第1話 レイワという国
「蓮根清弦」
その名を聞いた瞬間、奎星は言葉を失った。
曇った空の下、湿った土の道を行き交っていた人々の足音が、妙に遠く聞こえた。軒を低くした木造の家々。黒ずんだ瓦。風に揺れる藍染めの暖簾。荷車の車輪が泥へ沈み、馬の蹄が水溜まりを踏むたびに、濁った雫が道端へ散っている。どこかの家から立ち上る薪の煙と、煮炊きの油の匂いが、雨上がりの冷えた空気に混じっていた。
その風景の中で、目の前の青年だけが異様なほど鮮明だった。
着物に袴。後ろで結ばれた黒髪。年齢は自分とそう変わらない。少し青白い顔には険しい警戒が浮かんでいる。
そして、似ていた。
鏡を見るような瓜二つではない。それでも目元や鼻筋、眉を寄せたときの顔つきには、他人では片づけにくいものがある。
「…………マジかよ」
思わず奎星が呟く。
清弦は、そんな彼の感想を無視した。
青年の視線が奎星の顔から制服へ移り、腰の杖入れへ落ちる。そこに収まっている神代榊を見て、さらに目を細めた。
「妙な装束だ」
「制服だよ」
「せいふく?」
「あー……そこからか」
奎星が額を押さえた。
当然である。百年以上前の人間にマホウトコロの制服が通じるはずもない。しかし、理解していることと、それを実際に突きつけられることは別だった。
清弦は少しだけ奎星の周囲を回り込んだ。獣の正体でも見極めるように、慎重に。
「それに……」
「何だよ」
「私によく顔が似ている」
「それは俺も思ってる」
「まさか」
清弦の目が鋭くなる。
「妖怪か?」
「何でそうなるんだよ!」
道を歩いていた数人が足を止めた。
奎星は周囲から向けられた視線に気づき、慌てて声を落とす。
「ち、ちげえよ! 俺の名前は蓮根奎星!」
今度は清弦が黙った。
「…………蓮根?」
「そう。蓮根」
「私の家族に、お前のような者はいない」
「俺だっていねえよ!」
会話が始まって一分も経っていないのに、もう疲れた。
清弦の警戒はむしろ強くなっていた。眉間の皺が一つ増え、奎星の腰にある杖をじっと見ている。
「貴様、どこから来た」
「東京だよ、東京!」
「トーキョー……?」
「あ」
奎星の口が止まった。
清弦も止まった。
近くで聞いていた男が、怪訝そうに首を傾げる。
奎星は数秒、空を見た。電線の一本もない。遠くでまた鐘が鳴り、馬が鼻を鳴らした。
「あー……違う。えっと」
知っている昔の地名を頭の中から引っ張り出す。
「江戸だ! 江戸!」
「江戸?」
「そう! 令和の江戸!」
「レイワだと……?」
「違う待て。今の忘れて」
「江戸なのか、レイワなのか」
「東京!」
「トーキョーとは何だ」
「だから東京は昔の江戸で、でも今は江戸じゃなくて東京で、令和は場所じゃなくて時代で……」
「時代?」
「俺も今、自分で何言ってるか分かんなくなってきた!」
喋れば喋るほど、清弦の顔から理解が消えていく。
最後には、最初より明らかに怪しいものを見る目になっていた。
「名前は私の家のもの。顔も似ている。見たことのない装束を着て、存在しない土地と時代から来たと言う」
「言い方!」
「しかも妙な杖を持っている」
「妙じゃねえよ。めちゃくちゃ大事な杖だぞ」
「やはり」
清弦が一歩退いた。
「妖怪だ! みんな退け!」
「ちげえって!!」
周囲にいた人々の動きは早かった。
店先にいた男が暖簾の中へ引っ込み、荷物を抱えた老婆は道の端まで下がり、様子を見ていた子供は母親に抱き寄せられた。ほんの数秒で、奎星と清弦の周囲だけがぽっかりと空く。
「清弦が戦うぞ」
「離れろ」
「巻き込まれるぞ」
「いや待って! 話聞いて!」
誰も戻ってこない。
奎星は一人、道の中央へ残された。
清弦はさらに数歩後ろへ下がった。
「な、何するつもりだよ……」
清弦は答えなかった。
両手が胸の前へ上がる。
指が組まれた。
最初、奎星は何をしているのか分からなかった。杖を抜かない。呪文も、現代の学校で教わったものとはまるで違う。
右手と左手の指が、複雑に形を変えていく。
一つ。
二つ。
三つ。
清弦の唇が動き始めた。
聞いたことのない古い響きだった。小さな声なのに、言葉が落ちるたび、周囲の空気が薄く震える。
奎星の顔から、少しずつ笑いが消えた。
「…………」
何かがおかしい。
魔力そのものなら、もっと桁外れなものを知っている。
御影と何百回も訓練した。神代冥司とも戦った。黒曜の門の向こうで、普通なら一生遭遇しないような魔法をいくつも見た。
だからこそ分かった。
これは、そのどれとも違う。
空気の中から魔力を集めているのではない。清弦の身体だけから出ているようにも見えない。
足の下。
もっと深い場所。
土の奥に流れている何かが、ごく僅かに揺れた。
「な、なんかやばそう」
清弦の右手が、白く光った。
「やばそうじゃねえな」
光が膨らむ。
「やばいわ、これ」
次の瞬間。
清弦が掌を突き出した。
音が消えた。
「馬鹿っ──!」
奎星は考えるより先に神代榊を抜いていた。
「プロテゴ!」
白銀の防壁が正面へ展開される。
直後、清弦の掌から放たれた力が激突した。
轟音。
道の両脇に吊られていた暖簾が一斉に跳ね上がった。土埃が壁のように噴き上がり、近くに置かれていた空の木箱が何個も転がる。衝撃を受けた防壁が大きく撓み、奎星の両足が泥の上を後方へ滑った。
「っ……!」
重い。
盾越しに身体の骨まで震えた。
押し出す。ただそれだけの魔法だった。
なのに、単純だからこそ逃げ場がない。
「マジかよ……!」
神代榊を握る手に力を込める。
防壁の表面に光の亀裂が走った。
一歩。
さらに半歩。
靴底が泥を削る。
制服の裾が後ろへ激しくなびき、頬を細かな砂が叩いた。
これまで受けてきたどの攻撃とも違う。少なくとも、真正面から盾へ叩きつけられた一撃としては、今まで経験したことのない威力だった。
「うおおおっ……!」
それでも、盾は割れなかった。
やがて。
圧力が、途切れた。
土埃だけが遅れて道を流れていく。
「…………」
奎星はしばらく神代榊を構えたまま動かなかった。
耳の奥がきん、と鳴っている。
「……何だよ、今の」
返事がない。
「おい」
煙の向こうを見る。
清弦が立っていた。
いや。
立っていたのは、ほんの一瞬だった。
「……え」
膝が折れた。
そのまま身体が前へ傾く。
「おい!」
奎星は慌てて防壁を消した。
泥を蹴る。
倒れる寸前の清弦の肩を掴み、その身体を受け止めた。
「何なんだよ、お前……!」
返事はなかった。
顔色が悪い。
さっきまでも青白いとは思っていたが、間近で見れば異常だった。呼吸は荒く、額には冷たい汗が浮いている。
奎星は眉を寄せ、清弦の額へ手を当てた。
「熱っ!」
思わず手を離しかける。
ひどい熱だった。
「お前、この状態であんなの撃ったのかよ!?」
当然、返事はない。
「妖怪よりお前のほうが怖えよ……」
周囲から、少しずつ人が戻ってきた。
ただし誰も近くまでは来ない。
奎星は倒れた清弦と、その向こうにいる村人たちを交互に見た。
「…………仕方ねえな」
神代榊を杖入れへ戻す。
しゃがみ込み、清弦の腕を自分の肩へ回した。身体を背中へ引き上げる。
「重っ」
同じくらいの体格である。当然だった。
「誰か、こいつの家知ってるやついる?」
何人かが顔を見合わせた。
そのときだった。
からり、と木の戸が開く音がした。
「ありがとうございました」
道沿いの店から、一人の少女が出てきた。
小さな包みを両腕に抱えている。淡い色の着物。後ろでまとめた長い黒髪。年は奎星や清弦より少し下にも見える。店の者へ頭を下げてから道へ出て、何気なくこちらを見た。
そして。
止まった。
「…………清弦?」
包みが腕の中でずれる。
「清弦!?」
少女が走った。
「大丈夫!? どうしたの!?」
「いや、こいつが勝手に──」
少女の手が清弦の額へ触れた。
顔色が変わる。
「また魔法を使ったの!?」
「またって何?」
少女はそこで初めて、清弦を背負っている人間をまともに見た。
「…………」
奎星を見る。
背中の清弦を見る。
また奎星を見る。
「え」
「ん?」
「き、清弦が二人……?」
「増えてねえよ!」
少女は目を瞬かせた。
「でも、お顔が……」
「だからそれは……!」
どう説明しても面倒なことになる。
それだけは、この短時間でよく分かった。
「とりあえず、こいつの家どこ? 熱すげえんだけど」
「あ……はい。私が案内します」
少女はすぐに表情を改めた。
包みを抱え直し、深く頭を下げる。
「清弦を助けてくださって、ありがとうございます」
「いや、助けたっていうか……こいつが俺に魔法撃って勝手に倒れたんだけど」
「…………」
「俺、悪くないよな?」
「清弦なら、あり得ます」
「信用ないな、あいつ」
奎星の背中で、意識のない清弦が少し揺れた。
少女が申し訳なさそうに笑う。
「私は白川鈴と申します」
「あ、俺は……」
奎星の口が止まった。
蓮根。
そう言えば、また説明が始まる。
清弦と同じ名字。似た顔。存在しない東京。令和。
ここからさらに何か足したら、本当に妖怪として討伐されかねない。
「奎星。奎星でいい」
「奎星様ですね」
「…………様」
悪くない。
奎星の口元が少し緩んだ。
「悪くない気分だけど、奎星でいいよ」
「ですが」
「鈴ちゃんでいい?」
「え?」
今度は鈴が足を止めた。
「駄目?」
「い、いえ……」
少し困ったように奎星を見る。
その顔にはまだ戸惑いがあった。
けれど、不思議と強い警戒はない。
目の前の少年は見たこともない衣服を着て、聞いたこともない言葉を口にし、突然現れた。それでも、清弦を背負って歩いている。その顔もまた、あまりにも清弦によく似ていた。
「……構いません」
「よし。じゃ鈴ちゃん」
「もう呼ぶんですね」
「許可もらったし」
鈴は少しだけ笑った。
清弦の故郷だという村は、町外れからさらにしばらく歩いた先にあった。
道は次第に細くなり、家並みも途切れた。左右には水を張った田が広がり、雨を含んだ畦の草が濃い緑をしている。遠くの山は低い雲に半ば隠れ、その裾へ沿うように夕方の薄い靄が流れていた。
ときおり農具を担いだ男とすれ違う。誰もが奎星の制服を見て、それから背中の清弦を見て、最後にもう一度奎星の顔を見る。
「兄弟かい?」
「違います」
一人目には普通に答えた。
「清弦の兄さんか?」
「違うって」
二人目には少し強くなった。
「あらまあ。よく似た兄弟だこと」
「違ぇよ!」
三人目には叫んだ。
鈴が口元を押さえている。
「笑ってる?」
「いえ」
「絶対笑ってるじゃん」
「少しだけ」
「正直だな鈴ちゃん」
背中の清弦は依然として熱かった。
村へ近づく頃には、空の色がだいぶ落ちていた。低い家々の屋根から細い煙が立ち、夕餉を作る匂いが風へ流れている。庭先では子供が木の枝を刀にして遊び、井戸端では女たちが桶を並べて話していた。
百年以上前。
その言葉は頭では理解していた。
けれど、こうして人の暮らしの中を歩いていると、初めて重さを持つ。
ここにいる人間は誰も、電話を知らない。
電車も知らない。
マホウトコロも、今の魔法省も知らない。
自分が生まれるまで、まだ百年以上ある。
奎星は左腕を少し動かした。
銀色の腕時計は、何事もなかったように秒を刻み続けている。
正しい時刻なのかどうかさえ、もう分からなかった。
「こちらです」
鈴の声で顔を上げる。
村の奥に、一軒の古い家があった。
派手な家ではない。板塀の向こうに小さな庭があり、軒の深い木造の家屋が静かに建っている。縁側の端には乾燥させた薬草らしき束が吊られ、土間の近くには薪が積まれていた。
家へ入るなり、鈴は迷いなく動いた。
清弦を奥の部屋へ寝かせ、桶へ水を汲み、布を冷やす。棚から乾いた葉を取り出して湯へ入れ、火鉢の位置を調整する。
奎星は最初の数分こそ手伝おうとしたが、
「それをこちらへ」
「これ?」
「そちらではなく、その隣です」
「これ?」
「それです」
「最初から指差してよ」
「指差しました」
「俺から見て右だった」
「私から見ても右です」
「じゃ何で間違えたんだ俺」
「私に聞かれても……」
結果として、ほとんど鈴がやった。
奎星は部屋の隅へ座り、少しだけ反省した。
「俺、邪魔?」
「……そんなことありません」
「今ちょっと間あったよね」
「ありません」
布団の中で、清弦の眉が動いた。
「…………」
ゆっくりと目が開く。
天井を見る。
次に、枕元にいる鈴を見る。
最後に。
その向こうへ座っている奎星を見た。
清弦の目が一気に覚めた。
「鈴! 下がれ!」
「うわっ」
身体を起こそうとする。
「清弦!」
「そいつから離れろ!」
「おい、もう何もしねえって……」
奎星は呆れて言った。
「妖怪かもしれん!」
「まだ言ってんの!?」
ぱこん。
乾いた音がした。
鈴の手が、清弦の頭を叩いていた。
「っ……」
「この人はあなたを助けてくれたのよ!」
「…………」
「町からここまで、ずっと背負って!」
「…………」
「それなのに妖怪って何!?」
「いや、しかし」
「しかも、また魔法を使ったでしょう!」
清弦が黙った。
先ほどまで奎星へ向けていた鋭い眼光が、目に見えて弱くなる。
「使ったのね?」
「……必要だった」
「何が必要なの!」
「妖怪がいたから……」
「妖怪じゃねえって!」
奎星が怒鳴る。
「妖怪なら、あなたを村まで背負ってこないでしょう」
鈴が言う。
「もっと言ってやって、鈴ちゃん」
「鈴ちゃん?」
清弦の目が奎星へ向く。
「何だよ」
「いつからその呼び方を」
「さっき」
「近くないか?」
「お前より先に仲良くなった」
「意味が分からん」
「俺の方がなんの意味も分かってない」
「二人とも静かにしてください」
「はい」
「……すまん」
二人とも黙った。
鈴は大きく息を吐いた。
しばらくして、清弦が布団の上で姿勢を正した。
まだ顔色は悪い。それでも、先ほどとは違い、奎星へ向けた目から敵意は消えていた。
「先ほどは、申し訳なかった」
頭を下げる。
あまりにも真面目な謝罪だったので、奎星のほうが少し困った。
「いや……まあ。防げたし」
「殺すつもりはなかった」
「ホントかよ」
「加減はした」
「嘘つけ!」
「本当だ」
「もっと怖えよ!」
鈴が目を閉じた。
「清弦」
「……すまん」
二度目の謝罪は、鈴へ向けられた。
奎星は何となく笑う。
こうして話してみると、英雄という感じはまるでしなかった。
後世の資料に書かれていた蓮根清弦は、もっと大きな人間に思えた。近代魔法史の重要人物。霊脈を解放した魔法使い。魔法界を変えた英雄。
けれど、目の前にいる清弦は、熱を出して布団へ寝かされ、幼馴染らしい少女に頭を叩かれている。
奎星は、その事実を少しだけ面白いと思った。
「しかし」
清弦が奎星を見る。
「やはり妙だ」
「何が」
「顔だ。ここまで私に似た人間は見たことがない」
「それは俺も思ってる」
奎星は自分の頬へ触れた。
清弦を見る。
もう一度、自分の鼻先を指差す。
「先祖と子孫って、こんな似るもんなの?」
「何?」
「あ」
奎星の口が止まった。
「えっとな」
どこから話せばいいのか分からない。
東京から来た。
違う。
令和から来た。
もっと違う。
目の前の男は、自分が生きている時代から百五十年以上前の人間で、自分の先祖で、未来では英雄として記録に残っている。
しかも、ついさっきまで自分は魔法省にいた。
銀色の時計が動き、神代榊が熱を持ち、次の瞬間には土の上へ落ちていた。
どこから説明しても怪しい。
「俺、多分……未来から来た」
結局、一番怪しいところから言った。
沈黙。
清弦が鈴を見る。
鈴も清弦を見る。
奎星を見る。
「ほらその顔やめろよ!」
「続けてくれ」
「今絶対また妖怪だと思っただろ」
「まだ何も言っていない」
「顔に出てんだよ!」
奎星は神代榊を抜いた。
清弦が反射的に身構え、鈴がその額を押さえつける。
「寝てて」
「……はい」
「何もしねえよ」
奎星は杖を二人へ見せる。
「これ、神代榊っていう杖なんだけど」
清弦の表情が変わった。
「神代榊?」
「知ってんの?」
「村の奥にある」
「あるの!?」
今度は奎星が身を乗り出した。
「大きいの!?」
「あ、ああ」
「マジか!」
「近い」
「あ、ごめん」
座り直す。
「で、俺の時代だと、この杖は俺が使ってる。んで、魔法省ってとこに逆転時計っていう、時間を戻す魔法具があって」
「魔法省?」
「逆転時計?」
「そこ説明すると長いから飛ばす」
「待て」
「で、その時計と、この杖と、お前が未来に残した手記が一緒になったら、何か急に時計が暴走して」
「私が残した?」
「そこも今から!」
「今から?」
「ああもう!」
奎星は頭を抱え直した。
「大丈夫です。なんとなくわかりました」
鈴が言って、奎星は嬉しそうな顔をする。
「本当に? 俺説明向いてなくない?」
「それも少し分かりました」
鈴が静かに言った。
「おい!!」
それでも、時間をかけて話した。
百五十年以上先の時代から来たこと。
その時代では江戸が東京という名になっていること。
自分はそこで生まれ、今は魔法学校へ通っていること。
蓮根家の子孫であること。
そして、清弦がその先祖にあたること。
逆転時計という魔法具の暴走に巻き込まれ、気づけばこの時代へ来ていたこと。
説明すればするほど、清弦と鈴の顔には新しい疑問が増えていった。
「つまり」
話を聞き終えた清弦が、慎重に口を開く。
「お前は、レイワという国へ帰りたいということだな?」
「く、国じゃねえんだけど……」
「違うのか」
「時代だって言ったでしょ」
「国の中にあるのでは?」
「ない!」
「では江戸の一部か?」
「もう江戸から離れて!」
鈴が小さく笑った。
「でも、帰りたいということだけは本当なんですね」
その問いだけは、すぐに答えられた。
「……うん」
奎星は左腕へ目を落とした。
銀色の時計。
秒針は今も前へ進んでいる。
「帰りたい」
今度の声は、少しだけ静かだった。
清弦はしばらく奎星を見ていた。
やがて。
「……常世返しなら、それが可能かもしれない」
「…………何?」
奎星が顔を上げた。
「常世返し?」
「ああ」
清弦はまだ重そうな身体を布団へ預け直した。
「本来いるべき場所から外れたものを、そのものが帰るべき場所へ返す術だ」
「そんなのあんの!?」
「声が大きい」
「帰れんじゃん!」
「最後まで聞け」
清弦が眉を寄せる。
「術そのものは、術者一人の魔力で行うものではない。霊脈から力を借りる」
奎星の動きが止まった。
「霊脈……」
その言葉なら、知っている。
鬼火鳥の飛ぶ道。
神代榊。
蓮根家。
自分が魔法界へ入ってから、何度も何度も出てきたもの。
「じゃあ!」
「だが、今は使えない」
「何で!」
「この辺りだけではない。関東一帯の霊脈がおかしくなっている」
清弦の声が低くなる。
「流れが歪んでいる場所が増えた。途切れる場所もある。急に魔力が噴き上がる土地もある。こんな状態では、遠くへ何かを返すだけでも危険だ」
一拍。
「まして、お前の言う百五十年以上先など」
「無理?」
「今はな」
今は。
その二文字を、奎星は聞き逃さなかった。
「じゃ、霊脈直したら?」
「可能性はある」
「マジ?」
「断言はできん」
「でもゼロじゃない?」
「そうだ」
奎星の顔に、少しだけ明るさが戻った。
そのときだった。
「清弦」
鈴の声がした。
二人が同時にそちらを見る。
鈴が立ち上がろうとしていた。
けれど、膝に力が入らなかった。
「あ……」
身体が傾く。
「鈴!」
先に動いたのは清弦だった。
熱があることなど忘れたように布団から身を起こし、倒れかけた鈴の身体を抱き留める。
「おい!」
奎星も立った。
「鈴、大丈夫か」
「うん……少し立ち眩みしただけ」
「座れ」
「清弦のほうが寝てないと」
「いいから」
さっきまで奎星へ向けていた顔とは、まるで違った。
鈴の肩へ回した手は驚くほど慎重だった。座らせるときも、頭を柱へぶつけないよう手を添え、その顔色を何度も確かめている。
「今日は着いてくるなと言っただろう」
「薬が必要だったの」
「私が買う」
「あなた、朝から熱があったでしょう?」
「それでも私が」
「同じじゃない」
「違う」
「違わない」
奎星は何も言わず、その二人を見ていた。
胸の奥へ、ひどく遠い景色が浮かんだ。
白い校舎。
朝の大食堂。
くだらないことを言って笑う日向たち。
研究室の机。
自分が無茶をするたびに眉を寄せる、黒い髪の教師。
左腕の時計へ、無意識に指が触れた。
ここへ来てからも、一秒も休まず動き続けている。
なのに、この時計が示す場所へは、もう簡単には戻れない。
「……帰んなきゃな」
小さく呟いた。
清弦は鈴を座らせたまま、しばらく黙っていた。
「霊脈がおかしくなり始めてからだ」
「何が?」
奎星が訊く。
「鈴は昔から身体が強いほうではなかった。だが、ここまでではなかった」
「清弦」
「事実だ」
鈴が困ったように笑う。
「最近は、村でも体調を崩す者が増えている。作物にも妙な影響が出ることがある。だから私は、原因を調べている」
奎星は清弦を見る。
布団の中にいる青年は、まだ明らかに熱がある。
「その身体で?」
「動ける」
「さっき倒れたじゃん」
「……あれは」
「倒れたじゃん」
「一時的なものだ」
「背負った俺が言ってんだから諦めろ」
清弦が黙った。
鈴が少し笑う。
「ほら」
「鈴まで」
「で」
奎星は座り直した。
「霊脈がおかしい原因、見つければいいんだろ?」
「ああ」
「それ直したら、鈴ちゃんも今よりマシになるかもしれない」
「可能性はある」
「常世返しも使えるかもしれない」
「……そうだ」
「じゃ、決まり」
あまりにも早い返事だった。
清弦が眉を寄せる。
「何がだ」
「俺も手伝う」
「は?」
「霊脈調べるの」
「なぜお前が」
「俺、帰りたいし」
奎星は当然のように言った。
「あと、このままだと鈴ちゃんもしんどいんだろ」
「奎星さん……」
「奎星でいいって」
「おい」
清弦の声が低くなる。
「何だよ」
「なぜ、もう鈴とそこまで親しげなのだ」
「まだ言ってんの?」
「会って半日も経っていないだろう」
「お前より話通じるし」
「何?」
「ほらすぐ怒る」
「怒っていない」
「怒ってんじゃん」
「黙れ」
「二人とも」
鈴の声。
二人が止まる。
「病人が増えるので、喧嘩はやめてください」
「病人じゃねえよ俺!」
「私も病人では」
「あなたは病人です」
「……はい」
清弦が負けた。
奎星は吹き出した。
外では、いつの間にか夜が村を覆っていた。障子の向こうを風が通り、庭の木々が静かに葉を擦り合わせている。遠い家から夕餉の匂いが流れ、さらに向こうでは一度だけ犬が吠えた。
百五十年以上。
本来なら決して出会うはずのなかった二人だった。
片方は、まだ何者でもない若い魔法使い。
もう片方は、百五十年以上先から時を逆行し、この時代へ落ちてきた少年。
清弦は霊脈の異常を追っている。
奎星は未来へ帰りたい。
理由は違う。
けれど、向かう先だけは同じだった。
「……今から」
清弦が言った。
「村の北側を調べる」
「お前は寝てろよ」
「大丈夫だ」
「あなたの大丈夫は信用できない」
奎星は思わず笑みをこぼし、小さく呟く。
「やっぱ似てんな」
鈴がじっと清弦を見る。
「清弦」
「…………」
「今日は寝ていてください」
「だが」
「寝てなさい」
「……はい」
奎星は笑った。
「鈴ちゃん強えな」
「お前はなぜ鈴側なのだ」
「お前を助けた仲だから」
「そんな仲はない」
「命の恩人にその態度?」
「お前を妖怪だと思ったことについては謝っただろう」
「魔法撃った分がまだ」
「防いだではないか」
「結果論!」
「うるさいです」
「はい」
「……すまん」
また二人とも黙った。
鈴が笑った。
その声を聞きながら、奎星は何気なく腰へ手を置いた。
神代榊。
焦茶色の杖入れの中で、古い杖がほんの僅かに熱を持っていた。
「…………」
奎星の指が止まる。
火傷するほどではない。
けれど、知っている。
何かへ反応しているときの熱だった。
清弦なのか。
この村なのか。
あるいは、その下を流れる霊脈なのか。
まだ分からない。
奎星は何も言わず、障子の向こうに広がる夜へ目を向けた。
百五十年以上前の空には、彼の知っている時代よりも多くの星が見えていた。