二〇二七年五月三十一日。
月曜日。
烏丸スズメの二十二歳の誕生日は、無事に成功した。
もっとも、蓮根奎星にとっては、これが初めてではない。
一度目の五月三十一日は、もうこの世界のどこにも残っていなかった。祝った生徒たちも、色紙を渡した教師たちも、本人であるスズメでさえ覚えていない。それでも奎星の中には、あの日の拍手も、ケーキの甘い匂いも、贈り物を受け取ったときのスズメの表情も、妙に鮮明なまま残っている。
だから今回は、二度目だった。
しかも、一度目より明らかに完成度が高かった。
「そこ、あと二センチ右」
「二センチって何だよ」
「右」
「だから二センチが分かんねえって!」
「もうちょい」
「雑になったじゃねえか!」
前日、五月三十日。日曜日。
夕方の魔法史研究室では、翌日に向けた飾りつけが秘密裏に進められていた。
窓の外では日がゆっくりと海へ傾き、南硫黄島を囲む水面が夕暮れの光を受けて鈍く輝いている。開け放たれた窓から入り込む潮風は、昼間よりもわずかに冷たく、机の上に積まれた色紙の端をときおり持ち上げた。そのたびに、壁へ貼りつけられた紙の星がかすかに揺れ、羊脂玉の白い壁へ長い影を落とす。
スズメが研究室を離れている時間を見計らって入り込んだのは、奎星、日向、楓、岳、伊織の五人だった。
本棚から本棚へは飾り紐が渡され、窓には色紙を切り抜いて作った《おめでとう》の文字が並んでいる。壁には大小さまざまな星が散らされ、机の端には、翌日集める色紙をまとめるための箱まで用意されていた。
前より綺麗だった。
少なくとも、奎星の記憶にある《前》よりは、ずっと。
「そこ!」
奎星が壁の上部を指差す。その先には、他の星と比べて一枚だけ向きの違う紙の星があった。
「その星、逆!」
「どっちでもよくね?」
脚立の上で、日向が魔法糊を持ったまま振り返る。
「よくない」
「星に上下あんの?」
「ある」
「何で知ってんだよ」
「前、逆だったから」
「前?」
日向の手が止まり、古い木製の脚立が、きし、と小さな音を立てた。
そこでようやく、奎星も自分が何を口にしたのか気づいた。壁を見上げていた視線が、気まずそうに床へ落ちる。
「あ」
「何の前?」
「…………」
「奎星?」
黙っていても逃げ切れないと悟ったらしい。奎星は一拍置いてから、諦めたように息を吐いた。
「前の」
「うん」
「スズメちゃんの誕生日」
「今年初めてだろ」
「そうなんだけど」
「怖っ」
日向が脚立の上で思わず身を引いた。
当然、脚立も一緒に傾く。
「ちょっと、落ちるわよ」
楓がすぐ横から脚を押さえると、日向は慌てて体勢を戻した。
「奎星が変なこと言うからだろ!」
「俺のせい!?」
「お前、たまに未来の話すんのやめろよ!」
「しょうがねえだろ、覚えてんだから!」
「俺らは覚えてねえんだよ!」
「俺だって好きで覚えてるわけじゃねえよ!」
二人の声が重なり、さっきまで比較的静かだった研究室が、あっという間にいつもの騒がしさへ戻っていく。机の上の紙片が風に押されて床へ滑り、窓辺の羽根筆立てまで、わずかに震えた。
「喧嘩しない!」
楓の声が飛ぶ。
奎星と日向は、ほとんど同時に口を閉じた。
「明日の主役、烏丸先生でしょ!」
「分かってる!」
「分かってる!」
二人の返事まで綺麗に重なった。
机では、伊織が何事もなかったように紙飾りへ定規を当てていた。端から端までの長さを測り終えると、小さく息を吐く。
「一回経験したサプライズの反省点を、二回目で修正してる人、初めて見た」
「だろ?」
奎星は即座に胸を張った。
「褒めてないよ」
「でも今回は完璧にする」
返事をしながら、奎星は改めて研究室を見回した。
星の位置。飾り紐の高さ。窓に貼られた文字。机の配置。
普段の授業中なら、一分と同じ場所に留まっていられない男とは思えないほど、今日の奎星は細かなところまでよく見ていた。
「前はここの《う》が斜めだった」
「知らない」
「星一個逆だった」
「知らない」
「右の飾りだけ低かった」
「知らない」
「あと、リボンが解けなくなった」
伊織がそこで初めて顔を上げた。
「何の?」
「プレゼント」
「それは君が悪いね」
「今回は練習した」
「そこまで反省してるの?」
「あと」
奎星は指を折り始めた。
「天ぷらに一人でケーキ持たせない」
その言葉に、菓子の袋へ手を突っ込んでいた岳が顔を上げる。
「俺が持つ」
「いや、お前は食うだろ」
「運んでから食う」
「なら任せた」
「天ぷらも持ちたいって言うぞ」
「じゃ二人で持て」
「分かった」
岳は素直に頷くと、そのまま袋から菓子を一つ取り出して口へ運んだ。
楓の眉が寄る。
「それ、明日の飾り用じゃないの?」
「味見」
「何個目?」
「覚えてない」
「……もういいわ」
楓は途中まで言いかけて、諦めたように口を閉じた。
けれど、その表情には別の違和感も浮かんでいた。奎星があまりにも自然に《前回》の話を続けるものだから、今さらながら、その異様さが追いついてきたらしい。
「……ねえ」
「何?」
壁へ新しい星を貼ろうとしていた奎星が振り返る。
「奎星」
「うん」
「前回、どんだけ烏丸先生の誕生日会やったの?」
星を持つ手が止まった。
奎星はすぐには答えず、研究室の中をゆっくりと見回した。
紙の星。色紙。ケーキを置くために空けた机。窓辺の飾り。
目に映る一つ一つへ、別の五月三十一日の景色が重なっていく。
「一度、考える必要ある?」
脚立の上から日向が訊いた。
「かなり」
「かなりって」
「学校中で祝って」
「うん」
「色紙渡して」
「うん」
「天ぷらがケーキ持ってきて」
「うん」
「ここ飾って」
「うん」
「プレゼント渡した」
日向が脚立の上から身を乗り出す。
「もう完成してんじゃん」
「そうなんだよ」
「じゃ同じでよくね?」
「よくねえよ」
「何で?」
奎星はすぐには答えなかった。
視線の先には、壁へ貼られた星がある。
前の五月三十一日。
スズメは、最初、自分がなぜ大食堂中から見られているのか理解できない顔をしていた。次第に拍手の意味を悟ると、少し困ったように周囲を見回し、それでも声を掛けられるたび一人ずつ丁寧に頭を下げた。
色紙を受け取ったときには、その端を指先でそっと撫でていた。
研究室でトランクを渡したときは、しばらく何も言えなくなっていた。
泣きそうな顔だった。
けれど、泣かなかった。
そのときの表情も、呼吸の間も、自分が何を言ったのかも、奎星は覚えている。
ただ、今のスズメは何一つ知らない。
あの日に渡した色紙は存在せず、飾りは貼られたことすらなく、贈ったトランクも彼女の手元にはない。祝いの言葉も、それを受け取った記憶も、世界からは綺麗に消えている。
残っているのは、奎星の中だけだった。
「……せっかく覚えてんだから」
壁の星を見たまま、奎星が言った。
「前より良くしたいじゃん」
声は大きくなかった。
いつものように勢いで押し切ろうとする響きもない。
日向が何か言いかけたものの、奎星の横顔を見て、そのまま口を閉じた。楓も、手にしていた紙飾りを動かさない。
伊織だけが一度、奎星を見る。
それから何も言わず、机の上の飾り紐を持ち上げた。
「じゃあ、こっちはあと一センチ上」
「一センチって分かる?」
「分かんねえ」
「僕がやるよ」
「頼む」
伊織が立ち上がり、本棚の前へ移動する。
日向も脚立から降り、今度は紙の星を手の中で何度か回して、ちゃんと向きを確かめてから貼り直した。
それ以降、《前》について訊く者はいなかった。
準備は、夜まで続いた。
*
そして翌日。
二〇二七年五月三十一日。
スズメにとって、その日は朝からいつも通りだった。
目を覚まして最初にしたのは、実家から送られてきた誕生日映像を見ることだった。
画面の向こうでは父親が朝から妙に大きな声で何かを話し、途中から母親が横から割り込み、それをたしなめている。最後にはなぜか二人とも画面の外へ消え、しばらく誰も映っていない居間だけが映し出されていた。
そこでようやくスズメは、自分が今日で二十二歳になったことを思い出した。
映像を閉じたあとは、いつも通りだった。
授業へ行き、研究室へ戻って書類を読み、時間になればまた別の教室へ向かう。
五月最後の日の学校は、普段と何も変わらない顔をして動いていた。窓の外を海風が流れ、生徒の話し声と羽根筆の音が廊下まで漏れてくる。遠くの教室では誰かが魔法を失敗したらしく、ぱん、と乾いた破裂音が響いたあと、教師らしい怒声が続いた。
だからこそ、スズメは気づいた。
魔法史の授業中、奎星が妙に静かだった。
背筋を伸ばし、教科書を開き、珍しく途中で話を逸らさない。いつもなら、説明と説明の隙間を見つけるたび、授業内容に関係があるのかないのか分からない質問を挟んでくる頃だった。
「蓮根君」
「はい」
呼ばれた瞬間、奎星はすぐ顔を上げた。
返事まで妙に素直だ。
スズメは黒板から彼へ視線を移した。何かを待ち構えているようにも見えるが、表情だけなら普通である。ただ、机の下で握られた手の指が、わずかに落ち着きなく動いていた。
「…………」
「何?」
「いえ」
スズメは少し眉を寄せる。
おかしい。
一方の奎星は、内心で小さく焦っていた。
前も、この辺で怪しまれた。
その反省を踏まえて、今日は一度くらい普段通りの質問をしておく必要がある。
「先生」
「何ですか?」
「この人、強い?」
「何を基準に訊いているのですか」
「魔法」
「歴史上の行政官です」
「じゃ弱い?」
「そういう分類をしないでください」
「はい」
奎星は素直に頷いた。
スズメは一瞬だけ黙ったあと、ようやく少し安心したように黒板へ向き直る。
教科書へ視線を落とした奎星の口元には、小さな笑みが浮かんでいた。
これでいい。
前と同じにする必要はない。
ただ、夕食までは。
今日が、いつもの一日であればいい。
*
「みんなちゅうも〜〜〜〜〜〜く!」
その夕方。
大食堂いっぱいに、奎星の声が響き渡った。
天井近くに吊られた魔法灯が、声量に驚いたかのように微かに揺れる。食事をしていた生徒たちが一斉に顔を上げ、教師席ではスズメが反射的に箸を止めた。
「蓮根君!」
すぐさま教師の声が飛んでくる。
奎星は気にせず、大食堂の中央で両腕を広げた。
少し離れた席では日向がすでに笑いを堪えており、その隣で楓は額へ手を当てている。伊織は静かに成り行きを見守り、岳だけは何事もないように夕食を続けていた。
「今日は!」
奎星が声を張る。
「五月三十一日!」
教師席にいるスズメの表情が止まった。
「烏丸スズメ先生の!」
「…………」
「二十二歳の誕生日で〜〜〜す!」
次の瞬間、大食堂いっぱいに拍手が弾けた。
下級生の小さな手が鳴り、中級生は机を叩き、上級生からは口笛まで上がる。教師たちも笑いながら拍手へ加わり、ほんの数秒で食堂全体が祝いの空気に包まれていった。
「おめでとうございます!」
「烏丸先生ー!」
「先生おめでとー!」
「二十二歳!」
「…………」
スズメは教師席で立ち上がったまま、しばらく固まっていた。
その顔を、奎星は知っている。
最初に少しだけ口が開く。
次に、周囲を見る。
それから、自分が祝われていることを理解する。
「え……?」
やっぱり。
同じだった。
思わず、奎星の口元が緩む。
その変化を、離れた場所にいるスズメは見逃さなかった。
「……何ですか?」
「何でもない!」
「絶対何かありますね」
「誕生日おめでとう!」
奎星は勢いで話を逸らした。
スズメは納得していない顔をしていたものの、次々とかけられる祝いの声に応えるうち、それ以上追及する暇を失っていく。頬が少し赤くなり、何度も頭を下げるたび、銀色の髪が肩の前へ滑った。
やがて、色紙が運ばれてきた。
今回は一枚ずつではない。
下級、中級、上級、教師。それぞれの寄せ書きを色の違う表紙で綴じ、最後にはすべてを一冊へまとめられるよう、伊織が簡単な仕組みを作っていた。頁を開くたび紙の端に細い魔法糸が走り、束がばらけないよう固定される。
「からすませんせい!」
先頭に立って運んできたのは湊だった。
両腕で抱えた色紙の束は胸元をすっかり隠すほど大きく、後ろから別の生徒が倒れないよう支えている。
「これ!」
「…………」
スズメは少し身を屈め、両手でそれを受け取った。
紙そのものは、驚くほど重いわけではない。
けれど、何十人分もの言葉がそこに収められていると思うと、腕へ伝わる以上の重さがあるように感じられた。
頁をめくる。
小さな文字。
大きな文字。
少し曲がった文字。
絵。
授業への感想。
感謝。
くだらない思い出。
教師として過ごした時間が、それぞれ別の筆跡を持って目の前へ並んでいる。
「ありがとうございます」
スズメの声が、わずかに小さくなった。
まだ続いている拍手へ紛れてしまいそうな声だったが、奎星には聞こえた。
スズメは色紙を胸元へ抱え直す。
「本当に、ありがとうございます」
そこへ。
「トリマル!」
聞き慣れた高い声が響いた。
スズメが顔を上げる。
「天ぷら?」
「オメタン!」
今回の天ぷらは、前のように大きな皿の下で潰れかけてはいなかった。
ケーキ皿の右側を天ぷらが、左側を岳が持っている。ただし二人の歩幅が微妙に合っておらず、一歩進むたび皿がわずかに傾き、白いクリームの上の苺が危うく揺れた。
「ヨイショ!」
「ヨイショ」
「岳、もっと楽しそうに言えよ!」
奎星が遠くから叫ぶ。
「重くない」
「気持ちの問題!」
「ケーキ」
岳の視線が、静かに皿の中央へ落ちる。
「食うなよ!」
すぐさま奎星の声が飛んだ。
そのやり取りを見て、スズメがとうとう笑った。
思わず零れた笑い声に、自分で驚いたように口元へ手を添える。
その向かいでは、奎星も笑っていた。
前より。
たぶん、上手くできた。
*
夜。
魔法史研究室。
扉を押し開けた瞬間、スズメはその場で足を止めた。
昼間の喧騒が嘘のように、夜の校舎は静まり返っている。廊下の魔法灯は夜用の淡い明るさへ落とされ、白い羊脂玉の壁にぼんやりと影を落としていた。
開いた研究室からは、古書と紙、それから乾いた革の匂いが流れてくる。
「…………」
壁には星。
本棚には飾り紐。
窓には《おめでとう》の文字。
昼間まで、自分が何度も出入りしていたはずの部屋が、まるで別の場所のようになっていた。
しかも、妙に整っている。
傾いている星は一枚もなく、《おめでとう》の《う》まで水平だった。床に紙屑も落ちておらず、机の上も普段よりわずかに片づいている。
「どう?」
背後から声がした。
振り返ると、扉の横に奎星が立っていた。
両手を背中へ回し、反応を窺うように少しだけ首を傾けている。
「蓮根君」
「今回は完璧」
「今回は?」
スズメの目が細くなった。
「…………」
「今回は?」
「今日の話」
「今日のこれは一回しかありませんが」
「気にすんな」
奎星は露骨に視線を逸らすと、研究室の中央に置かれた大きな包みを指差した。
「はい」
「……まだあるのですか?」
「ある」
「大食堂で十分いただきました」
「これは俺から」
スズメの視線が、包みへ移る。
奎星が持ち上げたそれは、かなり大きかった。
包装を解けば、深い焦茶色の革で作られた書類用のトランクが現れる。前の時間と同じ店で選んだものだが、今回は一回り大きく、肩へ掛けるための革帯も備わっていた。内部には重さを軽減する魔法まで施されている。
「前よりいいやつ」
奎星が何気なく言う。
「前?」
「こっちの話」
「先ほどから何なのですか」
「開けて」
奎星は話を誤魔化すように、リボンをスズメの方へ差し出した。
スズメが結び目へ指を掛ける。
するり、と一度で解けた。
その瞬間、なぜか奎星の顔がぱっと明るくなる。
「よし!」
「何がです?」
「三回練習した」
「何を?」
「リボン」
「…………」
「前は解けなかった」
「前?」
「いいんだよ!」
「よくありません。話がまったく繋がっていません」
スズメは呆れたように息を吐いたが、包みを開く手は止めなかった。
蓋を開ける。
中はいくつかの区画へ分かれていた。
書類を立てて入れられる仕切り。巻物を固定する革帯。分厚い本を横向きに収める空間。羽根筆や印章を入れる細いポケット。
「これ……」
「スズメちゃん、いつも本とか書類いっぱい持ってるじゃん」
「…………」
「重そうだし」
「持てます」
「前見えてねえし」
「見えています」
「見えてないって」
「見えています」
「この前、壁ぶつかりそうだったじゃん」
「避けました」
「俺が持ったからだろ」
「…………」
奎星が笑う。
スズメは言い返さず、トランクの内側へ指を滑らせた。
新しい革はまだ少し硬く、魔法具特有のかすかな温度を持っている。華美な装飾はほとんどない。それでも、仕切りの位置やポケットの数を見るだけで、自分が普段どんな物を持ち歩いているのか考えて選ばれたものだと分かった。
「だから」
奎星はトランクを指差す。
「これならいいかなって」
スズメはしばらく黙っていた。
その沈黙も。
奎星は知っている。
前にも、よく似た間があった。
けれど今回は、次に来る言葉を先回りしなかった。期待するように笑い続けることも、照れ隠しの冗談を挟むこともしない。
今のスズメが。
今の五月三十一日の中で、何を言うのか。
それを静かに待った。
「……ありがとうございます」
やがて、スズメが言った。
「大切に使います」
「うん」
前と同じだった。
けれど、同じではなかった。
今の言葉は、今のスズメから、ちゃんと受け取ったものだった。
「あとさ」
奎星が少し頭を掻く。
「前にも言ったんだけど」
「前?」
「……まあいいや」
「気になります」
奎星は困ったように笑った。
「俺だけ覚えてる前」
その一言で、スズメが黙る。
五月二十八日。
逆転時計。
失われた十八日間。
奎星だけが抱えている、今の世界には存在しない時間。
「前の五月三十一日にも」
奎星は続けた。
「俺、同じようなこと言った」
「…………」
「だから、二回目になるけど」
笑おうとする。
けれど、今度の笑顔はいつものようには簡単にできなかった。
「ありがとう」
奎星は、まっすぐスズメを見る。
「俺をここに連れてきてくれて」
魔法を教えてくれた。
学校へ入れてくれた。
何度も怒られた。
何度も助けられた。
一度は忘れられた。
それでも、もう一度出会った。
「今、俺がここにいるの」
奎星はゆっくりと言葉を選ぶ。
「スズメちゃんのおかげのとこ、いっぱいあるから」
スズメは答えなかった。
胸の奥へ、すぐには名前を付けられないものが静かに溜まっていく。
奎星が覚えていて、自分は知らない時間。
そこにいた自分が何を言ったのか。どう笑ったのか。何を受け取ったのか。
今のスズメには確かめることができない。
それでも、そこから持ち帰られたものは確かに目の前にある。
トランク。
言葉。
そして、今の自分へ向けられている感謝。
「だから」
奎星が、今度こそ自然に笑った。
「誕生日おめでとう」
研究室へ、長い沈黙が落ちた。
窓の外では夜の海が低く鳴り、遠くで波が崩れている。校舎のどこかで扉が閉じる音がし、それが消えると、室内には魔法灯の小さな唸りと二人分の呼吸だけが残った。
「ありがとうございます」
スズメは、もう一度言った。
さっきより少しだけ、小さな声だった。
その顔も。
奎星は覚えている。
似た顔を、前の五月三十一日にも見た。
けれど今度は、それだけで終わらなかった。
「何で笑っているのです?」
「いや」
奎星は首を振る。
「嬉しいだけ」
「私の誕生日ですが」
「俺も嬉しい」
「変な人ですね」
「知ってる」
「そこは否定してください」
スズメの口元が、ほんの少し緩んだ。
二度目の五月三十一日。
失われた一度目を、同じ形で取り戻すことはできない。
それでも。
今度も。
いい誕生日だった。
*
翌朝。
二〇二七年六月一日。
六月最初の風が、開け放たれた窓から上級課程三年の教室へ入り込んでいた。
海の匂いを含んだ風に、机の上へ配られた紙がかすかに揺れる。いつもなら黒板を埋めている年号も術式も今日はなく、中央には大きく、《自分を知る》という文字だけが書かれていた。
後藤孝雄の事件を受け、魔法省から提案されていた奎星専任の進路支援は取り下げられている。
正確には、奎星を特別顧問候補として扱う案も、それに付随していた広報利用も、専任アドバイザー制度も、関連する計画ごと再審査へ回された。
ただし、《キャリアデザイン》の授業そのものは残った。
もともと上級課程三年を対象に、学校と魔法省が共同で進めていた進路教育であり、後藤一人が作った制度ではないからだ。
「皆さん、初めまして!」
黒板の前で、坪田茜が明るく笑った。
「坪田茜です。一年間、よろしくお願いします!」
教室から、ばらばらと返事が上がる。
奎星は頬杖をついたまま、茜の顔を見ていた。
知っている。
二十六歳。
魔法省職員。
よく笑う。
話しやすい。
最初に自己分析をやらせる。
嬉しかったことへ《葛切り》と書いても否定しない。
危険な仕事へ行きたがる自分を、最初から頭ごなしに止めたりもしなかった。
今の茜にとっては初対面だが、奎星は前の時間で何度も彼女と話している。
「一年間、よろしくお願いします!」
もう一度、茜が頭を下げる。
奎星も少し遅れて口を開いた。
「……よろしく」
「何?」
隣の日向が顔を寄せてくる。
「いや」
「知ってんの?」
「知ってる」
「何で?」
「前に会った」
「いつ?」
奎星は少し考えた。
「体感は先週くらい」
「は?」
「気にすんな」
「気になるわ!」
その間にも、茜は黒板へ大きく文字を書き足していく。
《自分を知る》
そして机へ、一枚ずつ紙が配られた。
《自己分析シート》
奎星はそれを見て、思わず口元を緩めた。
「これも知ってる」
「何?」
「何でもない」
紙には、いくつかの質問が並んでいた。
《今までで嬉しかったこと》
《大変だったこと》
《夢中になれたこと》
《二度とやりたくないこと》
《大切にしたいもの》
《働くうえで譲れないこと》
全部、覚えている。
「じゃあ」
茜が羽根筆を上げた。
「まずは最低十個ずつ!」
「多っ」
教室のあちこちから一斉に声が上がった。
その中で奎星だけが、ほとんど反射的に筆を動かし始める。
「蓮根君」
「何?」
「まだ説明終わってない」
「あ」
教室に笑いが起きた。
茜も苦笑する。
「やる気があるのは嬉しいけど、ちょっと待とうね」
「はい」
「珍しい」
日向が横から言う。
「うるせえ」
ほどなく説明が終わった。
「はい、始めて!」
合図と同時に、教室中で羽根筆が動き始める。
紙の表面を筆先が擦る音が重なり、窓の外ではどこかの風鈴が一度だけ鳴った。
奎星も紙へ向かう。
《嬉しかったこと》
魔法。
友達。
学校。
家族。
天ぷら。
スズメ。
腕時計。
杖入れ。
誕生日。
思いつくままに書いていく。
そして、十個目を考えたところで、一度だけ筆先が止まった。
「…………」
少し迷ったあと、小さな文字を加える。
《五月二十九日が来た》
書いてから、自分でも変な答えだと思った。
他の誰かが読めば、意味が分からないだろう。
それでも、奎星には十分だった。
嬉しかった。
本当に。
次。
《二度とやりたくないこと》
こちらは迷わなかった。
《同じ一日》
「何それ」
日向が横から覗き込む。
「見るなよ」
「何だよ、同じ一日って」
「長い」
「また時間の話?」
「そう」
「もう聞いても分かんねえんだよな」
「俺も説明してて分かんなくなる」
「じゃ書くなよ」
「俺の自己分析だぞ」
「そうだった」
奎星は紙を手元へ引き戻し、最後の項目を見る。
《働くうえで譲れないこと》
前の時間では、ここに《ちゃんと自分で動けること》と書いた。
奎星は筆を止め、しばらく白い欄を眺めた。
後藤。
特別顧問。
英雄。
清弦。
誰かによって用意されようとした未来。
何度もやり直した六月十五日。
そして、その中で何度も辿り着いた言葉。
自分で選ぶ。
奎星は筆を動かした。
《自分で選べること》
書き終えたあと、その一行を少しだけ眺める。
「……うん」
今は、それでよかった。
*
授業が終わり、茜が自己分析シートを回収しているあいだ、奎星は鞄の中を探った。
教科書。
ノート。
そして、五枚きっちり書いた反省文。
「まだ持ってんの?」
日向が目ざとく見つける。
「今日出す」
「ちゃんと五枚?」
「五枚」
「成長したな」
「うるせえ」
その下から、もう一枚の紙が出てきた。
五月二十八日。
十八歳になった日に、土御門から渡されたもの。
《進路希望調査》
奎星はそれを机の上へ置いた。
一年前の第一志望は、《海賊》。
今年の五月二十八日には、何も書けなかった。
自分が何をしたいのか。
何が向いているのか。
まだ分からないと思っていた。
けれど。
本当は、少しずつ分かり始めていたのかもしれない。
ただ、それを知るために過ごした時間が、一度この世界から消えてしまっただけで。
奎星は羽根筆を持った。
《第一志望》
今度は止まらなかった。
《禍祓官》
文字を書き終えると、御影の背中が頭へ浮かぶ。
強いだけでは足りない。
怖くても判断すること。
相手を止めること。
必要な力だけを使うこと。
そして、生きて帰ること。
簡単な仕事ではない。
それでも、やってみたい。
次。
《第二志望》
そこで初めて、筆先がわずかに止まった。
脳裏へ浮かんだのは、一つの教室だった。
自分より年下の生徒たち。
訓練用の人形。
何度撃っても、うまく杖だけを飛ばせない。
《もっとこう》
《どれくらいですか?》
《…………俺も今分かんなくなった》
思い出しただけで、奎星は少し笑った。
あの日は、御影に説明しろと言われた。
自分が当たり前のようにやっていることを、言葉にして誰かへ教えるのは思ったよりずっと難しかった。
それでも。
《できた!》
最後に上がった声を、今も覚えている。
嬉しそうな顔も。
その瞬間、自分まで嬉しくなったことも。
もう、その授業は存在しない。
授業日誌にも、出席簿にも残っていない。教えた中級生たちも、自分から武装解除を習ったことなど覚えていない。
今の六月一日から見れば、その授業は明日。
まだ起きてもいない出来事だ。
それでも。
奎星には、確かに経験した記憶がある。
筆が動いた。
《教師》
「…………」
二文字を書き終える。
今度は、迷わなかった。
「よし」
「何書いた?」
日向が即座に横から覗き込んだ。
「おい」
「第一……禍祓官」
「おう」
「まあ」
日向は納得したように頷く。
「それは分かる」
「だろ?」
「御影先生みたいになりたいって、前から言ってたし」
「うん」
「第二……」
日向の視線が、一段下へ動く。
「…………」
「何」
紙を見る。
奎星を見る。
もう一度、紙を見る。
そして。
「お前が教師ィ!?」
教室中に声が響いた。
「声でけえよ!」
「お前、教師になんの!?」
「第二志望!」
「無理だろ!」
「何でだよ!」
「お前が生徒だったら、お前みたいな教師の言うこと聞くか!?」
「聞く!」
「絶対聞かねえだろ!」
「俺、結構向いてんだぞ!」
「何で分かんだよ!」
「分かるんだよ!」
「根拠!」
「ある!」
「何!」
勢いよく口を開いた奎星が、そこで止まった。
頭の中へ、赤い光が浮かぶ。
中級生。
訓練人形。
御影。
《蓮根先輩!》
《できた!》
「…………」
「何だよ」
日向が眉を寄せる。
奎星は、少しだけ笑った。
「俺」
「うん」
「後輩にエクスペリアームス教えたことあるから」
「…………」
日向が黙る。
少し離れた席では楓が顔を上げ、伊織の筆が止まり、岳までこちらを見る。
「いつ?」
日向が訊いた。
「六月二日」
「…………」
「御影先生の授業で」
「…………」
「中級生に」
日向はしばらく奎星を見つめ、それから教室の時計へ目を向けた。
最後に黒板横の日付。
《六月一日》
ゆっくり奎星へ視線を戻す。
「今日」
「うん」
「六月一日だけど」
「うん」
「明日じゃねえか!」
「前の六月二日!」
「前のって何だよ!」
「消えた方!」
「知らねえよ!」
「俺は知ってんだよ!」
「時系列どうなってんだよ!」
「いいんだよ!」
「よくねえよ!」
言い合う二人の横で、伊織が眼鏡を押し上げた。
「いや」
その一言に、教室へ残っていた笑い声がわずかに静まる。
「奎星にとっては、いいんじゃない?」
「伊織?」
奎星が振り返る。
伊織は、机の上に置かれた進路希望調査を見ていた。
「実際に教えた記憶があるんでしょ」
「うん」
「楽しかった?」
「結構」
「またやりたい?」
その問いだけは、奎星もすぐには答えなかった。
あの教室の匂い。
訓練人形の木の表面。
何度も失敗する杖。
最後に上がった声。
思い出すだけで、胸の奥が少し温かくなる。
「うん」
伊織は頷いた。
「じゃあ、それは自己分析としては有効なんじゃない」
「ほら!」
奎星がすぐ日向を見る。
「俺が正しい!」
「お前じゃなくて伊織が正しい!」
「同じチームだろ!」
「いつ組んだんだよ!」
今度は楓が、奎星の紙を横から覗き込んだ。
「でも」
「何?」
「教師になったら、生徒と一緒に怒られてそう」
「何で?」
「分かるでしょ」
「分かんねえよ」
「廊下走る教師とか嫌よ」
「教師になったら走んねえよ」
「今できないことが急にできると思う?」
「…………」
「黙った」
「努力する」
「まず卒業しなさいよ」
「それ」
奎星が言う。
「スズメちゃんにも言われた」
「そりゃ言うわよ」
「人生のために卒業してくださいって」
「かなり切実ね」
「お前、教師以前に卒業の心配されてんじゃん」
日向が笑う。
「できるよ!」
「今年赤点取ったら教師第二志望消せよ」
「関係ねえだろ!」
「教える側が補習されてどうすんだよ!」
「スズメちゃんだって教師になる前は生徒だったんだぞ!」
「当たり前だ!」
教室いっぱいに笑い声が広がった。
その騒ぎがようやく落ち着きかけたころ、自己分析シートを抱えた茜が戻ってきた。
「何の騒ぎ?」
「坪田先生!」
日向がすぐ呼ぶ。
「蓮根が教師になるって!」
「第二志望!」
「へえ」
茜は少し驚いた顔をしたあと、改めて奎星を見る。
「教師、興味あるんだ」
「うん」
「何かきっかけあった?」
「…………」
奎星は、一瞬だけ言葉に迷った。
話そうと思えば、いくらでも話せる。
六月二日。
御影の授業。
中級生。
エクスペリアームス。
何度も失敗して。
最後にできた。
けれど、その話をしても、茜にとって六月二日は明日でしかない。
御影にも、後輩たちにも、日向たちにも、そんな日はまだ存在していない。
だから奎星は、少し笑って答えた。
「あります」
「そっか」
茜は、それ以上深く聞かなかった。
そのことが、今はありがたかった。
「じゃあ、それも調べてみよう」
「うん」
「禍祓官も」
「うん」
「他の仕事もね」
「おう」
「今ここへ書いたからって、一生変えちゃ駄目ってことじゃないから」
「分かってる」
奎星は手元の紙を見る。
《第一志望 禍祓官》
《第二志望 教師》
「今は」
奎星が言った。
「これでいい」
茜が笑う。
「じゃあ、提出してみたら?」
「そうする」
奎星は椅子から立ち上がった。
手に持った進路希望調査は、何の変哲もない白い紙だった。
五月二十八日。
同じ紙を前にして、何も書けなかった。
それから、十八日間を過ごした。
何度も六月十五日をやり直した。
失敗した。
戦った。
後藤を止めた。
そして、そのほとんどは世界から消えた。
六月二日の授業もない。
中級生へエクスペリアームスを教えたという事実もない。
御影でさえ、自分をあの教室へ連れていった記憶を持っていない。
けれど。
奎星は知っている。
何度やっても杖を飛ばせなかった子が、最後に《できた!》と声を上げた顔を。
それを見て、自分まで嬉しくなったことを。
事実として残らなかった時間が、何もなかった時間になるわけではない。
少なくとも、奎星は覚えている。
その経験があったから、今日、この紙へ《教師》と書いた。
ならば、消えた六月二日は、ちゃんと今へ続いている。
「奎星!」
後ろから日向が呼んだ。
奎星が振り返る。
「何?」
「教師になったら最初に何教えんの?」
窓から差し込んだ六月の光が、床の上へ細長く伸びている。その先に、日向や楓、伊織、岳の影が重なっていた。
いつもの教室。
いつもの友達。
けれど奎星の中には、誰も知らない、もう一つの教室も残っている。
少し考えてから。
奎星は笑った。
「エクスペリアームス」
「地味!」
「大事なんだよ!」
「お前、一年前地味って言ってただろ!」
「だから分かんだよ!」
「何が!」
「失敗したから!」
笑ったまま、奎星は進路希望調査を手に教室を出た。
廊下には、次の授業へ向かう生徒たちの足音が響いていた。窓の外では海鳥が鳴き、六月の風が、開いた扉の隙間から教室へ吹き込んでいく。
手の中の白い紙には、二つの進路が残っている。
《第一志望 禍祓官》
《第二志望 教師》
一年前は、海賊と書いた。
三日前は、何も書けなかった。
けれど今度は。
どちらも。
自分で選んで、自分の手で書いた。