「……え?」
後藤孝雄の右手には、杖が握られていた。
奎星は瞬きをした。一度、そしてもう一度。視界のどこかに異常が生じたのではないかと疑ったが、目の前の光景は少しも揺らがなかった。ほんの数秒前まで、後藤の杖は確かに宙を舞っていた。赤い武装解除の光が右手を正確に捉え、開いた指から柄が抜け、天井近くまで弾き上げられた。その瞬間、回転する杖の木目まで見えていた。奎星は撃った結果を確かめるために足を止めたわけではない。それでも、自分の魔法が何をしたかくらいは分かる。
外したはずがない。見間違えたはずもない。
なのに、今、杖は後藤の手の中にある。真っ直ぐに、何事もなかったかのように。まるで最初から一度も手放していなかったような姿で、後藤の右手に収まっていた。
奎星は動かなかった。動けなかった、という方が正しい。
執務室の空気が、数秒前とは明らかに違っていた。壁へ逸れた気絶呪文が残した黒い焦げ跡は消え、衝撃で斜めになっていた額縁も元の角度へ戻っている。後藤が杖を抜いた拍子に机から落ちたはずの白い紙も、床へ落ちてはいなかった。紙は机の端にあり、空調の風を受けて、角だけがかすかに震えている。
奎星は、ゆっくりと目だけを動かした。
机。白い紙。額縁。後藤。右手。杖。左手。そして、銀色の逆転時計。
最後に、後藤の顔を見た。
さっきまでそこに浮かんでいた恐怖が、ほんの少しだけ薄れている。完全に消えたわけではない。頬は強張ったままで、額には薄く汗が浮かび、杖を握る指にも力が入りすぎていた。それでも、目だけが違っていた。そこには、安堵があった。
「そうか」
後藤が息を吐いた。肺の底に溜め込んでいたものを、ようやく外へ逃がしたような呼吸だった。
「……」
「そういうことだ」
声はまだ震えている。けれど、笑っていた。さっきまで追い詰められていた男の顔に、わずかな余裕が戻っている。
奎星は何も答えなかった。
後藤が杖を握り直す。指が一本ずつ、柄へ絡んでいく。
「どれほど強くても」
後藤の胸が上下した。
「当たらなければ意味がない」
杖先が、ゆっくりと持ち上がる。
「今の一度で分かった。君がどう避けるか、どの速さで撃つか」
一度目、奎星は後藤の気絶呪文を半歩左へ避け、そのまま武装解除を放った。後藤は反応できなかった。だから、次は違う。
「次は」
後藤の口元が引きつった。
「分かっている」
杖先が光った。
奎星の目が細くなる。今度は杖先を見なかった。右肩。前より低い。右足。わずかに外へ開いている。腰。真正面ではない。さっきとは違う構えだった。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が放たれる。
奎星はほとんど同時に身体を沈めた。熱が髪の上を走り、赤い光が頭上を通り抜けて、背後の壁へ突き刺さる。
「っ」
後藤が息を呑んだ。
当たらない。その事実を理解するより先に、奎星はもう杖を振っていた。
「エクスペリアームス!」
赤い光が一直線に走る。
だが、後藤もすぐに反応した。
「プロテゴ!」
透明な盾が後藤の前へ立ち上がった。武装解除の閃光が正面から衝突し、ばちん、と乾いた破裂音を響かせる。白い火花が半円状に弾け、そのいくつかが後藤の頬の前を横切って消えた。
「……!」
後藤の目が見開かれる。
防いだ。蓮根奎星の武装解除を。
その事実を確かめるように、後藤は自分の右手を見た。杖がある。残っている。
「は……」
喉から小さな音が漏れた。
「はは……」
笑いだった。安堵とも興奮ともつかない、乾いた笑い。
「見たか」
後藤の呼吸が少し速くなる。
「……」
「見たか、蓮根君」
「何を」
「防いだ」
後藤は言った。
「君の魔法を」
「うん」
「私は」
杖を上げる。
「次を知っている」
「……」
「君より先に」
奎星は、盾の向こうにいる後藤を見ていた。後藤は笑っている。嬉しそうだった。ただ一度、盾が間に合っただけなのに。
だが、後藤にとっては違うのだろう。一度目の自分は何もできなかった。二度目の自分は防いだ。それは、後藤孝雄という男がこれまで何度も経験してきたことなのだ。
一回目に失敗する。時間を戻す。二回目は答えを知っている。だから成功する。
相手から見れば、後藤は最初から正解を選んだ人間にしか見えない。
「だから」
後藤が踏み込んだ。
「勝てる!」
「うん」
奎星は半歩だけ右へ動いた。
「知ってる」
「……え?」
後藤の杖先が左へ振られる。その前に、奎星はもう右へ出ていた。
後藤の目が大きくなる。
「何で」
「さっき」
神代榊が上がる。
「右から来たじゃん」
「――っ」
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が走った。後藤の盾が生まれるより速い。
「プロ――」
間に合わない。
右手が跳ね、杖が弾き飛ばされた。後藤の顔から笑みが消える。
奎星はもう走っていた。二歩で距離を潰し、後藤の左手、逆転時計だけを見る。後藤もそれに気づいた。銀色の時計へ左手の指が掛かる。
「ちっ!」
奎星が腕を伸ばした。
指先。あと少し。時計の縁。銀色の輪。触れる。あと、指一本。
かちり。
*
白い紙が机へ戻った。飛んだ杖が後藤の右手へ戻り、奎星の身体も数歩後ろへ引き戻される。空気の中に散っていた光が集まり、杖先へ吸い込まれて消えた。
そして、何事もなかったように、二人は再び同じ位置へ立っていた。
今度、奎星は驚かなかった。
神代榊を構えたまま、自分の足元を見る。一枚の床板。その横にある机。机の端に置かれた白い紙。窓。後藤。距離は四メートルと少し。
数秒。戻っているのは、同じ地点だ。
後藤の肩が激しく上下していた。対する奎星は、鼻から一度息を吸い、ゆっくりと口から吐いた。心臓は速い。怖くないわけではない。時間が逆へ動く感覚には、何度経験しても身体が慣れなかった。肺の中の空気まで一度引き抜かれ、次の瞬間には同じ呼吸の途中へ押し戻されるような、不快な感覚が残っている。
耳の奥にも、まだ薄い金属音が残っていた。
けれど、分かったことが一つある。
「なるほど」
奎星が呟いた。
後藤の眉が動く。
「……何だ」
「そこまで戻るのね」
「何?」
「毎回」
奎星は視線を巡らせた。白い紙。机。自分の位置。
「ここ」
後藤の顔が硬くなる。
「…………」
「じゃあ」
奎星は神代榊を握り直した。
「分かりやすいじゃん」
「何が」
「いや」
奎星の口元が、ほんの少しだけ上がる。
「こっちの話」
後藤の目が細くなった。
次の瞬間、後藤は攻撃より先に杖を掲げた。
「プロテゴ!」
透明な防壁が後藤の前へ現れる。さっきの経験から、武装解除が来ると読んだのだ。盾は厚く、真正面に立っている。後藤はその後ろから杖を構えた。
奎星が神代榊を振る。後藤の身体がわずかに沈んだ。受けるつもりなのだろう。
「デパルソ!」
「――っ!?」
赤い光ではない。衝撃が机へ突き刺さった。
重い木製の机が床を鳴らして横へ滑り、ぎぎっ、と脚が床を擦る。防壁の向こうで、後藤の顔色が変わった。
「何――」
机の角が腰へぶつかり、後藤の身体が崩れる。盾が揺らいだ。
その一瞬を、奎星は逃さなかった。
「エクスペリアームス!」
赤い光が走り、杖が飛ぶ。後藤の右手が空になる。
「っ……!」
奎星が踏み込む。
だが、今度の後藤は落ちた杖を見なかった。最初から左手を時計へ伸ばしている。
「それも覚えたか!」
奎星も走る。
かちり。
*
戻る。
白い紙。机。窓。杖。時計。後藤。
後藤は何も言わなかった。盾も出さず、まず机を見た。それから、横へ移動する。机から離れた位置へ。
奎星の眉が上がる。
「そこに立つんだ」
「黙れ!」
後藤が杖を振る。
「ステューピファイ!」
今度は低い。足元を狙っている。
奎星は跳ばなかった。右足を引くだけで射線から外す。赤い光が床を掠め、焦げた石の匂いが一瞬だけ立ち上った。
「何で!」
「前」
奎星が身体を起こす。
「そこから撃ったから」
「くっ……!」
後藤が杖を返す。
「エクスペリアームス!」
先に、後藤から武装解除が飛んだ。
奎星の神代榊が跳ねる。柄が掌の中で浮いた。後藤の顔が明るくなる。
「当たった!」
だが、奎星は杖を手放さなかった。
身体は覚えている。武装解除を受けたときの衝撃を、何度も経験してきた。楓にも、御影にも、訓練で何度も杖を飛ばされた。指だけで握ろうとすれば持っていかれる。ならば、引っ張られる力へ無理に逆らわず、一度流してしまえばいい。
奎星は手首を返した。神代榊が掌の中で半回転し、柄が戻る。
「な……」
「プロテゴ!」
透明な盾が生まれ、後藤の次の呪文が弾けた。白い火花の向こうで、奎星の杖先が後藤を捉える。
「エクスペリアームス!」
「――っ!」
後藤の杖が飛んだ。
「馬鹿な!」
左手。時計。
かちり。
*
戻る。
その瞬間、奎星は少しだけ笑った。後藤は笑わなかった。
*
赤い光が交差した。後藤が右へ動き、奎星が左へ出る。机の角を使い、後藤が盾を張る。奎星は撃たず、一拍だけ待つ。後藤が盾の向こうから顔を出した瞬間、武装解除を放つ。
「エクスペリアームス!」
「っ!」
かちり。
*
戻る。
今度は後藤が盾を出さずに待った。奎星も撃たない。一秒、二秒と、奇妙な静寂が落ちる。互いに、相手が前回とは違うことをしようとしている。
先に耐えられなくなったのは後藤だった。
「ステューピファイ!」
奎星は半歩だけ避ける。
「それ」
神代榊が上がる。
「前もやった」
「――っ」
「エクスペリアームス!」
かちり。
*
戻る。
「ステューピ――」
「遅い」
赤い光が走り、後藤の杖が飛ぶ。まだ呪文を言い切っていなかった。
後藤の顔が引きつる。
かちり。
*
戻る。
次は後藤が何も言わずに撃った。無言のまま、杖先だけが光る。
奎星はわずかに目を見開いた。だが、見ていたのは杖先ではない。肩の動きだった。
避ける。返す。防がれる。後藤が左へ回る。奎星が机を蹴る。木製の椅子が倒れ、後藤が躓く。武装解除。
かちり。
*
戻る。
後藤は椅子を先に蹴り飛ばした。
奎星はそれを見て言った。
「それ邪魔だったんだ」
「黙れ!」
今度は椅子がない。だから、奎星もそれを前提に動く。
かちり。
*
戻る。
赤い光。白い火花。透明な盾。床を走る衝撃。壁を叩く音。焦げた石の匂い。机が動き、紙が舞い、時計が鳴る。
すべてが元へ戻る。
また、赤い光。白い火花。透明な盾。足音。呼吸。そして、かちり。
*
戻る。
後藤は右へ踏み出さない。奎星も動かない。後藤が左へ出る。奎星の目だけがそれを追う。肩、腰、足、杖、視線。その先にある次の動き。
「プロテゴ!」
「それ、前にやった」
「――っ」
「エクスペリアームス!」
かちり。
*
戻る。
何度目か、もう分からなくなっていた。七回、八回、十回。もっとかもしれない。現実の時間としては一分にも満たないはずなのに、二人の中だけでは、その数倍の時間が積み重なっている。
部屋は何度も壊れた。そして、何度も戻った。
額縁が割れたこともあった。次の瞬間には元へ戻った。机の脚が折れたこともあった。窓へ気絶呪文が当たり、大きな亀裂が走ったこともある。後藤の肩へ武装解除が直撃し、その勢いで身体ごと転倒したこともあった。
奎星も一度、気絶呪文を肩に掠めた。腕が痺れた。だが、次の瞬間にはすべてが戻っていた。
傷は残らない。疲労も残らない。服の乱れも、焦げ跡も、倒れた椅子も、すべてが消える。
ただ、記憶だけが残る。
そして、それは二人に同じものを残してはいなかった。
「何でだ!」
後藤が叫んだ。
声が執務室の壁へぶつかり、何度も跳ね返る。
奎星は神代榊を構えたまま、眉を寄せた。
「何が?」
「なぜ……」
後藤の肩が激しく上下している。身体は戻っている。心臓も、肺も、筋肉も、疲れているはずがない。それなのに、呼吸だけがひどく苦しそうだった。
「なぜ当たらない!」
「……」
「今度は違う攻撃をした!」
「うん」
「前とは違う!」
「うん」
「盾も変えた!」
「うん」
「位置も!」
「見てた」
「なのに!」
後藤が一歩下がった。額に汗が浮かんでいる。
おかしい。汗そのものは、時間が戻るたびに消えている。だが、戻った直後から新しい汗が浮かぶ。皮膚の下にあるもの、恐怖だけは、時計が消してくれない。
「何度やっても……」
後藤の声が掠れた。喉が乾いているようだった。
「どうして」
奎星は答えなかった。
自分の呼吸を整える。御影に何度も言われた。息を止めるな。力むな。相手を見る。杖だけを見るな。肩、足、視線、その先にある次の動きを見る。
最初の数回、奎星にも後藤の攻撃は読めなかった。だから避けた。それだけだった。
だが、一回目で右肩が下がることを知った。二回目で、追い詰められたときに後藤が左へ逃げることを知った。三回目で、盾を出した直後に右足が止まることを知った。四回目で、焦ると杖先を見てしまうことを知った。五回目には、武装解除を恐れ始めると右手が身体の内側へ入ることを知った。そして六回目、時計へ手を伸ばす直前、後藤が必ず一瞬だけ左肩を見ることに気づいた。
本人も気づいていない、ほんのわずかな癖だった。
奎星は、それを全部見た。見て、覚え、次へ持ってきた。
「なあ」
奎星が言った。
「……何だ」
「後藤さんさ」
少し考えてから、続ける。
「俺が何してるか、分かってないだろ」
後藤の眉が動く。
「何?」
「俺」
奎星は神代榊を少し下げた。油断したわけではない。杖先を下げても、後藤の肩から目を離してはいなかった。
「最初、エクスペリアームス、めちゃくちゃ下手だったんだよ」
「……」
「最初、人形ごと飛ばした」
ほんの少し、口元が緩む。
「強すぎるって怒られて」
御影の低い声が、記憶の底から蘇る。
《強すぎる》
「弱くしたら、今度は杖を抜けなくて」
また、同じ声。
《もう一度》
「やっと飛んだと思ったら、次の決闘で自分の杖を飛ばされて」
空になった右手。楓の声。
《水無瀬の勝ちだ》
悔しかった。だから、もう一回やった。
「あのとき」
奎星は自分の右手を見る。一瞬だけ視線を落とし、すぐに後藤へ戻す。
「俺、負けたあと、何で負けたか考えた」
撃ったあと足が止まった。杖を上げすぎた。楓はそこを見ていた。なら、次は変えなければならない。
「もう一回やって」
奎星は続けた。
「また失敗して、怒られて、外して、またやって」
何十回。何百回。
肩。肘。手首。足。呼吸。必要な力。
「ずっと」
奎星は後藤を見た。
「それだった」
「……何が言いたい」
「あんた」
後藤の目を見る。
「失敗したら消してきたんだろ」
後藤の顔が固まった。
「…………」
「会議で間違えたら、戻る」
奎星が一歩近づく。
「話すのに失敗したら、戻る」
もう一歩。
「俺に何を言えばいいか間違えたら、戻った」
「黙れ」
「なかったことにした」
「黙れ」
奎星は足を止めた。二人の距離は、最初より近い。
「俺は」
静かな声だった。
「失敗したら覚えとくんだよ」
後藤の喉が動く。
「……」
「痛かったら、次は当たらないようにする」
「……」
「杖を飛ばされたら、次は飛ばされない持ち方をする」
奎星は神代榊を握る。
「外したら、何で外したか見る」
後藤の右肩へ視線を向ける。
「同じことをやって駄目だったら、違うことをやる」
そして、再び後藤の目を見る。
「だから」
一歩。
後藤が一歩下がった。
「戻るたび」
もう一歩。
後藤が下がる。
「俺の方が」
さらに一歩。
「後藤さんと戦うの」
机。背中。後藤の腰が机の端へ当たった。
「上手くなってる」
「…………」
後藤は何も言わなかった。言えなかった。
奎星は、その顔を見た。
少し前まで、後藤は「次を知っている」と笑っていた。相手の一手を知っている。だから勝てる。それは確かに強い。初めて戦う相手に、自分だけが二戦目の情報を持っている。普通なら、それで終わる。
だが、今は違う。
時間を戻すたび、後藤だけではなく奎星も二戦目へ進んでいる。三戦目、四戦目、十戦目。後藤が答えを一つ手に入れるたび、奎星も一つ手に入れる。
しかも奎星は、失敗から答えを作ることを、ずっとやってきた。
「次」
奎星が言った。
後藤の目が動く。
「何する?」
「……」
「右から撃つ?」
「……」
「先に盾?」
「……」
「机を使う?」
「……」
「俺の杖を飛ばす?」
「……」
後藤の唇が震える。
「それとも」
「黙れ」
「また違うのを考える?」
「黙れ」
「俺」
奎星は首を傾げた。
「見るけど」
「黙れ!」
後藤が杖を振った。
今までで一番大きな動きだった。怒り、焦り、恐怖。そのすべてが右腕へ乗っている。
「ステューピファイ!」
ぱんっ、と短い破裂音がした。赤い閃光が一直線に走る。速い。今までよりも速く、魔力も強い。後藤は考えるより先に、力を選んだ。
だが、奎星はもうそこにいなかった。
「…………え?」
後藤が息を止める。
正面。いない。
右。振り向く。いない。
「どこ――」
左。
「こっち」
声がした。近い。
後藤の身体が硬直する。真横、ほんの二歩の距離に、奎星が立っていた。いつ移動したのか、後藤には分からない。さっきまで正面にいたはずなのに。
「エクスペリアームス!」
「――っ!」
赤い光が右手を打った。杖が飛び、指が開く。
今度、後藤は驚かなかった。もう時計へ手を伸ばしている。
左手。
奎星も、それを知っている。
「デパルソ!」
小さな衝撃が走った。後藤の身体ではなく、左腕だけを狙ったのだ。
「ぐっ!」
腕が外へ弾かれ、銀色の時計が指から滑りかける。
「っ……!」
後藤は慌てて握り直した。
ほんの一瞬。それだけだった。
だが、奎星には十分だった。
床を蹴る。二歩。一歩。距離が消える。神代榊の先端が、後藤の左手へ向いた。
「終わりだ」
「…………」
後藤の背中が壁へ当たった。逃げ場がない。
右手は空。杖は三メートル先の床。左手には逆転時計。奎星まで二歩。間には何もない。
「それ」
奎星の視線が時計へ落ちる。
「もう動かすな」
「……」
「回そうとしたら」
杖先をわずかに上げる。
「先に飛ばす」
後藤の親指が止まった。
「…………」
音がなくなった。
戦いが始まってから初めて、本当の静寂が戻った。
遠くで、朝の魔法省が動き始めている。扉の向こうを誰かが歩き、硬い靴底が石床へ触れる音が一定の間隔で続いている。やがて、その音は遠ざかった。どこかで書類を運ぶ折り鶴が羽ばたき、ぱたぱたと紙の羽で空気を叩く。別の部屋では扉が開き、誰かが「おはようございます」と声をかけた。
普通の朝だった。
何も知らない朝だった。
数メートル向こうで、同じ数秒が何度も繰り返されていたことなど、誰も知らない。
後藤は奎星を見ていた。
十八歳。自分が見つけたと思った少年。自分が導くはずだった少年。現代の英雄。蓮根清弦の末裔。そして今、自分を壁際へ追い詰めている少年。
後藤は息を吸った。浅い。もう一度吸おうとしたが、空気は胸の途中で止まった。
「後藤さん」
奎星が言った。さっきまでの戦闘中より、声が少し低い。
「真壁さんが来るまで待とう」
「…………」
「時計、置いて」
後藤は動かない。
「ちゃんと話せば」
「駄目だ」
「え?」
「駄目だ」
後藤が呟いた。唇が白い。
「もう」
一度、息を吸う。
「駄目なんだ」
「何が」
「君には分からない」
「何が?」
「戻れない」
後藤が笑った。
それは、奎星が今まで見たことのない笑い方だった。穏やかな官僚の笑みでもなく、奎星を説得しようとしていた頃の余裕を装う笑みでもない。さっき、自分の盾が武装解除を防いだときに浮かべた、子供のような喜びとも違っていた。
弱い笑いだった。何かに縋っている人間の笑い方だった。
「俺ら」
奎星は逆転時計を見る。
「戻りまくってるけど」
「そういう意味ではない!」
後藤の声が跳ねた。そのあと、自分の声に驚いたように肩が揺れる。
「私は……」
「……」
「私は」
後藤の視線が奎星から外れた。その後ろにある執務室へ向かう。
大きな机。整然と並べられた資料。壁際の書棚。役職を示す札。そこに記された自分の名前。
《後藤孝雄》
以前より広くなった部屋。以前より大きくなった机。以前より多くなった書類。そして、以前より増えた、自分を必要とする人間たち。
《後藤さん》
《これ、判断をお願いできますか》
《後藤さんなら》
《今回もお願いします》
《さすがです》
声が頭の中を通り過ぎる。
最初は一人だった。次は二人。いつの間にか、皆が自分を見るようになった。会議へ入れば席を空けられ、意見を聞かれ、決断を待たれる。廊下ですれ違えば、向こうから頭を下げられる。
後藤は、それが欲しかった。
ずっと、欲しかった。
「これを失ったら」
後藤が言った。
「私は……」
声が掠れる。
奎星は答えない。
「何に戻ると言うんだ」
「……」
「何もなかった」
左手が震える。銀の輪が、かすかに鳴った。
「本当に」
後藤は笑おうとした。けれど、笑えなかった。
「何もなかったんだ」
「後藤さん」
「君にはあるだろう!」
突然、声が弾けた。
奎星の眉が寄る。後藤の目が赤い。
「魔力がある!」
「……」
「才能がある!」
後藤が一歩下がろうとする。しかし、背中には壁があり、もう下がれない。
「名前がある!」
「……」
「蓮根清弦がいる!」
奎星の目が少し細くなる。
「神代榊がある!」
後藤の声が震える。
「学校がある!」
呼吸が乱れる。
「友人がいる!」
日向。楓。伊織。岳。奎星の頭に、顔が浮かぶ。
「教師がいる!」
御影。九重院。そして、スズメ。
「皆が君を見る!」
「……」
「君が何をするのか!」
後藤は時計を強く握った。
「君がどこへ行くのか!」
指が白くなる。
「君が何を選ぶのか!」
「違う」
「何が違う!」
「何もしてなくても、って」
奎星は言った。
「それは違う」
「何が!」
後藤は聞いていない。いや、聞けない。
「私には!」
声が詰まった。一度、言葉が出なくなる。喉が震える。
「私には」
今度は小さい。
「これしか」
左手。時計。
「なかった」
部屋に、後藤の荒い呼吸だけが残った。
奎星は何も言わなかった。すぐに否定もしなかった。神代榊を下ろさないまま、ただ後藤を見ていた。
しばらく、数秒。時計を使えば簡単に消せる程度の時間。それでも、奎星は待った。
「……でも」
やがて、口を開く。
後藤の目がわずかに動いた。
「あんた」
「……」
「最初は」
一拍置いて、奎星は続けた。
「それなしで仕事してたんだろ」
「…………」
「失敗して」
後藤の目が揺れる。
「それで時計を使ったんだろ」
「……やめろ」
「じゃあ」
奎星は言った。
「何もなかったわけじゃないじゃん」
後藤の顔が崩れた。ほんの少しだけ。
「やめろ」
「あんたがやった仕事も」
「やめろ」
「時計を使う前に覚えたことも」
「黙れ」
「それ」
奎星は逆転時計を見る。
「最初に使ったときだって、一回失敗したから」
「黙れ」
「次の正解が分かったんだろ」
後藤の唇が止まった。
「だったら」
奎星は言った。
「最初の失敗」
一歩だけ近づく。
「意味あったじゃん」
「…………」
後藤が完全に動きを止めた。
「失敗したから」
奎星の声は大きくない。
「次、変えられたんだろ」
「……」
「それを」
時計を見る。
「毎回消しただけじゃん」
「やめろ」
「あんた」
「やめろ」
「最初から何もなかったんじゃなくて」
「やめろ」
「残さなかったんだろ」
「やめろ!」
後藤の声が割れた。目元が大きく歪む。
「黙れ!」
左手が動いた。
時計。
奎星の目が、すぐにその動きを捉える。
「っ」
神代榊が振り上がる。
「エクスペリア――」
その瞬間、奎星の手が止まりかけた。
違う。
後藤の指が、今までとは違う場所へ伸びている。
短く戻るとき、後藤が必ず触れていたのは、時計の中央に近い小さな輪だった。砂時計を囲む、銀の細い環。
今、後藤の親指が伸びた場所は、そこではない。
外側。今まで一度も触れていなかった、大きな環。
「……え?」
後藤の親指が、それを強く横へ弾いた。
かち。
小さな音がした。
今までの「かちり」とは違う。短く、硬い。何かの錠が一つ外れたような音だった。
「何した?」
奎星の目が時計へ落ちる。
内部で、砂ではない淡い光が流れ始めていた。しかも、今までより速い。
「おい」
奎星が一歩踏み出す。
後藤も自分の手元を見ていた。左手は震えている。自分で動かしたくせに、その先が怖いのだ。
何度短く戻っても、勝てなかった。
一回目より二回目。二回目より三回目。少年は強くなった。こちらが新しい答えを用意すれば、次の時間にはもうその答えを知っている。
失敗を消せば消すほど、自分だけが有利になるはずだった。今までは、ずっとそうだった。
なのに、蓮根奎星だけは違った。
戻すたび、追いつく。戻すたび、近づく。戻すたび、自分の癖を知る。
次は、もっと早い。さらに次は、もっと。
もう、この数秒の中では勝てない。
「……そうだ」
後藤が呟いた。
「何?」
時計の環が一つ回る。
かち。
もう一つ。
かち。
内部の光が強くなる。
「今日が」
後藤の呼吸が震えた。
「駄目なら」
「後藤さん」
「もっと」
環が回る。
「前へ」
奎星の顔が変わった。
「……おい」
「戻ればいい」
「何言ってんだ」
奎星が距離を詰める。
「やめろ」
後藤は初めて、奎星を正面から見た。目の縁が濡れている。
「君が」
「後藤さん!」
「ここまで来る前へ」
「それ止めろ!」
「私を」
一つ、環が回る。
「疑う前へ」
時計の内側に浮かぶ数字が、光の中で逆へ流れていく。埋もれて読めない。それでも、時間が戻っていることだけは分かった。
「やめろって!」
「特別顧問を」
奎星が走った。
「知る前へ」
あと二歩。
「後藤!」
「君が」
一歩。
神代榊を振り上げる。
「十八歳になった日まで!」
奎星の顔が強張った。
「は?」
後藤の指が最後の環へ掛かる。
「ふざけ――」
「もう一度」
後藤は笑った。涙が一筋、頬を落ちる。
「最初からやればいい」
「やめろ!」
奎星の杖が振り下ろされる。
「エクスペリアームス!」
赤い閃光が走った。狙いは杖ではない。左手、時計。
届く。
その直前。
かちり。
*
今までとは違った。
音が一つで終わらない。
かち。かち。かち。かち。かち。
どこから鳴っているのか分からない。一つの時計ではない。壁の時計、腕時計、廊下、他の部屋、魔法省中、東京中、世界中。無数の時計が一斉に逆へ動き始めたような音だった。
「――っ!?」
奎星の身体が浮いた。
いや、違う。落ちた。
どこへ落ちているのか分からない。上も下も、前も後ろも、方向というものが一瞬で意味を失った。胃が身体から置いていかれ、肺の中の空気が消える。
「っ……!」
声が出ない。
床が遠ざかる。後藤の顔が伸び、歪む。
「後藤!」
奎星が腕を伸ばす。
届かない。
指先と後藤の間が、数メートル、数十メートル、数百メートルへと引き延ばされていく。距離そのものが壊れていた。
執務室の壁が薄くなる。紙のように透け、その向こう側に別の時間が見えた。
誰もいない部屋。
後藤が机へ座っている。
次に、職員が入る。
夜。
朝。
また夜。
また朝。
「待て!」
奎星が叫ぶ。
「後藤!」
声が引き伸ばされる。ご、と、う、と音がばらばらにほどけ、遠ざかっていく。
机の上の書類が舞い上がった。紙から文字が浮き、黒い文字が細い線へ変わって羽根筆の先へ戻っていく。封筒が開き、紙が中へ入り、封が閉じる。折り鶴が後ろ向きに飛び、扉の隙間へ消える。
時計。逆。
朝。夜。朝。夜。
窓の外では光と闇が交互に押し寄せ、雨と晴れが入れ替わる。雨粒が地面から浮かび、一つ、また一つと空へ帰っていく。濡れた道路が乾き、雲が巻き戻されるように空の向こうへ吸い込まれる。太陽が西から上がり、沈み、また上がった。
「うっ……!」
頭の中へ、声が流れ込んだ。
《君の人生だ》
「……!」
後藤の穏やかな顔が浮かび、消える。
《焦る必要はないよ》
消える。
受付。
《お待ちしておりました》
消える。
黒い傘。雨。
《おかえりなさい》
九重院の声が遠ざかる。
「待て」
奎星が頭を押さえた。指が髪へ食い込む。
「待てって」
頭が痛い。脳の奥、頭蓋骨の内側へ何本もの指を突っ込まれ、記憶を一本ずつ引っ張り出されているようだった。
《言葉は、ご自分のものを使ってくださいね》
校長室。
消える。
《俺、今日を知ってたんだ》
研究室。
消え――
「消えんな!」
奎星が叫ぶ。
声が白い空間の中へ吸われていく。
「覚えろ!」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からない。自分へ言い聞かせているのかもしれなかった。
頭が痛い。目の奥が熱い。吐きそうだった。それでも、手を離さない。
六月十五日。雨。傘。後藤。真壁。御影。スズメ。K-417。施設。英国。古い記録区画。銀色の鎖。
《どうして君が覚えている?》
「覚えてる!」
かち。
時間がさらに戻る。
真壁。
《覚えていろ》
「覚えてる!」
奎星は歯を食いしばった。
「覚えてるって!」
六月十五日。もう一回。六月十五日。もう一回。六月十五日。
雨。晴れ。雨。晴れ。
同じ朝が何度も重なり、離れ、消えていく。
《我々が何度失敗しても》
「……!」
《君が覚えているなら》
真壁の声。
《失敗は消えていない》
「消えてない!」
奎星は叫んだ。自分の声が遠い。
「消すな!」
六月十五日が遠ざかる。
十四。
「待て」
十三。
十二。
十一。
「速いって!」
十。
九。
八。
教室。廊下。寮。食堂。
顔。
日向が笑う。楓が何か言う。伊織が本を持っている。岳。天ぷら。
音がない。口だけが動いている。
消える。
「やめろ!」
七。六。五。四。
進路の紙。白い用紙。文字。特別顧問。
消える。
「待て!」
三。二。一。
六月が消えた。
数字が変わる。
五月。
「後藤!」
奎星は腕を伸ばした。
何へ向かっているのか分からない。後藤か、逆転時計か、六月十五日か、自分の記憶か。どれか一つなのか、全部なのかも分からなかった。
「後藤ォ!」
視界が白くなった。
最後に見えたのは、後藤の顔だった。
泣いている。笑っている。安心している。怯えている。
どれが本当の顔なのか、分からない。
そして、音が消えた。
*
静かだった。
何も聞こえない。世界そのものが息を止めたような静けさだった。
暗い。
いや、わずかに明るい。薄い青。
蓮根奎星は目を開けた。
「…………」
天井。見慣れた木の梁。暗い部屋。
数秒、何も考えられなかった。
夢。
その言葉が最初に浮かんだ。
悪い夢。そういう夢だったのだろう。
「……は」
息を吸った。空気が肺へ入り、胸が膨らむ。
もう一度。
「……はっ」
大きく吸った。
「はぁっ……!」
奎星は勢いよく起き上がった。布団が腰まで落ちる。
「はっ……はぁっ……」
呼吸が止まらない。心臓が速い。痛いほど胸の内側を叩いている。
「……っ」
右手で胸を押さえた。左手は布団を握り、指先が震えている。額、首、背中に汗が滲んでいた。制服ではない。寝巻きが肌へ張り付いている。
まるで、ひどく長い悪夢から無理やり引き上げられたような気分だった。
「…………何」
声が掠れた。
隣では、誰かの寝息が聞こえている。
奎星が振り向くと、朝比奈日向が布団を半分蹴飛ばし、片足を外へ出したまま眠っていた。寝相が悪い。いつも通りだった。
「……日向」
返事はない。日向は鼻を鳴らし、寝返りを打った。
壁際のベッドでは伊織が静かに眠っている。反対側では岳が布団へ深く潜り込んでいた。
寮の部屋。マホウトコロ。
奎星はゆっくりと周囲を見回した。何かがおかしい。けれど、何がおかしいのかは分からない。
机。椅子。壁。窓。カーテン。
全部、知っている。何度も見ている。昨日も。
昨日?
奎星の眉が寄った。
昨日、何をした。
思い出そうとすると、頭の奥がずきりと疼いた。
「っ……」
額へ手を当てる。
何か夢を見ていた。すごく長い夢だった。誰かがいた。男。部屋。赤い光。杖。時計。
「……時計?」
口にしたその言葉だけが、妙に舌へ残った。
かち。
耳の奥で音が鳴った。
「っ」
奎星が顔を上げる。
壁の時計は普通に動いていた。秒針は前へ進んでいる。
こち、こち、こち。
「……」
違う。
今の音は、これではない。もっと硬く、金属的だった。
かちり。
奎星は目を閉じた。
暗闇の中に、何かが浮かぶ。
銀色。輪。手。
誰の手なのかは分からない。
「…………」
目を開けると、記憶は消えていた。
息は少し落ち着いている。
窓。カーテンの隙間から、まだ夜の色が残っていた。南硫黄島の海と空の境界がようやく薄青くほどけ始めた程度で、校舎の輪郭も遠くの木々の影も、まだ眠りの中に沈んでいる。海から吹く風が窓をかすかに鳴らし、部屋の中へ冷たい気配を運んでいた。
夜明け前。
春の終わり。もう少しで夏だった。
奎星は何となく、枕元の時計を見た。
午前四時五十分。
「…………」
その数字を見た瞬間、胸の奥が強く脈打った。
「何だよ……」
知らない。
なのに、知っている。
この時刻に何かがある。
午前四時五十分。窓。朝。日向。寮。そして、今日。
「…………今日?」
奎星は枕元へ置いてあった小さな日付表示へ目を向けた。
二〇二七年五月二十八日。
「…………」
五月二十八日。
奎星は、その数字をしばらく見つめていた。頭の中で、何かが音を立てている。雨。違う。紙。誰かの声。違う。赤い光。
何か。
自分は何か大事なものを。
「……何だっけ」
指で額を押す。
出てこない。
夢だったのかもしれない。変な夢。すごく長くて、起きた瞬間にはほとんど忘れてしまう、そういう夢。
日向が隣で寝返りを打った。
「ん……」
奎星が見る。日向は目を覚まさない。
その顔を見て、奎星は少しだけ息を吐いた。
「何だよ……」
小さく笑う。
まだ心臓は速い。けれど、夢なら夢だ。
奎星はもう一度、日付を見た。
二〇二七年五月二十八日。午前四時五十分。
「…………あ」
そこで、ようやく思い出した。
今日は、自分の誕生日だ。
「俺」
奎星は、まだ眠っている部屋の中で一人、呟いた。
「十八じゃん」
窓の向こうで、夜明け前の空が少しずつ明るくなっていく。
二〇二七年五月二十八日、午前四時五十分。
蓮根奎星は、十八歳になった。