マホウトコロ   作:西野圭吾

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第8話 雨に消える叫び

二〇二七年六月十四日、夜。

 

 蓮根奎星が寮の部屋へ戻ったとき、消灯まではまだ少し時間が残っていた。夕食には結局間に合わず、最後の取材が終わった頃には、大食堂の長机からほとんどの生徒が消えていたのである。清弦について同じような質問を何度も繰り返され、そのたびに似たような答えを求められた。帰る頃には、頭の中まで誰かに撫で回されたように疲れていた。

 

 天ぷらが一人分だけ残してくれていた夕食を、奎星は一人で食べた。冷めないよう魔法を掛けてあった味噌汁と、焼き魚と、白い飯。どれもまずくはなかったし、腹も減っていたから、箸は自然に動いた。

 

 それでも、食堂は妙に広かった。

 

 いつもなら向かいで日向が人の皿へ箸を伸ばし、楓がそれを叩き、岳が自分の分を食べ終えてから他人の残りを見て、伊織が呆れた顔で本を閉じる。誰かが喋り、誰かが笑い、誰かが余計なことを言って、食事の時間はいつの間にか過ぎていく。

 

 今日は、椅子が空いていた。

 

 別に、一人で飯を食えないわけではない。東京にいた頃は家族と食べることもあったが、一人で適当に済ませる日もあった。マホウトコロへ来たばかりの頃だって、他の生徒から離された部屋で、一人で食べるはずだった。

 

 なのに今は、空いた椅子の向こう側まで、やけに遠く感じられた。味噌汁を啜る音も、箸が茶碗の縁へ触れる音も、ひとつひとつが妙に鮮明で、まるで自分だけが食堂から取り残されているようだった。

 

 食べ終わってから、奎星は寮へ戻った。

 

 扉を開けると、伊織の声が聞こえた。

 

「だから、必要な勉強がこれで」

 

「多くね?」

 

 日向がすぐに返す。

 

「採用なら面接もあるみたいだよ」

 

「面接?」

 

「あるでしょ」

 

「俺、喋んの得意」

 

「君の場合、喋らない方が通る可能性もある」

 

「何でだよ!」

 

 部屋の中央に、三人が集まっていた。伊織の机には何冊もの進路資料が広げられ、日向は椅子を逆向きに跨いでいる。岳は自分の机から持ってきたらしい菓子を食べながら、一枚の資料をじっと読んでいた。

 

「岳はまず」

 

 日向が岳を見る。

 

「飯以外の話できるようになんないと駄目だぜ」

 

 岳が顔を上げた。

 

「できる」

 

「例えば?」

 

「魔法生物」

 

「お」

 

「あと飯」

 

「戻った!」

 

「二個ある」

 

「一個半だろ!」

 

「クィディッチしか喋れない人に言われたくないと思うけど」

 

 伊織が淡々と言った。

 

「俺は他にも喋れるよ」

 

「何?」

 

「箒」

 

「同じ分野だよ」

 

「女の子」

 

「面接でやめた方がいいね」

 

「何でだよ!」

 

 そのとき、日向が扉の前に立つ奎星へ気づいた。

 

「お」

 

 にやりと笑う。

 

「英雄様のご帰還だ」

 

 奎星は靴を脱ぎながら、日向を見た。

 

「うるせえ」

 

 それだけ言って、鞄を自分の机の横へ置く。制服の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。

 

「何だよ」

 

 日向が少し拍子抜けした顔になる。

 

「今日は『おう』じゃねえの?」

 

「疲れた」

 

「取材?」

 

「うん」

 

 机の上には、朝置いたままの《職業研究》があった。白い紙が、部屋の明かりを吸い込むようにして置かれている。奎星はそれを見ないようにした。

 

「何聞かれた?」

 

 日向が訊く。

 

「清弦」

 

「また?」

 

「また」

 

「お前より忙しいな、清弦」

 

「死んでんのにな」

 

「失礼だろ」

 

「俺の先祖だよ」

 

「じゃいいのか?」

 

「知らん」

 

 岳が菓子を一つ口へ入れた。

 

「明日」

 

「ん?」

 

「俺、鷹司先生にまた聞く」

 

「魔法生物?」

 

「うん」

 

「何を?」

 

「仕事に必要なこと」

 

「へえ」

 

 岳はそれだけ言って、また資料へ目を落とした。その横で、日向も自分の紙を指で弾く。

 

「俺も早瀬先生から卒業生の連絡先もらえるかもしんねえ」

 

「プロの?」

 

「競技続けてる人。プロじゃない人もいるって」

 

「ふーん」

 

「学校出たあと、どうやって続けるか聞く」

 

「いいじゃん」

 

「だろ?」

 

 日向は笑った。

 

「で、お前は?」

 

「俺?」

 

「特別顧問」

 

「…………」

 

「明日も取材?」

 

 奎星は答えなかった。

 

 視界の端に、白い紙がある。そこには自分で書いた文字が残っていた。

 

《ちゃんと自分で動けること》

 

 その言葉が、紙の上からこちらを見返しているようだった。

 

 喉の奥に、何か小さなものが引っ掛かった。痛いわけではない。ただ、飲み込もうとしても消えず、そこにあることだけが分かる。

 

 何なのかは分からなかった。分からないからこそ、余計に気になった。

 

 そのとき。

 

 こん、こん。

 

 扉が鳴った。

 

「ん?」

 

 日向が振り返る。

 

 こん、ともう一度、小さな音がした。

 

「誰?」

 

 伊織が扉を開ける。

 

 廊下には誰もいなかった。伊織が視線を下げる。

 

「レンコン」

 

 天ぷらがいた。

 

「天ぷら」

 

 奎星が顔を上げる。

 

 紺色の作務衣を着た小さな身体。両耳がぴくりと動き、天ぷらは奎星を見つけると、満足そうに一度頷いた。

 

「ミカゲ、アサレン、ヤスミ」

 

「え?」

 

 奎星が聞き返す。

 

「明日?」

 

 天ぷらが頷いた。

 

「朝練なし?」

 

「ヤスミ」

 

「マジ?」

 

「ミカゲ、ヨテイ」

 

「御影先生、予定あんの?」

 

「ヨテイアルッテ」

 

「何?」

 

 天ぷらは少し考えた。

 

「ワカラン」

 

「何の予定?」

 

「イッテモワカランッテ」

 

 奎星の眉が寄った。

 

「む、むかつく!」

 

「何で伝言で怒ってんだよ」

 

 日向が笑う。

 

「絶対御影先生だろ、それ!」

 

「ミカゲ、イッテタ」

 

「ほら!」

 

「伝わってんじゃん」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

「レンコン、ツタエタ」

 

「ありがと」

 

「ウン」

 

 天ぷらは役目を終えると、ぺこりと頭を下げた。

 

「オヤスミ」

 

「おやすみ」

 

「おう」

 

 小さな足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。ぺた、ぺた、と床を踏む音が消えるまで、伊織は開いた扉の向こうを見ていた。

 

「…………」

 

「何?」

 

 奎星が訊く。

 

「いや」

 

 伊織は扉を閉めた。

 

「天ぷら」

 

「うん」

 

「御影先生のことは、ミカゲってちゃんと言えるんだね」

 

 奎星も、日向も、そこで止まった。岳が菓子を噛む音だけが、妙に大きく響いた。

 

「スズメちゃんはトリマルなのに」

 

「烏丸先生ね」

 

 伊織が言う。

 

「何でお前が直すんだよ」

 

「最近聞きすぎて」

 

「本人いないぞ」

 

「習慣」

 

「こわ」

 

 日向が吹き出した。

 

 いつもなら、奎星ももう少し笑っていたはずだった。けれど、その夜は口元をわずかに動かしただけだった。

 

 伊織が、それを見ていた。

 

 笑い声が落ち着くのを待ってから、静かに尋ねる。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「どうしたの」

 

「何が?」

 

「さっきから」

 

 奎星は自分の机へ目を向けた。白い職業研究の紙が、そこにある。何も書かれていない。

 

 今日、教室を出ていった四人の背中が浮かんだ。楓は教育管理局、岳は魔法生物、日向はクィディッチ、伊織は術式解析官。まだ誰も将来を決めてはいない。それでも、明日何をするかは自分で決めていた。

 

 調べる。聞く。迷う。考える。

 

 そのために、まず動く。

 

「……俺」

 

 三人がこちらを見る。

 

「明日、魔法省行く」

 

「魔法省?」

 

 日向が訊いた。

 

「また写真撮影?」

 

「いや」

 

 奎星は首を横へ振った。

 

「ちょっと、あの仕事のこと考え直させてくれって言う」

 

 日向の顔が固まった。

 

「はぁ!?」

 

 椅子が大きく鳴り、日向が立ち上がる。

 

「なんで! めっちゃ金もらえんだろ!?」

 

「声でけえ」

 

「だって!」

 

 岳も顔を上げた。

 

「高級料理」

 

「何?」

 

「たくさん食べられる」

 

「そうだけど!」

 

 奎星は思わず笑った。笑いながらも、胸の奥にあるものは消えなかった。

 

「そうだけどさ」

 

 言葉を探す。

 

「……ちょっとな」

 

「何が?」

 

「分かんねえ」

 

「分かんねえのに断るの!?」

 

「断るって決めたわけじゃない」

 

「じゃ何」

 

「考え直す」

 

「同じだろ!」

 

「違うだろ!」

 

「どこが!」

 

「違う!」

 

 日向は納得できない顔のまま椅子へ座り、腕を組んだ。

 

「ふーん。変なやつ」

 

「うるせえ」

 

「俺がプロになって、めっちゃ稼いで」

 

「うん」

 

「あとで『やっぱ金欲しかった』って言っても知らねえぞ」

 

「言わねえよ!」

 

「絶対言う」

 

「言わねえ!」

 

「そのとき俺が高級箒買ってても貸さねえからな」

 

「いらねえよ!」

 

「買ってやらねえ」

 

「最初から頼んでねえ!」

 

「スポンサーにもさせねえ」

 

「俺が金出す側じゃん!」

 

「うるせえ!」

 

「お前が始めたんだろ!」

 

 言い合っているうちに、奎星は笑っていた。さっきまで胸の内側にあった固いものが、少しだけほどけていく。

 

 日向は馬鹿みたいな顔をしている。岳はもう次の菓子を食べている。伊織は二人の喧嘩を眺めながら、ほんの少しだけ笑っていた。

 

 誰も、奎星の代わりに決めようとはしない。誰も、英雄だからこうしろとは言わない。金がもったいないとか、変なやつだとか、せいぜいそれくらいのことしか言わない。

 

 そのことに、奎星は自分でも気づかないまま、少し救われていた。

 

 消灯後、部屋が暗くなった。窓の外から、夜の海の音が聞こえる。日向は数分もしないうちに寝息を立て始め、岳も静かになった。伊織だけはしばらく本を読んでいたが、やがて灯りが消えた。

 

 奎星は目を閉じた。

 

 明日、ちゃんと言おうと思った。

 

 やりたいと言ったのは、自分だった。何も考えていなかったわけではない。面白そうだったし、嬉しかった。自分のためだけに仕事を作ると言われ、専用の部屋があると言われ、大臣に会える、海外へ行ける、試験もない、給料も高いと聞かされた。必要だと言われた。英雄だと言われた。

 

 嬉しかった。

 

 だから、自分が悪くないとは思わなかった。

 

 けれど、それと、これからどう生きたいかは、たぶん同じではない。

 

 暗闇の中で、奎星は寝返りを打った。明日は朝練もない。久しぶりにゆっくり眠れる。そう思うと、少しだけ気が楽になった。

 

 そのまま、眠りへ落ちた。

 

 *

 

 二〇二七年六月十五日。

 

 朝から、よく晴れていた。

 

 カーテンの隙間から差し込んだ光が、床へ細長い四角を作っている。いつもなら、その光を見る前に奎星は外へ出ている。四時台の空、眠っている校舎、まだ冷たい訓練場の空気、そして御影の「遅い」という声。

 

 けれど今日は、それがなかった。

 

 奎星が目を覚ましたのは、いつもよりずっと遅かった。身体の奥に残っていた疲れが、久しぶりに少し取れている。もう一度眠ろうとして、しかし学校があることを思い出し、のそのそと起き上がった。

 

 朝食を食べながらも、昨日決めたことは頭から離れなかった。

 

 魔法省へ行く。後藤と話す。自分が何を考えているのか、自分でもまだ全部は分からない。だからこそ、一度止める。止まって、考える。それを言う。

 

 朝食を終えると、奎星は立ち上がった。

 

「校長先生んとこ?」

 

 伊織が本から顔を上げる。

 

「うん」

 

「ちゃんと理由言えよ」

 

 日向が欠伸をしながら言った。

 

「分かってる」

 

「『人生について』とか言えば休ませてくれんじゃね?」

 

「ほっとけよ」

 

 そして奎星は校長室へと向かう。足取りは重い。

 

 扉の前で一度だけ息を吐き、こんこん、と叩く。

 

「どうぞ」

 

 穏やかな声がした。

 

「失礼します」

 

 扉を開けると、九重院紫苑が机の向こうで朝の書類へ目を通していた。銀色の髪、細い眼鏡、いつもの柔らかな顔。九重院は書類から顔を上げた。

 

「おはようございます、蓮根君」

 

「おはようございます」

 

「どうしました?」

 

「あの」

 

 奎星は少しだけ姿勢を正した。なぜか、九重院の前ではそうなる。御影相手なら椅子へ座る前から文句を言うし、真壁には机の書類を覗こうとする。スズメの研究室なら勝手に椅子を引く。

 

 けれど、九重院の前では、最初にここへ来た日から少し違った。校長だから、というだけではない気がする。

 

「今日」

 

「はい」

 

「一時間目、休んでいいですか」

 

 九重院が瞬きをした。

 

「理由を聞いても?」

 

「魔法省行きたい」

 

「今日ですか?」

 

「はい」

 

「何か予定が?」

 

「ないです」

 

「では、どうして?」

 

 奎星は一度、視線を落とした。

 

「後藤さんと話したい」

 

 九重院は何も言わず、待った。その沈黙が急かすものではないと分かっていたから、奎星は続けた。

 

「あの特別顧問の仕事」

 

「はい」

 

「俺、一回、考え直したくて」

 

 自分で言葉にすると、少し情けなく感じた。

 

「やりたいって言ったけど、なんか……ちゃんと決めたわけじゃなかったし」

 

 九重院は黙って聞いている。

 

「最近、授業も休んで。御影先生の授業も行けなかったし。スズメちゃんの補習もずれて」

 

「烏丸先生ですね」

 

「あ、はい」

 

 こんなときでも、そこだけは直るらしい。奎星は少し笑った。

 

「みんなは色々調べてんのに、俺、全然やってなくて」

 

「はい」

 

「だから」

 

 言葉を探す。

 

「一回、止めたい」

 

 九重院の目が、ほんの少し柔らかくなった。

 

「それを、ご自分で伝えに?」

 

「うん」

 

 言ってから、奎星は言い直した。

 

「あ、はい」

 

 九重院が小さく笑う。

 

「補習するから」

 

「補習?」

 

「一時間目の分」

 

「…………」

 

「駄目ですか?」

 

「いや」

 

 奎星は慌てて付け加えた。

 

「します。ちゃんと」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

「…………え?」

 

「行ってらっしゃい」

 

 奎星が目を丸くした。

 

「いいの?」

 

「はい」

 

「マジ?」

 

「ただし、学校から魔法省へ外出する旨だけ届けを出します」

 

「うん」

 

「後藤さんへの面会までは取り次ぎません」

 

「何で?」

 

「ご自分でお話しに行くのでしょう?」

 

 奎星は少し黙った。それから、頷いた。

 

「うん」

 

「でしたら、そこから先はご自分で」

 

 九重院は笑った。

 

「行ってきてください」

 

「ありがとうございます」

 

 そのとき、扉が開いた。

 

「校長、昨日の教育管理局からの──」

 

 高宮が書類を抱えて入ってくる。そして奎星を見る。

 

「…………」

 

「…………」

 

「何で蓮根がいるんです?」

 

「おはようございます」

 

「嫌な予感しかしない」

 

「何で!?」

 

「朝から校長室にいる蓮根に良い思い出がない」

 

「失礼だろ!」

 

「何です?」

 

「今日、一時間目をお休みするそうです」

 

 九重院が答えた。

 

 高宮の眉が上がる。

 

「はい?」

 

「魔法省へ行くそうですよ」

 

「はい!?」

 

 今度は奎星を見る。

 

「また広報ですか!」

 

「違うって!」

 

「では何です!」

 

「進路!」

 

「授業を休んで!?」

 

「補習する!」

 

「校長!」

 

 高宮が九重院へ振り返る。

 

「いいんですか、蓮根ばかり甘やかして!」

 

「いいんですよ」

 

 九重院は平然としていた。

 

「補習だってすると言っているのですから」

 

「そういう問題ですか!?」

 

「今日は、そういう問題です」

 

「校長!」

 

「高宮先生」

 

 九重院は少し楽しそうに笑った。

 

「彼は今から、自分で決めたことを、自分で話しに行くのですよ」

 

 高宮は言葉を失った。

 

「それを止めてまで一時間目へ座らせる必要は、私は感じません」

 

「しかし」

 

「戻ったら勉強します」

 

 奎星が言う。

 

「本当に?」

 

「する」

 

「誰と?」

 

「…………」

 

「今、止まりましたね」

 

「一人でも」

 

「怪しい」

 

「スズメちゃんとか」

 

「烏丸先生を当然のように巻き込まない!」

 

「じゃ高宮先生」

 

「何で私!」

 

「補習担当」

 

「嫌です!」

 

「先生だろ!」

 

「あなたの担任ではありません!」

 

「校長!」

 

「ふふ」

 

「笑わないでください!」

 

 九重院は口元へ手を添えていた。高宮が深いため息を吐き、書類を机へ置く。

 

「もう……今日中に戻るんですよ」

 

「戻る」

 

「寄り道しない」

 

「しない」

 

「変なものに触らない」

 

「魔法省行くたび言われるんだけど」

 

「言われる理由を考えてください」

 

「はい」

 

「後藤さんと喧嘩しない」

 

「…………」

 

「蓮根」

 

「努力する」

 

「喧嘩する気じゃないですか!」

 

「話すだけだって!」

 

 九重院は二人のやり取りを見ながら、静かに立ち上がった。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「一つだけ」

 

「何?」

 

「言葉は」

 

 九重院の声は穏やかだった。

 

「ご自分のものを使ってくださいね」

 

 奎星は一瞬、何も言わなかった。新聞に載った、自分が言っていない言葉を思い出す。

 

《蓮根家の使命を受け継ぐ者として当然の責務でした》

 

「…………はい」

 

 九重院は頷いた。

 

「行ってらっしゃい」

 

「行ってきます」

 

 奎星は校長室を出た。扉を閉める直前、高宮の声が聞こえた。

 

「高宮先生」

 

「何でしょう」

 

「補習の件なのですが」

 

「まさか」

 

「お願いできますか?」

 

「校長!」

 

 廊下まで声が響いた。

 

 奎星は、少し笑った。

 

 *

 

 午前九時過ぎ、日本魔法省。

 

 青白い炎を抜けた奎星は、中央広間へ向かって歩いていた。今日も人が多い。濃紺の制服、飛び交う折り鶴、高い天井、無数の足音。数日前まで、ここを歩くのが楽しかった。

 

 職員が自分を見て、頭を下げる。

 

「蓮根さん」

 

「…………」

 

「おはようございます」

 

「うす」

 

「先日の記事、拝見しました」

 

「どうも」

 

「特別顧問の件、おめでとうございます」

 

「…………」

 

 奎星は足を止めなかった。以前なら、自分も立ち止まっていたかもしれない。少しくらい胸を張ったかもしれない。英雄だから、と。

 

 今日は、何となく顔を上げられなかった。

 

《おめでとうございます》

 

 何が。

 

 まだ決めていないのに。

 

 そう思ってから、すぐに別の考えが浮かんだ。

 

 いや。一度やりたいと言った。それは自分だ。

 

 その事実が、腹の底を鈍く重くしていた。

 

 全部を後藤のせいにしたくはなかった。面白そうだと思ったのも、浮かれたのも、試験がないと喜んだのも、部屋があると聞いて目を輝かせたのも、自分だった。

 

 だから、来た。

 

 曲がり角を抜け、上層区画へ向かう。数日前、自分の未来になるかもしれない場所だと思って歩いた廊下を、今日は一人で進んだ。

 

 後藤の執務室の前で、職員に止められた。

 

「蓮根さん?」

 

「後藤さんいる?」

 

「いらっしゃいますが」

 

「会いたい」

 

「本日のご面会予定は」

 

「ない」

 

「では、少々お待ちください」

 

 職員が困った顔をする。しばらくして、扉の向こうから声が聞こえた。

 

「何だい?」

 

「蓮根さんが」

 

「蓮根君?」

 

 短い間があった。

 

「通してくれ」

 

 扉が開いた。

 

 後藤孝雄は机の向こうに座っていた。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

「珍しいね」

 

 後藤は腕時計を見る。

 

「学校は?」

 

「休んできた」

 

「広報予定は午後だったはずだが」

 

「違う」

 

 奎星が部屋へ入ると、後藤は少し眉を寄せた。

 

「蓮根君」

 

「何?」

 

「今後は、一応アポイントを取ってから来てくれないと困るよ」

 

「あ」

 

「私にも予定がある」

 

「ごめん」

 

 後藤は何か言いかけて、そこでふと表情を変えた。はっとしたように笑う。

 

「いや。まあ、君なら別だ」

 

「え?」

 

「君の話が一番だよ」

 

「…………」

 

「座ってくれ」

 

 奎星は椅子へ座らなかった。

 

 後藤の目が、わずかに変わる。

 

「どうした?」

 

「後藤さん」

 

「うん」

 

「色々してくれて、嬉しかったよ」

 

「…………」

 

「俺、こういう待遇、受けたことなかったし」

 

 後藤は笑った。

 

「当然だろう」

 

 迷いのない声だった。

 

「君は英雄なのだから」

 

 その言葉を、数日前ならもっと嬉しく聞いていたはずだった。今は、少しだけ遠い。

 

「でもさ」

 

「うん」

 

「俺」

 

 奎星は一度、息を吸った。

 

「自分で色々やりたいことあるんだ」

 

 後藤の笑みが止まった。

 

「…………?」

 

「まだ決めてないけど」

 

 奎星は続けた。

 

「みんな、期待してくれてんのは分かる」

 

「もちろん」

 

「それも嬉しい」

 

「なら」

 

「でも」

 

 奎星は首を振った。

 

「俺だって、やりたいことあって。いろんな世界、見てみたいんだ」

 

 御影の背中が浮かんだ。教室で中級生へ杖を向けて見せた、武装解除の魔法。小さな研究室。机の向こうで教科書を捲るスズメ。魔法生物飼育棟。世界地図。災害対策局。法執行局。知らない仕事、知らない場所。

 

 もっと見たいと思った。

 

 後藤は、しばらく奎星を見ていた。それから、声の温度を少し下げて言った。

 

「何を言っているんだ、蓮根君」

 

「え?」

 

「すでに君は了承している」

 

「…………」

 

「各部署にも通達した。予算も動いている。人員も選定している。制度設計にも着手している。各局との調整も始めた」

 

「待って」

 

「大勢の大人が」

 

 後藤は奎星を見た。

 

「君のために動いているんだぞ?」

 

 胸の奥が縮んだ。

 

「で、でも」

 

「何だい」

 

「俺、そんなつもりで言ってないし」

 

「言っていただろう」

 

「興味あるって」

 

「やりたい、と」

 

「言ったけど」

 

「では、何が違う?」

 

 答えがすぐには出てこなかった。

 

 後藤の方が正しいような気がした。やりたいと言った。自分で。誰にも強制されていない。笑って、何度も。

 

「もしかして」

 

 後藤が少し眉を上げる。

 

「何も考えずに発言したのか?」

 

 奎星の喉が詰まった。

 

 否定できない。少なくとも、あのとき予算のことなど考えなかった。人が動くことも、制度を作ることも、自分の一言で誰かが仕事を始めることも。

 

「……それは」

 

 視線を落とす。

 

「俺が悪いけど」

 

 後藤は黙っている。

 

「でも」

 

 奎星は顔を上げた。

 

「後藤さんが坪田先生を俺によこしてくれて、色々やりたいこと見つかってきたんだ」

 

「やりたいこと?」

 

「うん」

 

「例えば?」

 

「禍祓官とか」

 

 御影。

 

「教師とか」

 

 スズメ。

 

 後藤の顔から表情が消えた。

 

「…………なに?」

 

 たった二文字だった。けれど奎星には分かった。聞こえなかったのではない。意味が分からないのでもない。

 

 馬鹿にしたのだ。

 

「禍祓官?」

 

「うん」

 

「教師?」

 

「そう」

 

 後藤は、わずかに笑った。

 

「なぜ」

 

 奎星を見る。

 

「君ほどの人間が、そんな誰にでもできる仕事をする?」

 

 頭の中で、何かが切れた。

 

 左頬に傷のある男が浮かんだ。雨の中でも、森でも、地下でも、誰より前へ立っていた。殺す方が簡単だと知りながら、それでも殺さず止めることを教えた。帰ろうと思え、と言った。

 

 次に、小さな研究室が浮かんだ。教科書、赤い文字、何度同じことを聞いても答えてくれた人。怒って、待って、忘れられても、それでも教師でいた人。

 

「禍祓官も教師も──」

 

「もうそんな段階ではないんだよ!」

 

 声が重なった。

 

 後藤が立ち上がっていた。

 

「君だけの問題ではない!」

 

 机の上の紙が、声に震えた。

 

「分かっているのか? 蓮根家は、日本魔法界の発展に貢献してきた」

 

「何だよ、それ」

 

「蓮根清弦がそうだった!」

 

 その名前が、また胸へ突き刺さった。

 

「百年以上前、彼はこの国の近代魔術の礎を築いた一人だ。霊脈を解放し、時代を変えた」

 

「だから何だよ」

 

「その血を引き、その杖を持ち、同じように魔法界を救ったのが君だ!」

 

「俺は清弦じゃねえよ」

 

「だが蓮根家だ!」

 

「知らねえよ!」

 

 声が大きくなった。

 

「俺、そんなの最近まで知らなかったんだぞ!」

 

「知らなかったから何だ」

 

「…………」

 

「知った今は違う」

 

 後藤は奎星を真っ直ぐ見た。

 

「責任がある」

 

「責任?」

 

「君ほどの力を持つ人間が、その力をどう使うか。それはもう君一人の好き嫌いでは済まない」

 

 奎星は動けなかった。

 

「社会が君を見ている」

 

 後藤の言葉が、一歩ずつ近づいてくる。

 

「期待している」

 

 もう一歩。

 

「必要としている」

 

 奎星は、足の裏が床へ縫い付けられたように動けなかった。

 

「それを、ただ自分が他の仕事も見たいから、と投げ出すのか?」

 

「…………」

 

「蓮根君」

 

 一拍置いて、後藤は静かに言った。

 

「君の今の発言を聞いて、清弦はどう思うかな?」

 

 息が止まった。

 

 何も言えなかった。

 

 腹が立った。ものすごく腹が立った。それなのに、どこへ怒ればいいのか、すぐには分からなかった。

 

 清弦。会ったこともない。百年以上前の人間。それでも、自分と同じ杖を持っていた。同じ血が流れていると言われた。英雄だった。魔法界を変えた。

 

 もし、そんな人間が自分を見たら、どう思う。

 

 御影になりたい。教師もいい。友達と飯を食いたい。補習へ行きたい。もっと色々な仕事を見たい。

 

 そんなことを言っている自分を。

 

 胸の奥へ、嫌なものが入り込んだ。自分が急に、小さくなった気がした。

 

「蓮根君」

 

「…………」

 

「私は君のためを思って」

 

 椅子が床を擦った。

 

 奎星は立っていた。

 

「帰る」

 

「何?」

 

「学校」

 

「待ちなさい」

 

「帰る」

 

「蓮根君」

 

 奎星は扉を開けた。

 

「今話を終わらせるのは──」

 

 扉を閉めた。

 

 後藤の声が途切れた。

 

 奎星は歩いた。廊下を抜け、曲がり角を曲がり、階段を下りる。人の声、折り鶴の羽音、青白い炎の揺らめき。誰かに呼ばれた。

 

「蓮根さん」

 

 無視した。

 

「蓮根君?」

 

 歩く速度が上がり、最後にはほとんど走っていた。

 

 *

 

 地上へ出たとき、雨が降り始めた。

 

 朝はあれほど晴れていたのに、灰色の雲が東京の空を覆っている。一粒の雨が頬へ落ち、また一粒が黒い髪へ落ちた。制服の肩が濡れ、髪から水が流れ、頬を伝っていく。

 

「うわ、降ってきた」

 

「急げ」

 

「傘ない」

 

 周囲の人々が軒下へ走る。杖を持つ者も、持たない者も、みんな濡れない場所へ向かっていく。

 

 奎星だけが、そのまま歩いた。

 

 雨脚が強くなる。息が荒くなる。何かから逃げるように歩いているのに、頭の中には後藤の声がずっとついてきた。

 

 君ほどの人間が。

 

 誰にでもできる仕事。

 

 君だけの問題ではない。

 

 蓮根家。

 

 責任。

 

 清弦。

 

 清弦。

 

 清弦。

 

「…………っ」

 

 奎星は足を止めた。

 

 雨音がうるさい。車の音も、靴が水を踏む音も、人の声も、何もかもが混ざっている。

 

「清弦がなんだよ!」

 

 誰に言ったのか分からなかった。

 

「蓮根家の責任とか知らねえよ!」

 

 通り過ぎた人が一瞬こちらを見る。構わなかった。

 

「勝手に決めんじゃねえ!!」

 

 声が雨へ溶けていく。

 

 息を吸う。苦しい。腹が立つ。なのに、胸の奥にはまだ後藤の言葉が刺さっている。

 

 清弦なら。

 

「何で清弦は……!」

 

 違う。

 

「俺はっ……!」

 

 何を言いたいのか、自分でも分からない。清弦が悪いのか、蓮根家が悪いのか、魔法が悪いのか、英雄と呼ぶ人間が悪いのか。

 

「ばあちゃんは……!」

 

 そこで、言葉が止まった。

 

 雨が降っている。額から流れた水が睫毛に溜まり、視界が滲んだ。奎星は目を閉じた。

 

 ばあちゃん。

 

 夏。

 

 青白い炎。

 

 鬼火鳥。

 

 あの木。

 

 笑う声。

 

 ──珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。

 

 味方になれと言う。利用しようとする。守れと言う。独り占めしようとする。

 

 奎星の呼吸が、少し止まった。

 

 あのとき、八重子は全部知っていた。蓮根家のことも、神代榊のことも、鬼火鳥のことも。ずっと昔から知っていた。

 

 それなのに、何も教えなかった。母にも、自分にも。

 

 なぜ。

 

 答えは、もう聞いている。

 

 ──そんなものを、生まれたときから背中へ括りつけたくなかった。

 

 雨の中で、奎星はゆっくり顔を上げた。

 

 ──好きに生きてほしかったんだよ。

 

「ばあちゃん……」

 

 声が小さくなる。

 

 今まで、どこかで少しだけ思っていた。なぜもっと早く教えてくれなかったのか。魔法のこと、杖のこと、蓮根家のこと。もし子どもの頃から知っていれば、もっと早く魔法を学べたかもしれない。もっと上手く使えたかもしれない。もっと早く、この世界へ来られたかもしれない。

 

 けれど。

 

「……いや」

 

 違う。

 

 八重子は、隠したかったのではない。

 

「ばあちゃんは……」

 

 奎星は濡れた手を握った。

 

「こういうのから、俺を守ろうとしてくれてたんだ」

 

 ようやく、分かった気がした。

 

 鬼火鳥。蓮根家。何百年前の約束。英雄。使命。責任。生まれた瞬間から、そういうものを背中へ括りつけられないように。ただの子どもでいられるように。普通の学校へ行って、普通に馬鹿をやって、好きなものを見つけられるように。

 

 その時間を、八重子は奎星へ残そうとしていた。

 

 けれど、奎星は魔法界へ来た。

 

 十七歳の誕生日。夜中に鴉が来た。南硫黄島へ行った。杖を持った。友達ができた。怪我をした。泣いた。笑った。何度も怒られ、何度も逃げ、何度も戻った。

 

 御影に教わった。スズメに教わった。日向と喧嘩した。楓に殴られた。岳と飯を食った。伊織と調べた。学校を取り戻した。

 

 一年前、まだやりたいことは見つかっていなかった。それでも、少しずつなら見つかっているかもしれないと思えた。

 

 雨の向こうに、いくつもの顔が浮かんだ。

 

 それらは、誰かに決められたものではなかった。誰かに用意されたから好きになったわけでもない。自分で出会い、自分で選んだものだった。

 

「それでも」

 

 奎星は呟いた。

 

「この世界を選んだのは、俺だ」

 

 誰にも聞こえないほどの声だった。けれど、自分にははっきり聞こえた。

 

 八重子が隠した。スズメが迎えに来た。学校が受け入れた。けれど、最後にここへ残ると決めたのは自分だ。

 

「俺が選んだ」

 

 雨の中で、一度だけ息を吐く。

 

「だったら」

 

 奎星はゆっくり振り返った。さっき出てきた魔法省が、雨の向こうに霞んでいる。

 

「俺は」

 

 歩き出す。

 

「俺の選択の責任を取る」

 

 一歩、また一歩。それから、走った。

 

 *

 

「蓮根さん!?」

 

 受付の職員が目を丸くした。

 

「さっき出られたんじゃ」

 

「後藤さん!」

 

「え?」

 

「会う!」

 

「ちょ、ちょっと」

 

 奎星は濡れた靴で床を鳴らしながら、さっき来た廊下を戻った。髪から、袖から、制服の裾から、水滴が落ちていく。

 

 後藤の執務室の前へ着く。

 

「蓮根さん、待ってください!」

 

 こんこん、とする余裕はなかった。

 

 扉を開ける。

 

「後藤さん!」

 

 後藤が顔を上げた。

 

 数秒、奎星を見た。頭の先から靴まで、完全に濡れている。

 

「蓮根君」

 

「うん」

 

「びしょ濡れではないか」

 

「雨降ってた」

 

「見れば分かる」

 

 後藤は立ち上がり、部屋の隅にあったタオルを手に取った。

 

「使いなさい」

 

「ありがと」

 

 奎星は受け取ったタオルで頭を乱暴に拭いた。

 

「床が濡れる」

 

「ごめん」

 

「いや」

 

 後藤は小さく息を吐いた。

 

「先ほどは、私も取り乱した。すまなかったね」

 

 奎星の手が止まった。

 

「でも」

 

 後藤は少し笑った。

 

「戻ってきてくれて嬉しいよ。考え直してくれたんだろう?」

 

 奎星はタオルを頭へ掛けたまま、後藤を見た。

 

「ああ」

 

 後藤の顔が少し明るくなる。

 

「考え直した」

 

「そうか」

 

「俺」

 

 一拍置く。

 

「俺のやりたいことをやる」

 

 後藤の表情が止まった。

 

「なんだって?」

 

「特別顧問」

 

 奎星は言った。

 

「今は、やらない」

 

「…………」

 

「迷惑掛けた人には謝る」

 

 濡れた袖から、水が一滴床へ落ちた。

 

「予算とか、人とか」

 

「蓮根君」

 

「俺がやりたいって言ったから動いたんだろ」

 

「そうだ」

 

「じゃ、そこは俺が謝る」

 

「…………」

 

「何も考えてなかったのも、俺が悪かった」

 

 後藤は黙っている。

 

「でも」

 

 奎星は目を逸らさなかった。

 

「俺には、やりたいことがある」

 

「禍祓官と教師か?」

 

「それだけじゃない」

 

「…………」

 

「まだ分かんねえ」

 

 奎星は言った。

 

「災害対策も面白かったし。国際魔法協力局も。魔法生物のとこも」

 

 後藤は何も言わない。

 

「術式解析とかも、伊織に見せてもらう」

 

 奎星は少し笑った。

 

「だから、まだ決めない」

 

 後藤の目が細くなる。

 

「それが君の結論か」

 

「うん」

 

 今度は言い直さなかった。

 

「俺が選んだ道だ」

 

 雨の冷たさが、まだ身体へ残っている。それでも、さっきよりずっと息がしやすかった。

 

「最後まで責任取って」

 

 奎星は言った。

 

「俺が選んだ道を歩くよ」

 

 沈黙が落ちた。

 

 後藤は、しばらく何も言わなかった。奎星は怒られると思った。さっきより怒鳴られるかもしれない。社会が、期待が、清弦が。またそう言われると思った。

 

 けれど。

 

「…………そうか」

 

 後藤は椅子へ座った。

 

「分かった」

 

「…………え?」

 

「分かったよ」

 

「いいの?」

 

「何がだい」

 

「いや」

 

 奎星は拍子抜けした。

 

「もっと怒るかと」

 

「君がそこまで考えて決めたなら」

 

 後藤は机の上の資料を閉じた。

 

《魔法省特別魔術顧問》

 

「仕方がない」

 

「…………」

 

「関係部署には、こちらから説明する」

 

「俺も謝るよ」

 

「必要ならね」

 

「予算」

 

「まだ止められる範囲だ」

 

「人は?」

 

「正式発令前だ」

 

「そっか」

 

 後藤は、妙に穏やかだった。

 

「今日は学校へ戻りなさい」

 

「うん」

 

「風邪をひくよ」

 

「もう濡れた」

 

「着替えなさい」

 

「学校帰ったら」

 

「そうしなさい」

 

 奎星は少し戸惑ったまま、タオルを畳んだ。

 

「これ」

 

「そこへ置いておいて」

 

「ありがと」

 

「ああ」

 

 扉へ向かい、手を掛ける。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

 振り返る。

 

 後藤は、いつもの穏やかな顔に戻っていた。

 

「学校生活を楽しみなさい」

 

「…………」

 

「今しかできないこともあるだろう」

 

 奎星は数秒だけ後藤を見た。

 

「うん」

 

 それから、扉を開ける。

 

「じゃ」

 

「失礼します」

 

 扉を閉めた。

 

 廊下へ出てからも、奎星は少しだけ不思議だった。

 

「…………あっさり」

 

 もっと揉めると思っていた。けれど、分かってくれたなら、それでいい。その程度に思った。

 

 *

 

 マホウトコロへ戻った頃には、島にも雨が来ていた。

 

 細かな雨だった。東京のような激しさはなく、海から吹く風に乗って、斜めに白く流れている。

 

 転移区画を出た奎星は、そこで足を止めた。

 

「…………校長?」

 

 九重院紫苑がいた。

 

 傘を差し、石畳の先で一人立っている。

 

「何してんの!?」

 

 九重院が振り返った。

 

「ああ」

 

 奎星を見て、少し笑う。

 

「おかえりなさい」

 

「校長!」

 

 奎星は慌てて近づいた。

 

「いいっすよ、そんな!」

 

「何がです?」

 

「待ってなくて!」

 

「待っていたわけではありませんよ」

 

「絶対待ってたじゃん!」

 

「たまたま傘を差して、たまたまここにいただけです」

 

「御影先生みたいなこと言わないで!」

 

「それは少し嫌ですね」

 

「嫌なんだ」

 

 九重院は傘を少し傾けた。

 

「入りなさい」

 

「俺もうびしょびしょ」

 

「だからです」

 

「意味ある?」

 

「これ以上濡れない意味はあります」

 

「そっか」

 

 奎星は傘の下へ入った。

 

 二人で歩き始める。雨が傘を細かく叩いている。九重院は、すぐには何も聞かなかった。奎星も話さなかった。

 

 校舎が雨の向こうに白く霞んでいる。

 

 自分が取り戻した学校。新聞には、そんなふうに書かれた。でも、奎星にとっては少し違う。自分だけで取り戻したわけではない。この人も、御影も、真壁も、スズメも、教師たちも、友達も、みんなで戻った場所だった。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「言いたいことは言えましたか?」

 

 奎星は前を向いたまま、少しだけ黙った。

 

 雨。後藤。清弦。八重子。自分の声。

 

 全部を思い出してから、口元を上げた。

 

「……うん」

 

 そして、少し得意そうに言った。

 

「言ってきてやった」

 

 九重院が横を見る。

 

 奎星は、にんまりしていた。

 

「そうですか」

 

「特別顧問、やめる」

 

「そうですか」

 

「まだ決めない」

 

「はい」

 

「禍祓官も調べる」

 

「はい」

 

「教師も」

 

「はい」

 

「他も」

 

「はい」

 

「何か言わないの?」

 

「何をです?」

 

「いいと思います、とか」

 

「必要ですか?」

 

「ちょっと」

 

 九重院は笑った。

 

「では」

 

 傘の下で奎星を見る。

 

「良いと思いますよ」

 

「軽くない?」

 

「欲しがったのは蓮根君でしょう」

 

「もうちょい校長っぽく」

 

「難しい注文ですね」

 

「卒業式みたいな」

 

「長くなりますよ」

 

「じゃいい」

 

「そうですか」

 

 二人とも少し笑った。

 

 それから九重院は、前を向いたまま言った。

 

「私は」

 

「うん」

 

「蓮根君が何になるかより、あなたが自分で選べることの方が大切だと思っています」

 

 奎星が横を見る。

 

「…………」

 

「禍祓官でも、教師でも、特別顧問でも、全く別の仕事でも」

 

 雨音の向こうで、九重院の声だけが静かに届いた。

 

「あなたが選んだのなら、私は楽しみにしていますよ」

 

 奎星は何も言わなかった。

 

 一年前の校長室が浮かんだ。第一学期修了認定証。測定値でも、珍しい魔法でも、古代魔術でもない。一人の生徒として学び続けたことへの評価。

 

 あのときも、この人は自分を神代榊として見なかった。蓮根家として見なかった。魔力量一万を超える魔法使いとして見なかった。

 

 ただ、蓮根奎星という生徒を見ていた。

 

「…………校長」

 

「はい」

 

「ありがとうございます」

 

 九重院が少しだけ目を丸くした。

 

「随分素直ですね」

 

「俺、普段も素直」

 

「そうでしたか?」

 

「高宮先生みたいなこと言う」

 

「それも少し嫌ですね」

 

「高宮先生も!?」

 

「本人には言わないでくださいね」

 

「言お」

 

「補習を増やしますよ」

 

「職権乱用!」

 

 九重院が笑った。その声を聞きながら、奎星も笑った。

 

 雨の向こうにある学校が、少しだけ近く見えた。

 

 *

 

 その日の午後、奎星は普通に授業へ戻った。

 

「お」

 

 教室へ入った瞬間、日向が顔を上げる。

 

「帰ってきた」

 

「おう」

 

「どうだった?」

 

「言ってきた」

 

「断った?」

 

「今はやんない」

 

「マジかよ!」

 

「うるせえ!」

 

「高給が!」

 

「俺の金だろ!」

 

「俺の箒!」

 

「一回もお前のになってねえ!」

 

 楓が呆れたように笑った。

 

「ちゃんと考えたの?」

 

「考えた」

 

「ならいいんじゃない」

 

「軽っ」

 

「私の進路じゃないもの」

 

「それもそうか」

 

 岳が言う。

 

「高級料理」

 

「まだ言ってんの!?」

 

「惜しい」

 

「お前が一番引きずってるじゃん!」

 

 伊織は少しだけ笑った。

 

「じゃあ」

 

「何?」

 

「職業研究、やる?」

 

 奎星が止まった。

 

 自分の机。白い紙。

 

 昨日まで、その紙を見ると置いていかれているような気がした。今日は、まだ何も書いていないことが、少しだけ楽しみだった。

 

「やる」

 

「三つ?」

 

「三つ」

 

「何にする?」

 

「禍祓官」

 

「うん」

 

「教師」

 

「うん」

 

「…………」

 

「あと一つ」

 

「今決めんの?」

 

「調べる職業を決めるだけ」

 

「それが分かんねえ」

 

「じゃあ魔法省で気になったところから」

 

「うーん」

 

 奎星は椅子へ座った。

 

 まだ決めていない。けれど、決めていないことを、自分の手で調べていける。そのことが、今は悪くなかった。

 

 放課後、進路相談室の前で茜と会った。

 

「蓮根君」

 

「坪田先生」

 

「今日、魔法省行ったって聞いた」

 

「早」

 

「学校側から連絡来たから」

 

「ああ」

 

「どうだった?」

 

「断ってきた」

 

 茜の目が少し大きくなった。

 

「…………そっか」

 

「うん」

 

「後悔してない?」

 

 奎星は考えた。

 

「今んとこ」

 

「今んとこなんだ」

 

「あとで金欲しくなるかもしんない」

 

 茜が吹き出した。

 

「そこ?」

 

「日向にも言われた」

 

「でも」

 

 茜は笑ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「そっか」

 

「何」

 

「いや」

 

「何だよ」

 

「嬉しいわけじゃないよ」

 

「顔」

 

「何」

 

「嬉しそう」

 

「…………」

 

「俺にいつも言うじゃん」

 

 茜は少し困った顔になった。

 

「まあ」

 

 一拍置いて。

 

「ちょっとだけ」

 

「何で?」

 

「蓮根君が決めたから」

 

「…………」

 

「やるのも」

 

 茜は言った。

 

「やらないのも」

 

「うん」

 

「自分で決めるなら、それでいい」

 

 奎星は少し笑った。

 

「じゃ、職業研究手伝って」

 

「もちろん」

 

「三つ」

 

「三つ」

 

「多くない?」

 

「授業です」

 

「先生じゃん」

 

「違います」

 

「坪田先生」

 

「もう好きに呼んで」

 

「諦めた」

 

「諦めた」

 

 二人で笑った。

 

 その日の夕食には、間に合った。日向と喧嘩しながら食べ、岳に唐揚げを一つ取られ、伊織から術式解析官の資料を渡された。楓には、職業研究を今度こそちゃんと出せと言われた。

 

 スズメの補習にも行った。

 

「問九」

 

「分かんね」

 

「昨日予習するよう書きました」

 

「昨日忙しかった」

 

「今日もでしょう」

 

「今日は人生決めてた」

 

「大袈裟です」

 

「結構大事だったぞ」

 

「でしたら、人生を決めたあとに問九を解いてください」

 

「余韻とかないの?」

 

「ありません」

 

 御影には廊下で会った。

 

「朝練」

 

「明日は?」

 

「四時五十分」

 

「戻った」

 

「何がだ」

 

「いや」

 

 ほんの少し、嬉しかった。

 

 何でもない一日。授業、飯、友達、補習、明日の朝練。英雄になる前からあったもの。英雄をやめても、残っていたもの。

 

 夜、奎星はいつものベッドへ入った。今日はよく眠れそうだった。

 

 目を閉じる。

 

 最後に浮かんだのは、雨の中で思い出した八重子の顔だった。

 

 好きに生きな。

 

「…………おやすみ」

 

 誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。

 

 眠った。

 

 *

 

 朝。

 

 よく晴れていた。

 

 窓の外は青く、雲ひとつない。初夏の光がカーテンの隙間から真っ直ぐ差し込んでいる。

 

 奎星の目が開いた。

 

 数秒、天井を見た。

 

 そして、飛び起きた。

 

「やべ!」

 

 枕元を見る。時計は午前五時を指している。

 

「寝坊した!」

 

 布団を蹴飛ばし、神代榊を探す。制服、訓練着、どこだ。

 

「やっべ、御影先生に殺され──」

 

「うるせえ……」

 

 隣のベッドから、眠そうな声がした。

 

 日向だった。

 

「朝から何だよ……」

 

「五時!」

 

「だから何……」

 

「朝練!」

 

 日向は布団から顔だけを出した。

 

「今日ねえだろ」

 

「え?」

 

「朝練」

 

「何で?」

 

「御影先生、予定あるって」

 

「…………」

 

「昨日の夜言ってただろ……」

 

 奎星の動きが止まった。

 

 朝練。休み。予定。

 

「…………あれ?」

 

 何かが引っ掛かった。

 

 昨日。夜。天ぷら。ミカゲ。予定。

 

 そうだ。今日、朝練はない。

 

「そっか」

 

 奎星は頭を掻いた。

 

「何だよ……」

 

「寝ろ」

 

 日向はもう布団へ潜っている。

 

「五時だぞ」

 

「休みなら寝る」

 

「俺もう起きた」

 

「知らねえ」

 

「くそ」

 

 奎星はベッドへ座り、窓を見た。

 

 晴れている。

 

 妙に、見覚えのある空だった。

 

 胸の奥に、何かが残っている。

 

 夢だったような気がした。

 

 雨。雨が降っていた。

 

 どこで。

 

 東京。

 

 何をしていた。

 

 誰かと話した。

 

 後藤。清弦。ばあちゃん。

 

 奎星は眉を寄せた。

 

 思い出そうとする。何か、大事なことだった。腹が立って、走って、びしょ濡れになって、誰かが傘を差していた。銀色の髪。

 

「校長……?」

 

 口に出した瞬間、その輪郭が薄れた。

 

 夢か。

 

 そう思うと、それだけで少し楽になった。

 

 夢だったのなら、辻褄が合わなくてもいい。雨が降っていたのに今晴れていても、昨日話したはずのことを今日まだ話していなくても、何もおかしくない。

 

「…………昨日」

 

 奎星は小さく呟いた。

 

 昨日、何をした。

 

 教室。取材。寮。進路の話。天ぷら。

 

 それから。

 

 それから?

 

 分からない。

 

 けれど、分からないことそのものが、少しずつ気にならなくなっていった。眠気のせいだ。そういうことにできた。

 

 夢は起きれば忘れる。誰でもそうだ。朝になってしばらくすれば、何を見たのかも、誰と話したのかも、どんな気持ちだったのかも消えていく。

 

 ただ、胸の奥にだけ、何かを決めたあとのような不思議な軽さが残っていた。

 

「何だこれ」

 

 奎星は胸へ手を置いた。

 

 分からない。

 

 そのうち、それも気にならなくなった。

 

 *

 

 朝食の席で、日向が大欠伸をした。

 

「眠い」

 

「お前二度寝したじゃん」

 

「した」

 

「俺できなかった」

 

「知らねえ」

 

「五時に起きた」

 

「健康」

 

「御影先生のせいで身体おかしくなってる」

 

「本人いないところで言うなよ」

 

「本人いたら言えねえだろ」

 

「言ってるじゃん、いつも」

 

「そうだった」

 

 岳は朝から普通に二杯目の飯を食べている。伊織は本を開いていた。何も変わらない朝だった。

 

 味噌汁。焼き魚。箸の音。窓から入る光。

 

 奎星も飯を口へ入れる。

 

 日向がふと思い出したように言った。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「今日、魔法省行くんだろ?」

 

 箸が止まった。

 

「…………え?」

 

 日向が見る。

 

「何」

 

「魔法省?」

 

「昨日言ってたじゃん」

 

「…………」

 

「特別顧問のこと考え直すって」

 

 伊織も本から顔を上げた。

 

「校長先生に許可をもらいに行くんじゃなかった?」

 

 奎星は二人を見た。

 

 頭の奥で、何かが一瞬だけ揺れた。

 

 雨。

 

 タオル。

 

《分かった》

 

 傘。

 

《言いたいことは言えましたか?》

 

 笑う自分。

 

《言ってきてやった》

 

 そこまで浮かんだ。

 

「俺……」

 

 けれど、もう遠かった。

 

 急速に遠ざかっていく。

 

「…………あれ?」

 

「何?」

 

 日向が訊く。

 

 奎星は眉を寄せた。

 

「いや」

 

 何だった。

 

 今、何か、ものすごく大事なことを思い出しかけた気がする。

 

 けれど、掴もうとしたときには、もうなかった。

 

 夢を思い出そうとしているときと同じだった。確かに見たはずなのに、手を伸ばすほど向こうへ行く。

 

「奎星?」

 

 伊織が呼ぶ。

 

「大丈夫?」

 

「……うん」

 

 奎星はもう一度、自分の飯を見た。口の中が少し乾いている。

 

「今日」

 

 箸を持ち直す。

 

「魔法省だよな」

 

「そう言ってた」

 

「そっか」

 

 一度だけ、窓の外を見る。

 

 青い空。晴れた朝。

 

 どこかで、昨日もこの空を見た気がした。

 

 でも、そんなはずはない。

 

「……行かなきゃな」

 

 奎星は味噌汁を飲んだ。

 

 胸の奥に残っていたはずの雨の冷たさも、八重子の声も、自分で選んだ言葉も、朝の光の中で少しずつ夢の底へ沈んでいった。

 

 誰にも気づかれないまま、二〇二七年六月十五日の朝が、もう一度始まっていた。

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