マホウトコロ   作:西野圭吾

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第11話 鍵

 

観測塔を下りた頃には、マホウトコロの夜はすっかり深くなっていた。

 

山腹を覆う森には湿った夜気が降り、ところどころに置かれた魔法灯が、古い石畳を淡い青色に照らしている。昼間は生徒たちの声で絶えず賑わっている回廊も、今は静まり返っていた。遠くから聞こえる海鳴りと、南硫黄島の夜に棲む虫の声だけが、二人の足音の間を埋めている。

 

塔へ向かうとき、奎星はほとんど口を開かなかった。

 

けれど、帰り道は違った。

 

「じゃあさ、第零書庫って本当に地下なの?」

 

「その質問には答えません」

 

「でも、校長室じゃないって言ったよな」

 

「言っていません」

 

「言ったって。『違――』まで聞いた」

 

「聞き間違いです」

 

「アロホモラじゃ開かないとも言った」

 

「それも忘れてください」

 

「あと、スズメちゃん自身が鍵の半分」

 

スズメが足を止めた。

 

奎星も二歩ほど先で立ち止まり、振り返る。

 

「……蓮根君」

 

「何?」

 

「先ほどまであれほど深刻に悩んでいた人と、同一人物ですか?」

 

奎星は一瞬だけ黙ったものの、すぐに片方の肩を上げた。

 

「悩んでるよ。まだ」

 

その返答だけは、冗談ではなかった。

 

日向が倒れた光景は、今も奎星の脳裏から消えていない。自分の杖を握ることへの怖さも残っている。それでも、先ほどまで森の中で膝を抱えていたときとは違い、今の奎星の足はちゃんと前を向いていた。

 

「でもさ、スズメちゃんの話を聞いてたら、ずっと落ち込んでんのも違うかなって思って」

 

スズメは何も言わなかった。

 

奎星は腰へ戻した神代榊の杖へ軽く触れ、それから少し照れくさそうに笑う。

 

「明日、日向に謝る。それで、あの魔法がなんでああなったのかも調べる。あと、第零書庫にもいつか入る」

 

「最後だけ余計ですね」

 

「全部大事だろ」

 

「重要度に大きな差があります」

 

「俺の中では同率一位」

 

「三つある時点で、同率一位とは言いません」

 

奎星が笑った。

 

スズメも呆れたように息を吐きながら、再び歩き出す。

 

その二人を、少し離れた校舎の回廊から見ている男がいた。

 

久我朔弥だった。

 

柱の影に立ち、窓越しに見える二人の姿を目だけで追っている。

 

奎星は何かを大袈裟な身振りで話し、スズメは時折、それを否定するように首を振っていた。声までは聞こえないが、どんな会話をしているのかは容易に想像できる。

 

昼間、あれほど打ちのめされていた少年が笑っている。

 

そして、その隣には烏丸スズメがいる。

 

「……なるほど」

 

久我は小さく呟いた。

 

この一か月、奎星を観察してきた。

 

異常な魔力量を持ち、異常な速度で魔法を習得する少年。少し褒めればすぐ調子に乗り、教師にも臆せず話しかけるくせに、意外なほど他人の言葉を素直に受け止める。

 

その奎星が、最も強く信頼している人物が誰なのか。

 

もう考えるまでもなかった。

 

久我の視線が、スズメの小さな背中へ移る。

 

やがて二人は校舎を抜け、教員寮の前まで来た。

 

「じゃ、俺こっちだから」

 

奎星が足を止めた。

 

スズメも振り返る。夜風に髪が揺れている。

 

「明日は、朝比奈君のところへ行くのでしょう?」

 

「うん」

 

「逃げないでくださいね」

 

「逃げねえよ」

 

「そうですか」

 

「……たぶん」

 

「蓮根君」

 

「嘘、嘘! 行くって!」

 

スズメが眉を寄せるのを見て、奎星は笑った。

 

それから少しだけ表情を落ち着かせると、頭の後ろを掻きながら視線を逸らした。

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「今日さ」

 

「はい」

 

奎星は一度、言葉を探した。

 

普段なら何でもそのまま口にする少年が、珍しく迷っている。やがて彼は、スズメへ真っ直ぐな顔を向けた。

 

「ありがとう」

 

スズメの瞳が、わずかに見開かれる。

 

「俺、たぶん一人だったら、まだあの景色の悪いところで座ってたと思う」

 

「本当に趣味の悪い場所でしたね」

 

「そこ、まだ言う?」

 

「事実です」

 

「でも、まあ……ありがと」

 

今度は誤魔化さなかった。

 

スズメは少し黙ったあと、目元を柔らかくした。

 

「どういたしまして」

 

奎星は満足そうに頷く。

 

「じゃ、おやすみ。スズメちゃん」

 

「烏丸先生です。おやすみなさい、蓮根君」

 

「明日はちゃんと起きるから、勝手に入んなよ」

 

「その言葉は、三十日ほど聞いています」

 

「明日は本当!」

 

「期待しないでおきます」

 

「信用ねえな!」

 

笑いながら手を振り、奎星は自分の部屋へ続く道を歩いていった。

 

スズメはしばらくその背中を見ていたが、やがて自分も教員寮へ入っていく。

 

少し離れた暗がりでは、久我が一連の様子を黙って見ていた。

 

その穏やかな顔から、笑みだけが消えていた。

 

一時間後。

 

校舎のさらに奥、夜間にはほとんど誰も立ち入らない高等魔法理論準備室に、久我は一人でいた。

 

窓には厚い遮光布が降ろされ、扉には内側から鍵が掛けられている。机の上には何も置かれておらず、中央に黒い水を張った浅い銀盆だけがあった。

 

久我は室内を確認してから杖を抜き、銀盆の縁を三度軽く叩いた。

 

黒い水面に波紋が広がる。

 

やがて水面が鏡のように滑らかになると、そこへ一人の男の姿が浮かび上がった。

 

薄暗い部屋。その背後には、黒曜石を削り出したような円環の紋章が見える。

 

中央に座っている男は、年齢さえ判然としなかった。

 

長い黒髪には白いものが混じっていたが、顔には老いらしい老いがない。白い肌に細い目、病的なほど静かな表情。濃い紫の和装の上から、黒い羽織をまとっている。

 

神代冥司(かみしろめいじ)。

 

日本魔法界で、表立ってその名を口にする者は多くない。

 

闇の魔法使いたちが集う秘密結社、黒曜の環。その中心にいる男だった。

 

「久我」

 

水面から聞こえる声は、ひどく穏やかだった。

 

久我は先ほどまで生徒へ向けていた柔らかな教師の顔を消し、深く頭を下げる。

 

「ご無沙汰しております、神代様」

 

「報告を」

 

「はい」

 

久我は姿勢を戻した。

 

「マホウトコロへ新たに編入した生徒について、少々興味深いことが判明しました。蓮根奎星、十七歳。一か月ほど前に遅発性の魔力覚醒を起こした少年で、測定時に魔力量五千を突破し――」

 

「久我」

 

神代が遮った。

 

声量は変わっていない。怒鳴ってもいない。

 

それなのに、久我の背筋が目に見えない手で撫でられたように冷えた。

 

「私は、そのようなつまらないことを調べさせるために、あなたをマホウトコロへ送り込んだのでしたか?」

 

「……いいえ」

 

久我の喉が僅かに動く。

 

「学校の結界についても、現在――」

 

「それも聞いていません」

 

神代はゆっくり椅子の背へ身体を預けた。水面越しにも分かるほど、瞳には温度がない。

 

「私が欲しいものは一つです」

 

久我の指先へ力が入る。

 

「第零書庫に眠る、古代魔術書」

 

「承知しております」

 

「本当に?」

 

神代の声は柔らかい。

 

だからこそ、怖かった。

 

「あなたは優秀な方です、久我。魔法理論に精通し、他人の懐へ入るのも上手い。教員という立場もよく似合っている」

 

一見すれば褒めている。

 

しかし久我の額には、薄く汗が浮かび始めていた。

 

「ですが」

 

神代が僅かに微笑む。

 

「あなた以外にも、代わりはいるのですよ」

 

空気が重くなる。

 

久我は無意識に息を浅くした。

 

彼は知っている。

 

黒曜の環で「代わりがいる」という言葉が、単なる配置転換を意味しないことを。

 

これまでにもいた。

 

結果を出せなかった者。

 

余計なことを知りすぎた者。

 

命令より自分の研究を優先した者。

 

ある日を境に、その名が一切出なくなった人間が。

 

「……申し訳ありません」

 

久我は深く頭を下げた。

 

「第零書庫へ入庫できるのは、現在、九重院紫苑と烏丸スズメの二名のみです。九重院校長へ直接手を出すのは危険が大きいと判断し、烏丸先生への接触を続けております」

 

「断られているそうですね」

 

「はい」

 

「では、頼むのをやめればよろしい」

 

久我の瞳が僅かに動いた。

 

神代は、あまりにも当然のことを言うように続ける。

 

「あなたはお願いをするために、そこへ行ったのではありません」

 

「……承知しました」

 

「次に連絡をいただくときは」

 

神代が目を細めた。

 

「書庫の中からであることを期待していますよ」

 

黒い水面が揺れた。

 

神代の姿が消える。

 

何も映さなくなった銀盆を前に、久我はしばらく動かなかった。

 

やがて、大きく息を吐き、額の汗を指で拭う。

 

「……簡単に言ってくれますね」

 

普段の彼なら、もう少し余裕のある笑みを見せただろう。

 

今は、その口元が引きつっていた。

 

しかし、しばらくすると、久我の脳裏に先ほど見た光景が浮かんだ。

 

観測塔から帰ってきた奎星。

 

その隣にいたスズメ。

 

「烏丸先生」

 

久我は暗い窓へ映る自分へ向けるように呟いた。

 

「あなたは、生徒を見捨てられない人ですからね」

 

翌朝。

 

医務棟の廊下を歩く奎星の足取りは、昨日の夜とは比べものにならないほど重かった。

 

起きたのは六時半だった。

 

スズメに起こされるより先に目が覚め、布団の中で十五分ほど天井を見つめてから、朝食も普段の半分しか食べなかった。天ぷらが心配そうに顔を覗き込んだほどである。

 

「レンコン、ゴハンスクナイ」

 

「蓮根な」

 

それだけは訂正した。

 

医務室の前まで来る。

 

白い扉へ手を伸ばし、ノックしようとして止まった。

 

心臓が速い。

 

御影と戦うときより、初めてクラスへ入ったときより、遥かに緊張している。

 

奎星は一度、目を閉じた。

 

昨日、スズメに言った。

 

一人で行く。

 

なら、行かなければならない。

 

こんこん。

 

「はい」

 

中から声がした。

 

奎星は扉を開ける。

 

「……おはよ」

 

そして、固まった。

 

病室の中では、日向と楓が喧嘩をしていた。

 

「だから俺は今日退院できるって!」

 

「藤森先生が、最低でも午前中は安静にしろって言ったでしょう!」

 

「背中をちょっとぶつけただけだって!」

 

「意識を失った人間の『ちょっと』を誰が信じるのよ!」

 

「もう痛くねえよ!」

 

「じゃあ背中を見せなさい!」

 

「なんで脱がそうとするんだよ!」

 

「患部を見るだけでしょう!」

 

「朝から積極的すぎる!」

 

「殺すわよ!」

 

楓が枕を投げた。

 

日向が避ける。

 

枕は扉の前に立っていた奎星の顔へ直撃した。

 

「ぶっ」

 

二人が止まる。

 

奎星は顔から枕を外した。

 

「元気そうでよかったよ」

 

日向の目が丸くなる。

 

「奎星」

 

楓も表情を変えた。

 

昨日泣き腫らしたせいか、目元がほんの少し赤い。

 

「……おはよう」

 

「おはよ」

 

一気に静かになった。

 

奎星は気まずそうに病室へ入り、扉を閉める。

 

日向の背中には治療用の薄い固定帯が巻かれているものの、顔色は悪くない。ベッドの上に胡座をかいている姿だけを見れば、昨日気を失って運び込まれた人間には見えなかった。

 

「背中、大丈夫?」

 

「藤森先生が朝治してくれた。筋肉と背骨の周りにちょっと損傷があったらしいけど、もう魔法でほとんど塞がってる」

 

「ちょっとじゃないでしょう」

 

楓が睨む。

 

「こいつ、朝からずっとこれなんだよ」

 

日向が奎星へ助けを求める。

 

「俺が元気なのが、そんなに気に食わない?」

 

「十二年間で今日が一番腹立つ」

 

「幼馴染の無事を喜べよ!」

 

「幼馴染じゃない!」

 

「そこ、まだ否定すんの!?」

 

いつもの二人だった。

 

そのことが、奎星にはたまらなく嬉しかった。

 

昨日から胸の底に沈んでいた硬いものが、ほんの少しだけ溶ける。

 

それでも、言わなければならない。

 

奎星は二人を見る。

 

「日向。楓」

 

二人の会話が止まる。

 

奎星は頭を下げた。

 

「ごめん」

 

今度は、病室が本当に静かになった。

 

「俺の魔法で、二人とも危ない目に遭わせた」

 

日向が何か言おうとする。

 

奎星は続けた。

 

「わざとじゃないとか、魔力をちゃんと絞ったとか、そういうのはあるんだけど……でも、俺が撃ったのは本当だから」

 

両手が少し震えている。

 

「日向が目を覚まさないのを見て、マジで怖かった」

 

楓の目が僅かに揺れた。

 

「楓にも」

 

奎星は頭を下げたまま言う。

 

「ごめん」

 

数秒、返事がなかった。

 

奎星にとっては、ひどく長く感じられた。

 

やがて、日向の声がした。

 

「奎星」

 

奎星が顔を上げる。

 

日向は呆れたような顔をしていた。

 

「お前、昨日からそれ考えてた?」

 

「……うん」

 

「馬鹿だなあ」

 

「は?」

 

日向はベッドから身を乗り出すと、奎星の肩を拳で軽く叩いた。

 

「友達だろ」

 

奎星が黙る。

 

「お前が俺を狙って撃ったなら、まあ一発殴るけど」

 

「一発なの?」

 

楓が訊く。

 

「二発くらい」

 

「増えた」

 

「でも違うんだろ?」

 

日向は笑う。

 

「なら終わり」

 

「いや、でも」

 

「じゃあお前、俺が箒でミスってお前に突っ込んだら、一生許さない?」

 

奎星は考えた。

 

「お前なら一回殴って許す」

 

「ほら」

 

「殴るんだ」

 

楓が呟く。

 

日向は奎星の肩から手を離した。

 

「事故だったんだろ。だったら、原因を調べて次やらないようにすりゃいいじゃん」

 

その言葉が、昨日のスズメと重なった。

 

奎星は少しだけ目を伏せる。

 

「……うん」

 

楓も立ち上がった。

 

「私も、怒ってないわよ」

 

奎星が彼女を見る。

 

「昨日は、日向が起きなかったから頭が真っ白になってただけ」

 

「泣いてたもんな」

 

日向が言った。

 

楓の顔が一瞬で赤くなる。

 

「うるさい!」

 

「俺の名前、めっちゃ呼んで――」

 

「忘れなさい!」

 

「無理!」

 

「忘却術をかけるわよ!」

 

「お前、それ禁止されてるから!」

 

奎星が噴き出した。

 

「お前ら、マジで朝からうるせえな」

 

日向が笑う。

 

「お前もな」

 

楓も口元を緩める。

 

昨日までなら、その笑顔を見るだけで胸が痛んだだろう。

 

今は、少しだけ戻ってきた気がした。

 

いつもの五人に。

 

「で」

 

日向が奎星を指差す。

 

「次の決闘、俺な」

 

「え?」

 

「楓とだけやってんの、ずるい」

 

楓が呆れる。

 

「あなた、昨日あんな目に遭って、まだやる気なの?」

 

「だって楽しそうじゃん」

 

奎星の口元も上がる。

 

「いいけど、負けても泣くなよ」

 

「一か月の初心者が何言ってんだ」

 

「お前には勝てる」

 

「言ったな?」

 

「言った」

 

「今からやる?」

 

藤森の声が背後から飛んできた。

 

「やりません」

 

三人が同時に答えた。

 

病室の外、扉の横の壁へ背を預けていたスズメは、静かに目を閉じた。

 

彼についていかない。

 

昨日、そう約束した。

 

だから部屋には入らなかった。

 

ただ、少しだけ心配だった。

 

中から聞こえてくる三人の笑い声に、スズメの頬が柔らかく緩む。

 

「……よかったですね」

 

誰にも聞こえない声で呟く。

 

そのまま踵を返した。

 

昼休み前。

 

スズメは教員棟へ向かっていた。

 

腕には、昨日起きた事故についてまとめた資料が数冊抱えられている。御影が調べた魔力残滓の記録、藤森の医療報告、奎星の過去一か月分の魔力出力データ。

 

どれを見ても、妙だった。

 

「蓮根君が出した量ではない……」

 

歩きながら資料の一頁へ目を落とす。

 

御影の測定では、奎星の呪文は発動直前まで通常のエクスペリアームスと同程度の出力だった。

 

異常が起きたのは、発動した瞬間。

 

まるで外部から何かが、魔力だけを急激に膨らませたような波形だった。

 

「烏丸先生」

 

声をかけられた。

 

スズメが顔を上げる。

 

廊下の先に久我が立っていた。

 

「久我先生」

 

「ちょうどよかった」

 

いつもの穏やかな笑顔だった。

 

「昨日の事故について、少し気になるものを見つけまして」

 

スズメの目が細くなる。

 

「何でしょう?」

 

「魔力増幅に関する古い術式です。高等魔法理論の保管資料の中に、昨日の残留波形と似たものがありました」

 

スズメの表情が変わった。

 

「見せていただけますか」

 

「もちろんです」

 

久我は柔らかく微笑み、廊下の奥を示した。

 

「こちらへ」

 

連れて行かれたのは、高等魔法理論の資料保管室だった。

 

普段の授業では使わない部屋で、壁一面に古い本棚が並び、床には複雑な幾何学模様が薄く刻まれている。

 

スズメは室内へ入った。

 

「どの資料ですか?」

 

背後で、扉が閉まった。

 

かちり。

 

鍵が掛かる。

 

スズメが振り返った。

 

久我は扉の前に立っていた。

 

笑っている。

 

その笑顔を見た瞬間、スズメの右手が杖へ伸びた。

 

遅かった。

 

床の文様が黒く光る。

 

「っ……!」

 

身体中へ鋭い痛みが走った。

 

脚から力が抜け、スズメは片膝を床へつく。

 

杖を抜こうとする。

 

腕が動かない。

 

黒い光が細い鎖のように床から伸び、小柄な身体へ絡みついている。魔力を流そうとするたび、皮膚の下を焼くような痛みが走った。

 

「久我、先生……?」

 

「申し訳ありません」

 

久我は静かに近づく。

 

「あなたは警戒心が強いので、普通にお願いしても無駄でしょうから」

 

スズメの目に、いつもの冷静さが戻る。

 

「……何が目的です」

 

久我は彼女の前でしゃがんだ。

 

「分かっているでしょう?」

 

答えを聞く前から、スズメの表情が硬くなった。

 

「第零書庫へ連れていってください」

 

「お断りします」

 

即答だった。

 

久我は笑う。

 

「予想通りですね」

 

「こんなことをして、ただで済むと思っているのですか」

 

「思っていませんよ」

 

「では、今すぐ術を解除してください」

 

「それはできません」

 

久我は立ち上がった。

 

「私も、あまり乱暴なことはしたくありません」

 

「すでに十分乱暴ですが」

 

「では、もう少し分かりやすく申し上げましょう」

 

久我の笑みから、温度が消えた。

 

「案内してください」

 

スズメは睨み返す。

 

「嫌です」

 

「そうですか」

 

久我は少し考えるように首を傾げた。

 

「なら、生徒に協力してもらいましょう」

 

スズメの瞳が僅かに揺れる。

 

久我はそれを見逃さなかった。

 

「二年二組は、随分賑やかな子たちが揃っていますね」

 

「……」

 

「水無瀬さん。岩戸君。榊君。それに朝比奈君」

 

スズメの手が床を掴む。

 

「生徒に手を出すつもりなら――」

 

「昨日程度のことでは済みませんよ」

 

久我が言った。

 

「朝比奈君のような、軽い怪我では」

 

スズメの表情が完全に変わった。

 

「…………」

 

久我は、失言をしたわけではない。

 

むしろ、わざと言った。

 

「あなた」

 

スズメの声が低くなる。

 

普段の淡々とした声ではなかった。

 

「昨日の事故を……知っているのですか」

 

「教師ですから」

 

「そうではありません」

 

スズメが顔を上げる。

 

眼差しが鋭く久我を射抜いた。

 

「あの魔力増幅」

 

一瞬、御影の資料が頭を過ぎる。

 

発動直前までは正常。

 

発動時のみ異常増幅。

 

そして高等魔法理論。

 

増幅術式。

 

「……あなたがやったのですか」

 

久我は答えなかった。

 

ただ、笑った。

 

それで十分だった。

 

スズメの顔から血の気が引く。

 

次の瞬間、怒りが浮かんだ。

 

はっきりと。

 

これまで奎星が一度も見たことのないほどの怒りだった。

 

「あなたが……」

 

拘束を忘れ、立ち上がろうとする。

 

黒い鎖が強く光った。

 

「っ――!」

 

痛みが身体を貫く。

 

スズメが床へ手をつく。

 

それでも、久我から目を逸らさない。

 

「あなたが蓮根君の魔法を……!」

 

「正確には、ほんの少し増幅しただけです」

 

「ほんの少し?」

 

スズメの声が震えた。

 

「朝比奈君は意識を失いました!」

 

「もう元気だそうですね」

 

「そういう問題ではありません!」

 

スズメが怒鳴った。

 

久我の目が僅かに見開かれる。

 

普段、ほとんど声を荒らげない女だった。

 

「蓮根君は自分の魔法を怖がった! 自分が友人を傷つけたと思って、杖を持つことさえ怖がっていたのですよ!」

 

「……」

 

「それを」

 

スズメの指が震えている。

 

痛みのせいだけではない。

 

「あなたが仕組んだ?」

 

久我は数秒黙ったあと、小さく笑った。

 

「やはり、ずいぶん彼を気に入っているのですね」

 

「関係ありません」

 

「ありますよ」

 

久我はスズメの前へしゃがむ。

 

「あなたは、生徒を守りたい」

 

視線が合う。

 

「だからこそ、私にはあなたが必要なのです」

 

「何を――」

 

「第零書庫は、単に場所を知っていれば入れる書庫ではない」

 

スズメの瞳が僅かに揺れる。

 

「入庫資格を持つ人間そのものが、鍵の一部になっている」

 

昨夜、奎星に漏らした言葉。

 

――スズメちゃん自身が鍵?

 

――半分だけ。

 

スズメの背中に冷たいものが走る。

 

久我は知らないはずだ。

 

少なくとも、昨夜の会話は。

 

「さあ」

 

久我が立ち上がる。

 

「案内してください」

 

スズメは唇を噛んだ。

 

「断れば?」

 

「次は、生徒を使います」

 

「卑怯ですね」

 

「よく言われます」

 

一瞬、奎星の顔が浮かんだ。

 

楓。

 

日向。

 

岳。

 

伊織。

 

下級課程の小さな子供たち。

 

何も知らず、今も校舎のどこかで授業を受けている。

 

「……分かりました」

 

久我が微笑む。

 

「賢明です」

 

「ただし、生徒には絶対に手を出さないでください」

 

「あなた次第です」

 

拘束が僅かに緩む。

 

スズメはゆっくり立ち上がった。足に力が入らない。

 

久我が杖を振ると、黒い鎖が細くなり、手首と足首に見えない拘束だけを残した。

 

外から見れば、ただ二人の教師が並んで歩いているように見える。

 

「杖を」

 

久我が言う。

 

スズメは渡さない。

 

「不要でしょう」

 

「烏丸先生」

 

黒い拘束が僅かに締まった。

 

「っ……」

 

スズメは顔を歪めながらも、最後まで久我を睨んだ。

 

やがて腰から杖を抜き、差し出す。

 

久我は受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「返事をする気にもなりません」

 

「元気で安心しました」

 

二人は部屋を出た。

 

昼休み前の校舎は、人が少なかった。

 

授業中のため、回廊にはほとんど誰もいない。

 

久我はスズメの半歩後ろを歩き、常に杖が届く距離を保っている。

 

スズメは歩きながら考えていた。

 

逃げるのは難しい。

 

杖がない。

 

拘束術は、下手に破ろうとすれば身体を痛める。

 

鴉への変身もできない。

 

声を上げれば、久我が何をするか分からない。

 

それでも、何か残さなければならない。

 

九重院なら、いずれ自分がいなくなったことに気づく。

 

御影も。

 

だが、第零書庫の入口へ辿り着けるとは限らない。

 

現在、外から入庫できるのは自分と校長だけ。

 

そして昨夜、入口についてほんの少しだけ知った人間がいる。

 

スズメの目が僅かに動いた。

 

「どうしました?」

 

背後から久我が尋ねる。

 

「何でもありません」

 

歩き続ける。

 

やがて二人は、一般の生徒がほとんど使わない古い回廊へ入った。

 

その先には、昨夜、奎星と二人で歩いた道へ繋がる分岐がある。

 

スズメは袖口へ指を入れた。

 

折り鶴。

 

いつも伝書に使うものではない。何の魔法も掛かっていない、ただの小さな白い紙だった。

 

久我から見えないよう、指先だけで開く。

 

歩きながら、爪で短い言葉を書く。

 

インクなどない。

 

紙へ残るのは、爪で押しつけた僅かな跡だけ。

 

それでいい。

 

スズメは曲がり角を通過する瞬間、指の間から紙を落とした。

 

音もなく、石床へ滑る。

 

久我は気づかない。

 

白い紙には、たった一行が刻まれていた。

 

悩むなら、景色の良いところで。

 

普通の人間が読めば、何の意味もない。

 

御影にも、九重院にも、薬師寺にも意味は分からない。

 

しかし、一人だけ。

 

昨日の夜、スズメから初めて秘密の場所を教えてもらった少年だけは分かる。

 

「こちらです」

 

スズメが言った。

 

声はいつもの落ち着きを取り戻している。

 

久我は彼女の横顔を見た。

 

「ずいぶん冷静ですね」

 

「騒いでも状況は変わりませんから」

 

「さすが記録局出身だ」

 

スズメの目が冷たくなる。

 

「あなたに言われたくありません」

 

二人は古い石段を上った。

 

昨夜、奎星と歩いた道。

 

蔦に覆われた門。

 

その先には、夜には月と星の下にあった古い観測塔が、今は昼の光の中へ静かに立っている。

 

久我が塔を見上げた。

 

「ここですか」

 

スズメは答えず、重い扉を開く。

 

螺旋階段を上る。

 

けれど、最上部へは行かなかった。

 

途中、本来なら何もないはずの踊り場で、スズメは足を止めた。

 

壁には、古びた天体図が埋め込まれている。

 

太陽。

 

月。

 

そして、七つの星。

 

久我の目が細くなる。

 

「なるほど」

 

スズメは振り返った。

 

「ここから先に入れば、戻れない可能性があります」

 

「私を心配してくださるのですか?」

 

「まさか」

 

スズメの顔に、ごく薄い笑みが浮かぶ。

 

「警告です」

 

久我の笑顔も深くなった。

 

「進んでください」

 

スズメは壁へ手を触れた。

 

何も起きない。

 

次に、久我へ手を差し出す。

 

「私の杖を」

 

久我が少し警戒する。

 

「必要なのですか?」

 

「私自身だけで開くなら、あなたは私の杖を奪う必要もなかったでしょう」

 

昨夜、奎星に言った。

 

自分自身が鍵なのは、半分だけ。

 

久我は数秒考えたあと、スズメの杖を差し出した。

 

ただし、手を離さない。

 

「一緒に持ちましょう」

 

「随分慎重ですね」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

二人の手が、同じ杖に触れる。

 

スズメは杖先を天体図の中央、月と太陽の間へ置いた。

 

そして目を閉じる。

 

ほんの僅かな魔力を流した。

 

壁に描かれた七つの星が、順番に光る。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

最後の星が青く灯ると、塔全体の奥深くから低い音が響いた。

 

ごごご、と石が擦れる。

 

天体図の壁が、ゆっくり左右へ開いていく。

 

その向こうにあったのは、下へ続く階段だった。

 

光はない。

 

果てが見えないほど深い。

 

地下から、古い紙と湿った石、それから何かが焼けたような匂いが、ゆっくり昇ってくる。

 

久我の瞳に、抑えきれない光が宿った。

 

「……第零書庫」

 

スズメは答えなかった。

 

背後、遥か下の観測塔へ続く石畳の途中では、一枚の白い紙が風に飛ばされないよう、石の隙間へ引っかかっている。

 

そこに刻まれた言葉を、まだ誰も見つけていない。

 

スズメは暗い階段を見る。

 

昨夜、奎星が言った。

 

――いっぱい勉強するから、スズメちゃんの見てるものを俺も見たい。

 

いつか、そう言われた。

 

だから、こんな形で先に誰かを連れてくるつもりなどなかった。

 

「烏丸先生」

 

久我の声が背後から届く。

 

「行きましょう」

 

スズメは一度だけ、観測塔の入口がある方角へ目を向けた。

 

そして心の中で、一人の生徒の名前を呼ぶ。

 

蓮根君。

 

昨日は、私があなたを見つけました。

 

だから、今度は。

 

「……見つけてください」

 

久我が眉を上げる。

 

「何か?」

 

スズメは前を向いた。

 

「何でもありません」

 

暗闇へ、一歩を踏み出す。

 

久我が続く。

 

二人の姿が階段の奥へ消えると、背後の石壁はゆっくりと音を立てながら閉じていった。

 

そして第零書庫の入口は、何事もなかったかのように古い天体図へ戻った。

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