後藤孝雄は、魔法省を出る準備をしていた。
時刻は午後九時を少し回っている。
二〇二七年五月二十八日。
窓のない日本魔法省の地下庁舎では、地上がすでに夜へ沈んでいることさえ実感しにくい。廊下を照らす白い魔法灯は朝から同じ明るさを保ち、天井近くでは、残業中の職員へ書類を届ける折り鶴が、ときおり乾いた羽音を立てていた。遠くの部署からは、紙をめくる音や誰かの咳払いがかすかに響いてくる。
それでも、昼間に比べれば人の気配はずっと少ない。
絶え間なく行き交っていた足音も、今はまばらだった。廊下の角を曲がる職員の影が、白い光の中を一瞬だけ横切っては消えていく。
後藤の執務室も静かだった。
机の上には、持ち出す必要のある書類だけが残されている。几帳面に揃えられた紙の端を、後藤は何度も指先で確かめた。忘れ物がないか確認しているというより、手を動かしていなければ落ち着かないのだろう。
引き出しを開ける。
中には、数冊の手帳、印章、古い名刺入れ。それから、奥へ押し込むようにして置かれた銀色の時計があった。
後藤はそれを取り出した。
掌へ乗せた瞬間、金属の冷たさが皮膚へ染み込んでくる。何度握っても、この冷たさだけは変わらなかった。時間を戻しても、失敗をなかったことにしても、時計そのものは何も忘れない。
六月十五日から、五月二十八日へ。
十八日。
戻った。
蓮根奎星が自分を疑う前。真壁征士郎がK-417を調べる前。特別顧問という話が、本格的に動き出す前。
全部、まだ間に合う。
そう思っていた。
いや、そう思うしかなかった。
後藤は時計を内ポケットへしまい、机の上の書類を一枚ずつ確認した。必要なものだけを鞄へ入れる。今夜、この建物を出る。明日からどうするかは、それから考えればいい。
時計がある。
時間がある。
十八日もある。
いや。
必要なら、もっと。
そこまで考えたところで、後藤の手が止まった。
自分で考えた言葉なのに、その響きが妙に空虚だった。
もっと戻ればいい。
今日が駄目なら昨日へ。昨日が駄目なら、その前へ。
では、どこまで戻る。
どこまで戻れば、自分は満足するのか。
後藤は小さく首を振った。考えるな。今は、とにかくここを出る。それだけでいい。
机の横へ置いていた鞄を持ち上げた。
そのときだった。
廊下から、足音が聞こえた。
「…………」
後藤の身体が止まる。
遠い。
誰かが走っている。
硬い靴底が石床を叩く音が、一定の間隔で近づいてくる。たっ、たっ、たっ、と響くその音は、夜勤の職員が急いでいるにしては速すぎた。
後藤は鞄を持ったまま、扉へ視線を向けた。
夜勤の職員かもしれない。急ぎの案件でも入ったのかもしれない。そう考えようとしたが、足音は止まらなかった。
近づいてくる。
胸の奥がざわついた。
違う。
何かが違う。
速いだけではない。迷いがなかった。曲がり角を一つ、また一つ。こちらの部屋を知っている者のように、正確に距離を詰めてくる。
「……まさか」
後藤の唇から、かすれた声が漏れた。
あり得ない。
その言葉が頭の中で何度も反響する。
ここへ戻ったのだ。五月二十八日まで。
あの少年の記憶は消えた。実際、最後に見た。時間の中へ引きずり込まれながら、蓮根奎星の顔から何かが抜け落ちていくのを。
六月十五日。
雨。
真壁。
御影。
時計。
全部、なくなる。
そのために、ここまで戻った。
足音がさらに近づく。
「いや」
後藤は無意識に一歩後ずさった。
「そんなはずは……」
たっ、たっ、たっ。
もう、扉のすぐ向こうだった。
「ない」
足音が止まる。
静寂が落ちた。
後藤は息を止めた。鞄の取っ手を握る指に力が入り、革が軋む。
次の瞬間。
「後藤ォ!!!」
怒声とともに、扉が内側へ弾け飛んだ。
「――っ!?」
後藤が反射的に飛び退く。
蝶番が悲鳴を上げ、半開きだった扉が壁へ叩きつけられた。机の上の書類が巻き起こされた風に煽られ、何枚かが床へ舞い落ちる。
廊下の白い光を背負って、一人の少年が立っていた。
黒い髪は乱れ、肩は大きく上下している。額には汗が浮かび、走ってきたばかりの呼吸が喉の奥で荒く鳴っていた。制服の裾がまだ勢いの名残を残して揺れている。
腰には、深い焦茶色の革製の杖入れ。
その中には、神代榊が収められていた。
蓮根奎星。
後藤の顔から血の気が引いた。
奎星も息を切らしていた。けれど、その目だけは異様なほど真っ直ぐだった。疲労も混乱も抱えたまま、それでもここへ来るという一点だけを見失っていない。
「見つけた」
奎星が言った。
後藤の手から鞄が落ちる。床へぶつかった鈍い音が、静まり返った部屋に響いた。
「馬鹿な……」
後藤の声が震える。
「あり得ない……」
奎星は眉を寄せた。自分でも同じ疑問を抱えているのだろう。
「俺も、そう思う」
「なぜ」
「分かんねえ」
「なぜ君が」
「だから分かんねえって」
奎星は荒い呼吸を整えようともせず、一歩、部屋の中へ踏み込んだ。
「でも」
腰の杖入れへ手を触れる。
「思い出した」
その言葉を聞いた瞬間、後藤の左手が胸元へ上がった。内ポケットにあるものを守るような、ほとんど無意識の動きだった。
奎星の視線が、その手を捉える。
「それ」
後藤は答えなかった。
「やっぱ持ってんじゃん」
「何を」
「時計」
後藤の喉が鳴った。
奎星は、後藤の顔から目を逸らさない。
「それよこせよ」
後藤の指が、内ポケットの上で固まる。
「俺もまだ、全部思い出してない」
奎星が一歩近づいた。
「何回戻ったかも」
さらに一歩。
「何から調べたかも」
後藤の手が、ゆっくりと杖へ伸びる。
奎星の右手も、ほとんど同時に動いた。
「でも」
その声から、先ほどまでの戸惑いが薄れていく。
「それを渡しちゃ駄目だってことだけは」
神代榊が鞘から抜かれた。
「覚えてる」
「来るな!」
後藤が杖を抜く。考えての行動ではなかった。身体が先に動いていた。
「ステューピファイ!」
赤い光が走る。
奎星の身体が反応した。
右へ避けようとして、違う、と何かが告げる。頭で考えるより先に、身体が左へずれた。
赤い光が頬のすぐ横を通り過ぎ、背後の壁へ衝突する。白い石壁が弾け、ばちん、と火花が散った。
奎星は目を見開いた。
今の動き。
知っている。
後藤もまた、信じられないものを見るように奎星を見ていた。
「なぜ避けた」
「さあな」
「君は」
「知らねえよ!」
奎星が杖を振る。
「エクスペリアームス!」
「プロテゴ!」
後藤の前に透明な盾が生まれた。赤い光が盾へ衝突し、白い火花が部屋いっぱいに弾ける。机の上の紙が震え、床に落ちた書類の端が風に煽られた。
その光景を見た瞬間、奎星の頭の奥で何かが繋がった。
盾。
後藤。
机。
白い紙。
そして、何度も繰り返された戦い。
《防いだ》
《君の魔法を》
「……あ」
記憶が、断片的に落ちてくる。
後藤の笑顔。
《私は、次を知っている》
白い紙。
机。
四メートル。
《そこまで戻るのね》
後藤が二発目を撃った。
奎星は横へ転がる。赤い光が机を掠め、紙の束が宙へ舞った。
その紙を見た瞬間、また別の記憶が浮かぶ。
《ここ》
《じゃあ、分かりやすいじゃん》
「っ……!」
奎星は床へ手をついて立ち上がった。頭の奥が痛む。視界が一瞬だけ揺れたが、同時に、失われていたものが少しずつ戻ってくる。
あの部屋。
何度も戦った。
後藤の右肩。
焦ると内側へ入る杖。
追い詰められたとき、後藤は左を見る。
「…………左」
奎星が呟いた。
「何?」
後藤の顔が止まる。
奎星は、後藤の左手を見ていた。
「時計」
後藤自身も気づいていない。使う前に、一瞬だけ左を見る。その癖を、奎星は何度も見てきた。
「思い出した」
奎星の表情が変わる。
後藤の瞳が揺れた。
「……何を」
「それ使う前」
奎星が踏み込む。
「後藤さん」
もう一歩。
「左見るんだよ」
「…………っ!」
後藤が時計へ手を伸ばした。
奎星の杖が上がる。
「デパルソ!」
衝撃が走った。
後藤の左腕だけが大きく外へ弾かれ、指先が時計から離れる。
「ぐっ!」
銀色の鎖が胸元から引き出された。後藤は慌ててそれを掴み直す。
「やめろ!」
「そっちこそ!」
奎星が走った。
後藤は杖を振る。
「ステューピファイ!」
距離が近い。
奎星は反射的に盾を出した。
「プロテゴ!」
赤い光が目の前で弾ける。透明な防壁が一瞬だけ白く染まり、衝撃が腕へ伝わった。重い。腕が痺れる。
それでも、奎星は止まらなかった。
盾が消えるより先に踏み込む。後藤の顔が目の前に迫った。
「来るな!」
「やだね!」
「来るな!」
「時計よこせ!」
「これは私の――」
「ちげぇだろ!」
奎星の左手が、銀色の鎖を掴んだ。
後藤が息を呑む。
互いに引いた。
鎖が張り詰め、二人の間で小さな時計が揺れる。
「離せ!」
「うっせぇ!」
「これがなければ!」
後藤の右手が杖を振り上げる。
奎星の視線が一瞬だけ動いた。
「エクスペリアームス!」
至近距離から放たれた赤い光が、後藤の手首へ当たった。
「っ!」
杖が手から弾き飛ばされ、床を滑って机の脚へぶつかった。
からん、と乾いた音がする。
後藤の目が、ほんの一瞬だけ杖へ向いた。
その隙を、奎星は逃さなかった。
時計を強く引く。
鎖が後藤の指から抜けた。
「――あ」
銀色の時計が、奎星の手の中へ飛び込んできた。
冷たい。
その冷たさを、奎星は知っていた。
呼吸が止まる。
後藤も動きを止めた。
二人の間に、逆転時計があった。
K-417。
「……これ」
奎星が呟いた。
その瞬間、記憶が一気に蘇った。
六月十五日。
何度目かの朝。
雨。
傘。
真壁。
御影。
スズメ。
後藤。
白い紙。
何度も、何度も。
武装解除。
戻る。
戦う。
また戻る。
《失敗したら覚えとくんだよ》
《だから》
《戻るたび》
《俺の方が》
《後藤さんと戦うの》
《上手くなってる》
奎星は時計を見下ろした。
親指の下にある中央の小さな環。外側に刻まれた大きな環。
《君が十八歳になった日まで!》
「っ……」
吐き気が込み上げた。
その瞬間、後藤が動いた。
「返せ!」
「うわっ!」
魔法ではなかった。
後藤は時計を取り戻そうと、奎星へ飛びついた。予想していなかった奎星の身体が後ろへよろめく。
「返せ!」
「後藤さん!」
「返してくれ!」
後藤の指が時計へ伸びる。
奎星は左手を遠ざけた。
「危ねえって!」
「それが!」
後藤の指が空を掴む。
「それがなければ!」
奎星が後藤の肩を押し返す。
「やめろ!」
「私は!」
「後藤さん!」
「それがなければ私はっ!」
後藤の身体から力が抜けた。
奎星の制服を掴む。
縋りつく。
四十を越えた男が、十八歳の少年の胸元へしがみつくようにして、必死に時計へ手を伸ばしていた。
奎星は動きを止めた。
後藤の指が震えている。
「私は……」
声が小さくなる。
「戻ってしまう」
奎星は、時計を握ったまま後藤を見下ろした。
「…………」
「何も」
後藤は息を吸った。喉が引きつるような音がした。
「何もなかった私に」
その言葉を、奎星は前にも聞いた。
同じ言葉だった。
いや、少し違う。
あのときは壁際だった。後藤は時計を持っていた。今は、持っていない。
奎星は何も言わなかった。
慰める言葉も浮かばない。怒鳴る気にもなれなかった。
ただ、時計だけは渡さなかった。
後藤の手首を掴み、身体を返す。
「っ」
「ごめん」
奎星は後藤を床へ押さえ込んだ。
「ちょっと痛いかも」
後藤は抵抗しなかった。
奎星は右腕を押さえつけ、体重をかける。
「でも」
床へ伏せられた後藤の顔が、白い石床の上で歪んだ。
「もう戻させねえから」
後藤は目を閉じた。
その直後だった。
「動くな!」
廊下から怒声が飛んだ。
「――っ!?」
奎星が顔を上げる。
開け放たれた扉の向こうに、魔法省の警備担当者たちが並んでいた。三人。いや、その後ろにも何人かいる。全員が杖を構え、部屋の中の状況を見極めようとしていた。
「杖を捨てろ!」
「待って!」
奎星が慌てて叫ぶ。
「違う!」
言った直後、自分の置かれている状況を見た。
壊れた扉。
散乱した書類。
焦げた壁。
床へ転がった後藤の杖。
その後藤を、自分が床へ押さえつけている。
しかも左手には、見慣れない銀色の魔法具。
どう見ても、奎星が後藤の執務室へ乱入し、部屋を荒らし、魔法省職員を一方的に叩きのめしたようにしか見えなかった。
「いや」
奎星は言い直した。
「違わないけど」
「杖を捨てろ!」
「待ってくれって!」
「蓮根君」
床に伏せたまま、後藤が言った。
奎星の動きが止まる。
「え?」
「もういい」
「……後藤さん?」
後藤は床へ頬をつけたまま、ゆっくり息を吐いた。苦しそうだったが、その声には先ほどまでの焦りとは違うものが混じっていた。
「その子は」
後藤が警備の人間たちを見る。
「悪くありません」
奎星の目が大きくなる。
「…………」
「私です」
後藤は言った。
声は震えていた。けれど、今度は途中で止まらなかった。
「私が」
一度、目を閉じる。
「悪いんです」
警備員たちの杖は、まだ下がらない。
「何の話です?」
「逆転時計」
その言葉に、数人の表情が変わった。
後藤は続ける。
「危険魔法具を、私は無断で持ち出した」
奎星は、握った時計へ視線を落とした。
「何度も使用しました」
後藤の指が、床の上で僅かに動く。
「自分の判断を間違えたとき。会議で失敗したとき。交渉を誤ったとき。自分にとって都合の悪い結果になったとき」
言葉の合間に、浅い呼吸が挟まる。
「時間を戻した」
誰も動かなかった。
「戻って」
後藤は、ゆっくりと目を開いた。
「間違いを正した」
静かな声だった。
「そうやって」
後藤は奎星を見る。
「私は、正しい人間のふりをしました」
奎星の手の中で、逆転時計が冷たかった。
「この子は」
後藤が続ける。
「それを止めに来ただけです」
「…………」
「私が攻撃した」
警備員の一人が眉を寄せる。
「あなたが?」
「はい」
「先に?」
「はい」
後藤は頷いた。
「全部」
声が掠れる。
「私がやりました」
後藤は一度、深く息を吸った。
「私は」
目を閉じる。
「大罪を犯しました」
その言葉が、荒れた部屋の中へ落ちた。
奎星は後藤を見ていた。
六月十五日。
何度も聞いた。
失敗すれば戻ればいい。
そう言っていた男が、今は戻らなかった。
時計は奎星の手にある。
それでも、返せとは言わなかった。
自分が失敗したと、人前で、初めて残した。
奎星の右手から、少しだけ力が抜けた。
「何があった」
廊下の奥から、低い声が響いた。
全員が振り返る。
濃紺の制服。大柄な身体。きっちりと締められたネクタイ。
「真壁さん」
奎星が声を上げた。
真壁征士郎は、壊れた扉の前で一度足を止めた。部屋の中を見渡す。焦げた壁、散った紙、床に転がった杖、拘束される直前の後藤、そして、その場に立つ奎星。
最後に、奎星の左手にある銀色の時計へ視線を落とした。
「…………」
真壁は数秒、何も言わなかった。
「蓮根君」
「うん」
「何をした」
「めちゃくちゃ長くなる」
「そうか」
真壁は一度、目を閉じた。
「まず後藤さんを拘束」
警備員へ指示する。
「はい」
「蓮根君は」
一拍置いて、真壁は奎星を見る。
「そのまま動くな」
「俺も!?」
「今の君を見て、自由にしていいと思うか」
「……まあ」
「時計も動かすな」
「これは絶対動かさない」
「ならいい」
警備員が後藤へ近づく。
奎星はようやく身体を退けた。後藤の腕から手を離すと、押さえつけていた場所に赤い跡が残っているのが見えた。
魔力拘束具が、後藤の両手首へ嵌められる。
かちり。
小さな金属音がした。
奎星の肩が反射的に跳ねる。
「…………」
違う。
ただの拘束具だ。
時間は戻らない。
紙も戻らない。
焦げ跡も消えない。
後藤の手首についた拘束具も、そのままだった。
「蓮根君?」
真壁が呼ぶ。
「何でもない」
奎星は時計を握り直した。
「今の音」
息を吐く。
「ちょっと嫌いになっただけ」
*
「では」
真壁は言った。
「最初から話せ」
「どこから?」
「最初だ」
「めっちゃ長いって言ったじゃん」
「聞く」
「朝四時五十分から?」
「なぜそこからなんだ」
「そこまで戻されたから」
真壁の眉が寄った。
魔法省の小さな聴取室には、地下庁舎特有の乾いた空気がこもっていた。壁際の魔法灯が机の上を白く照らし、窓のない部屋には時間の流れを示すものが何もない。
後藤は別室へ移されている。警備担当者が付き、正式な聴取が始まっていた。
逆転時計だけは、まだ奎星の手元にある。誰も安易に触れない方がいい。そう判断したのは真壁だった。
奎星は話した。
五月二十八日。自分の誕生日。進路希望調査。特別顧問。後藤。
六月十五日。雨。
最初の後藤は怒った。
《君だけの問題ではない》
次の後藤は、自分が何も言う前から話を変えた。
《君の人生だ》
傘。
何度も降った雨。
真壁と御影が調べたこと。
調べるたびに日付が戻ったこと。
施設。
古い記録。
退職した職員。
後藤。
時計。
何度も。
六月十五日。
何度も。
「待て」
途中で真壁が手を上げた。
「私もいたのか」
「いた」
「何度」
「分かんない」
「何をしていた」
「ずっと調べてた」
「毎回?」
「うん」
「俺は覚えていない」
「知ってる」
奎星は少し笑った。
「毎回忘れてたから」
真壁は黙っていた。手元の紙へ視線を落とし、何かを書き込む。
「でも」
奎星は続けた。
「毎回、同じように調べてた」
真壁の筆が止まった。
「最後の方」
奎星は記憶を探るように、少しだけ視線を上へ向けた。
「真壁さんが言った」
「何を」
「俺が覚えてれば」
声。
白い紙。
《我々が何度失敗しても》
《君が覚えているなら》
「失敗は消えてないって」
真壁の目が僅かに動いた。
「私が?」
「うん」
「…………」
「結構いいこと言ってた」
「そうか」
「覚えてないの?」
「今君が話している内容のほぼすべてを初めて聞いている」
「もったいな」
「私の台詞だろう」
奎星は少し笑った。
それから、戦いの話をした。
短い時間。
後藤が時計を使う。
数秒戻る。
自分も覚えている。
また戦う。
戻る。
また。
「俺、何回も後藤さんと戦った」
「怪我は」
「してたと思う」
「思う?」
「戻ると治るから」
真壁の筆が、紙の上で止まった。
「窓も割れた」
「どこの窓だ」
「後藤さんの部屋」
「今日の?」
「未来の」
真壁は片手で額を押さえた。
「続けろ」
「うん」
そして、六月十五日。
最後。
後藤が外側の環を動かした。
五月二十八日。
奎星の十八歳の誕生日まで。
戻った。
「記憶は?」
「ほぼ消えた」
「なぜ今、思い出した」
「分かんない」
「何がきっかけだ」
「色々」
「具体的に」
奎星は指を折った。
「朝の目覚まし」
一本。
「御影先生」
二本目。
「親からの手紙」
三本目。
「進路希望調査」
そして、腰へ視線を落とす。
「これ」
焦茶色の杖入れ。
「烏丸先生から?」
「今日もらった」
「それで?」
「つけた瞬間、結構戻った」
「魔法反応は」
「知らん」
「時計との接触歴は」
「多分ある」
「多分」
「前の時間でこれつけてたから」
真壁はしばらく黙っていた。
紙へ何かを書き込みながら、時折、奎星の顔を確認する。疑っているというより、話の中から事実として拾える部分を慎重に選別しているようだった。
「信じる?」
奎星が訊いた。
真壁の筆が止まる。
「正直に言うが」
「うん」
「信じられん」
「だよな」
奎星は椅子へ背を預けた。背もたれが小さく軋む。
「俺も途中から、自分で何言ってんのか分かんなくなってきた」
「だが」
真壁が続ける。
「後藤さんの供述と一致する」
「うん」
「K-417と思われる現物もある」
真壁の視線が、机の上の銀色の時計へ向いた。
「そして」
真壁は奎星を見る。
「君が、この短時間でここまで複雑な嘘を思いつくとも思えん」
「…………」
奎星の眉が寄った。
「何か」
「何だ」
「引っかかる言い方だな」
「褒めている」
「絶対違うだろ」
「少なくとも、信憑性を補強する要素だ」
「俺の頭の悪さが証拠になってんじゃん」
「そこまでは言っていない」
「ほぼ言っただろ」
真壁の口元が、ほんの僅かに動いた。
笑ったのかもしれない。
「蓮根君」
「何?」
「時計を」
真壁が手を差し出した。
奎星の表情が止まる。
銀色の時計へ視線を落とす。
「…………」
「正式に魔法省で預かる」
奎星は、すぐには動かなかった。
冷たい金属。
これ一つで、何日も消えた。
何度も雨が降った。
何度も朝になった。
何度も真壁が忘れた。
御影が忘れた。
スズメが忘れた。
自分だけが覚えていた。
いや。
自分も一度、忘れた。
それでも、戻ってきた。
「…………」
「蓮根君」
「うん」
奎星は時計を持ち上げた。
「これ」
「何だ」
「もう戻らない?」
真壁は少し考えた。
いつものように、分からないことを分かったふりはしなかった。
「少なくとも」
真壁は慎重に言葉を選ぶ。
「こいつを適切に封印し、誰にも使わせなければ」
「うん」
「この時計で今日をやり直すことはない」
「そっか」
奎星は左手を開いた。
銀色の時計を、真壁の前へ置く。
からん。
小さな音がした。
何も起きなかった。
秒針が戻ることもない。
紙が浮き上がることもない。
窓の外の夜が朝へ戻ることもない。
ただ、時計が机の上に置かれただけだった。
「お願いします」
奎星が言った。
真壁は頷いた。
「ああ」
魔法省職員が、時計を慎重に回収する。封印処置が施され、記録が取られ、保管場所が決められる。
今度こそ。
K-417は、日本魔法省の管理下へ戻った。
*
マホウトコロへ戻った頃には、かなり遅い時間になっていた。
校長室の空気は、魔法省の聴取室よりもずっと重かった。
「蓮根」
「はい」
「お前は」
「はい」
「何を」
「はい」
「しているんだ!!」
高宮の怒声が、壁際の書棚を震わせた。
「まだ何も聞かれてない!」
「今から聞くんだよ!」
「はい!」
奎星は椅子の上で背筋を伸ばした。
校長室には、九重院、高宮、御影、土御門、そして魔法省から一緒に戻ってきた真壁がいる。奎星はその中央へ座らされ、まるで裁判を待つ被告人のような気分になっていた。
高宮が指を一本立てる。
「まず!」
「はい」
「教師へ何の説明もなく学校を飛び出した!」
「はい」
「転移門を使って魔法省へ向かった!」
「はい」
「庁舎内を走り回った!」
「はい」
「職員の執務室へ押しかけた!」
「はい」
「扉を壊した!」
奎星の返事が、ほんの少しだけ遅れた。
「……はい」
「魔法省職員と戦闘!」
「はい」
「挙げ句、床へ押さえつけて拘束!」
「はい」
「何で最後だけ少し得意そうなんだ!」
「いや、そこは結構頑張ったから」
「頑張るな!!」
「はい!」
御影が腕を組んだまま、奎星を見る。
「一人で行ったのか」
「うん」
「馬鹿か」
「そこは俺も今ちょっと思ってる」
「遅い」
「はい」
高宮が額を押さえた。
「真壁さん」
「ああ」
「説明を」
「した」
「いや、私たちに!」
「今からする」
真壁は淡々と答えた。
高宮は深く息を吸い、吐いた。怒鳴り続けているうちに、怒りより疲労の方が勝ってきたらしい。
「お願いします」
「ただ」
「はい」
「私も、完全には理解していない」
「説明に来た人が理解してないんですか!?」
「事実関係は理解している」
「じゃあ何が分からないんです!」
「時系列だ」
「そこ一番大事でしょう!」
「私の記憶に存在しない十八日間が複数ある」
「もう何言ってるか分からない!」
「だから言っただろう」
「何をです!」
「完全には理解していない」
高宮が両手で顔を覆った。
「頭が痛い……」
奎星が真壁を見る。
「真壁さん」
「何だ」
「何か楽しんでない?」
「気のせいだ」
「絶対ちょっと楽しんでる」
「黙っていてくれ」
九重院が口元へ手を当てた。笑いを隠しているようにも見える。
御影は相変わらず無表情だったが、真壁を一度だけ横目で見た。
「征士郎」
「何だ」
「後で俺にも最初から説明しろ」
「ああ」
「短く」
「無理だ」
「ならいい」
「諦めるな」
奎星は二人を見た。
胸の奥が、少しだけ変な感じになった。
この二人と、何度も六月十五日を走った。
今は、二人とも知らない。
覚えているのは自分だけだ。
その事実を口にしようとして、奎星はやめた。言葉にしたところで、今の二人には届かない気がした。
「…………」
「何だ」
御影が気づいた。
「いや」
奎星は首を振る。
「何でもない」
「なら見るな」
「うん」
そのとき、校長室の扉が開いた。
「失礼します」
その声に、奎星が振り返る。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
いつもの訂正だった。
それだけで、奎星の肩から少し力が抜けた。
スズメは急いできたらしい。普段より僅かに呼吸が速く、銀色の髪が肩のあたりで乱れている。それでも、奎星が無事に座っているのを確認すると、表情をほんの少し緩めた。
「蓮根君」
「うん」
「無事ですね」
「うん」
スズメは奎星の顔を見たまま、何か言いかけた。けれど、すぐには言葉にせず、視線を一度だけ逸らす。
「…………」
「怒ってる?」
「後ほど」
「はい」
高宮が大きく頷いた。
「烏丸先生からもお願いします」
「もちろんです」
「増えた……」
スズメは奎星を一度睨んでから、真壁を見る。
「状況は?」
「逆転時計だ」
真壁が答えた。
スズメの表情が変わった。
「逆転時計?」
「知っているのか」
「資料上では」
スズメはすぐに机へ近づいた。
「逆転時計については、学生時代にも調べていました」
「え」
奎星の顔が引きつる。
スズメは気づかない。
「一般的な逆転時計の場合、時間移動そのものが歴史へ組み込まれる閉鎖型の――」
「もう聞き飽きた、その説明!」
奎星が叫んだ。
校長室の空気が、一瞬で固まった。
スズメがゆっくり奎星を見る。
「まだ二文しか話していません」
「俺は何回も聞いた!」
「私は今初めて説明しました」
「スズメちゃんはな!」
「どういう意味です?」
「そこから英国の二〇二〇年型は違って、過去を変えたら今も変わって、記憶を守る方法は確認されてなくて――」
スズメの目が、徐々に大きくなる。
「……なぜ知っているのですか」
「だから」
奎星は両手を上げた。
「聞いたんだって!」
「誰に?」
「スズメちゃんに!」
「私は言っていません」
「言った!」
「言っていません!」
「言ったんだよ、前の六月十五日に!」
「今は五月二十八日です!」
「知ってるよ!」
沈黙が落ちた。
高宮が小さく呟く。
「頭が痛い……」
土御門が困ったように笑った。
「これは、難しいですねえ」
真壁は腕を組む。
「少なくとも、蓮根の証言と烏丸先生の知識は一致している」
スズメの顔が、奎星へ戻る。
「本当に」
「うん」
「私が説明したのですか」
「めっちゃした」
「何回?」
「もう分かんない」
スズメは黙った。
奎星は、その沈黙の中に、心配と困惑と、わずかな寂しさが混じっているように感じた。
「だから今日はもういい」
奎星は椅子から立ち上がった。
「頭パンパン」
「待ってください」
「何?」
「まだ話は終わっていません」
「明日!」
「蓮根君」
「明日聞く!」
「今までの話を聞いたあとに、その言葉を使うのは少し不安なのですが」
「大丈夫」
「あなたの大丈夫は信用できません」
「それも聞いたことある」
「今言いました!」
奎星は笑った。
久しぶりに。
いや、今日一日、何度も笑っていた。
それでも、今の笑いだけは少し違った。戻ってきたのだと思えた。何度も失った日常の中へ、ようやく自分の足で戻ってきたような感覚だった。
「じゃ」
奎星は手を上げる。
「寮戻っていい?」
九重院が真壁を見る。
真壁が頷いた。
「今日のところはいい」
高宮がすぐに睨む。
「明日、話は続けるからな」
「はい」
「反省文もだ」
「え」
「当然だ!」
「何枚?」
「自分で考えろ!」
「五枚?」
「増やすぞ!」
「じゃ四枚半」
「お前、前にもそれやっただろ!」
奎星の足が止まった。
「…………」
高宮が眉を寄せる。
「何だ」
奎星は、少しだけ笑った。
「ううん」
前にも。
本当に、色々あった。
「今度はちゃんと五枚書く」
「最初からそうしろ!」
奎星は校長室を出た。
「廊下は走るなよ!」
「走んない!」
扉が閉まる。
三秒後。
廊下の向こうから、足音が聞こえた。
たっ、たっ、たっ。
「蓮根!!」
高宮の怒声が追いかけた。
*
男子寮の四人部屋へ戻ると、日向はまだ起きていた。
窓の外はすっかり暗く、部屋の中には小さな魔法灯だけが灯っている。日向のベッド脇には読みかけの本が開かれ、伊織は枕元に積んだ本を一冊手にしていた。岳は布団へくるまったまま、眠っているのか起きているのか分からない顔でこちらを見た。
「遅っ」
日向が言った。
「ただいま」
「何してたんだよ」
「魔法省」
「は?」
伊織が本から顔を上げる。
岳も布団から目だけを出した。
「魔法省?」
「うん」
「今から?」
「もう帰ってきた」
「そこじゃない」
伊織が本を閉じた。表紙が、ぱたんと音を立てる。
「何をしてきたの?」
奎星は少し考えた。
「後藤さん捕まえた」
「誰?」
奎星が止まった。
その一言で、胸の奥に小さな空洞ができたような気がした。
「…………」
「何が?」
日向が眉を寄せる。
奎星は、すぐに笑った。
「そうか知らねえんだ」
「何の話だよ」
「めっちゃ長い」
「じゃ明日でいい」
「俺もそう思う」
奎星は制服の上着を脱いだ。腰の杖入れは、そのままだった。
神代榊を抜き、枕元へ置く。
焦茶色の革を外そうとして、手が止まった。
これをくれたのは、スズメだ。
今日。
五月二十八日。
その事実を確かめるように、奎星は杖入れの留め具へ指を触れた。
「あ」
「何?」
日向が見る。
奎星は伊織へ顔を向けた。
「なあ」
「何?」
「三日後」
「うん」
「スズメちゃん誕生日だよな」
伊織の目が少しだけ大きくなる。
「何で知ってるの?」
「俺も分かんねえ」
「怖いな」
「でも合ってる?」
「五月三十一日なら、そうだけど」
奎星の顔が明るくなった。
「よし」
「何が?」
奎星は床へ座った。
「サプライズやろうぜ」
「今から?」
日向が訊く。
「今から決めとかないと三日しかねえじゃん」
「もう夜だけど」
「だから?」
「いや」
日向もベッドから降りた。面倒そうな顔をしているが、口元にはすでに笑いが浮かんでいる。
「面白そうだからいいけど」
「岳」
奎星が見る。
「やる?」
「ケーキある?」
「まだない」
「作る?」
「作れんの?」
「天ぷらに頼む」
「それ作るって言わないだろ」
日向が笑った。
伊織は腕を組み、少し考えている。
「烏丸先生、サプライズ苦手そうだけど」
「だからやるんじゃん」
「どういう理屈?」
「驚くから」
「サプライズだからね」
「だろ?」
「意味が一周しただけだよ」
奎星は気にしなかった。
「プレゼントもいる」
「何にするの」
「それ考える」
「今?」
「今」
日向が大きく欠伸をした。
「明日でよくね?」
その言葉に、奎星の動きが一瞬だけ止まった。
明日。
五月二十九日。
ただの次の日。
なのに、妙に遠く感じた。
何度も六月十五日をやり直した。
五月二十八日まで戻った。
今日一日を、二度生きた。
それでも。
今度は。
「うん」
奎星は笑った。
「明日でいいか」
「じゃ寝ようぜ」
「でもプレゼントだけちょっと考えよう」
「寝ろ」
「何がいいと思う?」
「寝ろって」
「本?」
「烏丸先生、自分で選ぶだろ」
「杖?」
「高い」
「水羊羹」
「誕生日プレゼントで?」
「好きだぞ」
岳が布団の中から言った。
「水羊羹はあり」
「ほら」
「食い物基準にするなよ」
部屋の中に、いつもの声が戻ってくる。
奎星は笑いながら、自分のベッドへ腰を下ろした。床板が体重を受けて、かすかに軋む。
左腕を見る。
銀色の腕時計。
スズメから、クリスマスにもらったもの。
秒針が動いている。
こち。
こち。
こち。
奎星は、しばらくそれを見ていた。
戻らない。
一秒。
次の一秒。
また、その次。
時計は、ただ前へ進んでいる。
「…………」
「奎星?」
「何でもない」
奎星は腕を下ろした。
「三十一日」
部屋の仲間たちへ向けて言う。
「絶対びっくりさせようぜ」
「怒られない程度にな」
「それは無理かも」
「もうやめろ」
日向が枕を投げた。
「痛っ」
笑い声が部屋へ広がった。
窓の外には、南硫黄島の夜が広がっている。海からの風が建物の壁を撫で、遠くで波の音が低く続いていた。
学校は静かだった。
魔法省の地下では、銀色の逆転時計が何重もの管理の下へ置かれている。
もう、ここにはない。
奎星の左腕にある時計だけが、当たり前のように前へ進んでいる。
一秒ずつ。
二〇二七年五月二十八日。
長かった一日が、ようやく終わろうとしていた。
そして。
五月二十九日は。
今度こそ、ちゃんとやってくる。