二〇二七年六月十五日。
日本魔法省の地上では、まだ雨が降っていた。
朝の青空が、最初から存在しなかったもののように、東京は薄暗い雲に覆われている。地上出入口から降りてくる職員たちは、濡れた外套の肩を払い、髪から落ちる雫を指で拭いながら、口々に天気予報への文句をこぼしていた。
「こんな予報、出てましたっけ」
「朝は晴れだったろ」
「急に降りすぎですよ」
誰もが、空に裏切られたような顔をしている。
予報には、雨の気配などなかったはずだ。
それなのに空は、すでに一日の予定を決めてしまったかのように、重く垂れ込めていた。
真壁征士郎は、その人の流れに逆らうように中央広間を歩いていた。
隣に御影玄一郎はいない。
ほんの数分前まで一緒だったが、現場の再確認について担当部署と話をするため、途中で別れたのだ。
真壁は一人で、濡れた職員たちの間を抜けていく。
歩きながら、頭の中で同じ言葉を繰り返していた。
傘。
後藤。
蓮根奎星。
雨。
それらを、別の順番に並べ替えてみる。
蓮根奎星。
後藤。
傘。
雨。
どの順番にしても、意味は分からない。
だが、意味が分からないことと、そこに何もないことは同じではなかった。
むしろ、意味を持たないように見えるものほど、後になって全体の形を決めることがある。
真壁は、そういうものを何度も見てきた。
誰も気に留めなかった一枚の紙。
記録の端に残った、わずかな時刻のずれ。
本人すら覚えていない、言葉の選び方。
事件の輪郭は、いつも最初から大きな姿で現れるわけではない。
小さな違和感が、後から意味を持つ。
だから真壁は、足を止めなかった。
中央広間を横切り、受付へ向かう。
先ほど奎星と話した場所だった。
受付には三人の職員が座っていた。そのうち、奎星を後藤のもとへ通した女性職員を見つけると、真壁は迷わずそちらへ歩み寄った。
「すまない」
女性が顔を上げる。
真壁の胸元にある監察局の徽章を見て、背筋がわずかに伸びた。
「はい」
「少し確認したい」
真壁は受付の前で足を止めた。
「今日、蓮根奎星君が来ていたな」
「はい」
「面会予定は入っていなかった」
「そう伺っています」
「それでも、後藤孝雄のところへ通した」
「はい」
真壁は、相手の顔から視線を外さなかった。
職員の返事に不自然なところはない。声の震えも、目の泳ぎもない。
だが、それは何も証明しない。
「後藤から、そう指示されていたと」
「はい」
「いつだ?」
女性は一瞬だけ考えた。
記憶を探すというより、正確な言葉を選ぼうとする間だった。
「今日の朝です」
「今日」
「はい」
「蓮根君が来る前か」
「もちろんです」
真壁の目が、わずかに細くなった。
「何と言われた」
「もし蓮根君が来たら、そのまま通してくれ、と」
「それだけか」
「はい」
「後藤本人から?」
「はい」
「坪田茜を経由していない?」
「していません」
「学校から連絡は」
「私が知る限りでは、ありません」
「蓮根君本人からも?」
「ありません」
真壁は黙った。
受付の周囲では、職員たちが行き交っている。誰かが書類を抱えて走り、別の誰かが飛んできた折り鶴を受け止めている。
いつもと変わらない魔法省の朝だった。
その中で、真壁の前にいる女性だけが、少しずつ不安そうな顔になっていく。
「あの……何か問題が?」
「いや」
真壁は首を横へ振った。
「確認だ」
「そうですか」
「協力感謝する」
「はい」
真壁は踵を返した。
五歩進み、六歩目を踏み出し、七歩目で止まる。
背中に、受付の女性の視線を感じた。
真壁はしばらくそのまま立っていた。
やがて、ゆっくり振り返る。
再び受付へ戻った。
「もう一つ」
「はい?」
「その指示を受けたとき」
女性が顔を上げる。
「蓮根君が今日来る理由について、何か聞いたか」
女性は首を横へ振った。
「いいえ」
「進路の話だとも?」
「聞いていません」
「特別顧問の話をするとも?」
「いいえ」
「ただ、来たら通せと」
「はい」
真壁は女性を見た。
彼女は本当に、それ以上を知らないようだった。
知らないからこそ、余計なものを付け足さない。
「分かった」
今度こそ背を向け、中央広間を歩き出す。
偶然。
その可能性は、まだ残っている。
後藤はここ数日、奎星の進路に深く関わっていた。いつか本人が直接訪ねてくると考えても、不思議ではない。
今日だったのも偶然。
奎星が特別顧問を保留にしたがっていたことを察したのも偶然。
朝のうちに受付へ指示を出したのも偶然。
そして、奎星が何も言う前に、
《一度保留にしよう》
と告げたのも、偶然。
あり得ない話ではない。
偶然は、いつだって十分にあり得る。
だからこそ、真壁は歩いた。
疑うには早い。
捕まえるには、何もない。
だが、調べない理由はもうなかった。
濃紺の制服の内側へ手を入れると、先ほど使った小さな手帳が指先に触れた。
真壁はそれを取り出し、歩みを緩めながら開く。
《後藤孝雄》
《K-417との関連性を確認》
二行の文字が、白い紙の上に並んでいる。
まだ、ただの名前だった。
まだ、ただの可能性だった。
それでも真壁は、その二行をしばらく見つめた。
一度、徹底的に洗う。
経歴。
人事。
この一年の異常な昇進。
星帰り作戦以降に関与した案件。
予算の動き。
出入りした部署。
接触した人間。
英国との関係。
時間魔法具に関する閲覧記録。
そして、今日の朝、何を知っていたのか。
真壁は手帳を閉じた。
歩きながら、地上へ続く階段を一度だけ振り返る。
雨が降っている。
あの少年は、それを知っていた。
そうである可能性が、わずかにある。
今はまだ、それだけだった。
*
同じ頃。
その少年は、かなり機嫌が良かった。
「いやー」
黒い傘を差した蓮根奎星が、マホウトコロの転移区画から石畳へ出る。
島にも雨が来ていた。
東京ほど激しくはない。細い雨が海風に流され、白い校舎の壁を淡く濡らしている。
石畳には薄い水の膜が張り、奎星の靴が踏むたび、足元で小さな水音がした。
奎星は傘を軽く回した。
「持ってきてよかったじゃん」
朝、自分でも理由が分からないまま拾った傘だった。
あのときは、晴れていた。
雲もなかった。
傘を持っていく理由など、どこにもなかった。
それでも、なぜか手に取った。
真壁には妙な顔をされたが、結果だけを見れば大正解である。
「俺、天気読む才能あんじゃね?」
もちろん、誰も聞いていない。
それでも気分は良かった。
特別顧問は保留になった。
後藤とも喧嘩しなかった。
学校へ戻って、また進路を考えられる。
昨日まで自分の首へ何本も巻き付いていた紐が、一度にほどけたような気分だった。
息をするたび、胸の奥まで空気が入る。
足取りも自然に軽くなる。
傘の柄を指先で弄びながら、奎星は雨の向こうを見た。
そのとき、石畳の先に人影が見えた。
傘。
銀色の髪。
奎星の足が止まる。
九重院紫苑が、そこに立っていた。
一瞬、胸の奥で何かが揺れた。
雨。
同じ場所。
傘。
《おかえりなさい》
聞いたような気がした。
いや。
聞いた。
ような。
「蓮根君」
九重院がこちらを見る。
そして、柔らかく笑った。
「おかえりなさい」
奎星は目を瞬いた。
雨粒が傘の縁から落ち、石畳の上で弾ける。
「どうしました?」
「いや」
奎星は首を横へ振った。
何でもない。
たぶん。
「てか校長!」
奎星は九重院へ歩み寄った。
「待ってなくていいのに!」
「待っていたわけではありませんよ」
「絶対待ってたじゃん」
「たまたま雨の中で、たまたま転移区画を眺めていただけです」
「無理あるって」
「そうですか?」
「あるよ」
九重院は笑った。
それから、奎星の頭から足元までを一度見たあと、妙なところで視線を止めた。
「何?」
「傘を持つなんて珍しいですね」
「バカにしてる?」
「いいえ」
「今ちょっとバカにしただろ」
「感心しています」
「もっと悪い!」
「そうですか?」
「普段どんだけ俺が何も持ってないと思ってんの」
「蓮根君」
「何」
「以前、雨の日に傘を忘れて、飛行術用の防風外套を頭から被って寮まで走っていませんでしたか?」
「…………」
奎星の顔が固まる。
「覚えていますよ」
「今日は持ってるだろ」
「ええ」
「成長」
「素晴らしいですね」
「やっぱバカにしてる!」
九重院が小さく笑った。
奎星も笑う。
二人はそれぞれ傘を差したまま、並んで校舎へ向かった。
前とは違う。
そう思った瞬間、奎星の眉がわずかに寄った。
前とは、いつのことだろう。
この道を、以前にも歩いた。
九重院と一緒に。
雨の中で。
もっと近くで。
一つの傘の下に入って。
そんな感覚が、記憶の底から浮かび上がりかけた。
「蓮根君?」
「何?」
「何かありましたか?」
「いや」
奎星は前を向いた。
雨の向こうに校舎が見える。
白い壁。
濡れた石畳。
傘の内側にこもる、少し暗い空気。
けれど、その感覚はすぐに消えた。
夢のように、手を伸ばした途端に輪郭を失った。
「後藤さんとは、お話しできましたか?」
「うん」
奎星の顔が明るくなる。
「めっちゃ普通に終わった」
「普通に?」
「俺が言う前に、向こうから保留にしようって」
九重院の歩みが、ほんのわずかに緩む。
傘の柄を握る指が、少しだけ強くなった。
「禍祓官も教師も、他の仕事も調べろって。坪田先生もそのためにいるんだからって」
「そうですか」
「うん」
「それは」
九重院は少し考えた。
その横顔には、喜びとも安堵ともつかない、複雑な色が浮かんでいた。
「良かったですね」
「だろ?」
「蓮根君が納得しているのでしたら」
「してる」
奎星は傘を肩へ乗せた。
「なんか、めっちゃ楽になった」
その横顔を、九重院は静かに見ていた。
「それなら、何よりです」
雨が二本の傘を叩いていた。
*
その日から、蓮根奎星は久しぶりに学校へ戻った。
もちろん、正確にはどこにも行っていない。
寮で寝て、授業を受け、食事もしていた。
けれど六月に入ってから、彼の時間のあちこちには穴が空いていた。
撮影。
取材。
魔法省。
広報。
通信。
学校訪問。
そうした予定に押し出されるように、授業や補習の時間が少しずつ欠けていたのである。
教室にいても、心だけが別の場所へ置き去りになっているような日があった。
その穴が、ようやく埋まり始めた。
午後のキャリアデザインでは、机の上に新しい紙が配られた。
《面接基礎》
「もう面接?」
奎星が紙を持ち上げる。
「まだ六月だぞ」
教室の前で、坪田茜が笑った。
「練習は早い方がいいです」
「俺、喋るの得意」
「それと面接が得意なのは別です」
「同じじゃね?」
「違います」
「何が?」
「それを今からやります」
日向が横から紙を覗き込んだ。
「第一問。自分の長所を答えてください」
「魔力が多い」
奎星が即答すると、茜の表情が止まった。
「それは長所というより、能力ですね」
「じゃあ丈夫」
「健康状態ですね」
「諦め悪い」
伊織が本から顔を上げる。
「それは使えるんじゃない?」
「マジ?」
「言い方を変えれば」
「どう変えんの?」
「粘り強い、とか」
「俺、粘り強い」
「自分で言うと急に怪しいね」
「何でだよ」
楓が笑った。
「短所は?」
「ない」
「ある」
「即答すんな」
「人の話を最後まで聞かない」
「聞いてる」
「今、最後まで聞いてないじゃない」
奎星は黙った。
教室のあちこちから、押し殺した笑い声が漏れる。
「あと、思いついたら動く」
伊織が続ける。
「それ長所じゃね?」
「場合による」
「危険な場所でも動く」
「長所」
「立入禁止でも動く」
「…………短所」
「理解が早いね」
岳が紙へ書きながら言った。
「食べ物で釣られる」
「それ面接で言わねえだろ」
「事実」
「お前もだろ!」
「俺は隠さない」
「強い」
茜は教卓の前で笑っていた。
以前より、よく笑っている。
奎星が教室にいる。
それだけのことだった。
「蓮根君」
「何?」
「あなた、前回の面接準備のところが抜けているから、あとで資料を渡すね」
「まだあんの?」
「あります」
「多くね?」
「何回か授業に出ていませんから」
「…………」
「取り戻すって言ったでしょう?」
奎星は少しだけ紙を睨んだ。
以前なら、面倒だと言って机へ突っ伏していたかもしれない。
今日は違った。
「分かった」
茜が一瞬、目を丸くする。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「素直だなと思って」
「今日それ二人目なんだけど」
「誰?」
「校長」
「じゃあ本当に珍しいんじゃない?」
「坪田先生までバカにしてる?」
「してない、してない」
笑いながら、茜は追加の資料を机へ置いた。
奎星はそれを受け取った。
白い紙。
質問。
自己分析。
職業研究。
面接。
知らないことばかりだった。
けれど今度は、置いていかれているとは思わなかった。
遅れたなら、追いつけばいい。
それだけだった。
*
放課後の魔法史研究室には、雨の音が静かに響いていた。
窓ガラスを細い水滴が伝い、棚に並んだ古い本の背表紙を、曇った午後の光が淡く照らしている。
室内には、紙と古い革と、わずかに乾いた薬草のような匂いがあった。
奎星は机へ向かっていた。
「何で」
「何です?」
「これ一枚に、こんな時間かかんの」
「あなたが一問ごとに別の話を始めるからです」
「必要な会話」
「問三の途中で、朝比奈君の面接について十分話しました」
「面白かったから」
「問四では?」
「岳」
「問五」
「伊織」
「問六」
「楓」
「自分の進路を考えてください」
「考えてるって」
「他人の進路ばかり楽しそうに話しています」
「だって面白いじゃん」
スズメは小さく息を吐いた。
呆れているようにも見えたが、完全に嫌がっているわけではない。
机の端には、補習用の教科書とは別に、何冊もの古い資料が積まれていた。
紙の端は黄ばんでいる。
背表紙には、奎星には読めない古い術式文字が並んでいた。
奎星の目が、そちらへ向く。
「それ何?」
「資料です」
「見れば分かる」
「では聞かないでください」
「何の?」
「研究用の」
「研究?」
奎星が椅子から身を乗り出す。
「スズメちゃん、まだ研究してんの?」
「烏丸先生です」
「先生なのに?」
スズメの眉が動いた。
「なのに、とは何ですか」
「だって先生って授業する仕事じゃん」
「授業だけが仕事ではありません」
「他に何すんの」
「教材の準備、評価、校務、進路相談、行事、保護者への対応」
「うわ」
「補習」
「急に俺見んなよ」
「事実です」
奎星は資料の山を見る。
「でも、それは仕事じゃないんだろ?」
「これですか?」
「うん」
スズメも資料へ目を落とした。
「仕事として必要な調査をすることもあります」
「うん」
「ですが」
その声が、少しだけ柔らかくなる。
「私は学生の頃から、研究が好きなので」
「趣味?」
「趣味とだけ言うのも違いますが」
「じゃ何」
「好きでやっています」
奎星は少し意外そうな顔をした。
「へえ」
「何ですか」
「いや」
古い紙束を見る。
「スズメちゃん、こういうの好きなんだなって」
「何年一緒にいるのですか」
「一年」
「十分分かるでしょう」
「歴史好きなのは知ってる」
「古代魔術もです」
「俺も?」
「あなたは研究対象ではありません」
「今ちょっと間あったぞ」
「ありません」
「絶対あった」
「問七を解いてください」
「逃げた」
奎星は笑った。
それから、机の上の資料へもう一度目を向ける。
「何調べてんの?」
「色々です」
「例えば?」
「古代術式の変遷。失われた魔法。近代になって規制された魔法具。魔法史上の事故」
「事故?」
「はい」
「面白そう」
「その反応は少し心配です」
「一個見せて」
「補習は?」
「これも進路研究」
「…………」
「研究者の仕事を知る」
スズメが奎星を見る。
奎星は悪びれた様子もなく、資料の山を指差していた。
数秒後、スズメは資料の山から一冊を抜いた。
「では」
「お」
「一つだけ」
「やった」
「その代わり、あとで問七へ戻ります」
「分かった」
「本当に?」
「多分」
「戻します」
「分かったって!」
スズメは資料を開いた。
紙の中央には、小さな砂時計のような魔法具の図が描かれている。
上下に細い金属の輪があり、その中央に、砂の代わりに淡い光の粒が浮かんでいた。
奎星が覗き込む。
「時計?」
「逆転時計です」
「ぎゃくてん?」
「逆転時計」
「何それ」
「時間を遡るための魔法具です」
奎星の顔が止まった。
「時間?」
「はい」
「戻れんの?」
「条件はありますが」
「昨日とか?」
「物によります」
「去年?」
「通常は無理です」
「子供の頃?」
「話を最後まで聞いてください」
「はい」
返事だけは早かった。
スズメは、どう説明すれば蓮根奎星にも分かるかを考えた。
その顔を見て、奎星が眉を寄せる。
「今、俺でも分かる説明考えてる?」
「はい」
「即答」
「必要なので」
「失礼だな」
「では専門用語で説明しますか?」
「やめて」
「でしょう?」
「……お願いします」
スズメは紙を一枚取った。
「逆転時計は、もともと一つの原理しか確認されていませんでした」
紙へ一本の線を引く。
「これを時間だと思ってください」
「うん」
「朝」
線の左端を指す。
「昼」
中央。
「夜」
右端。
「普通は、朝から昼、昼から夜へ進みます」
「うん」
「従来型の逆転時計を使えば」
夜から朝へ、細い線を戻した。
「夜にいる人間が、朝へ戻ることはできます」
「じゃ変えられんじゃん」
「変えられません」
「何で?」
「そこが重要です」
スズメは少し考え、机の端にあった紙片を一枚取った。
「例えば」
「うん」
「朝、あなたの机に、知らない紙が置いてあったとします」
「怖」
「例です」
「はい」
「誰が置いたのか、一日中分からなかった」
「うん」
「そして夜になって逆転時計を使い、朝へ戻ったあなたが」
紙片を奎星の前へ置く。
「自分で置く」
奎星は紙を見る。
「え」
「朝にあった紙は」
「俺が置いた?」
「未来のあなたが」
「でも朝の俺は知らない」
「知りません」
「夜の俺は知ってる」
「はい」
「じゃ」
奎星は眉を寄せた。
「最初から俺が置いてたってこと?」
「そうです」
スズメが頷く。
「従来型は、そういう時間です」
紙の線を指す。
「未来から戻った人間がしたことまで含めて、最初から現在が成立している」
「…………」
「過去を変えたのではありません」
「最初から?」
「最初から」
「じゃ、戻った俺が朝の俺に会ったとして」
「はい」
「朝の俺は、そのときもう未来の俺に会ってた?」
「そうなります」
「ややこし」
「かなり簡単にしています」
「これで?」
「これで」
奎星は頭を抱えた。
「時間嫌いになりそう」
「まだ半分です」
「まだあんの?」
「あります」
スズメはもう一枚、資料を開いた。
そこには二〇二〇年という数字が記されていた。
数字の周囲には、いくつもの注釈が書き込まれている。紙の端には、何度も読み返された跡があった。
「長いあいだ、逆転時計はこの原理から外れないと考えられていました」
「うん」
「ところが二〇二〇年」
スズメの指が止まる。
「英国で、別の性質を持つ逆転時計が確認されました」
「別?」
「はい」
「何が違うの」
スズメは、さっきの紙片を一度奎星の机から取った。
「今朝」
「うん」
「あなたの机には、この紙はなかった」
「うん」
「夜まで、一度もなかった」
「うん」
「それなのに、夜のあなたが過去へ戻って」
紙片を置く。
「朝の机へ、これを置く」
奎星は紙を見る。
「それ、さっきと同じじゃん」
「違います」
「何が?」
「さっきは」
スズメが最初の線を指す。
「朝から、紙はありました」
「うん」
「今回は」
もう一つの線を引く。
「なかったのです」
「…………」
「夜に戻って、初めて置いた」
線の途中に、別の線を重ねる。
「すると」
スズメは言った。
「現在そのものが変わります」
奎星が顔を上げた。
「現在が?」
「はい」
「戻ってきたら?」
「朝から紙が置かれていた一日へ変わっている」
奎星はしばらく何も言わなかった。
雨音だけが、窓の向こうで一定の間隔を刻んでいる。
その音が、妙に遠かった。
「それ」
ようやく口を開く。
「過去変えられてんじゃん」
「そうです」
「マジで?」
「だから問題になりました」
「じゃあさ」
奎星がさらに身を乗り出す。
「昔に戻って、何かめっちゃ大きいこと変えたら?」
「現在への影響も大きくなります」
「人とか?」
「変わる可能性があります」
「死んだ人とか」
「記録上は」
スズメの声が少し低くなる。
「生死が変化した例もあります」
奎星の顔から笑みが消えた。
「…………」
「人間関係。社会情勢。存在していた制度。国同士の関係」
「そんなに?」
「一つの出来事だけを都合よく変えることはできません」
スズメは紙へ引いた線を見る。
「過去は、現在へ繋がっていますから」
奎星は黙っている。
「石を一つ動かしたつもりでも、その石を踏むはずだった人が踏まなくなる。その人が別の場所へ行く。そこで別の人と会う。会うはずだった人とは会わなくなる」
「…………」
「変化は続きます」
「じゃ」
奎星は小さく言った。
「今も変わんの?」
「今?」
「その時計使ったら」
「もちろんです」
すぐに返事が来た。
「過去を変えれば」
スズメは奎星を見る。
「今が変わります」
その瞬間、奎星の胸の奥で何かが動いた。
今が変わる。
雨。
朝は晴れていた。
傘。
後藤。
《一度保留にしよう》
校長室。
《では、どうして?》
答えを知っていた。
自分が。
《後藤さんには自分で話す》
なぜ。
どうして、自分はその言葉を知っていた。
「蓮根君?」
「…………」
「どうしました?」
「いや」
奎星は頭を押さえた。
指の間から、黒い髪がこぼれる。
「何か」
何だ。
何かがある。
忘れている。
まるで、夢のように。
夢なら、目が覚めれば消える。
けれどこれは、消えたのではない。
消されたような。
そんな感覚だった。
「これ」
奎星は二〇二〇年の資料を指した。
「もっと見せて」
「え?」
「こっち」
椅子を引く。
机の向こうではなく、スズメの横へ移動する。
「蓮根君」
「ここ何て書いてんの?」
「長距離時間遡行における事象再構築の――」
「分からん」
「まだ読んでいる途中です」
「簡単に」
「だから説明しています」
「この図」
奎星がさらに身体を寄せた。
スズメの肩がわずかに固まる。
近い。
以前なら、気にもならなかった距離だった。
机に一冊の本を置き、二人で同じ頁を見る。それだけなら何度もあった。
今は違う。
奎星の肩が少し動けば、自分の肩へ触れる。
顔を横へ向ければ、すぐそこにいる。
雨の匂いを含んだ制服の袖が、スズメの腕の近くにある。
スズメは資料を見る。
見る。
文字を見る。
「スズメちゃん」
「…………」
「これ」
「烏丸先生です」
「ここの線、何?」
「それは」
声が少しだけ遅れる。
「変更前と変更後の事象比較です」
「こっちが前?」
「はい」
「こっちが後?」
「そうです」
「じゃ、この間にいた人って」
奎星の指が紙の上を動く。
スズメは、その指を見る。
近い。
本当に近い。
「どうなんの?」
「…………」
「スズメちゃん?」
「少し」
「何?」
「近いです」
「紙が?」
「あなたがです」
「え?」
奎星が顔を上げる。
その瞬間、どん、と扉が開いた。
「烏丸先生!」
スズメの肩が跳ねた。
奎星も振り返る。
扉の前に、真壁と御影が立っていた。
二人とも、普段よりわずかに呼吸が速い。
真壁の外套の裾には、雨の名残があった。御影の髪にも、細かな水滴が残っている。
真壁が室内へ一歩入ったところで、机の横に並ぶ二人を見た。
「…………」
「あ」
真壁が言う。
「すいません。ノックもせずに」
「い、いえ」
スズメはすぐに椅子を引いた。
奎星との距離を取るように、ほんの少しだけ身体を離す。
「構いませんが」
普段より少しだけ早口だった。
「どうされました? ずいぶん急いでいるようですが」
御影は答えなかった。
その視線が、机へ落ちる。
開かれた資料。
二〇二〇年。
逆転時計。
御影の顔が変わった。
真壁も見る。
「……それを」
「はい?」
「何の話をしていた?」
真壁の声が低い。
「逆転時計についてです」
スズメが答える。
「蓮根君が研究について聞くので、例として」
「どこまで」
「従来型と、二〇二〇年に確認された特殊型の違いを」
真壁と御影が、一瞬だけ視線を交わした。
その短い視線の中に、いくつもの言葉があった。
傘。
雨。
後藤。
そして、今ここにある資料。
奎星はその顔を見た。
何かがおかしい。
この二人が、何かを知っている。
そして、自分も。
雨の音がする。
朝。
傘。
校長室。
次に言われる言葉を知っていた。
受付。
後藤は自分が来ることを知っていた。
言う前に、答えた。
この雨を、自分は知っていた。
理由もなく。
知らないはずなのに。
奎星は、ゆっくり椅子から立ち上がった。
「蓮根君?」
スズメが見る。
奎星は答えない。
真壁へ近づく。
一歩。
もう一歩。
床板が、かすかに鳴った。
「どうした」
御影が訊く。
奎星は真壁を見る。
胸の奥で、ばらばらだったものが繋がり始めていた。
記憶ではない。
もっと曖昧なものだった。
夢の残り。
身体の癖。
知っているはずのない答え。
雨が降る前に持った傘。
初めて聞くはずの言葉を、前にも聞いたような感覚。
そして今。
過去を変えれば、今が変わる。
「真壁さん」
「何だ」
「御影先生」
「…………」
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「今それいいから」
「良くありません」
「いや、マジで」
奎星の顔から、いつもの笑いが消えた。
三人が黙る。
窓の外で、雨が降り続いている。
その雨は、朝には存在しなかった。
それなのに、奎星の手は傘を選んだ。
「みんな」
奎星は言った。
「聞いてほしいんだ」
真壁の目が、わずかに細くなる。
御影は黙ったまま、奎星を見ている。
スズメは、机の上の資料へ置いていた手をゆっくり引いた。
雨が窓を叩いている。
朝には、降るはずのなかった雨だった。
奎星は一度だけ息を吸った。
自分でも、まだ信じていない。
それでも。
「俺」
声が、少し震えた。
「今日を知ってたんだ」