二〇二七年六月十四日、夜。
蓮根奎星が寮の部屋へ戻ったとき、消灯まではまだ少し時間が残っていた。夕食には結局間に合わず、最後の取材が終わった頃には、大食堂の長机からほとんどの生徒が消えていたのである。清弦について同じような質問を何度も繰り返され、そのたびに似たような答えを求められた。帰る頃には、頭の中まで誰かに撫で回されたように疲れていた。
天ぷらが一人分だけ残してくれていた夕食を、奎星は一人で食べた。冷めないよう魔法を掛けてあった味噌汁と、焼き魚と、白い飯。どれもまずくはなかったし、腹も減っていたから、箸は自然に動いた。
それでも、食堂は妙に広かった。
いつもなら向かいで日向が人の皿へ箸を伸ばし、楓がそれを叩き、岳が自分の分を食べ終えてから他人の残りを見て、伊織が呆れた顔で本を閉じる。誰かが喋り、誰かが笑い、誰かが余計なことを言って、食事の時間はいつの間にか過ぎていく。
今日は、椅子が空いていた。
別に、一人で飯を食えないわけではない。東京にいた頃は家族と食べることもあったが、一人で適当に済ませる日もあった。マホウトコロへ来たばかりの頃だって、他の生徒から離された部屋で、一人で食べるはずだった。
なのに今は、空いた椅子の向こう側まで、やけに遠く感じられた。味噌汁を啜る音も、箸が茶碗の縁へ触れる音も、ひとつひとつが妙に鮮明で、まるで自分だけが食堂から取り残されているようだった。
食べ終わってから、奎星は寮へ戻った。
扉を開けると、伊織の声が聞こえた。
「だから、必要な勉強がこれで」
「多くね?」
日向がすぐに返す。
「採用なら面接もあるみたいだよ」
「面接?」
「あるでしょ」
「俺、喋んの得意」
「君の場合、喋らない方が通る可能性もある」
「何でだよ!」
部屋の中央に、三人が集まっていた。伊織の机には何冊もの進路資料が広げられ、日向は椅子を逆向きに跨いでいる。岳は自分の机から持ってきたらしい菓子を食べながら、一枚の資料をじっと読んでいた。
「岳はまず」
日向が岳を見る。
「飯以外の話できるようになんないと駄目だぜ」
岳が顔を上げた。
「できる」
「例えば?」
「魔法生物」
「お」
「あと飯」
「戻った!」
「二個ある」
「一個半だろ!」
「クィディッチしか喋れない人に言われたくないと思うけど」
伊織が淡々と言った。
「俺は他にも喋れるよ」
「何?」
「箒」
「同じ分野だよ」
「女の子」
「面接でやめた方がいいね」
「何でだよ!」
そのとき、日向が扉の前に立つ奎星へ気づいた。
「お」
にやりと笑う。
「英雄様のご帰還だ」
奎星は靴を脱ぎながら、日向を見た。
「うるせえ」
それだけ言って、鞄を自分の机の横へ置く。制服の上着を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
「何だよ」
日向が少し拍子抜けした顔になる。
「今日は『おう』じゃねえの?」
「疲れた」
「取材?」
「うん」
机の上には、朝置いたままの《職業研究》があった。白い紙が、部屋の明かりを吸い込むようにして置かれている。奎星はそれを見ないようにした。
「何聞かれた?」
日向が訊く。
「清弦」
「また?」
「また」
「お前より忙しいな、清弦」
「死んでんのにな」
「失礼だろ」
「俺の先祖だよ」
「じゃいいのか?」
「知らん」
岳が菓子を一つ口へ入れた。
「明日」
「ん?」
「俺、鷹司先生にまた聞く」
「魔法生物?」
「うん」
「何を?」
「仕事に必要なこと」
「へえ」
岳はそれだけ言って、また資料へ目を落とした。その横で、日向も自分の紙を指で弾く。
「俺も早瀬先生から卒業生の連絡先もらえるかもしんねえ」
「プロの?」
「競技続けてる人。プロじゃない人もいるって」
「ふーん」
「学校出たあと、どうやって続けるか聞く」
「いいじゃん」
「だろ?」
日向は笑った。
「で、お前は?」
「俺?」
「特別顧問」
「…………」
「明日も取材?」
奎星は答えなかった。
視界の端に、白い紙がある。そこには自分で書いた文字が残っていた。
《ちゃんと自分で動けること》
その言葉が、紙の上からこちらを見返しているようだった。
喉の奥に、何か小さなものが引っ掛かった。痛いわけではない。ただ、飲み込もうとしても消えず、そこにあることだけが分かる。
何なのかは分からなかった。分からないからこそ、余計に気になった。
そのとき。
こん、こん。
扉が鳴った。
「ん?」
日向が振り返る。
こん、ともう一度、小さな音がした。
「誰?」
伊織が扉を開ける。
廊下には誰もいなかった。伊織が視線を下げる。
「レンコン」
天ぷらがいた。
「天ぷら」
奎星が顔を上げる。
紺色の作務衣を着た小さな身体。両耳がぴくりと動き、天ぷらは奎星を見つけると、満足そうに一度頷いた。
「ミカゲ、アサレン、ヤスミ」
「え?」
奎星が聞き返す。
「明日?」
天ぷらが頷いた。
「朝練なし?」
「ヤスミ」
「マジ?」
「ミカゲ、ヨテイ」
「御影先生、予定あんの?」
「ヨテイアルッテ」
「何?」
天ぷらは少し考えた。
「ワカラン」
「何の予定?」
「イッテモワカランッテ」
奎星の眉が寄った。
「む、むかつく!」
「何で伝言で怒ってんだよ」
日向が笑う。
「絶対御影先生だろ、それ!」
「ミカゲ、イッテタ」
「ほら!」
「伝わってんじゃん」
「そういう問題じゃねえ!」
「レンコン、ツタエタ」
「ありがと」
「ウン」
天ぷらは役目を終えると、ぺこりと頭を下げた。
「オヤスミ」
「おやすみ」
「おう」
小さな足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。ぺた、ぺた、と床を踏む音が消えるまで、伊織は開いた扉の向こうを見ていた。
「…………」
「何?」
奎星が訊く。
「いや」
伊織は扉を閉めた。
「天ぷら」
「うん」
「御影先生のことは、ミカゲってちゃんと言えるんだね」
奎星も、日向も、そこで止まった。岳が菓子を噛む音だけが、妙に大きく響いた。
「スズメちゃんはトリマルなのに」
「烏丸先生ね」
伊織が言う。
「何でお前が直すんだよ」
「最近聞きすぎて」
「本人いないぞ」
「習慣」
「こわ」
日向が吹き出した。
いつもなら、奎星ももう少し笑っていたはずだった。けれど、その夜は口元をわずかに動かしただけだった。
伊織が、それを見ていた。
笑い声が落ち着くのを待ってから、静かに尋ねる。
「奎星」
「ん?」
「どうしたの」
「何が?」
「さっきから」
奎星は自分の机へ目を向けた。白い職業研究の紙が、そこにある。何も書かれていない。
今日、教室を出ていった四人の背中が浮かんだ。楓は教育管理局、岳は魔法生物、日向はクィディッチ、伊織は術式解析官。まだ誰も将来を決めてはいない。それでも、明日何をするかは自分で決めていた。
調べる。聞く。迷う。考える。
そのために、まず動く。
「……俺」
三人がこちらを見る。
「明日、魔法省行く」
「魔法省?」
日向が訊いた。
「また写真撮影?」
「いや」
奎星は首を横へ振った。
「ちょっと、あの仕事のこと考え直させてくれって言う」
日向の顔が固まった。
「はぁ!?」
椅子が大きく鳴り、日向が立ち上がる。
「なんで! めっちゃ金もらえんだろ!?」
「声でけえ」
「だって!」
岳も顔を上げた。
「高級料理」
「何?」
「たくさん食べられる」
「そうだけど!」
奎星は思わず笑った。笑いながらも、胸の奥にあるものは消えなかった。
「そうだけどさ」
言葉を探す。
「……ちょっとな」
「何が?」
「分かんねえ」
「分かんねえのに断るの!?」
「断るって決めたわけじゃない」
「じゃ何」
「考え直す」
「同じだろ!」
「違うだろ!」
「どこが!」
「違う!」
日向は納得できない顔のまま椅子へ座り、腕を組んだ。
「ふーん。変なやつ」
「うるせえ」
「俺がプロになって、めっちゃ稼いで」
「うん」
「あとで『やっぱ金欲しかった』って言っても知らねえぞ」
「言わねえよ!」
「絶対言う」
「言わねえ!」
「そのとき俺が高級箒買ってても貸さねえからな」
「いらねえよ!」
「買ってやらねえ」
「最初から頼んでねえ!」
「スポンサーにもさせねえ」
「俺が金出す側じゃん!」
「うるせえ!」
「お前が始めたんだろ!」
言い合っているうちに、奎星は笑っていた。さっきまで胸の内側にあった固いものが、少しだけほどけていく。
日向は馬鹿みたいな顔をしている。岳はもう次の菓子を食べている。伊織は二人の喧嘩を眺めながら、ほんの少しだけ笑っていた。
誰も、奎星の代わりに決めようとはしない。誰も、英雄だからこうしろとは言わない。金がもったいないとか、変なやつだとか、せいぜいそれくらいのことしか言わない。
そのことに、奎星は自分でも気づかないまま、少し救われていた。
消灯後、部屋が暗くなった。窓の外から、夜の海の音が聞こえる。日向は数分もしないうちに寝息を立て始め、岳も静かになった。伊織だけはしばらく本を読んでいたが、やがて灯りが消えた。
奎星は目を閉じた。
明日、ちゃんと言おうと思った。
やりたいと言ったのは、自分だった。何も考えていなかったわけではない。面白そうだったし、嬉しかった。自分のためだけに仕事を作ると言われ、専用の部屋があると言われ、大臣に会える、海外へ行ける、試験もない、給料も高いと聞かされた。必要だと言われた。英雄だと言われた。
嬉しかった。
だから、自分が悪くないとは思わなかった。
けれど、それと、これからどう生きたいかは、たぶん同じではない。
暗闇の中で、奎星は寝返りを打った。明日は朝練もない。久しぶりにゆっくり眠れる。そう思うと、少しだけ気が楽になった。
そのまま、眠りへ落ちた。
*
二〇二七年六月十五日。
朝から、よく晴れていた。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、床へ細長い四角を作っている。いつもなら、その光を見る前に奎星は外へ出ている。四時台の空、眠っている校舎、まだ冷たい訓練場の空気、そして御影の「遅い」という声。
けれど今日は、それがなかった。
奎星が目を覚ましたのは、いつもよりずっと遅かった。身体の奥に残っていた疲れが、久しぶりに少し取れている。もう一度眠ろうとして、しかし学校があることを思い出し、のそのそと起き上がった。
朝食を食べながらも、昨日決めたことは頭から離れなかった。
魔法省へ行く。後藤と話す。自分が何を考えているのか、自分でもまだ全部は分からない。だからこそ、一度止める。止まって、考える。それを言う。
朝食を終えると、奎星は立ち上がった。
「校長先生んとこ?」
伊織が本から顔を上げる。
「うん」
「ちゃんと理由言えよ」
日向が欠伸をしながら言った。
「分かってる」
「『人生について』とか言えば休ませてくれんじゃね?」
「ほっとけよ」
そして奎星は校長室へと向かう。足取りは重い。
扉の前で一度だけ息を吐き、こんこん、と叩く。
「どうぞ」
穏やかな声がした。
「失礼します」
扉を開けると、九重院紫苑が机の向こうで朝の書類へ目を通していた。銀色の髪、細い眼鏡、いつもの柔らかな顔。九重院は書類から顔を上げた。
「おはようございます、蓮根君」
「おはようございます」
「どうしました?」
「あの」
奎星は少しだけ姿勢を正した。なぜか、九重院の前ではそうなる。御影相手なら椅子へ座る前から文句を言うし、真壁には机の書類を覗こうとする。スズメの研究室なら勝手に椅子を引く。
けれど、九重院の前では、最初にここへ来た日から少し違った。校長だから、というだけではない気がする。
「今日」
「はい」
「一時間目、休んでいいですか」
九重院が瞬きをした。
「理由を聞いても?」
「魔法省行きたい」
「今日ですか?」
「はい」
「何か予定が?」
「ないです」
「では、どうして?」
奎星は一度、視線を落とした。
「後藤さんと話したい」
九重院は何も言わず、待った。その沈黙が急かすものではないと分かっていたから、奎星は続けた。
「あの特別顧問の仕事」
「はい」
「俺、一回、考え直したくて」
自分で言葉にすると、少し情けなく感じた。
「やりたいって言ったけど、なんか……ちゃんと決めたわけじゃなかったし」
九重院は黙って聞いている。
「最近、授業も休んで。御影先生の授業も行けなかったし。スズメちゃんの補習もずれて」
「烏丸先生ですね」
「あ、はい」
こんなときでも、そこだけは直るらしい。奎星は少し笑った。
「みんなは色々調べてんのに、俺、全然やってなくて」
「はい」
「だから」
言葉を探す。
「一回、止めたい」
九重院の目が、ほんの少し柔らかくなった。
「それを、ご自分で伝えに?」
「うん」
言ってから、奎星は言い直した。
「あ、はい」
九重院が小さく笑う。
「補習するから」
「補習?」
「一時間目の分」
「…………」
「駄目ですか?」
「いや」
奎星は慌てて付け加えた。
「します。ちゃんと」
「そうですか」
「はい」
「分かりました」
「…………え?」
「行ってらっしゃい」
奎星が目を丸くした。
「いいの?」
「はい」
「マジ?」
「ただし、学校から魔法省へ外出する旨だけ届けを出します」
「うん」
「後藤さんへの面会までは取り次ぎません」
「何で?」
「ご自分でお話しに行くのでしょう?」
奎星は少し黙った。それから、頷いた。
「うん」
「でしたら、そこから先はご自分で」
九重院は笑った。
「行ってきてください」
「ありがとうございます」
そのとき、扉が開いた。
「校長、昨日の教育管理局からの──」
高宮が書類を抱えて入ってくる。そして奎星を見る。
「…………」
「…………」
「何で蓮根がいるんです?」
「おはようございます」
「嫌な予感しかしない」
「何で!?」
「朝から校長室にいる蓮根に良い思い出がない」
「失礼だろ!」
「何です?」
「今日、一時間目をお休みするそうです」
九重院が答えた。
高宮の眉が上がる。
「はい?」
「魔法省へ行くそうですよ」
「はい!?」
今度は奎星を見る。
「また広報ですか!」
「違うって!」
「では何です!」
「進路!」
「授業を休んで!?」
「補習する!」
「校長!」
高宮が九重院へ振り返る。
「いいんですか、蓮根ばかり甘やかして!」
「いいんですよ」
九重院は平然としていた。
「補習だってすると言っているのですから」
「そういう問題ですか!?」
「今日は、そういう問題です」
「校長!」
「高宮先生」
九重院は少し楽しそうに笑った。
「彼は今から、自分で決めたことを、自分で話しに行くのですよ」
高宮は言葉を失った。
「それを止めてまで一時間目へ座らせる必要は、私は感じません」
「しかし」
「戻ったら勉強します」
奎星が言う。
「本当に?」
「する」
「誰と?」
「…………」
「今、止まりましたね」
「一人でも」
「怪しい」
「スズメちゃんとか」
「烏丸先生を当然のように巻き込まない!」
「じゃ高宮先生」
「何で私!」
「補習担当」
「嫌です!」
「先生だろ!」
「あなたの担任ではありません!」
「校長!」
「ふふ」
「笑わないでください!」
九重院は口元へ手を添えていた。高宮が深いため息を吐き、書類を机へ置く。
「もう……今日中に戻るんですよ」
「戻る」
「寄り道しない」
「しない」
「変なものに触らない」
「魔法省行くたび言われるんだけど」
「言われる理由を考えてください」
「はい」
「後藤さんと喧嘩しない」
「…………」
「蓮根」
「努力する」
「喧嘩する気じゃないですか!」
「話すだけだって!」
九重院は二人のやり取りを見ながら、静かに立ち上がった。
「蓮根君」
「はい」
「一つだけ」
「何?」
「言葉は」
九重院の声は穏やかだった。
「ご自分のものを使ってくださいね」
奎星は一瞬、何も言わなかった。新聞に載った、自分が言っていない言葉を思い出す。
《蓮根家の使命を受け継ぐ者として当然の責務でした》
「…………はい」
九重院は頷いた。
「行ってらっしゃい」
「行ってきます」
奎星は校長室を出た。扉を閉める直前、高宮の声が聞こえた。
「高宮先生」
「何でしょう」
「補習の件なのですが」
「まさか」
「お願いできますか?」
「校長!」
廊下まで声が響いた。
奎星は、少し笑った。
*
午前九時過ぎ、日本魔法省。
青白い炎を抜けた奎星は、中央広間へ向かって歩いていた。今日も人が多い。濃紺の制服、飛び交う折り鶴、高い天井、無数の足音。数日前まで、ここを歩くのが楽しかった。
職員が自分を見て、頭を下げる。
「蓮根さん」
「…………」
「おはようございます」
「うす」
「先日の記事、拝見しました」
「どうも」
「特別顧問の件、おめでとうございます」
「…………」
奎星は足を止めなかった。以前なら、自分も立ち止まっていたかもしれない。少しくらい胸を張ったかもしれない。英雄だから、と。
今日は、何となく顔を上げられなかった。
《おめでとうございます》
何が。
まだ決めていないのに。
そう思ってから、すぐに別の考えが浮かんだ。
いや。一度やりたいと言った。それは自分だ。
その事実が、腹の底を鈍く重くしていた。
全部を後藤のせいにしたくはなかった。面白そうだと思ったのも、浮かれたのも、試験がないと喜んだのも、部屋があると聞いて目を輝かせたのも、自分だった。
だから、来た。
曲がり角を抜け、上層区画へ向かう。数日前、自分の未来になるかもしれない場所だと思って歩いた廊下を、今日は一人で進んだ。
後藤の執務室の前で、職員に止められた。
「蓮根さん?」
「後藤さんいる?」
「いらっしゃいますが」
「会いたい」
「本日のご面会予定は」
「ない」
「では、少々お待ちください」
職員が困った顔をする。しばらくして、扉の向こうから声が聞こえた。
「何だい?」
「蓮根さんが」
「蓮根君?」
短い間があった。
「通してくれ」
扉が開いた。
後藤孝雄は机の向こうに座っていた。
「おはよう」
「おはよう」
「珍しいね」
後藤は腕時計を見る。
「学校は?」
「休んできた」
「広報予定は午後だったはずだが」
「違う」
奎星が部屋へ入ると、後藤は少し眉を寄せた。
「蓮根君」
「何?」
「今後は、一応アポイントを取ってから来てくれないと困るよ」
「あ」
「私にも予定がある」
「ごめん」
後藤は何か言いかけて、そこでふと表情を変えた。はっとしたように笑う。
「いや。まあ、君なら別だ」
「え?」
「君の話が一番だよ」
「…………」
「座ってくれ」
奎星は椅子へ座らなかった。
後藤の目が、わずかに変わる。
「どうした?」
「後藤さん」
「うん」
「色々してくれて、嬉しかったよ」
「…………」
「俺、こういう待遇、受けたことなかったし」
後藤は笑った。
「当然だろう」
迷いのない声だった。
「君は英雄なのだから」
その言葉を、数日前ならもっと嬉しく聞いていたはずだった。今は、少しだけ遠い。
「でもさ」
「うん」
「俺」
奎星は一度、息を吸った。
「自分で色々やりたいことあるんだ」
後藤の笑みが止まった。
「…………?」
「まだ決めてないけど」
奎星は続けた。
「みんな、期待してくれてんのは分かる」
「もちろん」
「それも嬉しい」
「なら」
「でも」
奎星は首を振った。
「俺だって、やりたいことあって。いろんな世界、見てみたいんだ」
御影の背中が浮かんだ。教室で中級生へ杖を向けて見せた、武装解除の魔法。小さな研究室。机の向こうで教科書を捲るスズメ。魔法生物飼育棟。世界地図。災害対策局。法執行局。知らない仕事、知らない場所。
もっと見たいと思った。
後藤は、しばらく奎星を見ていた。それから、声の温度を少し下げて言った。
「何を言っているんだ、蓮根君」
「え?」
「すでに君は了承している」
「…………」
「各部署にも通達した。予算も動いている。人員も選定している。制度設計にも着手している。各局との調整も始めた」
「待って」
「大勢の大人が」
後藤は奎星を見た。
「君のために動いているんだぞ?」
胸の奥が縮んだ。
「で、でも」
「何だい」
「俺、そんなつもりで言ってないし」
「言っていただろう」
「興味あるって」
「やりたい、と」
「言ったけど」
「では、何が違う?」
答えがすぐには出てこなかった。
後藤の方が正しいような気がした。やりたいと言った。自分で。誰にも強制されていない。笑って、何度も。
「もしかして」
後藤が少し眉を上げる。
「何も考えずに発言したのか?」
奎星の喉が詰まった。
否定できない。少なくとも、あのとき予算のことなど考えなかった。人が動くことも、制度を作ることも、自分の一言で誰かが仕事を始めることも。
「……それは」
視線を落とす。
「俺が悪いけど」
後藤は黙っている。
「でも」
奎星は顔を上げた。
「後藤さんが坪田先生を俺によこしてくれて、色々やりたいこと見つかってきたんだ」
「やりたいこと?」
「うん」
「例えば?」
「禍祓官とか」
御影。
「教師とか」
スズメ。
後藤の顔から表情が消えた。
「…………なに?」
たった二文字だった。けれど奎星には分かった。聞こえなかったのではない。意味が分からないのでもない。
馬鹿にしたのだ。
「禍祓官?」
「うん」
「教師?」
「そう」
後藤は、わずかに笑った。
「なぜ」
奎星を見る。
「君ほどの人間が、そんな誰にでもできる仕事をする?」
頭の中で、何かが切れた。
左頬に傷のある男が浮かんだ。雨の中でも、森でも、地下でも、誰より前へ立っていた。殺す方が簡単だと知りながら、それでも殺さず止めることを教えた。帰ろうと思え、と言った。
次に、小さな研究室が浮かんだ。教科書、赤い文字、何度同じことを聞いても答えてくれた人。怒って、待って、忘れられても、それでも教師でいた人。
「禍祓官も教師も──」
「もうそんな段階ではないんだよ!」
声が重なった。
後藤が立ち上がっていた。
「君だけの問題ではない!」
机の上の紙が、声に震えた。
「分かっているのか? 蓮根家は、日本魔法界の発展に貢献してきた」
「何だよ、それ」
「蓮根清弦がそうだった!」
その名前が、また胸へ突き刺さった。
「百年以上前、彼はこの国の近代魔術の礎を築いた一人だ。霊脈を解放し、時代を変えた」
「だから何だよ」
「その血を引き、その杖を持ち、同じように魔法界を救ったのが君だ!」
「俺は清弦じゃねえよ」
「だが蓮根家だ!」
「知らねえよ!」
声が大きくなった。
「俺、そんなの最近まで知らなかったんだぞ!」
「知らなかったから何だ」
「…………」
「知った今は違う」
後藤は奎星を真っ直ぐ見た。
「責任がある」
「責任?」
「君ほどの力を持つ人間が、その力をどう使うか。それはもう君一人の好き嫌いでは済まない」
奎星は動けなかった。
「社会が君を見ている」
後藤の言葉が、一歩ずつ近づいてくる。
「期待している」
もう一歩。
「必要としている」
奎星は、足の裏が床へ縫い付けられたように動けなかった。
「それを、ただ自分が他の仕事も見たいから、と投げ出すのか?」
「…………」
「蓮根君」
一拍置いて、後藤は静かに言った。
「君の今の発言を聞いて、清弦はどう思うかな?」
息が止まった。
何も言えなかった。
腹が立った。ものすごく腹が立った。それなのに、どこへ怒ればいいのか、すぐには分からなかった。
清弦。会ったこともない。百年以上前の人間。それでも、自分と同じ杖を持っていた。同じ血が流れていると言われた。英雄だった。魔法界を変えた。
もし、そんな人間が自分を見たら、どう思う。
御影になりたい。教師もいい。友達と飯を食いたい。補習へ行きたい。もっと色々な仕事を見たい。
そんなことを言っている自分を。
胸の奥へ、嫌なものが入り込んだ。自分が急に、小さくなった気がした。
「蓮根君」
「…………」
「私は君のためを思って」
椅子が床を擦った。
奎星は立っていた。
「帰る」
「何?」
「学校」
「待ちなさい」
「帰る」
「蓮根君」
奎星は扉を開けた。
「今話を終わらせるのは──」
扉を閉めた。
後藤の声が途切れた。
奎星は歩いた。廊下を抜け、曲がり角を曲がり、階段を下りる。人の声、折り鶴の羽音、青白い炎の揺らめき。誰かに呼ばれた。
「蓮根さん」
無視した。
「蓮根君?」
歩く速度が上がり、最後にはほとんど走っていた。
*
地上へ出たとき、雨が降り始めた。
朝はあれほど晴れていたのに、灰色の雲が東京の空を覆っている。一粒の雨が頬へ落ち、また一粒が黒い髪へ落ちた。制服の肩が濡れ、髪から水が流れ、頬を伝っていく。
「うわ、降ってきた」
「急げ」
「傘ない」
周囲の人々が軒下へ走る。杖を持つ者も、持たない者も、みんな濡れない場所へ向かっていく。
奎星だけが、そのまま歩いた。
雨脚が強くなる。息が荒くなる。何かから逃げるように歩いているのに、頭の中には後藤の声がずっとついてきた。
君ほどの人間が。
誰にでもできる仕事。
君だけの問題ではない。
蓮根家。
責任。
清弦。
清弦。
清弦。
「…………っ」
奎星は足を止めた。
雨音がうるさい。車の音も、靴が水を踏む音も、人の声も、何もかもが混ざっている。
「清弦がなんだよ!」
誰に言ったのか分からなかった。
「蓮根家の責任とか知らねえよ!」
通り過ぎた人が一瞬こちらを見る。構わなかった。
「勝手に決めんじゃねえ!!」
声が雨へ溶けていく。
息を吸う。苦しい。腹が立つ。なのに、胸の奥にはまだ後藤の言葉が刺さっている。
清弦なら。
「何で清弦は……!」
違う。
「俺はっ……!」
何を言いたいのか、自分でも分からない。清弦が悪いのか、蓮根家が悪いのか、魔法が悪いのか、英雄と呼ぶ人間が悪いのか。
「ばあちゃんは……!」
そこで、言葉が止まった。
雨が降っている。額から流れた水が睫毛に溜まり、視界が滲んだ。奎星は目を閉じた。
ばあちゃん。
夏。
青白い炎。
鬼火鳥。
あの木。
笑う声。
──珍しいものを持っているとね、それを欲しがる人間が出てくる。
味方になれと言う。利用しようとする。守れと言う。独り占めしようとする。
奎星の呼吸が、少し止まった。
あのとき、八重子は全部知っていた。蓮根家のことも、神代榊のことも、鬼火鳥のことも。ずっと昔から知っていた。
それなのに、何も教えなかった。母にも、自分にも。
なぜ。
答えは、もう聞いている。
──そんなものを、生まれたときから背中へ括りつけたくなかった。
雨の中で、奎星はゆっくり顔を上げた。
──好きに生きてほしかったんだよ。
「ばあちゃん……」
声が小さくなる。
今まで、どこかで少しだけ思っていた。なぜもっと早く教えてくれなかったのか。魔法のこと、杖のこと、蓮根家のこと。もし子どもの頃から知っていれば、もっと早く魔法を学べたかもしれない。もっと上手く使えたかもしれない。もっと早く、この世界へ来られたかもしれない。
けれど。
「……いや」
違う。
八重子は、隠したかったのではない。
「ばあちゃんは……」
奎星は濡れた手を握った。
「こういうのから、俺を守ろうとしてくれてたんだ」
ようやく、分かった気がした。
鬼火鳥。蓮根家。何百年前の約束。英雄。使命。責任。生まれた瞬間から、そういうものを背中へ括りつけられないように。ただの子どもでいられるように。普通の学校へ行って、普通に馬鹿をやって、好きなものを見つけられるように。
その時間を、八重子は奎星へ残そうとしていた。
けれど、奎星は魔法界へ来た。
十七歳の誕生日。夜中に鴉が来た。南硫黄島へ行った。杖を持った。友達ができた。怪我をした。泣いた。笑った。何度も怒られ、何度も逃げ、何度も戻った。
御影に教わった。スズメに教わった。日向と喧嘩した。楓に殴られた。岳と飯を食った。伊織と調べた。学校を取り戻した。
一年前、まだやりたいことは見つかっていなかった。それでも、少しずつなら見つかっているかもしれないと思えた。
雨の向こうに、いくつもの顔が浮かんだ。
それらは、誰かに決められたものではなかった。誰かに用意されたから好きになったわけでもない。自分で出会い、自分で選んだものだった。
「それでも」
奎星は呟いた。
「この世界を選んだのは、俺だ」
誰にも聞こえないほどの声だった。けれど、自分にははっきり聞こえた。
八重子が隠した。スズメが迎えに来た。学校が受け入れた。けれど、最後にここへ残ると決めたのは自分だ。
「俺が選んだ」
雨の中で、一度だけ息を吐く。
「だったら」
奎星はゆっくり振り返った。さっき出てきた魔法省が、雨の向こうに霞んでいる。
「俺は」
歩き出す。
「俺の選択の責任を取る」
一歩、また一歩。それから、走った。
*
「蓮根さん!?」
受付の職員が目を丸くした。
「さっき出られたんじゃ」
「後藤さん!」
「え?」
「会う!」
「ちょ、ちょっと」
奎星は濡れた靴で床を鳴らしながら、さっき来た廊下を戻った。髪から、袖から、制服の裾から、水滴が落ちていく。
後藤の執務室の前へ着く。
「蓮根さん、待ってください!」
こんこん、とする余裕はなかった。
扉を開ける。
「後藤さん!」
後藤が顔を上げた。
数秒、奎星を見た。頭の先から靴まで、完全に濡れている。
「蓮根君」
「うん」
「びしょ濡れではないか」
「雨降ってた」
「見れば分かる」
後藤は立ち上がり、部屋の隅にあったタオルを手に取った。
「使いなさい」
「ありがと」
奎星は受け取ったタオルで頭を乱暴に拭いた。
「床が濡れる」
「ごめん」
「いや」
後藤は小さく息を吐いた。
「先ほどは、私も取り乱した。すまなかったね」
奎星の手が止まった。
「でも」
後藤は少し笑った。
「戻ってきてくれて嬉しいよ。考え直してくれたんだろう?」
奎星はタオルを頭へ掛けたまま、後藤を見た。
「ああ」
後藤の顔が少し明るくなる。
「考え直した」
「そうか」
「俺」
一拍置く。
「俺のやりたいことをやる」
後藤の表情が止まった。
「なんだって?」
「特別顧問」
奎星は言った。
「今は、やらない」
「…………」
「迷惑掛けた人には謝る」
濡れた袖から、水が一滴床へ落ちた。
「予算とか、人とか」
「蓮根君」
「俺がやりたいって言ったから動いたんだろ」
「そうだ」
「じゃ、そこは俺が謝る」
「…………」
「何も考えてなかったのも、俺が悪かった」
後藤は黙っている。
「でも」
奎星は目を逸らさなかった。
「俺には、やりたいことがある」
「禍祓官と教師か?」
「それだけじゃない」
「…………」
「まだ分かんねえ」
奎星は言った。
「災害対策も面白かったし。国際魔法協力局も。魔法生物のとこも」
後藤は何も言わない。
「術式解析とかも、伊織に見せてもらう」
奎星は少し笑った。
「だから、まだ決めない」
後藤の目が細くなる。
「それが君の結論か」
「うん」
今度は言い直さなかった。
「俺が選んだ道だ」
雨の冷たさが、まだ身体へ残っている。それでも、さっきよりずっと息がしやすかった。
「最後まで責任取って」
奎星は言った。
「俺が選んだ道を歩くよ」
沈黙が落ちた。
後藤は、しばらく何も言わなかった。奎星は怒られると思った。さっきより怒鳴られるかもしれない。社会が、期待が、清弦が。またそう言われると思った。
けれど。
「…………そうか」
後藤は椅子へ座った。
「分かった」
「…………え?」
「分かったよ」
「いいの?」
「何がだい」
「いや」
奎星は拍子抜けした。
「もっと怒るかと」
「君がそこまで考えて決めたなら」
後藤は机の上の資料を閉じた。
《魔法省特別魔術顧問》
「仕方がない」
「…………」
「関係部署には、こちらから説明する」
「俺も謝るよ」
「必要ならね」
「予算」
「まだ止められる範囲だ」
「人は?」
「正式発令前だ」
「そっか」
後藤は、妙に穏やかだった。
「今日は学校へ戻りなさい」
「うん」
「風邪をひくよ」
「もう濡れた」
「着替えなさい」
「学校帰ったら」
「そうしなさい」
奎星は少し戸惑ったまま、タオルを畳んだ。
「これ」
「そこへ置いておいて」
「ありがと」
「ああ」
扉へ向かい、手を掛ける。
「蓮根君」
「ん?」
振り返る。
後藤は、いつもの穏やかな顔に戻っていた。
「学校生活を楽しみなさい」
「…………」
「今しかできないこともあるだろう」
奎星は数秒だけ後藤を見た。
「うん」
それから、扉を開ける。
「じゃ」
「失礼します」
扉を閉めた。
廊下へ出てからも、奎星は少しだけ不思議だった。
「…………あっさり」
もっと揉めると思っていた。けれど、分かってくれたなら、それでいい。その程度に思った。
*
マホウトコロへ戻った頃には、島にも雨が来ていた。
細かな雨だった。東京のような激しさはなく、海から吹く風に乗って、斜めに白く流れている。
転移区画を出た奎星は、そこで足を止めた。
「…………校長?」
九重院紫苑がいた。
傘を差し、石畳の先で一人立っている。
「何してんの!?」
九重院が振り返った。
「ああ」
奎星を見て、少し笑う。
「おかえりなさい」
「校長!」
奎星は慌てて近づいた。
「いいっすよ、そんな!」
「何がです?」
「待ってなくて!」
「待っていたわけではありませんよ」
「絶対待ってたじゃん!」
「たまたま傘を差して、たまたまここにいただけです」
「御影先生みたいなこと言わないで!」
「それは少し嫌ですね」
「嫌なんだ」
九重院は傘を少し傾けた。
「入りなさい」
「俺もうびしょびしょ」
「だからです」
「意味ある?」
「これ以上濡れない意味はあります」
「そっか」
奎星は傘の下へ入った。
二人で歩き始める。雨が傘を細かく叩いている。九重院は、すぐには何も聞かなかった。奎星も話さなかった。
校舎が雨の向こうに白く霞んでいる。
自分が取り戻した学校。新聞には、そんなふうに書かれた。でも、奎星にとっては少し違う。自分だけで取り戻したわけではない。この人も、御影も、真壁も、スズメも、教師たちも、友達も、みんなで戻った場所だった。
「蓮根君」
「ん?」
「言いたいことは言えましたか?」
奎星は前を向いたまま、少しだけ黙った。
雨。後藤。清弦。八重子。自分の声。
全部を思い出してから、口元を上げた。
「……うん」
そして、少し得意そうに言った。
「言ってきてやった」
九重院が横を見る。
奎星は、にんまりしていた。
「そうですか」
「特別顧問、やめる」
「そうですか」
「まだ決めない」
「はい」
「禍祓官も調べる」
「はい」
「教師も」
「はい」
「他も」
「はい」
「何か言わないの?」
「何をです?」
「いいと思います、とか」
「必要ですか?」
「ちょっと」
九重院は笑った。
「では」
傘の下で奎星を見る。
「良いと思いますよ」
「軽くない?」
「欲しがったのは蓮根君でしょう」
「もうちょい校長っぽく」
「難しい注文ですね」
「卒業式みたいな」
「長くなりますよ」
「じゃいい」
「そうですか」
二人とも少し笑った。
それから九重院は、前を向いたまま言った。
「私は」
「うん」
「蓮根君が何になるかより、あなたが自分で選べることの方が大切だと思っています」
奎星が横を見る。
「…………」
「禍祓官でも、教師でも、特別顧問でも、全く別の仕事でも」
雨音の向こうで、九重院の声だけが静かに届いた。
「あなたが選んだのなら、私は楽しみにしていますよ」
奎星は何も言わなかった。
一年前の校長室が浮かんだ。第一学期修了認定証。測定値でも、珍しい魔法でも、古代魔術でもない。一人の生徒として学び続けたことへの評価。
あのときも、この人は自分を神代榊として見なかった。蓮根家として見なかった。魔力量一万を超える魔法使いとして見なかった。
ただ、蓮根奎星という生徒を見ていた。
「…………校長」
「はい」
「ありがとうございます」
九重院が少しだけ目を丸くした。
「随分素直ですね」
「俺、普段も素直」
「そうでしたか?」
「高宮先生みたいなこと言う」
「それも少し嫌ですね」
「高宮先生も!?」
「本人には言わないでくださいね」
「言お」
「補習を増やしますよ」
「職権乱用!」
九重院が笑った。その声を聞きながら、奎星も笑った。
雨の向こうにある学校が、少しだけ近く見えた。
*
その日の午後、奎星は普通に授業へ戻った。
「お」
教室へ入った瞬間、日向が顔を上げる。
「帰ってきた」
「おう」
「どうだった?」
「言ってきた」
「断った?」
「今はやんない」
「マジかよ!」
「うるせえ!」
「高給が!」
「俺の金だろ!」
「俺の箒!」
「一回もお前のになってねえ!」
楓が呆れたように笑った。
「ちゃんと考えたの?」
「考えた」
「ならいいんじゃない」
「軽っ」
「私の進路じゃないもの」
「それもそうか」
岳が言う。
「高級料理」
「まだ言ってんの!?」
「惜しい」
「お前が一番引きずってるじゃん!」
伊織は少しだけ笑った。
「じゃあ」
「何?」
「職業研究、やる?」
奎星が止まった。
自分の机。白い紙。
昨日まで、その紙を見ると置いていかれているような気がした。今日は、まだ何も書いていないことが、少しだけ楽しみだった。
「やる」
「三つ?」
「三つ」
「何にする?」
「禍祓官」
「うん」
「教師」
「うん」
「…………」
「あと一つ」
「今決めんの?」
「調べる職業を決めるだけ」
「それが分かんねえ」
「じゃあ魔法省で気になったところから」
「うーん」
奎星は椅子へ座った。
まだ決めていない。けれど、決めていないことを、自分の手で調べていける。そのことが、今は悪くなかった。
放課後、進路相談室の前で茜と会った。
「蓮根君」
「坪田先生」
「今日、魔法省行ったって聞いた」
「早」
「学校側から連絡来たから」
「ああ」
「どうだった?」
「断ってきた」
茜の目が少し大きくなった。
「…………そっか」
「うん」
「後悔してない?」
奎星は考えた。
「今んとこ」
「今んとこなんだ」
「あとで金欲しくなるかもしんない」
茜が吹き出した。
「そこ?」
「日向にも言われた」
「でも」
茜は笑ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。
「そっか」
「何」
「いや」
「何だよ」
「嬉しいわけじゃないよ」
「顔」
「何」
「嬉しそう」
「…………」
「俺にいつも言うじゃん」
茜は少し困った顔になった。
「まあ」
一拍置いて。
「ちょっとだけ」
「何で?」
「蓮根君が決めたから」
「…………」
「やるのも」
茜は言った。
「やらないのも」
「うん」
「自分で決めるなら、それでいい」
奎星は少し笑った。
「じゃ、職業研究手伝って」
「もちろん」
「三つ」
「三つ」
「多くない?」
「授業です」
「先生じゃん」
「違います」
「坪田先生」
「もう好きに呼んで」
「諦めた」
「諦めた」
二人で笑った。
その日の夕食には、間に合った。日向と喧嘩しながら食べ、岳に唐揚げを一つ取られ、伊織から術式解析官の資料を渡された。楓には、職業研究を今度こそちゃんと出せと言われた。
スズメの補習にも行った。
「問九」
「分かんね」
「昨日予習するよう書きました」
「昨日忙しかった」
「今日もでしょう」
「今日は人生決めてた」
「大袈裟です」
「結構大事だったぞ」
「でしたら、人生を決めたあとに問九を解いてください」
「余韻とかないの?」
「ありません」
御影には廊下で会った。
「朝練」
「明日は?」
「四時五十分」
「戻った」
「何がだ」
「いや」
ほんの少し、嬉しかった。
何でもない一日。授業、飯、友達、補習、明日の朝練。英雄になる前からあったもの。英雄をやめても、残っていたもの。
夜、奎星はいつものベッドへ入った。今日はよく眠れそうだった。
目を閉じる。
最後に浮かんだのは、雨の中で思い出した八重子の顔だった。
好きに生きな。
「…………おやすみ」
誰へ言ったのか、自分でも分からなかった。
眠った。
*
朝。
よく晴れていた。
窓の外は青く、雲ひとつない。初夏の光がカーテンの隙間から真っ直ぐ差し込んでいる。
奎星の目が開いた。
数秒、天井を見た。
そして、飛び起きた。
「やべ!」
枕元を見る。時計は午前五時を指している。
「寝坊した!」
布団を蹴飛ばし、神代榊を探す。制服、訓練着、どこだ。
「やっべ、御影先生に殺され──」
「うるせえ……」
隣のベッドから、眠そうな声がした。
日向だった。
「朝から何だよ……」
「五時!」
「だから何……」
「朝練!」
日向は布団から顔だけを出した。
「今日ねえだろ」
「え?」
「朝練」
「何で?」
「御影先生、予定あるって」
「…………」
「昨日の夜言ってただろ……」
奎星の動きが止まった。
朝練。休み。予定。
「…………あれ?」
何かが引っ掛かった。
昨日。夜。天ぷら。ミカゲ。予定。
そうだ。今日、朝練はない。
「そっか」
奎星は頭を掻いた。
「何だよ……」
「寝ろ」
日向はもう布団へ潜っている。
「五時だぞ」
「休みなら寝る」
「俺もう起きた」
「知らねえ」
「くそ」
奎星はベッドへ座り、窓を見た。
晴れている。
妙に、見覚えのある空だった。
胸の奥に、何かが残っている。
夢だったような気がした。
雨。雨が降っていた。
どこで。
東京。
何をしていた。
誰かと話した。
後藤。清弦。ばあちゃん。
奎星は眉を寄せた。
思い出そうとする。何か、大事なことだった。腹が立って、走って、びしょ濡れになって、誰かが傘を差していた。銀色の髪。
「校長……?」
口に出した瞬間、その輪郭が薄れた。
夢か。
そう思うと、それだけで少し楽になった。
夢だったのなら、辻褄が合わなくてもいい。雨が降っていたのに今晴れていても、昨日話したはずのことを今日まだ話していなくても、何もおかしくない。
「…………昨日」
奎星は小さく呟いた。
昨日、何をした。
教室。取材。寮。進路の話。天ぷら。
それから。
それから?
分からない。
けれど、分からないことそのものが、少しずつ気にならなくなっていった。眠気のせいだ。そういうことにできた。
夢は起きれば忘れる。誰でもそうだ。朝になってしばらくすれば、何を見たのかも、誰と話したのかも、どんな気持ちだったのかも消えていく。
ただ、胸の奥にだけ、何かを決めたあとのような不思議な軽さが残っていた。
「何だこれ」
奎星は胸へ手を置いた。
分からない。
そのうち、それも気にならなくなった。
*
朝食の席で、日向が大欠伸をした。
「眠い」
「お前二度寝したじゃん」
「した」
「俺できなかった」
「知らねえ」
「五時に起きた」
「健康」
「御影先生のせいで身体おかしくなってる」
「本人いないところで言うなよ」
「本人いたら言えねえだろ」
「言ってるじゃん、いつも」
「そうだった」
岳は朝から普通に二杯目の飯を食べている。伊織は本を開いていた。何も変わらない朝だった。
味噌汁。焼き魚。箸の音。窓から入る光。
奎星も飯を口へ入れる。
日向がふと思い出したように言った。
「奎星」
「ん?」
「今日、魔法省行くんだろ?」
箸が止まった。
「…………え?」
日向が見る。
「何」
「魔法省?」
「昨日言ってたじゃん」
「…………」
「特別顧問のこと考え直すって」
伊織も本から顔を上げた。
「校長先生に許可をもらいに行くんじゃなかった?」
奎星は二人を見た。
頭の奥で、何かが一瞬だけ揺れた。
雨。
タオル。
《分かった》
傘。
《言いたいことは言えましたか?》
笑う自分。
《言ってきてやった》
そこまで浮かんだ。
「俺……」
けれど、もう遠かった。
急速に遠ざかっていく。
「…………あれ?」
「何?」
日向が訊く。
奎星は眉を寄せた。
「いや」
何だった。
今、何か、ものすごく大事なことを思い出しかけた気がする。
けれど、掴もうとしたときには、もうなかった。
夢を思い出そうとしているときと同じだった。確かに見たはずなのに、手を伸ばすほど向こうへ行く。
「奎星?」
伊織が呼ぶ。
「大丈夫?」
「……うん」
奎星はもう一度、自分の飯を見た。口の中が少し乾いている。
「今日」
箸を持ち直す。
「魔法省だよな」
「そう言ってた」
「そっか」
一度だけ、窓の外を見る。
青い空。晴れた朝。
どこかで、昨日もこの空を見た気がした。
でも、そんなはずはない。
「……行かなきゃな」
奎星は味噌汁を飲んだ。
胸の奥に残っていたはずの雨の冷たさも、八重子の声も、自分で選んだ言葉も、朝の光の中で少しずつ夢の底へ沈んでいった。
誰にも気づかれないまま、二〇二七年六月十五日の朝が、もう一度始まっていた。