後藤孝雄は、失敗の多い人間ではなかった。
かといって、成功の多い人間でもなかった。
若い頃から、そうだった。
仕事は遅くない。書類も間違えない。上司から言われたことは期限までに終わらせる。余計な問題を起こすこともなければ、誰かと激しく衝突することもない。
人事評価には、毎年似たような言葉が並んだ。
《勤務態度良好》
《協調性あり》
《職務遂行に問題なし》
悪くない。
決して、悪くはない。
ただ、それだけだった。
後藤は、子供の頃から目立たなかった。
教室の隅にいても、誰かが困ることはない。いなくなっても、すぐに探されることはない。忘れ物をすれば注意されたが、忘れ物をしなければ褒められなかった。テストで悪い点を取れば呼び出されたが、平均点を取っても名前を覚えられることはなかった。
魔法の才能も、なかったわけではない。
ただ、突出していなかった。
呪文の発動は安定していた。魔力の扱いも丁寧だった。危険な失敗をしない代わりに、誰かを驚かせるほどの成功もない。
教師からは、いつも同じように言われた。
「後藤君は、真面目ですね」
それは褒め言葉だった。少なくとも、言われた瞬間にはそう思った。
けれど家へ帰ってから、後藤は何度も考えた。
真面目。
それ以外には。
優秀でもない。才能があるわけでもない。将来有望でもない。ただ、真面目。
その言葉は、後藤の胸の中へ薄く積もっていった。
雪のようだった。
白くて、冷たくて、積もっていることに気づきにくい。気づいたときには、足元が埋まっている。
会議で発言しても、誰かの記憶に残ることはなかった。後藤の案が採用されれば、それは部署の成果になった。採用されなければ、それきりだった。
同期が昇進する。後輩が先に役職を与えられる。そのたびに後藤は笑って、「おめでとう」と言った。
本心から祝えないわけではなかった。妬んでいたわけでもない。
自分には、その人ほどの何かがなかっただけだ。
そう思っていた。
何か一つ。
この人でなければ。
後藤さんに任せたい。
後藤さんなら大丈夫だ。
そう言ってもらえるものが、自分にはなかった。
四十を過ぎても、それは変わらなかった。
結婚式や同窓会で、昔の友人から仕事を聞かれる。
「魔法省? すごいな」
「いや、普通の職員だよ」
「でも国家公務員だろ?」
「まあね」
会話はそこで終わる。
何局にいるのか。何をしてきたのか。どんな仕事を任されているのか。そこまで訊かれることは、ほとんどなかった。
自分で話すほどのことでもない。
後藤自身も、そう思っていた。
何もない。
ひどく不幸だったわけではない。大きく挫折したわけでもない。誰かに人生を壊されたわけでもない。
だからこそ、時々たまらなく虚しくなった。
もし自分が明日この席からいなくなっても、誰か別の人間が同じ机へ座る。同じ書類を処理し、同じ印を押し、同じように「勤務態度良好」と書かれる。
数日もすれば、何も変わらなくなる。
そんな人生だった。
*
後藤は、家へ帰っても仕事の話をしなかった。話すほどのことがなかったからだ。
妻がいた時期もあった。
だが、長くは続かなかった。
後藤が悪かったわけではない。相手が悪かったわけでもない。ただ、二人の間には、何かが足りなかった。
喧嘩をするほどの熱もなかった。別れを決めるほどの憎しみもなかった。
ある夜、妻は食卓の向こうで言った。
「あなたって、何を考えているのか分からない」
後藤は箸を置いた。
「そうかな」
「怒らないし、喜ばないし、何かを欲しがらない」
「そんなことはないよ」
「じゃあ、何が欲しいの?」
答えられなかった。
何が欲しいのか、自分でも分からなかった。
金ではない。地位でもない。名誉でもない。
ただ、自分がここにいると、誰かに分かってほしかった。
それを言葉にするのは、あまりにも幼く思えた。だから後藤は、いつものように笑った。
「別に、何も」
妻は、その笑顔を見て、さらに寂しそうな顔をした。
数か月後、二人は別れた。
後藤は、最後まで相手を責めなかった。責める理由がなかった。
自分が何も欲しがらなかったのだから。何も求めなかったのだから。何も変えようとしなかったのだから。
そう思った。
その後、後藤は一人で暮らした。
朝、起きる。魔法省へ行く。書類を処理する。帰る。食事をする。眠る。
翌日も同じ。
時計の針が進んでいるのに、自分だけが同じ場所へ置き去りにされているようだった。
*
変わったのは、《星帰り》のあとだった。
日本魔法界は混乱していた。
マホウトコロで起きた大規模事件。神代冥司。魔法省内部への不信。復旧、調査、施設再編、押収品の移送、予算の組み直し、人員配置。
それまで何年も動かなかった案件が、一日にいくつも動いた。
魔法省の廊下からは、朝から晩まで人の足音が消えなかった。折り鶴が飛び交い、書類が積み上がり、会議室の扉が何度も開閉された。
誰もが疲れていた。
誰もが焦っていた。
そして、誰もが何かを求めていた。
後藤も、その中へ放り込まれた。
人が足りなかった。役職など関係なく、仕事が落ちてきた。
普段なら上司が判断することを、後藤が判断しなければならない。普段なら別の部署が確認することを、後藤が確認しなければならない。普段なら数週間かける調整を、一日で終わらせなければならない。
初めてだった。
自分の判断一つが、その日のうちに次の部署を動かす。自分の署名一つで、何十人もの人間の予定が変わる。
怖かった。
けれど、少しだけ嬉しかった。
自分にも役目がある。
そう思えた。
誰かが後藤の机へ書類を置く。
「これ、後藤さんにお願いしてもいいですか?」
その言葉だけで、胸の奥が僅かに熱くなった。
お願いされる。必要とされる。自分がいなければ、誰かが困る。
それは、今まで知らなかった感覚だった。
後藤は丁寧に書類を受け取った。
「ああ。確認しておくよ」
「助かります」
職員は、すぐに別の仕事へ戻っていった。
後藤は、その背中を見送った。
助かります。
たったそれだけの言葉が、その日の夜まで耳に残っていた。
*
そして、失敗した。
本当に、些細な失敗だった。
一枚の資料。一つの判断。
復旧工程の優先順位を決める会議で、後藤は自分の案を押した。
根拠はあった。数字も読んだ。担当者にも確認した。過去の事例も調べた。間違っているとは思わなかった。
むしろ、これまでの経験から考えれば、最も無難な案だった。
だから、自信を持って口にした。
「この順番で進めるのが妥当だと思います」
会議室の全員が資料を見る。上司が頷いた。
「では、その方向で」
後藤は、僅かに息を吐いた。
自分の案が通った。それだけのことなのに、胸の奥が軽くなった。
だが、会議が終わった数時間後には、その判断では別の工程が詰まることが判明した。
後藤の案が間違っていたわけではない。前提となる情報が、一つだけ変わっていた。その一つを、後藤は知らなかった。
知らなかったから、判断を誤った。
修正はできた。人が死んだわけでもない。取り返しのつかない損害が出たわけでもない。
それでも。
「後藤さん」
年下の職員が、困ったような顔で言った。
「これ、どうします?」
その声を、後藤は今でも覚えている。
「…………」
「今日中に組み直さないと」
「ああ」
「上にも説明が必要です」
「分かってる」
後藤は資料を受け取った。紙の端が、指へ食い込んだ。
痛い。
だが、その痛みがあることで、まだ自分がここにいると分かった。
「すまない」
後藤が言うと、職員は慌てて首を振った。
「いえ、後藤さんだけの責任じゃ」
「いや」
「本当に、誰も予測できなかったことですから」
「…………」
誰も責めなかった。
それが、余計につらかった。
怒鳴られた方がまだよかった。机を叩かれた方がまだよかった。
後藤なら仕方がない。
そんな空気を、勝手に感じた。
誰も口にしていない。誰もそんな顔をしていない。
それでも、後藤にはそう見えた。
自分は、やはりこの程度なのだ。
必要とされたと思ったのも。役に立てたと思ったのも。
全部、勘違いだった。
その日の夕方、後藤は復旧関連の書類を届けるため、危険魔法具の仮保管施設へ向かった。
外は薄暗かった。雨が降りそうな空だったが、まだ降ってはいない。
魔法省の建物を出ると、冷たい風が頬を撫でた。
後藤は歩きながら、何度も同じことを考えていた。
あの会議へ戻れたら。
別の案を選べたら。
誰にも迷惑を掛けずに済んだ。年下の職員に、あんな顔をさせずに済んだ。上司へ説明する必要もなかった。
自分は、失敗しなかった。
その考えは、施設へ着いても消えなかった。
*
そこには、事件後の混乱の中で集められた様々な品があった。
封印された杖。壊れた術具。出所不明の呪物。国外から移送された、研究用の危険魔法具。
棚には、番号と簡単な分類だけが記されていた。魔法具の一つ一つに封印布が掛けられ、近づくだけで空気が僅かに重くなるものもあった。
後藤は、本来ならそれらへ関心を持つ立場ではない。
書類を置き、確認印をもらい、帰る。
それだけだった。
そのはずだった。
棚の一つに、銀色の小さな時計があった。
封印布の隙間から、金属の輪が見えている。光を受けているわけでもないのに、そこだけが妙に明るかった。
《K-417》
その番号だけを、最初に覚えた。
英国から送られてきた特殊な逆転時計。
普通の逆転時計とは違う。
過去へ戻り、そして過去を変えられる。
説明資料を読んだことがあった。仕事だったからだ。危険度、使用条件、保管方法、魔力反応、時間干渉の可能性。
それ以上の興味などなかった。
その日までは。
「…………」
後藤は時計の前で立ち止まった。
誰もいなかった。
廊下の向こうで、職員同士が話している声がする。金属製の扉が、遠くで閉まった。
その音が消えると、施設はひどく静かになった。
後藤は時計を見た。
朝。
あの会議。
もし、あそこへ戻れたら。
別の案を選ぶ。
それだけだ。
誰も困らない。むしろ、失敗しない方がいい。工程も止まらない。説明もいらない。残業する職員も減る。誰にも迷惑は掛からない。
後藤は、そう考えた。
考えたというより、そう考えたかった。
手を伸ばした。
封印布へ触れる。布が僅かに震えた。
引っ込めた。
もう一度、伸ばした。
銀色の金属が、指へ触れた。
冷たかった。
冷たいというより、体温を奪われたようだった。
心臓が速くなった。
犯罪。
その言葉が頭を過ぎった。
危険魔法具。無断使用。規定違反。
いくつも浮かぶ。
後藤は、時計から手を離した。
離したはずなのに、指先にはまだ金属の感触が残っていた。
朝の会議が浮かぶ。自分の声。上司の頷き。数時間後の沈黙。年下の職員の困った顔。
後藤は目を閉じた。
もし。
もし一度だけ。
「一回だけ」
小さく。本当に小さく言った。
「一回だけだ」
その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが決まった。
それが、最初だった。
*
時計を手に取ったとき、音はしなかった。
針も動かなかった。
ただ、文字盤の奥にある砂が、ゆっくりと逆へ流れ始めた。
上から下へ落ちるはずの砂が、下から上へ戻っていく。
後藤は息を止めた。
指先が震える。
時計の表面に薄い光が走り、その光が手首から腕へ入り込んだ。
冷たい。
冷たいのに、身体の奥が熱くなる。
視界が歪んだ。
施設の棚が伸びる。床が遠ざかる。廊下の声が、逆再生されたように聞こえる。
誰かの笑い声。扉の閉まる音。自分の足音。
全部が、後ろへ戻っていく。
後藤は時計を落とさなかった。落とせなかった。
手が、時計へ縫い付けられたように動かなかった。
そして、世界が暗くなった。
*
朝。
後藤は、同じ日の朝に立っていた。
窓の外。同じ天気。
机の上。同じ資料。
時計。同じ時刻。
しばらく、本当に動けなかった。
夢だと思った。
昨日の失敗を悔やみすぎて、妙な夢を見ている。そう思った。
だが、机の上に置かれた資料の角度、窓から差し込む光、隣の部署から聞こえる咳払い、そのすべてが昨日と同じだった。
後藤は、ゆっくりと自分の手を見た。
傷はない。疲労もない。昨日の夜に感じたはずの重さもない。
それなのに、時計だけが左手の中にあった。
銀色の金属。冷たい輪。
後藤は、しばらくそれを見つめた。
そして会議で、昨日と同じ人間が、昨日と同じ言葉を言った。
「では、この案で進めますか?」
後藤の背中に汗が浮かんだ。
知っている。
このあと誰が口を開くのか。どの数字が問題になるのか。どの案を選べば、数時間後に失敗するのか。
昨日の記憶が、鮮明に戻ってくる。
会議室の空気。資料の紙の匂い。年下の職員の声。自分の喉が乾いていく感覚。
全部、覚えている。
「待ってください」
後藤は言った。
全員が見る。
「そこではありません」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
「こちらを先にすべきです」
別の資料を出す。
昨日、失敗したあとに分かった答え。それを、最初から知っている人間の顔で差し出した。
会議は、うまくいった。
午後、問題は起きなかった。
昨日、困った顔で自分へ相談した年下の職員が、今日は笑っていた。
「後藤さん」
「ん?」
「すごいですね」
後藤は顔を上げた。
「何が?」
「朝の判断です」
「あれ、先に見えてたんですか?」
「いや」
喉が乾いた。
後藤は、机の下で手を握った。時計の感触がある。ここにある。自分だけが知っている。
「まあ」
「さすがです」
その一言だった。
さすがです。
たった、それだけ。
後藤は笑った。
「大袈裟だよ」
「いや、本当に助かりました」
「そうか」
職員が去る。
後藤は、しばらく机へ向かったまま動けなかった。
胸の中に、今までなかったものがあった。
温かかった。
少し、くすぐったかった。
もう一度、聞きたいと思った。
さすがです。
その言葉が、何度も胸の中で繰り返された。
*
その夜、後藤は逆転時計を返そうとした。
本当に、そう思った。
戻さなければならない。一度だけのつもりだった。もう使わない。今日、うまくいった。それで十分だ。
銀色の時計を、机の引き出しから出した。
手の上へ乗せる。
しばらく眺めた。
時計の中の砂は、静かに止まっている。
後藤は、保管施設へ返すための書類を作ろうとした。
だが、ペンを持った手が止まった。
今日の会議を思い出す。
職員の笑顔。
さすがです。
助かりました。
後藤は、時計へ視線を戻した。
もし、明日も、明後日も、同じようにできたら。
もっと大きな仕事でも。もっと難しい判断でも。失敗しないで済むのではないか。
誰かに迷惑を掛けずに済む。誰かを困らせずに済む。自分が役に立てる。
そう考えると、返すことが急に惜しくなった。
やがて、引き出しへ戻した。
「明日」
後藤は言った。
「明日返そう」
翌日。
返さなかった。
*
二度目は、もう少し簡単だった。
判断を誤った。戻った。正しい方を選んだ。
三度目。会議で提案が通らなかった。戻った。相手が何を気にするか分かっていたから、最初からそこを潰した。通った。
四度目。上司への説明に失敗した。戻った。昨日より短く説明した。褒められた。
五度目。予算調整が遅れた。戻った。先に必要な部署へ話を通した。間に合った。
失敗する。
戻る。
直す。
失敗する。
戻る。
成功する。
最初のうちは、後藤も一つ一つの失敗を覚えていた。
どこで間違えたのか。誰の言葉を読み違えたのか。どの資料を見落としたのか。
戻ったあと、同じ失敗をしないようにした。
だが、やがて失敗そのものより、成功したときの感覚の方が強くなった。
会議室の空気が変わる。自分の言葉で、全員が頷く。上司が満足そうに笑う。職員が安心した顔をする。
その瞬間、後藤は自分が世界の中心にいるような気がした。
ほんの一瞬。
けれど、その一瞬のためなら、何度でも戻れた。
*
いつしか、後藤の判断は外れなくなった。
「あの人に聞けばいい」
「後藤さんなら分かるでしょう」
「今回も当てましたね」
「よく先が見えますね」
会議へ呼ばれる回数が増えた。名前を覚えられた。相談されるようになった。
廊下ですれ違った人間が、向こうから挨拶してくる。
「後藤さん、お疲れ様です」
「ああ、お疲れ様」
「この前はありがとうございました」
「いやいや」
役職が上がった。部屋が変わった。机が大きくなった。自分へ届く書類の量が増えた。
後藤の名前が、会議資料の上へ載るようになった。
以前なら、誰かの案を補足するだけだった。
今は、後藤の案を誰かが補足する。
その違いは、思っていたより大きかった。
人の視線が変わる。声の掛け方が変わる。
後藤が部屋へ入ると、会話が一度止まる。
そして。
「後藤さんが来たなら、始めましょう」
そう言われる。
後藤は、何でもない顔で頷いた。
だが胸の中では、何度もその言葉を繰り返していた。
自分が来たから。
始まる。
自分がいなければ。
始まらない。
*
最初は、怖かった。
ばれるのではないか。誰かが気づくのではないか。
本当は一度失敗した。本当は答えを知っていた。本当は、この会話を一回やっている。
そう言われる気がした。
けれど、誰も気づかなかった。
当然だった。
失敗した時間は、存在しない。
後藤以外には。
最初から、後藤孝雄は正しかった。
そういう世界になる。
なら、何が悪い。
後藤は、少しずつそう思うようになった。
誰も傷ついていない。むしろ結果は良くなった。
失敗するはずだった事業が成功した。揉めるはずだった話がまとまった。遅れるはずだった仕事が間に合った。
後藤が時計を使うほど、世界はほんの少しずつ良くなっているように見えた。
少なくとも、後藤孝雄という人間の周りだけは、色づいていった。
それは、最初は本当に善意だった。
誰かを助けたい。失敗を防ぎたい。余計な苦労をさせたくない。
そう思っていた。
だが、成功が積み重なるほど、その善意の中へ別のものが混ざっていった。
自分が正しいと証明したい。
自分が必要だと認められたい。
自分がいなければ、何も進まないと思われたい。
後藤は、その変化に気づかなかった。
気づいていたとしても、見ないふりをした。
時計を使うたび、失敗は消えた。
失敗した自分も。迷った自分も。恥をかいた自分も。誰かに見下された自分も。
全部、なかったことになった。
残るのは、成功した自分だけだった。
それは、とても甘かった。
*
後藤は、時計を使う前の自分を思い出せなくなっていった。
正確には、思い出したくなくなっていった。
失敗した会議。誰にも必要とされなかった日々。妻に「何を考えているのか分からない」と言われた夜。
それらは、今の自分にとって過去の汚点だった。
時計を使えば、消せる。
消してしまえば、誰も知らない。
自分も、いつか忘れる。
だから後藤は、失敗を恐れなくなった。
失敗してもいい。戻ればいい。戻って、正しい方を選べばいい。
その考えは、やがて「失敗してもいい」ではなく、「失敗することに意味はない」へ変わった。
失敗は、残す必要がない。
覚えている必要もない。
成功だけが、現実だ。
そう思うようになった。
*
そして、蓮根清弦という名前が現れた。
百年以上前、近代魔術の礎を築いた一人。霊脈を解放し、日本魔法界を変えた魔法使い。
後藤は最初、歴史上の人物としてその名前を読んだ。それだけだった。
だが、星帰り作戦の資料、マホウトコロ、神代榊、蓮根家、そして一人の少年へ、すべてが繋がった。
蓮根奎星。
十八歳。
魔法界へ来て、まだ一年。
それなのに、いくつもの事件の中心にいた。
銀の鴉。神代榊。星帰り。現代の英雄。
後藤は、最初に奎星の名前を見たとき、特別な感情を抱かなかった。
ただの資料上の人物だった。
だが、写真を見た。
黒い髪。少し眠そうな目。どこか気の抜けた表情。
英雄と呼ばれる人間にしては、あまりにも普通だった。
新聞記事に写った奎星を見ながら、後藤は初めて胸が高鳴るのを感じた。
この少年を、自分が導いたら。
自分が見つけた仕事を与え、自分が道を作り、自分が世に出したら。
百年後、蓮根清弦の名を語るとき、その時代を作った人間として、蓮根奎星の横に後藤孝雄という名前も残るかもしれない。
そう思ってしまった。
新聞の中で、奎星は笑っていた。
何も知らない顔で。
後藤は、その写真へ触れた。
チャンスだと思った。
生まれて初めて。
これは、自分の人生に色がつくチャンスだと。
今まで、何もなかった。
誰でも代わりが利いた。いてもいなくても同じだった。
でも、この少年となら違う。
英雄を作る。新しい時代を作る。その横にいる。その中心にいる。
そして、もし間違えても。
後藤の視線が、机の引き出しへ落ちた。
銀色の時計がある。
これさえあれば。
失敗しない。
この時計さえあれば、自分はもう二度と、何もない人間には戻らない。
*
後藤は、奎星へ最初に会った日を覚えている。
正確には、何度も会った。何度も話した。何度も同じ質問をした。何度も違う答えを聞いた。
奎星は、後藤が思っていたよりも扱いにくかった。
優秀だった。魔力もある。判断も速い。危機に陥ったときの反応も鋭い。
だが、どこか間が抜けていた。
話の途中で、急に別のことを考える。重要な場面で、妙な質問をする。相手の意図を読めるくせに、自分がどう見られているかには無頓着だった。
後藤は、そこに親しみを覚えた。
同時に、優越感も覚えた。
この少年は、自分が導ける。
自分が正しい道へ置ける。
そう思った。
奎星が特別顧問の話を保留にしたとき、後藤は最初、少しだけ残念だった。
だが、それ以上に自分の計画が崩れたことが許せなかった。
奎星が自分の用意した道を選ばない。自分が見つけた役割を拒む。自分が与えようとした未来を、自分の意思で断る。
その事実が、後藤の中に冷たいものを残した。
君の人生だ。
そう言った。
言いながら、本心では。
君の人生を、私が正しくしてやる。
そう思っていた。
*
だから、おかしいと思った。
六月十五日。
何度目かの朝。
始業時間には、まだ遠かった。
日本魔法省の廊下は、人の気配が少ない。清掃用の小さな魔法箒が床を滑り、遠くで朝一番の書類を運ぶ折り鶴の羽音だけが聞こえている。
後藤孝雄は、すでに執務室にいた。
眠っていない。
正確には、眠る必要がなかった。
つい少し前まで、今日の午後だった。
真壁征士郎。御影玄一郎。そして、蓮根奎星。
三人は、ついに自分の目の前まで来た。
時計を、見られた。
《今日、何回もやってる》
後藤は机へ座ったまま、両手を組んでいた。
指が冷たい。
何度握り直しても、冷たかった。
戻った。
だから、大丈夫だ。
まだ朝だ。
真壁は何も知らない。御影も知らない。捜査は始まっていない。施設にも行っていない。退職者にも会っていない。
誰も、何も、知らない。
「大丈夫だ」
後藤は小さく言った。
声が、思ったより乾いていた。
「大丈夫だ」
もう一度。
時計は、左の内ポケットにある。
そこへ手を当てる。
硬い金属の輪郭。
ある。
ちゃんとある。
だから、まだ勝てる。
いつもそうだった。
失敗したら戻ればいい。次は失敗しなければいい。
何度でも。
何度だって。
なのに、後藤の呼吸は浅かった。
前の時間。
奎星は言った。
《俺、覚えてる》
あり得ない。
今まで、一度もなかった。
誰かが、戻る前の時間を覚えていたことなど。
誰も。
後藤だけだった。
だからこそ、勝てた。
相手は一回目。自分は二回目。
相手は初めて聞く。自分は答えを知っている。
それだけのことだった。
それなのに。
「…………蓮根奎星」
後藤は名前を呟いた。
新聞。銀の鴉。現代の英雄。神代榊。
あの少年。
初めて会ったときから、妙な少年だとは思っていた。
圧倒的な魔力量。いくつもの事件を生き延びた実績。
それだけ聞けば、近寄り難い怪物のような人物を想像していた。
実際に会えば、普通に笑う。分からなければ聞く。話の途中で顔に全部出る。
拍子抜けするほど、十八歳だった。
だから、扱えると思った。
時間を掛ければ。言葉を選べば。望む方へ導ける。
失敗したら、戻ればいい。
そう思っていた。
後藤は時計を見る。
午前六時を回ったばかり。
「今日は」
喉が鳴る。
「会わない」
奎星が来ても、受付で止める。
いや。
そもそも来ない。
今の奎星に、自分を疑う理由はない。
昨日まで。
いや。
この世界では、今日の朝まで。
自分と奎星は、まだ何も。
そのとき。
廊下を、足音が走った。
「…………」
後藤の呼吸が止まった。
遠い。
まだ遠い。
だが、近づいてくる。
たっ、たっ、たっ。
石床を、迷いなく一直線に。
後藤は立ち上がった。
椅子の脚が床を擦った。
嫌な音だった。
まさか。
そんな。
早すぎる。
受付は、まだ。
どうやって。
たっ、たっ、たっ。
近づく。
後藤の右手が、机の端を掴んだ。
指へ力が入る。
扉の前で、足音が止まった。
静寂。
ほんの一秒だった。
それなのに、後藤にはひどく長く感じられた。
どん。
扉が開いた。
「…………っ」
後藤の肩が跳ねた。
朝の薄い光が、廊下から室内へ差し込む。
開いた扉の向こうに、一人の少年が立っていた。
少し息を切らしている。
黒い髪。マホウトコロの制服。腰に焦茶色の杖入れ。
蓮根奎星。
「おはよ」
奎星が言った。
呼吸は少し速い。
けれど、笑ってはいなかった。
「後藤さん」
後藤は、何も言えなかった。
奎星が部屋へ入る。
一歩。
靴底が床を踏む。
「蓮根君」
ようやく声が出た。
「どうして」
掠れていた。
「どうして、ここに」
「来るだろ」
「学校は」
「ちゃんと出てきた」
「こんな時間に」
「うん」
「何の用だ」
「分かってんだろ」
後藤の喉が、小さく動いた。
奎星はそれを見ていた。
「…………」
「なあ」
奎星が扉を閉めた。
ぱたん。
小さな音だった。
外の気配が遠くなる。
「初めて会った時」
「…………」
「妙だと思ったんだ」
「何が」
「後藤さん」
奎星は少しだけ首を傾げた。
「優秀な割に、どっか間抜けだって」
「ま、間抜け!?」
思わず、後藤の声が裏返った。
奎星の眉が少し上がる。
「ほら」
「何がほらだ!」
「そういうとこ」
「君は朝一番に人の執務室へ押しかけて何を言っているんだ!」
「だってさ」
奎星は、後藤の怒鳴り声にも表情を変えなかった。
「変だったんだよ」
「何がだ」
「何でも分かってんのに」
一歩、近づく。
「俺が何言うか分かってんのに」
もう一歩。
「たまに」
奎星の目から、少しだけいつもの軽さが消える。
「俺が何でそう思ったのかは分かってなかった」
「…………」
後藤の背中を、冷たい汗が流れた。
「後藤さん」
奎星は言った。
「時計」
部屋の空気が、一瞬で冷えた。
「…………何の話だ」
「それ」
奎星の目が、後藤の左胸へ落ちた。
内ポケット。
「持ってんだろ」
「…………」
後藤の指先が震えた。
ほんの少し。
けれど、奎星は見逃さなかった。
「時計を何度も使ったのは」
一拍。
「失敗だったな」
「…………何?」
「戻るたびに」
奎星は言った。
「俺の記憶は鮮明になってった」
後藤の顔から血の気が引いた。
「…………あり得ない」
「俺もそう思う」
「そんな性質はないはずだ」
「知らねえよ」
「使用者以外が」
「だから知らねえって」
奎星は頭を掻いた。
いつもの仕草。
なのに、目だけは後藤から離れない。
「でも覚えてる」
「…………」
「最初の日も」
雨。
「後藤さんがキレたことも」
清弦。
「次の日、俺が言う前に保留にしたことも」
《君の人生だ》
「真壁さんたちが後藤さんを調べ始めたことも」
施設。
英国。
「そのたびに」
かちり。
「戻したことも」
後藤の息が止まった。
「最後」
奎星が言う。
「俺ら」
一歩。
「時計まで見た」
無意識だった。
後藤の手が、杖へ伸びた。
奎星の目が動いた。
「後藤さん」
「…………」
「もうやめろ」
後藤は聞かなかった。
杖を抜いた。
勢い余って、机の上の紙が一枚落ちる。
白い紙が、ゆっくり床へ舞った。
後藤の杖先が、奎星へ向いた。
同時だった。
奎星の右手が腰へ走る。
神代榊。
焦茶色の杖が、真っ直ぐ後藤の胸へ向いた。
「…………」
二人の杖先が、互いを指している。
音が消えた。
遠くで何かが動く気配。折り鶴の羽音。魔法省の朝。
それらが、すべて扉の向こうへ追いやられたように感じられた。
後藤は呼吸をしていた。
浅く、速く。
吸って。
吐く。
吸って。
吐く。
杖を持つ右手が、わずかに震えていた。
対する奎星の杖は、動かなかった。
神代榊の先が、後藤の胸の中心へ向いている。
「よせよ」
奎星の声は、驚くほど静かだった。
「あんたじゃ勝てねえよ」
後藤の唇が震えた。
「…………」
何か言おうとした。
息だけが漏れた。
「か」
「…………?」
「勝ってきたさ」
後藤は言った。
声が震える。
それでも、杖を下ろさない。
「何度だってな……」
奎星の眉が寄った。
「あ?」
「私は」
後藤の呼吸が乱れる。
「勝ってきた」
一歩、後藤が下がる。
机の端へ腰が当たった。
「会議でも」
唾を飲む。
「交渉でも」
呼吸。
「人事でも」
呼吸。
「人の心でも」
最後の言葉だけ、後藤自身が口にしてから僅かに怯んだ。
奎星の目が変わる。
「何度失敗しても」
左手が胸元へ触れる。
「最後には」
銀色の鎖が、指の間から僅かに見えた。
「勝った」
奎星の目が細くなる。
「それ」
「そうだ」
後藤は笑った。
笑おうとした。
口元だけが引きつった。
「この時計を使ってだ!」
杖先が光った。
空気が弾ける。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が、一直線に奎星へ飛んだ。
速くない。
だが、至近距離だった。
赤い光が瞳へ映る。
熱が頬へ届く。
奎星の身体が動いた。
考えるより先に、半歩左へ。
杖。
手首。
御影に何度も直された角度。
肩の位置。
肘。
必要な魔力だけ。
「エクスペリアームス!」
赤い光が重なった。
ばちっ。
短い破裂音。
後藤の魔法が逸れる。
壁へ当たり、額縁が大きく揺れた。
次の瞬間、武装解除の光が後藤の右手へ吸い込まれた。
「っ」
指が開く。
杖が離れる。
宙へ。
くるくると飛んだ。
後藤の目が見開かれる。
奎星は、その杖を見なかった。
御影に何度も言われた。
撃った結果を見るために、止まるな。
もう、次を見る。
後藤の左手。
銀色。
「後藤さ――」
かちり。
音がした。
「…………」
奎星の声が途切れた。
空気が震えた。
ほんの一瞬、肺へ入ろうとした息が、逆へ押し戻されたような感覚があった。
耳の奥が、きん、と鳴る。
床へ落ちかけていた白い紙が、上へ戻る。
「…………?」
赤い光の破片が壁から剥がれ、空中へ集まる。
額縁の揺れが、逆方向へ戻る。
奎星の足が、半歩後ろへ勝手に戻された。
「何…?」
声が喉の奥へ飲み込まれる。
宙を舞っていた杖が、後藤の方へ飛ぶ。
違う。
戻っている。
柄が、開いていた右手へぴたりと収まる。
後藤の指が、もう一度杖を握った。
「…………」
奎星は動けなかった。
数秒前と、全く同じ。
後藤孝雄が、自分へ杖を向けている。
ただ一つ、違う。
奎星は、その杖をたった今、確かに弾き飛ばした。
「………え?」