マホウトコロ   作:西野圭吾

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第3話 神代以蔵

 小萱村へ続く山道を下りながら、蓮根清弦は三度、後ろを振り返った。

 

 一度目は森を抜けた直後だった。二度目は、濁った沢を渡り終えたところ。そして三度目は、木々の隙間から村を囲む畑と、朝の光を受けた茅葺き屋根が見え始めたときだった。振り返るたび、朝露を含んだ草が草履に踏まれて細かな水滴を散らし、湿った土の匂いが二人の間を流れていく。

 

 そのたびに奎星は、何かが追ってきているのかと思って神代榊へ手をかけた。妖魔の仲間か。あるいは、霊脈の異常を辿って別の何かが山を下りてきているのか。だが、三度目の振り返りを見たところで、ようやく別の可能性に思い至った。

 

 清弦は森を警戒しているのではない。

 

 村を警戒している。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「さっきから何キョロキョロしてんの」

 

「していない」

 

「してるじゃん」

 

「していない」

 

「三回見たぞ」

 

「数えるな」

 

 清弦は不機嫌そうに前へ向き直った。病み上がりの身体は、本人が思っているほど軽くないらしい。歩調は普段より僅かに遅く、袴の裾から覗く足首にも、時折力の抜けるような揺れがあった。熱は下がっているようだが、顔色はまだ白い。昨日、高熱を出して倒れた人間が、夜が明けるなり山へ入り、常世返しを使い、そのうえ妖魔まで相手にしたのだから、元気でいられるほうがおかしい。

 

 奎星はそんな清弦の横顔を眺めているうちに、ようやく事情を察した。

 

「あ」

 

「何だ」

 

「鈴ちゃんか」

 

 清弦の足が、ぴたりと止まった。

 

「……何の話だ」

 

「怒られると思ってんだろ」

 

「誰が」

 

「清弦が」

 

「なぜ私が怒られる」

 

「昨日あんだけ寝ろって言われて、今日の朝から山行ってるから」

 

「調べ物だ」

 

「しかも倒れそうになってたし」

 

「なっていない」

 

「なってたじゃん」

 

「なっていない」

 

「いや俺、お前支えたけど」

 

「黙れ」

 

「はいはい」

 

 奎星が笑うと、清弦は眉間の皺をさらに深くした。しばらくはそのまま黙って歩いていたが、村まであと少しというところで、周囲を気にするように声を潜めた。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「今日のことは鈴には言うなよ」

 

「今日のことって?」

 

「……分かっているだろう」

 

「妖魔に会ったこと?」

 

「声が大きい」

 

「常世返し使ったこと?」

 

「だから大きい」

 

「倒れそうになったこと?」

 

「貴様」

 

 清弦の声が一段低くなった。

 

 奎星は口元を押さえた。笑いを堪えようとしたのだが、肩が小刻みに震えてしまう。

 

「分かった分かった。言わねえよ」

 

「本当だろうな」

 

「俺を何だと思ってんだよ」

 

「会って二日目の、信用ならん未来人」

 

「結構ちゃんとした評価だな」

 

「自覚があるなら直せ」

 

「百五十年後までその性格残ってるぞ」

 

「何の話だ」

 

「こっちの話」

 

 やがて二人は村の入口へ差しかかった。

 

 朝の小萱村には、すでに人の気配が満ちていた。畑へ向かう男が鍬を肩へ担ぎ、家々の間では女たちが桶を運んでいる。低い屋根の上には炊事の煙が薄く漂い、味噌を煮る匂いと、雨上がりの土や濡れた藁の匂いが混じっていた。遠くでは鶏が鳴き、どこかの家から子供を叱る声が聞こえる。

 

 昨日までなら、そこへ戻ってきただけだった。

 

 今日は違った。

 

 道の真ん中に、一人の少女が立っていた。

 

 長い黒髪を後ろで結び、両手には小さな籠を抱えている。朝の光を受けた横顔は穏やかで、口元には薄い笑みさえ浮かんでいた。だが、その穏やかさがあまりにも整いすぎていることに、奎星はすぐ気づいた。

 

 白川鈴である。

 

「…………」

 

 清弦が止まる。

 

 奎星も止まる。

 

 鈴は何も言わなかった。ただ、二人を静かに見ている。

 

 穏やかな顔だった。

 

 穏やかすぎる顔だった。

 

「お」

 

 奎星が小さく呟く。

 

「待ってたっぽいな」

 

「黙れ」

 

「清弦」

 

 鈴が呼んだ。

 

「何だ」

 

 返事だけは妙に早かった。

 

「私は昨日、何と言ったの?」

 

 清弦の喉が、目に見えて詰まった。

 

「…………」

 

「清弦?」

 

「休め、と」

 

「そう。ちゃんと覚えているのね」

 

「ああ」

 

「それで?」

 

「それで、とは」

 

 鈴の眉が、ほんの少しだけ上がった。笑顔は崩れていない。けれど、その目の奥から温度が一つ消えたように見えた。

 

「どこへ行っていたの?」

 

「少し、その辺りを」

 

「その辺り?」

 

「ああ」

 

「どの辺り?」

 

「……北だ」

 

「北のどこ?」

 

「山だ」

 

「山のどこ?」

 

「細かいな」

 

「清弦?」

 

「…………」

 

 昨日、妖魔を前にしても、清弦はここまで追い詰められた顔をしていなかった。

 

 奎星は感心した。あの男は、魔法を使うときよりも鈴に問い詰められているときのほうが、よほど防御が薄い。

 

 清弦は視線を僅かに横へ逸らし、意味もなく咳払いをした。

 

「霊脈の具合を、少し確認しただけだ」

 

「少し?」

 

「そうだ」

 

「本当に?」

 

「ああ」

 

 鈴が黙った。

 

 それから、ゆっくりと奎星へ顔を向ける。

 

「奎星さん?」

 

「はい」

 

 返事は、ほとんど反射だった。

 

 清弦が勢いよく振り向く。

 

 奎星は一切迷わなかった。

 

「北の沢まで行って、迷子の鬼火鳥を戻して、清弦が常世返し使って、もっと奥へ行ったら川が黒くなってて妖魔が出てきました。あと清弦、途中で倒れそうになってました」

 

「お前!!」

 

 清弦の怒声が、朝の山道へ響き渡った。近くの屋根に止まっていた雀が驚いて飛び立ち、村の奥から何人かがこちらを振り返る。

 

「だって聞かれたから!」

 

「全部言う奴があるか!」

 

「嘘つけねえんだよ俺!」

 

「今しがた約束だろうが!」

 

「お前も鈴ちゃんとの約束破った」

 

「黙れ!」

 

「二人とも」

 

 鈴の声は大きくなかった。

 

 それでも、二人は同時に口を閉じた。

 

 朝の村道に、妙な静けさが落ちる。遠くで桶の底が地面へ触れる音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

 

「清弦」

 

「……何だ」

 

「帰ったら、まず寝て」

 

「いや、だが」

 

「寝て」

 

「霊脈の――」

 

「寝て」

 

「…………分かった」

 

 あまりにも早い降参だった。

 

 奎星は思わず吹き出した。

 

「お前ほんと鈴ちゃんに弱――」

 

「奎星さんもです」

 

「え」

 

 笑顔のまま、鈴がこちらを見る。

 

「どうして止めてくださらなかったんですか?」

 

「いや俺は止めたよ?」

 

「一緒に山へ行ったのですよね?」

 

「それは」

 

「清弦が病み上がりなのも、ご存じでしたよね?」

 

「……はい」

 

「それで?」

 

「…………」

 

 今度は奎星が黙る番だった。

 

 清弦の口元が、ごく僅かに持ち上がる。さっきまで怒鳴っていた男とは思えない、意地の悪い笑みだった。

 

「何だ」

 

「うるせえ」

 

「嘘がつけないのではなかったか」

 

「お前あとで覚えてろよ」

 

「二人とも」

 

「はい」

 

「……分かった」

 

 声が重なった。

 

 鈴は小さく息を吐き、ようやく村の中へ向かって歩き始めた。二人はその後ろを並んでついていく。朝日が屋根の端を照らし、鈴の細い背中に淡い光を落としていた。身体の丈夫ではない少女が先を歩き、その後ろを、病み上がりの男と未来から来た男が大人しく従っている。

 

 今日に限っては、誰がこの三人の中で一番強いのか、考えるまでもなかった。

 

 しばらく歩いたところで、清弦の草履が横へ動いた。

 

 ぽすっ、と乾いた音がして、奎星の尻へ軽い蹴りが入る。

 

「痛っ」

 

「お前のせいだ」

 

「お前もだろ!」

 

 奎星もすぐに蹴り返した。

 

「貴様」

 

「何だよ」

 

「やるか」

 

「病み上がりだろお前」

 

「関係ない」

 

「二人とも、何をしているの?」

 

 鈴が振り返った。

 

「何も」

 

「何もしてねえ」

 

 二人は同時に前を向いた。

 

 鈴は数秒だけ二人を見つめていたが、やがて呆れたように首を振った。

 

 どうやら、歴史上の英雄蓮根清弦は白川鈴には頭が上がらなかったらしい。

 

 奎星は、この情報も絶対に未来へ持ち帰ろうと思った。

 

            *

 

 小萱村の裏手には、一本の大樹が立っていた。

 

 昨日、清弦からそこにあるとは聞いていた。けれど実際に目にした瞬間、奎星は思わず足を止めた。

 

 大きい、という言葉だけでは足りなかった。

 

 何人もの大人が腕を広げても囲みきれないほど太い幹が、地面の奥からせり上がった根を四方へ伸ばしている。根の一部は地表へ大きく隆起し、長い年月のあいだに苔をまとい、その隙間へ小さな草や茸まで抱き込んでいた。幹は途中から幾筋にも分かれ、さらにその先で無数の枝となって空へ広がっている。枝張りは村の家々をいくつも覆い、昼間でさえその下には薄い森のような影が落ちていた。

 

 葉は深い緑を湛えていた。風が吹くたび、葉の表と裏が交互に光を返し、梢のざわめきが低い波のように村の上へ広がっていく。樹皮には幾筋もの裂け目が走っていたが、それは傷というより、長い時間を生きてきたものだけが持つ皺のように見えた。

 

「……これ」

 

 奎星は腰へ手をやった。

 

 神代榊が、鞘の中で温かくなっている。

 

「これが、神代榊……」

 

「ああ」

 

 隣で清弦が答えた。

 

「村ができるより前からあるそうだ」

 

「これから作ったんだよな」

 

「何を」

 

「俺の杖」

 

 奎星は鞘から神代榊を半分ほど抜いた。

 

 炎を思わせる彫刻が刻まれた古い木肌。その色も、手へ馴染んだ僅かなざらつきも、目の前の巨大な樹木とはまるで違って見える。それでも、触れなくても分かった。

 

 同じだ。

 

 百五十年以上先の未来で自分が振るってきた杖は、まだ一本の枝ですらない姿で、今、目の前に立っている。

 

 長い時間を、自分一人だけが逆向きに歩いてしまったような感覚だった。未来にあるものの始まりを、誰にも知られない場所で見ている。自分の手の中にある杖が、遠い過去の大樹から生まれたものだと知ってしまうと、木の一本一本の枝まで、何かを語っているように思えた。

 

 そのとき、頭上で小さな鳴き声がした。

 

「キィ」

 

 青白い光が一つ、枝の間を横切る。

 

 続いて二つ、三つと光が増えた。

 

 鬼火鳥だった。

 

 朝の山で見た群れの一部らしい。黒とも藍ともつかない羽毛の縁を青白い炎が撫で、鳥たちは巨大な神代榊の枝へ次々と降りていく。火の粉が木漏れ日の中へ散るが、葉も枝も燃えない。それどころか神代榊は彼らを迎えるように枝を揺らし、深い葉陰を静かに差し出していた。

 

「……すげえ」

 

 奎星は呟いた。

 

 未来では、たった一羽を見つけるだけでも大騒ぎだった。八咫祭の森で傷ついた個体を見つけ、密猟者と戦い、群れへ帰すために学校中を巻き込んだ。それほど珍しく、人から距離を置いていた鳥が、ここでは雀や鳩と変わらない様子で村の空を飛び交っている。

 

 そのうちの一羽が枝から飛び降りた。

 

 少し離れた家の前へ着地する。

 

「おや」

 

 薪を束ねていた老婆が顔を上げた。

 

「またやったのかい」

 

 鬼火鳥は右の翼を僅かに下げていた。青白い炎も、他の個体より弱く揺れている。

 

 老婆は驚きもしなかった。薪を置くと、家の軒先から浅い竹籠を持ってきて、その中へ柔らかな布を敷いた。籠には蓋もなければ、鳥を繋ぐ縄もない。鬼火鳥は逃げようと思えばいつでも飛び立てるのに、老婆が差し出した籠へ素直に身を寄せた。

 

「枝にでも引っかけたね」

 

「手伝う!」

 

 近くで遊んでいた子供が駆け寄ってくる。

 

「水持ってきな」

 

「うん!」

 

 子供は桶の方へ走った。

 

 老婆は鳥の羽根をそっと分け、傷口を確かめた。炎は彼女の指先を包むほど近くにあるのに、皮膚を焼かない。老婆の手つきは慣れていて、鳥のほうもその指を恐れていなかった。

 

 清弦も近づく。

 

「深いか」

 

「いや。今日は飛ばさない方がいいね」

 

「薬草は」

 

「昨日、鈴が干してたのがあるよ」

 

「取ってくる」

 

 清弦が踵を返す。

 

 何でもない朝の会話だった。

 

 珍しい魔法生物を前にしているようには、誰一人振る舞わない。傷ついた鳥がいれば手当てをし、飛べるようになれば放す。それだけのこととして、村の暮らしの中へ自然に組み込まれている。

 

 奎星は少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

 

「閉じ込めねえの?」

 

 老婆が振り返る。

 

「何で?」

 

「いや、飛んでっちゃうだろ」

 

「飛べるようになったなら、それでいいじゃないか」

 

「……ああ」

 

 あまりにも当然そうに言われて、奎星はそれ以上何も言えなかった。

 

 別の鬼火鳥が、村の上を低く旋回した。

 

 一度。

 

 二度。

 

 三度。

 

 すると、畑へ向かおうとしていた男が空を見上げた。鳥の飛び方をしばらく眺め、鍬を肩へ担いだまま呟く。

 

「西か」

 

 清弦も空を見る。

 

「尾根を越えてこないな」

 

「ああ。昼から崩れるかもしれん」

 

「なら今日は向こうの道は使わん方がいい」

 

 男はあっさり進路を変えた。

 

 奎星が目を瞬く。

 

「何?」

 

「天気だ」

 

 清弦が答える。

 

「山の向こうが荒れる前は、あいつらがこちらへ寄る」

 

「分かんの?」

 

「毎年見ていればな」

 

「天気予報じゃん」

 

「何だそれは」

 

「……何でもない」

 

 少しして、今度は二羽の鬼火鳥が山道の入口近くへ降りた。地面へ降りては飛び、また少し先へ降りる。まるで誰かを誘うように、同じ動きを何度も繰り返していた。

 

 薪を背負った男がそれを見ると、足を止めた。

 

「今日は下か」

 

 いつも使っているらしい山道ではなく、低い谷沿いの道へ向かっていく。

 

「今のは?」

 

「上の道に何かある」

 

「何かって?」

 

「倒木か、崩れか、獣か」

 

「分かんねえの?」

 

「そこまでは知らん」

 

「適当だな」

 

「お前に言われたくない」

 

 清弦は傷ついた鬼火鳥の前へしゃがみ込んだ。

 

 鳥が嘴で彼の指を軽くつつく。

 

「痛い」

 

 もう一度つつく。

 

「やめろ」

 

 三度目。

 

「貴様」

 

「めっちゃ嫌われてんじゃん」

 

「黙れ」

 

 奎星が笑うと、鬼火鳥は今度はこちらへ顔を向けた。青白い炎が小さく揺れ、腰の神代榊がそれに応じるように温かくなる。

 

 ――蓮根家はね、遥か昔から鬼火鳥の友達だったのさ。

 

 祖母の声が、胸の奥へ蘇った。

 

 昨日、奎星はその言葉を清弦へ教えた。けれど今になって、ようやくその意味が分かった気がした。

 

 誰も鳥たちへ命令しない。鳥たちも、人間へ従わない。傷つけば村人が手当てをし、山に危険があれば鳥が知らせる。帰る場所を見失えば、人が道を教え、人間が道を間違えそうになれば、今度は鳥が先を飛ぶ。

 

 主人も、飼い主もいない。

 

 契約すらない。

 

 ただ、同じ土地で長い時間を生きてきた者同士が、互いの弱いところを補っている。

 

「……そりゃ、友達だわ」

 

 奎星が小さく呟く。

 

「何がだ」

 

「こっちの話」

 

 神代榊の枝が風を受けて大きく揺れた。

 

 何十羽もの鬼火鳥が一斉に飛び立つ。青白い炎が巨大な樹冠から朝の空へ溢れ、小萱村の上をゆっくりと一周した。村人たちは誰もそれを拝まない。誰も捕まえようとしない。ただ、いつもの朝の中で空を見上げ、鳥たちがどちらへ向かうのかを静かに見送っている。

 

 その光景を、奎星はしばらく忘れられなかった。

 

            *

 

 翌朝、二人は再び村の北側へ向かった。

 

 昨日、妖魔と遭遇した沢からさらに北へ進んだ場所で、清弦は足を止めた。水の濁りはまだ残っている。周囲の草もところどころ葉先を黒く変色させ、土には湿った腐臭が染み込んでいた。だが、昨日とは明らかに違うものがある。

 

 石だった。

 

 河原に、六つの平たい石が並べられている。石の表面には細い線が刻まれていた。自然に割れた線ではない。六つすべてに同じ角度で二本ずつ刻まれ、石と石の距離までほとんど等しい。

 

 その中央では土が円形に掘り返され、黒い魔力の痕跡が薄い膜のように残っていた。水の流れはその円を避けるように歪み、沢の底には細い黒筋が何本も絡みついている。

 

「これは、妖魔が残したものではない」

 

 清弦が言った。

 

 奎星はしゃがみ込み、石の一つへ顔を近づけた。

 

「妖魔って、こういうの作んねえの?」

 

「作らん」

 

「頭いい奴なら?」

 

「少なくとも昨日のあれに、石を同じ間隔へ並べて線を刻む知能があったように見えたか」

 

「見えねえ」

 

「だろう」

 

「四足だったしな」

 

「そこではない」

 

 清弦が一つの石へ指を触れる。目を閉じ、地面の奥へ意識を沈めるようにして、しばらく動かなかった。

 

 やがて眉が寄る。

 

「流れがここで一度引かれている」

 

「引かれてる?」

 

「本来なら、この下を抜けて南へ流れる。それが一度こちらへ寄せられ、途中で無理に曲げられたような跡がある」

 

 奎星も神代榊を抜いた。

 

 杖先を地面へ向けると、昨日とは違う反応があった。鬼火鳥へ向けたときの、脈打つような温かさではない。細かな震えが柄を伝わり、掌の中で落ち着きなく揺れている。

 

 嫌がっている。

 

 そんな言葉が一番近かった。

 

「これ」

 

「ああ」

 

 清弦が立ち上がる。

 

「誰かが触った」

 

「霊脈に?」

 

「意図してな」

 

 風が沢を抜けていった。昨日まで鳥の声が消えていた森で、枝だけが乾いた音を立てる。

 

 奎星の顔から、少しずつ笑みが消えた。

 

「妖魔が勝手に湧いたんじゃなくて」

 

「誰かが霊脈を弄った結果、あれが寄ってきた可能性もある」

 

「じゃあ、鈴ちゃんが具合悪いのも」

 

「村の病も、畑も、鬼火鳥が道を外していることも」

 

 清弦は黒ずんだ土を見下ろした。

 

「少なくとも、同じところから始まっているかもしれん」

 

 奎星は立ち上がった。

 

「誰がやった」

 

「それを調べる」

 

「どうやって?」

 

 清弦が当然のように歩き始める。

 

「聞く」

 

「誰に」

 

「人にだ」

 

「それで分かんの?」

 

「貴様の時代は、人へ物を訊かんのか」

 

「ネットで調べる」

 

「ねっと?」

 

「もういい」

 

            *

 

 そこから二人は、小萱村へ戻らなかった。

 

 北の谷を越え、周囲の小さな集落を順に回った。道は細く、ところどころぬかるんでいた。山から流れ出した水が道の端を削り、農家の軒先には濡れた薪が積まれている。二人が霊脈の異常について尋ねると、村人たちは最初こそ怪訝そうな顔をしたが、やがてそれぞれの記憶から、同じ一人の男を引き出してきた。

 

 最初の村では、炭焼きをしている男が首を傾げた。

 

「霊脈? そんな難しいことは知らんが……変な男なら来たぞ」

 

「いつだ」

 

「十日くらい前かねえ」

 

 次の集落では、畑仕事をしていた女が思い出した。

 

「川を見せてくれって言ってた人でしょう。石の数を数えたり、何か紙へ書いたりしてたわ」

 

 さらにその先の小さな茶屋では、老人が二人の話を聞くなり、湯呑みを置いて頷いた。

 

「ああ、あの人か」

 

「知ってるのか?」

 

 奎星が身を乗り出す。

 

「変わった人だったからね。物腰は丁寧だったよ。江戸の人間にしちゃ、西洋の話を随分よく知ってた」

 

 老人は皺の深い手で湯呑みを包み込んだ。

 

「方角を測る道具やら、長さを測る道具やら、色々持ってた。水の流れを見せてくれ、山へ入らせてくれって」

 

 清弦の目が僅かに細くなる。

 

「名は」

 

「ああ」

 

 老人は少し考えた。

 

 それから、記憶の底から拾い上げるように言った。

 

「神代以蔵(かみしろいぞう)、と名乗っていたな」

 

 奎星の顔が止まった。

 

 茶屋の軒先から差し込んだ午後の光が、湯呑みから立ち上る白い湯気を照らしている。その湯気が二人の間をゆっくり通り過ぎるあいだ、奎星は何も言えなかった。

 

「……神代?」

 

 ようやく出た声は、先ほどまでとは明らかに違っていた。

 

 清弦が横を見る。

 

 さっきまで「団子ないの」と茶屋の棚を覗いていた男とは思えない顔だった。目の奥から軽さが消え、口元が固く結ばれている。

 

「どうした」

 

「……いや」

 

 奎星は答えなかった。

 

「神代……以蔵」

 

 もう一度、その名を口の中で確かめる。

 

 神代。

 

 その二文字には、未来で嫌というほど振り回された記憶がまとわりついていた。

 

 黒曜の門。

 

 学校。

 

 霊脈。

 

 何百人もの生徒。

 

 穏やかな声。

 

 自分こそが正しいのだと、一度も疑っていない目。

 

 神代冥司。

 

 奎星の指が、無意識に神代榊の柄へ触れた。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「その名なら、私も知っている」

 

「……え?」

 

 今度は奎星が清弦を見る。

 

「何日か前、小萱村へ来た」

 

 数秒、奎星は黙った。

 

「先言えよ!?」

 

「何をだ」

 

「今それ聞いて回ってたじゃん!」

 

「神代という名を探しているとは聞いていない」

 

「変な奴いたかくらい聞いただろ!」

 

「変な人間なら貴様が一番だ」

 

「俺を数えるな!」

 

 老人が二人を交互に見ている。

 

「……兄弟かい?」

 

「違う!」

 

「違う」

 

 そこだけは綺麗に揃った。

 

            *

 

 神代以蔵が小萱村を訪れたのは、数日前の昼を少し過ぎた頃だったという。

 

 その日も神代榊の枝には鬼火鳥が何羽も止まっていた。昼の光を受けた大樹の葉は濃い緑に沈み、枝の間から落ちる影が地面へ複雑な模様を描いていた。清弦はその根元へ手を置き、霊脈の流れを確かめていた。

 

 そこへ、一人の男が現れた。

 

 歳は三十に届くかどうか。旅装ではあったが、村を歩く商人や旅人とは少し違っていた。着物の上から羽織をまとい、腰の革帯には見慣れない小さな器具をいくつも吊るしている。細い金属の針が入った丸い箱。折り畳まれた紙。真鍮らしき筒。どれも使い込まれているが、手入れは行き届いていた。

 

 男は清弦を見つけると、まず丁寧に頭を下げた。

 

「蓮根清弦殿でしょうか」

 

「そうだが」

 

「突然失礼いたします。神代以蔵と申します」

 

 柔らかな声だった。

 

 清弦が警戒を隠そうともしないのに、以蔵は気を悪くした様子を見せなかった。むしろ、相手が警戒することまで最初から計算に入れているような、落ち着いた微笑みを浮かべている。

 

「こちらの大樹と、この土地を通る力の流れについて、お話を伺いたく参りました」

 

「誰から聞いた」

 

「いくつかの土地を巡るうちに」

 

「答えになっていない」

 

「これは失礼」

 

 以蔵は素直に頭を下げた。

 

「では、無理にお答えいただくつもりはありません。ただ、私は今、この国に残る古い魔法の在り方を調べています」

 

「古い?」

 

「ええ」

 

 以蔵は神代榊を見上げた。

 

 枝から枝へ、鬼火鳥が飛び移る。青白い火の粉が葉の間へ散り、すぐに消えた。

 

「この国では長い間、土地ごと、一族ごとに、それぞれ違う形で力の流れを扱ってきた。口伝、感覚、経験。誰か一人が死ねば失われる知識も多い」

 

 清弦は答えなかった。

 

「ですが、それではいずれ立ち行かなくなる」

 

 男の声は穏やかなままだった。

 

「測るべきなのです」

 

「何を」

 

「すべてを」

 

 以蔵は腰から小さな真鍮の器具を取り出した。掌に収まるほどの大きさで、中央には細い針が立っている。彼が指先で軽く触れると、針が僅かに震えた。

 

「流れる魔力の強さ。方向。深さ。変動する時刻。周辺の生物への影響。人間への影響」

 

「…………」

 

「測量し、数値へ置き換え、記録する。誰が見ても同じものを読み取り、誰が扱っても同じ結果を出せる体系へ変える」

 

 清弦の目が細くなった。

 

「港の方では、すでにそうした西洋の魔法が広がりつつあります」

 

 以蔵は嬉しそうに笑った。声は柔らかいままだったが、その目には確信に近い光が宿っていた。

 

「杖を使い、決まった言葉と動作で、同じ結果を再現する。術者個人の感覚へ依存しすぎない。実に合理的です」

 

「便利だろうな」

 

「ええ」

 

「それで」

 

 清弦は大樹へ手を置いた。

 

 樹皮の奥を流れるものへ触れるように、掌を静かに押し当てる。

 

「貴様は、これもそうしたいのか」

 

「できるなら」

 

 風が吹いた。

 

 神代榊の葉が一斉に鳴り、枝に止まっていた鬼火鳥が一羽、以蔵の頭上を横切った。

 

「古い一族が、それぞれの感覚と伝承だけで霊脈に関わる時代は、いずれ終わるべきだと考えています」

 

「我々は管理しているつもりなどない」

 

 清弦は言った。

 

 以蔵が少しだけ目を細める。

 

「そもそも、霊脈は人間が管理するようなものではない」

 

「しかし、あなた方は異常を調べ、必要であれば手を加えるのでしょう?」

 

「治すだけだ」

 

「同じことでは?」

 

「違う」

 

 清弦は即答した。

 

「川が詰まれば石を退ける。木が傷めば折れた枝を落とす。だからといって、川も木も私のものにはならん」

 

 以蔵は黙って聞いていた。

 

 その沈黙には反発も苛立ちもなかった。相手の言葉を受け入れているように見えながら、実際には自分の考えを少しも揺らしていない。清弦はそのことに気づいたのか、眉間の皺を深くした。

 

「流れるものは流れる。生きるものは勝手に生きる。我々が決めることではない」

 

「なるほど」

 

 以蔵は微笑んだ。

 

「ですが」

 

 静かな声だった。

 

「その力が、人の命を左右するほど大きなものだからこそ」

 

 以蔵は真鍮の器具を指先で弄びながら、神代榊の根元を見た。

 

「それらを正しく扱える者が、一括して管理すべきだと私は考えています」

 

 清弦は眉を寄せた。

 

「正しく扱える者?」

 

「ええ」

 

「誰だ、それは」

 

 以蔵の笑みは変わらなかった。

 

「今は、まだ」

 

 それだけだった。

 

 以蔵はそれ以上押さなかった。自分の考えを押しつけるのではなく、相手の中へ種を置いていくような話し方だった。反論されても、否定されても、最後には相手のほうが考え込む。その穏やかさが、かえって不気味だった。

 

「ご不快にさせたのであれば、失礼いたしました」

 

 以蔵は丁寧に頭を下げた。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 

 そして村を出ていった。

 

 最後まで礼儀正しく。

 

 最後まで穏やかに。

 

            *

 

「……奎星?」

 

 清弦の声で、奎星は我に返った。

 

 茶屋の外では、午後の光が道の上へ長い影を落としていた。軒先から吊るされた風鈴が風に揺れ、乾いた音を一つだけ響かせる。

 

「どうした」

 

「…………」

 

「さっきから変だぞ」

 

「似てる」

 

「誰に」

 

 奎星はすぐには答えなかった。

 

 未来のことを全部話したところで、清弦にはきっと分からない。マホウトコロ、黒曜の門、何百人もの生徒、認識を書き換えられた学校、守護霊、星帰り作戦。百五十年以上未来の人間にとってさえ面倒な話を、幕末の青年へ一から説明する気力はなかった。

 

 それでも、ここだけは言っておくべきだと思った。

 

「俺の時代にも」

 

 奎星が言う。

 

「神代って名字の奴がいた」

 

 清弦の目が僅かに動く。

 

「以蔵と関わりがあるのか」

 

「分かんねえ」

 

 奎星は首を振った。

 

「先祖かもしれないし、全然関係ねえかもしれない。同じ名字なだけかもしれない」

 

「なら何が似ている」

 

「言ってること」

 

 奎星の声が低くなる。

 

「人は間違える。だから、間違えない奴が全部決めればいいって」

 

 清弦は黙っている。

 

「魔法も、人も、学校も。全部、正しく使える自分が管理すれば、失敗なんか起きないって。本気でそう思ってた」

 

「…………」

 

「霊脈まで、自分のものみたいに使ってた」

 

 奎星の指先に、あの感触が戻った気がした。

 

 黒く染められた霊脈。

 

 銀の鴉。

 

 神代榊が震えるほどの魔力。

 

「そいつは」

 

 清弦が訊く。

 

「どうなった」

 

「倒した」

 

「お前が?」

 

「みんなで」

 

 奎星は少しだけ笑った。

 

「俺一人じゃ無理だったよ。御影先生とか、スズメちゃんとか、友達とか。めちゃくちゃ人数使った」

 

「その御影という教師は、昨日お前が妖魔より怖いと言っていた男か」

 

「そう」

 

「未来は大丈夫なのか」

 

「俺もたまに不安になる」

 

 清弦が小さく息を吐いた。

 

 けれど、顔から警戒は消えていない。

 

「神代以蔵」

 

 その名を、もう一度口にする。

 

「もし、あの術式を残したのがあの男なら」

 

「調べる必要あるな」

 

「ああ」

 

「どこ行けば分かる?」

 

「横浜だろう」

 

 奎星が瞬きをした。

 

「横浜?」

 

「外国の船が入る。西洋の知識も道具も、あそこへ集まり始めている」

 

「おお!」

 

 急に聞き慣れた地名が出たせいで、奎星の顔が少し明るくなる。

 

「横浜なら俺、知ってる」

 

「この時代の横浜をか」

 

「…………」

 

「知らんだろう」

 

「未来のなら知ってる」

 

「役に立たん」

 

「駅とかあるし」

 

「えき?」

 

「電車乗ればすぐ――」

 

「でんしゃ?」

 

「……歩くの?」

 

「宿場まではな」

 

「宿場?」

 

「そこから先は馬を借りる。横浜まで歩き通す阿呆があるか」

 

 奎星の顔が引きつった。

 

「いや、俺の時代だと電車で行くんだよ!」

 

「でんしゃとは何だ」

 

「そこから説明すんの!?」

 

「まずは宿場まで歩く。そこで馬を借りる」

 

「馬って、俺が乗るの?」

 

「他に誰が乗る」

 

「清弦は?」

 

「私も乗る」

 

「二人分の馬?」

 

「一頭に二人で乗るつもりか」

 

「いや、清弦が俺を乗せてくれるのかなって」

 

「なぜ私が」

 

「慣れてそうだし」

 

「お前とだけは乗りたくない」

 

「ひどくね!?」

 

 清弦は呆れたように歩き出す。

 

 奎星も後を追った。

 

「なあ、馬って速い?」

 

「歩くよりはな」

 

「途中で飯食える?」

 

「知らん」

 

「団子は?」

 

「知らん」

 

「蕎麦」

 

「黙れ!」

 

 山道に二人の声が響く。

 

 けれど、その背後では、誰もいなくなった沢の底を濁った水が静かに流れていた。

 

 六つの石。

 

 等しい間隔。

 

 刻まれた線。

 

 その中心に残された、ごく薄い黒い魔力。

 

 自然には生まれない形。

 

 人の意思で作られた形。

 

 そしてそれは、まだほんの一部にすぎなかった。

 

            *

 

 その日の夕方。

 

「横浜?」

 

 鈴は薬草を束ねていた手を止めた。

 

 夕暮れの光が障子を通して部屋へ差し込み、彼女の指先と、膝の上に広げられた薬草の葉を淡い橙色に染めている。外では神代榊の枝が風に揺れ、葉擦れの音に混じって鬼火鳥の鳴き声が聞こえていた。

 

「うん」

 

 奎星が頷く。

 

「ちょっと調べたい奴がいてさ」

 

「また?」

 

 鈴の目が清弦へ向く。

 

「何だ」

 

「清弦」

 

「……何だ」

 

「今日帰ってきたばかりよね」

 

「ああ」

 

「昨日、熱があったわよね」

 

「もう下がった」

 

「今朝まで顔色悪かったわよね」

 

「今は悪くない」

 

「それを決めるのは清弦じゃないでしょう?」

 

「私の身体だぞ」

 

「だから信用できないの」

 

「なぜだ」

 

「昨日と今日の自分を思い出して」

 

「…………」

 

 清弦が黙る。

 

 奎星が横で吹き出した。

 

「弱〜!」

 

「奎星さん」

 

「はい」

 

「奎星さんも、ちゃんと見ていてくださいね」

 

「俺?」

 

「無茶をしそうになったら止めてください」

 

「任して、鈴ちゃん」

 

「お前が一番信用ならん」

 

「何でだよ!」

 

「昨日一緒に山の奥まで来ただろうが!」

 

「お前が行ったからだろ!」

 

「だから止めろと言われている!」

 

「自分で止まれよ!」

 

「二人とも」

 

「はい」

 

「……分かった」

 

 また声が揃った。

 

 鈴は二人を見比べ、それから諦めたように笑った。旅に出ることそのものを止めるつもりはないらしい。ただし清弦の荷物へ薬を入れ、着替えを入れ、さらに薬を入れようとする。

 

「多くないか」

 

「清弦にはこれくらい必要」

 

「荷物になる」

 

「では横浜へ行かない?」

 

「持っていく」

 

 奎星が腹を抱えた。

 

「即答じゃん」

 

「黙れ」

 

「鈴ちゃん強えなあ」

 

「奎星さんの分もありますよ」

 

「え」

 

 鈴が新しい包みを差し出した。

 

「何で俺まで?」

 

「怪我をするでしょう?」

 

「しないよ」

 

 鈴と清弦が同時に奎星を見る。

 

「…………」

 

「何だよ」

 

「するだろう」

 

「なさいますよね」

 

「何で二日でそんな信用なくなってんの俺」

 

 夕暮れの小萱村に、笑い声が落ちた。

 

 頭上では、神代榊の枝へ鬼火鳥が戻り始めている。一羽、また一羽と、青白い炎が暮れかけた空に浮かび、巨大な大樹へ吸い込まれるように降りていく。傷ついていた一羽も、今は低い枝の上で羽根を休めていた。

 

 村人たちは誰も見張っていない。

 

 明日、飛べるなら飛んでいく。

 

 また傷つけば、戻ってくるかもしれない。

 

 それだけだった。

 

 誰も所有しない。

 

 誰も従わせない。

 

 それでも長い年月、互いの道を教え合ってきた。

 

 翌朝、奎星と清弦は村を出た。鈴は村の入口まで見送りに来た。朝の空気は冷たく、夜のあいだに降りた露が道端の草を濡らしている。彼女の背後では神代榊が大きく枝を広げ、その梢の間を鬼火鳥が行き交っていた。

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「薬」

 

「持った」

 

「無理しない」

 

「分かった」

 

「ちゃんと食べる」

 

「分かった」

 

「奎星さん」

 

「はい」

 

「よろしくお願いします」

 

「任せて」

 

「何を任されている」

 

「お前の世話」

 

「要らん」

 

「鈴ちゃん公認だから」

 

「勝手に決めるな」

 

「清弦」

 

「…………分かった」

 

 鈴が笑う。

 

 朝の風が、彼女の長い黒髪を揺らした。その向こうで、ちょうど一群の鬼火鳥が神代榊の枝から飛び立つ。青白い炎が空へ上がり、何羽かは山へ、何羽かは南の空へ向かっていく。決められた道などないように、それぞれが自分の翼で進んでいった。

 

 奎星はその姿を見上げた。

 

 昨日聞いた、神代以蔵の言葉を思い出す。

 

 測る。

 

 数値にする。

 

 記録する。

 

 誰が使っても同じ結果を出す。

 

 そこまでは、何もおかしくない。むしろ未来では、それが当たり前だった。魔法を安全に扱うために、術式を記録し、再現性を高め、誰か一人の感覚へ頼らないようにする。それ自体は、奎星にも理解できる。

 

 問題は、その先だ。

 

 ――正しく扱える者が、一括して管理すべきだ。

 

「…………」

 

 あの男も、そうだった。

 

 始まりはいつも、正しそうに聞こえる。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「置いていくぞ」

 

「あ、待てって!」

 

 前を行く清弦へ、奎星は駆け出した。

 

「なあ、まず宿場まで歩くんだよな?」

 

「ああ」

 

「そこから馬を借りる」

 

「そうだ」

 

「馬って、ホントに俺が乗るの?」

 

「お前は歩きたいのか」

 

「いや、乗りたいけどさ。馬、ちゃんと俺の言うこと聞く?」

 

「お前よりは聞く」

 

「馬にまで負けてんの俺!?」

 

「貴様は黙って乗っていろ」

 

「横浜までどんくらい?」

 

「着けば分かる」

 

「一番嫌いな答え!」

 

「黙れ」

 

「途中で飯食える?」

 

「知らん」

 

「水羊羹は?」

 

「知らん」

 

「葛切り」

 

「黙れ!」

 

 朝の山道へ、二人の声が遠ざかっていく。

 

 鈴はその背中が見えなくなるまで、村の入口に立っていた。

 

 やがて頭上を一羽の鬼火鳥が横切り、青白い火の粉を一つだけ落とす。その火は地面へ触れる前に消えた。

 

 まだ誰も知らない。

 

 小萱村の外で、霊脈を人の手で組み替えようとしている者がいることを。

 

 その男が語る新しい魔法の思想が、この国の魔法そのものを大きく変えていくことを。

 

 そして、百五十年以上先から来た少年が、その思想の果てに立つ男を、すでに知っていることを。

 

 蓮根奎星と蓮根清弦は、まず宿場へ向かった。

 

 そこから馬を借り、横浜へ向かう。

 

 古い魔法と、新しい魔法が出会い始めた港へ。

 

 神代以蔵という男の足跡を追って。

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