マホウトコロ   作:西野圭吾

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第12話 後藤という男

後藤孝雄は、失敗の多い人間ではなかった。

 

 かといって、成功の多い人間でもなかった。

 

 若い頃から、そうだった。

 

 仕事は遅くない。書類も間違えない。上司から言われたことは期限までに終わらせる。余計な問題を起こすこともなければ、誰かと激しく衝突することもない。

 

 人事評価には、毎年似たような言葉が並んだ。

 

《勤務態度良好》

 

《協調性あり》

 

《職務遂行に問題なし》

 

 悪くない。

 

 決して、悪くはない。

 

 ただ、それだけだった。

 

 後藤は、子供の頃から目立たなかった。

 

 教室の隅にいても、誰かが困ることはない。いなくなっても、すぐに探されることはない。忘れ物をすれば注意されたが、忘れ物をしなければ褒められなかった。テストで悪い点を取れば呼び出されたが、平均点を取っても名前を覚えられることはなかった。

 

 魔法の才能も、なかったわけではない。

 

 ただ、突出していなかった。

 

 呪文の発動は安定していた。魔力の扱いも丁寧だった。危険な失敗をしない代わりに、誰かを驚かせるほどの成功もない。

 

 教師からは、いつも同じように言われた。

 

「後藤君は、真面目ですね」

 

 それは褒め言葉だった。少なくとも、言われた瞬間にはそう思った。

 

 けれど家へ帰ってから、後藤は何度も考えた。

 

 真面目。

 

 それ以外には。

 

 優秀でもない。才能があるわけでもない。将来有望でもない。ただ、真面目。

 

 その言葉は、後藤の胸の中へ薄く積もっていった。

 

 雪のようだった。

 

 白くて、冷たくて、積もっていることに気づきにくい。気づいたときには、足元が埋まっている。

 

 会議で発言しても、誰かの記憶に残ることはなかった。後藤の案が採用されれば、それは部署の成果になった。採用されなければ、それきりだった。

 

 同期が昇進する。後輩が先に役職を与えられる。そのたびに後藤は笑って、「おめでとう」と言った。

 

 本心から祝えないわけではなかった。妬んでいたわけでもない。

 

 自分には、その人ほどの何かがなかっただけだ。

 

 そう思っていた。

 

 何か一つ。

 

 この人でなければ。

 

 後藤さんに任せたい。

 

 後藤さんなら大丈夫だ。

 

 そう言ってもらえるものが、自分にはなかった。

 

 四十を過ぎても、それは変わらなかった。

 

 結婚式や同窓会で、昔の友人から仕事を聞かれる。

 

「魔法省? すごいな」

 

「いや、普通の職員だよ」

 

「でも国家公務員だろ?」

 

「まあね」

 

 会話はそこで終わる。

 

 何局にいるのか。何をしてきたのか。どんな仕事を任されているのか。そこまで訊かれることは、ほとんどなかった。

 

 自分で話すほどのことでもない。

 

 後藤自身も、そう思っていた。

 

 何もない。

 

 ひどく不幸だったわけではない。大きく挫折したわけでもない。誰かに人生を壊されたわけでもない。

 

 だからこそ、時々たまらなく虚しくなった。

 

 もし自分が明日この席からいなくなっても、誰か別の人間が同じ机へ座る。同じ書類を処理し、同じ印を押し、同じように「勤務態度良好」と書かれる。

 

 数日もすれば、何も変わらなくなる。

 

 そんな人生だった。

 

 *

 

 後藤は、家へ帰っても仕事の話をしなかった。話すほどのことがなかったからだ。

 

 妻がいた時期もあった。

 

 だが、長くは続かなかった。

 

 後藤が悪かったわけではない。相手が悪かったわけでもない。ただ、二人の間には、何かが足りなかった。

 

 喧嘩をするほどの熱もなかった。別れを決めるほどの憎しみもなかった。

 

 ある夜、妻は食卓の向こうで言った。

 

「あなたって、何を考えているのか分からない」

 

 後藤は箸を置いた。

 

「そうかな」

 

「怒らないし、喜ばないし、何かを欲しがらない」

 

「そんなことはないよ」

 

「じゃあ、何が欲しいの?」

 

 答えられなかった。

 

 何が欲しいのか、自分でも分からなかった。

 

 金ではない。地位でもない。名誉でもない。

 

 ただ、自分がここにいると、誰かに分かってほしかった。

 

 それを言葉にするのは、あまりにも幼く思えた。だから後藤は、いつものように笑った。

 

「別に、何も」

 

 妻は、その笑顔を見て、さらに寂しそうな顔をした。

 

 数か月後、二人は別れた。

 

 後藤は、最後まで相手を責めなかった。責める理由がなかった。

 

 自分が何も欲しがらなかったのだから。何も求めなかったのだから。何も変えようとしなかったのだから。

 

 そう思った。

 

 その後、後藤は一人で暮らした。

 

 朝、起きる。魔法省へ行く。書類を処理する。帰る。食事をする。眠る。

 

 翌日も同じ。

 

 時計の針が進んでいるのに、自分だけが同じ場所へ置き去りにされているようだった。

 

 *

 

 変わったのは、《星帰り》のあとだった。

 

 日本魔法界は混乱していた。

 

 マホウトコロで起きた大規模事件。神代冥司。魔法省内部への不信。復旧、調査、施設再編、押収品の移送、予算の組み直し、人員配置。

 

 それまで何年も動かなかった案件が、一日にいくつも動いた。

 

 魔法省の廊下からは、朝から晩まで人の足音が消えなかった。折り鶴が飛び交い、書類が積み上がり、会議室の扉が何度も開閉された。

 

 誰もが疲れていた。

 

 誰もが焦っていた。

 

 そして、誰もが何かを求めていた。

 

 後藤も、その中へ放り込まれた。

 

 人が足りなかった。役職など関係なく、仕事が落ちてきた。

 

 普段なら上司が判断することを、後藤が判断しなければならない。普段なら別の部署が確認することを、後藤が確認しなければならない。普段なら数週間かける調整を、一日で終わらせなければならない。

 

 初めてだった。

 

 自分の判断一つが、その日のうちに次の部署を動かす。自分の署名一つで、何十人もの人間の予定が変わる。

 

 怖かった。

 

 けれど、少しだけ嬉しかった。

 

 自分にも役目がある。

 

 そう思えた。

 

 誰かが後藤の机へ書類を置く。

 

「これ、後藤さんにお願いしてもいいですか?」

 

 その言葉だけで、胸の奥が僅かに熱くなった。

 

 お願いされる。必要とされる。自分がいなければ、誰かが困る。

 

 それは、今まで知らなかった感覚だった。

 

 後藤は丁寧に書類を受け取った。

 

「ああ。確認しておくよ」

 

「助かります」

 

 職員は、すぐに別の仕事へ戻っていった。

 

 後藤は、その背中を見送った。

 

 助かります。

 

 たったそれだけの言葉が、その日の夜まで耳に残っていた。

 

 *

 

 そして、失敗した。

 

 本当に、些細な失敗だった。

 

 一枚の資料。一つの判断。

 

 復旧工程の優先順位を決める会議で、後藤は自分の案を押した。

 

 根拠はあった。数字も読んだ。担当者にも確認した。過去の事例も調べた。間違っているとは思わなかった。

 

 むしろ、これまでの経験から考えれば、最も無難な案だった。

 

 だから、自信を持って口にした。

 

「この順番で進めるのが妥当だと思います」

 

 会議室の全員が資料を見る。上司が頷いた。

 

「では、その方向で」

 

 後藤は、僅かに息を吐いた。

 

 自分の案が通った。それだけのことなのに、胸の奥が軽くなった。

 

 だが、会議が終わった数時間後には、その判断では別の工程が詰まることが判明した。

 

 後藤の案が間違っていたわけではない。前提となる情報が、一つだけ変わっていた。その一つを、後藤は知らなかった。

 

 知らなかったから、判断を誤った。

 

 修正はできた。人が死んだわけでもない。取り返しのつかない損害が出たわけでもない。

 

 それでも。

 

「後藤さん」

 

 年下の職員が、困ったような顔で言った。

 

「これ、どうします?」

 

 その声を、後藤は今でも覚えている。

 

「…………」

 

「今日中に組み直さないと」

 

「ああ」

 

「上にも説明が必要です」

 

「分かってる」

 

 後藤は資料を受け取った。紙の端が、指へ食い込んだ。

 

 痛い。

 

 だが、その痛みがあることで、まだ自分がここにいると分かった。

 

「すまない」

 

 後藤が言うと、職員は慌てて首を振った。

 

「いえ、後藤さんだけの責任じゃ」

 

「いや」

 

「本当に、誰も予測できなかったことですから」

 

「…………」

 

 誰も責めなかった。

 

 それが、余計につらかった。

 

 怒鳴られた方がまだよかった。机を叩かれた方がまだよかった。

 

 後藤なら仕方がない。

 

 そんな空気を、勝手に感じた。

 

 誰も口にしていない。誰もそんな顔をしていない。

 

 それでも、後藤にはそう見えた。

 

 自分は、やはりこの程度なのだ。

 

 必要とされたと思ったのも。役に立てたと思ったのも。

 

 全部、勘違いだった。

 

 その日の夕方、後藤は復旧関連の書類を届けるため、危険魔法具の仮保管施設へ向かった。

 

 外は薄暗かった。雨が降りそうな空だったが、まだ降ってはいない。

 

 魔法省の建物を出ると、冷たい風が頬を撫でた。

 

 後藤は歩きながら、何度も同じことを考えていた。

 

 あの会議へ戻れたら。

 

 別の案を選べたら。

 

 誰にも迷惑を掛けずに済んだ。年下の職員に、あんな顔をさせずに済んだ。上司へ説明する必要もなかった。

 

 自分は、失敗しなかった。

 

 その考えは、施設へ着いても消えなかった。

 

 *

 

 そこには、事件後の混乱の中で集められた様々な品があった。

 

 封印された杖。壊れた術具。出所不明の呪物。国外から移送された、研究用の危険魔法具。

 

 棚には、番号と簡単な分類だけが記されていた。魔法具の一つ一つに封印布が掛けられ、近づくだけで空気が僅かに重くなるものもあった。

 

 後藤は、本来ならそれらへ関心を持つ立場ではない。

 

 書類を置き、確認印をもらい、帰る。

 

 それだけだった。

 

 そのはずだった。

 

 棚の一つに、銀色の小さな時計があった。

 

 封印布の隙間から、金属の輪が見えている。光を受けているわけでもないのに、そこだけが妙に明るかった。

 

《K-417》

 

 その番号だけを、最初に覚えた。

 

 英国から送られてきた特殊な逆転時計。

 

 普通の逆転時計とは違う。

 

 過去へ戻り、そして過去を変えられる。

 

 説明資料を読んだことがあった。仕事だったからだ。危険度、使用条件、保管方法、魔力反応、時間干渉の可能性。

 

 それ以上の興味などなかった。

 

 その日までは。

 

「…………」

 

 後藤は時計の前で立ち止まった。

 

 誰もいなかった。

 

 廊下の向こうで、職員同士が話している声がする。金属製の扉が、遠くで閉まった。

 

 その音が消えると、施設はひどく静かになった。

 

 後藤は時計を見た。

 

 朝。

 

 あの会議。

 

 もし、あそこへ戻れたら。

 

 別の案を選ぶ。

 

 それだけだ。

 

 誰も困らない。むしろ、失敗しない方がいい。工程も止まらない。説明もいらない。残業する職員も減る。誰にも迷惑は掛からない。

 

 後藤は、そう考えた。

 

 考えたというより、そう考えたかった。

 

 手を伸ばした。

 

 封印布へ触れる。布が僅かに震えた。

 

 引っ込めた。

 

 もう一度、伸ばした。

 

 銀色の金属が、指へ触れた。

 

 冷たかった。

 

 冷たいというより、体温を奪われたようだった。

 

 心臓が速くなった。

 

 犯罪。

 

 その言葉が頭を過ぎった。

 

 危険魔法具。無断使用。規定違反。

 

 いくつも浮かぶ。

 

 後藤は、時計から手を離した。

 

 離したはずなのに、指先にはまだ金属の感触が残っていた。

 

 朝の会議が浮かぶ。自分の声。上司の頷き。数時間後の沈黙。年下の職員の困った顔。

 

 後藤は目を閉じた。

 

 もし。

 

 もし一度だけ。

 

「一回だけ」

 

 小さく。本当に小さく言った。

 

「一回だけだ」

 

 その言葉を口にした瞬間、自分の中で何かが決まった。

 

 それが、最初だった。

 

 *

 

 時計を手に取ったとき、音はしなかった。

 

 針も動かなかった。

 

 ただ、文字盤の奥にある砂が、ゆっくりと逆へ流れ始めた。

 

 上から下へ落ちるはずの砂が、下から上へ戻っていく。

 

 後藤は息を止めた。

 

 指先が震える。

 

 時計の表面に薄い光が走り、その光が手首から腕へ入り込んだ。

 

 冷たい。

 

 冷たいのに、身体の奥が熱くなる。

 

 視界が歪んだ。

 

 施設の棚が伸びる。床が遠ざかる。廊下の声が、逆再生されたように聞こえる。

 

 誰かの笑い声。扉の閉まる音。自分の足音。

 

 全部が、後ろへ戻っていく。

 

 後藤は時計を落とさなかった。落とせなかった。

 

 手が、時計へ縫い付けられたように動かなかった。

 

 そして、世界が暗くなった。

 

 *

 

 朝。

 

 後藤は、同じ日の朝に立っていた。

 

 窓の外。同じ天気。

 

 机の上。同じ資料。

 

 時計。同じ時刻。

 

 しばらく、本当に動けなかった。

 

 夢だと思った。

 

 昨日の失敗を悔やみすぎて、妙な夢を見ている。そう思った。

 

 だが、机の上に置かれた資料の角度、窓から差し込む光、隣の部署から聞こえる咳払い、そのすべてが昨日と同じだった。

 

 後藤は、ゆっくりと自分の手を見た。

 

 傷はない。疲労もない。昨日の夜に感じたはずの重さもない。

 

 それなのに、時計だけが左手の中にあった。

 

 銀色の金属。冷たい輪。

 

 後藤は、しばらくそれを見つめた。

 

 そして会議で、昨日と同じ人間が、昨日と同じ言葉を言った。

 

「では、この案で進めますか?」

 

 後藤の背中に汗が浮かんだ。

 

 知っている。

 

 このあと誰が口を開くのか。どの数字が問題になるのか。どの案を選べば、数時間後に失敗するのか。

 

 昨日の記憶が、鮮明に戻ってくる。

 

 会議室の空気。資料の紙の匂い。年下の職員の声。自分の喉が乾いていく感覚。

 

 全部、覚えている。

 

「待ってください」

 

 後藤は言った。

 

 全員が見る。

 

「そこではありません」

 

 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 

「こちらを先にすべきです」

 

 別の資料を出す。

 

 昨日、失敗したあとに分かった答え。それを、最初から知っている人間の顔で差し出した。

 

 会議は、うまくいった。

 

 午後、問題は起きなかった。

 

 昨日、困った顔で自分へ相談した年下の職員が、今日は笑っていた。

 

「後藤さん」

 

「ん?」

 

「すごいですね」

 

 後藤は顔を上げた。

 

「何が?」

 

「朝の判断です」

 

「あれ、先に見えてたんですか?」

 

「いや」

 

 喉が乾いた。

 

 後藤は、机の下で手を握った。時計の感触がある。ここにある。自分だけが知っている。

 

「まあ」

 

「さすがです」

 

 その一言だった。

 

 さすがです。

 

 たった、それだけ。

 

 後藤は笑った。

 

「大袈裟だよ」

 

「いや、本当に助かりました」

 

「そうか」

 

 職員が去る。

 

 後藤は、しばらく机へ向かったまま動けなかった。

 

 胸の中に、今までなかったものがあった。

 

 温かかった。

 

 少し、くすぐったかった。

 

 もう一度、聞きたいと思った。

 

 さすがです。

 

 その言葉が、何度も胸の中で繰り返された。

 

 *

 

 その夜、後藤は逆転時計を返そうとした。

 

 本当に、そう思った。

 

 戻さなければならない。一度だけのつもりだった。もう使わない。今日、うまくいった。それで十分だ。

 

 銀色の時計を、机の引き出しから出した。

 

 手の上へ乗せる。

 

 しばらく眺めた。

 

 時計の中の砂は、静かに止まっている。

 

 後藤は、保管施設へ返すための書類を作ろうとした。

 

 だが、ペンを持った手が止まった。

 

 今日の会議を思い出す。

 

 職員の笑顔。

 

 さすがです。

 

 助かりました。

 

 後藤は、時計へ視線を戻した。

 

 もし、明日も、明後日も、同じようにできたら。

 

 もっと大きな仕事でも。もっと難しい判断でも。失敗しないで済むのではないか。

 

 誰かに迷惑を掛けずに済む。誰かを困らせずに済む。自分が役に立てる。

 

 そう考えると、返すことが急に惜しくなった。

 

 やがて、引き出しへ戻した。

 

「明日」

 

 後藤は言った。

 

「明日返そう」

 

 翌日。

 

 返さなかった。

 

 *

 

 二度目は、もう少し簡単だった。

 

 判断を誤った。戻った。正しい方を選んだ。

 

 三度目。会議で提案が通らなかった。戻った。相手が何を気にするか分かっていたから、最初からそこを潰した。通った。

 

 四度目。上司への説明に失敗した。戻った。昨日より短く説明した。褒められた。

 

 五度目。予算調整が遅れた。戻った。先に必要な部署へ話を通した。間に合った。

 

 失敗する。

 

 戻る。

 

 直す。

 

 失敗する。

 

 戻る。

 

 成功する。

 

 最初のうちは、後藤も一つ一つの失敗を覚えていた。

 

 どこで間違えたのか。誰の言葉を読み違えたのか。どの資料を見落としたのか。

 

 戻ったあと、同じ失敗をしないようにした。

 

 だが、やがて失敗そのものより、成功したときの感覚の方が強くなった。

 

 会議室の空気が変わる。自分の言葉で、全員が頷く。上司が満足そうに笑う。職員が安心した顔をする。

 

 その瞬間、後藤は自分が世界の中心にいるような気がした。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど、その一瞬のためなら、何度でも戻れた。

 

 *

 

 いつしか、後藤の判断は外れなくなった。

 

「あの人に聞けばいい」

 

「後藤さんなら分かるでしょう」

 

「今回も当てましたね」

 

「よく先が見えますね」

 

 会議へ呼ばれる回数が増えた。名前を覚えられた。相談されるようになった。

 

 廊下ですれ違った人間が、向こうから挨拶してくる。

 

「後藤さん、お疲れ様です」

 

「ああ、お疲れ様」

 

「この前はありがとうございました」

 

「いやいや」

 

 役職が上がった。部屋が変わった。机が大きくなった。自分へ届く書類の量が増えた。

 

 後藤の名前が、会議資料の上へ載るようになった。

 

 以前なら、誰かの案を補足するだけだった。

 

 今は、後藤の案を誰かが補足する。

 

 その違いは、思っていたより大きかった。

 

 人の視線が変わる。声の掛け方が変わる。

 

 後藤が部屋へ入ると、会話が一度止まる。

 

 そして。

 

「後藤さんが来たなら、始めましょう」

 

 そう言われる。

 

 後藤は、何でもない顔で頷いた。

 

 だが胸の中では、何度もその言葉を繰り返していた。

 

 自分が来たから。

 

 始まる。

 

 自分がいなければ。

 

 始まらない。

 

 *

 

 最初は、怖かった。

 

 ばれるのではないか。誰かが気づくのではないか。

 

 本当は一度失敗した。本当は答えを知っていた。本当は、この会話を一回やっている。

 

 そう言われる気がした。

 

 けれど、誰も気づかなかった。

 

 当然だった。

 

 失敗した時間は、存在しない。

 

 後藤以外には。

 

 最初から、後藤孝雄は正しかった。

 

 そういう世界になる。

 

 なら、何が悪い。

 

 後藤は、少しずつそう思うようになった。

 

 誰も傷ついていない。むしろ結果は良くなった。

 

 失敗するはずだった事業が成功した。揉めるはずだった話がまとまった。遅れるはずだった仕事が間に合った。

 

 後藤が時計を使うほど、世界はほんの少しずつ良くなっているように見えた。

 

 少なくとも、後藤孝雄という人間の周りだけは、色づいていった。

 

 それは、最初は本当に善意だった。

 

 誰かを助けたい。失敗を防ぎたい。余計な苦労をさせたくない。

 

 そう思っていた。

 

 だが、成功が積み重なるほど、その善意の中へ別のものが混ざっていった。

 

 自分が正しいと証明したい。

 

 自分が必要だと認められたい。

 

 自分がいなければ、何も進まないと思われたい。

 

 後藤は、その変化に気づかなかった。

 

 気づいていたとしても、見ないふりをした。

 

 時計を使うたび、失敗は消えた。

 

 失敗した自分も。迷った自分も。恥をかいた自分も。誰かに見下された自分も。

 

 全部、なかったことになった。

 

 残るのは、成功した自分だけだった。

 

 それは、とても甘かった。

 

 *

 

 後藤は、時計を使う前の自分を思い出せなくなっていった。

 

 正確には、思い出したくなくなっていった。

 

 失敗した会議。誰にも必要とされなかった日々。妻に「何を考えているのか分からない」と言われた夜。

 

 それらは、今の自分にとって過去の汚点だった。

 

 時計を使えば、消せる。

 

 消してしまえば、誰も知らない。

 

 自分も、いつか忘れる。

 

 だから後藤は、失敗を恐れなくなった。

 

 失敗してもいい。戻ればいい。戻って、正しい方を選べばいい。

 

 その考えは、やがて「失敗してもいい」ではなく、「失敗することに意味はない」へ変わった。

 

 失敗は、残す必要がない。

 

 覚えている必要もない。

 

 成功だけが、現実だ。

 

 そう思うようになった。

 

 *

 

 そして、蓮根清弦という名前が現れた。

 

 百年以上前、近代魔術の礎を築いた一人。霊脈を解放し、日本魔法界を変えた魔法使い。

 

 後藤は最初、歴史上の人物としてその名前を読んだ。それだけだった。

 

 だが、星帰り作戦の資料、マホウトコロ、神代榊、蓮根家、そして一人の少年へ、すべてが繋がった。

 

 蓮根奎星。

 

 十八歳。

 

 魔法界へ来て、まだ一年。

 

 それなのに、いくつもの事件の中心にいた。

 

 銀の鴉。神代榊。星帰り。現代の英雄。

 

 後藤は、最初に奎星の名前を見たとき、特別な感情を抱かなかった。

 

 ただの資料上の人物だった。

 

 だが、写真を見た。

 

 黒い髪。少し眠そうな目。どこか気の抜けた表情。

 

 英雄と呼ばれる人間にしては、あまりにも普通だった。

 

 新聞記事に写った奎星を見ながら、後藤は初めて胸が高鳴るのを感じた。

 

 この少年を、自分が導いたら。

 

 自分が見つけた仕事を与え、自分が道を作り、自分が世に出したら。

 

 百年後、蓮根清弦の名を語るとき、その時代を作った人間として、蓮根奎星の横に後藤孝雄という名前も残るかもしれない。

 

 そう思ってしまった。

 

 新聞の中で、奎星は笑っていた。

 

 何も知らない顔で。

 

 後藤は、その写真へ触れた。

 

 チャンスだと思った。

 

 生まれて初めて。

 

 これは、自分の人生に色がつくチャンスだと。

 

 今まで、何もなかった。

 

 誰でも代わりが利いた。いてもいなくても同じだった。

 

 でも、この少年となら違う。

 

 英雄を作る。新しい時代を作る。その横にいる。その中心にいる。

 

 そして、もし間違えても。

 

 後藤の視線が、机の引き出しへ落ちた。

 

 銀色の時計がある。

 

 これさえあれば。

 

 失敗しない。

 

 この時計さえあれば、自分はもう二度と、何もない人間には戻らない。

 

 *

 

 後藤は、奎星へ最初に会った日を覚えている。

 

 正確には、何度も会った。何度も話した。何度も同じ質問をした。何度も違う答えを聞いた。

 

 奎星は、後藤が思っていたよりも扱いにくかった。

 

 優秀だった。魔力もある。判断も速い。危機に陥ったときの反応も鋭い。

 

 だが、どこか間が抜けていた。

 

 話の途中で、急に別のことを考える。重要な場面で、妙な質問をする。相手の意図を読めるくせに、自分がどう見られているかには無頓着だった。

 

 後藤は、そこに親しみを覚えた。

 

 同時に、優越感も覚えた。

 

 この少年は、自分が導ける。

 

 自分が正しい道へ置ける。

 

 そう思った。

 

 奎星が特別顧問の話を保留にしたとき、後藤は最初、少しだけ残念だった。

 

 だが、それ以上に自分の計画が崩れたことが許せなかった。

 

 奎星が自分の用意した道を選ばない。自分が見つけた役割を拒む。自分が与えようとした未来を、自分の意思で断る。

 

 その事実が、後藤の中に冷たいものを残した。

 

 君の人生だ。

 

 そう言った。

 

 言いながら、本心では。

 

 君の人生を、私が正しくしてやる。

 

 そう思っていた。

 

 *

 

 だから、おかしいと思った。

 

 六月十五日。

 

 何度目かの朝。

 

 始業時間には、まだ遠かった。

 

 日本魔法省の廊下は、人の気配が少ない。清掃用の小さな魔法箒が床を滑り、遠くで朝一番の書類を運ぶ折り鶴の羽音だけが聞こえている。

 

 後藤孝雄は、すでに執務室にいた。

 

 眠っていない。

 

 正確には、眠る必要がなかった。

 

 つい少し前まで、今日の午後だった。

 

 真壁征士郎。御影玄一郎。そして、蓮根奎星。

 

 三人は、ついに自分の目の前まで来た。

 

 時計を、見られた。

 

《今日、何回もやってる》

 

 後藤は机へ座ったまま、両手を組んでいた。

 

 指が冷たい。

 

 何度握り直しても、冷たかった。

 

 戻った。

 

 だから、大丈夫だ。

 

 まだ朝だ。

 

 真壁は何も知らない。御影も知らない。捜査は始まっていない。施設にも行っていない。退職者にも会っていない。

 

 誰も、何も、知らない。

 

「大丈夫だ」

 

 後藤は小さく言った。

 

 声が、思ったより乾いていた。

 

「大丈夫だ」

 

 もう一度。

 

 時計は、左の内ポケットにある。

 

 そこへ手を当てる。

 

 硬い金属の輪郭。

 

 ある。

 

 ちゃんとある。

 

 だから、まだ勝てる。

 

 いつもそうだった。

 

 失敗したら戻ればいい。次は失敗しなければいい。

 

 何度でも。

 

 何度だって。

 

 なのに、後藤の呼吸は浅かった。

 

 前の時間。

 

 奎星は言った。

 

《俺、覚えてる》

 

 あり得ない。

 

 今まで、一度もなかった。

 

 誰かが、戻る前の時間を覚えていたことなど。

 

 誰も。

 

 後藤だけだった。

 

 だからこそ、勝てた。

 

 相手は一回目。自分は二回目。

 

 相手は初めて聞く。自分は答えを知っている。

 

 それだけのことだった。

 

 それなのに。

 

「…………蓮根奎星」

 

 後藤は名前を呟いた。

 

 新聞。銀の鴉。現代の英雄。神代榊。

 

 あの少年。

 

 初めて会ったときから、妙な少年だとは思っていた。

 

 圧倒的な魔力量。いくつもの事件を生き延びた実績。

 

 それだけ聞けば、近寄り難い怪物のような人物を想像していた。

 

 実際に会えば、普通に笑う。分からなければ聞く。話の途中で顔に全部出る。

 

 拍子抜けするほど、十八歳だった。

 

 だから、扱えると思った。

 

 時間を掛ければ。言葉を選べば。望む方へ導ける。

 

 失敗したら、戻ればいい。

 

 そう思っていた。

 

 後藤は時計を見る。

 

 午前六時を回ったばかり。

 

「今日は」

 

 喉が鳴る。

 

「会わない」

 

 奎星が来ても、受付で止める。

 

 いや。

 

 そもそも来ない。

 

 今の奎星に、自分を疑う理由はない。

 

 昨日まで。

 

 いや。

 

 この世界では、今日の朝まで。

 

 自分と奎星は、まだ何も。

 

 そのとき。

 

 廊下を、足音が走った。

 

「…………」

 

 後藤の呼吸が止まった。

 

 遠い。

 

 まだ遠い。

 

 だが、近づいてくる。

 

 たっ、たっ、たっ。

 

 石床を、迷いなく一直線に。

 

 後藤は立ち上がった。

 

 椅子の脚が床を擦った。

 

 嫌な音だった。

 

 まさか。

 

 そんな。

 

 早すぎる。

 

 受付は、まだ。

 

 どうやって。

 

 たっ、たっ、たっ。

 

 近づく。

 

 後藤の右手が、机の端を掴んだ。

 

 指へ力が入る。

 

 扉の前で、足音が止まった。

 

 静寂。

 

 ほんの一秒だった。

 

 それなのに、後藤にはひどく長く感じられた。

 

 どん。

 

 扉が開いた。

 

「…………っ」

 

 後藤の肩が跳ねた。

 

 朝の薄い光が、廊下から室内へ差し込む。

 

 開いた扉の向こうに、一人の少年が立っていた。

 

 少し息を切らしている。

 

 黒い髪。マホウトコロの制服。腰に焦茶色の杖入れ。

 

 蓮根奎星。

 

「おはよ」

 

 奎星が言った。

 

 呼吸は少し速い。

 

 けれど、笑ってはいなかった。

 

「後藤さん」

 

 後藤は、何も言えなかった。

 

 奎星が部屋へ入る。

 

 一歩。

 

 靴底が床を踏む。

 

「蓮根君」

 

 ようやく声が出た。

 

「どうして」

 

 掠れていた。

 

「どうして、ここに」

 

「来るだろ」

 

「学校は」

 

「ちゃんと出てきた」

 

「こんな時間に」

 

「うん」

 

「何の用だ」

 

「分かってんだろ」

 

 後藤の喉が、小さく動いた。

 

 奎星はそれを見ていた。

 

「…………」

 

「なあ」

 

 奎星が扉を閉めた。

 

 ぱたん。

 

 小さな音だった。

 

 外の気配が遠くなる。

 

「初めて会った時」

 

「…………」

 

「妙だと思ったんだ」

 

「何が」

 

「後藤さん」

 

 奎星は少しだけ首を傾げた。

 

「優秀な割に、どっか間抜けだって」

 

「ま、間抜け!?」

 

 思わず、後藤の声が裏返った。

 

 奎星の眉が少し上がる。

 

「ほら」

 

「何がほらだ!」

 

「そういうとこ」

 

「君は朝一番に人の執務室へ押しかけて何を言っているんだ!」

 

「だってさ」

 

 奎星は、後藤の怒鳴り声にも表情を変えなかった。

 

「変だったんだよ」

 

「何がだ」

 

「何でも分かってんのに」

 

 一歩、近づく。

 

「俺が何言うか分かってんのに」

 

 もう一歩。

 

「たまに」

 

 奎星の目から、少しだけいつもの軽さが消える。

 

「俺が何でそう思ったのかは分かってなかった」

 

「…………」

 

 後藤の背中を、冷たい汗が流れた。

 

「後藤さん」

 

 奎星は言った。

 

「時計」

 

 部屋の空気が、一瞬で冷えた。

 

「…………何の話だ」

 

「それ」

 

 奎星の目が、後藤の左胸へ落ちた。

 

 内ポケット。

 

「持ってんだろ」

 

「…………」

 

 後藤の指先が震えた。

 

 ほんの少し。

 

 けれど、奎星は見逃さなかった。

 

「時計を何度も使ったのは」

 

 一拍。

 

「失敗だったな」

 

「…………何?」

 

「戻るたびに」

 

 奎星は言った。

 

「俺の記憶は鮮明になってった」

 

 後藤の顔から血の気が引いた。

 

「…………あり得ない」

 

「俺もそう思う」

 

「そんな性質はないはずだ」

 

「知らねえよ」

 

「使用者以外が」

 

「だから知らねえって」

 

 奎星は頭を掻いた。

 

 いつもの仕草。

 

 なのに、目だけは後藤から離れない。

 

「でも覚えてる」

 

「…………」

 

「最初の日も」

 

 雨。

 

「後藤さんがキレたことも」

 

 清弦。

 

「次の日、俺が言う前に保留にしたことも」

 

《君の人生だ》

 

「真壁さんたちが後藤さんを調べ始めたことも」

 

 施設。

 

 英国。

 

「そのたびに」

 

 かちり。

 

「戻したことも」

 

 後藤の息が止まった。

 

「最後」

 

 奎星が言う。

 

「俺ら」

 

 一歩。

 

「時計まで見た」

 

 無意識だった。

 

 後藤の手が、杖へ伸びた。

 

 奎星の目が動いた。

 

「後藤さん」

 

「…………」

 

「もうやめろ」

 

 後藤は聞かなかった。

 

 杖を抜いた。

 

 勢い余って、机の上の紙が一枚落ちる。

 

 白い紙が、ゆっくり床へ舞った。

 

 後藤の杖先が、奎星へ向いた。

 

 同時だった。

 

 奎星の右手が腰へ走る。

 

 神代榊。

 

 焦茶色の杖が、真っ直ぐ後藤の胸へ向いた。

 

「…………」

 

 二人の杖先が、互いを指している。

 

 音が消えた。

 

 遠くで何かが動く気配。折り鶴の羽音。魔法省の朝。

 

 それらが、すべて扉の向こうへ追いやられたように感じられた。

 

 後藤は呼吸をしていた。

 

 浅く、速く。

 

 吸って。

 

 吐く。

 

 吸って。

 

 吐く。

 

 杖を持つ右手が、わずかに震えていた。

 

 対する奎星の杖は、動かなかった。

 

 神代榊の先が、後藤の胸の中心へ向いている。

 

「よせよ」

 

 奎星の声は、驚くほど静かだった。

 

「あんたじゃ勝てねえよ」

 

 後藤の唇が震えた。

 

「…………」

 

 何か言おうとした。

 

 息だけが漏れた。

 

「か」

 

「…………?」

 

「勝ってきたさ」

 

 後藤は言った。

 

 声が震える。

 

 それでも、杖を下ろさない。

 

「何度だってな……」

 

 奎星の眉が寄った。

 

「あ?」

 

「私は」

 

 後藤の呼吸が乱れる。

 

「勝ってきた」

 

 一歩、後藤が下がる。

 

 机の端へ腰が当たった。

 

「会議でも」

 

 唾を飲む。

 

「交渉でも」

 

 呼吸。

 

「人事でも」

 

 呼吸。

 

「人の心でも」

 

 最後の言葉だけ、後藤自身が口にしてから僅かに怯んだ。

 

 奎星の目が変わる。

 

「何度失敗しても」

 

 左手が胸元へ触れる。

 

「最後には」

 

 銀色の鎖が、指の間から僅かに見えた。

 

「勝った」

 

 奎星の目が細くなる。

 

「それ」

 

「そうだ」

 

 後藤は笑った。

 

 笑おうとした。

 

 口元だけが引きつった。

 

「この時計を使ってだ!」

 

 杖先が光った。

 

 空気が弾ける。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い閃光が、一直線に奎星へ飛んだ。

 

 速くない。

 

 だが、至近距離だった。

 

 赤い光が瞳へ映る。

 

 熱が頬へ届く。

 

 奎星の身体が動いた。

 

 考えるより先に、半歩左へ。

 

 杖。

 

 手首。

 

 御影に何度も直された角度。

 

 肩の位置。

 

 肘。

 

 必要な魔力だけ。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が重なった。

 

 ばちっ。

 

 短い破裂音。

 

 後藤の魔法が逸れる。

 

 壁へ当たり、額縁が大きく揺れた。

 

 次の瞬間、武装解除の光が後藤の右手へ吸い込まれた。

 

「っ」

 

 指が開く。

 

 杖が離れる。

 

 宙へ。

 

 くるくると飛んだ。

 

 後藤の目が見開かれる。

 

 奎星は、その杖を見なかった。

 

 御影に何度も言われた。

 

 撃った結果を見るために、止まるな。

 

 もう、次を見る。

 

 後藤の左手。

 

 銀色。

 

「後藤さ――」

 

 かちり。

 

 音がした。

 

「…………」

 

 奎星の声が途切れた。

 

 空気が震えた。

 

 ほんの一瞬、肺へ入ろうとした息が、逆へ押し戻されたような感覚があった。

 

 耳の奥が、きん、と鳴る。

 

 床へ落ちかけていた白い紙が、上へ戻る。

 

「…………?」

 

 赤い光の破片が壁から剥がれ、空中へ集まる。

 

 額縁の揺れが、逆方向へ戻る。

 

 奎星の足が、半歩後ろへ勝手に戻された。

 

「何…?」

 

 声が喉の奥へ飲み込まれる。

 

 宙を舞っていた杖が、後藤の方へ飛ぶ。

 

 違う。

 

 戻っている。

 

 柄が、開いていた右手へぴたりと収まる。

 

 後藤の指が、もう一度杖を握った。

 

「…………」

 

 奎星は動けなかった。

 

 数秒前と、全く同じ。

 

 後藤孝雄が、自分へ杖を向けている。

 

 ただ一つ、違う。

 

 奎星は、その杖をたった今、確かに弾き飛ばした。

 

「………え?」

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