観測塔を下りた頃には、マホウトコロの夜はすっかり深くなっていた。
山腹を覆う森には湿った夜気が降り、ところどころに置かれた魔法灯が、古い石畳を淡い青色に照らしている。昼間は生徒たちの声で絶えず賑わっている回廊も今は静まり返っており、遠くから聞こえてくる海鳴りと、南硫黄島の夜に棲む虫の声だけが、二人の足音の間を埋めていた。
塔へ向かうとき、奎星はほとんど口を開かなかった。
帰りは違った。
「じゃあさ、第零書庫って本当に地下なの?」
「その質問には答えません」
「でも校長室じゃないって言ったよな」
「言っていません」
「言ったって。『違――』まで聞いた」
「聞き間違いです」
「アロホモラじゃ開かないとも言った」
「それも忘れてください」
「あとスズメちゃん自身が鍵の半分」
スズメが足を止めた。
奎星も二歩ほど先で立ち止まり、振り返る。
「……蓮根君」
「何?」
「先ほどまであれほど深刻に悩んでいた人と同一人物ですか?」
奎星は一瞬だけ黙ったものの、すぐに片方の肩を上げた。
「悩んでるよ、まだ」
その返答だけは、冗談ではなかった。
日向が倒れた光景は消えていないし、自分の杖への怖さも残っている。それでも、先ほどまで森の中で膝を抱えていたときとは違い、今の奎星の足はちゃんと前を向いていた。
「でもさ、スズメちゃんの話聞いてたら、ずっと落ち込んでんのも違うかなって思って」
スズメは何も言わなかった。
奎星は腰へ戻した神代榊の杖へ軽く触れ、それから少し照れくさそうに笑う。
「明日、日向に謝る。それで、あの魔法がなんでああなったかも調べる。あと第零書庫にもいつか入る」
「最後だけ余計ですね」
「全部大事だろ」
「重要度に大きな差があります」
「俺の中では同率一位」
「三つある時点で同率にしないでください」
奎星が笑った。
スズメも、呆れたように息を吐きながら歩き出す。
その二人を、少し離れた校舎の回廊から見ている男がいた。
久我朔弥だった。
柱の影に立ち、窓越しに見える二人の姿を目だけで追っている。
奎星は何かを大袈裟な身振りで話し、スズメは時折それを否定するように首を振っていた。声までは聞こえないが、どんな会話をしているのかは容易に想像できる。
昼間、あれほど打ちのめされていた少年が笑っている。
そして、その隣には烏丸スズメがいる。
「……なるほど」
久我は小さく呟いた。
この一か月、奎星を観察してきた。
異常な魔力量を持ち、異常な速度で魔法を習得する少年。少し褒めればすぐ調子に乗り、教師にも臆せず話しかけるくせに、意外なほど他人からの言葉を素直に受け止める。
その奎星が、最も強く信頼している人物が誰なのか。
もう考えるまでもなかった。
久我の視線が、スズメの小さな背中へ移る。
やがて二人は校舎を抜け、教員寮の前まで来た。
「じゃ、俺こっちだから」
奎星が足を止めた。
スズメも振り返る。
夜風に髪が揺れている。
「明日は、朝比奈君のところへ行くのでしょう?」
「うん」
「逃げないでくださいね」
「逃げねえよ」
「そうですか」
「……たぶん」
「蓮根君」
「嘘嘘! 行くって!」
スズメが眉を寄せるのを見て、奎星は笑った。
それから少しだけ表情を落ち着かせると、頭の後ろを掻きながら視線を逸らした。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「今日さ」
「はい」
奎星は一度言葉を探した。
普段なら何でもそのまま口にする少年が、珍しく少しだけ迷ってから、スズメへ真っ直ぐな顔を向けた。
「ありがとう」
スズメの瞳がわずかに見開かれる。
「俺、たぶん一人だったら、まだあの景色悪いとこで座ってたと思う」
「本当に趣味の悪い場所でしたね」
「そこまだ言う?」
「事実です」
「でも、まあ……ありがと」
今度は誤魔化さなかった。
スズメは少し黙ったあと、目元を柔らかくした。
「どういたしまして」
奎星は満足そうに頷く。
「じゃ、おやすみ。スズメちゃん」
「烏丸先生です。おやすみなさい、蓮根君」
「明日はちゃんと起きるから勝手に入んなよ」
「その言葉は三十日ほど聞いています」
「明日は本当!」
「期待しないでおきます」
「信用ねえな!」
笑いながら手を振り、奎星は自分の部屋へ続く道を歩いていった。
スズメはしばらくその背中を見ていたが、やがて自分も教員寮へ入っていく。
少し離れた暗がりでは、久我が一連の様子を黙って見ていた。
その穏やかな顔から、笑みだけが消えていた。
一時間後。
校舎のさらに奥、夜間にはほとんど誰も立ち入らない高等魔法理論準備室に、久我は一人でいた。
窓には厚い遮光布が降ろされ、扉には内側から鍵が掛けられている。机の上には何も置かれておらず、唯一、中央に黒い水を張った浅い銀盆だけがあった。
久我は室内を確認してから杖を抜き、銀盆の縁を三度軽く叩いた。
黒い水面に波紋が広がる。
やがて鏡のように滑らかになった水面へ、一人の男の姿が浮かび上がった。
薄暗い部屋。
背後には、黒曜石を削り出したような円環の紋章が見える。
その中央に座っている男は、年齢さえ判然としなかった。
長い黒髪の中には白いものが混じっていたが、顔には老いらしい老いがない。白い肌に細い目、病的なほど静かな表情をしており、濃い紫の和装の上から黒い羽織をまとっている。
神代冥司。
日本魔法界で、表立ってその名を口にする者は多くない。
闇の魔法使いたちが集う秘密結社、黒曜の環。
その中心にいる男だった。
「久我」
水面から聞こえる声は、ひどく穏やかだった。
久我は先ほどまで生徒へ向けていた柔らかな教師の顔を消し、深く頭を下げた。
「ご無沙汰しております、神代様」
「報告を」
「はい」
久我は姿勢を戻す。
「マホウトコロへ新たに編入した生徒について、少々興味深いことが判明しました。蓮根奎星、十七歳。一か月ほど前に遅発性の魔力覚醒を起こした少年で、測定時に魔力量五千を突破し――」
「久我」
神代が遮った。
声量は変わっていない。
怒鳴ってもいない。
それなのに、久我の背筋が目に見えない手で撫でられたように冷えた。
「私は、そのようなつまらないことを調べさせるために、あなたをマホウトコロへ送り込んだのでしたか?」
「……いいえ」
久我の喉が僅かに動く。
「学校の結界についても、現在――」
「それも聞いていません」
神代はゆっくり椅子の背へ身体を預けた。
水面越しにも分かるほど、瞳には温度がなかった。
「私が欲しいものは一つです」
久我の指先へ力が入る。
「第零書庫に眠る、古代魔術書」
「承知しております」
「本当に?」
神代の声は柔らかい。
だからこそ、怖かった。
「あなたは優秀な方です、久我。魔法理論に精通し、他人の懐へ入るのも上手い。教員という立場もよく似合っている」
一見すれば褒めている。
しかし久我の額には、薄く汗が浮かび始めていた。
「ですが」
神代が僅かに微笑んだ。
「あなた以外にも、代わりはいるのですよ」
空気が重くなる。
久我は無意識に息を浅くした。
彼は知っている。
黒曜の環で「代わりがいる」という言葉が、単なる配置転換を意味しないことを。
これまでにもいた。
結果を出せなかった者。
余計なことを知りすぎた者。
命令より自分の研究を優先した者。
ある日を境に、その名が一切出なくなった人間が。
「……申し訳ありません」
久我は深く頭を下げた。
「第零書庫へ入庫できるのは、現在九重院紫苑と烏丸スズメの二名のみです。九重院校長へ直接手を出すのは危険が大きいと判断し、烏丸先生への接触を続けております」
「断られているそうですね」
「はい」
「では、頼むのをやめればよろしい」
久我の瞳が僅かに動いた。
神代は、あまりにも当然のことを言うように続ける。
「あなたはお願いをするために、そこへ行ったのではありません」
「……承知しました」
「次に連絡をいただくときは」
神代が目を細めた。
「書庫の中からであることを期待していますよ」
黒い水面が揺れた。
神代の姿が消える。
何も映さなくなった銀盆を前に、久我はしばらく動かなかった。
やがて、大きく息を吐いた。
額の汗を指で拭う。
「……簡単に言ってくれますね」
普段の彼なら、もう少し余裕のある笑みを見せただろう。
今は、その口元が引きつっていた。
しかし。
しばらくすると。
久我の脳裏に、先ほど見た光景が浮かんだ。
観測塔から帰ってきた奎星。
その隣にいたスズメ。
「烏丸先生」
久我は暗い窓へ映る自分へ向けるように呟いた。
「あなたは、生徒を見捨てられない人ですからね」
翌朝。
医務棟の廊下を歩く奎星の足取りは、昨日の夜とは比べものにならないほど重かった。
起きたのは六時半だった。
スズメに起こされるより先に目が覚め、布団の中で十五分ほど天井を見つめてから、朝食も普段の半分しか食べなかった。
天ぷらが心配そうに顔を覗き込んだほどだった。
「レンコン、ゴハンスクナイ」
「蓮根な」
それだけは訂正した。
医務室の前まで来る。
白い扉。
手を上げる。
ノックしようとして止まる。
「…………」
心臓が速い。
御影と戦うときより。
初めてクラスへ入ったときより。
遥かに緊張する。
奎星は一度、目を閉じた。
昨日。
スズメに言った。
一人で行く。
なら。
行かなければならない。
こんこん。
「はい」
中から声がした。
楓だった。
奎星は扉を開く。
「……おはよ」
そして。
固まった。
病室の中では。
日向と楓が喧嘩していた。
「だから俺は今日退院できるって!」
「藤森先生が最低でも午前中は安静にしろって言ったでしょう!」
「背中ちょっとぶつけただけだって!」
「意識失った人間の『ちょっと』を誰が信じるのよ!」
「もう痛くねえよ!」
「じゃあ背中見せなさい!」
「なんで脱がそうとすんだよ!」
「患部見るだけでしょう!」
「朝から積極的すぎる!」
「殺すわよ!」
楓が枕を投げた。
日向が避ける。
枕が扉の前に立っている奎星の顔へ直撃した。
「ぶっ」
二人が止まる。
「…………」
奎星は顔から枕を外した。
「元気そうでよかったよ」
日向の目が丸くなる。
「奎星」
楓も表情を変えた。
昨日泣き腫らしたせいか、目元がほんの少し赤い。
「……おはよう」
「おはよ」
一気に静かになった。
奎星は気まずそうに病室へ入り、扉を閉める。
日向の背中には治療用の薄い固定帯が巻かれているものの、顔色は悪くない。ベッドの上に胡座をかいている姿だけを見れば、昨日気を失って運び込まれた人間には見えなかった。
「背中、大丈夫?」
「藤森先生が朝治してくれた。筋肉と背骨の周りにちょっと損傷あったらしいけど、もう魔法でほとんど塞がってる」
「ちょっとじゃないでしょう」
楓が睨む。
「こいつ朝からずっとこれなんだよ」
日向が奎星へ助けを求める。
「俺が元気なのがそんな気に食わない?」
「十二年間で今日が一番腹立つ」
「幼馴染の無事を喜べよ!」
「幼馴染じゃない!」
「そこまだ否定すんの!?」
いつもの二人だった。
そのことが。
奎星には。
たまらなく嬉しかった。
昨日から胸の底に沈んでいた硬いものが、ほんの少しだけ溶ける。
それでも。
言わなければならない。
奎星は二人を見る。
「日向。楓」
二人の会話が止まる。
奎星は頭を下げた。
「ごめん」
今度は。
病室が本当に静かになった。
「俺の魔法で、二人とも危ない目に遭わせた」
日向が何か言おうとする。
奎星は続けた。
「わざとじゃないとか、魔力ちゃんと絞ったとか、そういうのはあるんだけど……でも、俺が撃ったのは本当だから」
両手が。
少し震えている。
「日向が目覚まさないの見て、マジで怖かった」
楓の目が僅かに揺れた。
「楓にも」
奎星は頭を下げたまま言う。
「ごめん」
数秒。
返事がない。
奎星にとっては。
ひどく長く感じられた。
やがて。
「奎星」
日向の声がした。
奎星が顔を上げる。
日向は。
呆れたような顔をしていた。
「お前、昨日からそれ考えてた?」
「……うん」
「馬鹿だなあ」
「は?」
日向はベッドから身を乗り出すと、奎星の肩を拳で軽く叩いた。
「友達だろ」
奎星が黙る。
「お前が俺を狙って撃ったなら、まあ一発殴るけど」
「一発なの?」
楓が訊く。
「二発くらい」
「増えた」
「でも違うんだろ?」
日向は笑う。
「なら終わり」
「いや、でも」
「じゃあお前、俺が箒でミスってお前に突っ込んだら、一生許さない?」
奎星は考える。
「お前なら一回殴って許す」
「ほら」
「殴るんだ」
楓が呟く。
日向は奎星の肩から手を離す。
「事故だったんだろ。だったら、原因調べて次やらないようにすりゃいいじゃん」
その言葉が。
昨日のスズメと重なった。
奎星は少しだけ目を伏せた。
「……うん」
楓も立ち上がる。
「私も、怒ってないわよ」
奎星が彼女を見る。
「昨日は、日向が起きなかったから頭が真っ白になってただけ」
「泣いてたもんな」
日向が言った。
楓の顔が一瞬で赤くなる。
「うるさい!」
「俺の名前めっちゃ呼んで――」
「忘れなさい!」
「無理!」
「忘却術かけるわよ!」
「お前それ禁止されてるから!」
奎星が噴き出した。
「お前らマジで朝からうるせえな」
日向が笑う。
「お前もな」
楓も口元を緩める。
昨日までなら。
その笑顔を見るだけで胸が痛んだだろう。
今は。
少しだけ。
戻ってきた気がした。
いつもの五人に。
「で」
日向が奎星を指差す。
「次の決闘、俺な」
「え?」
「楓とだけやってんのずるい」
楓が呆れる。
「あなた昨日あんな目に遭って、まだやる気なの?」
「だって楽しそうじゃん」
奎星の口元も上がる。
「いいけど、負けても泣くなよ」
「一か月の初心者が何言ってんだ」
「お前には勝てる」
「言ったな?」
「言った」
「今からやる?」
藤森の声が背後から飛んできた。
「やりません」
三人が同時に答えた。
病室の外。
扉の横。
壁へ背を預けていたスズメは、静かに目を閉じた。
彼についていかない。
昨日、そう約束した。
だから部屋には入らなかった。
ただ。
少しだけ心配だった。
中から聞こえてくる三人の笑い声に、スズメの頬が柔らかく緩む。
「……よかったですね」
誰にも聞こえない声で呟く。
そのまま踵を返した。
昼休み前。
スズメは教員棟へ向かっていた。
腕には、昨日起きた事故についてまとめた資料が数冊抱えられている。
御影が調べた魔力残滓の記録。
藤森の医療報告。
奎星の過去一か月分の魔力出力データ。
どれを見ても。
妙だった。
「蓮根君が出した量ではない……」
歩きながら資料の一頁へ目を落とす。
御影の測定では、奎星の呪文は発動直前まで通常のエクスペリアームスと同程度の出力だった。
異常が起きたのは。
発動した瞬間。
まるで外部から何かが、魔力だけを急激に膨らませたような。
「烏丸先生」
声をかけられた。
スズメが顔を上げる。
廊下の先に久我が立っていた。
「久我先生」
「ちょうどよかった」
いつもの穏やかな笑顔だった。
「昨日の事故について、少し気になるものを見つけまして」
スズメの目が細くなる。
「何でしょう?」
「魔力増幅に関する古い術式です。高等魔法理論の保管資料の中に、昨日の残留波形と似たものがありました」
スズメの表情が変わった。
「見せていただけますか」
「もちろんです」
久我は柔らかく微笑み、廊下の奥を示した。
「こちらへ」
連れて行かれたのは、高等魔法理論の資料保管室だった。
普段の授業では使わない部屋で、壁一面に古い本棚が並び、床には複雑な幾何学模様が薄く刻まれている。
スズメは室内へ入る。
「どの資料ですか?」
後ろで。
扉が閉まった。
かちり。
鍵が掛かる。
スズメが振り返った。
久我は扉の前に立っていた。
笑っている。
その笑顔を見た瞬間。
スズメの右手が杖へ伸びた。
遅かった。
床の文様が黒く光る。
「っ……!」
身体中へ。
鋭い痛みが走った。
脚から力が抜け、スズメは片膝を床へついた。
「久我、先生……?」
杖を抜こうとする。
腕が動かない。
黒い光が細い鎖のように床から伸び、小柄な身体へ絡みついている。
魔力を流そうとするたび。
皮膚の下を焼くような痛みが走った。
「申し訳ありません」
久我は静かに近づく。
「あなたは警戒心が強いので、普通にお願いしても無駄でしょうから」
スズメの目に、いつもの冷静さが戻る。
「……何が目的です」
久我は彼女の前でしゃがむ。
「分かっているでしょう?」
答えを聞く前から。
スズメの表情が硬くなった。
「第零書庫へ連れていってください」
「お断りします」
即答だった。
久我は笑う。
「予想通りですね」
「こんなことをして、ただで済むと思っているのですか」
「思っていませんよ」
「では今すぐ術を解除してください」
「それはできません」
久我は立ち上がる。
「私も、あまり乱暴なことはしたくありません」
「すでに十分乱暴ですが」
「では、もう少し分かりやすく申し上げましょう」
久我の笑みから。
温度が消えた。
「案内してください」
スズメは睨み返す。
「嫌です」
「そうですか」
久我は少し考えるように首を傾げた。
「なら、生徒に協力してもらいましょう」
スズメの瞳が。
僅かに揺れる。
久我はそれを見逃さなかった。
「二年二組は、随分賑やかな子たちが揃っていますね」
「……」
「水無瀬さん。岩戸君。榊君。それに朝比奈君」
スズメの手が床を掴む。
「生徒に手を出すつもりなら――」
「昨日程度のことでは済みませんよ」
久我が言った。
「朝比奈君のような、軽い怪我では」
スズメの表情が。
完全に変わった。
「…………」
久我は。
失言をしたわけではない。
むしろ。
わざと言った。
「あなた」
スズメの声が低くなる。
普段の淡々とした声ではなかった。
「昨日の事故を……知っているのですか」
「教師ですから」
「そうではありません」
スズメが顔を上げる。
眼差しが。
鋭く久我を射抜いた。
「あの魔力増幅」
一瞬。
御影の資料が頭を過ぎる。
発動直前までは正常。
発動時のみ異常増幅。
そして高等魔法理論。
増幅術式。
「……あなたがやったのですか」
久我は答えなかった。
ただ。
笑った。
それで十分だった。
スズメの顔から。
血の気が引く。
次の瞬間。
怒りが。
浮かんだ。
はっきりと。
これまで奎星が一度も見たことのないほど。
「あなたが……」
拘束を忘れ、立ち上がろうとする。
黒い鎖が強く光った。
「っ――!」
痛みが身体を貫く。
スズメが床へ手をつく。
それでも。
久我から目を逸らさない。
「あなたが蓮根君の魔法を……!」
「正確には、ほんの少し増幅しただけです」
「ほんの少し?」
スズメの声が震えた。
「朝比奈君は意識を失いました!」
「もう元気だそうですね」
「そういう問題ではありません!」
スズメが怒鳴った。
久我の目が僅かに見開く。
普段、ほとんど声を荒らげない女だった。
「蓮根君は自分の魔法を怖がった! 自分が友人を傷つけたと思って、杖を持つことさえ怖がっていたんですよ!」
「……」
「それを」
スズメの指が震えている。
痛みのせいだけではない。
「あなたが仕組んだ?」
久我は数秒黙ったあと。
小さく笑った。
「やはり、ずいぶん彼を気に入っているのですね」
「関係ありません」
「ありますよ」
久我はスズメの前へしゃがむ。
「あなたは、生徒を守りたい」
視線が合う。
「だからこそ、私にはあなたが必要なのです」
「何を――」
「第零書庫は、単に場所を知っていれば入れる書庫ではない」
スズメの瞳が僅かに揺れる。
「入庫資格を持つ人間そのものが、鍵の一部になっている」
昨夜。
観測塔で。
奎星に漏らした言葉。
――スズメちゃん自身が鍵?
――半分だけ。
スズメの背中に冷たいものが走る。
久我は知らないはずだ。
少なくとも。
昨夜の会話は。
「さあ」
久我が立ち上がる。
「案内してください」
スズメは唇を噛んだ。
「断れば?」
「次は、生徒を使います」
「卑怯ですね」
「よく言われます」
一瞬。
奎星の顔が浮かんだ。
楓。
日向。
岳。
伊織。
下級課程の小さな子供たち。
何も知らず。
今も校舎のどこかで授業を受けている。
「……分かりました」
久我が微笑む。
「賢明です」
「ただし、生徒には絶対に手を出さないでください」
「あなた次第です」
拘束が僅かに緩む。
スズメはゆっくり立ち上がった。
足に力が入らない。
久我が杖を振ると、黒い鎖が細くなり、手首と足首に見えない拘束だけを残した。
外から見れば。
ただ二人の教師が並んで歩いているように見える。
「杖を」
久我が言う。
スズメは渡さない。
「不要でしょう」
「烏丸先生」
黒い拘束が。
僅かに締まった。
「っ……」
スズメは顔を歪めながらも、最後まで久我を睨んだ。
やがて。
腰から杖を抜き。
差し出す。
久我は受け取った。
「ありがとうございます」
「返事をする気にもなりません」
「元気で安心しました」
二人は部屋を出た。
昼休み前の校舎は、人が少なかった。
授業中のため、回廊にはほとんど誰もいない。
久我はスズメの半歩後ろを歩き、常に杖が届く距離を保っている。
スズメは歩きながら考えていた。
逃げるのは難しい。
杖がない。
拘束術は、下手に破ろうとすれば身体を痛める。
鴉への変身もできない。
声を上げれば。
久我が何をするか分からない。
それでも。
何か。
残さなければならない。
九重院なら、いずれ自分がいなくなったことに気づく。
御影も。
だが。
第零書庫の入口へ辿り着けるとは限らない。
現在。
外から入庫できるのは。
自分と校長だけ。
そして。
昨夜。
入口について。
ほんの少しだけ知った人間がいる。
スズメの目が。
僅かに動いた。
「どうしました?」
背後から久我が尋ねる。
「何でもありません」
歩き続ける。
やがて、二人は一般の生徒がほとんど使わない古い回廊へ入った。
その先には。
昨夜。
奎星と二人で歩いた道へ繋がる分岐がある。
スズメは袖口へ指を入れた。
折り鶴。
いつも伝書に使うものではない。
何の魔法も掛かっていない。
ただの小さな白い紙。
久我から見えないよう、指先だけで開く。
歩きながら。
爪で。
短い言葉を書く。
インクなどない。
紙へ残るのは、爪で押しつけた僅かな跡だけ。
それでいい。
スズメは曲がり角を通過する瞬間。
指の間から。
紙を落とした。
音もなく。
石床へ滑る。
久我は気づかない。
白い紙には。
たった一行。
こう刻まれていた。
悩むなら、景色の良いところで。
普通の人間が読めば。
何の意味もない。
御影にも。
九重院にも。
薬師寺にも。
意味は分からない。
しかし。
一人だけ。
昨日の夜。
スズメから初めて秘密の場所を教えてもらった少年だけは。
分かる。
「こちらです」
スズメが言った。
声はいつもの落ち着きを取り戻している。
久我は彼女の横顔を見た。
「ずいぶん冷静ですね」
「騒いでも状況は変わりませんから」
「さすが記録局出身だ」
スズメの目が冷たくなる。
「あなたに言われたくありません」
二人は古い石段を上った。
昨夜。
奎星と歩いた道。
蔦に覆われた門。
その先。
夜には月と星の下にあった古い観測塔が、今は昼の光の中へ静かに立っている。
久我が塔を見上げた。
「ここですか」
スズメは答えず、重い扉を開く。
螺旋階段を上る。
けれど。
最上部へは行かなかった。
途中。
本来なら何もないはずの踊り場で、スズメは足を止めた。
壁には、古びた天体図が埋め込まれている。
太陽。
月。
そして。
七つの星。
久我の目が細くなる。
「なるほど」
スズメは振り返った。
「ここから先に入れば、戻れない可能性があります」
「私を心配してくださるのですか?」
「まさか」
スズメの顔に。
ごく薄い笑みが浮かぶ。
「警告です」
久我の笑顔も深くなった。
「進んでください」
スズメは壁へ手を触れた。
何も起きない。
次に。
「私の杖を」
久我が少し警戒する。
「必要なのですか?」
「私自身だけで開くなら、あなたは私の杖を奪う必要もなかったでしょう」
昨夜。
奎星に言った。
自分自身が鍵なのは。
半分だけ。
久我は数秒考え。
スズメの杖を差し出した。
ただし。
手を離さない。
「一緒に持ちましょう」
「随分慎重ですね」
「褒め言葉として受け取ります」
二人の手が。
同じ杖に触れる。
スズメは杖先を。
天体図の中央。
月と太陽の間へ置いた。
そして。
目を閉じる。
ほんの僅かな魔力を。
流した。
壁に描かれた七つの星が。
順番に光る。
一つ。
二つ。
三つ。
最後の星が青く灯ると。
塔全体の奥深くから。
低い音が響いた。
ごごご、と。
石が擦れる。
天体図の壁が。
ゆっくり。
左右へ開いていく。
その向こうにあったのは。
下へ続く階段だった。
光はない。
果てが見えないほど。
深い。
地下から。
古い紙と。
湿った石と。
何か焼けたような匂いが。
ゆっくり昇ってくる。
久我の瞳に。
抑えきれない光が宿った。
「……第零書庫」
スズメは答えなかった。
背後。
遥か下。
観測塔へ続く石畳の途中では。
一枚の白い紙が。
風に飛ばされないよう。
石の隙間へ引っかかっている。
そこに刻まれた言葉を。
まだ。
誰も見つけていない。
スズメは暗い階段を見る。
昨夜。
奎星が言った。
――いっぱい勉強するから、スズメちゃんの見てるものを俺も見たい。
いつか。
そう言われた。
だから。
こんな形で。
先に誰かを連れてくるつもりなど。
なかった。
「烏丸先生」
久我の声が背後から届く。
「行きましょう」
スズメは一度だけ。
観測塔の入口がある方角へ目を向けた。
そして心の中で。
一人の生徒の名前を呼ぶ。
蓮根君。
昨日は。
私があなたを見つけました。
だから。
今度は。
「……見つけてください」
久我が眉を上げる。
「何か?」
スズメは前を向いた。
「何でもありません」
暗闇へ。
一歩を踏み出す。
久我が続く。
二人の姿が階段の奥へ消えると。
背後の石壁は。
ゆっくりと。
音を立てながら閉じていった。
そして。
第零書庫の入口は。
何事もなかったかのように。
古い天体図へ戻った。