二〇二七年五月二十八日。
蓮根奎星は、十八歳になった。
今度は、そのことを覚えていた。
午前四時五十分。
男子寮の四人部屋は、まだ夜の底に沈んでいた。窓の外には、夜明け前の薄青い空がわずかに広がっている。春の終わりの南硫黄島は朝が早いとはいえ、校舎の輪郭も、遠くの木々も、まだ眠りの中にあった。
その静けさを、目覚まし時計の電子音が乱暴に引き裂いた。
ぴぴぴぴ、と規則正しい音が部屋いっぱいに響く。
「…………」
奎星は、音が鳴り始めるより少しだけ早く目を開けていた。
暗い天井。見慣れた木の梁。隣のベッドでは、日向が布団を半分蹴飛ばしたまま眠っている。伊織は頭まで布団を被り、岳は壁側を向いて微動だにしない。
何も変わっていない。
いつもの朝だった。
それなのに、奎星は目を開けたまま、しばらく身動きが取れなかった。
何かがおかしい。
理由は分からない。ただ、胸の奥に薄い違和感が引っかかっていた。
目覚ましが鳴り続ける。
奎星は布団の中から右手を伸ばし、枕元を探った。指先が時計を見つけ、停止ボタンを押す。電子音が途切れ、部屋に静けさが戻った。
その直後。
「……また鳴る」
自分でも意識しないまま、奎星は呟いていた。
二秒後。
ぴぴぴぴ。
「…………」
伸ばしかけた指が止まる。
予想した。
いや。
知っていた。
どうして。
その疑問が形になるより早く、二度目の電子音が部屋を満たしていく。
「うるっせえ……」
日向が布団の中で呻いた。
その声まで、奎星の胸の奥へ小さく引っかかった。
「…………」
「奎星……止めろよ……」
「今止める」
「早く……」
「うん」
奎星はもう一度、時計の停止ボタンを押した。
静かになった。
けれど今度は、すぐに起き上がることができなかった。
何だ、今の。
夢でも見ていたのかもしれない。
起きる直前まで、何か長い夢を見ていた気がする。赤い光。雨に濡れた街。知らない部屋。誰かの声。そして、金属が噛み合うような、かちりという音。
思い出そうとすると、頭の奥へ薄い霧がかかった。手を伸ばせば届きそうなのに、触れる直前で形を失ってしまう。
奎星は左腕を見た。
銀色の腕時計が、暗がりの中でかすかに光っている。表示は午前四時五十分。
その数字を見た瞬間、胸のざわつきが強くなった。
今日。
二〇二七年五月二十八日。
「……十八歳」
声に出してみる。
そうだ。今日は誕生日だ。
昨日まで十七歳で、今日から十八歳になる。それだけのことだ。
「…………よし」
奎星は、違和感を押し込めるように布団を跳ね除けた。
神代榊を手に取り、訓練着へ着替える。片方の靴下を履き、もう片方を探そうとして、ふとベッドの下へ手を伸ばした。
「……あれ?」
そこにあった。
昨日どこへ脱いだのかなど覚えていない。それなのに、迷いなく手を入れた場所から、指先が一度で靴下を掴み上げる。
「何で分かったんだ、俺」
「知らねえよ……」
日向が布団の中から答えた。
「起きてんの?」
「お前が喋るからだよ……」
「ごめん」
「早く行け……」
「行ってくる」
「報告いらねえ……」
奎星は扉を開けた。冷えた廊下の空気が部屋へ流れ込む。扉を閉め、三歩ほど進んだところで、なぜか足が止まった。
振り返る。
左腕を見る。
腕時計は、ちゃんとついている。
「……何だっけ」
何かを忘れた気がした。
けれど、何を忘れたのかは分からない。忘れているのに、忘れていないような、妙な感覚だけが残っている。
奎星は首を傾げた。
そして、そのまま訓練場へ向かって走り出した。
*
訓練場に着いたとき、御影玄一郎はすでに中央に立っていた。
朝の風が、海の匂いを運んでくる。露を含んだ石床は冷たく、靴底の下でわずかに滑った。東の空はようやく白み始め、校舎の羊脂玉の壁が、夜の青灰色から淡い光へ変わりつつある。
その景色を見た瞬間、奎星は足を止めた。
「…………」
ここを知っている。
もちろん知っている。一年間、何度も使ってきた訓練場だ。
だが、そういう意味ではなかった。
この朝の色。
海から吹く風。
石床に残った露。
そして、中央に立つ御影の姿。
御影が左腕の時計へ目を落とす。
「四十八秒遅い」
奎星の口が、ほとんど同時に動いた。
「走れ」
「…………」
「…………」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
御影の眉がわずかに寄る。
「何だ」
「いや」
奎星自身も戸惑っていた。今、御影が何を言うのか分かっていた。
「今、走れって言う気がした」
「なら走れ」
「やっぱ言うじゃん」
「十周」
「何で増えてんの?」
「九周がいいか」
「十周走ります」
奎星は慌てて走り出した。
背中へ御影の視線が刺さる。御影はすぐにいつもの無表情へ戻ったが、その目には、ほんの一瞬だけ説明のつかないものを見たような色が残っていた。
*
朝食を終え、男子寮へ戻った奎星は、机の上に置かれた白い封筒へ目を留めた。
封筒の表には、見慣れた字で《蓮根家より》と書かれている。
「ん?」
奎星が手に取ると、日向がベッドの上から身を乗り出した。
「家?」
「多分」
「誕生日じゃね?」
「あ」
奎星は封筒を見下ろした。
「そうじゃん」
「お前また忘れてたの?」
「忘れてねえよ。今朝は覚えてた」
「今朝はって何だよ」
「知らん」
封を切る。中には便箋が一枚入っていた。
奎星はベッドの端へ腰を下ろし、紙を広げる。
最初の一行。
《誕生日おめでとう、奎星。》
その次。
《十八年間、元気に育ってくれてありがとう。》
「…………」
奎星の指が、便箋の端で止まった。
「何?」
日向が覗き込む。
「いや」
奎星は視線を紙へ戻した。
去年の今頃は、一年後のあなたが魔法学校で暮らしているなんて思ってもいなかった。
知らない島へ行って。
新しい友達ができて。
先生にたくさん怒られて。
危ない目にも遭って。
学校を救ったとか、日本を救ったとか。
文章を追うほど、奎星の目は細くなっていった。
知っている。
この手紙を、知っている気がする。
もちろん、今この瞬間に初めて封を切った。実家から届いたのも今日が初めてだ。それなのに、次に何が書かれるのか、ぼんやりと分かってしまう。
《どれだけ有名になっても。どれだけすごい魔法を使えるようになっても。》
奎星の唇が、紙に書かれた文字を追うより先に動いた。
「…………英雄って呼ばれても」
視線を落とす。
《誰かに英雄って呼ばれるようになっても。》
「……」
日向が横から奎星の顔を覗き込んだ。
「何?」
「今」
奎星は便箋から目を離さないまま答えた。
「読む前に分かった」
「何が」
「ここ」
「家族なんだから、言いそうなこと分かるんじゃね?」
「……そうかな」
「知らんけど」
日向はそれ以上追及せず、ベッドへ背を預けた。
奎星は便箋を読み進める。麦茶を一口だけ残すこと。靴下を裏返したまま洗濯機へ入れること。久しぶりに帰ってきたと思ったら昼まで寝ていること。
「ひでえな、母さん」
「事実?」
「事実」
「じゃあいいじゃん」
「よくねえよ」
思わず笑いが漏れた。
けれど、手紙の最後へ近づくにつれて、その笑みは少しずつ薄れていった。
《何になってもいいです。何になるか、まだ決まっていなくてもいいです。》
奎星の指が、また止まる。
《迷っても。遠回りしても。》
その次の文章を、奎星は読む前に口にした。
「自分で選べば……」
便箋へ目を落とす。
《最後に、自分で選んでくれれば。それで十分です。》
息が止まった。
自分で選ぶ。
その言葉だけが、胸の奥へ重く落ちていく。
雨の匂いがした。
知らない部屋。
誰かへ怒鳴っている自分。
《俺が選んだ――》
「……っ」
頭の奥が鋭く痛んだ。
「奎星?」
「大丈夫」
「顔ヤバくね?」
「ちょっと頭痛いだけ」
奎星は額を押さえた。浮かびかけた映像は、指の隙間からこぼれる水のように、もう消えている。
最後の一文へ目を落とす。
《追伸。海賊だけはやめてください。父より。》
「海賊だけはやめろ、だろ」
読む前に、また言ってしまった。
「…………」
日向が吹き出す。
「お前んち、やっぱ面白えな」
「……うん」
奎星は笑わなかった。
便箋を丁寧に畳み、机の引き出しへしまう。普段なら適当に鞄へ突っ込むところだが、今日は紙の角を揃え、折り目を伸ばしてからしまった。
引き出しを閉める。
それでも、しばらく手を離せなかった。
*
午前のホームルーム。
土御門芽衣子が紙束を抱えて教壇へ立った。
「では皆さん」
その紙を見た瞬間、奎星の胸に嫌な予感が走った。
「今年も――」
「進路希望調査」
土御門の言葉と、奎星の声が重なった。
教室の空気が一瞬だけ止まる。
近くにいた楓が振り返った。
「何で分かったの?」
「え?」
奎星自身が驚いていた。
土御門も紙を持ったまま目を瞬く。
「蓮根君。よく分かりましたね」
「いや」
「昨日、話しました?」
「聞いてない」
紙が前から順に配られていく。
奎星の机へ置かれた一枚には、《進路希望調査》と印刷されていた。
その文字を見た瞬間、心臓が一度、強く鳴った。
一年前にも書いた。
それは覚えている。第一志望、海賊。教師に怒られた。
だから見覚えがあるのは当然だ。
けれど、違う。
この紙を、最近見た気がする。
もっと真剣に、自分の将来について考えながら、何度も眺めていたような気がする。
奎星は鉛筆を握った。
《第一希望》
空欄。
その下に、《第二希望》、《第三希望》。
書けない。
そう思った。
なのに、書きたいものは、すでにどこかにあるような気がした。
「…………禍祓官」
小さく呟く。
続けて、なぜか。
「教師」
もう一つの言葉が口から出た。
奎星は眉を寄せる。
「何で二個なんだよ」
「何?」
伊織が隣から覗き込んだ。
「いや」
奎星は紙を伏せる。
「何でもない」
禍祓官。
教師。
どちらも、これまで何度か考えたことのある仕事だ。御影を見てきた。スズメを見てきた。だから浮かんだだけだ。
そう思おうとした。
けれど、胸の奥にはもう一つ、言葉にならない何かが残っている。
まだ決めなくていい。
他の仕事も見る。
自分で選ぶ。
その考えさえ、どこかで誰かと話したことがあるように感じられた。
「蓮根君?」
土御門の声が飛んでくる。
「書けませんか?」
「うん」
一度答えてから、奎星は紙へ目を戻した。
「いや」
鉛筆の先が、白い紙の上でわずかに揺れる。
「書きたいのは、ある気がする」
「では、書いてみては?」
「何を書きたいか分かんない」
「難しいですね」
「だろ?」
土御門は、困ったように、それでも急かさず笑った。
「ゆっくり考えてください」
「うん」
奎星は結局、何も書かないまま紙を伏せた。
*
その日一日、同じようなことが何度も起きた。
廊下の角を曲がる前に、向こうから楓が来る気がした。実際に角を曲がると、楓が教科書を抱えて歩いてきた。
昼食の席では、日向がクィディッチの話を始める前に、「選手?」と訊きそうになった。岳が魔法生物に関わる仕事について話せば、初めて聞くはずの職種が妙に馴染んだ。伊織が術式解析に興味があると言ったときも、奎星は反射的に「そうだよな」と頷きかけた。
以前から知っていたような感覚。
けれど、どこまでが本当に知っていることで、どこからがただの思い込みなのかは分からない。
午後の魔法史の授業で、スズメが教室へ入ってきた。
その姿を見た瞬間、奎星はなぜか少し安心した。
「…………」
「蓮根君」
「何?」
「こちらを見てください」
「見てる」
「今、窓を見ていました」
「聞いてたよ」
「では今、何の話をしていました?」
「…………」
奎星は口を閉じた。
「聞いていませんね」
「ごめん」
珍しく素直に謝ったせいか、スズメの眉がわずかに上がる。
その表情さえ、どこかで見たことがあるように思えた。
*
夕食の時間になると、大食堂は夕焼けの色に染まっていた。
窓の向こうでは太陽が海へ沈みかけている。橙色の光が長い卓の上を斜めに横切り、味噌汁の湯気や食器の縁を柔らかく照らしていた。昼間より落ち着いた声があちこちから聞こえ、疲れの混じった笑い声が、天井の高い空間へゆっくり広がっている。
奎星は日向たちと食事をしていた。
「今日、唐揚げ多くね?」
「お前が取りすぎ」
楓が呆れたように言う。
「誕生日だから」
「関係ないでしょ」
「十八歳は成長期」
「もう終わりかけよ」
「まだ伸びる」
「どこが」
「全部」
「雑」
いつも通りのやり取りだった。
そのとき。
「レンコン!」
大食堂の奥から、聞き慣れた声が響いた。
奎星の箸が止まる。
振り返る。
小さな身体。両手で抱えた大きな皿。その上に載った、苺と白い生クリームのケーキ。
天ぷら。
そこまで見た瞬間、奎星の口から言葉がこぼれた。
「ケーキ」
天ぷらは、まだ奎星の席まで来ていない。
「レンコン!」
天ぷらが、ふらふらと歩いてくる。皿が大きすぎるのか、足元が少し危うい。
「危なっ」
奎星は椅子を引いて立ち上がった。
天ぷらが一歩進むたび、ケーキの上の苺が小さく揺れる。奎星は反射的に手を伸ばし、皿の端を支えた。
「やっぱり」
自分でも意味の分からない言葉が、また口から出た。
「何が?」
楓が訊く。
「いや……」
天ぷらが、奎星を見上げる。
「レンコン!」
「おう」
「オメタン!」
「…………」
奎星は笑えなかった。
知っている。
その言葉も。
天ぷらが首を傾げる。
「オメタン!」
「……うん」
奎星は慌てて笑顔を作った。
「ありがとな」
「オメタン!」
「おう」
皿を受け取る。
ケーキの側面には、少しだけクリームが崩れていた。苺の赤。白い生クリーム。甘い匂い。
どこかで。
同じものを見た。
「奎星?」
日向が顔を覗き込む。
「何か今日変じゃね?」
「……そう?」
「朝からたまに止まってる」
「寝不足?」
伊織が訊いた。
「分かんねえ」
奎星はケーキを見下ろした。
「なんか」
言葉を探す。
「今日、一回やった気がする」
「誕生日を?」
「それ去年もやってるだろ」
日向が笑う。
「そうじゃなくて」
説明しようとしたが、うまく言葉にならなかった。
「…………まあいいや」
奎星はフォークを手に取った。
天ぷらが、目の前でじっとケーキを見ている。
「お前も食う?」
「タベル!」
「だと思った」
それからの夕食は、普通だった。
笑って、喋って、ケーキを分けた。全校から誕生日を祝われ、奎星も何度も礼を言った。
嬉しかった。
その気持ちに嘘はない。
それでも、胸のどこかには、薄い引っかかりが残り続けていた。
*
夕食後、大食堂を出ようとした奎星は、背後から呼び止められた。
「蓮根君」
振り返る。
スズメが、少し離れた場所に立っていた。大食堂の明かりを背にしているせいで、銀色の髪の輪郭だけが淡く浮かんでいる。
「何?」
「少しよろしいですか」
「うん」
「研究室へ」
その言葉を聞いた瞬間、奎星の胸がまた鳴った。
研究室。
このあと。
何か。
「…………」
「蓮根君?」
「いや」
奎星はスズメの隣へ歩み寄った。
「行こう」
二人で夜の廊下を歩く。
窓から入る潮風は、夕方より冷たかった。魔法灯が一定の間隔で床を照らし、羊脂玉の壁には二人の影が長く伸びている。遠くで誰かが笑い、別の場所では扉が閉まる音がした。学校全体が一日の終わりへ向かって、少しずつ静かになっていく。
奎星は何度か、隣を歩くスズメの横顔を見た。
「何です?」
「何でもない」
「先ほどから、少し様子がおかしいですよ」
「そう?」
「はい」
スズメは前を向いたまま答えた。声はいつも通り落ち着いているが、歩幅がほんの少しだけ奎星に合わせられている。
「今日さ」
奎星は廊下の先へ目を向けた。
「変なんだよ」
「何がですか?」
「何か」
言葉を探す。
「知ってる」
「何を?」
「分かんない」
スズメは黙った。
「分かんないけど、今日のこと、ちょいちょい知ってる」
その言葉を聞いて、スズメの歩みがわずかに遅くなった。
「夢でも見たのでは?」
「多分」
奎星は苦笑した。
「めっちゃ長い夢」
「覚えているのですか?」
「全然」
「では」
「でも」
奎星は頭を掻いた。
「知らないはずのことだけ分かる」
スズメはすぐには答えなかった。
研究室の扉を開ける。
紙と古い革と乾いた木の匂いが、いつものように奎星を迎えた。壁際の本棚には資料が並び、机の上には整理途中の書類が積まれている。窓の外には夜の海が広がり、遠くの波がかすかに白く光っていた。
奎星は部屋を見回した。
ここも知っている。
当然だ。一年間、何度も来ている。
それでも、もっと別の時間に、別の理由で、この部屋にいたような感覚があった。
「蓮根君」
「ん?」
スズメは机の前に立っていた。
その手には、細長い包みがある。
「誕生日」
一拍置いて、スズメは言った。
「おめでとうございます」
奎星の目が大きくなる。
「え」
「何です?」
「くれんの?」
「はい」
「スズメちゃんが?」
「私以外に誰が持っているのですか」
「マジ?」
「返しますよ」
「いる」
奎星は反射的に手を伸ばし、包みを受け取った。
「まだ中身を見ていないでしょう」
「いるって」
濃い茶色の包装紙。細い紐。派手ではないが、丁寧に結ばれている。
奎星の指が、紐の上で止まった。
「…………」
「どうしました?」
スズメが少し身を屈める。
奎星は紐を解いた。紙を開く。
中から、深い焦茶色の革が現れた。
「…………」
呼吸が止まる。
杖入れ。
本革の表面。縁を走る黒い糸。鈍い銀色の留め具。制服の腰へ固定するための帯。
「蓮根君?」
奎星は答えなかった。
指先で革へ触れる。新品の硬さと、乾いた革の匂いが伝わってくる。
その瞬間、背中を冷たいものが走った。
「…………知ってる」
「はい?」
「これ」
奎星の声が低くなる。
「俺、これ知ってる」
スズメの眉が寄った。
「……?」
奎星の右手が、杖入れの裏側へ伸びる。
留め具を探し、迷いなく開いた。
スズメの目がわずかに見開かれる。
「まだ説明していませんが」
「…………」
奎星には聞こえていなかった。
杖入れを腰へ当てる。帯を通し、固定する。位置を調整する。
初めて触れた道具のはずなのに、手が勝手に動いた。
神代榊を差す。
ぴたりと収まった。
腰に伝わる重さ。歩いたときの揺れ。杖を抜くときの角度。
全部、知っている。
「何で……」
奎星の顔から笑みが消えた。
記憶。
いや。
映像。
一瞬だけ、赤い光が見えた。
この杖入れから神代榊を抜く。
誰かへ向ける。
《よせよ》
「…………」
《あんたじゃ勝てねえよ》
「っ」
奎星は頭を押さえた。
「蓮根君?」
男の声。
《勝ってきたさ》
銀色の時計。
《何度だってな》
「……時計」
「何ですか?」
奎星の呼吸が速くなる。
赤い閃光。
杖が飛ぶ。
戻る。
手の中へ。
かちり。
「…………後藤」
名前が、口から落ちた。
「え?」
スズメが顔を上げる。
「後藤……」
誰だ。
知っている。
知らない。
顔が浮かぶ。
中年の男。魔法省の机。銀色の何か。泣いていた。怒っていた。笑っていた。
《十八歳になった日まで》
「……っ!」
奎星が息を呑む。
五月二十八日。
今日。
十八歳。
戻った。
その言葉が、頭の中へ浮かんだ。
「蓮根君」
スズメが一歩近づく。
「大丈夫ですか?」
奎星は杖入れを握りしめた。
思い出せ。
何を。
分からない。
けれど、何かを忘れている。
絶対に忘れてはいけないものを。
スズメの顔が、不安そうに曇った。
「……気に入りませんでしたか?」
その声で、奎星は顔を上げた。
銀色の髪。
薄い紫の瞳。
心配そうにこちらを見つめる表情。
それを見た瞬間、胸の奥がまた痛んだ。
この人も知っている。
当たり前だ。一年間、ずっと一緒にいた。
でも。
もっと先の時間まで。
この人のことを知っている気がした。
「ううん……」
奎星は、どうにか笑った。
「すっごい、嬉しい。スズメちゃん」
声が少し震えた。
「ありがとう」
スズメは、奎星の顔をしばらく見つめていた。何かを尋ねようとして、けれど言葉を飲み込む。
やがて、ほんの少しだけ表情を緩めた。
「……よかったです」
その笑顔を見た瞬間。
数字が浮かんだ。
五月三十一日。
明々後日。
スズメの誕生日。
「…………え」
「何です?」
「三日後」
「はい?」
奎星はスズメを見る。
どうして知っている。
いつ聞いた。
五月三十一日。
誕生日。
プレゼント。
八咫小路。
進路。
魔法省。
後藤。
雨。
傘。
《君の人生だ》
《君だけの問題ではない》
《学校生活を楽しみなさい》
声が一気に頭の中を駆け抜けた。
「…………!」
奎星の目が見開かれる。
「蓮根君?」
後藤。
後藤孝雄。
逆転時計。
戻る。
六月十五日。
何度も。
何度も追いかけた。
真壁。
御影。
スズメ。
《覚えていろ》
「…………後藤さん」
奎星が呟いた。
「後藤さん?」
スズメは、当然のように分からない顔をしていた。
その表情を見て、奎星は理解した。
スズメは知らない。
あの時間を覚えていない。
全部ではない。
思い出せない。
ところどころ穴だらけで、いつ、何が、どうなったのかも分からない。
それでも。
後藤。
時計。
その二つだけは、はっきりしていた。
そして、後藤は今もどこかにいる。
「……ごめん」
奎星は言った。
「行かなきゃ」
「え?」
スズメが目を瞬く。
奎星は踵を返した。
「蓮根君?」
「ごめん、スズメちゃん」
扉へ向かう。
「待ってください」
奎星は扉を開けた。
「蓮根君!」
廊下へ飛び出す。
背後からスズメの声が追ってくる。
止まれない。
止まったら、また忘れる気がした。
「後藤……!」
夜の廊下を走る。
生徒たちが驚いて振り返る。
「奎星?」
「どうした?」
「ごめん!」
階段を駆け下りる。一段、二段、三段。足が勝手に次の場所を選んでいく。
腰で、新しい杖入れが揺れた。
神代榊が、革の内側でかすかに鳴る。
その感触が、記憶をつなぎ止めていた。
「…………」
知っている。
これをつけて。
走った。
どこを。
魔法省。
白い床。
長い廊下。
執務室。
後藤。
「待ってろ……」
誰へ向けた言葉なのかは分からない。
「待ってろ!!」
忘れるな。
それだけだった。
校舎を出る。
夜風が頬を打つ。潮の匂いが強く、石畳には昼間の熱がもう残っていない。
転移区画へ向かう。
「蓮根君!」
背後から、スズメの声が聞こえた。
奎星は一度だけ振り返った。
遠く、校舎の廊下からスズメが出てくる。銀色の髪が夜の明かりを受け、不安そうな顔がはっきり見えた。
一瞬、足が止まりかける。
けれど。
「ごめん!」
奎星は転移門へ飛び込んだ。
「蓮根君!」
白い光が視界を覆う。
景色が消えた。
*
次の瞬間、足元の感触が変わった。
硬い石床。
白い魔法灯。
遠くから聞こえる人の声。
天井近くを飛ぶ折り鶴。
夜の日本魔法省。
「……っ」
奎星は着地と同時に走り出した。
中央広間を駆け抜ける。職員たちが一斉に振り返り、何人かが手にしていた書類を落とした。
「君!」
「すいません!」
「ちょっと、学生?」
「後藤さん!」
奎星は叫んだ。
「後藤孝雄!」
名前を口にする。
忘れないように。
「どこ!」
職員たちの間に戸惑いが広がる。誰かが警備を呼ぼうとし、別の誰かが奎星の制服を見て足を止めた。
それでも、奎星は止まらなかった。
なぜか、足が道を知っていた。
廊下を右へ。
階段。
違う。
こっちだ。
角を曲がる。
白い壁。等間隔に並ぶ魔法灯。閉じられた扉。その一つ一つに、見覚えがある。
初めて来るはずではない。
魔法省には何度も来ている。
だが、この道を、こんなふうに走ったことがある。
息を切らして。
後藤を追って。
「待ってろ……」
奎星は腰の杖入れへ触れた。
革の感触が、指先へ返ってくる。
確かなものは、今のところこれだけだった。
「今行く」
蓮根奎星は、まだ思い出せない記憶を追いかけながら、後藤孝雄を探して、魔法省の夜を走った。