マホウトコロ   作:西野圭吾

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第13話 繰り返される戦い

「……え?」

 

 後藤孝雄の右手には、杖が握られていた。

 

 奎星は瞬きをした。一度、そしてもう一度。視界のどこかに異常が生じたのではないかと疑ったが、目の前の光景は少しも揺らがなかった。ほんの数秒前まで、後藤の杖は確かに宙を舞っていた。赤い武装解除の光が右手を正確に捉え、開いた指から柄が抜け、天井近くまで弾き上げられた。その瞬間、回転する杖の木目まで見えていた。奎星は撃った結果を確かめるために足を止めたわけではない。それでも、自分の魔法が何をしたかくらいは分かる。

 

 外したはずがない。見間違えたはずもない。

 

 なのに、今、杖は後藤の手の中にある。真っ直ぐに、何事もなかったかのように。まるで最初から一度も手放していなかったような姿で、後藤の右手に収まっていた。

 

 奎星は動かなかった。動けなかった、という方が正しい。

 

 執務室の空気が、数秒前とは明らかに違っていた。壁へ逸れた気絶呪文が残した黒い焦げ跡は消え、衝撃で斜めになっていた額縁も元の角度へ戻っている。後藤が杖を抜いた拍子に机から落ちたはずの白い紙も、床へ落ちてはいなかった。紙は机の端にあり、空調の風を受けて、角だけがかすかに震えている。

 

 奎星は、ゆっくりと目だけを動かした。

 

 机。白い紙。額縁。後藤。右手。杖。左手。そして、銀色の逆転時計。

 

 最後に、後藤の顔を見た。

 

 さっきまでそこに浮かんでいた恐怖が、ほんの少しだけ薄れている。完全に消えたわけではない。頬は強張ったままで、額には薄く汗が浮かび、杖を握る指にも力が入りすぎていた。それでも、目だけが違っていた。そこには、安堵があった。

 

「そうか」

 

 後藤が息を吐いた。肺の底に溜め込んでいたものを、ようやく外へ逃がしたような呼吸だった。

 

「……」

 

「そういうことだ」

 

 声はまだ震えている。けれど、笑っていた。さっきまで追い詰められていた男の顔に、わずかな余裕が戻っている。

 

 奎星は何も答えなかった。

 

 後藤が杖を握り直す。指が一本ずつ、柄へ絡んでいく。

 

「どれほど強くても」

 

 後藤の胸が上下した。

 

「当たらなければ意味がない」

 

 杖先が、ゆっくりと持ち上がる。

 

「今の一度で分かった。君がどう避けるか、どの速さで撃つか」

 

 一度目、奎星は後藤の気絶呪文を半歩左へ避け、そのまま武装解除を放った。後藤は反応できなかった。だから、次は違う。

 

「次は」

 

 後藤の口元が引きつった。

 

「分かっている」

 

 杖先が光った。

 

 奎星の目が細くなる。今度は杖先を見なかった。右肩。前より低い。右足。わずかに外へ開いている。腰。真正面ではない。さっきとは違う構えだった。

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い閃光が放たれる。

 

 奎星はほとんど同時に身体を沈めた。熱が髪の上を走り、赤い光が頭上を通り抜けて、背後の壁へ突き刺さる。

 

「っ」

 

 後藤が息を呑んだ。

 

 当たらない。その事実を理解するより先に、奎星はもう杖を振っていた。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が一直線に走る。

 

 だが、後藤もすぐに反応した。

 

「プロテゴ!」

 

 透明な盾が後藤の前へ立ち上がった。武装解除の閃光が正面から衝突し、ばちん、と乾いた破裂音を響かせる。白い火花が半円状に弾け、そのいくつかが後藤の頬の前を横切って消えた。

 

「……!」

 

 後藤の目が見開かれる。

 

 防いだ。蓮根奎星の武装解除を。

 

 その事実を確かめるように、後藤は自分の右手を見た。杖がある。残っている。

 

「は……」

 

 喉から小さな音が漏れた。

 

「はは……」

 

 笑いだった。安堵とも興奮ともつかない、乾いた笑い。

 

「見たか」

 

 後藤の呼吸が少し速くなる。

 

「……」

 

「見たか、蓮根君」

 

「何を」

 

「防いだ」

 

 後藤は言った。

 

「君の魔法を」

 

「うん」

 

「私は」

 

 杖を上げる。

 

「次を知っている」

 

「……」

 

「君より先に」

 

 奎星は、盾の向こうにいる後藤を見ていた。後藤は笑っている。嬉しそうだった。ただ一度、盾が間に合っただけなのに。

 

 だが、後藤にとっては違うのだろう。一度目の自分は何もできなかった。二度目の自分は防いだ。それは、後藤孝雄という男がこれまで何度も経験してきたことなのだ。

 

 一回目に失敗する。時間を戻す。二回目は答えを知っている。だから成功する。

 

 相手から見れば、後藤は最初から正解を選んだ人間にしか見えない。

 

「だから」

 

 後藤が踏み込んだ。

 

「勝てる!」

 

「うん」

 

 奎星は半歩だけ右へ動いた。

 

「知ってる」

 

「……え?」

 

 後藤の杖先が左へ振られる。その前に、奎星はもう右へ出ていた。

 

 後藤の目が大きくなる。

 

「何で」

 

「さっき」

 

 神代榊が上がる。

 

「右から来たじゃん」

 

「――っ」

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い閃光が走った。後藤の盾が生まれるより速い。

 

「プロ――」

 

 間に合わない。

 

 右手が跳ね、杖が弾き飛ばされた。後藤の顔から笑みが消える。

 

 奎星はもう走っていた。二歩で距離を潰し、後藤の左手、逆転時計だけを見る。後藤もそれに気づいた。銀色の時計へ左手の指が掛かる。

 

「ちっ!」

 

 奎星が腕を伸ばした。

 

 指先。あと少し。時計の縁。銀色の輪。触れる。あと、指一本。

 

 かちり。

 

 *

 

 白い紙が机へ戻った。飛んだ杖が後藤の右手へ戻り、奎星の身体も数歩後ろへ引き戻される。空気の中に散っていた光が集まり、杖先へ吸い込まれて消えた。

 

 そして、何事もなかったように、二人は再び同じ位置へ立っていた。

 

 今度、奎星は驚かなかった。

 

 神代榊を構えたまま、自分の足元を見る。一枚の床板。その横にある机。机の端に置かれた白い紙。窓。後藤。距離は四メートルと少し。

 

 数秒。戻っているのは、同じ地点だ。

 

 後藤の肩が激しく上下していた。対する奎星は、鼻から一度息を吸い、ゆっくりと口から吐いた。心臓は速い。怖くないわけではない。時間が逆へ動く感覚には、何度経験しても身体が慣れなかった。肺の中の空気まで一度引き抜かれ、次の瞬間には同じ呼吸の途中へ押し戻されるような、不快な感覚が残っている。

 

 耳の奥にも、まだ薄い金属音が残っていた。

 

 けれど、分かったことが一つある。

 

「なるほど」

 

 奎星が呟いた。

 

 後藤の眉が動く。

 

「……何だ」

 

「そこまで戻るのね」

 

「何?」

 

「毎回」

 

 奎星は視線を巡らせた。白い紙。机。自分の位置。

 

「ここ」

 

 後藤の顔が硬くなる。

 

「…………」

 

「じゃあ」

 

 奎星は神代榊を握り直した。

 

「分かりやすいじゃん」

 

「何が」

 

「いや」

 

 奎星の口元が、ほんの少しだけ上がる。

 

「こっちの話」

 

 後藤の目が細くなった。

 

 次の瞬間、後藤は攻撃より先に杖を掲げた。

 

「プロテゴ!」

 

 透明な防壁が後藤の前へ現れる。さっきの経験から、武装解除が来ると読んだのだ。盾は厚く、真正面に立っている。後藤はその後ろから杖を構えた。

 

 奎星が神代榊を振る。後藤の身体がわずかに沈んだ。受けるつもりなのだろう。

 

「デパルソ!」

 

「――っ!?」

 

 赤い光ではない。衝撃が机へ突き刺さった。

 

 重い木製の机が床を鳴らして横へ滑り、ぎぎっ、と脚が床を擦る。防壁の向こうで、後藤の顔色が変わった。

 

「何――」

 

 机の角が腰へぶつかり、後藤の身体が崩れる。盾が揺らいだ。

 

 その一瞬を、奎星は逃さなかった。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い光が走り、杖が飛ぶ。後藤の右手が空になる。

 

「っ……!」

 

 奎星が踏み込む。

 

 だが、今度の後藤は落ちた杖を見なかった。最初から左手を時計へ伸ばしている。

 

「それも覚えたか!」

 

 奎星も走る。

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 白い紙。机。窓。杖。時計。後藤。

 

 後藤は何も言わなかった。盾も出さず、まず机を見た。それから、横へ移動する。机から離れた位置へ。

 

 奎星の眉が上がる。

 

「そこに立つんだ」

 

「黙れ!」

 

 後藤が杖を振る。

 

「ステューピファイ!」

 

 今度は低い。足元を狙っている。

 

 奎星は跳ばなかった。右足を引くだけで射線から外す。赤い光が床を掠め、焦げた石の匂いが一瞬だけ立ち上った。

 

「何で!」

 

「前」

 

 奎星が身体を起こす。

 

「そこから撃ったから」

 

「くっ……!」

 

 後藤が杖を返す。

 

「エクスペリアームス!」

 

 先に、後藤から武装解除が飛んだ。

 

 奎星の神代榊が跳ねる。柄が掌の中で浮いた。後藤の顔が明るくなる。

 

「当たった!」

 

 だが、奎星は杖を手放さなかった。

 

 身体は覚えている。武装解除を受けたときの衝撃を、何度も経験してきた。楓にも、御影にも、訓練で何度も杖を飛ばされた。指だけで握ろうとすれば持っていかれる。ならば、引っ張られる力へ無理に逆らわず、一度流してしまえばいい。

 

 奎星は手首を返した。神代榊が掌の中で半回転し、柄が戻る。

 

「な……」

 

「プロテゴ!」

 

 透明な盾が生まれ、後藤の次の呪文が弾けた。白い火花の向こうで、奎星の杖先が後藤を捉える。

 

「エクスペリアームス!」

 

「――っ!」

 

 後藤の杖が飛んだ。

 

「馬鹿な!」

 

 左手。時計。

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 その瞬間、奎星は少しだけ笑った。後藤は笑わなかった。

 

 *

 

 赤い光が交差した。後藤が右へ動き、奎星が左へ出る。机の角を使い、後藤が盾を張る。奎星は撃たず、一拍だけ待つ。後藤が盾の向こうから顔を出した瞬間、武装解除を放つ。

 

「エクスペリアームス!」

 

「っ!」

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 今度は後藤が盾を出さずに待った。奎星も撃たない。一秒、二秒と、奇妙な静寂が落ちる。互いに、相手が前回とは違うことをしようとしている。

 

 先に耐えられなくなったのは後藤だった。

 

「ステューピファイ!」

 

 奎星は半歩だけ避ける。

 

「それ」

 

 神代榊が上がる。

 

「前もやった」

 

「――っ」

 

「エクスペリアームス!」

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

「ステューピ――」

 

「遅い」

 

 赤い光が走り、後藤の杖が飛ぶ。まだ呪文を言い切っていなかった。

 

 後藤の顔が引きつる。

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 次は後藤が何も言わずに撃った。無言のまま、杖先だけが光る。

 

 奎星はわずかに目を見開いた。だが、見ていたのは杖先ではない。肩の動きだった。

 

 避ける。返す。防がれる。後藤が左へ回る。奎星が机を蹴る。木製の椅子が倒れ、後藤が躓く。武装解除。

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 後藤は椅子を先に蹴り飛ばした。

 

 奎星はそれを見て言った。

 

「それ邪魔だったんだ」

 

「黙れ!」

 

 今度は椅子がない。だから、奎星もそれを前提に動く。

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 赤い光。白い火花。透明な盾。床を走る衝撃。壁を叩く音。焦げた石の匂い。机が動き、紙が舞い、時計が鳴る。

 

 すべてが元へ戻る。

 

 また、赤い光。白い火花。透明な盾。足音。呼吸。そして、かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 後藤は右へ踏み出さない。奎星も動かない。後藤が左へ出る。奎星の目だけがそれを追う。肩、腰、足、杖、視線。その先にある次の動き。

 

「プロテゴ!」

 

「それ、前にやった」

 

「――っ」

 

「エクスペリアームス!」

 

 かちり。

 

 *

 

 戻る。

 

 何度目か、もう分からなくなっていた。七回、八回、十回。もっとかもしれない。現実の時間としては一分にも満たないはずなのに、二人の中だけでは、その数倍の時間が積み重なっている。

 

 部屋は何度も壊れた。そして、何度も戻った。

 

 額縁が割れたこともあった。次の瞬間には元へ戻った。机の脚が折れたこともあった。窓へ気絶呪文が当たり、大きな亀裂が走ったこともある。後藤の肩へ武装解除が直撃し、その勢いで身体ごと転倒したこともあった。

 

 奎星も一度、気絶呪文を肩に掠めた。腕が痺れた。だが、次の瞬間にはすべてが戻っていた。

 

 傷は残らない。疲労も残らない。服の乱れも、焦げ跡も、倒れた椅子も、すべてが消える。

 

 ただ、記憶だけが残る。

 

 そして、それは二人に同じものを残してはいなかった。

 

「何でだ!」

 

 後藤が叫んだ。

 

 声が執務室の壁へぶつかり、何度も跳ね返る。

 

 奎星は神代榊を構えたまま、眉を寄せた。

 

「何が?」

 

「なぜ……」

 

 後藤の肩が激しく上下している。身体は戻っている。心臓も、肺も、筋肉も、疲れているはずがない。それなのに、呼吸だけがひどく苦しそうだった。

 

「なぜ当たらない!」

 

「……」

 

「今度は違う攻撃をした!」

 

「うん」

 

「前とは違う!」

 

「うん」

 

「盾も変えた!」

 

「うん」

 

「位置も!」

 

「見てた」

 

「なのに!」

 

 後藤が一歩下がった。額に汗が浮かんでいる。

 

 おかしい。汗そのものは、時間が戻るたびに消えている。だが、戻った直後から新しい汗が浮かぶ。皮膚の下にあるもの、恐怖だけは、時計が消してくれない。

 

「何度やっても……」

 

 後藤の声が掠れた。喉が乾いているようだった。

 

「どうして」

 

 奎星は答えなかった。

 

 自分の呼吸を整える。御影に何度も言われた。息を止めるな。力むな。相手を見る。杖だけを見るな。肩、足、視線、その先にある次の動きを見る。

 

 最初の数回、奎星にも後藤の攻撃は読めなかった。だから避けた。それだけだった。

 

 だが、一回目で右肩が下がることを知った。二回目で、追い詰められたときに後藤が左へ逃げることを知った。三回目で、盾を出した直後に右足が止まることを知った。四回目で、焦ると杖先を見てしまうことを知った。五回目には、武装解除を恐れ始めると右手が身体の内側へ入ることを知った。そして六回目、時計へ手を伸ばす直前、後藤が必ず一瞬だけ左肩を見ることに気づいた。

 

 本人も気づいていない、ほんのわずかな癖だった。

 

 奎星は、それを全部見た。見て、覚え、次へ持ってきた。

 

「なあ」

 

 奎星が言った。

 

「……何だ」

 

「後藤さんさ」

 

 少し考えてから、続ける。

 

「俺が何してるか、分かってないだろ」

 

 後藤の眉が動く。

 

「何?」

 

「俺」

 

 奎星は神代榊を少し下げた。油断したわけではない。杖先を下げても、後藤の肩から目を離してはいなかった。

 

「最初、エクスペリアームス、めちゃくちゃ下手だったんだよ」

 

「……」

 

「最初、人形ごと飛ばした」

 

 ほんの少し、口元が緩む。

 

「強すぎるって怒られて」

 

 御影の低い声が、記憶の底から蘇る。

 

《強すぎる》

 

「弱くしたら、今度は杖を抜けなくて」

 

 また、同じ声。

 

《もう一度》

 

「やっと飛んだと思ったら、次の決闘で自分の杖を飛ばされて」

 

 空になった右手。楓の声。

 

《水無瀬の勝ちだ》

 

 悔しかった。だから、もう一回やった。

 

「あのとき」

 

 奎星は自分の右手を見る。一瞬だけ視線を落とし、すぐに後藤へ戻す。

 

「俺、負けたあと、何で負けたか考えた」

 

 撃ったあと足が止まった。杖を上げすぎた。楓はそこを見ていた。なら、次は変えなければならない。

 

「もう一回やって」

 

 奎星は続けた。

 

「また失敗して、怒られて、外して、またやって」

 

 何十回。何百回。

 

 肩。肘。手首。足。呼吸。必要な力。

 

「ずっと」

 

 奎星は後藤を見た。

 

「それだった」

 

「……何が言いたい」

 

「あんた」

 

 後藤の目を見る。

 

「失敗したら消してきたんだろ」

 

 後藤の顔が固まった。

 

「…………」

 

「会議で間違えたら、戻る」

 

 奎星が一歩近づく。

 

「話すのに失敗したら、戻る」

 

 もう一歩。

 

「俺に何を言えばいいか間違えたら、戻った」

 

「黙れ」

 

「なかったことにした」

 

「黙れ」

 

 奎星は足を止めた。二人の距離は、最初より近い。

 

「俺は」

 

 静かな声だった。

 

「失敗したら覚えとくんだよ」

 

 後藤の喉が動く。

 

「……」

 

「痛かったら、次は当たらないようにする」

 

「……」

 

「杖を飛ばされたら、次は飛ばされない持ち方をする」

 

 奎星は神代榊を握る。

 

「外したら、何で外したか見る」

 

 後藤の右肩へ視線を向ける。

 

「同じことをやって駄目だったら、違うことをやる」

 

 そして、再び後藤の目を見る。

 

「だから」

 

 一歩。

 

 後藤が一歩下がった。

 

「戻るたび」

 

 もう一歩。

 

 後藤が下がる。

 

「俺の方が」

 

 さらに一歩。

 

「後藤さんと戦うの」

 

 机。背中。後藤の腰が机の端へ当たった。

 

「上手くなってる」

 

「…………」

 

 後藤は何も言わなかった。言えなかった。

 

 奎星は、その顔を見た。

 

 少し前まで、後藤は「次を知っている」と笑っていた。相手の一手を知っている。だから勝てる。それは確かに強い。初めて戦う相手に、自分だけが二戦目の情報を持っている。普通なら、それで終わる。

 

 だが、今は違う。

 

 時間を戻すたび、後藤だけではなく奎星も二戦目へ進んでいる。三戦目、四戦目、十戦目。後藤が答えを一つ手に入れるたび、奎星も一つ手に入れる。

 

 しかも奎星は、失敗から答えを作ることを、ずっとやってきた。

 

「次」

 

 奎星が言った。

 

 後藤の目が動く。

 

「何する?」

 

「……」

 

「右から撃つ?」

 

「……」

 

「先に盾?」

 

「……」

 

「机を使う?」

 

「……」

 

「俺の杖を飛ばす?」

 

「……」

 

 後藤の唇が震える。

 

「それとも」

 

「黙れ」

 

「また違うのを考える?」

 

「黙れ」

 

「俺」

 

 奎星は首を傾げた。

 

「見るけど」

 

「黙れ!」

 

 後藤が杖を振った。

 

 今までで一番大きな動きだった。怒り、焦り、恐怖。そのすべてが右腕へ乗っている。

 

「ステューピファイ!」

 

 ぱんっ、と短い破裂音がした。赤い閃光が一直線に走る。速い。今までよりも速く、魔力も強い。後藤は考えるより先に、力を選んだ。

 

 だが、奎星はもうそこにいなかった。

 

「…………え?」

 

 後藤が息を止める。

 

 正面。いない。

 

 右。振り向く。いない。

 

「どこ――」

 

 左。

 

「こっち」

 

 声がした。近い。

 

 後藤の身体が硬直する。真横、ほんの二歩の距離に、奎星が立っていた。いつ移動したのか、後藤には分からない。さっきまで正面にいたはずなのに。

 

「エクスペリアームス!」

 

「――っ!」

 

 赤い光が右手を打った。杖が飛び、指が開く。

 

 今度、後藤は驚かなかった。もう時計へ手を伸ばしている。

 

 左手。

 

 奎星も、それを知っている。

 

「デパルソ!」

 

 小さな衝撃が走った。後藤の身体ではなく、左腕だけを狙ったのだ。

 

「ぐっ!」

 

 腕が外へ弾かれ、銀色の時計が指から滑りかける。

 

「っ……!」

 

 後藤は慌てて握り直した。

 

 ほんの一瞬。それだけだった。

 

 だが、奎星には十分だった。

 

 床を蹴る。二歩。一歩。距離が消える。神代榊の先端が、後藤の左手へ向いた。

 

「終わりだ」

 

「…………」

 

 後藤の背中が壁へ当たった。逃げ場がない。

 

 右手は空。杖は三メートル先の床。左手には逆転時計。奎星まで二歩。間には何もない。

 

「それ」

 

 奎星の視線が時計へ落ちる。

 

「もう動かすな」

 

「……」

 

「回そうとしたら」

 

 杖先をわずかに上げる。

 

「先に飛ばす」

 

 後藤の親指が止まった。

 

「…………」

 

 音がなくなった。

 

 戦いが始まってから初めて、本当の静寂が戻った。

 

 遠くで、朝の魔法省が動き始めている。扉の向こうを誰かが歩き、硬い靴底が石床へ触れる音が一定の間隔で続いている。やがて、その音は遠ざかった。どこかで書類を運ぶ折り鶴が羽ばたき、ぱたぱたと紙の羽で空気を叩く。別の部屋では扉が開き、誰かが「おはようございます」と声をかけた。

 

 普通の朝だった。

 

 何も知らない朝だった。

 

 数メートル向こうで、同じ数秒が何度も繰り返されていたことなど、誰も知らない。

 

 後藤は奎星を見ていた。

 

 十八歳。自分が見つけたと思った少年。自分が導くはずだった少年。現代の英雄。蓮根清弦の末裔。そして今、自分を壁際へ追い詰めている少年。

 

 後藤は息を吸った。浅い。もう一度吸おうとしたが、空気は胸の途中で止まった。

 

「後藤さん」

 

 奎星が言った。さっきまでの戦闘中より、声が少し低い。

 

「真壁さんが来るまで待とう」

 

「…………」

 

「時計、置いて」

 

 後藤は動かない。

 

「ちゃんと話せば」

 

「駄目だ」

 

「え?」

 

「駄目だ」

 

 後藤が呟いた。唇が白い。

 

「もう」

 

 一度、息を吸う。

 

「駄目なんだ」

 

「何が」

 

「君には分からない」

 

「何が?」

 

「戻れない」

 

 後藤が笑った。

 

 それは、奎星が今まで見たことのない笑い方だった。穏やかな官僚の笑みでもなく、奎星を説得しようとしていた頃の余裕を装う笑みでもない。さっき、自分の盾が武装解除を防いだときに浮かべた、子供のような喜びとも違っていた。

 

 弱い笑いだった。何かに縋っている人間の笑い方だった。

 

「俺ら」

 

 奎星は逆転時計を見る。

 

「戻りまくってるけど」

 

「そういう意味ではない!」

 

 後藤の声が跳ねた。そのあと、自分の声に驚いたように肩が揺れる。

 

「私は……」

 

「……」

 

「私は」

 

 後藤の視線が奎星から外れた。その後ろにある執務室へ向かう。

 

 大きな机。整然と並べられた資料。壁際の書棚。役職を示す札。そこに記された自分の名前。

 

《後藤孝雄》

 

 以前より広くなった部屋。以前より大きくなった机。以前より多くなった書類。そして、以前より増えた、自分を必要とする人間たち。

 

《後藤さん》

 

《これ、判断をお願いできますか》

 

《後藤さんなら》

 

《今回もお願いします》

 

《さすがです》

 

 声が頭の中を通り過ぎる。

 

 最初は一人だった。次は二人。いつの間にか、皆が自分を見るようになった。会議へ入れば席を空けられ、意見を聞かれ、決断を待たれる。廊下ですれ違えば、向こうから頭を下げられる。

 

 後藤は、それが欲しかった。

 

 ずっと、欲しかった。

 

「これを失ったら」

 

 後藤が言った。

 

「私は……」

 

 声が掠れる。

 

 奎星は答えない。

 

「何に戻ると言うんだ」

 

「……」

 

「何もなかった」

 

 左手が震える。銀の輪が、かすかに鳴った。

 

「本当に」

 

 後藤は笑おうとした。けれど、笑えなかった。

 

「何もなかったんだ」

 

「後藤さん」

 

「君にはあるだろう!」

 

 突然、声が弾けた。

 

 奎星の眉が寄る。後藤の目が赤い。

 

「魔力がある!」

 

「……」

 

「才能がある!」

 

 後藤が一歩下がろうとする。しかし、背中には壁があり、もう下がれない。

 

「名前がある!」

 

「……」

 

「蓮根清弦がいる!」

 

 奎星の目が少し細くなる。

 

「神代榊がある!」

 

 後藤の声が震える。

 

「学校がある!」

 

 呼吸が乱れる。

 

「友人がいる!」

 

 日向。楓。伊織。岳。奎星の頭に、顔が浮かぶ。

 

「教師がいる!」

 

 御影。九重院。そして、スズメ。

 

「皆が君を見る!」

 

「……」

 

「君が何をするのか!」

 

 後藤は時計を強く握った。

 

「君がどこへ行くのか!」

 

 指が白くなる。

 

「君が何を選ぶのか!」

 

「違う」

 

「何が違う!」

 

「何もしてなくても、って」

 

 奎星は言った。

 

「それは違う」

 

「何が!」

 

 後藤は聞いていない。いや、聞けない。

 

「私には!」

 

 声が詰まった。一度、言葉が出なくなる。喉が震える。

 

「私には」

 

 今度は小さい。

 

「これしか」

 

 左手。時計。

 

「なかった」

 

 部屋に、後藤の荒い呼吸だけが残った。

 

 奎星は何も言わなかった。すぐに否定もしなかった。神代榊を下ろさないまま、ただ後藤を見ていた。

 

 しばらく、数秒。時計を使えば簡単に消せる程度の時間。それでも、奎星は待った。

 

「……でも」

 

 やがて、口を開く。

 

 後藤の目がわずかに動いた。

 

「あんた」

 

「……」

 

「最初は」

 

 一拍置いて、奎星は続けた。

 

「それなしで仕事してたんだろ」

 

「…………」

 

「失敗して」

 

 後藤の目が揺れる。

 

「それで時計を使ったんだろ」

 

「……やめろ」

 

「じゃあ」

 

 奎星は言った。

 

「何もなかったわけじゃないじゃん」

 

 後藤の顔が崩れた。ほんの少しだけ。

 

「やめろ」

 

「あんたがやった仕事も」

 

「やめろ」

 

「時計を使う前に覚えたことも」

 

「黙れ」

 

「それ」

 

 奎星は逆転時計を見る。

 

「最初に使ったときだって、一回失敗したから」

 

「黙れ」

 

「次の正解が分かったんだろ」

 

 後藤の唇が止まった。

 

「だったら」

 

 奎星は言った。

 

「最初の失敗」

 

 一歩だけ近づく。

 

「意味あったじゃん」

 

「…………」

 

 後藤が完全に動きを止めた。

 

「失敗したから」

 

 奎星の声は大きくない。

 

「次、変えられたんだろ」

 

「……」

 

「それを」

 

 時計を見る。

 

「毎回消しただけじゃん」

 

「やめろ」

 

「あんた」

 

「やめろ」

 

「最初から何もなかったんじゃなくて」

 

「やめろ」

 

「残さなかったんだろ」

 

「やめろ!」

 

 後藤の声が割れた。目元が大きく歪む。

 

「黙れ!」

 

 左手が動いた。

 

 時計。

 

 奎星の目が、すぐにその動きを捉える。

 

「っ」

 

 神代榊が振り上がる。

 

「エクスペリア――」

 

 その瞬間、奎星の手が止まりかけた。

 

 違う。

 

 後藤の指が、今までとは違う場所へ伸びている。

 

 短く戻るとき、後藤が必ず触れていたのは、時計の中央に近い小さな輪だった。砂時計を囲む、銀の細い環。

 

 今、後藤の親指が伸びた場所は、そこではない。

 

 外側。今まで一度も触れていなかった、大きな環。

 

「……え?」

 

 後藤の親指が、それを強く横へ弾いた。

 

 かち。

 

 小さな音がした。

 

 今までの「かちり」とは違う。短く、硬い。何かの錠が一つ外れたような音だった。

 

「何した?」

 

 奎星の目が時計へ落ちる。

 

 内部で、砂ではない淡い光が流れ始めていた。しかも、今までより速い。

 

「おい」

 

 奎星が一歩踏み出す。

 

 後藤も自分の手元を見ていた。左手は震えている。自分で動かしたくせに、その先が怖いのだ。

 

 何度短く戻っても、勝てなかった。

 

 一回目より二回目。二回目より三回目。少年は強くなった。こちらが新しい答えを用意すれば、次の時間にはもうその答えを知っている。

 

 失敗を消せば消すほど、自分だけが有利になるはずだった。今までは、ずっとそうだった。

 

 なのに、蓮根奎星だけは違った。

 

 戻すたび、追いつく。戻すたび、近づく。戻すたび、自分の癖を知る。

 

 次は、もっと早い。さらに次は、もっと。

 

 もう、この数秒の中では勝てない。

 

「……そうだ」

 

 後藤が呟いた。

 

「何?」

 

 時計の環が一つ回る。

 

 かち。

 

 もう一つ。

 

 かち。

 

 内部の光が強くなる。

 

「今日が」

 

 後藤の呼吸が震えた。

 

「駄目なら」

 

「後藤さん」

 

「もっと」

 

 環が回る。

 

「前へ」

 

 奎星の顔が変わった。

 

「……おい」

 

「戻ればいい」

 

「何言ってんだ」

 

 奎星が距離を詰める。

 

「やめろ」

 

 後藤は初めて、奎星を正面から見た。目の縁が濡れている。

 

「君が」

 

「後藤さん!」

 

「ここまで来る前へ」

 

「それ止めろ!」

 

「私を」

 

 一つ、環が回る。

 

「疑う前へ」

 

 時計の内側に浮かぶ数字が、光の中で逆へ流れていく。埋もれて読めない。それでも、時間が戻っていることだけは分かった。

 

「やめろって!」

 

「特別顧問を」

 

 奎星が走った。

 

「知る前へ」

 

 あと二歩。

 

「後藤!」

 

「君が」

 

 一歩。

 

 神代榊を振り上げる。

 

「十八歳になった日まで!」

 

 奎星の顔が強張った。

 

「は?」

 

 後藤の指が最後の環へ掛かる。

 

「ふざけ――」

 

「もう一度」

 

 後藤は笑った。涙が一筋、頬を落ちる。

 

「最初からやればいい」

 

「やめろ!」

 

 奎星の杖が振り下ろされる。

 

「エクスペリアームス!」

 

 赤い閃光が走った。狙いは杖ではない。左手、時計。

 

 届く。

 

 その直前。

 

 かちり。

 

 *

 

 今までとは違った。

 

 音が一つで終わらない。

 

 かち。かち。かち。かち。かち。

 

 どこから鳴っているのか分からない。一つの時計ではない。壁の時計、腕時計、廊下、他の部屋、魔法省中、東京中、世界中。無数の時計が一斉に逆へ動き始めたような音だった。

 

「――っ!?」

 

 奎星の身体が浮いた。

 

 いや、違う。落ちた。

 

 どこへ落ちているのか分からない。上も下も、前も後ろも、方向というものが一瞬で意味を失った。胃が身体から置いていかれ、肺の中の空気が消える。

 

「っ……!」

 

 声が出ない。

 

 床が遠ざかる。後藤の顔が伸び、歪む。

 

「後藤!」

 

 奎星が腕を伸ばす。

 

 届かない。

 

 指先と後藤の間が、数メートル、数十メートル、数百メートルへと引き延ばされていく。距離そのものが壊れていた。

 

 執務室の壁が薄くなる。紙のように透け、その向こう側に別の時間が見えた。

 

 誰もいない部屋。

 

 後藤が机へ座っている。

 

 次に、職員が入る。

 

 夜。

 

 朝。

 

 また夜。

 

 また朝。

 

「待て!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「後藤!」

 

 声が引き伸ばされる。ご、と、う、と音がばらばらにほどけ、遠ざかっていく。

 

 机の上の書類が舞い上がった。紙から文字が浮き、黒い文字が細い線へ変わって羽根筆の先へ戻っていく。封筒が開き、紙が中へ入り、封が閉じる。折り鶴が後ろ向きに飛び、扉の隙間へ消える。

 

 時計。逆。

 

 朝。夜。朝。夜。

 

 窓の外では光と闇が交互に押し寄せ、雨と晴れが入れ替わる。雨粒が地面から浮かび、一つ、また一つと空へ帰っていく。濡れた道路が乾き、雲が巻き戻されるように空の向こうへ吸い込まれる。太陽が西から上がり、沈み、また上がった。

 

「うっ……!」

 

 頭の中へ、声が流れ込んだ。

 

《君の人生だ》

 

「……!」

 

 後藤の穏やかな顔が浮かび、消える。

 

《焦る必要はないよ》

 

 消える。

 

 受付。

 

《お待ちしておりました》

 

 消える。

 

 黒い傘。雨。

 

《おかえりなさい》

 

 九重院の声が遠ざかる。

 

「待て」

 

 奎星が頭を押さえた。指が髪へ食い込む。

 

「待てって」

 

 頭が痛い。脳の奥、頭蓋骨の内側へ何本もの指を突っ込まれ、記憶を一本ずつ引っ張り出されているようだった。

 

《言葉は、ご自分のものを使ってくださいね》

 

 校長室。

 

 消える。

 

《俺、今日を知ってたんだ》

 

 研究室。

 

 消え――

 

「消えんな!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 声が白い空間の中へ吸われていく。

 

「覚えろ!」

 

 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。自分へ言い聞かせているのかもしれなかった。

 

 頭が痛い。目の奥が熱い。吐きそうだった。それでも、手を離さない。

 

 六月十五日。雨。傘。後藤。真壁。御影。スズメ。K-417。施設。英国。古い記録区画。銀色の鎖。

 

《どうして君が覚えている?》

 

「覚えてる!」

 

 かち。

 

 時間がさらに戻る。

 

 真壁。

 

《覚えていろ》

 

「覚えてる!」

 

 奎星は歯を食いしばった。

 

「覚えてるって!」

 

 六月十五日。もう一回。六月十五日。もう一回。六月十五日。

 

 雨。晴れ。雨。晴れ。

 

 同じ朝が何度も重なり、離れ、消えていく。

 

《我々が何度失敗しても》

 

「……!」

 

《君が覚えているなら》

 

 真壁の声。

 

《失敗は消えていない》

 

「消えてない!」

 

 奎星は叫んだ。自分の声が遠い。

 

「消すな!」

 

 六月十五日が遠ざかる。

 

 十四。

 

「待て」

 

 十三。

 

 十二。

 

 十一。

 

「速いって!」

 

 十。

 

 九。

 

 八。

 

 教室。廊下。寮。食堂。

 

 顔。

 

 日向が笑う。楓が何か言う。伊織が本を持っている。岳。天ぷら。

 

 音がない。口だけが動いている。

 

 消える。

 

「やめろ!」

 

 七。六。五。四。

 

 進路の紙。白い用紙。文字。特別顧問。

 

 消える。

 

「待て!」

 

 三。二。一。

 

 六月が消えた。

 

 数字が変わる。

 

 五月。

 

「後藤!」

 

 奎星は腕を伸ばした。

 

 何へ向かっているのか分からない。後藤か、逆転時計か、六月十五日か、自分の記憶か。どれか一つなのか、全部なのかも分からなかった。

 

「後藤ォ!」

 

 視界が白くなった。

 

 最後に見えたのは、後藤の顔だった。

 

 泣いている。笑っている。安心している。怯えている。

 

 どれが本当の顔なのか、分からない。

 

 そして、音が消えた。

 

 *

 

 静かだった。

 

 何も聞こえない。世界そのものが息を止めたような静けさだった。

 

 暗い。

 

 いや、わずかに明るい。薄い青。

 

 蓮根奎星は目を開けた。

 

「…………」

 

 天井。見慣れた木の梁。暗い部屋。

 

 数秒、何も考えられなかった。

 

 夢。

 

 その言葉が最初に浮かんだ。

 

 悪い夢。そういう夢だったのだろう。

 

「……は」

 

 息を吸った。空気が肺へ入り、胸が膨らむ。

 

 もう一度。

 

「……はっ」

 

 大きく吸った。

 

「はぁっ……!」

 

 奎星は勢いよく起き上がった。布団が腰まで落ちる。

 

「はっ……はぁっ……」

 

 呼吸が止まらない。心臓が速い。痛いほど胸の内側を叩いている。

 

「……っ」

 

 右手で胸を押さえた。左手は布団を握り、指先が震えている。額、首、背中に汗が滲んでいた。制服ではない。寝巻きが肌へ張り付いている。

 

 まるで、ひどく長い悪夢から無理やり引き上げられたような気分だった。

 

「…………何」

 

 声が掠れた。

 

 隣では、誰かの寝息が聞こえている。

 

 奎星が振り向くと、朝比奈日向が布団を半分蹴飛ばし、片足を外へ出したまま眠っていた。寝相が悪い。いつも通りだった。

 

「……日向」

 

 返事はない。日向は鼻を鳴らし、寝返りを打った。

 

 壁際のベッドでは伊織が静かに眠っている。反対側では岳が布団へ深く潜り込んでいた。

 

 寮の部屋。マホウトコロ。

 

 奎星はゆっくりと周囲を見回した。何かがおかしい。けれど、何がおかしいのかは分からない。

 

 机。椅子。壁。窓。カーテン。

 

 全部、知っている。何度も見ている。昨日も。

 

 昨日?

 

 奎星の眉が寄った。

 

 昨日、何をした。

 

 思い出そうとすると、頭の奥がずきりと疼いた。

 

「っ……」

 

 額へ手を当てる。

 

 何か夢を見ていた。すごく長い夢だった。誰かがいた。男。部屋。赤い光。杖。時計。

 

「……時計?」

 

 口にしたその言葉だけが、妙に舌へ残った。

 

 かち。

 

 耳の奥で音が鳴った。

 

「っ」

 

 奎星が顔を上げる。

 

 壁の時計は普通に動いていた。秒針は前へ進んでいる。

 

 こち、こち、こち。

 

「……」

 

 違う。

 

 今の音は、これではない。もっと硬く、金属的だった。

 

 かちり。

 

 奎星は目を閉じた。

 

 暗闇の中に、何かが浮かぶ。

 

 銀色。輪。手。

 

 誰の手なのかは分からない。

 

「…………」

 

 目を開けると、記憶は消えていた。

 

 息は少し落ち着いている。

 

 窓。カーテンの隙間から、まだ夜の色が残っていた。南硫黄島の海と空の境界がようやく薄青くほどけ始めた程度で、校舎の輪郭も遠くの木々の影も、まだ眠りの中に沈んでいる。海から吹く風が窓をかすかに鳴らし、部屋の中へ冷たい気配を運んでいた。

 

 夜明け前。

 

 春の終わり。もう少しで夏だった。

 

 奎星は何となく、枕元の時計を見た。

 

 午前四時五十分。

 

「…………」

 

 その数字を見た瞬間、胸の奥が強く脈打った。

 

「何だよ……」

 

 知らない。

 

 なのに、知っている。

 

 この時刻に何かがある。

 

 午前四時五十分。窓。朝。日向。寮。そして、今日。

 

「…………今日?」

 

 奎星は枕元へ置いてあった小さな日付表示へ目を向けた。

 

 二〇二七年五月二十八日。

 

「…………」

 

 五月二十八日。

 

 奎星は、その数字をしばらく見つめていた。頭の中で、何かが音を立てている。雨。違う。紙。誰かの声。違う。赤い光。

 

 何か。

 

 自分は何か大事なものを。

 

「……何だっけ」

 

 指で額を押す。

 

 出てこない。

 

 夢だったのかもしれない。変な夢。すごく長くて、起きた瞬間にはほとんど忘れてしまう、そういう夢。

 

 日向が隣で寝返りを打った。

 

「ん……」

 

 奎星が見る。日向は目を覚まさない。

 

 その顔を見て、奎星は少しだけ息を吐いた。

 

「何だよ……」

 

 小さく笑う。

 

 まだ心臓は速い。けれど、夢なら夢だ。

 

 奎星はもう一度、日付を見た。

 

 二〇二七年五月二十八日。午前四時五十分。

 

「…………あ」

 

 そこで、ようやく思い出した。

 

 今日は、自分の誕生日だ。

 

「俺」

 

 奎星は、まだ眠っている部屋の中で一人、呟いた。

 

「十八じゃん」

 

 窓の向こうで、夜明け前の空が少しずつ明るくなっていく。

 

 二〇二七年五月二十八日、午前四時五十分。

 

 蓮根奎星は、十八歳になった。

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