今日は寝ていてください。
鈴にそう言い渡されてから、しばらくして。
「なあ」
「何だ」
「俺、今日どこで寝ればいいの?」
「…………」
清弦が黙った。奎星も黙った。鈴だけが、何か言い出すのを待つように二人を交互に見ている。
夜はすでに小さな村を包み、障子の向こうには虫の声が満ちていた。囲炉裏の火がぱち、と小さく爆ぜ、そのたびに三人の影が壁の上で僅かに揺れる。昼間まで降っていた雨の名残か、土と草の湿った匂いが家の中まで入り込んでいた。
「いや、だからさ」
奎星はもう一度言った。清弦が聞こえなかったのではなく、聞こえたうえで無視しようとしていることくらい、その横顔を見れば分かる。
「俺、行く宛ないんだけど」
「知らん」
「知ってるだろ。説明したじゃん」
「聞いた」
「未来から来たって」
「まだ半分ほど疑っている」
「そこから!?」
奎星が思わず身を乗り出すと、清弦は眉一つ動かさずこちらを見た。
「妖怪ではないとは思っている」
「進歩が遅えよ!」
清弦は布団の上で腕を組んだ。熱は幾分下がったらしい。しかし顔色はまだ悪く、頬には病人らしい白さが残っている。にもかかわらず本人だけは、もう治ったつもりでいるらしかった。
奎星はそんな清弦を指差す。
「お前ん家、一人なんだろ?」
「だから何だ」
「泊めて」
「断る」
「早っ!」
清弦はまるで当然のことを答えたような顔をしている。
「何で私が、お前を家へ泊めなければならん」
「百五十年先から来た遠い親戚だぞ」
「勝手に親戚になるな」
「いや実際親戚なんだって!」
「知らん」
「未来の俺も昨日まで知らなかったよ!」
清弦はふいと顔を背けた。その横顔には、話は終わりだと言わんばかりの頑固さがある。奎星は口を開きかけ、こいつ本当に俺の先祖なんだよな、と一瞬だけ別の意味で不安になった。
そのとき。
「でしたら」
鈴が優しく言った。
「私の家へ来ますか?」
「え?」
奎星が振り返る。鈴は膝の上で手を重ね、何の含みもない顔をしていた。
「狭い家ですけれど、一晩くらいでしたら──」
「私の家に泊まっていけ」
「…………」
奎星はゆっくり清弦を見る。
清弦は真顔だった。先ほどまでの「断る」が最初から存在しなかったような顔である。
「いいの?」
「ああ」
「さっき何で私がって言ってたよな?」
「事情が変わった」
「何が?」
「変わった」
「どこが?」
「黙れ」
「いやいやいや」
清弦の視線が僅かに鈴へ向いた。その一瞬を見逃さず、奎星の口元がじわじわと持ち上がる。もう耐えられなかった。
「ぶはっ」
「何がおかしい」
「いや、だってお前……!」
「何だ」
「分かりやすすぎるだろ!」
「何の話だ!」
清弦の頬が、熱とは別の理由で少し赤くなったように見えた。鈴だけが不思議そうに首を傾げている。
「奎星さん?」
「いや、何でもない。俺は清弦ん家に泊まるから」
「そうですか?」
「うん。たった今、ものすごく泊まりたくなった」
「なぜだ」
「面白そうだから」
「出ていけ」
「泊まっていけって言ったのお前だろ!」
結局、奎星は清弦の家へ泊まることになった。
その前に、二人で鈴を家まで送った。
「一人で帰れるよ」
鈴はそう言ったが、清弦は聞かなかった。立ち上がったところで僅かにふらついたくせに、それを誤魔化すように何事もなかった顔で羽織を取る。
「暗い」
「いつもの道でしょ」
「今日は雨のあとだ。足元が悪い」
「清弦のほうが熱があるでしょ」
「もう下がった」
「さっきまで寝ていたじゃない」
「歩ける」
「それを元気とは言わないんだよ」
奎星が横から口を挟むと、清弦の目だけがこちらを向いた。
「黙れ」
「はいはい」
家々の隙間を、三人で歩いた。
奎星はその途中で、ようやく村の名を知った。小萱村。こがやむら、と読むらしい。町から離れた山裾にへばりつくような、小さな農村だった。
豊かな土地とは言い難い。夜の暗がりでも、田畑の狭さは分かる。山から転がり落ちてきたような大小の石が畦のあちこちに積まれ、水田と呼ぶには心許ない土地が段々に続いている。茅葺きの屋根には継ぎ当てが多く、板壁も長年雨風に晒されて黒ずんでいた。
それでも、家々の前を通るたびに声が飛んできた。
「鈴、遅かったな」
「清弦、もう歩いていいのか?」
「また熱出したって聞いたぞ」
声を掛けられるたび、清弦は鬱陶しそうな顔をしながらも一応返事をする。その様子を見るかぎり、本当に村中が彼の体調を知っているらしい。
「そっちの兄ちゃん誰だ?」
「兄弟じゃないです」
奎星は先回りした。
「まだ何も言ってねえよ」
「どうせ言われるんで」
「よく似てるじゃないか」
「ほら!」
家の中から笑い声がした。鈴も小さく笑い、清弦だけが納得のいかない顔で眉間の皺を深くする。奎星自身も、もう三度目ともなれば最初ほど驚かなかった。似ていると言われるたび否定するのも面倒になりつつある。ただ、横を歩く清弦の顔を盗み見ると、確かに知らない人間なら兄弟と思うかもしれない、と少しだけ思った。
歩きながら聞いた話では、清弦も鈴も、幼い頃に両親を亡くしているらしい。血の繋がった親類がまったくいなかったわけではない。ただ、この貧しい村では、誰か一軒が二人を引き取るというより、村全体が少しずつ二人を育てた。
腹を空かせれば隣家から飯が届き、着物が破れれば向かいの婆さんが縫い、熱を出せば誰かが薬草を持ってくる。田植えを覚えたのも、薪の割り方を覚えたのも、文字を覚えたのも、誰か一人ではなく、この村の大人たちからだった。
「すげえな」
奎星は素直に言った。
「何がですか?」
「村」
鈴が少し笑った。
「貧しいところですけどね」
「そういう意味じゃなくて」
奎星は歩きながら周囲を見る。低い屋根。細い道。軒下に吊られた大根。風が吹くたび揺れる油皿の小さな火。未来の東京と比べれば、何もない。コンビニもない。病院もない。電気もない。
けれど、一軒の家から漏れた子供の泣き声に、三軒先から「どうした」と声が飛ぶ。道端で足を止めた老人が清弦の顔色を見て「まだ白いぞ」と余計な一言を投げ、清弦が露骨に顔をしかめる。誰かが倒れれば、おそらく村中が知るのだろう。
奎星が育った東京とは、何もかも違う。便利かと聞かれれば、間違いなく不便だ。それでも、その不便さの中で人と人との距離が妙に近い。その近さを、奎星は少し羨ましいとも思った。
「悪くないじゃん」
鈴は一瞬だけ目を丸くした。それから、奎星が冗談を言っているわけではないと分かったのか、柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
やがて鈴の家へ着いた。小さな家だった。戸口の脇には小さな桶と薪が積んであり、軒先から下げられた干し草が夜風に揺れている。
鈴が戸口へ入るまで、清弦はその場を動かなかった。
「明日は来なくていい」
「またそれ?」
「休め」
「清弦もね」
「私は大丈夫だ」
「あなたの大丈夫は信用できないって、さっき言ったでしょう」
「…………」
清弦の口が閉じた。その横で奎星が吹き出しそうになるのを堪えていると、鈴がこちらへ顔を向ける。
「おやすみなさい、奎星さん」
「おやすみ、鈴ちゃん」
「おい」
「何だよ」
清弦が奎星を見る。さっきまで鈴へ向けていた目とは露骨に温度が違う。
「……何でもない」
「言えよ」
「帰るぞ」
「はいはい」
鈴が首を傾げながら戸を閉める。木戸の向こうへ鈴の姿が完全に消える、その瞬間まで清弦が家を見ていたことを、奎星は見逃さなかった。
「…………」
「何だ」
「いやぁ?」
「何だ、その顔は」
「別に?」
「気持ち悪いぞ」
「明日聞こーっと」
「何をだ」
「明日のお楽しみ」
「今言え」
「やだね」
清弦の眉間に皺が寄る。その反応がまた面白くて、奎星は笑いながら歩いた。清弦はしばらく不機嫌そうに隣を歩いていたが、追及しても奎星が答える気がないと分かると、小さく舌打ちするように息を吐いた。
清弦の家へ戻る頃には、村の灯りもほとんど消えていた。家へ入ると、外気で冷えた身体に囲炉裏の熱が心地よい。
清弦は慣れた手つきで囲炉裏へ薪を足し、鉄鍋を火へ掛けた。中に入っていたのは、大根と菜っ葉の味噌汁だった。その横には、昼のうちに炊いてあったらしい飯がある。白い米だけではない。麦と粟が多く混じり、ところどころに米粒が見える程度だった。
「これ食うの?」
「ああ」
「毎日?」
「大体な」
「へえ」
清弦は麦と粟の飯を椀へよそい、温め直した味噌汁を添えた。さらに小さな皿へ、塩気の強そうな漬物を二切れ置く。それで終わりだった。
奎星は椀を見下ろした。文句を言うほど贅沢な性格ではないつもりだったが、あまりにも簡素で、思わず反応に困る。
「…………」
「何だ」
「いや」
一口食べる。
固い。
いや、不味いわけではない。腹が減っているので普通に食えるし、噛んでいれば穀物の甘みも感じる。ただ、マホウトコロの大食堂を知ってしまっている。朝から焼き魚。昼には麺。夜になれば肉も魚も煮物も出る。デザートまである。何より、白米が白い。
目の前の椀を見ながら、あの食堂を一瞬でも「今日これかよ」と思った過去の自分を殴りたくなった。
「…………令和ってすげえな」
「何だ急に」
「何でもない」
味噌汁を啜る。こっちは美味かった。大根の甘みと、少し塩辛い味噌の味が身体へ染みる。奎星の表情が少し緩んだのを見て、清弦は何も言わず自分も椀へ口をつけた。
しばらく二人とも無言だった。囲炉裏の火が、ぱちぱちと小さな音を立てる。初対面からまだ一日も経っていない相手と、百五十年以上前の家で飯を食べている。その異常さを改めて考えると妙な気分だったが、不思議と居心地は悪くなかった。
「鈴ちゃんとは」
奎星が飯を食べながら訊いた。
「いつから一緒なの?」
「物心ついた頃にはいた」
「幼馴染?」
「そうなるな」
清弦は味噌汁へ口をつけた。
「先ほど聞いただろう。二人とも親を早く亡くした。村の者たちに育てられた」
「うん」
「私が兄で、あいつが妹のようなものだ」
「ふーん」
奎星は漬物を齧った。そのまま何気ない顔で咀嚼しながら、清弦の横顔を見る。本人は平然としているつもりなのだろうが、「妹のようなものだ」と言ったときだけ、視線が妙に椀へ落ちた。
「…………」
清弦が顔を上げる。
「何だ」
「何が?」
「今、妙な顔をしただろう」
「してない」
「した」
「してないって」
「笑っている」
「いや」
奎星は箸を置いた。もう少し泳がせても面白そうだったが、我慢できない。
「清弦、お前さぁ」
「何だ」
「鈴ちゃんのこと好きだろ」
「なっ!?」
清弦が盛大にむせた。咳き込みながら慌てて口元を押さえる姿を見て、奎星の予想はほぼ確信に変わった。
「汚なっ!」
「げほっ……お、お前!」
「分かりやす!」
「何を言い出す!」
「いやだってさ!」
「違う!」
「まだ何も説明してないのに違うって言った!」
「そういう意味ではない!」
「どういう意味だよ!」
「鈴は妹のようなものだと言っただろう!」
「妹みたいな子が『じゃあ奎星さん私の家泊まります?』って言った瞬間、『私の家に泊まっていけ』」
清弦の口が止まった。反論が出てこない。その沈黙だけで十分だった。
奎星は指を一本立てる。
「鈴ちゃん一人で帰れるって言ってんのに送る」
二本目。
「家入るまで見る」
三本目。
「俺が鈴ちゃんって呼ぶたび顔怖くなる」
「それはお前が馴れ馴れしいからだ」
「ほら!」
「何がだ!」
「今の反応!」
「違う!」
清弦は否定するたびに声が大きくなっている。奎星は完全に楽しくなっていた。
「あとさ」
奎星はにやにやしながら身を乗り出す。
「鈴ちゃんが倒れたとき、お前自分の熱忘れて飛び起きたじゃん」
「当然だ」
「俺が倒れてもやる?」
「やらん」
「即答じゃん!」
「お前は自力で起きろ」
「差がすごいって!」
「お前と鈴を同じにするな!」
「だからそういうとこだって!」
「黙れ!」
「はい」
奎星は素直に飯へ戻った。顔はまったく反省していない。
数秒。
「…………」
「何だ」
「顔赤いよ」
「火のせいだ」
「へえ」
「黙れ」
「まだ何も言ってないじゃん」
「黙れ」
「はいはい」
清弦は険しい顔で飯を食べ続けている。箸の動きだけが妙に速い。奎星は笑いを堪えるのに苦労した。
歴史上の英雄。霊脈を復旧した偉大な魔法使い。近代魔法史の重要人物。未来ではそんな肩書きが大量についていた男が、百五十年以上前では幼馴染の話を振られただけで真っ赤になっている。
未来の資料からは絶対に分からなかった一面だった。後藤や魔法省の連中があれだけ大仰に語っていた「蓮根清弦」と、目の前で漬物を乱暴に噛んでいる青年が同じ人間だと思うと、また笑いが込み上げる。
「歴史の教科書に書いといてほしかったな」
「何をだ」
「何でもない」
この情報だけは、令和へ持って帰ろう。
奎星は固く決意した。
*
翌朝。
「…………うわ」
家を出た奎星は、空を見上げたまま止まった。
夜明け直後の空は淡い群青色を残し、東の山際だけが薄く金色へ染まり始めていた。小萱村の屋根には朝露が残り、田の水面には細長い朝日が映っている。遠くでは誰かがもう畑へ出ており、鍬が土へ入る鈍い音が規則正しく聞こえていた。
その上を、青白い光が飛んでいた。
一つではない。十。二十。さらに向こうにもいる。炎をまとった鳥たちが群れとなり、山裾から空へ上がっていく。朝靄の中を縫うたび、その青白い炎だけが浮き上がり、まるで夜明け前の星が群れをなして飛んでいるようだった。
「鬼火鳥……」
奎星は呆然と呟いた。
一羽が屋根すれすれを飛び、青白い火の粉を朝の空気へ残していく。さらに二羽。その下では、畑にいた老人が何事もないように腰を曲げ、水桶を運んでいる女も、道端を走る子供も見向きもしない。
誰も驚いていなかった。
「何をしている」
後ろから清弦が出てくる。
「いや!」
奎星は空を指差した。
「あれ!」
「鬼火鳥がどうした」
「どうしたって!」
清弦が怪訝そうに見る。
「飛んでるじゃん!」
「鳥だからな」
「そういう話じゃねえよ!」
奎星はもう一度空を見る。
現代で初めて出会ったとき。傷つき、群れから離れ、捕らわれていた一羽。その一羽を帰すためだけに、自分たちは何日も山を越えた。
それが、今は頭上に何十羽もいる。誰にも隠れず、人間を恐れる様子もなく、当然のように村の空を横切っていく。
「めっちゃいる……」
「珍しいか?」
「珍しいよ!」
「そうなのか」
「この時代どうなってんだよ……」
清弦にとっては、それこそ雀でも見るような反応だった。どうやら少なくともこの土地では、鬼火鳥が空を飛んでいることなど珍しくないらしい。
奎星はしばらく空を見上げていた。
未来では隠されたもの。傷つけば皆で守り、失われそうになれば大人たちまで動き、本来の場所へ帰すために山を越えたもの。それが、この時代にはまだ当たり前の景色として存在している。
嬉しいような、寂しいような、不思議な感覚だった。自分が知っている未来へ向かう百五十年以上の間に、この景色の何かが失われていく。そのことだけは、嫌でも分かってしまう。
「…………」
何となく、胸の奥がざわついた。
「行くぞ」
清弦が言う。奎星は空から視線を戻した。
「北側だろ?」
「ああ」
「熱は?」
「ない」
「本当に?」
「触るか?」
「嫌だよ」
「なら聞くな」
清弦がさっさと歩き始める。その足取りを後ろから見ながら、奎星は本当に大丈夫かと一度だけ眉を寄せた。昨日よりはましに見える。それでも、無理をしている人間ほど「大丈夫」と言うことを、奎星は嫌というほど知っていた。
二人は村を出た。
北へ続く道は、昨日通った町への道よりさらに細かった。畑を抜けると、すぐに雑木林へ入る。朝露を含んだ草が袴と制服の裾を濡らしていく。舗装など当然ない。木の根と石が剥き出しになり、斜面のあちこちを細い水が流れていた。
清弦は時折立ち止まり、地面へ手を触れた。指先を土につけたまま目を閉じ、しばらく何かへ耳を澄ますように動かなくなる。
奎星には最初、何をしているのか分からなかった。
「霊脈見てんの?」
「正確には感じている」
「手で?」
「ああ」
「杖使わねえの?」
「杖?」
清弦が奎星を見る。その顔には、本気で意味が分からないという色が浮かんでいた。
「何でも杖を使うのだな、お前たちは」
「普通そうだろ」
「私は普通ではないのか」
「百五十年後の基準だと結構変」
「お前にだけは言われたくない」
「それ昨日からよく言われる」
歩きながら、奎星は腰へ手をやった。
神代榊。昨夜からずっと、ほんの僅かな熱が残っている。今朝はそれが少し強い。肌に触れるほどではない杖入れ越しでも、じんわりとした温度が分かった。
「やっぱ反応してんな……」
「その杖か」
「うん」
清弦の視線が神代榊へ落ちる。興味を隠しているつもりなのかもしれないが、その目は昨日より明らかに長く杖へ留まった。
「鬼火鳥の尾羽を使っていると言ったな」
「そう」
「妙な杖だ」
「お前もそのうち使うらしいけど」
「その話はまだ信じていない」
「頑固だな!」
清弦は答えず、前へ向き直る。
そのとき。
「……あれ?」
奎星の足が止まった。
「どうした」
頭上を、鬼火鳥の群れが山の向こうへ流れている。青白い炎が長い帯のように連なり、一定の方角へ飛んでいた。
けれど、その流れから少し離れた場所に、不自然な動きがある。
「…………」
奎星は目を細める。
群れから少し離れた場所。三羽。いや、四羽。小さな鬼火鳥が、同じ場所をぐるぐると旋回していた。一度東へ飛び、戻る。北へ向かい、また戻る。進みたいのに、どちらへ行けばいいのか分からない。そんな迷い方に見えた。
「何やってんだ、あいつら」
「何?」
「あそこ」
奎星が指差す。清弦も目を細めて見上げる。
「迷ってる?」
「鬼火鳥が?」
「多分」
奎星は神代榊を抜いた。
その瞬間、杖に刻まれた炎のような彫刻が淡い青白色に灯る。掌へ伝わる熱も、ほんの少し強くなった。
「ほら」
奎星が握る力を緩める。
杖先がゆっくりと動いた。
奎星自身が向けたのではない。手の中で木が僅かに回り、空を横切る大きな群れの方角へ向く。
「…………」
清弦の顔が変わった。目を僅かに見開き、疑うように杖と鬼火鳥を交互に見る。
「何だ、それは」
「俺も最初見たとき同じ顔した」
奎星は神代榊を横へ向ける。力を込めて方向をずらしてみても、握りを緩めると杖先が戻る。もう一度離す。また群れへ向く。
「鬼火鳥の帰る方向、こいつ分かるんだよ」
「杖が?」
「うん」
「なぜ」
「知らん」
「お前は何も知らないな」
「百五十年後でも分かってねえんだから仕方ないだろ!」
清弦は神代榊をじっと見ていた。
その目には、昨日までとは違う色があった。警戒ではない。未知の術を前にした魔法使いの純粋な興味と、そこに何か自分の知識へ繋がるものを見つけようとする鋭さがある。
「なら」
清弦が迷子になっている鬼火鳥へ目を向けた。
「試すか」
「何を?」
「常世返しだ」
清弦は林の中から少し開けた場所へ進んだ。両手を胸の前へ上げると、表情から余計なものが消える。昨日、奎星へ魔法を放ったときと同じだった。普段は頑固で、すぐむきになるくせに、術へ向き合った瞬間だけ妙に静かになる。
「人を百五十年先へ返すほどの術は無理だ。だが、すぐ近くにある群れへ道を戻す程度なら、話は別だ」
「そんな簡単にできんの?」
「対象が小さく、帰るべき場所も近い。道もまだ残っている」
「じゃ俺もそれで令和帰れない?」
「お前は百五十年以上ずれている」
「痩せたら?」
「何を減らすつもりだ」
「体重?」
「時間を減らせ」
「無理じゃん」
「だから無理だと言っている」
清弦の指が動く。
昨日、町で奎星へ向けた魔法とは違う、ゆっくりとした動きだった。両手で何かを包むように形を作り、次にその間を開く。小さく言葉を唱える。
古い響き。
足元の土のさらに下で、ほんの僅かに何かが動いた。
奎星は反射的に神代榊を握った。杖の熱と、地面の奥から伝わってくるような奇妙な感覚が一瞬だけ重なる。
「……霊脈」
「ああ」
清弦が小さく答える。
四羽の鬼火鳥の周囲で、空気が揺れた。光が出たわけではない。何かが爆発したわけでもない。ただ、そこにあった目に見えない流れだけが、ゆっくりと一方向へ整えられていく。
迷っていた四羽が、同時に空中で動きを止めた。一羽が首を上げるようにして鳴く。
「キィ」
次の瞬間、四羽が一斉に方向を変えた。
神代榊の杖先が示していた方角。大きな群れへ向かって飛び始める。
「おお……」
奎星が思わず声を漏らした。
一羽、二羽と群れの後方へ追いついていく。最後の小さな一羽も青白い炎を揺らしながら仲間の中へ入り、そのまま山の向こうへ消えていった。
「すげえ」
奎星は素直に言った。
「今のが常世返し?」
「ごく簡単なものだ」
「普通に便利じゃん」
「何でも返せるわけではない」
清弦は息を吐いた。ほんの僅かに肩が上下している。大した術ではないと言いながら、まだ本調子ではない身体には多少の負担があるらしい。
「本来あるべき場所が近く、帰る道がまだ残っている。それなら少し押してやればいい」
「迷子案内みたいな?」
「……言い方は気に入らんが、大体そうだ」
奎星は空を見上げた。鬼火鳥の群れはもう遠い。それでも神代榊には、まだ僅かな熱が残っている。青白い光も完全には消えず、炎の彫刻の奥で呼吸するように明滅していた。
「未来じゃさ」
「何だ」
「蓮根家と鬼火鳥、友達だったって言われてる」
清弦が見る。さっきまで術の余韻を確かめていた目が、今度は奎星へ向いた。
「友達?」
「困ったときは助ける。こっちが困ったときは助けてもらう。互いの場所を守って、互いの道を教えるんだって」
「…………」
「ばあちゃんが言ってた」
清弦はしばらく何も言わなかった。やがて、鬼火鳥が消えた空を見る。その横顔に、さっきまでの軽い苛立ちとは違う考え込む色が浮かんだ。
「妙な話だな」
「何が?」
「今初めて聞いた話を、百五十年後の私の子孫が知っている」
「俺も今それ思った」
「では、その話は誰が始める?」
「…………」
二人とも黙った。
奎星が清弦を見る。清弦も奎星を見る。
「お前じゃね?」
「お前から聞いたのだが」
「でも未来で俺はばあちゃんから聞いた」
「その祖母は?」
「多分お前らから伝わった話を聞いた」
「なら私は、お前から聞いた話を子孫へ伝えるのか?」
「で、それをばあちゃんが俺に教えて」
「お前が私へ教える」
「…………」
「…………」
風が吹いた。葉の間を抜けた朝の風が、二人の髪を同じ方向へ揺らす。
「気持ち悪っ」
二人同時に言った。
一瞬だけ、互いの顔が止まる。
「真似するな」
「そっちだろ!」
林へ声が響いた。頭上を飛んでいた普通の鳥が驚いて逃げていく。
清弦が小さく息を吐いた。口元には出していないが、ほんの一瞬だけ笑いそうになったのを、奎星は見た気がした。
「だが」
「ん?」
「迷子は珍しくない」
さっきまでの軽さが、少しだけ消えた。清弦の視線が鬼火鳥の消えた空から、足元の地面へ落ちる。
「鬼火鳥は霊脈を辿る。若い個体なら、群れから外れることもある」
「じゃ別に変じゃない?」
「いや」
清弦は地面を見る。
「四羽同時は珍しい」
「…………」
「しかも、あの位置で迷っていた」
「何かあんの?」
「霊脈の流れが乱れている」
清弦は歩き出した。さっきまでより足取りが速い。奎星も神代榊を腰へ戻し、その背中を追う。
「行くぞ」
「そっち?」
「ああ」
北へ。さらに山の奥へ。
道は急に険しくなった。人が使う細道は途中で消え、二人は木々の間を進むことになる。地面には濡れた落ち葉が重なり、踏むたび靴底が滑った。清弦は慣れているのか迷いなく進むが、ときどき木の幹へ手を置く時間が少し長い。
そのたび奎星は横目で顔色を確認した。
清弦は何度かしゃがみ、土へ触れる。指先を置いたまま、眉を寄せる。その表情は進むにつれて険しくなっていった。
奎星にも、次第に分かるようになった。
神代榊の熱が一定ではない。強くなる。弱くなる。また強くなる。まるで規則を崩された鼓動のようだった。
「心臓みたいだな」
「何?」
「この杖」
奎星は腰の神代榊を見る。
「鬼火鳥の近くにいたときもそうだった。脈打つ感じ」
「霊脈と繋がっているのかもしれんな」
「杖が?」
「あるいは芯材が」
清弦は立ち上がる。土のついた指先を軽く払いつつ、神代榊へ視線を向けた。
「鬼火鳥は霊脈を辿るのだろう?」
「未来でもそう言われてる」
「なら、その尾羽を持つ杖が流れへ反応しても不思議ではない」
「お前、頭いいな」
「お前が考えなさすぎる」
「百五十年経つと子孫はこうなるんだよ」
「嫌な未来だ」
「おい」
しばらく進む。
やがて、森の音が減った。
「…………」
奎星が最初に気づいた。
鳥の声がしない。虫の音もない。風は吹いているのに、木々の葉がほとんど動いていない。さっきまで普通に聞こえていた山の音が、ここだけ何かに吸い込まれたように消えていた。
奎星の軽い表情が消える。無意識に右手が神代榊へ伸びた。
「清弦」
「ああ」
二人の足が止まる。
前方に、小さな沢があった。本来なら山水らしく澄んでいるはずの水が、妙に濁っている。泥が流れ込んだだけには見えなかった。水面の下に黒い筋のようなものが漂い、流れに逆らうようにゆっくり動いている。
沢沿いの草だけが黒ずみ、根元から枯れ始めていた。
そして、その向こう。
「…………何あれ」
奎星が眉を寄せる。
岩陰で何かが動いた。
最初は獣かと思った。犬ほどの大きさ。四本の脚。けれど、身体の輪郭が一定しない。黒い泥と煙を無理やり獣の形へ押し込めたような姿。背中から細い角のようなものが何本も突き出し、顔にあたる部分には白く濁った二つの目だけが浮いている。
生き物と呼ぶには、動きが気味悪い。呼吸しているようにも見えないのに、輪郭だけがぬるりと膨らんでは縮む。
「妖魔だ」
清弦の声が低くなった。
「マジで妖怪いるじゃん!」
「妖魔だ」
「似たようなもんだろ!」
「違う」
「俺は妖怪扱いしたくせに!」
奎星が抗議した、そのとき。
妖魔の頭が動いた。
白い目が二人を見る。
「あ」
奎星の笑いが止まる。
「これ、気づかれた?」
「気づかれたな」
「逃げる?」
「弱い」
「分かんの?」
「この程度なら」
清弦が一歩前へ出る。腰を落とし、奎星を庇うように身体を半歩前へ入れた。その仕草があまりにも自然だったので、奎星は一瞬だけ目を瞬かせる。
「下がっていろ」
「いや昨日倒れたやつが言う?」
「昨日とは違う」
「さっき魔法使ったじゃん」
「簡単な常世返しだ」
清弦の両手が上がる。指を組む。
妖魔が低く身体を沈め、泥のような脚で地面を掻いた。清弦の唇が動き始める。
「────」
魔力が集まる。
その瞬間。
清弦の身体が揺れた。
「……っ」
「おい?」
片足がずれる。踏み直そうとした膝から力が抜け、顔から一気に血の気が引いた。
「清弦!」
「問題ない」
声にはいつもの硬さがある。だが、額へ滲んだ汗までは誤魔化せない。
「問題ある顔してるぞ!」
「常世返しで……少し、使っただけだ」
「昨日熱出して今日朝から魔法使ってんだから当たり前だろ!」
妖魔が地面を蹴った。
「来る!」
速い。
黒い身体が低く飛ぶ。泥が弾け、白い目が一直線にこちらへ迫る。
清弦が無理に手を上げる。
「待てって!」
「下がれ!」
「お前が下がれ!」
奎星はため息をついた。呆れが半分。本気の苛立ちが半分だった。無茶をする人間を見るたび、自分も似たようなことをして御影やスズメに怒られていた記憶が蘇る。
「仕方ねえな」
右手が腰へ伸びる。
神代榊を抜く。
その動作だけで、清弦が僅かに目を見開いた。
昨日は真正面から防壁を張っただけ。奎星が攻撃するところを、まだ清弦は見ていない。
「プロテゴ!」
透明な防壁が一瞬で広がる。
妖魔が激突した。
鈍い音が森へ響く。泥のような身体が盾へ押しつけられ、黒い飛沫が散った。
防壁はほとんど揺れなかった。
「…………」
清弦が黙る。昨日、自分の一撃で大きく撓んだ同じ盾が、目の前の妖魔をまるで相手にしていない。
「昨日のお前のほうが百倍重かったわ!」
奎星が神代榊を振る。
盾が消える。
「デパルソ!」
圧縮された衝撃が妖魔へ叩き込まれた。
黒い身体が横へ吹き飛ぶ。地面を二度、三度転がり、木の幹へぶつかった。湿った落ち葉が一斉に舞い上がる。
「……速い」
清弦が呟く。その目から、さっきまでの体調の悪さを忘れたように疲労が消えていた。見たことのない魔法を、一瞬たりとも逃すまいとしている。
「まだ!」
奎星はすでに動いていた。
倒れた妖魔が起き上がる。身体の黒い泥が膨らみ、獣の口のような裂け目が開く。
飛びかかる。
奎星は半歩横へ。
避ける。
振り向く。
その一連の動きに迷いはない。御影に何度も直された足の位置も、相手から目を切らずに杖先を戻す動きも、もう頭で考えなくても身体が勝手に選んでいた。
杖先が、もう妖魔の背中を捉えている。
「ステューピファイ!」
赤い閃光。
命中。
妖魔の身体が宙で跳ねた。そのまま地面へ落ち、ずるり、と数尺滑る。
動かない。
「…………」
静かになった。
奎星は神代榊を向けたまま、数秒待った。相手が止まったからといって、すぐに警戒を解くな。それも散々教え込まれた。
「終わり?」
「……ああ」
清弦が答える。
「弱いって言っただろう」
「なら最初から俺にやらせろよ」
「お前が戦えるとは知らなかった」
「昨日プロテゴ見ただろ!」
「防ぐだけかと思った」
「失礼だな!」
奎星は杖を軽く振る。妖魔が動かないことを確認し、ようやく下ろした。
清弦はまだ彼を見ていた。妖魔ではなく、奎星を。正確には、その手の中にある神代榊と、今しがた奎星が見せた一連の動きを。
「何?」
「……それが、百五十年後の魔法か」
清弦の声には、わずかな驚きが残っていた。
「まあ」
奎星は神代榊を杖入れへ戻す。
「俺まだ学生だけど」
「学生?」
「魔法学校の」
「学校で、今のような戦い方を教えるのか?」
「先生が怖えんだよ」
「教師が?」
「何百回も撃ってくる」
「…………」
清弦の眉が少し寄った。
「俺が避けても撃ってくる」
「…………」
「盾割られても撃ってくる」
清弦が数秒、本気で考えるような顔をする。
「お前の時代の教師は妖魔か?」
「うん。顔も怖いし」
未来の御影が聞けば、間違いなく怒る。低い声で「蓮根」と呼ばれ、追加で訓練を増やされるところまで容易に想像できた。
けれど今はいない。百五十年以上先である。
言いたい放題だった。
「それより」
奎星の表情が変わる。
倒れている妖魔へ近づいた。さっきまでの軽口を引っ込め、足元の黒い身体を見る。気絶しているのか、完全に力を失ったのかは分からないが、輪郭の揺れはかなり小さくなっていた。
「こいつ何でここにいたの?」
清弦もそちらを見る。
「それを調べる」
「弱い妖魔なんだろ?」
「ああ」
「じゃあ珍しくない?」
「妖魔自体はな」
清弦が地面へしゃがむ。黒ずんだ草、濁った沢、その下へ意識を向けるように掌を土へ置いた。
手を置いた瞬間。
清弦の顔が険しくなった。
「…………」
目が細くなる。それまでの不調とは違う緊張が、その表情に走った。
「何?」
「流れが薄い」
「霊脈?」
「ああ」
清弦はゆっくり顔を上げる。
「ここを通っているはずの流れが、ほとんど来ていない」
奎星もしゃがむ。土を見ても、何も分からない。手をついてみようかと思ったが、それで急に霊脈が分かるとも思えず、代わりに神代榊へ手を置いた。
熱がある。
いつもの、鬼火鳥へ反応した穏やかな熱とは違う。落ち着かない。強くなり、弱くなり、また強くなる。どこかで流れが詰まり、それでも無理やり先へ進もうとしているような、不規則な脈だった。
「…………」
朝、道を失っていた鬼火鳥。黒ずんだ草。濁った水。妖魔。そして、途切れかけた霊脈。
ばらばらだったものが、少しずつ同じ場所を指し始めている。
「やっぱ繋がってんのかな」
「おそらく」
清弦は倒れた妖魔へ視線を落とした。しばらく観察してから、僅かに首を振る。
「だが、この程度の妖魔一匹で、霊脈の流れがここまで薄くなるとは考えにくい」
「じゃ、こいつが原因じゃない?」
「少なくとも、すべてではない」
「……他に何かいる?」
「分からん」
清弦が立ち上がる。
その瞬間、身体が僅かに傾いた。本人はすぐ踏み直したが、奎星は見逃さなかった。
「だから、もう少し先を見る」
「帰るぞ」
「いや」
「いやじゃねえよ」
「まだ調べる必要がある」
「倒れただろ」
「倒れていない」
「くらっとしただろ」
「倒れてはいない」
「めんどくせえな!」
奎星が額を押さえる。言い方までどこか自分と似ている気がして、余計に腹が立つ。
「この程度なら進める」
清弦は真顔だった。本気でそう思っているらしい。
奎星は数秒、その顔を見る。
そして。
「鈴ちゃんに言うぞ」
「…………」
清弦が止まった。
あまりにも綺麗に止まったので、奎星の眉が上がる。
「効いた」
「卑怯だぞ」
「何が?」
「鈴を使うな」
「じゃ帰る?」
「…………」
「鈴ちゃんに言う?」
清弦の顎に僅かに力が入る。北の山奥へ続く道を一度見て、それから村の方角を見る。まだ調べたい。その気持ちは顔に出ている。
「…………帰る」
「よし」
奎星が笑う。
「お前ホント分かりやすいな」
「黙れ」
二人は来た道を戻り始めた。
背後には濁った沢と、黒ずんだ草が残る。霊脈の異常は何一つ解決していない。それでも、その正体へ繋がる最初の糸だけは見つかった。
その頭上。
青白い炎をまとった一羽の鬼火鳥が、ゆっくりと円を描いていた。しばらく二人のあとを追うように飛び、木々の間から彼らの姿を見下ろす。
やがて翼を大きく広げると、仲間たちが消えた空へ向かった。
奎星はそれに気づかなかった。
清弦もまだ知らない。
この朝、迷った数羽を本来の道へ返したこと。その道を、未来から来た少年の神代榊が示したこと。
困っているなら助ける。道を失ったなら帰す。
ただそれだけの小さな出来事が、やがて長い年月を越えて、一つの家へ受け継がれていくことを。
蓮根家は、遥か昔から鬼火鳥の友達だった。
百五十年以上先。奎星自身が聞くことになるその言葉は、まだ、この時代のどこにも残されていなかった。