マホウトコロ   作:西野圭吾

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シーズン7 幕末と常世返し
第1話 レイワという国


「蓮根清弦」

 

 その名を聞いた瞬間、奎星は言葉を失った。

 

 曇った空の下、湿った土の道を行き交っていた人々の足音が、妙に遠く聞こえた。軒を低くした木造の家々。黒ずんだ瓦。風に揺れる藍染めの暖簾。荷車の車輪が泥へ沈み、馬の蹄が水溜まりを踏むたびに、濁った雫が道端へ散っている。どこかの家から立ち上る薪の煙と、煮炊きの油の匂いが、雨上がりの冷えた空気に混じっていた。

 

 その風景の中で、目の前の青年だけが異様なほど鮮明だった。

 

 着物に袴。後ろで結ばれた黒髪。年齢は自分とそう変わらない。少し青白い顔には険しい警戒が浮かんでいる。

 

 そして、似ていた。

 

 鏡を見るような瓜二つではない。それでも目元や鼻筋、眉を寄せたときの顔つきには、他人では片づけにくいものがある。

 

「…………マジかよ」

 

 思わず奎星が呟く。

 

 清弦は、そんな彼の感想を無視した。

 

 青年の視線が奎星の顔から制服へ移り、腰の杖入れへ落ちる。そこに収まっている神代榊を見て、さらに目を細めた。

 

「妙な装束だ」

 

「制服だよ」

 

「せいふく?」

 

「あー……そこからか」

 

 奎星が額を押さえた。

 

 当然である。百年以上前の人間にマホウトコロの制服が通じるはずもない。しかし、理解していることと、それを実際に突きつけられることは別だった。

 

 清弦は少しだけ奎星の周囲を回り込んだ。獣の正体でも見極めるように、慎重に。

 

「それに……」

 

「何だよ」

 

「私によく顔が似ている」

 

「それは俺も思ってる」

 

「まさか」

 

 清弦の目が鋭くなる。

 

「妖怪か?」

 

「何でそうなるんだよ!」

 

 道を歩いていた数人が足を止めた。

 

 奎星は周囲から向けられた視線に気づき、慌てて声を落とす。

 

「ち、ちげえよ! 俺の名前は蓮根奎星!」

 

 今度は清弦が黙った。

 

「…………蓮根?」

 

「そう。蓮根」

 

「私の家族に、お前のような者はいない」

 

「俺だっていねえよ!」

 

 会話が始まって一分も経っていないのに、もう疲れた。

 

 清弦の警戒はむしろ強くなっていた。眉間の皺が一つ増え、奎星の腰にある杖をじっと見ている。

 

「貴様、どこから来た」

 

「東京だよ、東京!」

 

「トーキョー……?」

 

「あ」

 

 奎星の口が止まった。

 

 清弦も止まった。

 

 近くで聞いていた男が、怪訝そうに首を傾げる。

 

 奎星は数秒、空を見た。電線の一本もない。遠くでまた鐘が鳴り、馬が鼻を鳴らした。

 

「あー……違う。えっと」

 

 知っている昔の地名を頭の中から引っ張り出す。

 

「江戸だ! 江戸!」

 

「江戸?」

 

「そう! 令和の江戸!」

 

「レイワだと……?」

 

「違う待て。今の忘れて」

 

「江戸なのか、レイワなのか」

 

「東京!」

 

「トーキョーとは何だ」

 

「だから東京は昔の江戸で、でも今は江戸じゃなくて東京で、令和は場所じゃなくて時代で……」

 

「時代?」

 

「俺も今、自分で何言ってるか分かんなくなってきた!」

 

 喋れば喋るほど、清弦の顔から理解が消えていく。

 

 最後には、最初より明らかに怪しいものを見る目になっていた。

 

「名前は私の家のもの。顔も似ている。見たことのない装束を着て、存在しない土地と時代から来たと言う」

 

「言い方!」

 

「しかも妙な杖を持っている」

 

「妙じゃねえよ。めちゃくちゃ大事な杖だぞ」

 

「やはり」

 

 清弦が一歩退いた。

 

「妖怪だ! みんな退け!」

 

「ちげえって!!」

 

 周囲にいた人々の動きは早かった。

 

 店先にいた男が暖簾の中へ引っ込み、荷物を抱えた老婆は道の端まで下がり、様子を見ていた子供は母親に抱き寄せられた。ほんの数秒で、奎星と清弦の周囲だけがぽっかりと空く。

 

「清弦が戦うぞ」

 

「離れろ」

 

「巻き込まれるぞ」

 

「いや待って! 話聞いて!」

 

 誰も戻ってこない。

 

 奎星は一人、道の中央へ残された。

 

 清弦はさらに数歩後ろへ下がった。

 

「な、何するつもりだよ……」

 

 清弦は答えなかった。

 

 両手が胸の前へ上がる。

 

 指が組まれた。

 

 最初、奎星は何をしているのか分からなかった。杖を抜かない。呪文も、現代の学校で教わったものとはまるで違う。

 

 右手と左手の指が、複雑に形を変えていく。

 

 一つ。

 

 二つ。

 

 三つ。

 

 清弦の唇が動き始めた。

 

 聞いたことのない古い響きだった。小さな声なのに、言葉が落ちるたび、周囲の空気が薄く震える。

 

 奎星の顔から、少しずつ笑いが消えた。

 

「…………」

 

 何かがおかしい。

 

 魔力そのものなら、もっと桁外れなものを知っている。

 

 御影と何百回も訓練した。神代冥司とも戦った。黒曜の門の向こうで、普通なら一生遭遇しないような魔法をいくつも見た。

 

 だからこそ分かった。

 

 これは、そのどれとも違う。

 

 空気の中から魔力を集めているのではない。清弦の身体だけから出ているようにも見えない。

 

 足の下。

 

 もっと深い場所。

 

 土の奥に流れている何かが、ごく僅かに揺れた。

 

「な、なんかやばそう」

 

 清弦の右手が、白く光った。

 

「やばそうじゃねえな」

 

 光が膨らむ。

 

「やばいわ、これ」

 

 次の瞬間。

 

 清弦が掌を突き出した。

 

 音が消えた。

 

「馬鹿っ──!」

 

 奎星は考えるより先に神代榊を抜いていた。

 

「プロテゴ!」

 

 白銀の防壁が正面へ展開される。

 

 直後、清弦の掌から放たれた力が激突した。

 

 轟音。

 

 道の両脇に吊られていた暖簾が一斉に跳ね上がった。土埃が壁のように噴き上がり、近くに置かれていた空の木箱が何個も転がる。衝撃を受けた防壁が大きく撓み、奎星の両足が泥の上を後方へ滑った。

 

「っ……!」

 

 重い。

 

 盾越しに身体の骨まで震えた。

 

 押し出す。ただそれだけの魔法だった。

 

 なのに、単純だからこそ逃げ場がない。

 

「マジかよ……!」

 

 神代榊を握る手に力を込める。

 

 防壁の表面に光の亀裂が走った。

 

 一歩。

 

 さらに半歩。

 

 靴底が泥を削る。

 

 制服の裾が後ろへ激しくなびき、頬を細かな砂が叩いた。

 

 これまで受けてきたどの攻撃とも違う。少なくとも、真正面から盾へ叩きつけられた一撃としては、今まで経験したことのない威力だった。

 

「うおおおっ……!」

 

 それでも、盾は割れなかった。

 

 やがて。

 

 圧力が、途切れた。

 

 土埃だけが遅れて道を流れていく。

 

「…………」

 

 奎星はしばらく神代榊を構えたまま動かなかった。

 

 耳の奥がきん、と鳴っている。

 

「……何だよ、今の」

 

 返事がない。

 

「おい」

 

 煙の向こうを見る。

 

 清弦が立っていた。

 

 いや。

 

 立っていたのは、ほんの一瞬だった。

 

「……え」

 

 膝が折れた。

 

 そのまま身体が前へ傾く。

 

「おい!」

 

 奎星は慌てて防壁を消した。

 

 泥を蹴る。

 

 倒れる寸前の清弦の肩を掴み、その身体を受け止めた。

 

「何なんだよ、お前……!」

 

 返事はなかった。

 

 顔色が悪い。

 

 さっきまでも青白いとは思っていたが、間近で見れば異常だった。呼吸は荒く、額には冷たい汗が浮いている。

 

 奎星は眉を寄せ、清弦の額へ手を当てた。

 

「熱っ!」

 

 思わず手を離しかける。

 

 ひどい熱だった。

 

「お前、この状態であんなの撃ったのかよ!?」

 

 当然、返事はない。

 

「妖怪よりお前のほうが怖えよ……」

 

 周囲から、少しずつ人が戻ってきた。

 

 ただし誰も近くまでは来ない。

 

 奎星は倒れた清弦と、その向こうにいる村人たちを交互に見た。

 

「…………仕方ねえな」

 

 神代榊を杖入れへ戻す。

 

 しゃがみ込み、清弦の腕を自分の肩へ回した。身体を背中へ引き上げる。

 

「重っ」

 

 同じくらいの体格である。当然だった。

 

「誰か、こいつの家知ってるやついる?」

 

 何人かが顔を見合わせた。

 

 そのときだった。

 

 からり、と木の戸が開く音がした。

 

「ありがとうございました」

 

 道沿いの店から、一人の少女が出てきた。

 

 小さな包みを両腕に抱えている。淡い色の着物。後ろでまとめた長い黒髪。年は奎星や清弦より少し下にも見える。店の者へ頭を下げてから道へ出て、何気なくこちらを見た。

 

 そして。

 

 止まった。

 

「…………清弦?」

 

 包みが腕の中でずれる。

 

「清弦!?」

 

 少女が走った。

 

「大丈夫!? どうしたの!?」

 

「いや、こいつが勝手に──」

 

 少女の手が清弦の額へ触れた。

 

 顔色が変わる。

 

「また魔法を使ったの!?」

 

「またって何?」

 

 少女はそこで初めて、清弦を背負っている人間をまともに見た。

 

「…………」

 

 奎星を見る。

 

 背中の清弦を見る。

 

 また奎星を見る。

 

「え」

 

「ん?」

 

「き、清弦が二人……?」

 

「増えてねえよ!」

 

 少女は目を瞬かせた。

 

「でも、お顔が……」

 

「だからそれは……!」

 

 どう説明しても面倒なことになる。

 

 それだけは、この短時間でよく分かった。

 

「とりあえず、こいつの家どこ? 熱すげえんだけど」

 

「あ……はい。私が案内します」

 

 少女はすぐに表情を改めた。

 

 包みを抱え直し、深く頭を下げる。

 

「清弦を助けてくださって、ありがとうございます」

 

「いや、助けたっていうか……こいつが俺に魔法撃って勝手に倒れたんだけど」

 

「…………」

 

「俺、悪くないよな?」

 

「清弦なら、あり得ます」

 

「信用ないな、あいつ」

 

 奎星の背中で、意識のない清弦が少し揺れた。

 

 少女が申し訳なさそうに笑う。

 

「私は白川鈴と申します」

 

「あ、俺は……」

 

 奎星の口が止まった。

 

 蓮根。

 

 そう言えば、また説明が始まる。

 

 清弦と同じ名字。似た顔。存在しない東京。令和。

 

 ここからさらに何か足したら、本当に妖怪として討伐されかねない。

 

「奎星。奎星でいい」

 

「奎星様ですね」

 

「…………様」

 

 悪くない。

 

 奎星の口元が少し緩んだ。

 

「悪くない気分だけど、奎星でいいよ」

 

「ですが」

 

「鈴ちゃんでいい?」

 

「え?」

 

 今度は鈴が足を止めた。

 

「駄目?」

 

「い、いえ……」

 

 少し困ったように奎星を見る。

 

 その顔にはまだ戸惑いがあった。

 

 けれど、不思議と強い警戒はない。

 

 目の前の少年は見たこともない衣服を着て、聞いたこともない言葉を口にし、突然現れた。それでも、清弦を背負って歩いている。その顔もまた、あまりにも清弦によく似ていた。

 

「……構いません」

 

「よし。じゃ鈴ちゃん」

 

「もう呼ぶんですね」

 

「許可もらったし」

 

 鈴は少しだけ笑った。

 

 清弦の故郷だという村は、町外れからさらにしばらく歩いた先にあった。

 

 道は次第に細くなり、家並みも途切れた。左右には水を張った田が広がり、雨を含んだ畦の草が濃い緑をしている。遠くの山は低い雲に半ば隠れ、その裾へ沿うように夕方の薄い靄が流れていた。

 

 ときおり農具を担いだ男とすれ違う。誰もが奎星の制服を見て、それから背中の清弦を見て、最後にもう一度奎星の顔を見る。

 

「兄弟かい?」

 

「違います」

 

 一人目には普通に答えた。

 

「清弦の兄さんか?」

 

「違うって」

 

 二人目には少し強くなった。

 

「あらまあ。よく似た兄弟だこと」

 

「違ぇよ!」

 

 三人目には叫んだ。

 

 鈴が口元を押さえている。

 

「笑ってる?」

 

「いえ」

 

「絶対笑ってるじゃん」

 

「少しだけ」

 

「正直だな鈴ちゃん」

 

 背中の清弦は依然として熱かった。

 

 村へ近づく頃には、空の色がだいぶ落ちていた。低い家々の屋根から細い煙が立ち、夕餉を作る匂いが風へ流れている。庭先では子供が木の枝を刀にして遊び、井戸端では女たちが桶を並べて話していた。

 

 百年以上前。

 

 その言葉は頭では理解していた。

 

 けれど、こうして人の暮らしの中を歩いていると、初めて重さを持つ。

 

 ここにいる人間は誰も、電話を知らない。

 

 電車も知らない。

 

 マホウトコロも、今の魔法省も知らない。

 

 自分が生まれるまで、まだ百年以上ある。

 

 奎星は左腕を少し動かした。

 

 銀色の腕時計は、何事もなかったように秒を刻み続けている。

 

 正しい時刻なのかどうかさえ、もう分からなかった。

 

「こちらです」

 

 鈴の声で顔を上げる。

 

 村の奥に、一軒の古い家があった。

 

 派手な家ではない。板塀の向こうに小さな庭があり、軒の深い木造の家屋が静かに建っている。縁側の端には乾燥させた薬草らしき束が吊られ、土間の近くには薪が積まれていた。

 

 家へ入るなり、鈴は迷いなく動いた。

 

 清弦を奥の部屋へ寝かせ、桶へ水を汲み、布を冷やす。棚から乾いた葉を取り出して湯へ入れ、火鉢の位置を調整する。

 

 奎星は最初の数分こそ手伝おうとしたが、

 

「それをこちらへ」

 

「これ?」

 

「そちらではなく、その隣です」

 

「これ?」

 

「それです」

 

「最初から指差してよ」

 

「指差しました」

 

「俺から見て右だった」

 

「私から見ても右です」

 

「じゃ何で間違えたんだ俺」

 

「私に聞かれても……」

 

 結果として、ほとんど鈴がやった。

 

 奎星は部屋の隅へ座り、少しだけ反省した。

 

「俺、邪魔?」

 

「……そんなことありません」

 

「今ちょっと間あったよね」

 

「ありません」

 

 布団の中で、清弦の眉が動いた。

 

「…………」

 

 ゆっくりと目が開く。

 

 天井を見る。

 

 次に、枕元にいる鈴を見る。

 

 最後に。

 

 その向こうへ座っている奎星を見た。

 

 清弦の目が一気に覚めた。

 

「鈴! 下がれ!」

 

「うわっ」

 

 身体を起こそうとする。

 

「清弦!」

 

「そいつから離れろ!」

 

「おい、もう何もしねえって……」

 

 奎星は呆れて言った。

 

「妖怪かもしれん!」

 

「まだ言ってんの!?」

 

 ぱこん。

 

 乾いた音がした。

 

 鈴の手が、清弦の頭を叩いていた。

 

「っ……」

 

「この人はあなたを助けてくれたのよ!」

 

「…………」

 

「町からここまで、ずっと背負って!」

 

「…………」

 

「それなのに妖怪って何!?」

 

「いや、しかし」

 

「しかも、また魔法を使ったでしょう!」

 

 清弦が黙った。

 

 先ほどまで奎星へ向けていた鋭い眼光が、目に見えて弱くなる。

 

「使ったのね?」

 

「……必要だった」

 

「何が必要なの!」

 

「妖怪がいたから……」

 

「妖怪じゃねえって!」

 

 奎星が怒鳴る。

 

「妖怪なら、あなたを村まで背負ってこないでしょう」

 

 鈴が言う。

 

「もっと言ってやって、鈴ちゃん」

 

「鈴ちゃん?」

 

 清弦の目が奎星へ向く。

 

「何だよ」

 

「いつからその呼び方を」

 

「さっき」

 

「近くないか?」

 

「お前より先に仲良くなった」

 

「意味が分からん」

 

「俺の方がなんの意味も分かってない」

 

「二人とも静かにしてください」

 

「はい」

 

「……すまん」

 

 二人とも黙った。

 

 鈴は大きく息を吐いた。

 

 しばらくして、清弦が布団の上で姿勢を正した。

 

 まだ顔色は悪い。それでも、先ほどとは違い、奎星へ向けた目から敵意は消えていた。

 

「先ほどは、申し訳なかった」

 

 頭を下げる。

 

 あまりにも真面目な謝罪だったので、奎星のほうが少し困った。

 

「いや……まあ。防げたし」

 

「殺すつもりはなかった」

 

「ホントかよ」

 

「加減はした」

 

「嘘つけ!」

 

「本当だ」

 

「もっと怖えよ!」

 

 鈴が目を閉じた。

 

「清弦」

 

「……すまん」

 

 二度目の謝罪は、鈴へ向けられた。

 

 奎星は何となく笑う。

 

 こうして話してみると、英雄という感じはまるでしなかった。

 

 後世の資料に書かれていた蓮根清弦は、もっと大きな人間に思えた。近代魔法史の重要人物。霊脈を解放した魔法使い。魔法界を変えた英雄。

 

 けれど、目の前にいる清弦は、熱を出して布団へ寝かされ、幼馴染らしい少女に頭を叩かれている。

 

 奎星は、その事実を少しだけ面白いと思った。

 

「しかし」

 

 清弦が奎星を見る。

 

「やはり妙だ」

 

「何が」

 

「顔だ。ここまで私に似た人間は見たことがない」

 

「それは俺も思ってる」

 

 奎星は自分の頬へ触れた。

 

 清弦を見る。

 

 もう一度、自分の鼻先を指差す。

 

「先祖と子孫って、こんな似るもんなの?」

 

「何?」

 

「あ」

 

 奎星の口が止まった。

 

「えっとな」

 

 どこから話せばいいのか分からない。

 

 東京から来た。

 

 違う。

 

 令和から来た。

 

 もっと違う。

 

 目の前の男は、自分が生きている時代から百五十年以上前の人間で、自分の先祖で、未来では英雄として記録に残っている。

 

 しかも、ついさっきまで自分は魔法省にいた。

 

 銀色の時計が動き、神代榊が熱を持ち、次の瞬間には土の上へ落ちていた。

 

 どこから説明しても怪しい。

 

「俺、多分……未来から来た」

 

 結局、一番怪しいところから言った。

 

 沈黙。

 

 清弦が鈴を見る。

 

 鈴も清弦を見る。

 

 奎星を見る。

 

「ほらその顔やめろよ!」

 

「続けてくれ」

 

「今絶対また妖怪だと思っただろ」

 

「まだ何も言っていない」

 

「顔に出てんだよ!」

 

 奎星は神代榊を抜いた。

 

 清弦が反射的に身構え、鈴がその額を押さえつける。

 

「寝てて」

 

「……はい」

 

「何もしねえよ」

 

 奎星は杖を二人へ見せる。

 

「これ、神代榊っていう杖なんだけど」

 

 清弦の表情が変わった。

 

「神代榊?」

 

「知ってんの?」

 

「村の奥にある」

 

「あるの!?」

 

 今度は奎星が身を乗り出した。

 

「大きいの!?」

 

「あ、ああ」

 

「マジか!」

 

「近い」

 

「あ、ごめん」

 

 座り直す。

 

「で、俺の時代だと、この杖は俺が使ってる。んで、魔法省ってとこに逆転時計っていう、時間を戻す魔法具があって」

 

「魔法省?」

 

「逆転時計?」

 

「そこ説明すると長いから飛ばす」

 

「待て」

 

「で、その時計と、この杖と、お前が未来に残した手記が一緒になったら、何か急に時計が暴走して」

 

「私が残した?」

 

「そこも今から!」

 

「今から?」

 

「ああもう!」

 

 奎星は頭を抱え直した。

 

「大丈夫です。なんとなくわかりました」

 

 鈴が言って、奎星は嬉しそうな顔をする。

 

「本当に? 俺説明向いてなくない?」

 

「それも少し分かりました」

 

 鈴が静かに言った。

 

「おい!!」

 

 それでも、時間をかけて話した。

 

 百五十年以上先の時代から来たこと。

 

 その時代では江戸が東京という名になっていること。

 

 自分はそこで生まれ、今は魔法学校へ通っていること。

 

 蓮根家の子孫であること。

 

 そして、清弦がその先祖にあたること。

 

 逆転時計という魔法具の暴走に巻き込まれ、気づけばこの時代へ来ていたこと。

 

 説明すればするほど、清弦と鈴の顔には新しい疑問が増えていった。

 

「つまり」

 

 話を聞き終えた清弦が、慎重に口を開く。

 

「お前は、レイワという国へ帰りたいということだな?」

 

「く、国じゃねえんだけど……」

 

「違うのか」

 

「時代だって言ったでしょ」

 

「国の中にあるのでは?」

 

「ない!」

 

「では江戸の一部か?」

 

「もう江戸から離れて!」

 

 鈴が小さく笑った。

 

「でも、帰りたいということだけは本当なんですね」

 

 その問いだけは、すぐに答えられた。

 

「……うん」

 

 奎星は左腕へ目を落とした。

 

 銀色の時計。

 

 秒針は今も前へ進んでいる。

 

「帰りたい」

 

 今度の声は、少しだけ静かだった。

 

 清弦はしばらく奎星を見ていた。

 

 やがて。

 

「……常世返しなら、それが可能かもしれない」

 

「…………何?」

 

 奎星が顔を上げた。

 

「常世返し?」

 

「ああ」

 

 清弦はまだ重そうな身体を布団へ預け直した。

 

「本来いるべき場所から外れたものを、そのものが帰るべき場所へ返す術だ」

 

「そんなのあんの!?」

 

「声が大きい」

 

「帰れんじゃん!」

 

「最後まで聞け」

 

 清弦が眉を寄せる。

 

「術そのものは、術者一人の魔力で行うものではない。霊脈から力を借りる」

 

 奎星の動きが止まった。

 

「霊脈……」

 

 その言葉なら、知っている。

 

 鬼火鳥の飛ぶ道。

 

 神代榊。

 

 蓮根家。

 

 自分が魔法界へ入ってから、何度も何度も出てきたもの。

 

「じゃあ!」

 

「だが、今は使えない」

 

「何で!」

 

「この辺りだけではない。関東一帯の霊脈がおかしくなっている」

 

 清弦の声が低くなる。

 

「流れが歪んでいる場所が増えた。途切れる場所もある。急に魔力が噴き上がる土地もある。こんな状態では、遠くへ何かを返すだけでも危険だ」

 

 一拍。

 

「まして、お前の言う百五十年以上先など」

 

「無理?」

 

「今はな」

 

 今は。

 

 その二文字を、奎星は聞き逃さなかった。

 

「じゃ、霊脈直したら?」

 

「可能性はある」

 

「マジ?」

 

「断言はできん」

 

「でもゼロじゃない?」

 

「そうだ」

 

 奎星の顔に、少しだけ明るさが戻った。

 

 そのときだった。

 

「清弦」

 

 鈴の声がした。

 

 二人が同時にそちらを見る。

 

 鈴が立ち上がろうとしていた。

 

 けれど、膝に力が入らなかった。

 

「あ……」

 

 身体が傾く。

 

「鈴!」

 

 先に動いたのは清弦だった。

 

 熱があることなど忘れたように布団から身を起こし、倒れかけた鈴の身体を抱き留める。

 

「おい!」

 

 奎星も立った。

 

「鈴、大丈夫か」

 

「うん……少し立ち眩みしただけ」

 

「座れ」

 

「清弦のほうが寝てないと」

 

「いいから」

 

 さっきまで奎星へ向けていた顔とは、まるで違った。

 

 鈴の肩へ回した手は驚くほど慎重だった。座らせるときも、頭を柱へぶつけないよう手を添え、その顔色を何度も確かめている。

 

「今日は着いてくるなと言っただろう」

 

「薬が必要だったの」

 

「私が買う」

 

「あなた、朝から熱があったでしょう?」

 

「それでも私が」

 

「同じじゃない」

 

「違う」

 

「違わない」

 

 奎星は何も言わず、その二人を見ていた。

 

 胸の奥へ、ひどく遠い景色が浮かんだ。

 

 白い校舎。

 

 朝の大食堂。

 

 くだらないことを言って笑う日向たち。

 

 研究室の机。

 

 自分が無茶をするたびに眉を寄せる、黒い髪の教師。

 

 左腕の時計へ、無意識に指が触れた。

 

 ここへ来てからも、一秒も休まず動き続けている。

 

 なのに、この時計が示す場所へは、もう簡単には戻れない。

 

「……帰んなきゃな」

 

 小さく呟いた。

 

 清弦は鈴を座らせたまま、しばらく黙っていた。

 

「霊脈がおかしくなり始めてからだ」

 

「何が?」

 

 奎星が訊く。

 

「鈴は昔から身体が強いほうではなかった。だが、ここまでではなかった」

 

「清弦」

 

「事実だ」

 

 鈴が困ったように笑う。

 

「最近は、村でも体調を崩す者が増えている。作物にも妙な影響が出ることがある。だから私は、原因を調べている」

 

 奎星は清弦を見る。

 

 布団の中にいる青年は、まだ明らかに熱がある。

 

「その身体で?」

 

「動ける」

 

「さっき倒れたじゃん」

 

「……あれは」

 

「倒れたじゃん」

 

「一時的なものだ」

 

「背負った俺が言ってんだから諦めろ」

 

 清弦が黙った。

 

 鈴が少し笑う。

 

「ほら」

 

「鈴まで」

 

「で」

 

 奎星は座り直した。

 

「霊脈がおかしい原因、見つければいいんだろ?」

 

「ああ」

 

「それ直したら、鈴ちゃんも今よりマシになるかもしれない」

 

「可能性はある」

 

「常世返しも使えるかもしれない」

 

「……そうだ」

 

「じゃ、決まり」

 

 あまりにも早い返事だった。

 

 清弦が眉を寄せる。

 

「何がだ」

 

「俺も手伝う」

 

「は?」

 

「霊脈調べるの」

 

「なぜお前が」

 

「俺、帰りたいし」

 

 奎星は当然のように言った。

 

「あと、このままだと鈴ちゃんもしんどいんだろ」

 

「奎星さん……」

 

「奎星でいいって」

 

「おい」

 

 清弦の声が低くなる。

 

「何だよ」

 

「なぜ、もう鈴とそこまで親しげなのだ」

 

「まだ言ってんの?」

 

「会って半日も経っていないだろう」

 

「お前より話通じるし」

 

「何?」

 

「ほらすぐ怒る」

 

「怒っていない」

 

「怒ってんじゃん」

 

「黙れ」

 

「二人とも」

 

 鈴の声。

 

 二人が止まる。

 

「病人が増えるので、喧嘩はやめてください」

 

「病人じゃねえよ俺!」

 

「私も病人では」

 

「あなたは病人です」

 

「……はい」

 

 清弦が負けた。

 

 奎星は吹き出した。

 

 外では、いつの間にか夜が村を覆っていた。障子の向こうを風が通り、庭の木々が静かに葉を擦り合わせている。遠い家から夕餉の匂いが流れ、さらに向こうでは一度だけ犬が吠えた。

 

 百五十年以上。

 

 本来なら決して出会うはずのなかった二人だった。

 

 片方は、まだ何者でもない若い魔法使い。

 

 もう片方は、百五十年以上先から時を逆行し、この時代へ落ちてきた少年。

 

 清弦は霊脈の異常を追っている。

 

 奎星は未来へ帰りたい。

 

 理由は違う。

 

 けれど、向かう先だけは同じだった。

 

「……今から」

 

 清弦が言った。

 

「村の北側を調べる」

 

「お前は寝てろよ」

 

「大丈夫だ」

 

「あなたの大丈夫は信用できない」

 

 奎星は思わず笑みをこぼし、小さく呟く。

 

「やっぱ似てんな」

 

 鈴がじっと清弦を見る。

 

「清弦」

 

「…………」

 

「今日は寝ていてください」

 

「だが」

 

「寝てなさい」

 

「……はい」

 

 奎星は笑った。

 

「鈴ちゃん強えな」

 

「お前はなぜ鈴側なのだ」

 

「お前を助けた仲だから」

 

「そんな仲はない」

 

「命の恩人にその態度?」

 

「お前を妖怪だと思ったことについては謝っただろう」

 

「魔法撃った分がまだ」

 

「防いだではないか」

 

「結果論!」

 

「うるさいです」

 

「はい」

 

「……すまん」

 

 また二人とも黙った。

 

 鈴が笑った。

 

 その声を聞きながら、奎星は何気なく腰へ手を置いた。

 

 神代榊。

 

 焦茶色の杖入れの中で、古い杖がほんの僅かに熱を持っていた。

 

「…………」

 

 奎星の指が止まる。

 

 火傷するほどではない。

 

 けれど、知っている。

 

 何かへ反応しているときの熱だった。

 

 清弦なのか。

 

 この村なのか。

 

 あるいは、その下を流れる霊脈なのか。

 

 まだ分からない。

 

 奎星は何も言わず、障子の向こうに広がる夜へ目を向けた。

 

 百五十年以上前の空には、彼の知っている時代よりも多くの星が見えていた。

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