小萱村へ続く山道を下りながら、蓮根清弦は三度、後ろを振り返った。
一度目は森を抜けた直後だった。二度目は、濁った沢を渡り終えたところ。そして三度目は、木々の隙間から村を囲む畑と、朝の光を受けた茅葺き屋根が見え始めたときだった。振り返るたび、朝露を含んだ草が草履に踏まれて細かな水滴を散らし、湿った土の匂いが二人の間を流れていく。
そのたびに奎星は、何かが追ってきているのかと思って神代榊へ手をかけた。妖魔の仲間か。あるいは、霊脈の異常を辿って別の何かが山を下りてきているのか。だが、三度目の振り返りを見たところで、ようやく別の可能性に思い至った。
清弦は森を警戒しているのではない。
村を警戒している。
「なあ」
「何だ」
「さっきから何キョロキョロしてんの」
「していない」
「してるじゃん」
「していない」
「三回見たぞ」
「数えるな」
清弦は不機嫌そうに前へ向き直った。病み上がりの身体は、本人が思っているほど軽くないらしい。歩調は普段より僅かに遅く、袴の裾から覗く足首にも、時折力の抜けるような揺れがあった。熱は下がっているようだが、顔色はまだ白い。昨日、高熱を出して倒れた人間が、夜が明けるなり山へ入り、常世返しを使い、そのうえ妖魔まで相手にしたのだから、元気でいられるほうがおかしい。
奎星はそんな清弦の横顔を眺めているうちに、ようやく事情を察した。
「あ」
「何だ」
「鈴ちゃんか」
清弦の足が、ぴたりと止まった。
「……何の話だ」
「怒られると思ってんだろ」
「誰が」
「清弦が」
「なぜ私が怒られる」
「昨日あんだけ寝ろって言われて、今日の朝から山行ってるから」
「調べ物だ」
「しかも倒れそうになってたし」
「なっていない」
「なってたじゃん」
「なっていない」
「いや俺、お前支えたけど」
「黙れ」
「はいはい」
奎星が笑うと、清弦は眉間の皺をさらに深くした。しばらくはそのまま黙って歩いていたが、村まであと少しというところで、周囲を気にするように声を潜めた。
「奎星」
「ん?」
「今日のことは鈴には言うなよ」
「今日のことって?」
「……分かっているだろう」
「妖魔に会ったこと?」
「声が大きい」
「常世返し使ったこと?」
「だから大きい」
「倒れそうになったこと?」
「貴様」
清弦の声が一段低くなった。
奎星は口元を押さえた。笑いを堪えようとしたのだが、肩が小刻みに震えてしまう。
「分かった分かった。言わねえよ」
「本当だろうな」
「俺を何だと思ってんだよ」
「会って二日目の、信用ならん未来人」
「結構ちゃんとした評価だな」
「自覚があるなら直せ」
「百五十年後までその性格残ってるぞ」
「何の話だ」
「こっちの話」
やがて二人は村の入口へ差しかかった。
朝の小萱村には、すでに人の気配が満ちていた。畑へ向かう男が鍬を肩へ担ぎ、家々の間では女たちが桶を運んでいる。低い屋根の上には炊事の煙が薄く漂い、味噌を煮る匂いと、雨上がりの土や濡れた藁の匂いが混じっていた。遠くでは鶏が鳴き、どこかの家から子供を叱る声が聞こえる。
昨日までなら、そこへ戻ってきただけだった。
今日は違った。
道の真ん中に、一人の少女が立っていた。
長い黒髪を後ろで結び、両手には小さな籠を抱えている。朝の光を受けた横顔は穏やかで、口元には薄い笑みさえ浮かんでいた。だが、その穏やかさがあまりにも整いすぎていることに、奎星はすぐ気づいた。
白川鈴である。
「…………」
清弦が止まる。
奎星も止まる。
鈴は何も言わなかった。ただ、二人を静かに見ている。
穏やかな顔だった。
穏やかすぎる顔だった。
「お」
奎星が小さく呟く。
「待ってたっぽいな」
「黙れ」
「清弦」
鈴が呼んだ。
「何だ」
返事だけは妙に早かった。
「私は昨日、何と言ったの?」
清弦の喉が、目に見えて詰まった。
「…………」
「清弦?」
「休め、と」
「そう。ちゃんと覚えているのね」
「ああ」
「それで?」
「それで、とは」
鈴の眉が、ほんの少しだけ上がった。笑顔は崩れていない。けれど、その目の奥から温度が一つ消えたように見えた。
「どこへ行っていたの?」
「少し、その辺りを」
「その辺り?」
「ああ」
「どの辺り?」
「……北だ」
「北のどこ?」
「山だ」
「山のどこ?」
「細かいな」
「清弦?」
「…………」
昨日、妖魔を前にしても、清弦はここまで追い詰められた顔をしていなかった。
奎星は感心した。あの男は、魔法を使うときよりも鈴に問い詰められているときのほうが、よほど防御が薄い。
清弦は視線を僅かに横へ逸らし、意味もなく咳払いをした。
「霊脈の具合を、少し確認しただけだ」
「少し?」
「そうだ」
「本当に?」
「ああ」
鈴が黙った。
それから、ゆっくりと奎星へ顔を向ける。
「奎星さん?」
「はい」
返事は、ほとんど反射だった。
清弦が勢いよく振り向く。
奎星は一切迷わなかった。
「北の沢まで行って、迷子の鬼火鳥を戻して、清弦が常世返し使って、もっと奥へ行ったら川が黒くなってて妖魔が出てきました。あと清弦、途中で倒れそうになってました」
「お前!!」
清弦の怒声が、朝の山道へ響き渡った。近くの屋根に止まっていた雀が驚いて飛び立ち、村の奥から何人かがこちらを振り返る。
「だって聞かれたから!」
「全部言う奴があるか!」
「嘘つけねえんだよ俺!」
「今しがた約束だろうが!」
「お前も鈴ちゃんとの約束破った」
「黙れ!」
「二人とも」
鈴の声は大きくなかった。
それでも、二人は同時に口を閉じた。
朝の村道に、妙な静けさが落ちる。遠くで桶の底が地面へ触れる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
「清弦」
「……何だ」
「帰ったら、まず寝て」
「いや、だが」
「寝て」
「霊脈の――」
「寝て」
「…………分かった」
あまりにも早い降参だった。
奎星は思わず吹き出した。
「お前ほんと鈴ちゃんに弱――」
「奎星さんもです」
「え」
笑顔のまま、鈴がこちらを見る。
「どうして止めてくださらなかったんですか?」
「いや俺は止めたよ?」
「一緒に山へ行ったのですよね?」
「それは」
「清弦が病み上がりなのも、ご存じでしたよね?」
「……はい」
「それで?」
「…………」
今度は奎星が黙る番だった。
清弦の口元が、ごく僅かに持ち上がる。さっきまで怒鳴っていた男とは思えない、意地の悪い笑みだった。
「何だ」
「うるせえ」
「嘘がつけないのではなかったか」
「お前あとで覚えてろよ」
「二人とも」
「はい」
「……分かった」
声が重なった。
鈴は小さく息を吐き、ようやく村の中へ向かって歩き始めた。二人はその後ろを並んでついていく。朝日が屋根の端を照らし、鈴の細い背中に淡い光を落としていた。身体の丈夫ではない少女が先を歩き、その後ろを、病み上がりの男と未来から来た男が大人しく従っている。
今日に限っては、誰がこの三人の中で一番強いのか、考えるまでもなかった。
しばらく歩いたところで、清弦の草履が横へ動いた。
ぽすっ、と乾いた音がして、奎星の尻へ軽い蹴りが入る。
「痛っ」
「お前のせいだ」
「お前もだろ!」
奎星もすぐに蹴り返した。
「貴様」
「何だよ」
「やるか」
「病み上がりだろお前」
「関係ない」
「二人とも、何をしているの?」
鈴が振り返った。
「何も」
「何もしてねえ」
二人は同時に前を向いた。
鈴は数秒だけ二人を見つめていたが、やがて呆れたように首を振った。
どうやら、歴史上の英雄蓮根清弦は白川鈴には頭が上がらなかったらしい。
奎星は、この情報も絶対に未来へ持ち帰ろうと思った。
*
小萱村の裏手には、一本の大樹が立っていた。
昨日、清弦からそこにあるとは聞いていた。けれど実際に目にした瞬間、奎星は思わず足を止めた。
大きい、という言葉だけでは足りなかった。
何人もの大人が腕を広げても囲みきれないほど太い幹が、地面の奥からせり上がった根を四方へ伸ばしている。根の一部は地表へ大きく隆起し、長い年月のあいだに苔をまとい、その隙間へ小さな草や茸まで抱き込んでいた。幹は途中から幾筋にも分かれ、さらにその先で無数の枝となって空へ広がっている。枝張りは村の家々をいくつも覆い、昼間でさえその下には薄い森のような影が落ちていた。
葉は深い緑を湛えていた。風が吹くたび、葉の表と裏が交互に光を返し、梢のざわめきが低い波のように村の上へ広がっていく。樹皮には幾筋もの裂け目が走っていたが、それは傷というより、長い時間を生きてきたものだけが持つ皺のように見えた。
「……これ」
奎星は腰へ手をやった。
神代榊が、鞘の中で温かくなっている。
「これが、神代榊……」
「ああ」
隣で清弦が答えた。
「村ができるより前からあるそうだ」
「これから作ったんだよな」
「何を」
「俺の杖」
奎星は鞘から神代榊を半分ほど抜いた。
炎を思わせる彫刻が刻まれた古い木肌。その色も、手へ馴染んだ僅かなざらつきも、目の前の巨大な樹木とはまるで違って見える。それでも、触れなくても分かった。
同じだ。
百五十年以上先の未来で自分が振るってきた杖は、まだ一本の枝ですらない姿で、今、目の前に立っている。
長い時間を、自分一人だけが逆向きに歩いてしまったような感覚だった。未来にあるものの始まりを、誰にも知られない場所で見ている。自分の手の中にある杖が、遠い過去の大樹から生まれたものだと知ってしまうと、木の一本一本の枝まで、何かを語っているように思えた。
そのとき、頭上で小さな鳴き声がした。
「キィ」
青白い光が一つ、枝の間を横切る。
続いて二つ、三つと光が増えた。
鬼火鳥だった。
朝の山で見た群れの一部らしい。黒とも藍ともつかない羽毛の縁を青白い炎が撫で、鳥たちは巨大な神代榊の枝へ次々と降りていく。火の粉が木漏れ日の中へ散るが、葉も枝も燃えない。それどころか神代榊は彼らを迎えるように枝を揺らし、深い葉陰を静かに差し出していた。
「……すげえ」
奎星は呟いた。
未来では、たった一羽を見つけるだけでも大騒ぎだった。八咫祭の森で傷ついた個体を見つけ、密猟者と戦い、群れへ帰すために学校中を巻き込んだ。それほど珍しく、人から距離を置いていた鳥が、ここでは雀や鳩と変わらない様子で村の空を飛び交っている。
そのうちの一羽が枝から飛び降りた。
少し離れた家の前へ着地する。
「おや」
薪を束ねていた老婆が顔を上げた。
「またやったのかい」
鬼火鳥は右の翼を僅かに下げていた。青白い炎も、他の個体より弱く揺れている。
老婆は驚きもしなかった。薪を置くと、家の軒先から浅い竹籠を持ってきて、その中へ柔らかな布を敷いた。籠には蓋もなければ、鳥を繋ぐ縄もない。鬼火鳥は逃げようと思えばいつでも飛び立てるのに、老婆が差し出した籠へ素直に身を寄せた。
「枝にでも引っかけたね」
「手伝う!」
近くで遊んでいた子供が駆け寄ってくる。
「水持ってきな」
「うん!」
子供は桶の方へ走った。
老婆は鳥の羽根をそっと分け、傷口を確かめた。炎は彼女の指先を包むほど近くにあるのに、皮膚を焼かない。老婆の手つきは慣れていて、鳥のほうもその指を恐れていなかった。
清弦も近づく。
「深いか」
「いや。今日は飛ばさない方がいいね」
「薬草は」
「昨日、鈴が干してたのがあるよ」
「取ってくる」
清弦が踵を返す。
何でもない朝の会話だった。
珍しい魔法生物を前にしているようには、誰一人振る舞わない。傷ついた鳥がいれば手当てをし、飛べるようになれば放す。それだけのこととして、村の暮らしの中へ自然に組み込まれている。
奎星は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。
「閉じ込めねえの?」
老婆が振り返る。
「何で?」
「いや、飛んでっちゃうだろ」
「飛べるようになったなら、それでいいじゃないか」
「……ああ」
あまりにも当然そうに言われて、奎星はそれ以上何も言えなかった。
別の鬼火鳥が、村の上を低く旋回した。
一度。
二度。
三度。
すると、畑へ向かおうとしていた男が空を見上げた。鳥の飛び方をしばらく眺め、鍬を肩へ担いだまま呟く。
「西か」
清弦も空を見る。
「尾根を越えてこないな」
「ああ。昼から崩れるかもしれん」
「なら今日は向こうの道は使わん方がいい」
男はあっさり進路を変えた。
奎星が目を瞬く。
「何?」
「天気だ」
清弦が答える。
「山の向こうが荒れる前は、あいつらがこちらへ寄る」
「分かんの?」
「毎年見ていればな」
「天気予報じゃん」
「何だそれは」
「……何でもない」
少しして、今度は二羽の鬼火鳥が山道の入口近くへ降りた。地面へ降りては飛び、また少し先へ降りる。まるで誰かを誘うように、同じ動きを何度も繰り返していた。
薪を背負った男がそれを見ると、足を止めた。
「今日は下か」
いつも使っているらしい山道ではなく、低い谷沿いの道へ向かっていく。
「今のは?」
「上の道に何かある」
「何かって?」
「倒木か、崩れか、獣か」
「分かんねえの?」
「そこまでは知らん」
「適当だな」
「お前に言われたくない」
清弦は傷ついた鬼火鳥の前へしゃがみ込んだ。
鳥が嘴で彼の指を軽くつつく。
「痛い」
もう一度つつく。
「やめろ」
三度目。
「貴様」
「めっちゃ嫌われてんじゃん」
「黙れ」
奎星が笑うと、鬼火鳥は今度はこちらへ顔を向けた。青白い炎が小さく揺れ、腰の神代榊がそれに応じるように温かくなる。
――蓮根家はね、遥か昔から鬼火鳥の友達だったのさ。
祖母の声が、胸の奥へ蘇った。
昨日、奎星はその言葉を清弦へ教えた。けれど今になって、ようやくその意味が分かった気がした。
誰も鳥たちへ命令しない。鳥たちも、人間へ従わない。傷つけば村人が手当てをし、山に危険があれば鳥が知らせる。帰る場所を見失えば、人が道を教え、人間が道を間違えそうになれば、今度は鳥が先を飛ぶ。
主人も、飼い主もいない。
契約すらない。
ただ、同じ土地で長い時間を生きてきた者同士が、互いの弱いところを補っている。
「……そりゃ、友達だわ」
奎星が小さく呟く。
「何がだ」
「こっちの話」
神代榊の枝が風を受けて大きく揺れた。
何十羽もの鬼火鳥が一斉に飛び立つ。青白い炎が巨大な樹冠から朝の空へ溢れ、小萱村の上をゆっくりと一周した。村人たちは誰もそれを拝まない。誰も捕まえようとしない。ただ、いつもの朝の中で空を見上げ、鳥たちがどちらへ向かうのかを静かに見送っている。
その光景を、奎星はしばらく忘れられなかった。
*
翌朝、二人は再び村の北側へ向かった。
昨日、妖魔と遭遇した沢からさらに北へ進んだ場所で、清弦は足を止めた。水の濁りはまだ残っている。周囲の草もところどころ葉先を黒く変色させ、土には湿った腐臭が染み込んでいた。だが、昨日とは明らかに違うものがある。
石だった。
河原に、六つの平たい石が並べられている。石の表面には細い線が刻まれていた。自然に割れた線ではない。六つすべてに同じ角度で二本ずつ刻まれ、石と石の距離までほとんど等しい。
その中央では土が円形に掘り返され、黒い魔力の痕跡が薄い膜のように残っていた。水の流れはその円を避けるように歪み、沢の底には細い黒筋が何本も絡みついている。
「これは、妖魔が残したものではない」
清弦が言った。
奎星はしゃがみ込み、石の一つへ顔を近づけた。
「妖魔って、こういうの作んねえの?」
「作らん」
「頭いい奴なら?」
「少なくとも昨日のあれに、石を同じ間隔へ並べて線を刻む知能があったように見えたか」
「見えねえ」
「だろう」
「四足だったしな」
「そこではない」
清弦が一つの石へ指を触れる。目を閉じ、地面の奥へ意識を沈めるようにして、しばらく動かなかった。
やがて眉が寄る。
「流れがここで一度引かれている」
「引かれてる?」
「本来なら、この下を抜けて南へ流れる。それが一度こちらへ寄せられ、途中で無理に曲げられたような跡がある」
奎星も神代榊を抜いた。
杖先を地面へ向けると、昨日とは違う反応があった。鬼火鳥へ向けたときの、脈打つような温かさではない。細かな震えが柄を伝わり、掌の中で落ち着きなく揺れている。
嫌がっている。
そんな言葉が一番近かった。
「これ」
「ああ」
清弦が立ち上がる。
「誰かが触った」
「霊脈に?」
「意図してな」
風が沢を抜けていった。昨日まで鳥の声が消えていた森で、枝だけが乾いた音を立てる。
奎星の顔から、少しずつ笑みが消えた。
「妖魔が勝手に湧いたんじゃなくて」
「誰かが霊脈を弄った結果、あれが寄ってきた可能性もある」
「じゃあ、鈴ちゃんが具合悪いのも」
「村の病も、畑も、鬼火鳥が道を外していることも」
清弦は黒ずんだ土を見下ろした。
「少なくとも、同じところから始まっているかもしれん」
奎星は立ち上がった。
「誰がやった」
「それを調べる」
「どうやって?」
清弦が当然のように歩き始める。
「聞く」
「誰に」
「人にだ」
「それで分かんの?」
「貴様の時代は、人へ物を訊かんのか」
「ネットで調べる」
「ねっと?」
「もういい」
*
そこから二人は、小萱村へ戻らなかった。
北の谷を越え、周囲の小さな集落を順に回った。道は細く、ところどころぬかるんでいた。山から流れ出した水が道の端を削り、農家の軒先には濡れた薪が積まれている。二人が霊脈の異常について尋ねると、村人たちは最初こそ怪訝そうな顔をしたが、やがてそれぞれの記憶から、同じ一人の男を引き出してきた。
最初の村では、炭焼きをしている男が首を傾げた。
「霊脈? そんな難しいことは知らんが……変な男なら来たぞ」
「いつだ」
「十日くらい前かねえ」
次の集落では、畑仕事をしていた女が思い出した。
「川を見せてくれって言ってた人でしょう。石の数を数えたり、何か紙へ書いたりしてたわ」
さらにその先の小さな茶屋では、老人が二人の話を聞くなり、湯呑みを置いて頷いた。
「ああ、あの人か」
「知ってるのか?」
奎星が身を乗り出す。
「変わった人だったからね。物腰は丁寧だったよ。江戸の人間にしちゃ、西洋の話を随分よく知ってた」
老人は皺の深い手で湯呑みを包み込んだ。
「方角を測る道具やら、長さを測る道具やら、色々持ってた。水の流れを見せてくれ、山へ入らせてくれって」
清弦の目が僅かに細くなる。
「名は」
「ああ」
老人は少し考えた。
それから、記憶の底から拾い上げるように言った。
「神代以蔵(かみしろいぞう)、と名乗っていたな」
奎星の顔が止まった。
茶屋の軒先から差し込んだ午後の光が、湯呑みから立ち上る白い湯気を照らしている。その湯気が二人の間をゆっくり通り過ぎるあいだ、奎星は何も言えなかった。
「……神代?」
ようやく出た声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
清弦が横を見る。
さっきまで「団子ないの」と茶屋の棚を覗いていた男とは思えない顔だった。目の奥から軽さが消え、口元が固く結ばれている。
「どうした」
「……いや」
奎星は答えなかった。
「神代……以蔵」
もう一度、その名を口の中で確かめる。
神代。
その二文字には、未来で嫌というほど振り回された記憶がまとわりついていた。
黒曜の門。
学校。
霊脈。
何百人もの生徒。
穏やかな声。
自分こそが正しいのだと、一度も疑っていない目。
神代冥司。
奎星の指が、無意識に神代榊の柄へ触れた。
「奎星」
「ん?」
「その名なら、私も知っている」
「……え?」
今度は奎星が清弦を見る。
「何日か前、小萱村へ来た」
数秒、奎星は黙った。
「先言えよ!?」
「何をだ」
「今それ聞いて回ってたじゃん!」
「神代という名を探しているとは聞いていない」
「変な奴いたかくらい聞いただろ!」
「変な人間なら貴様が一番だ」
「俺を数えるな!」
老人が二人を交互に見ている。
「……兄弟かい?」
「違う!」
「違う」
そこだけは綺麗に揃った。
*
神代以蔵が小萱村を訪れたのは、数日前の昼を少し過ぎた頃だったという。
その日も神代榊の枝には鬼火鳥が何羽も止まっていた。昼の光を受けた大樹の葉は濃い緑に沈み、枝の間から落ちる影が地面へ複雑な模様を描いていた。清弦はその根元へ手を置き、霊脈の流れを確かめていた。
そこへ、一人の男が現れた。
歳は三十に届くかどうか。旅装ではあったが、村を歩く商人や旅人とは少し違っていた。着物の上から羽織をまとい、腰の革帯には見慣れない小さな器具をいくつも吊るしている。細い金属の針が入った丸い箱。折り畳まれた紙。真鍮らしき筒。どれも使い込まれているが、手入れは行き届いていた。
男は清弦を見つけると、まず丁寧に頭を下げた。
「蓮根清弦殿でしょうか」
「そうだが」
「突然失礼いたします。神代以蔵と申します」
柔らかな声だった。
清弦が警戒を隠そうともしないのに、以蔵は気を悪くした様子を見せなかった。むしろ、相手が警戒することまで最初から計算に入れているような、落ち着いた微笑みを浮かべている。
「こちらの大樹と、この土地を通る力の流れについて、お話を伺いたく参りました」
「誰から聞いた」
「いくつかの土地を巡るうちに」
「答えになっていない」
「これは失礼」
以蔵は素直に頭を下げた。
「では、無理にお答えいただくつもりはありません。ただ、私は今、この国に残る古い魔法の在り方を調べています」
「古い?」
「ええ」
以蔵は神代榊を見上げた。
枝から枝へ、鬼火鳥が飛び移る。青白い火の粉が葉の間へ散り、すぐに消えた。
「この国では長い間、土地ごと、一族ごとに、それぞれ違う形で力の流れを扱ってきた。口伝、感覚、経験。誰か一人が死ねば失われる知識も多い」
清弦は答えなかった。
「ですが、それではいずれ立ち行かなくなる」
男の声は穏やかなままだった。
「測るべきなのです」
「何を」
「すべてを」
以蔵は腰から小さな真鍮の器具を取り出した。掌に収まるほどの大きさで、中央には細い針が立っている。彼が指先で軽く触れると、針が僅かに震えた。
「流れる魔力の強さ。方向。深さ。変動する時刻。周辺の生物への影響。人間への影響」
「…………」
「測量し、数値へ置き換え、記録する。誰が見ても同じものを読み取り、誰が扱っても同じ結果を出せる体系へ変える」
清弦の目が細くなった。
「港の方では、すでにそうした西洋の魔法が広がりつつあります」
以蔵は嬉しそうに笑った。声は柔らかいままだったが、その目には確信に近い光が宿っていた。
「杖を使い、決まった言葉と動作で、同じ結果を再現する。術者個人の感覚へ依存しすぎない。実に合理的です」
「便利だろうな」
「ええ」
「それで」
清弦は大樹へ手を置いた。
樹皮の奥を流れるものへ触れるように、掌を静かに押し当てる。
「貴様は、これもそうしたいのか」
「できるなら」
風が吹いた。
神代榊の葉が一斉に鳴り、枝に止まっていた鬼火鳥が一羽、以蔵の頭上を横切った。
「古い一族が、それぞれの感覚と伝承だけで霊脈に関わる時代は、いずれ終わるべきだと考えています」
「我々は管理しているつもりなどない」
清弦は言った。
以蔵が少しだけ目を細める。
「そもそも、霊脈は人間が管理するようなものではない」
「しかし、あなた方は異常を調べ、必要であれば手を加えるのでしょう?」
「治すだけだ」
「同じことでは?」
「違う」
清弦は即答した。
「川が詰まれば石を退ける。木が傷めば折れた枝を落とす。だからといって、川も木も私のものにはならん」
以蔵は黙って聞いていた。
その沈黙には反発も苛立ちもなかった。相手の言葉を受け入れているように見えながら、実際には自分の考えを少しも揺らしていない。清弦はそのことに気づいたのか、眉間の皺を深くした。
「流れるものは流れる。生きるものは勝手に生きる。我々が決めることではない」
「なるほど」
以蔵は微笑んだ。
「ですが」
静かな声だった。
「その力が、人の命を左右するほど大きなものだからこそ」
以蔵は真鍮の器具を指先で弄びながら、神代榊の根元を見た。
「それらを正しく扱える者が、一括して管理すべきだと私は考えています」
清弦は眉を寄せた。
「正しく扱える者?」
「ええ」
「誰だ、それは」
以蔵の笑みは変わらなかった。
「今は、まだ」
それだけだった。
以蔵はそれ以上押さなかった。自分の考えを押しつけるのではなく、相手の中へ種を置いていくような話し方だった。反論されても、否定されても、最後には相手のほうが考え込む。その穏やかさが、かえって不気味だった。
「ご不快にさせたのであれば、失礼いたしました」
以蔵は丁寧に頭を下げた。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
そして村を出ていった。
最後まで礼儀正しく。
最後まで穏やかに。
*
「……奎星?」
清弦の声で、奎星は我に返った。
茶屋の外では、午後の光が道の上へ長い影を落としていた。軒先から吊るされた風鈴が風に揺れ、乾いた音を一つだけ響かせる。
「どうした」
「…………」
「さっきから変だぞ」
「似てる」
「誰に」
奎星はすぐには答えなかった。
未来のことを全部話したところで、清弦にはきっと分からない。マホウトコロ、黒曜の門、何百人もの生徒、認識を書き換えられた学校、守護霊、星帰り作戦。百五十年以上未来の人間にとってさえ面倒な話を、幕末の青年へ一から説明する気力はなかった。
それでも、ここだけは言っておくべきだと思った。
「俺の時代にも」
奎星が言う。
「神代って名字の奴がいた」
清弦の目が僅かに動く。
「以蔵と関わりがあるのか」
「分かんねえ」
奎星は首を振った。
「先祖かもしれないし、全然関係ねえかもしれない。同じ名字なだけかもしれない」
「なら何が似ている」
「言ってること」
奎星の声が低くなる。
「人は間違える。だから、間違えない奴が全部決めればいいって」
清弦は黙っている。
「魔法も、人も、学校も。全部、正しく使える自分が管理すれば、失敗なんか起きないって。本気でそう思ってた」
「…………」
「霊脈まで、自分のものみたいに使ってた」
奎星の指先に、あの感触が戻った気がした。
黒く染められた霊脈。
銀の鴉。
神代榊が震えるほどの魔力。
「そいつは」
清弦が訊く。
「どうなった」
「倒した」
「お前が?」
「みんなで」
奎星は少しだけ笑った。
「俺一人じゃ無理だったよ。御影先生とか、スズメちゃんとか、友達とか。めちゃくちゃ人数使った」
「その御影という教師は、昨日お前が妖魔より怖いと言っていた男か」
「そう」
「未来は大丈夫なのか」
「俺もたまに不安になる」
清弦が小さく息を吐いた。
けれど、顔から警戒は消えていない。
「神代以蔵」
その名を、もう一度口にする。
「もし、あの術式を残したのがあの男なら」
「調べる必要あるな」
「ああ」
「どこ行けば分かる?」
「横浜だろう」
奎星が瞬きをした。
「横浜?」
「外国の船が入る。西洋の知識も道具も、あそこへ集まり始めている」
「おお!」
急に聞き慣れた地名が出たせいで、奎星の顔が少し明るくなる。
「横浜なら俺、知ってる」
「この時代の横浜をか」
「…………」
「知らんだろう」
「未来のなら知ってる」
「役に立たん」
「駅とかあるし」
「えき?」
「電車乗ればすぐ――」
「でんしゃ?」
「……歩くの?」
「宿場まではな」
「宿場?」
「そこから先は馬を借りる。横浜まで歩き通す阿呆があるか」
奎星の顔が引きつった。
「いや、俺の時代だと電車で行くんだよ!」
「でんしゃとは何だ」
「そこから説明すんの!?」
「まずは宿場まで歩く。そこで馬を借りる」
「馬って、俺が乗るの?」
「他に誰が乗る」
「清弦は?」
「私も乗る」
「二人分の馬?」
「一頭に二人で乗るつもりか」
「いや、清弦が俺を乗せてくれるのかなって」
「なぜ私が」
「慣れてそうだし」
「お前とだけは乗りたくない」
「ひどくね!?」
清弦は呆れたように歩き出す。
奎星も後を追った。
「なあ、馬って速い?」
「歩くよりはな」
「途中で飯食える?」
「知らん」
「団子は?」
「知らん」
「蕎麦」
「黙れ!」
山道に二人の声が響く。
けれど、その背後では、誰もいなくなった沢の底を濁った水が静かに流れていた。
六つの石。
等しい間隔。
刻まれた線。
その中心に残された、ごく薄い黒い魔力。
自然には生まれない形。
人の意思で作られた形。
そしてそれは、まだほんの一部にすぎなかった。
*
その日の夕方。
「横浜?」
鈴は薬草を束ねていた手を止めた。
夕暮れの光が障子を通して部屋へ差し込み、彼女の指先と、膝の上に広げられた薬草の葉を淡い橙色に染めている。外では神代榊の枝が風に揺れ、葉擦れの音に混じって鬼火鳥の鳴き声が聞こえていた。
「うん」
奎星が頷く。
「ちょっと調べたい奴がいてさ」
「また?」
鈴の目が清弦へ向く。
「何だ」
「清弦」
「……何だ」
「今日帰ってきたばかりよね」
「ああ」
「昨日、熱があったわよね」
「もう下がった」
「今朝まで顔色悪かったわよね」
「今は悪くない」
「それを決めるのは清弦じゃないでしょう?」
「私の身体だぞ」
「だから信用できないの」
「なぜだ」
「昨日と今日の自分を思い出して」
「…………」
清弦が黙る。
奎星が横で吹き出した。
「弱〜!」
「奎星さん」
「はい」
「奎星さんも、ちゃんと見ていてくださいね」
「俺?」
「無茶をしそうになったら止めてください」
「任して、鈴ちゃん」
「お前が一番信用ならん」
「何でだよ!」
「昨日一緒に山の奥まで来ただろうが!」
「お前が行ったからだろ!」
「だから止めろと言われている!」
「自分で止まれよ!」
「二人とも」
「はい」
「……分かった」
また声が揃った。
鈴は二人を見比べ、それから諦めたように笑った。旅に出ることそのものを止めるつもりはないらしい。ただし清弦の荷物へ薬を入れ、着替えを入れ、さらに薬を入れようとする。
「多くないか」
「清弦にはこれくらい必要」
「荷物になる」
「では横浜へ行かない?」
「持っていく」
奎星が腹を抱えた。
「即答じゃん」
「黙れ」
「鈴ちゃん強えなあ」
「奎星さんの分もありますよ」
「え」
鈴が新しい包みを差し出した。
「何で俺まで?」
「怪我をするでしょう?」
「しないよ」
鈴と清弦が同時に奎星を見る。
「…………」
「何だよ」
「するだろう」
「なさいますよね」
「何で二日でそんな信用なくなってんの俺」
夕暮れの小萱村に、笑い声が落ちた。
頭上では、神代榊の枝へ鬼火鳥が戻り始めている。一羽、また一羽と、青白い炎が暮れかけた空に浮かび、巨大な大樹へ吸い込まれるように降りていく。傷ついていた一羽も、今は低い枝の上で羽根を休めていた。
村人たちは誰も見張っていない。
明日、飛べるなら飛んでいく。
また傷つけば、戻ってくるかもしれない。
それだけだった。
誰も所有しない。
誰も従わせない。
それでも長い年月、互いの道を教え合ってきた。
翌朝、奎星と清弦は村を出た。鈴は村の入口まで見送りに来た。朝の空気は冷たく、夜のあいだに降りた露が道端の草を濡らしている。彼女の背後では神代榊が大きく枝を広げ、その梢の間を鬼火鳥が行き交っていた。
「清弦」
「何だ」
「薬」
「持った」
「無理しない」
「分かった」
「ちゃんと食べる」
「分かった」
「奎星さん」
「はい」
「よろしくお願いします」
「任せて」
「何を任されている」
「お前の世話」
「要らん」
「鈴ちゃん公認だから」
「勝手に決めるな」
「清弦」
「…………分かった」
鈴が笑う。
朝の風が、彼女の長い黒髪を揺らした。その向こうで、ちょうど一群の鬼火鳥が神代榊の枝から飛び立つ。青白い炎が空へ上がり、何羽かは山へ、何羽かは南の空へ向かっていく。決められた道などないように、それぞれが自分の翼で進んでいった。
奎星はその姿を見上げた。
昨日聞いた、神代以蔵の言葉を思い出す。
測る。
数値にする。
記録する。
誰が使っても同じ結果を出す。
そこまでは、何もおかしくない。むしろ未来では、それが当たり前だった。魔法を安全に扱うために、術式を記録し、再現性を高め、誰か一人の感覚へ頼らないようにする。それ自体は、奎星にも理解できる。
問題は、その先だ。
――正しく扱える者が、一括して管理すべきだ。
「…………」
あの男も、そうだった。
始まりはいつも、正しそうに聞こえる。
「奎星」
「ん?」
「置いていくぞ」
「あ、待てって!」
前を行く清弦へ、奎星は駆け出した。
「なあ、まず宿場まで歩くんだよな?」
「ああ」
「そこから馬を借りる」
「そうだ」
「馬って、ホントに俺が乗るの?」
「お前は歩きたいのか」
「いや、乗りたいけどさ。馬、ちゃんと俺の言うこと聞く?」
「お前よりは聞く」
「馬にまで負けてんの俺!?」
「貴様は黙って乗っていろ」
「横浜までどんくらい?」
「着けば分かる」
「一番嫌いな答え!」
「黙れ」
「途中で飯食える?」
「知らん」
「水羊羹は?」
「知らん」
「葛切り」
「黙れ!」
朝の山道へ、二人の声が遠ざかっていく。
鈴はその背中が見えなくなるまで、村の入口に立っていた。
やがて頭上を一羽の鬼火鳥が横切り、青白い火の粉を一つだけ落とす。その火は地面へ触れる前に消えた。
まだ誰も知らない。
小萱村の外で、霊脈を人の手で組み替えようとしている者がいることを。
その男が語る新しい魔法の思想が、この国の魔法そのものを大きく変えていくことを。
そして、百五十年以上先から来た少年が、その思想の果てに立つ男を、すでに知っていることを。
蓮根奎星と蓮根清弦は、まず宿場へ向かった。
そこから馬を借り、横浜へ向かう。
古い魔法と、新しい魔法が出会い始めた港へ。
神代以蔵という男の足跡を追って。