「俺、今日を知ってたんだ」
雨が、窓ガラスを細かく叩いていた。
午後の魔法史研究室は、いつもより薄暗い。窓の外では、灰色の雲が島の上空を低く覆い、濡れた校舎の壁を伝う水が、ぼんやりとした光を歪ませている。古い本と乾いた紙の匂いに、雨の冷たさが混じっていた。
その中で、奎星の声だけが妙にはっきりと残った。
真壁征士郎は、机の向こうから蓮根奎星を見ていた。御影玄一郎は窓際に立ったまま、腕を組んでいる。スズメも、開いた資料へ落としていた視線を上げていた。
誰も、すぐには答えなかった。
奎星自身でさえ、口にした言葉の意味を完全には理解していない。胸の奥に引っかかっているものを、手探りで拾い上げたにすぎなかった。
「知っていた」
やがて、真壁が言った。低く、落ち着いた声だった。
「何をだ」
「…………」
奎星は眉間に皺を寄せ、視線を机へ落とした。鉛筆の削り屑が、紙の端に小さく散っている。そこへ指を伸ばしかけて、やめた。
「雨」
「他には」
「校長が何言うか」
「他には」
真壁の問いは短い。急かしているわけではない。ただ、逃げ道を作らない聞き方だった。
奎星は唇を開きかけた。
「後藤さんが」
そこで言葉が止まる。
穏やかな顔が浮かんだ。
《一度保留にしよう》
今日、後藤はそう言った。落ち着いた声で、まるで最初から決めていたように。
けれど、その前に。
別の顔があった気がする。
眉間に深い皺を刻み、声を荒らげ、こちらを責める顔。怒っていた。何かを恐れているようにも見えた。
誰が。
「…………後藤さん」
「何だ」
「前は」
言葉にした途端、頭の奥へ鈍い痛みが走った。視界の端が一瞬だけ白くなる。
「前?」
スズメが訊いた。声は静かだったが、椅子の背から離れていた身体が、わずかに奎星へ傾いている。
「分かんねえ」
奎星は額を押さえた。指の腹に、自分の体温が妙に熱く感じられる。
「でも、何か……」
雨。
濡れた制服。
肩へ掛けられたタオル。
清弦。
ばあちゃん。
断片が、順番もなく浮かんでは沈んでいく。
「後藤さん、怒ってた気がする」
その瞬間、真壁の目が変わった。
ほんのわずかな変化だった。眉が動いたわけでも、身を乗り出したわけでもない。ただ、奎星を見ていた視線が、観察から確認へ切り替わった。
「今日の面会では?」
「全然」
「では、いつだ」
「だから分かんねえって」
奎星は苛立ちを隠せず、声を荒げた。だが、言い終えるとすぐに視線を逸らした。自分でも、怒りをぶつける相手が違うと分かっている。
「……でも、ここで」
奎星は胸の中央へ指を当てた。
「何か覚えてる」
真壁は答えなかった。
研究室の壁時計が、一定の間隔で時を刻んでいる。窓の外では雨が強くなり、屋根を打つ音が低く重なった。
やがて真壁は、背後の扉へ歩いた。取っ手へ手を掛ける前に、廊下の気配を確かめるように一度だけ耳を澄ます。それから扉を閉め、鍵は掛けずに、しかし外から簡単には開かない位置へ身体を置いた。
「玄一郎」
「ああ」
御影は窓際から離れた。濡れたガラスに映っていた自分の姿を振り切るように、ゆっくりとこちらへ戻ってくる。
スズメは何も言わず、机の上に開かれていた逆転時計の資料を閉じた。紙と紙が擦れる音が、やけに大きく響く。
室内の空気が変わった。
さっきまでの補習や研究の話をしていた場所ではなくなった。誰かが、見えない境界線を引いたようだった。
奎星にも、それが分かった。
「蓮根君」
真壁が言った。
「今から話すことは、本来なら君へ話す内容ではない」
「何で」
「捜査情報だからだ」
「俺、当事者じゃん」
奎星は椅子の背へ寄りかかり、真壁を見上げた。いつもの反発に近い言い方だったが、声の奥には不安が混じっている。
「そう言うと思った」
「じゃあ」
真壁は一度、言葉を選ぶように黙った。
「そして」
その声が、わずかに低くなる。
「今回は、その通りだ」
奎星の口から、続きの言葉が消えた。
「君は当事者だ」
真壁は近くの椅子を引いた。脚が床を擦り、乾いた音を立てる。
「さて」
「…………」
「全部話す」
奎星はしばらく真壁を見ていた。やがて、抵抗するように固まっていた肩の力を少し抜き、ゆっくり椅子へ戻った。
*
真壁は、まずK-417について説明した。
英国製の特殊長距離型逆転時計。
二〇二〇年に確認された、従来型とは異なる性質を持つ時間魔法具。
年単位の時間遡行。
過去への積極的な干渉。
歴史改変。
そして、改変によって現在そのものが変化する可能性。
言葉が一つずつ積み重なるたび、奎星の表情から軽さが消えていった。
「消えた?」
説明が一段落したところで、奎星が訊いた。
「ああ」
真壁は短く答えた。
「最初の現場確認時には存在していた」
「うん」
「移送時にはなかった」
「盗まれたってこと?」
「断定できん」
「何で?」
「盗んだ痕跡がない」
「じゃ、なくした?」
「それも分からん」
「使われた?」
「それも分からん」
奎星は両手を広げた。椅子の背が、背中で小さく軋む。
「何も分かってねえじゃん」
「だから調べている」
真壁の声は淡々としていた。だが、机の上に置かれた手帳の角を、親指が何度もなぞっている。苛立ちを表に出さない代わりに、指先だけが動いていた。
「問題は」
スズメが静かに口を挟んだ。
「使われていた場合ですね」
真壁が頷く。
「ああ」
奎星は真壁とスズメを交互に見た。
「どういうこと?」
スズメは閉じた資料へ手を置き、表紙を撫でるようにしてから、もう一度開いた。紙の端が少し湿気を吸っている。
「もしK-417が使われて、過去が書き換えられた場合」
「うん」
「私たちは」
スズメはそこで一度、息を吸った。
「書き換えられる前の時間を、覚えていない可能性があります」
雨音が、急に近くなった。
奎星は窓を見た。ガラスの向こうで水滴が流れ、校舎の輪郭をぼかしている。
「…………」
「覚えてない?」
「はい」
「自分がやったことも?」
「変わったのであれば」
「真壁さんたちが捜査してたとしても?」
「その捜査をする前まで戻られ」
真壁が引き取った。
「原因になるものを消されれば」
奎星の顔から、少しずつ表情が抜けていく。
「捜査した事実そのものがなくなる」
「…………」
「見つけた証拠も」
「ああ」
「話した人も?」
「ああ」
「犯人見つけても?」
「可能性としては」
真壁は奎星から目を逸らさずに言った。
「それすら消える」
奎星は何も言わなかった。
膝の上で、両手がゆっくり握られていく。爪が掌へ食い込む感触があった。
頭の中で、今朝の自分が傘を手に取る。
理由もなく。
晴れた空の下で。
「でも」
奎星が言った。
「俺」
「ああ」
「傘持ってた」
「だから来た」
真壁は奎星を見た。
「我々が確認できた、最初の異常だ」
「異常って」
「本人に言ったら怒るぞ、と玄一郎にも言われた」
「もう言ってるじゃん!」
奎星が身を乗り出す。張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけいつもの調子へ戻った。
「そこではない」
御影が低く言った。
「聞け」
「はい」
奎星は口を閉じた。御影の声には、冗談を許さない硬さがあった。
「今朝は晴れていた」
真壁が続ける。
「東京にも島にも降水予報はない。それでも君は傘を持った」
「うん」
「そして雨が降った」
「…………」
「本人に理由は分からない」
「うん」
「だから仮説を立てた」
真壁は手帳を開いた。そこには、短い文字でいくつかの項目が並んでいる。
「君は、今日雨が降ることを知っていたのではないか」
奎星は黒い傘を思い出した。
朝の廊下。窓から差し込む明るい光。誰も傘を持っていない中で、自分だけがそれを手に取った。
冷たい柄。
《……一応》
「今日を」
真壁の声が、雨音の向こうから届く。
「すでに一度経験していたから」
奎星の背中を、冷たいものが走った。
「…………マジ?」
「可能性だ」
「でも」
奎星は窓へ顔を向けた。雨が降っている。今ここにある雨は、確かに現実だった。
「俺、何か」
言葉を探すように、視線が宙をさまよう。
「校長と雨の中歩いた気もする」
銀色の髪。
一つの傘。
《言いたいことは言えましたか?》
その声だけが、妙に鮮明だった。
「…………あ」
「何だ」
「校長」
奎星の目が動いた。
「俺」
喉が詰まる。唾を飲み込んでも、乾いた感じが消えない。
「何か言った」
「何を」
「後藤さんに」
「何をだ」
「分かんねえ」
奎星は手を握った。指の関節が白くなる。
「でも」
胸の奥が苦しくなった。
雨の中で、泣きそうなくらい腹が立っていた。怒りだけではない。悔しさと、誰かに勝手に道を決められることへの恐怖が混ざっていた。
「断った」
真壁が動きを止めた。
「特別顧問?」
「うん」
「今日も保留にしただろう」
「違う」
奎星は首を横へ振った。
「今日じゃない」
自分で言っておきながら、その言葉の意味が分からない。
「別の今日」
誰も口を挟まなかった。
スズメの指が、机の端を僅かに握る。御影は腕を組んだまま、視線だけを奎星へ向けている。
真壁だけが、奎星を見続けていた。
「続けろ」
「後藤さんが怒って」
「何と言った」
「分かんねえ」
「思い出せる範囲でいい」
奎星は目を伏せた。
「清弦」
その名前だけは、すぐに出てきた。
「清弦の話された」
「どういう話だ」
「…………俺が」
奎星は目を閉じた。
声が聞こえる。
遠い。水の底から響いてくるようで、それでも確かに自分へ向けられていた。
《君ほどの人間が》
その先が途切れる。
「俺が教師とか、禍祓官とか言って」
御影の目が僅かに動いた。
「後藤さんが」
「何だ」
「馬鹿にした」
奎星の声が低くなる。
「多分」
その一言に、真壁の視線がわずかに鋭くなった。
「…………」
「それで俺、キレて」
雨。
清弦。
八重子。
《好きに生きてほしかったんだよ》
奎星は目を開いた。
「……ばあちゃんのこと思い出した」
真壁は何も言わなかった。否定も、慰めも挟まない。ただ、奎星が次の言葉を探す時間を待っている。
「そのあと戻って」
「どこへ」
「後藤さんとこ」
「戻った?」
「うん」
「何をした」
「断った」
今度は、少しだけはっきりしていた。
「俺が選んだ道を歩くって」
その言葉が口から出た瞬間、奎星自身が止まった。
知っている。
それを。
自分が言った。
確かに。
「俺」
声は震えていなかった。ただ、喉の奥が擦れたように掠れていた。
「言った」
スズメが奎星を見る。
「覚えているのですか」
「今」
奎星は胸へ手を置いた。心臓が、服の上からでも分かるほど強く打っている。
「今、思い出した」
真壁が椅子から立った。
「征士郎」
御影が呼ぶ。
「ああ」
「後藤だな」
「まだだ」
真壁は即答した。
奎星が顔を上げる。
「でも」
「決めつけるな」
その言葉は、以前にも聞いたものと同じだった。冷静に。一つずつ。感情で結論を急がない。
「蓮根君」
「…………」
「今日の後藤孝雄が怪しいことと、K-417を後藤が使用したことは同じではない」
「うん」
「疑うのは構わん」
真壁の目が鋭くなる。
「それだけで犯人にはできない」
「…………分かった」
奎星は頷いた。納得したわけではない。それでも、真壁が何を守ろうとしているのかは分かった。
「だが」
真壁が手帳を取り出す。
「調べる」
御影が腕を組み直した。
「どこからだ」
「全部だ」
「全部?」
奎星が訊く。
「経歴、人事、予算、接触記録、魔法具管理、K-417が消えた施設との関係」
真壁は手帳を閉じた。
「今日の朝、なぜ君が来ると予想できたのかも含めてな」
「俺も行く」
「駄目だ」
御影だった。
「何で」
「生徒だからだ」
「俺しか覚えてないかもしれないじゃん」
「だからこそだ」
「意味分かんねえ」
「勝手に動くな」
「でも」
「蓮根」
低い声だった。
奎星は口を閉じた。
「お前の役目は」
御影は、奎星の目を正面から見た。
「思い出したことを全部話すことだ」
「…………」
「後藤へ会いに行くな」
「分かった」
「一人で動くな」
「分かったって」
「魔法省にも勝手に来るな」
「それは今日もう来た」
「次からだ」
「はい」
真壁が小さく息を吐いた。呆れたようにも、少しだけ安心したようにも聞こえた。
「今回は玄一郎の言う通りだ」
「真壁さんまで」
「君は証拠ではない」
「…………」
「だが」
真壁が奎星を見る。
「今のところ、消えた時間を持っている可能性がある唯一の人間だ」
奎星は黙った。
その言葉は、責任を押しつけられたようにも、頼られたようにも聞こえた。
「だから」
真壁は言った。
「覚えていろ」
雨が、窓を打った。
*
午後四時十二分。
日本魔法省監察局。
窓の外は、島と同じ雨に覆われていた。高い建物の間を風が抜け、濡れたガラスを細かく震わせている。廊下では職員たちが行き交い、紙束を抱えた者が足早に通り過ぎていく。
その喧騒から少し離れた監察局の一角で、真壁の机の上に、後藤孝雄という一人の男の人生が積み上がり始めていた。
人事記録。
所属部署。
星帰り作戦以降の復旧関連委員会。
予算調整。
人員再配置。
会議出席。
資料閲覧。
紙をめくるたび、乾いた音がする。
御影は机の横で腕を組み、記録の山を睨んでいた。
「どうだ」
「普通だ」
真壁は一枚の書類から目を上げずに答えた。
「それが一番面倒だな」
「ああ」
真壁は頁を捲った。
「不自然な出世はしている」
「早すぎる」
「だが違法ではない」
「判断が全部当たった」
「結果だけ見ればな」
「偶然か」
「まだ分からん」
真壁は次の紙へ手を伸ばした。
復旧予算。
星帰り作戦後の施設再編。
押収物移送。
そこで、指が止まった。
「玄一郎」
「何だ」
「これを見ろ」
御影が机へ寄る。真壁が示したのは、押収された危険魔法具の仮保管施設に関する記録だった。
施設内には、星帰り後の復旧関連資材を確認するため、複数の行政担当者が立ち入っている。
「後藤」
「ああ」
名前があった。
《後藤孝雄》
御影の視線が、記録の上を滑る。
「K-417があった場所か」
「同じ施設だ」
「部屋は」
「違う」
真壁は即座に答えた。
「後藤が入った記録があるのは復旧資材区画。K-417の一時保管区画とは別だ」
「距離」
「同じ階」
御影の目が細くなる。
「いつだ」
「初回確認と移送の間」
短い沈黙が落ちた。
真壁は記録の余白へ指を置いた。
「近くにはいた」
「ああ」
「それだけだ」
「十分怪しい」
「怪しいと証拠は違う」
「分かってる」
「なら言わせるな」
真壁は記録を複写しようとした。
そのとき、机の端に小さな青い光が灯った。
《閲覧履歴登録》
真壁の手が止まる。
「…………」
「何だ」
「この記録」
真壁は青い文字を見た。
「管理部門へ照会履歴が残る」
「消せ」
「もう送られた」
御影の眉間に皺が寄る。
「誰まで行く」
「通常なら管理責任者だけだ」
「通常なら」
「ああ」
真壁は青い光が消えるまで、黙って見ていた。
*
午後四時十九分。
別の階にある後藤孝雄の執務室へ、一羽の折り鶴が飛び込んできた。
窓の隙間から入り込んだ風に乗り、白い紙の鳥は机の上へ静かに降りる。
後藤は書類へ走らせていた筆を止めた。
折り鶴を拾い、指先で折り目を開く。
短い文字だった。
《監察局・真壁征士郎監察官より、復旧関連施設立入記録について照会》
後藤は、その一文をしばらく見ていた。
顔色は変わらない。
机の上には、特別顧問の資料が置かれている。そこには、今日の面会後に自分で書いた文字があった。
《検討保留》
後藤は、その文字を指で一度なぞった。
「…………早いな」
誰もいない部屋で、小さく呟く。
窓の外では、雨が降っていた。ガラスを流れる水の向こうで、魔法省の塔がぼやけている。
後藤は椅子から立ち上がった。
扉へ歩き、鍵を掛ける。
戻ってきた彼は、机の一番下にある引き出しへ手を伸ばした。鍵穴へ細い鍵を差し込む。
かちり。
金属音がした。
*
魔法史研究室。
奎星は机へ向かい、白い紙へ鉛筆を走らせていた。
《雨》
《傘》
《後藤さん》
《校長》
《ばあちゃん》
《清弦》
思い出したことを書く。
真壁に言われた。
覚えていろ。
だから書いていた。
紙の上に並ぶ言葉は、どれも短い。けれど、書き留めておかなければ、次の瞬間には指の間からこぼれてしまいそうだった。
「…………」
鉛筆が止まる。
窓の外では、雨が降っている。
その雨粒の一つが。
上へ動いた。
「…………え?」
奎星が顔を上げる。
窓を伝っていた水滴が、下から上へ登っていく。一つ。二つ。三つ。まるで見えない手に引かれているようだった。
「スズメちゃん」
「何です?」
スズメは別の机で資料を整理していた。声に振り向いたとき、奎星の顔色が変わっていることに気づく。
「雨」
「はい?」
壁の時計が鳴った。
こち。
こち。
こち。
長針が、逆へ動いた。
「…………」
スズメも時計へ目を向ける。
「蓮根君」
紙の上で、《後藤さん》の文字が薄くなった。
「待って」
奎星が紙を押さえる。
「待って、これ」
文字が消えていく。
《清弦》
《ばあちゃん》
《校長》
「待てって!」
インクが紙から浮かび上がり、鉛筆の芯へ吸い込まれていく。紙の表面には、何も書かれていなかったような白さが戻っていった。
雨が空へ帰っていく。
「蓮根君!」
スズメが手を伸ばす。
奎星も手を伸ばした。
指先が、浮かび上がったインクへ触れる。
届く。
その直前。
光が消えた。
*
朝。
よく晴れていた。
蓮根奎星は、目を開けた。
天井。
見慣れた寮の部屋。
時計。
午前五時。
数秒間、奎星は何もしなかった。
「…………雨」
口から言葉が落ちた。
隣では日向が寝息を立てている。岳も、伊織も眠っていた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、床に細い帯を作っている。
朝練。
今日はない。
御影は魔法省へ行っている。
K-417。
消えた逆転時計。
後藤。
真壁。
研究室。
文字が消えた。
そこまで。
奎星は飛び起きた。
「……マジ?」
「うるせえ……」
日向が布団の中で呻いた。
「日向」
「何……」
「今日、朝練ない」
「知ってる……」
「雨降る」
「…………は?」
「昼前くらい」
「何言ってんだよ……」
奎星は窓へ駆け寄った。
晴れている。
青い空。
雲ひとつない。
昨日も。
いや。
昨日ではない。
今日。
さっきまでの今日。
「戻った」
奎星は呟いた。
今度は。
覚えている。
全部ではない。
でも。
傘だけではない。
*
午前七時四十三分。
校長室には、朝の光が斜めに差し込んでいた。窓辺の観葉植物の葉に光が当たり、床へ細い影を落としている。外は晴れているのに、奎星の手には黒い傘があった。
「今日、一時間目を」
九重院紫苑が書類から顔を上げる。
「お休みしたいのですか?」
奎星が止まった。
「…………」
「どうしました?」
「やっぱそう言うんだ」
「はい?」
「いや」
奎星は頭を掻いた。自分でも、何を期待していたのか分からない。
「魔法省行きたい」
「後藤さんのところへ?」
「違う」
即答だった。
「真壁さん」
九重院の目が僅かに変わる。
「真壁さんですか?」
「うん」
「何かありましたか?」
「ある」
奎星は傘の柄を握り直した。冷たい感触が、記憶を現実へ繋ぎ止めている。
「めっちゃある」
九重院はしばらく奎星を見ていた。やがて、何かを尋ねる代わりに、机の上の許可証へ手を伸ばした。
奎星は黒い傘を持っていた。
今日は。
廊下で迷わなかった。
最初から手に取った。
*
午前八時五十八分。
日本魔法省の中央広間は、朝の職員たちで混み合っていた。濡れてはいない外套が行き交い、受付の魔法灯が白い床へ反射している。
「K-417」
奎星が口にした瞬間、真壁の足が止まった。
隣にいた御影も、わずかに肩を強張らせる。
「何だと」
「なくなってんだろ」
「誰から聞いた」
「真壁さん」
「私は君に話していない」
「話した」
「いつだ」
奎星は真壁を見た。
「今日」
「…………」
「もう一回目の今日」
御影が眉を寄せる。
「蓮根」
「あと、後藤さん」
奎星は続けた。
「K-417があった施設と同じ階に入ってる」
真壁の顔から、完全に表情が消えた。
「…………」
「復旧資材の区画。時計の部屋とは違う」
「誰に聞いた」
「真壁さん」
「私はまだ調べていない」
「これから調べる」
真壁は黙った。
周囲では職員たちが行き交っている。誰も三人の会話へ注意を向けていない。けれど、奎星には、広い中央広間の中で自分たちだけが切り離されたように感じられた。
「調べると」
奎星は言った。
「後藤さんにバレる」
御影が真壁を見る。
「征士郎」
「ああ」
「こいつ」
「ああ」
真壁は奎星から目を離さない。
「蓮根君」
「何」
「最初から話せ」
*
二度目は、早かった。
受付へは行かなかった。
後藤にも会わなかった。
真壁は公式の照会を出さなかった。
奎星が覚えていることを先に聞き、そのうえで、自分の権限だけで確認できる範囲から調べた。
監察局の小さな会議室。窓の外には、まだ雨の気配がない。机の上には紙と記録用の魔法板が並び、真壁の指が一つずつ項目を追っていく。
復旧関連施設。
立入記録。
後藤孝雄。
本当に、名前があった。
「…………」
真壁は紙を見つめた。
「当たった」
御影が言う。
「喜ぶな」
「喜んでない」
「顔」
「蓮根みたいなこと言うな」
真壁は記録を閉じた。紙を複写することも、正式な照会を出すこともしない。
「次」
「何を見る」
「この日の施設警備記録だ」
「公式照会は」
「しない」
「どうする」
「直接行く」
午後。
真壁と御影は施設へ向かった。
奎星は学校へ残された。
「何で!」
校長室の前で、奎星が声を上げる。廊下の向こうを通り過ぎた生徒が、何事かと振り返った。
「約束しただろう」
御影が言う。
「俺の記憶なんだけど!」
「だから待て」
「また戻されたら!?」
「そのとき話せ」
「理不尽!」
「学校へ戻れ」
「くそっ!」
扉が閉じたあとも、奎星の声はしばらく廊下に残った。
そして。
午後三時四十一分。
真壁と御影は、保管施設の古い入退室台帳を見ていた。
施設の奥は、外の雨音が届かないほど静かだった。紙と埃の匂いがこもり、古い魔法灯が天井で弱く明滅している。
台帳は魔法式の記録ではなく、紙だった。
「これだ」
担当職員が指差す。
《後藤孝雄》
その横に時刻。
さらに、立入理由。
《復旧資材査定》
「このとき」
真壁が訊く。
「後藤本人を見たか」
「はい」
「一人だった?」
「最初は」
「最初は?」
職員が眉を寄せ、記憶を探るように視線を天井へ向けた。
「途中で、危険物管理の担当者と話していました」
「誰だ」
名前が出た。
真壁はすぐに手帳へ書く。紙へ走るペンの音が、静かな部屋に響いた。
「内容は」
「分かりません。ただ」
「ただ?」
「後藤さんが」
職員は少し眉を寄せた。
「英国から来た品はどれか、と聞いていたのは覚えています」
真壁の筆が止まった。
御影の目が鋭くなる。
「英国」
「はい」
「何と言った」
「英国から来た特殊魔法具はどの区画にある、と」
沈黙が落ちた。
「征士郎」
「ああ」
「これは」
「まだだ」
真壁は低く言った。
「まだ質問だ」
その頃。
魔法省。
後藤孝雄の執務室。
「後藤さん」
部下の一人が書類を持って入る。扉が閉まる音を聞きながら、後藤は顔を上げた。
「何だい」
「今日、御影先生と真壁監察官が、復旧資材の仮保管施設へ行かれたそうです」
後藤の筆が止まった。
「二人で?」
「はい」
「何の用で」
「そこまでは」
「…………」
後藤は窓を見る。
まだ、雨は降っていない。
時計を見る。
午後三時四十七分。
「そうか」
「何か?」
「いや」
後藤は笑った。
「ありがとう」
部下が出ていく。
扉が閉まる。
笑みが消えた。
「…………今度は」
小さな声だった。
「随分早いな」
机の下。
鍵。
金属音。
*
マホウトコロ。
放課後の魔法史研究室には、夕方の光が薄く残っていた。雨はまだ降っていない。窓の外は明るいのに、奎星の中では、すでに何度も見た終わりが近づいている。
奎星は突然、立ち上がった。
椅子の脚が床を擦り、スズメが顔を上げる。
「どうしました?」
「来る」
「何がです?」
奎星は窓を見た。
まだ晴れている。
けれど、空の明るさが不自然に感じられた。何かが、こちらへ近づいている。
「また来る」
時計。
こち。
「蓮根君?」
「スズメちゃん」
奎星は雨粒などない窓へ手を伸ばした。
「また戻る」
こち。
秒針が止まった。
「…………」
「蓮根君」
「覚えとく」
「何を」
「全部」
時計が逆へ動いた。
「今度は忘れない」
光が消えた。
*
朝。
まだ、目覚ましは鳴っていなかった。
奎星は目を開けた。
午前四時五十八分。
二分後に五時。
日向が寝ている。
伊織も。
岳も。
部屋の中には、寝息と、遠くの海から届く風の音だけがあった。
奎星は起き上がった。
覚えている。
K-417。
真壁。
御影。
後藤。
施設。
英国。
担当職員。
《英国から来た特殊魔法具はどの区画にある》
その言葉まで。
はっきり。
「…………またかよ」
小さく呟いた。
胸は速く鳴っていた。
けれど、前ほど怖くなかった。
それより。
腹が立っていた。
「何回やんだよ」
誰も答えない。
窓の外は晴れている。
今日も雨が降る。
知っている。
*
三度目。
真壁は、奎星の話を最後まで聞くと、机の上の紙を一枚裏返した。
「施設へ行くな」
そう言った。
「え?」
「前回そこで気づかれた」
「うん」
「なら同じことはしない」
真壁は一枚の紙を出す。
魔法省の記録用紙ではない。
ただの白い紙だった。
公式の印も、追跡用の魔法式もない。奎星はそれを見て、真壁が本気で記録を残さないつもりなのだと理解した。
「公式記録へ残さない」
「どうやって調べんの」
「人間へ聞く」
「前も聞いてたよ」
「違う」
真壁は言った。
「魔法省を通さない」
御影が理解する。
「昔の伝手か」
「ああ」
「誰だ」
「移送に関わった退職者が一人いる」
「連絡は」
「私が直接行く」
真壁は奎星を見る。
「君は」
「学校?」
「学校だ」
「また!?」
「覚えていることが増えている」
「うん」
「なら、それが一番重要だ」
「でも」
「蓮根君」
真壁の声が低くなる。
「我々が何度失敗しても」
奎星が黙る。
「君が覚えているなら」
真壁は言った。
「失敗は消えていない」
その言葉を。
奎星は、強く覚えた。
*
午後一時二十二分。
東京郊外の小さな魔法具修理店には、雨の代わりに湿った風が吹き込んでいた。店内には金属を磨く匂いと、古い木材の乾いた匂いが混じっている。壁際の棚には、壊れた時計や杖の部品が所狭しと並んでいた。
真壁と御影は、一人の元魔法省職員を訪ねていた。
七十を過ぎた男だった。すでに現場を離れ、今はこの小さな店を一人で営んでいる。白くなった眉の下から、警戒するような目が二人を見上げた。
「K-417?」
男が眉を寄せる。
「聞き覚えは」
「番号はな」
「品は」
「特殊逆転時計だろ」
真壁と御影の視線が動く。
「なぜ知っている」
「移送表にあった」
「見たのか」
「ああ」
「後藤孝雄は」
男の手が止まった。
「後藤?」
「当時、施設へ来ていた」
「ああ」
「知っているのか」
「見た」
御影の顔が変わった。
「何をしていた」
「知らんよ」
「どこで見た」
「危険物の保管階だ」
真壁の声が低くなる。
「復旧資材区画ではなく?」
「いや」
男は店の奥へ視線を向けた。記憶を探しているのだろう。しばらくして、指先でカウンターを二度叩いた。
「廊下で会った」
「K-417の保管区画へ続く廊下か」
「そうだ」
「間違いないか」
「俺が案内図を書いた」
男は言った。
「間違えるか」
沈黙。
真壁は、すぐには何も言わなかった。
これまでより一歩。
近い。
「何時だ」
「夕方だったと思う」
「誰か一緒だったか」
「一人だった」
「何を持っていた」
「何も」
「どこから来た」
「…………」
男が少し考えた。
「保管区画側から」
真壁の目が変わった。
御影が低く言う。
「征士郎」
「ああ」
「戻ってたんじゃない」
真壁は何も言わない。
「K-417の側から来た」
男は不思議そうに二人を見る。
「何かあったのか?」
真壁が手帳を閉じる。
「確認だ」
*
午後一時五十九分。
日本魔法省。
後藤の机の上に、一通の私信が届いた。
魔法省の正式文書ではない。
昔の知人からだった。
《真壁征士郎が、例の移送について聞いて回っている》
それだけ。
後藤は、紙を見た。
長い時間。
窓の外では、まだ雨は降っていない。晴れた空が、執務室の床へ薄い光を落としている。
やがて。
「…………」
後藤は椅子へ深く座った。
目を閉じる。
そして、笑った。
小さく。
「なるほど」
今度は。
監察局の記録を見ていない。
施設にも行っていない。
それでも。
追ってきた。
「誰かが」
後藤は呟いた。
「教えているな」
机の上にある一枚の写真。
銀の鴉。
制服姿の少年。
《現代の英雄・蓮根奎星》
後藤の指が、その写真の端へ触れた。
「…………君か?」
*
午後二時四分。
魔法史研究室。
奎星の身体が、突然冷たくなった。
窓の外は晴れている。けれど、背後から冷気を浴びたように、首筋の毛が逆立った。
「…………」
「蓮根君?」
「今」
奎星が顔を上げる。
「何か」
「何です?」
「見られた気がする」
「誰に?」
「分かんねえ」
けれど。
直後。
壁の時計が止まった。
「まただ」
奎星は立つ。
今度は驚かなかった。
「スズメちゃん」
「はい」
「真壁さんが言った」
「何をです?」
「俺が覚えてれば」
時計が逆へ動き始める。
「失敗は消えてない」
「蓮根君?」
奎星は目を閉じない。
消えていく研究室を見る。
机。
本。
スズメ。
窓。
全部。
視界の端から、薄い光へ溶けていく。
「覚える」
暗くなる。
「絶対」
*
朝。
奎星は目を開けた。
午前四時五十六分。
起き上がる。
頭の中に、人の声があった。
《君ほどの人間が、そんな誰にでもできる仕事をする?》
奎星の動きが止まった。
前まで、ぼやけていた声。
思い出せなかった言葉。
今は、はっきり聞こえた。
《もうそんな段階ではないんだよ!》
後藤。
《君だけの問題ではない!》
奎星の目が大きくなる。
雨。
後藤の執務室。
立ち上がった男。
《蓮根清弦がそうだった!》
「…………」
次。
雨の中。
自分が叫んでいる。
《清弦がなんだよ!》
八重子。
《好きに生きてほしかったんだよ》
そして。
もう一度、後藤の部屋。
《俺が選んだ道だ》
《最後まで責任取って》
《俺が選んだ道を歩くよ》
奎星はベッドの上で、息をするのも忘れていた。
そのあと。
《分かった》
後藤が、急に穏やかになった。
《学校生活を楽しみなさい》
そして。
朝。
また六月十五日。
「…………最初」
奎星は呟いた。
最初の今日。
思い出した。
後藤は、怒った。
次の今日。
後藤は。
《君の人生だ》
正反対のことを言った。
「後藤さん」
奎星の目が変わった。
「知ってたんだ」
*
午前八時四十分。
監察局の小さな会議室には、朝の光が届いていなかった。ブラインドの隙間から差し込む白い線が、机の上の紙を細く照らしている。
「最初は怒鳴った?」
真壁が訊く。
「うん」
「言葉は」
「覚えてる」
奎星は答えた。
「『君だけの問題ではない』」
真壁が黙る。
「次のときは?」
「『君の人生だ』」
御影の目が細くなる。
「同じ日か」
「同じ日」
「同じ話」
「うん」
「後藤だけが」
真壁が言う。
「答えを変えた」
「うん」
「君が一度断ることを知ったあとに」
「…………多分」
真壁はしばらく動かなかった。机の上のペンへ手を伸ばしたが、書かずに戻す。
「もう一つ」
奎星が言う。
「何だ」
「前の前」
「前の前?」
「分かんねえ。最初の今日」
奎星は額へ指を当てた。
「俺、一回学校帰った」
「いつ」
「後藤さんに怒鳴られたあと」
「そのあと戻ったと言っていたな」
「うん」
「なぜ」
「ばあちゃんのこと思い出した」
真壁は何も挟まない。
「それで、断った」
「後藤の反応は」
「最初はあっさり」
「…………」
「そのときも最後に」
奎星は言った。
「『学校生活を楽しみなさい』って」
真壁の顔が変わる。
「次の時間でも同じ言葉を?」
「うん」
「一字一句?」
「多分」
「征士郎」
「ああ」
御影が腕を組む。
「後藤は最初の時間を覚えていた」
「可能性は高くなった」
「まだ可能性?」
奎星が言う。
「まだだ」
「真壁さん堅え」
「仕事だ」
「でも」
「ああ」
真壁は立ち上がった。
椅子の脚が床へ触れ、静かな音を立てる。
「今度は」
手帳を閉じる。
「追いつく」
*
今度は、誰にも聞かなかった。
記録も見なかった。
照会もしなかった。
午後まで待たなかった。
後藤へ繋がる情報を探すのではなく。
後藤本人を見た。
午前十時十三分。
後藤が執務室を出る。
扉が閉まる音を、真壁は少し離れた場所から聞いていた。御影は反対側の廊下に立ち、奎星は二人の間に置かれている。
真壁と御影は、別々の場所からその動きを追った。
奎星は。
本来なら学校へ戻されるはずだった。
「絶対勝手に動くなよ」
御影が言った。
「分かった」
「その返事が一番信用できん」
「今回はマジ」
「毎回言ってる」
「今回は今回」
「同じだ」
それでも。
奎星は魔法省にいた。
真壁が許可した。
「こいつが時間を覚えている」
「だから危険だ」
「だから見せる」
「征士郎」
「近づけない」
真壁は言った。
「我々から離すな」
御影は最後まで納得していない顔だった。だが、奎星の肩へ置きかけた手を、途中で引いた。触れれば、余計に前へ出ようとすることを知っているのだろう。
「絶対前へ出るな」
「はい」
「返事だけはいいな」
「よく言われる」
「黙れ」
三人で動いた。
後藤は中央広間を横切った。
上層区画ではなく。
下へ。
一階。
二階。
さらに下。
階段を下りるたび、魔法灯の光が弱くなっていく。職員の気配も遠ざかり、靴音だけが石造りの壁へ反響した。
「どこ行くんだ」
奎星が小さく訊く。
「声を落とせ」
御影が言う。
古い記録区画。
今はほとんど使われていない廊下。
魔法灯の数も少ない。
後藤が角を曲がる。
三人が少し遅れて追う。
「いない」
奎星が言った。
「静かにしろ」
真壁が床を見る。
薄く積もった埃に、靴跡が残っている。新しいものだった。
廊下の奥。
一つだけ扉がある。
「征士郎」
「ああ」
真壁が杖へ手を掛ける。
御影も同じように杖を抜いた。
奎星の腰の神代榊が、僅かに震えた。
「…………」
奎星が止まる。
「何だ」
「杖」
「反応した?」
真壁が奎星を見る。
「ちょっと」
扉の向こう。
何かがある。
空気が、ほんの少しだけ歪んでいた。音が吸われているように静かで、扉の隙間から流れてくる風だけが妙に冷たい。
真壁が手を伸ばす。
その瞬間。
扉が開いた。
「…………」
後藤孝雄が立っていた。
三人を見る。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
後藤の顔から血の気が引いた。
「真壁監察官」
すぐに戻る。
「何を?」
真壁は答えない。
後藤を見る。
右手。
何かを握っている。
銀色。
細い鎖。
小さな輪。
その中央。
砂時計。
奎星の呼吸が止まった。
「それ」
後藤の指が動く。
「後藤さん」
奎星が一歩前へ出た。
「蓮根!」
御影が腕を掴む。
「それ、逆転時計だろ」
後藤の目が奎星へ向く。
「…………」
「何で」
奎星が言う。
「何でそんな顔してんだよ」
後藤は答えない。
握った砂時計を、隠すように指を閉じる。
「俺」
一歩。
「覚えてる」
後藤の目が。
明らかに変わった。
「…………何?」
「今日」
奎星は言った。
「何回もやってる」
真壁が杖を抜く。
「後藤孝雄」
御影も。
「手を動かすな」
後藤は二人を見た。
そして。
奎星を見る。
「どうして」
初めて。
穏やかではない声が出た。
「君が覚えている?」
「俺が聞きてえよ」
「あり得ない」
「知らねえよ」
奎星は後藤の手を見る。
銀の砂時計。
それが、何度も自分たちを朝へ戻したものだ。
「でも」
奎星は言った。
「今度は見た」
後藤の指が動いた。
「動くな!」
真壁の声が廊下へ響く。
御影が杖を上げる。
「エクスペリアームス!」
赤い光が、後藤の腕へ走る。
あと少し。
ほんの少し。
届く。
その瞬間。
後藤が砂時計を回した。
かちり。
小さな音だった。
世界が止まった。
*
朝。
まだ誰も起きていない。
蓮根奎星は目を開けた。
飛び起きなかった。
天井を見る。
窓を見る。
時計を見る。
午前四時五十五分。
「…………」
朝練はない。
御影は魔法省へ行く。
午前七時過ぎ、日向が今日魔法省へ行くのかと訊く。
校長は外出を許可する。
廊下に黒い傘がある。
昼前に雨が降る。
真壁はK-417を調べている。
後藤は朝のうちに受付へ、自分が来たら通すよう指示する。
最初の時間では、自分を怒鳴った。
《君だけの問題ではない》
次の時間では。
《君の人生だ》
真壁が後藤を調べる。
立入記録が見つかる。
後藤は気づく。
戻す。
施設の職員へ聞く。
後藤は気づく。
戻す。
魔法省を通さず、退職した職員へ聞く。
後藤は気づく。
戻す。
直接追う。
地下。
古い記録区画。
扉。
銀色の鎖。
砂時計。
《どうして君が覚えている?》
そして。
かちり。
「…………」
奎星は、自分の手を見る。
震えていない。
記憶は。
もう夢ではなかった。
雨の感触も。
後藤の声も。
真壁の言葉も。
御影に腕を掴まれた感触も。
赤い武装解除の光も。
最後に聞いた金属音も。
全部。
ある。
「覚えてる」
小さく言った。
隣のベッドで、日向が寝返りを打つ。
奎星は静かに布団から出た。
神代榊を腰へ差す。
制服を着る。
時計を見る。
午前四時五十七分。
まだ。
誰も自分が起きたことを知らない。
後藤も。
真壁も。
御影も。
今日が始まったばかりだと思っている。
奎星だけが違った。
窓の外には。
何度も見た青空が広がっている。
「…………よし」
奎星は扉へ向かった。
今まで。
何度追いかけても。
追いついた瞬間に戻された。
なら。
奎星は扉を開ける。
「今度は」
誰もいない廊下へ出る。
「先に行く」
六月十五日の朝が。
また始まった。
けれど今度は。
蓮根奎星だけが、その続きを知っていた。