奎星の前髪が揺れる。
スズメはじっと彼を見た。
「……半分だけ」
「当たった!」
「しまった」
珍しく、本当に口を滑らせた顔だった。
奎星は嬉しそうに笑う。
「半分って何!?」
「これ以上は絶対に教えません」
「魔力認証? 指紋? 血?」
「帰りますよ」
スズメが勢いよく立ち上がる。
「待って、あとちょっと!」
「駄目です」
「じゃあ一個だけ! 入口って普通に歩いて行ける?」
「知りません」
「知ってるだろ!」
「今の会話は全部忘れてください」
「無理!」
「忘却術を使いますよ」
「さっき記憶失くした話した直後にそれ言う!?」
スズメの足が止まった。
一瞬、二人とも黙る。
そして、スズメが先に笑った。
小さく、堪えきれなかったように。
奎星も笑った。
さっきまで膝を抱えていた少年の笑い声が、古い観測塔の上へ広がっていく。
何も解決してはいない。
日向はまだ目を覚ましていない。明日になれば、奎星は医務室へ行かなければならない。自分が撃った魔法と、もう一度向き合わなければならない。
それでも、塔を下りるとき、奎星は杖を腰へ戻した。
捨てなかった。
スズメはそれを見た。
何も言わない。
ただ、螺旋階段を下りる前に、ほんの少し歩調を緩めた。
奎星が隣へ追いつけるように。
二人は並んで、暗い階段を下りていった。