二〇二七年、六月。
六月に入って、まだ幾日も経っていなかった。
梅雨の気配を含んだ空気は、朝からどこか重く、魔法省へ続く転移門の周囲にも、湿った石と金属の匂いが薄く漂っていた。門を抜けた蓮根奎星は、白く磨かれた床へ降り立つと、靴底から伝わる硬い感触を確かめるように一度だけ足を止めた。
「……またここか」
声に出してみると、広間の高い天井へ吸い込まれていくようだった。
日本魔法省の中央広間は、何度訪れても病院に似ている。白い壁。白い床。白い魔法灯。清潔で、広く、静かであるにもかかわらず、そこにいる人間は誰もが何かに追われていた。濃紺の制服を着た職員たちが、書類の束を抱え、あるいは宙を飛ぶ紙の折り鶴を追いながら、いくつもの廊下へ散っていく。靴音は絶えず、遠くでは転移魔法の起動音が低く唸っていた。
天井近くを飛ぶ折り鶴の一羽が、奎星の頭上でくるりと旋回した。紙の翼が起こした風が、彼の前髪をわずかに揺らす。
奎星は案内板を見上げた。
《記録局》
《魔法法執行局》
《魔法具管理部》
《国際魔法協力室》
《監察室》
「……どこだっけ」
呼び出し状を取り出そうと制服のポケットへ手を入れた、そのときだった。
ふと、妙なことに気づいた。
誰も、頭を下げてこない。
「…………」
奎星は、手をポケットへ入れたまま周囲を見回した。
もちろん、誰にも見られていないわけではない。広間を横切るたび、職員たちの視線が一瞬だけこちらへ向く。小声が、白い柱の陰や開いた扉の向こうから漏れてくる。
「あれ、蓮根君じゃない?」
「星帰りの……」
軽く会釈をしてくる者もいた。
だが、それだけだった。
以前は違った。
奎星の記憶にだけ残っている、消えてしまった六月。あの頃の魔法省では、彼が廊下を歩くだけで、妙なほど人が道を空けた。目が合えば頭を下げられ、会ったこともない役人から握手を求められ、時には奎星より二回りも年上の人間が、必要以上に腰を低くして話しかけてきた。
蓮根清弦。
百年以上前の英雄。
近代日本魔法史に名を残す魔法使い。
霊脈に関わる大きな功績を残し、その血を引く少年が現代のマホウトコロを救った。
そんな物語が、奎星の知らないところで勝手に形を持ち始めていた。本人が何をしたかよりも、誰の血を引いているかが先に語られ、《英雄の末裔》という肩書きだけが、彼の周囲を歩き回っていた。
あれは、ひどく居心地が悪かった。
自分の顔を見ているはずなのに、誰も自分を見ていない。清弦という、会ったこともない男の影を見ている。
だから今、誰も頭を下げてこないことに、奎星はわずかな安堵を覚えた。
「……ないな」
周囲をもう一度見回す。
誰もペコペコしていない。
少し見られる。
それだけだ。
「そっか」
奎星は呼び出し状を取り出し、紙面へ目を落とした。そこに記された部署名を確認しながら、ふと、独り言のように呟く。
「清弦の資料、まだ見つかってねえのか」
それなら、辻褄が合う。
前の時間では、六月に入ってからだった。後藤が奎星へ近づき始め、魔法省が《英雄》という言葉を妙に口にするようになり、その流れに押されるようにして、蓮根清弦に関する資料が次々と表へ出てきた。
だが今は、後藤は拘束されている。
奎星を特別顧問候補として扱う計画も止まった。
同じ調査が、同じ順番で進まなくても不思議ではない。
「その方がいいけどな」
奎星は紙を折りたたみ、ポケットへ戻した。白い広間の奥へ向かって歩き出す。人の流れを避けるたび、肩がわずかに揺れ、濃紺の制服の袖が擦れた。
「英雄の子孫とか、マジでめんどくせえし」
その言葉は、行き交う人々の足音に紛れて消えた。
およそ二十分後。
奎星は、自分がまた蓮根清弦の名前を見ることになるとは知らなかった。
*
会議室には窓がなかった。
外の天気も、時刻も、ここにいる限り分からない。壁際に並んだ記録用の魔法具が低い音を立て、天井の白い灯りが、長い机の表面を冷たく照らしている。空調の風が一定の間隔で流れ、紙の端をかすかに震わせていた。
その机の中央。
奎星の真正面に。
銀色の懐中時計が置かれていた。
「…………」
椅子を引こうとしていた奎星の手が止まった。
逆転時計。
正式名称、K-417。
掌に収まるほどの大きさ。鈍い銀色の蓋。表面には細かな傷が走り、縁には二重の環が刻まれている。見た目だけなら、古びた時計にしか見えない。
けれど、奎星は知っている。
あれ一つで、何度六月十五日を迎えたか。
何度、同じ雨を見たか。
何度、同じ人間へ同じ説明をしたか。
何度、後藤と戦ったか。
何度、失敗したか。
そして最後には、十八歳になった朝まで戻された。
机の上に置かれているだけなのに、銀色の輪郭を見ていると、耳の奥であの音が蘇る。
かちり。
時間が戻る直前の、小さな音。
「……これ、置いとかないと駄目?」
奎星は時計から目を離さないまま訊いた。
向かい側で資料を整理していた真壁征士郎が、紙の束から顔を上げる。眼鏡の奥の目はいつも通り落ち着いていたが、奎星の視線が時計へ釘付けになっていることには気づいているらしい。
「必要だ」
「見たくないんだけど」
「重要参考人として、現物を前に確認した方が証言の精度が上がる」
「下がるよ。テンションが」
「証言の精度だ」
「俺のテンションも大事だろ」
「大事ではない」
奎星はようやく時計から目を離し、真壁を見た。
「最近、扱い雑じゃない?」
「以前からだ」
「もっとひどいじゃん」
真壁は返事の代わりに、手元の資料を一枚めくった。
机には真壁のほか、逆転時計の管理を担当する職員と、記録局の職員が座っている。K-417の周囲には、細い銀線で描かれた封印術式が三重に敷かれていた。円の内側には小さな文字が連なり、魔法灯の光を受けて淡く明滅している。
時計は動いていない。
秒針も。
歯車も。
完全に静止している。
それを確認してから、奎星はようやく椅子へ腰を下ろした。背もたれへ身体を預けるものの、視線だけは時計から離れない。
「では」
真壁が羽根筆を取った。
「もう一度、六月十五日について確認する」
「何回目?」
「今回の聴取がか」
「うん」
「三回目だ」
「違う」
奎星は時計を見たまま答えた。
「俺が六月十五日やった回数」
真壁の筆先が止まる。
会議室の空調が、低く唸った。
「…………」
「知らん」
「だよな」
「君自身も分からないと言っていただろう」
「途中から数えるのやめた」
「なぜだ」
「意味なくなったから」
奎星は椅子へ深く座り直した。背中が革張りの背もたれへ沈み、吐き出した息がわずかに長くなる。
それから、最初から話した。
六月十五日。
雨。
後藤。
進路。
誰かに決められようとしていた自分の未来。
最初に覚えた違和感。
次の六月十五日、後藤の態度が変わっていたこと。
真壁へ相談したこと。
御影と調べたこと。
資料へ近づくたび、真相へ手を伸ばすたび、また一日が戻ったこと。
話している間、奎星の指は何度も机の縁をなぞった。本人は無意識なのだろう。けれど、そこには、記憶を一つずつ手繰り寄せるような慎重さがあった。
「その時点で、時計を使っていた後藤さんに君が接触した事実は?」
「ない」
「後藤さんから時計の存在を聞いたことも?」
「ない」
「では、最初は何を疑った」
「分かんないから全部」
「全部?」
「後藤さん。魔法省。変な魔法。呪い。俺の頭がおかしくなった可能性」
記録局の職員が、思わず顔を上げた。
「最後の可能性も検討したんですか」
「したよ」
「自分で?」
「俺だって自分疑うことくらいあるって」
真壁は筆を動かしながら、淡々と言った。
「それは意外だな」
「真壁さん?」
「続けろ」
「絶対最近棘増えてるって」
奎星は不満そうに眉を寄せたが、それ以上は言わず、話を続けた。
短い巻き戻し。
戦闘。
一度失敗する。
戻る。
失敗したことを覚えている。
なら、次は変える。
また失敗する。
それも覚える。
後藤は未来を知っていた。
しかし奎星もまた、失敗した過去を持ち続けていた。
その記憶は、時間が戻るたびに身体の奥へ沈み、次の行動を変えるための重しになった。痛みも、恐怖も、後悔も、なかったことにはならなかった。
「最終的に」
真壁が訊いた。
「君は後藤さんから時計を奪った」
「前の六月十五日では奪いきれなかった」
「五月二十八日では?」
「取った」
「違いは」
奎星は少し考えた。
机の上へ置かれた自分の手を見下ろす。指先には、まだあの戦いの感触が残っているような気がした。
「俺が」
奎星は机へ指を置いた。
「後藤さんのこと知ってた」
「…………」
「全部は思い出してなかったけど、戦い方は身体が覚えてた」
「時計を使う前の癖も?」
「左見る」
「本人は自覚していない」
「だから分かった」
真壁の羽根筆が紙を擦る音だけが、しばらく室内に続いた。
その音を聞きながら、奎星はもう一度、逆転時計へ目を向ける。
静かだった。
あのときとは違う。
誰の手にもない。
後藤もいない。
外側の環へ指を掛ける者もいない。
ただの時計。
今は。
「記憶について」
真壁が訊いた。
「五月二十八日へ戻った直後は、ほぼ失われていた」
「うん」
「だが戻った」
「全部じゃないけど」
「杖入れが大きなきっかけだった」
「そう」
「理由は」
「知らん」
「魔法反応は」
「分かんない」
「何か熱を持った、光った、声が聞こえたなどは?」
「ない」
奎星は腰へ目を落とした。
焦茶色の杖入れ。その中に収まっている神代榊。
あの杖を手にしたとき、失われていた時間が一気に繋がった。頭で思い出したというより、身体の奥に残っていたものが、杖を通して引き上げられたような感覚だった。
「あれは」
奎星は言葉を探した。
「使い方を、手が覚えてた感じ」
「なるほど」
「つけたら、ああ、これ知ってるってなって」
記憶が戻った。
完全ではない。
けれど、途切れていたものが繋がった。
真壁はしばらく筆を走らせ、最後に一度、紙全体へ目を通した。書き終えた羽根筆を机へ置くと、会議室の中に小さな沈黙が落ちる。
「ひとまず、逆転時計については以上だ」
「終わり?」
「ああ」
「帰れる?」
「もう一つある」
「帰れないじゃん」
奎星は背もたれへ身体を預け、天井を仰いだ。白い灯りが目に刺さり、思わず片目を細める。
「何」
「今回の件とは直接関係がない」
「じゃ帰らせてよ」
「君には関係がある」
「嫌な言い方だな」
真壁が手元の小さな操作具へ触れた。
壁面が淡く光る。
白い壁だった場所へ、一枚の古い文書が大きく映し出された。
黄ばんだ紙。
黒い墨。
ところどころ虫食いがあり、端は茶色く変色している。何枚かを綴じていたらしい紐の跡が残り、紙の表面には長い年月の中で染み込んだ埃の色が浮いていた。
そして右端。
記録者の名。
奎星の目が止まった。
《蓮根清弦》
「…………」
五秒ほど、誰も喋らなかった。
奎星は画面を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。胸の奥に、覚えのある面倒事の気配が広がっていく。
やがて、彼は天井を見上げた。
「まーたこいつかよ」
「こいつと言うな」
「だって清弦じゃん」
「君の先祖だ」
「知ってるよ」
奎星は嫌そうに画面へ視線を戻した。
蓮根清弦。
百年以上前に神代榊を使っていた男。
自分の先祖。
魔法史の資料を開けば、最近になって妙に名前が出てくるようになった。しかも、出てくるたびに決まって同じような言葉が並ぶ。
《近代魔法史の重要人物》
《霊脈復旧に貢献》
《当時を代表する魔法使いの一人》
会ったこともない。
話したこともない。
それなのに、何かあるたびに比べられる。
奎星にとって清弦は、尊敬すべき先祖というより、勝手に背後へ立たされる面倒な影だった。
「それで?」
奎星は頬杖をついた。肘が机へ触れ、乾いた音がする。
「この英雄様が、今度はどんな活躍したって?」
「活躍の記録ではない」
「違うの?」
「ああ」
真壁は画面へ目を向けたまま答えた。
「手記だ」
「手記?」
「本人が残したものと思われる」
奎星の表情が、ほんの少し変わった。
「清弦が?」
「ああ」
「何で今?」
「後藤さんの件を受け、記録局で危険魔法具と古文書の管理状況を再確認している。その過程で、分類の誤っていた資料群が見つかった」
「分類ミス?」
「百年以上前のものだ。保管場所が移る過程で記録が混ざったらしい」
「魔法省も結構雑だな」
記録局の職員が気まずそうに視線を逸らした。耳がわずかに赤くなる。
真壁はそれを見ても何も言わず、画面を操作した。
「年代と内容を照合したところ、蓮根清弦本人のものと考えるのが最も自然だ」
「ふーん」
奎星は画面へ目を向け直した。
最初は、それほど興味がなかった。
また先祖の話。
また英雄の話。
そう思っていた。
「ここだ」
真壁が操作具を動かす。
文書の一部が拡大され、古い文字の横へ、現代の字体へ直された文章が表示された。
奎星は何となく読み始めた。
そこには、霊脈のことが書かれていた。
ある地方で、長く魔力の流れが滞っていたこと。地下の霊脈へ妖魔が巣食い、周囲の魔法を食らいながら数を増やしていたこと。清弦たちがそれを討ち払い、流れを取り戻したこと。
文章は簡潔だった。
けれど、紙の向こうから、当時の土の匂いや、地下から吹き上がる冷たい風まで伝わってくるようだった。妖魔の姿は記されていない。ただ、霊脈を塞ぐものを退けたという事実だけが、淡々と残されている。
「あ」
奎星が言った。
「これ知ってる」
「何を」
「霊脈にいた妖魔倒した話」
「学校の記録にも一部残っている」
「だよな」
奎星は少しだけ椅子から身を乗り出した。
それなら、やはり英雄の活躍ではないか。
そう思った。
だが、真壁は画面を下へ送った。
「続きがある」
次の文章が現れる。
そこで、奎星の目が止まった。
《しかし、あれを我一人の功績として記すことは、到底できない。》
奎星の指が、頬杖をついたままわずかに動いた。
もう一行。
《あの妖魔どもを退け得たのは、友の助けがあったからだ。》
奎星は何も言わなかった。
英雄の手記。
その中に、知らない誰かが現れた。
《私には、一人の奇妙な友人がいた。》
《私によく似た顔を持つ少年だった。》
奎星の眉が、わずかに寄る。
画面の文字は、古い墨の濃淡まで残していた。書いた人間の筆圧が、ところどころ紙へ食い込んでいる。
《無礼で。》
一拍。
《不躾で。》
奎星の口元が引きつった。
さらに。
《それでいて、とても勇敢だった。》
「…………」
奎星はゆっくりと真壁を見る。
真壁は画面を見たままだった。
「まだある」
「……うん」
画面が下へ進む。
《彼は、私の村にある大きな神代榊から作られた杖を使っていた。》
今度こそ、奎星の表情から笑いが消えた。
無意識に、右手が腰へ伸びる。
焦茶色の革。
その中にある杖。
神代榊。
《杖の芯には、鬼火鳥の羽根が使われていた。》
室内の空気が、わずかに変わった。
空調の風が止まったわけではない。魔法灯の明るさも変わっていない。それでも、会議室にいる全員が、同じ文章の前で呼吸を浅くしたように感じられた。
奎星はゆっくり、腰から神代榊を抜いた。
古い木。
炎を思わせる彫刻。
手に馴染んだ重さ。
百年以上前、清弦が使っていた杖。
そして今、自分が使っている杖。
「何これ」
声が、思ったより小さくなった。
画面には、まだ文章が残っている。
《名を――》
そこから先だけが、消えていた。
紙が破れている。
墨が滲んだわけではない。
ちょうど名前が書かれていたはずの場所だけが、長い年月の中で擦り切れたように欠け落ちている。文字の前後は残っているのに、そこだけが不自然な空白になっていた。
その先には。
《――という。》
それだけが残っている。
「…………」
奎星は画面を見たまま、神代榊を握る手へ力を込めた。
「そこだけ?」
「ああ」
「読めないの?」
「現状では」
「魔法で戻したり」
「試した」
「無理?」
「無理だ」
「なんで?」
「私に言うな」
「真壁さんが見せたから」
「私が破いたわけではない」
奎星は神代榊を手にしたまま、椅子へ背を預けた。
意味が分からない。
顔が似ている。
無礼。
不躾。
神代榊。
鬼火鳥の羽根。
少年。
百年以上前。
頭の中で一つずつ並べてみる。けれど、並べるほどに、どれも現実味を失っていった。
「……で」
真壁が奎星を見る。
「何か心当たりは?」
「いや」
奎星は即答した。
「あるわけないでしょ、こんなの」
「そうか」
「百年以上前だろ?」
「ああ」
「俺十八だよ?」
「知っている」
「じゃ何で俺に訊くんだよ」
真壁はすぐには答えなかった。
画面の古い文字を見つめたまま、ほんのわずかに目を細める。その沈黙が、奎星には妙に嫌なものとして感じられた。
やがて真壁が言った。
「この文章を読む限り」
「うん」
「君のことではないかと思ってね」
奎星の目が細くなる。
「…………」
数秒。
「顔が似てるって部分?」
「そこもだが」
真壁は淡々と続けた。
「無礼で不躾の部分もだ」
「真壁さん最近棘多くない!?」
「事実との照合だ」
「悪口だろそれ!」
「勇敢とも書いてある」
「そこ先に言ってよ!」
記録局の職員が下を向いた。肩が小さく震えている。
「笑ってる?」
「いえ」
「絶対笑ってるじゃん」
「蓮根君」
真壁が声を戻した。
「話を戻す」
「そっちが逸らしたんだろ……」
奎星はぶつぶつ言いながら、再び画面へ向き直った。
そして、改めて考える。
百年以上前。
清弦。
神代榊。
自分と似た少年。
同じ材料の杖。
どれも単独なら、偶然で片づけられる。
だが、重なってしまうと、偶然という言葉が急に薄くなる。
「つまり」
奎星が言った。
「真壁さんが言いたいのって」
「ああ」
「俺が」
一度、自分を指差す。
「幕末の時代にいたかもしれないってこと?」
真壁はすぐには答えなかった。
奎星の口元が上がる。
「いやいやいや」
自分で言っておきながら、あまりにも馬鹿げていて、笑いが込み上げた。
「そんなわけないだろ」
肩を揺らして笑う。
「俺、戦国時代とか生きてねえし」
「幕末は江戸時代の末期だ」
「そこどうでもいいよ」
「君が言ったんだ」
「分かるだろ、意味」
奎星は椅子の背へ身体を預けたまま、神代榊を掌の上で軽く回した。杖の木肌が、会議室の白い光を受けて鈍く光る。
「いや、ないって」
笑いはまだ残っていた。
「さすがに」
真壁も、今度は少しだけ息を吐いた。
「まあ」
画面へ目を戻す。
「そうだな」
「だろ?」
「現時点で、そう判断するだけの根拠はない」
「ほら」
「似た人物がいた。似た材料の杖を持っていた。それ以上ではない」
「そうそう」
「清弦本人の比喩という可能性もある」
「うん」
「別の蓮根家の人間かもしれん」
「そう」
「記録の誤りも否定できない」
「それ」
奎星は笑いながら、神代榊を腰へ戻そうとした。
「百年以上前の俺とか、いるわけ――」
かち。
音がした。
「…………」
奎星の手が止まった。
真壁も、顔を上げた。
会議室の空調音が、急に遠くなったように感じられる。
かち。
今度は、はっきり聞こえた。
机の中央。
銀色の時計。
K-417。
奎星の喉が、ひどく乾いた。
この音を知っている。
知っているのは、自分だけだ。
「おい」
奎星の声から、笑いが消えた。
かち。
逆転時計の内部で、何かが動いた。
真壁が椅子から立ち上がる。椅子の脚が床を擦り、鋭い音を立てた。
「なんだ?」
「触ってないよな」
「誰も触っていない」
「封印は?」
「生きている」
魔法具管理担当の職員が、慌てて術式へ杖を向けた。銀線で描かれた三重の円が、彼の魔力に反応して白く明滅する。
「三層とも正常です」
「ならなぜ動く」
「分かりません」
かち。
かち。
音が、少しずつ速くなる。
奎星は机から目を離せなかった。時計の蓋は閉じたままだ。外側の環も、まだ動いていない。
それなのに、内部だけが確かに動いている。
「真壁さん」
奎星は低く言った。
「これ」
「ああ」
「ヤバいやつじゃない?」
「下がれ」
「だよな」
奎星が立ち上がった。
その瞬間だった。
「――っ」
右手が熱い。
「…………え?」
奎星は手元を見た。
神代榊。
まだ半分だけ杖入れへ戻しかけていたその杖が、熱を持っていた。
火傷するほどではない。
けれど、はっきり分かる。
掌から。
手首へ。
腕の内側を、血管に沿って熱が走っていく。
知っている。
この感覚を。
鬼火鳥。
森。
夏休み。
あの鳥が近くにいたとき、神代榊は同じように熱を持った。
「……何で」
奎星は杖を抜いた。
炎を思わせる彫刻の溝、その奥に、ごく淡い青白い光が灯る。
「蓮根君」
真壁が奎星を見る。
「杖を置け」
「待って」
「置け」
「違う」
奎星は杖から目を離さなかった。
「これ」
熱い。
そして、わずかに震えている。
何かへ応えるように。
「反応してる」
「何に」
「分かんない」
逆転時計。
清弦の手記。
神代榊。
どれに反応しているのか、奎星には分からなかった。
ただ、三つが同じ部屋に揃った瞬間から、何かが目を覚ましたことだけは分かる。
かち。
かち。
かち。
音がさらに速くなる。
「管理術式、強化!」
「はい!」
職員が杖を構えた。
銀色の封印線が一斉に明るくなる。一重、二重、三重。時計を取り囲む円が強い白光を放ち、机の上へ鋭い影を落とした。
それでも、止まらない。
かちかちかちかち。
「蓮根君、下がれ!」
「下がってる!」
「もっとだ!」
「どこまで!?」
「壁まで!」
「先言えよ!」
奎星は二歩、三歩と後退した。背中が壁へ近づく。靴底が床を擦り、神代榊を握る手に力がこもる。
杖は、ますます熱くなっていた。
「熱っ……」
握れないほどではない。
けれど、明らかに普通ではない。
「何なんだよ、これ……」
かちかちかちかちかち。
時計の針が動き始めた。
一秒。
戻る。
もう一秒。
戻る。
さらに。
戻る。
速い。
今までとは違う。
秒針だけではない。
分針。
時針。
そして、外側の環。
「真壁さん」
「見るな、下がれ!」
「外のやつ!」
真壁の顔が変わった。
外側の環が、誰にも触れられていないのに動いている。
ぎ。
金属が、何かに無理やり押し回されるような音を立てた。
ぎ、ぎぎ。
その音に合わせて、壁面へ映し出されていた清弦の手記が揺らぐ。
古い紙の映像が、一度だけ大きく歪んだ。
「…………?」
奎星の目が、画面へ向く。
名を失った文章。
《名を――》
その空白。
ちょうど、少年の名前があった場所。
そこへ青白い光が走った。
「え」
奎星の口から、声が漏れる。
次の瞬間。
逆転時計が鳴った。
かちり。
これまで聞いたどの音よりも大きく、重い音だった。
まるで、百年以上閉じていた巨大な錠前が、今、ようやく開いたような音。
「蓮根君!!」
真壁の声が飛ぶ。
奎星は反射的に神代榊を握り込んだ。
光が弾ける。
白。
いや。
青。
銀。
すべてが一度に視界へ流れ込んだ。
「――っ!」
床が消えた。
身体が落ちる。
上下が分からない。
音が遠ざかっていく。
真壁の声。
職員の怒声。
封印術式の破裂音。
魔法省の白い壁。
それらが、紙を燃やしたときの灰のように、後ろへ流れていく。
「何だよこれ!」
叫んでも、返事はない。
神代榊だけが、右手の中で燃えるように熱かった。
そして、奎星の意識は途切れた。
*
最初に感じたのは、土の匂いだった。
湿った土。
煙。
木が燃えた匂い。
草の青臭さ。
それから、馬の汗と、どこかで煮炊きしている油の匂い。
知らない匂いが、冷たい空気の中へいくつも混じっている。
「……ん」
奎星は目を開けた。
頬のすぐ横に、地面がある。
白い石床ではない。
土だった。
指を動かすと、爪の間へ湿った泥が入り込んだ。身体を起こした拍子に、制服の袖へ土がつく。
「……真壁さん?」
返事はなかった。
奎星は眉を寄せ、ゆっくりと顔を上げた。
「…………は?」
建物がある。
しかし、魔法省ではない。
木造の家屋。
低い軒。
黒ずんだ瓦屋根。
道は舗装されておらず、雨を含んだ土がところどころ深くえぐれている。そこを草履を履いた人々が歩いていた。
男の腰には刀がある。
少し離れた場所を馬が通り、蹄が土を叩く。荷を積んだ荷車が軋み、笠を被った男がその横を歩いている。着物姿の女が、こちらを見ながら足早に通り過ぎた。
遠くで鐘が鳴った。
ごぉん。
低く、長い音だった。
奎星は立ち上がり、空を見上げた。
電線がない。
飛行魔法具もない。
高い建物も、魔法省の転移塔もない。
あるのは、薄い雲に覆われた空と、煙の向こうへ伸びる屋根の列だけだった。
「何ここ」
声が、ひどく間の抜けたものに聞こえた。
奎星は自分の身体を確かめる。
制服。
ある。
左腕。
銀色の腕時計。
ある。
腰。
杖入れ。
ある。
右手。
神代榊。
握っている。
夢ではない。
靴の裏へ泥がついている。煙が目へ染みる。風が冷たい。頬を撫でる空気には、魔法省の空調とは違う、外の世界の湿り気があった。
何より、周囲の人間が明らかに奎星を見ていた。
制服姿。
見慣れない靴。
左腕の銀時計。
腰に差した杖入れ。
この時代の人間からすれば、奎星はあまりにも異質だった。何人もの人が通り過ぎながら振り返り、子どもが母親の袖を引いて、遠巻きにこちらを指差している。
「……いや」
奎星は自分の服を見下ろした。
「俺が変なの?」
返事はない。
当然だった。
そのとき。
背後から声がした。
「おい」
奎星の肩が跳ねた。
ゆっくり振り返る。
道の向こうに、一人の青年が立っていた。
年は、自分とそう変わらないように見える。着物に袴。髪を後ろで結んでいた。姿勢はまっすぐで、こちらを警戒しているのか、わずかに顎を引いていた。
その青年が、奎星を見ている。
奎星も、青年を見る。
最初に気づいたのは、目元だった。
次に、鼻筋。
口元。
顔立ちが似ている。
似ているというより、知らない人間の顔なのに、自分の顔を別の時間へ置き換えたような不気味さがあった。
二人は、ほとんど同時に眉を寄せた。
「その顔…」
奎星の喉が、小さく鳴った。
さっきまで見ていた古い手記が、頭の中へ蘇る。
《私によく似た顔を持つ少年だった。》
《無礼で、不躾で。》
《それでいて、とても勇敢だった。》
《私の村にある大きな神代榊から作られた杖を使っていた。》
《杖の芯には、鬼火鳥の羽根が使われていた。》
《名を――》
奎星の目が、ゆっくりと見開かれる。
「いや」
青年を見る。
もう一度、周囲を見る。
土の道。
刀。
着物。
馬。
煙。
そして、百年以上前の日本。
「…………マジ?」
誰に訊いたわけでもなかった。
ただ、声が出た。
青年が怪訝そうに眉を寄せる。
「手に持っているそれはなんだ」
「…………」
「お前」
青年が一歩、こちらへ近づいた。
その足元で、湿った土が小さく沈む。
「何者だ?」
奎星は答えられなかった。
まだ知らなかった。
「お前こそ何者だよ」
「私の名は、清弦」
「…あ?」
「蓮根清弦」
自分が立っているこの時代を。
日本が大きく姿を変えようとしていた時代。
古い魔法と新しい魔法が、同じ国の中でぶつかっていた時代。
そして、蓮根清弦が、まだ歴史上の英雄などではなかった時代。
西暦にすれば、十九世紀。
江戸の終わり。
――幕末。
蓮根奎星は、百年以上前へ来てしまった。
マホウトコロ シーズン6 「英雄譚と逆転時計」 完