二〇二七年六月十五日。
朝から、よく晴れていた。雲ひとつない空の下で、大食堂の窓から差し込む光は白く、遠くに広がる海はどこまでも青かった。天気が崩れる気配など、どこにもない。
「……行かなきゃな」
朝食を終えた蓮根奎星は、そう言って席を立った。
「校長先生んとこ?」
伊織が本から顔を上げる。
「うん」
「ちゃんと理由言えよ」
日向が欠伸をしながら言った。
「分かってる」
「『人生について』とか言えば休ませてくれんじゃね?」
「それ、昨日……」
奎星の口が止まった。
「何?」
「…………いや」
何だ。
今、何を言おうとした。
昨日。
昨日、校長と何か話したような気がする。
銀色の髪。
傘。
雨。
そこまで浮かんだところで、記憶は水面に落ちた石のように、すぐに沈んで消えた。
「何でもない」
「変なやつ」
「うるせえ」
奎星は鞄を肩へ掛け、大食堂を出た。
廊下には朝の光が満ちていた。窓の外に広がる空は、食堂から見たときと同じように青い。石畳にも乾いた光が落ち、風は初夏らしい軽さを帯びていた。
校長室へ向かう途中、廊下の隅に置かれた傘が目に入った。
黒い傘が一本、誰かに忘れられたように立て掛けられている。
奎星はそのまま通り過ぎた。
三歩進んだところで、足が止まる。
理由はなかった。ただ、なぜか振り返らずにはいられなかった。
外は晴れている。雨の気配など、どこにもない。傘を持っていく必要などないはずだった。
「いらねえだろ」
自分に言い聞かせるように呟き、再び歩き出そうとする。
しかし、足は動かなかった。
何となく。
本当に、何となくだった。
奎星は引き返し、傘を手に取った。柄はひんやりとしていて、雨の匂いなど少しもしない。窓の隙間から入る風も乾いている。
「……一応」
誰に言うでもなく呟き、傘を持ったまま歩き出した。
*
校長室の前で、奎星は二度、軽く扉を叩いた。
「どうぞ」
扉の向こうから、穏やかな声が返ってくる。
「失礼します」
扉を開けると、九重院紫苑が机の向こうで書類に目を通していた。
その姿を見た瞬間、奎星は足を止めた。
「…………」
「蓮根君?」
九重院が書類から顔を上げる。
「どうしました?」
「いや」
奎星は室内を見回した。机、書類、窓から差し込む朝の光、そして九重院。どれも見慣れたものだった。校長室には何度も来ているし、九重院が書類から顔を上げるところだって、これまでに何度も見てきた。
それなのに、今この角度から、この人が顔を上げるところを、ついさっき見たような気がした。
「……何でもないです」
「そうですか?」
「はい」
「では、どうしました?」
奎星は少しだけ姿勢を正した。
「今日、一時間目を休んでいいですか」
九重院が瞬きをする。
その反応さえ、知っているような気がした。
「理由を聞いても?」
「魔法省へ行きたい」
「今日ですか?」
「はい」
「何か予定が?」
「ないです」
そこまで答えたところで、奎星は眉を寄せた。次に何を聞かれるのか、分かるような気がした。
「では、どうして?」
やはり、九重院はそう尋ねた。
「…………」
「蓮根君?」
「いや」
奎星は頭を掻いた。
「特別顧問の話」
「はい」
「一回、考え直したくて」
九重院は何も言わず、奎星の言葉を待った。
「俺、やりたいって言ったけど」
奎星は続ける。
「最近、みんな進路を調べてるのに、俺だけ何か違うことばっかりやってるし。禍祓官も教師も、まだちゃんと調べてない」
御影とスズメの顔が、順番に脳裏へ浮かんだ。
「だから、一回止めたい」
九重院の目が、ほんの少し柔らかくなった。
「それを、ご自分で伝えに?」
「うん」
まただ。
今の言葉も、どこかで聞いたことがある。
いや、夢で聞いたのかもしれない。朝から妙な夢の残りが頭にまとわりついているだけだ。そう考えれば、何もおかしくはなかった。
「補習します」
「一時間目の?」
「はい」
「分かりました」
九重院は微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
奎星は返事をせず、しばらく九重院を見た。
「蓮根君?」
「いや」
奎星も少し笑った。
「校長なら、そう言うと思った」
「そうですか?」
「うん」
「信用していただけているなら、嬉しいですね」
九重院は机の上から一枚の書類を取り上げた。
「外出届はこちらで処理しておきます。ただし――」
「後藤さんには自分で話す」
九重院の手が止まった。
「…………」
「あ」
奎星も言葉を失った。
「そうだよね?」
「ええ」
九重院は、わずかに不思議そうな目で奎星を見た。
「そのつもりでした」
「そっか」
「どうしました?」
「何でもない」
まただ。
どうして分かったのだろう。
けれど、その疑問もすぐに薄れていった。自分で話しに行くと言ったのだから、九重院がそう考えるのは当然だ。
そう思えば、それで終わる。
九重院は外出届へ印を押した。
「蓮根君」
「はい」
「言葉は」
九重院が奎星を見る。
「ご自分のものを使ってくださいね」
胸の奥で、小さな音がした。
雨。
傘。
銀色の髪。
何かを言った。
自分が。
何を。
「蓮根君?」
「……はい」
奎星は頷いた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
校長室を出る。
扉が閉まったあとも、奎星はしばらくその場に立っていた。
胸の奥が妙に軽い。まだ何も話していないのに、まるでもう一度やれば大丈夫だと、どこかで知っているようだった。
「変なの」
そう呟き、傘を持ったまま転移区画へ向かった。
*
午前九時過ぎ。
青白い炎を抜けて日本魔法省の中央広間へ出ると、そこは今日も変わらず騒がしかった。濃紺の制服を着た職員たちが行き交い、宙を折り鶴が飛び交い、幾重にも重なった回廊の向こうから、絶え間なく人の声が聞こえてくる。
奎星は受付へ向かった。
「あの」
受付の職員が顔を上げる。そして奎星の姿を認めた瞬間、すぐに立ち上がった。
「蓮根奎星様ですね」
「はい」
「お待ちしておりました」
「…………え?」
奎星の足が止まる。
「後藤より伺っております」
「何を?」
「蓮根様がお見えになりましたら、そのままお通しするようにと」
奎星は受付を見た。
「俺、連絡してないけど」
「はい?」
「坪田先生から聞いたって?」
職員は少し困ったように眉を下げた。
「申し訳ありません。そこまでは伺っておりませんので」
「後藤さんが言ってたの?」
「はい」
「俺が来るって?」
「お見えになった場合は、と」
奎星は黙った。
少し変だった。
しかし、後藤は自分の進路をずっと気にしていた。そのうちまた来ると思っていたのかもしれない。そう考えれば、おかしくもない。
「まあいいや。行っていい?」
「もちろんです」
「ありがとう」
奎星は上層区画へ向かった。
前に来たときと同じ廊下。同じ扉。同じ壁。けれど、不思議と緊張はなかった。初めて来た場所ではないからだ、と奎星は思った。
執務室の前へ着くと、職員が扉を開けた。
「蓮根様です」
「どうぞ」
中から、すぐに声が返ってくる。
後藤孝雄は机の向こうに座っていた。奎星を見ても、驚いた様子を見せなかった。
「ああ。おはよう、蓮根君」
「おはよう」
「学校は?」
「ちょっと休んできた」
「そうか」
後藤は椅子を示した。
「座りなさい」
「うん」
奎星が椅子へ腰を下ろすと、後藤は机の上で手を組んだ。
「それで」
「後藤さん」
奎星は息を吸った。
「俺、特別顧問のことなんだけど」
「一度保留にしよう」
「…………え?」
言おうとしていた言葉が、そのまま喉の奥へ引っ込んだ。
「何?」
奎星が聞き返す。
後藤は、非常に理解のある顔をしていた。
「特別顧問の件だよ。少し急ぎすぎた」
「…………」
「君はまだ十八歳だ」
奎星は黙っている。
「卒業まで時間はある。禍祓官も、教師も、他の仕事も見ればいい」
奎星の目がわずかに動いた。
「坪田さんは、そのためにいるんだから」
「…………」
「色々な仕事を調べて、自分で選べばいい」
奎星の胸の奥で、何かが引っ掛かった。
自分で。
「特別顧問は?」
「廃案にはしない」
後藤は机の横から一冊の資料を取り上げた。表紙には、《魔法省特別魔術顧問》と記されている。
その上へ、羽根筆で新たな文字を書き加えた。
《検討保留》
「選択肢として残しておく」
「いいの?」
「もちろん」
「予算とか」
「正式に確定したものではない」
「人とか」
「まだ準備段階だ」
奎星は資料を見つめた。
妙だった。
何か、もっと胸が苦しくなるようなことを言われた気がする。この部屋で。清弦という名前を聞いた気がする。
しかし、後藤は穏やかに笑っていた。
「君の人生だ」
その一言で、奎星の中に浮かびかけていたものは、すべて消えた。
「焦る必要はないよ」
「…………」
奎星は後藤を見た。それから、ゆっくりと肩の力を抜いた。
「なんだ」
「ん?」
「後藤さん、分かってくれんじゃん」
後藤が少し笑う。
「私は最初から君のためを思っているよ」
「そっか」
「ああ」
「俺、ちょっと喧嘩になるかと思ってた」
「私と?」
「うん」
「なぜ?」
奎星は考えた。
「何でだろ」
自分でも分からなくなっていた。
「夢かな」
「夢?」
「何でもない」
奎星は笑った。
「じゃあ、俺、色々調べるよ」
「そうしなさい」
「禍祓官」
「ああ」
「教師」
「ああ」
「他も」
「もちろんだ」
後藤は一度だけ頷いた。
「そのうえで、また特別顧問を選びたくなったら」
「うん」
「そのとき考えよう」
「おう」
奎星は立ち上がった。
「ありがとう」
「礼を言われることではない」
「いや」
奎星は少し笑った。
「なんか楽になった」
「それなら良かった」
扉へ向かいかけたところで、後藤が呼び止める。
「蓮根君」
「ん?」
「学校生活を楽しみなさい」
奎星は振り返った。
胸の奥で、また何かが鳴った。
その言葉を、どこかで聞いたことがある。
「どうした?」
「いや」
奎星は首を横へ振った。
「うん。そうする」
笑って、扉を閉めた。
後藤は、奎星が出ていった扉をしばらく見つめていた。
机の上には、《魔法省特別魔術顧問》と記された資料が残っている。その上に書かれた四文字は、《検討保留》。
廃案ではなかった。
*
同じ頃、魔法省監察局では、真壁征士郎が机の上の書類を閉じていた。
「ない」
向かいに座る御影玄一郎が眉を寄せる。
「何がだ」
「何もだ」
「分かるように言え」
「分かれば苦労せん」
真壁は別の資料を開いた。
《K-417》
英国から送られてきた資料には、二〇二〇年に製造された特殊長距離型逆転時計について記されていた。通常の時間遡行制限を大幅に超え、年単位で過去へ移動することが可能な時計。過去への積極的干渉、歴史改変、複数回の時間跳躍。そして、消失。
「最初の現場確認にはある」
真壁が言う。
「移送時にはない」
「それは聞いた」
「その間に何があったか」
「分からん」
「誰が触ったか」
「分からん」
「誰が持ち出したか」
「分からん」
「目的」
「分からん」
御影の眉間に深い皺が刻まれた。
「役に立たんな」
「私に言うな」
「お前が調べてる」
「だから困っている」
真壁は椅子へ背を預けた。
机の上には、ここ数日の捜査記録が積み上がっている。しかし、それを捜査記録と呼ぶには、あまりにも何もなかった。
「盗まれたのは逆転時計だけだ」
「ああ」
「金品はない。別の魔法具もない。資料もない」
「ああ」
「施設への侵入痕跡も、今のところ確認できん」
「内部か?」
「断定できん」
「黒曜の環」
「関連を示すものはない」
「神代の残党」
「同じだ」
「過去の事件との共通点」
「ない」
真壁は指を組んだ。
「犯罪の傾向すらない」
御影は黙っていた。
「逆転時計が一つ消えた」
「ああ」
「それだけだ」
それだけ。
しかし、その一つが問題だった。
普通の魔法具なら、盗まれたあとを追えばいい。誰が持ったのか、どこへ運んだのか、何に使ったのかを調べればいい。
だが、逆転時計だけは違う。使われた瞬間、追っている側の過去そのものが変わる可能性がある。
「前にも言ったが」
真壁は低い声で言った。
「仮に使用されたとしても、我々が気づける保証はない」
「分かっている」
「捜査に失敗した歴史そのものが消えるかもしれん」
「ああ」
「証拠を見つけても、その証拠が見つかる前まで戻られれば――」
「征士郎」
御影が遮った。
「同じ話は聞いた」
「…………」
「だから今日は来た」
真壁は御影を見る。
「学校は」
「朝の訓練だけ休みにした」
「蓮根君が喜んでいるだろう」
「知らん」
「どうせ小妖に伝言させたんだろう」
「何で知ってる」
「お前が自分で寮まで伝えに行くとは思えん」
「…………」
「図星か」
「うるさい」
真壁はわずかに笑ったが、すぐに表情を戻した。
二人は部屋を出た。
廊下を並んで歩く。十二年前なら、こんなふうに二人だけで歩くことも珍しくなかった。片方が考え込み、もう片方が待つ。言葉がなくても、お互いがどこまで考えているかは大体分かる。
今も、その感覚だけは完全には失われていなかった。
「現場をもう一度見る」
御影が言う。
「ああ」
「移送担当も洗い直せ」
「やっている」
「英国側は」
「照会中だ」
「遅い」
「国際照会は時間が掛かる」
「急がせろ」
「お前は教師だろう」
「元禍祓官だ」
「今は教師だ」
「分かっている」
角を曲がったところで、御影の足が止まった。
真壁も前を見る。
少し先、上層区画から中央広間へ向かう廊下を、一人の男子生徒が歩いていた。制服に身を包み、黒い髪を揺らし、腰には焦茶色の杖入れを下げている。
そして右手には、一本の傘。
「蓮根」
御影の声が飛んだ。
奎星が振り返る。
「あ」
顔が明るくなる。
「御影先生」
「何してる」
「何って」
「今日は普通に学校だろう」
「ちょっと来てた」
「学校は」
「校長に許可もらった」
「何しに来た」
奎星は笑った。
「特別顧問」
御影の目がわずかに変わる。
「保留にしてきた」
「…………」
「今はやんない」
御影は数秒、奎星を見つめた。
「そうか」
それだけだった。
けれど、二十年以上この男を知る真壁には分かった。ほんのわずかに、御影の顔が緩んでいる。
「何」
奎星がにやりとする。
「嬉しい?」
「別に」
「今ちょっと嬉しそうだった」
「気のせいだ」
「絶対そうじゃん」
「早く帰れ」
「急に冷たっ」
「二時間目に遅れるぞ」
「あ」
奎星が腕時計を見る。
「まだいける」
「なら帰れ」
「分かったよ」
奎星が歩き出そうとしたとき、真壁が呼び止めた。
「蓮根君」
「ん?」
「後藤とは揉めなかったのか」
「後藤さん?」
「ああ」
「全然」
奎星は少し笑った。
「むしろ向こうから言われた」
真壁の目が止まる。
「何をだ」
「俺が『特別顧問のことなんだけど』って言ったら」
奎星は何でもないことのように言った。
「『一度保留にしよう』って」
「…………」
「俺、何も言ってないのに」
御影も真壁を見る。
「分かってくれたよ」
「そうか」
「うん」
「面会の予定は入れていたのか?」
「入れてない」
「連絡も?」
「してない」
「では、どうやって会った」
「受付行ったら通してくれた」
「…………」
「後藤さんが、俺が来たら通せって言ってたらしい」
真壁は黙った。
「何?」
「いや」
「真壁さん?」
「何でもない」
「今日みんなそれ言うな」
奎星が笑った。
そのとき、中央広間の地上出入口側から、何人かの職員が駆け込んできた。
「うわ、すごい」
「急に降ってきましたね」
「予報になかったですよね?」
「傘持ってないって」
職員たちの制服の肩は濡れ、髪からは水滴が落ちている。
真壁の顔がゆっくりと動いた。
地上出入口を見る。
階段の向こうでは、白く煙るほどの雨が降っていた。
「…………」
御影も外を見る。
「雨か」
朝は晴れていた。天気予報にも雨の印はなかった。そのはずだった。
真壁はゆっくりと奎星へ視線を戻した。
右手にある傘。
「蓮根君」
「ん?」
「今日」
真壁の声が少し低くなる。
「雨だと知っていたのか?」
「…………え?」
奎星も外を見る。
「雨?」
「その傘だ」
奎星は、自分の手にある傘を見た。まるで今初めて気づいたような顔だった。
「ああ」
「なぜ持ってきた」
「…………」
奎星は傘を見つめる。
朝は晴れていた。雲もなかった。天気予報だって見ていない。
「いや」
眉を寄せる。
「なんか」
「何だ」
「一応持ってこうと思って」
「なぜ」
「分かんない」
「…………」
「何となく」
奎星は少し困ったように笑った。
「変?」
真壁は数秒、何も言わなかった。
「……そうか」
「真壁さん?」
「今日は帰りなさい」
「え?」
「二時間目に遅れるぞ」
「あ!」
奎星が腕時計を見る。
「やべ!」
「走るな」
「転移区画まで!」
「廊下は走るな」
「間に合わねえ!」
そう言いながら、奎星はもう走り出していた。
「じゃ!」
「蓮根」
御影の声が飛ぶ。
「何!?」
「学校へ戻ったら」
「うん!」
「補習を受けろ」
「何で今それ!?」
「一時間目を休んだんだろう」
「校長から聞いた!?」
「今聞いた」
「何で補習まで分かんだよ!」
「当たり前だ」
「くそっ!」
奎星はそのまま廊下の向こうへ消えていった。
足音が遠ざかる。
真壁は、黙ってその背中を見送っていた。
「征士郎」
御影が呼ぶ。
返事はない。
「征士郎」
「妙だとは思わないか」
「何がだ」
「蓮根君が傘を持っている」
御影が真壁を見る。
「本人に言ったら怒るぞ」
「冗談で言ってるんじゃない」
「分かっている」
雨音はここまでは届かない。ただ、地上へ繋がる階段の先が白く霞んでいる。
「今朝」
真壁は言った。
「東京の降水予報はなかった」
「ああ」
「島も晴れだ」
「ああ」
「それに」
真壁は一拍置いた。
「蓮根君だぞ」
「…………」
「降るかもしれない程度で、傘を持って歩くと思うか?」
「だから本人に言うな」
「玄一郎」
真壁が見ると、御影の顔からわずかに冗談が消えた。
「前に学校で私は言ったな」
「ああ」
「もし時間が巻き戻されたとして、それに気づける規格外な人間がいればいい、と」
「規格外を期待した蓮根はふざけたことを言いながら廊下を走っていたな」
「いつものことだ」
「ああ」
真壁は地上を見た。
突然降り出した、予報にない雨。
「だが」
「…………」
「もし、本当にそうだったとしたら?」
御影の目がわずかに細くなる。
「何が言いたい」
「蓮根君が今日、傘を持っていたのは」
真壁は言った。
「今日、雨が降ると知っていたからだ」
「…………」
沈黙が落ちた。
周囲では魔法省の職員たちが行き交い、折り鶴が頭上を飛んでいる。誰も二人の会話に気づいていない。
「どうやって知る」
御影が訊いた。
「天気予報にはない」
「…………」
「朝は晴れていた」
「ああ」
「本人にも理由が分からない」
真壁は御影を見る。
「なら」
御影の顔が、ゆっくりと変わった。
「…………まさか」
「可能性の話だ」
「征士郎」
「断定はしていない」
真壁は静かに言った。
「だが」
もう一度、奎星が消えた廊下を見る。
「蓮根君は、すでに今日を経験していたのかもしれない」
御影は何も言わなかった。
雨が降っている。
二人はしばらく、その場から動かなかった。
「…………もしそうなら」
御影がようやく口を開く。
「本人は覚えていない」
「ああ」
「傘だけか」
「今のところは」
「身体が覚えていた?」
「分からん」
「記憶の残滓かもしれん」
「それも分からん」
「なら」
御影は真壁を見る。
「何が分かる」
「一つ」
真壁は答えた。
「今日、蓮根君は何をしに来た」
御影の眉が寄る。
「特別顧問の話だ」
「何をしに」
「保留に」
そう言って、御影が止まった。
「…………」
真壁は何も言わない。
「待て」
御影の声が低くなる。
「本人が保留を頼みに来た」
「ああ」
「だが」
「ああ」
「蓮根が切り出す前に」
「後藤が言った」
沈黙が広がった。
「しかも」
真壁が続ける。
「蓮根君は面会の連絡をしていない」
御影の目が鋭くなる。
「受付は待っていた」
「ああ」
「後藤の指示で」
「ああ」
御影は数秒、何も言わなかった。
「…………偶然は」
「ある」
真壁は即答した。
「後藤が昨日までの様子から考え直した可能性もある。蓮根君が来ると予想していただけかもしれん。受付への指示も、今後いつ来てもいいように出していただけかもしれない」
「なら」
「だが」
真壁の声が変わった。
「調べる理由にはなる」
「証拠は」
「ない」
「手掛かり」
「今できた」
「傘一本だぞ」
「だからだ」
「…………」
「我々には」
真壁は雨を見た。
「それしか残っていないのかもしれん」
御影は黙った。
その言葉の意味を、二人とも理解していた。
もし本当に時間が戻されたなら、証拠は消える。記録も変わる。人間の記憶も変わる。失敗した捜査も、見つけた犯人も、交わした会話も、すべて最初からなかったことになる。
だから、一本の傘しか残らなかったのかもしれない。
「征士郎」
「何だ」
「後藤を疑うのか」
真壁はすぐには答えなかった。
「疑う、ではない」
「…………」
「まだな」
真壁は歩き出した。御影も隣へ並ぶ。
「だが」
「最初に調べる」
「理由は」
「逆転時計が消えた」
一つ。
「蓮根君が、今日を知っていた可能性が出た」
二つ。
「その蓮根君が今日ここへ来た理由が、後藤孝雄だった」
三つ。
「そして後藤は」
真壁の足が止まる。
「蓮根君が来ることも、何を言うかも、知っていたように見える」
御影の目が細くなった。
「…………」
「偶然なら、それでいい」
真壁は言った。
「違うなら」
濃紺の制服の内側から、小さな手帳を取り出す。手帳を開き、羽根筆を取る。
一行目に、こう記した。
《後藤孝雄》
真壁はその文字を見つめた。
そして、その下へ続けて書く。
《K-417との関連性を確認》
手帳を閉じる。
この時点で、証拠は何一つなかった。逆転時計を後藤が見たという記録もない。触れた記録も、盗んだ記録もない。使用した記録など、当然なかった。
あるのは、消えた時計と、突然の雨と、晴れた朝に傘を持ってきた、記憶のない少年。そして、その少年が言うより先に答えを知っていた男。
それだけだった。
それでも、逆転時計が消えてから初めて、真壁征士郎の捜査線上に一人の人間の名前が乗った。
後藤孝雄。
地上では、まだ雨が降っていた。