小萱村を出て、一時間ほどが経った。
朝のうちはまだ良かった。山の端から昇ったばかりの陽は柔らかく、道端には夜露が残り、草の葉を踏むたび白い水滴が袴や制服の裾へ散った。振り返れば、神代榊の巨大な梢が山の向こうにまだ僅かに見えていたし、時折、鬼火鳥と思しき青白い光が空を横切ることもあった。
だが、それも最初の三十分までだった。
「なあ」
「何だ」
「疲れた」
「黙れ」
「しんどい」
「黙れ」
「足痛え」
「黙れ」
「お前さっきからそれしか言ってなくね?」
「貴様がさっきから同じことしか言っていないからだ」
清弦は振り返りもしなかった。
細い山道を、一定の歩調で進んでいく。旅支度といっても大したものではない。鈴が持たせた薬や着替え、僅かな食料を風呂敷にまとめ、それを肩へ掛けているだけだ。それでも病み上がりのはずなのに、足取りだけ見れば奎星よりよほど慣れている。
一方の奎星は、今朝まで自分が暮らしていた時代なら確実に交通機関へ頼っていた距離を、何の疑問もなく徒歩で進まされていた。
「電車ってすげえんだな……」
「またそれか」
「だって座ってるだけで横浜行けんだぞ」
「知らん」
「冷房もあるし」
「何だそれは」
「夏でも涼しい」
「なら夏に乗ればいいだろう」
「今も乗りてえんだよ!」
奎星は肩から下げた荷物を持ち直した。制服の襟元にはじっとりと汗が滲んでいる。五月の終わりから六月へ入ったばかりの未来とは季節の感覚が少し違うようにも思えたが、歩けば暑いものは暑い。舗装もされていない山道は細かな上り下りを繰り返し、平らに見える場所にまで小石や木の根が隠れている。
「御影先生の訓練でもあるまいし……何で朝からこんな歩かなきゃなんねえんだよ」
清弦が初めて振り返った。
「みかげ?」
「俺の先生。前言っただろ。妖魔より怖い人」
「ああ。未来の妖魔か」
「人だよ」
「本当に?」
「たぶん」
清弦は僅かに眉を寄せた。
「貴様の教師は普段から何をさせるんだ」
「走る。飛ぶ。避ける。撃つ。防ぐ。もう一回走る」
「何のために」
「知らねえよ」
「知らずにやっているのか」
「逆らうと増えるんだよ!」
思い出しただけで脚が重くなった気がする。朝四時台に叩き起こされ、まだ太陽もまともに昇っていない時間から走らされた日々が、急に鮮明に蘇った。
あれに比べれば、この程度の山歩きはまだ優しい。
そう思った直後、奎星は自分が御影の訓練を基準に物事を考え始めている事実に気づき、少し絶望した。
「……俺、洗脳されてるかもしれない」
「一人で何の話をしている」
「こっちの話」
「なら黙って歩け」
「はいはい」
道はゆるやかに下り始めた。
途中、小さな畑が見えた。斜面を削った狭い土地に麦が植えられ、その向こうには茅葺きの家が二、三軒集まっている。庭先で作業をしていた老人が二人を見て、清弦には軽く頭を下げ、奎星を見たところで動きを止めた。
奎星はもう慣れた。
この時代で自分の制服は、どう頑張っても目立つ。
「見るなよ」
「お前が妙な格好をしているからだ」
「好きでこの格好で幕末来たわけじゃねえから」
「着替えればいいだろう」
「これ制服なんだよ。結構気に入ってんの」
「なら文句を言うな」
「何でも文句扱いすんな」
さらに一時間。
奎星が「もう無理」と口にしかけた頃、山裾の道の先に人家が増え始めた。
道幅が少し広くなり、旅人の姿が見える。荷を背負った男、籠を担ぐ者、荷車を押す農夫。軒先へ茶や団子らしきものを並べた店があり、その先には旅籠らしい建物が何軒か並んでいた。
「着いたぞ」
清弦が言った。
その一言で、奎星は一瞬だけ生き返った。
「横浜!?」
「宿場だ」
「横浜じゃねえの!?」
「横浜まで二時間で歩けると思っていたのか」
「思ってねえから電車欲しがってんだろ!」
清弦は無視して宿場の中へ入っていった。
奎星はぶつぶつ言いながらついていく。
やがて清弦が足を止めたのは、旅籠の裏手に設けられた小さな馬屋だった。乾いた藁の匂いと、獣特有の温かな臭いが混ざっている。柵の向こうには数頭の馬が繋がれ、そのうち一頭が二人へ興味を示したように顔を上げた。
清弦は馬方らしい男へ声をかけ、何事か短く話した。銭を渡し、二頭の馬を出してもらう。
それを見ていた奎星の顔が、徐々に引きつった。
「……え?」
「何だ」
「ホントに乗るの?」
清弦が振り返る。
「何のために借りたと思っている」
「いや、馬借りるって言ってたけどさ」
「昨日から言っているだろう」
「もうちょっとこう……荷物だけ乗せて俺らは横歩くとか」
「歩きたいなら好きにしろ」
「それは嫌」
「なら乗れ」
清弦はあっさり言うと、手綱を取り、鐙へ足を掛けた。身体を持ち上げる動きに迷いがない。そのままひょいと馬上へ収まり、手綱を軽く引く。
「…………」
奎星は馬と清弦を見比べた。
「何だ」
「お前、乗れんの?」
「乗れなければ借りん」
「何でそんな普通に乗れんの?」
「馬だからだ」
「答えになってねえよ」
「貴様は乗ったことがないのか」
「あるよ」
「なら乗れ」
「ウミツバメだけど」
清弦が黙った。
「……何?」
「ウミツバメ」
「鳥だろう」
「うん」
「鳥に乗ったのか」
「うん」
「そんな大きなウミツバメがいるのか」
「俺も最初そう思った」
清弦はしばらく奎星を見ていた。
「未来は恐ろしいな」
「馬乗れるだけで急に昔の人代表みたいな顔すんな」
奎星は自分の馬へ向き直った。
茶色い毛並みの、清弦の馬より少し小柄な馬だった。つぶらな黒い目でこちらを見ている。穏やかな顔に見える。
「よし」
奎星は鐙へ足を掛けた。
次の瞬間、馬が半歩動いた。
「うおっ!」
奎星の身体がずれた。
馬がもう半歩動く。
「待て待て待て! 今動くなって!」
「馬に言え」
「言ってんだろ!」
「通じていない」
「見れば分かる!」
馬方が口元を隠している。清弦も、僅かに顔を背けた。
「お前笑ってるだろ」
「笑っていない」
「肩動いてんぞ」
「早く乗れ」
「くっそ……」
二度目。
今度は鐙を踏んだ瞬間、勢いをつけすぎて馬の反対側へ落ちそうになった。
「危ない」
清弦が手を伸ばしかける。
奎星はどうにか鞍へしがみつき、そのまま不格好に跨った。
「……乗った」
「ああ」
「乗ったぞ」
「見れば分かる」
「褒めろよ」
「なぜだ」
「初心者だぞ俺!」
「未来人は面倒だな」
馬が鼻を鳴らした。
「お前まで何だよ」
奎星は馬にまで文句を言った。
*
最初の三十分ほど、奎星の馬上姿勢はひどいものだった。
身体が揺れるたび腰が浮き、馬が少し速度を変えるだけで「おっ」「うわ」「待って」と声が出る。手綱を引きすぎて馬に嫌がられ、緩めすぎて道端の草へ寄られた。
対して清弦は慣れたものだった。
背筋を伸ばし、手綱を必要な分だけ扱い、馬の動きへ自然に身体を合わせている。
「何でだよ」
「何がだ」
「お前だけ格好いいのおかしいだろ」
「知らん」
「顔似てんのに」
「関係あるか」
「俺も乗ってればそのうち格好よく見える?」
「まず落ちずに進め」
「腹立つなあ」
けれど、人間は慣れるものだった。
宿場を離れ、街道を一刻ほど進む頃には、奎星も馬の歩調へ身体を合わせる感覚が少しずつ分かってきた。最初は握りしめていた手綱にも余裕が生まれ、周囲へ目を向けられるようになる。
家は徐々に少なくなっていった。
畑が消え、雑木林が増え、やがて道は山あいへ入る。両側から木々が迫り、頭上で枝が交わって昼間なのに薄暗い。谷側からは水の音が聞こえ、湿った土と苔の匂いが濃くなる。
「結構楽しいかも」
奎星が言った。
「さっきまで死にそうな顔をしていたくせに」
「歩くのと違うじゃん」
「馬が歩いている」
「俺は乗ってるだけ」
「偉そうに言うな」
ちょうどそのときだった。
前方の道へ、二人の男が出てきた。
一人は太く、もう一人は細い。どちらも着物は汚れ、裾には乾いた泥がこびりついている。髪も乱れ、旅人には見えない。何より二人とも、腰に刀を携えていた。
清弦の表情が変わった。
手綱を引く。
奎星も一拍遅れて馬を止めた。
「兄ちゃんたち」
太い方の男が笑った。
「ちょいと旅の銭を置いていきな」
清弦が舌打ちした。
奎星は男二人を見た。
それから清弦を見る。
「え?」
「何だ」
「なにこれ?」
「見れば分かるだろう」
今度は道を塞いでいる男が答えた。
「いや、分かるけど……」
奎星は男たちの刀を見た。
「カツアゲ?」
二人が黙った。
「…………」
清弦も黙った。
細い男が眉を寄せる。
「かつ……何だ?」
「カツアゲ」
「何だそれは」
「いや、お前らが今やってるやつ」
「知らん」
「何で本人が知らねえんだよ」
清弦が横から言う。
「私も知らんぞ」
「お前まで!?」
「未来の言葉を当然のように使うな」
「ジェネギャすげえな……」
「じぇね?」
「もういい!」
太い男の額へ青筋が浮いた。
「ごちゃごちゃうるせえ! いいから銭出しな!」
清弦が小さく息を吐いた。
「面倒だな」
「同感」
奎星はそう言いながら、馬上で軽く肩を回した。
どうするか。
相手は二人。
刀はある。
だが妖魔ではない。魔法使いですらないように見える。
神代榊を抜けば、数秒もかからない。
そのとき、細い男の視線が奎星の左手へ止まった。
制服の袖口から、銀色の文字盤が覗いている。
「おい」
男の口元が歪む。
「そっちの兄ちゃん、変な腕輪してんな」
「……腕輪?」
奎星が自分の手首を見る。
黒い革帯。
銀色の文字盤。
見慣れた腕時計。
「そうだな」
男が笑った。
「その腕輪も置いてけ。なんだか高価そうだ」
ほんの一瞬。
風の音だけが残った。
「あ?」
奎星の声が低くなった。
清弦が横を見る。
「殺すぞ」
「…………」
清弦の目が僅かに見開かれた。
奎星は普段、よく怒る。
腹が減れば文句を言い、歩けば疲れたと言い、清弦が余計なことをすればすぐに喧嘩を売る。妖魔を前にしてさえ冗談を言う。
だが今の声には、そういう軽さがなかった。
左手首を、反対の手が一度だけ覆う。
銀色の文字盤を隠すように。
「何だと?」
太い男が顔を歪めた。
「ガキが、舐めやがって」
二人が同時に刀へ手を掛けた。
金属が鞘を擦る音が、山道に鋭く響く。
清弦も即座に片手を上げた。
指を組み、印を結ぼうとする。
「いいよ、清弦」
奎星が言った。
「何?」
神代榊が鞘から抜かれる。
動きに迷いはなかった。
「エクスペリアームス!」
鋭い魔力が空気を走った。
次の瞬間、二本の刀が男たちの手から同時に弾け飛んだ。
「なっ――」
「うおっ!?」
刀は宙で何度も回転し、道端の草むらへ一本、さらに奥の斜面へ一本、金属音を立てながら落ちていった。
男たちは自分の空になった手を見つめている。
清弦も同じだった。
印を結びかけていた指が止まっていた。
地面へ触れていない。
霊脈の流れを探ってもいない。
長い術式も、準備もない。
一つの道具と、一つの決められた言葉。
それだけで、相手を傷つけず、武器だけを正確に奪った。
清弦の目が、ほんの少しだけ細くなる。
数日前、神代以蔵が語っていたもの。
誰が使っても同じ結果へ近づけるための、決まった言葉と動作。
それを、初めて目の前で見た。
「……なるほど」
小さな声だった。
奎星には聞こえなかった。
本人はすでに神代榊を腰へ戻していたからだ。
「テメェらなんか」
馬から降りる。
首を左右へ倒し、肩をぐるりと回す。
「杖使うまでもねえよ」
「な、舐めやがって!」
太い男が怒鳴った。
刀を失ったことより、そちらの方が腹立たしかったらしい。
男が突っ込んでくる。
奎星は一歩だけ横へずれた。
拳が目の前を抜ける。腕を掴み、その勢いを殺さずに引く。男の身体が前へ崩れたところへ肩をぶつけ、足を払った。
「ぐっ!」
男が地面へ転がる。
すぐ立ち上がろうとした。
「おら!」
奎星の拳が頬へ入った。
「痛っ――」
「銭出せって言った奴が痛がんな!」
「理不尽だろ!」
「うるせえ!」
もう一発。
今度は男も腕で防いだ。
横から細い方が奎星へ飛びかかろうとする。
だが、その襟首を途中で誰かが掴んだ。
「どこを見ている」
清弦だった。
「は?」
清弦は男の腕を取り、身体を沈めた。
派手な動きではない。
ただ、腰が低い。
農作業や薪割りで培ったものなのか、それとも昔からこういう喧嘩に慣れているのか、男の重心が崩れた瞬間を逃さず、身体ごと地面へ叩きつけた。
「ぐえっ!」
「清弦!」
「何だ」
「意外とやるじゃん!」
「前を見ろ!」
「え?」
太い男の拳が奎星の顔面へ飛んできた。
「うおっ!」
紙一重で避ける。
「危ねえだろ!」
「喧嘩中だ!」
「知ってるよ!」
今度は奎星が腹へ一発。
男が折れたところで背中を押し、地面へ転がした。
隣では、清弦へ掴みかかった細い男が逆に腕を捻られ、膝をついていた。
「離せ!」
「黙れ」
「この野郎!」
「野郎は貴様だろう」
清弦がさらに腕を上げる。
「痛い痛い痛い!」
「お前も痛がってんじゃん!」
奎星が笑った。
「貴様は自分の方を見ろ!」
「もう終わった」
「何?」
見ると、太い男は地面へ仰向けになり、完全に戦意を失っていた。
「……何なんだよ、お前ら……」
男が息を切らしながら呟く。
奎星も少し息を弾ませていたが、その顔には余裕がある。
妖魔。
密猟者。
黒曜の環。
久我。
神代冥司。
御影玄一郎。
最後の一人だけ敵ではないはずなのに、訓練では下手な敵よりよほど容赦がなかった。
今さら街道の山賊二人に怯えるほど、奎星がくぐってきた修羅場は少なくなかった。
「現代人舐めんなよ」
「貴様の時代の人間が皆そうなら、未来へ行きたくなくなった」
「お前も殴ってただろ!」
「私は身を守っただけだ」
「俺もだよ!」
「途中から楽しんでいただろう」
「気のせい」
清弦が細い男を離す。
男は地面へへたり込み、仲間と顔を見合わせた。
刀はどちらもすぐには拾えない場所へ飛んでいる。
「次やったら」
奎星が言う。
「今度こそもっと痛えからな」
「もう十分痛えよ!」
「じゃあ覚えとけ!」
二人の山賊は、這うようにして道の端へ退いた。
奎星は鼻を鳴らし、再び馬へ向かう。
清弦がその後ろ姿を見る。
そして一度だけ、奎星の左手首へ視線を落とした。
黒い革帯と、銀色の文字盤。
奎星は何も言わなかった。
*
峠を越えた頃には、太陽はかなり高くなっていた。
道は再び人里へ近づき、小さな家や畑がぽつぽつと現れ始める。奎星の腹が盛大に鳴ったのは、その少し後だった。
「飯」
「分かった」
「今の聞こえた?」
「山賊よりうるさかった」
「腹減ったんだよ!」
「黙れ」
街道沿いに見つけた小さな茶屋兼飯屋へ入ることになった。
馬を軒先の繋ぎ場へ預け、低い暖簾をくぐる。中には木の卓がいくつか並び、壁際では大きな釜から湯気が上がっていた。旅人らしい男が二人、黙って飯をかき込んでいる。
出されたのは麦を混ぜた飯と、大根と油揚げの入った味噌汁、蕪の漬物、それから小さく切った焼き味噌だった。
「うま」
奎星は一口目で言った。
「普通の飯だぞ」
「歩いて馬乗って山賊殴った後なら何でもうめえよ」
「大きな声で言うな」
近くの客が振り返っている。
奎星は気にせず二口目を頬張った。
「でもさ」
「何だ」
「意外と強いんだなお前」
清弦の箸が止まる。
「意外とは何だ」
「だって病弱じゃん」
「誰が病弱だ」
「お前」
「少し熱が出やすいだけだ」
「三日前ぶっ倒れてただろ」
「少しだ」
「少しの意味知ってる?」
清弦は無視して味噌汁を飲んだ。
それから、ふと思い出したように奎星を見る。
「それより」
「ん?」
「なぜ魔法が使えるのに殴りかかった」
「え?」
「妖魔を倒した魔法があるだろう。あれを使えば、あの二人などすぐだったはずだ」
「ああ」
奎星は漬物を咀嚼しながら少し考えた。
「うーん」
「何だ」
「まあ、お灸を据えてやっただけ!」
「…………」
「何その顔」
「子供か」
「十八だよ」
「十分子供だろう」
「お前も同じくらいだろ!」
「私は少なくとも、相手の刀を飛ばした後で自分から殴りには行かん」
「嘘つけ。めちゃくちゃ腕捻ってたじゃん」
「あれは向こうが来た」
「俺も向こうが来た」
「貴様は肩を回して挑発した」
「細けえな!」
清弦は小さく息を吐いた。
けれど、その目には先ほどまでとは別の色があった。
「……あの魔法」
「ん?」
「相手の武器だけを飛ばすのか」
「エクスペリアームス?」
「ああ」
「まあ基本はそう。相手を殺したり大怪我させたりしないで止められる」
「誰でも同じように?」
「ちゃんと覚えればな。得意不得意はあるけど」
「…………」
「何」
「いや」
清弦は視線を飯へ戻した。
「便利だと思っただけだ」
奎星は眉を上げた。
「お前、現代魔法嫌いじゃなかったっけ」
「嫌いだと言った覚えはない」
「杖頼りだとか言ってたじゃん」
「妙だとは言った。使えないとは言っていない」
「素直じゃねえなあ」
「貴様に言われたくない」
奎星は笑いながら飯を平らげた。
食事を終えると、清弦が店の女主人へ声をかけた。日が暮れるまでに次の宿へ入れる保証がないことを話し、夜に食べられるものを用意できないか訊く。
女主人は頷き、しばらくして竹皮に包んだ握り飯をいくつか持ってきた。中には梅干しを入れたものと、表面へ焼き味噌を薄く塗ったものがあるらしい。漬物も小さな包みにして添えてくれた。
「これ夜飯?」
「ああ」
「宿あったら?」
「明日の朝食えばいい」
「天才じゃん」
「普通だ」
「俺の時代だとコンビニあるから」
「こんびに」
「……もう説明しねえ」
銭を払い、二人は再び馬へ戻った。
*
午後になると、奎星はだいぶ馬に慣れていた。
背中の揺れに合わせて腰を動かし、道が広いところでは少しだけ速度を上げる余裕もある。
「おお!」
馬が軽快に進む。
「見ろ清弦!」
「見ている」
「俺、もう乗れんじゃん!」
「朝の貴様よりはな」
「才能あるかもしれない」
「ない」
「即答すんな」
馬が鼻を鳴らす。
「なあ」
「今度は何だ」
「こいつ名前あんの?」
「知らん」
「ないの?」
「馬方に訊け」
「訊いてねえ」
「なら知らん」
奎星は馬の首筋を見た。
茶色い毛が午後の日差しを受け、少しだけ金色に光っている。
「よし」
「何がよしだ」
「今日からお前、ウミツバメ二号な」
馬の耳がぴくりと動いた。
清弦が無言でこちらを見る。
「何」
「馬だぞ」
「知ってる」
「ならなぜ鳥の名をつける」
「俺が初めて乗った乗り物がウミツバメだから」
「乗り物扱いするな」
「じゃあ二号」
「何の二号だ」
「ウミツバメ」
「戻っているではないか」
「二号、行け!」
奎星が手綱を軽く動かす。
馬は動かなかった。
「…………」
「嫌われているな」
「まだ名前覚えてねえだけ」
「馬も不憫だ」
「清弦の方は清弦号な」
「殺すぞ」
「何でだよ!」
二頭の馬が並んで街道を進む。
午後の光は少しずつ傾き始めていた。木々の影が道へ長く伸び、遠くの山肌が柔らかな橙色へ変わっていく。
最初に異変へ気づいたのは、奎星だった。
清弦の口数が減っていた。
それ自体は珍しいことではない。むしろ普段から奎星の方が圧倒的に喋っている。
だが、返事が遅い。
「清弦」
「何だ」
一拍。
僅かだが、遅れた。
奎星は横を見る。
清弦の背筋はまだ伸びている。手綱も握っている。けれど朝より顔色が白い。額には薄く汗が浮き、時折、馬が大きく揺れるたび眉間へ皺が寄る。
「お前」
「何だ」
「しんどい?」
「別に」
「嘘つけ」
「嘘ではない」
「じゃあ元気?」
「…………」
「ほら」
「うるさい」
奎星は前方へ視線をやった。
この先も道は山へ入っていく。次の宿場までどれくらいか、奎星には分からない。
空を見る。
まだ日没までは時間がある。
けれど、無理をして進む理由もなかった。
「この辺にしとこうぜ」
「何?」
「今日」
「まだ進める」
「俺が疲れた」
「午前ほど文句を言っていないではないか」
「今からまた言う」
「やめろ」
「疲れた。しんどい。馬の尻硬い。腹減った。眠い」
「急に増やすな」
「だから野宿」
「……奎星」
「鈴ちゃんがうるせえから」
清弦が黙った。
「お前が途中でぶっ倒れたら、帰ったとき絶対俺も怒られんじゃん。『どうして止めてくださらなかったんですか?』って」
奎星は鈴の口調を真似した。
清弦の眉間へ皺が寄る。
「似ていない」
「似てるだろ」
「似ていない」
「じゃあ続けるぞ?」
「……ここでいい」
「ほらな」
「貴様が疲れたからだ」
「はいはい」
奎星はそれ以上言わなかった。
清弦も言わなかった。
ただ、馬を降りたとき、清弦の膝がほんの少しだけ揺れたのを、奎星は見なかったことにした。
*
街道から少し外れたところに、小さな沢があった。
流れは澄んでいる。午前中に見た黒ずんだ沢とは違い、水底の石がはっきり見え、小さな虫が水面を走っていた。近くには平らな場所もあり、二頭の馬を繋いで休ませることもできる。
奎星と清弦は馬へ水を飲ませ、鈴が荷物へ押し込んでいた薄い敷物を地面へ広げた。
清弦が枯れ枝を集める。
奎星も何本か拾った。
「火口は――」
「いいよ」
神代榊を抜く。
「インセンディオ」
小さな炎が杖先から落ちた。
乾いた枝へ触れる。
最初は豆粒ほどだった火が、枯れ葉を舐め、細い枝へ移り、やがて安定した焚き火になった。
「ほら」
奎星は満足そうに座った。
「早い」
清弦は立ったまま、炎を見ていた。
「何」
「いや」
しゃがみ込む。
それでも視線は火ではなく、奎星の神代榊へ向いている。
「また見てる」
「悪いか」
「別に」
清弦はしばらく黙っていた。
焚き火の中で枝が一つ弾け、赤い火の粉が夜へ舞い上がる。
夕暮れはいつの間にか深くなっていた。木々の隙間に残っていた橙色が消え、青く薄暗い空へ一番星が浮かび始めている。
「港の方では」
清弦が口を開いた。
「ん?」
「外国では、それが当たり前なのか」
奎星は神代榊を見る。
「火を出すの?」
「それもだ。杖を使い、言葉を一つ唱える。先ほどの術も」
「ああ」
奎星は少し考えた。
「まあ……うん。俺の時代じゃ、それが普通だな」
「誰でも?」
「学校で習うよ。最初から上手くはいかねえけど」
「そうか」
「いずれこっちでも当たり前になるけど」
言ってから、奎星は清弦を見た。
「何だ」
「いや」
「何か知っている顔だな」
「気のせい」
未来の記録。
幕末に入り始めた西洋式の魔法を研究し、この国へ広めることに大きく関わった男。
蓮根清弦。
奎星はそれを知っている。
目の前の男は、まだ知らない。
今日、たった一つの武装解除魔法を見ただけで、清弦の目は変わった。便利だから、というだけではない。なぜそうなるのか、他の者にも同じことができるのか、自分たちの術と何が違うのか。その答えを追おうとする目だった。
神代以蔵が語った「測る」という考えに、清弦は人間が霊脈を所有する思想を拒んだ。
けれど、新しい魔法そのものを拒んではいない。
奎星には、その違いが少し面白かった。
「お前さ」
「何だ」
「意外と新しいもの好き?」
「知らないものを知りたいだけだ」
「それ新しいもの好きって言うんじゃね?」
「黙れ」
「はいはい」
腹が減ってきたので、昼に包んでもらった竹皮を開いた。
冷えた握り飯が並んでいる。
「お」
奎星は一つ取る。
「梅干しだ」
「私はそっちでいい」
「焼き味噌?」
「ああ」
「交換する?」
「いらん」
「一口」
「いらん」
「じゃあ俺一口もらう」
「なぜだ」
「未来から来た客だぞ」
「昼にも聞いた理屈だな」
「通らない?」
「通らん」
二人は焚き火を挟んで握り飯を食べた。
昼ほど豪華ではない。
冷えた飯と、塩気の強い梅干し。少し硬くなった表面へ焼き味噌の香りが残っている。
それでも、一日中身体を動かした後には十分だった。
「うめえ」
「そればかりだな」
「外で食うと三割増し」
「何が三割なのか分からん」
「気持ち」
「適当だ」
「細けえな」
食事の途中、清弦が荷物へ手を伸ばした。
鈴が持たせた小さな包みを取り出す。
中には丸めた薬がいくつか入っていた。
「お」
奎星がすぐに気づく。
「薬」
「見れば分かる」
「ちゃんと飲めよ」
「分かっている」
「鈴ちゃんに報告するから」
「するな」
「『清弦お薬飲んでませんでした』って」
「余計なことを言うな」
「じゃあ飲め」
清弦は嫌そうな顔をしながら薬を口へ放り込み、水筒の水で流し込んだ。
数秒後、眉間へ皺が寄る。
「苦い?」
「…………」
「苦いんだ」
「黙れ」
「子供じゃん」
「貴様にだけは言われたくない」
奎星は笑った。
笑い声が途切れると、山の夜は急に広くなった。
沢の音。
虫の声。
火が木を焼く小さな音。
二頭の馬が少し離れたところで草を踏む音。
未来では、ここまで静かな夜を探す方が難しいかもしれない。
学校なら今頃、大食堂の片付けが終わる頃だろうか。
誰かが廊下を走り、どこかの教室から笑い声が漏れ、寮へ戻れば日向が騒いでいる。楓が叱り、岳が何かを食べ、伊織は本を読んでいる。
そんな音がない。
百五十年以上。
数字で聞けば途方もないのに、昼間は清弦と口喧嘩をしていたせいで、あまり考えずに済んでいた。
夜になると、その距離だけが急に形を持つ。
「奎星」
「ん?」
清弦がこちらを見ていた。
正確には、奎星の手元を。
焚き火の明かりを受けて、左手首の銀色の文字盤が淡く光っている。
「その腕輪」
「時計?」
「時計というのか」
「そう」
「今日の賊に言われたとき、随分怒っていたな」
奎星の口が止まった。
「……まあ」
「高価なのか」
「値段は知らねえ」
「では、なぜ」
清弦はそこで一度言葉を切った。
炎の向こうから奎星を見る。
「そんなに帰りたい理由があるのか?」
「ん?」
予想していなかった質問だった。
奎星は少し目を瞬いた。
「帰る理由?」
「ああ」
「そりゃあるよ」
「何だ」
「まあ……」
奎星は火を見る。
「学校あるし」
真っ先に浮かんだのは、白い校舎だった。
崖の上に建つマホウトコロ。潮の匂い。朝の廊下。大食堂。観測塔。授業が終われば五人で馬鹿な話をし、試験前には全員で焦り、誰かが怪我をすれば結局みんな集まる。
「友達もいるし」
日向。
楓。
岳。
伊織。
顔が順番に浮かんだ。
何日も突然いなくなれば、絶対に騒いでいる。
日向は「また何かやってんだろ」と言うかもしれない。楓は最初に怒って、そのあと心配する。岳は妙なところで現実的な質問をする。伊織は黙って調べられるものを全部調べるだろう。
「進路も決めなきゃだし……」
それも本当だった。
十八歳。
上級課程の最終学年。
魔法省からは、普通なら存在しないような仕事まで持ち込まれた。特別魔術顧問。古代魔術、霊脈、特殊な魔法具。自分がこれまで巻き込まれてきたものばかりだ。
面白そうだと思った。
けれど、それで人生を決めていいのかは、まだ分からない。
禍祓官を見れば御影を思う。
教師を考えれば、別の人が浮かぶ。
誰かに「これが向いている」と決めてもらうのではなく、自分で選ばなければならない。
それを教えられてきた。
「あと……」
奎星は左手首を見る。
「先生も、いるし」
右手が、左の手首を包んだ。
銀色の腕時計ごと。
革帯が掌へ食い込むほど、無意識に強く握る。
もっとも。
その瞬間、奎星の頭の中にはスズメしか浮かんでいなかった。
御影の顔など一秒も出てこなかった。
「先生?」
清弦が訊く。
「スズメちゃん」
「…………」
「何」
「また妙な呼び方だな」
「名前だよ」
「教師だろう」
「そう」
「ちゃんをつけるのか」
「本人にも毎回言われる。『烏丸先生です』って」
「なら直せ」
「嫌だ」
「なぜだ」
「もうこれで慣れた」
奎星は笑った。
それだけの話のはずだった。
教師。
学校。
自分を魔法界へ連れてきた人。
そう説明すれば簡単だった。
けれど、その一言に収めようとすると、どうしても何かが零れた。
「俺さ」
「何だ」
「十七になるまで、自分が魔法使えるとか知らなかったんだよ」
「聞いた」
「普通の学校行ってて。進路とかも別に決まってなくて。将来何すんのって聞かれても、マジで何もなかった」
海賊。
昔、進路希望へ冗談半分にそんなことを書いた自分を思い出す。
未来を真面目に考えていなかった。
考えなくても明日は来ると思っていた。
「そこに急に来たんだよ。家に」
「その教師が?」
「うん。めちゃくちゃ真面目な顔して。俺に魔力があるとか、学校来いとか言って」
あの日のことは、今でも妙に細かく思い出せる。
自分の家。
両親。
羊羹を食べていたスズメ。
初対面なのに妙に落ち着いていて、そのくせこちらが「スズメちゃん」と呼べばきっちり訂正する。
そして巨大なウミツバメへ乗せられ、海を越えた。
「それで学校行って、最初の二週間は俺、魔力が安定しなくてさ。他の奴らと一緒に授業も受けられなかったんだけど」
奎星は焚き火へ細い枝を一本投げ入れた。
「毎日来たんだよ。あの人」
「教師なら来るだろう」
「まあ、そうなんだけど」
魔法を教えた。
歴史を教えた。
食事まで一緒にした。
必要な魔力だけを使え、と何度も言われた。力があることと、使い方を知っていることは違うと教わった。
それまで奎星にとって、魔法は突然手に入った面白い力でしかなかった。
スズメが、それを自分の人生へ繋いだ。
「俺が魔法怖くなったときも、連れてってくれた場所があってさ。観測塔っていうんだけど」
「何を見る」
「星とか海とか。まあ、俺はだいたいそこで落ち込んでる」
「何だそれは」
「そういう場所になっちゃったんだよ」
奎星は笑った。
けれど笑いながら、別の記憶が繋がる。
第零書庫。
拘束されたスズメ。
血の滲んだ手首。
自分だけ逃げろと言われて、それでも置いていけなかった。
崩れ落ちるものから庇った。
その頃にはもう、自分の中で彼女を「ただの教師」と言い切ることは難しくなっていたのだと思う。
「夏休みには祭り行って」
「教師と?」
「調査だよ」
「祭りへ?」
「調査!」
「随分楽しそうな調査だな」
「仕事もしたって!」
八咫祭。
人混み。
水月庵。
あんみつと水羊羹。
花火。
夜空いっぱいに開いた魔法の光を、並んで見上げた。
あの頃はまだ、自分の感情へ名前を付けることを真面目に考えていなかった。
ただ、学校では見えないスズメの顔を見るのが楽しかった。
何が好きで、何を嫌い、何に笑うのか。
知るたび、もっと知りたいと思った。
「水羊羹好きなんだよ」
「急だな」
「スズメちゃん」
「そうか」
「あと本持ちすぎ。書類も持ちすぎ。一人で何でもやろうとすんの」
「貴様が手伝えばいいだろう」
「手伝ってるよ。最近は」
だから誕生日には、たくさん入る魔法のトランクを贈った。
彼女が何を持ち歩いているか。
どんなときに困っているか。
自分でも驚くほど、いつの間にか見ていた。
「めちゃくちゃ真面目で、細けえし、すぐ怒るし」
「全然褒めていないな」
「でも、俺が本当にヤバいときは来る」
奎星の声が少しだけ変わった。
星迎祭。
花火の音。
嫌われたのだと思った夜。
距離を置かれ、何が悪かったのか分からないまま観測塔へ逃げ込んだ。
そして最後には、彼女の口から聞いた。
嫌ってなどいない、と。
大切な人だ、と。
離れないでほしい、と。
あの夜の言葉を、奎星は今でも忘れられない。
それから二人で踊った。
ひどく下手なダンスだった。
足を踏みそうになって、笑った。
たったそれだけのことが、命の危険を何度も越えた記憶と同じくらい、はっきり残っている。
「一回さ」
奎星が言った。
「俺のこと、全部忘れたこともあったんだよね」
清弦の眉が動いた。
「何?」
「そういう魔法の事件があって」
「全部とは」
「俺のことだけ。半年分」
あの冬。
砕けた窓。
脱線した列車。
赤い光。
目の前にいるのに、スズメの目には自分がいなかった。
――どちら様ですか。
たったそれだけで、自分が積み上げてきた半年が全部消えたように思えた。
七十九点。
初詣。
クリスマス。
銀色の腕時計。
自分だけが覚えている。
本人の中には何も残っていない。
「きつかった」
奎星は笑おうとした。
けれど、今度は少し失敗した。
「マジで」
「…………」
「でもさ」
右手がまだ腕時計を握っている。
「もう一回会ったんだよ」
「会っていただろう」
「そうじゃなくて」
記憶を失ったスズメと、また話した。
また歩いた。
また少しずつ、自分を知ってもらった。
過去を取り戻す方法が見つかったときでさえ、それが今の彼女を傷つけるなら、自分は昔の記憶など要らないと思った。
自分たちが積み重ねたものは惜しかった。
惜しいどころではない。
けれど、思い出の中のスズメより、今そこにいるスズメの方が大事だった。
結局、彼女は記憶を取り戻した。
そして、いつもの帰り道を歩いた。
特別なことなど何もない帰り道。
別れるときに言ったのは、たった一言だった。
また明日。
「俺さ」
焚き火が揺れる。
「前は、すげえことばっか覚えてると思ってたんだよ」
「すげえこと?」
「戦ったとか、死にかけたとか、学校取り戻したとか」
「十分すごいだろう」
「でも、そうじゃねえんだよな」
スズメが歩く速度。
呆れたときに少しだけ細くなる目。
自分が嘘をつけばだいたい見抜く顔。
「スズメちゃん」と呼んだあと、一拍置いて返ってくる「烏丸先生です」。
補習。
一緒に食べた飯。
くだらない話。
怒られたこと。
笑ったこと。
何も起きなかった日の方が、今になれば胸へ残っていた。
「普通に明日会えるって、結構すげえんだよ」
清弦は何も言わなかった。
奎星は自分の腕時計を見る。
銀色の文字盤の中で、秒針が進んでいる。
一秒。
次の一秒。
百五十年以上前へ落ちても、それだけは変わらない。
止まらず、戻らず、前へ。
「これ」
奎星が左手を少し持ち上げた。
「スズメちゃんにもらった」
清弦の視線が腕時計へ落ちる。
「だからか」
「何が」
「今日の賊だ」
「…………」
奎星は少し黙った。
「まあ」
「殺すとまで言っていたな」
「取られたくなかったんだよ」
「それにしても殺意が早い」
「反省してます」
「している顔ではない」
「次は殺すって言う前に殴る」
「反省していないだろう」
奎星が笑う。
けれど、その笑いはすぐ静かになった。
「クリスマスにもらったんだ」
「くりすます」
「……説明めんどくせえな。祭りみたいなもん」
「また祭りか」
「未来はいろいろあんの!」
スズメは自分へ、この腕時計を贈った。
黒い革の帯。
銀色の文字盤。
水に強く、魔法にもある程度耐え、暗いところでは魔力を通せば淡く光る。
それを受け取った日。
似合うかと訊いた。
似合っていると言われて、馬鹿みたいに嬉しかった。
その少し前、自分も彼女へ贈り物を渡していた。
烏の羽と星をあしらった銀色の栞。
ありがとう、と伝えるために。
あのときも、言いたいことの全部は言えなかった。
一度は神代冥司を前に、あれほど簡単に口にできた言葉なのに。
本人を目の前にすると、今でも喉の奥へ引っかかる。
「その者は」
清弦が言った。
「貴様にとって、随分大きいのだな」
「んー……」
奎星は焚き火を見る。
「今の俺がここにいるの、あの人のおかげのとこ、めちゃくちゃ多いから」
魔法を知った。
学校へ来た。
友達ができた。
御影と出会った。
何度も失敗した。
誰かを守ろうとした。
自分で選ぶということを覚えた。
十八歳になり、今度は学校の外へ出る未来を選ばなければならなくなった。
その入口に、いつもスズメがいた。
「だから帰りたい?」
「それだけじゃねえよ」
「学校も、友人も、進路も?」
「そう」
奎星は少し考える。
「……でも」
「何だ」
「帰ったら、まず怒られるだろうな」
「その教師に?」
「うん」
「なぜ」
「だって急に消えて、幕末来てんだぞ俺」
「好きで来たわけではないだろう」
「スズメちゃん、そこ分かってても怒るから」
「理不尽だな」
「違うんだよ」
奎星はすぐに否定した。
その速さに、自分で少し笑ってしまう。
「何が違う」
「心配した分、怒るんだよ。あの人」
「…………」
「だから」
奎星は言葉を探した。
「怒られたいっていうか」
「変な趣味だな」
「そういう意味じゃねえ!」
清弦の口元が僅かに上がった。
「じゃあ何だ」
「……『また明日』の先に戻りたいんだよ」
言ったあと、自分でも少し驚いた。
けれど、それが一番近かった。
大きな約束ではない。
一生だとか、永遠だとか、そんなことはまだ何も決めていない。
進路すら決まっていない。
卒業すれば、今までと同じ毎日は終わる。
教師と生徒という関係も変わる。
友達もそれぞれ別の道へ進む。
もしかすると、今より遠くなる者もいる。
だからこそ。
その先へ行かなければならなかった。
自分の未来がどうなるか、分からないまま。
間違えるかもしれないまま。
それでも選び、明日へ進む。
かつて、自分は一度、それとは逆の場所を見たことがある。
欲しいものが全部揃い、失った人まで戻り、教師と生徒の壁もなく、スズメへ何の躊躇もなく気持ちを伝えられる世界。
綺麗だった。
優しかった。
だからこそ、違うと思った。
自分が帰りたい場所は、何もかも都合よく整った未来ではない。
喧嘩もする。
試験もある。
御影には朝から走らされる。
進路は決まらない。
スズメを前にすれば、言いたいことの半分も言えなくなる。
それでも。
そちらが自分の人生だった。
「……よく分からん」
清弦が言った。
「だろうな」
「だが」
「ん?」
清弦は焚き火へ枝を足した。
「そのスズメという者の話だけ、随分長かったな」
奎星が止まった。
「…………」
「学校の話より長い」
「いや」
「友人の話より長い」
「それは」
「進路の話などほとんどしていない」
「お前さ」
「何だ」
「そういうとこだけ頭回るよな」
清弦は真顔だった。
「好きなのか、その者が」
夜の音が一瞬だけ遠くなった気がした。
奎星は答えなかった。
焚き火を見る。
沢を見る。
馬を見る。
最後に腕時計を見る。
銀色の文字盤へ火が映っていた。
「…………大切な人ではある」
「好きなら好きと言えばいいだろう」
「簡単に言うな!」
「なぜだ」
「いろいろあんだよ!」
「好きかどうか訊いているだけだ」
「教師だし! 俺まだ生徒だし! 卒業もしてねえし!」
「なら卒業してから言えばいい」
「だからそういう簡単な――」
そこで奎星は止まった。
清弦を見る。
清弦も見る。
数秒。
奎星の口元が、ゆっくり上がった。
「……おめえこそ」
「何だ」
「鈴ちゃんに言えてねえだろうが!」
清弦の顔が固まった。
「…………」
「好きなら好きって言えばいいんだろ?」
「黙れ」
「さっき自分で言ったじゃん!」
「黙れ!」
「鈴ちゃんのこと妹みたいなもんとか言ってたよな?」
「幼馴染だ!」
「俺も先生だ!」
「何が同じだ!」
「言い訳の種類!」
「違う!」
「じゃあ言えよ鈴ちゃんに!」
「貴様こそ言え!」
「俺の話は今いいだろ!」
「先に始めたのは貴様だ!」
「先に好きなら言えっつったのはお前だろ!」
「寝ろ!」
「逃げた!」
「寝ろと言っている!」
二頭の馬のうち、奎星が勝手にウミツバメ二号と名付けた方が、ぶるる、と大きく鼻を鳴らした。
二人が同時にそちらを見る。
「ほら」
清弦が言った。
「馬も呆れている」
「二号は俺の味方だよ」
「その名で呼ぶから嫌われるんだ」
「二号ー」
馬は顔を背けた。
「…………」
「嫌われているな」
「うるせえ」
やがて二人は焚き火へもう少し薪を足し、それぞれ敷物の上へ横になった。
山の夜気は冷たい。
奎星は制服の上から薄い掛け物を引き寄せた。隣では清弦が早々に目を閉じている。
「清弦」
「何だ」
「鈴ちゃんに言う?」
「寝ろ」
「好きって」
「黙れ」
「俺、未来帰ったら歴史調べるからな」
「何を」
「蓮根清弦、白川鈴に告白したか」
「そんなもの記録に残るか!」
「残しとけよ!」
「なぜ私が!」
「子孫として知りたい」
「余計なお世話だ!」
また少しだけ言い争った。
けれど、その声も長くは続かなかった。
一日歩き、馬に乗り、山賊と殴り合い、また馬で進んだのだ。身体の疲れは正直だった。
「……奎星」
暗闇の中で清弦が言う。
「んー?」
「明日はもう少し早く出るぞ」
「無理」
「出る」
「二号が起きたら」
「馬に決めさせるな」
「おやすみ」
「貴様……」
そこで会話が途切れた。
沢は変わらず流れている。
火は少しずつ小さくなり、赤い熾火だけが二人の寝顔を淡く照らした。少し離れたところでは二頭の馬も脚を休め、時折尾を揺らしている。
奎星は眠りへ落ちる直前、もう一度だけ左手首を右手で包んだ。
銀色の腕時計。
百五十年以上先で、烏丸スズメから贈られたもの。
今日、山賊に奪われそうになったとき、自分でも驚くほど腹が立った理由を、今なら少しだけ分かる。
ただの贈り物だからではない。
その時計には、自分が帰るべき時間があった。
初めて魔法を教わった日。
一緒に飯を食べた日。
花火を見た夜。
離れないでほしいと言われた夜。
手を握った夜。
時計をもらったクリスマス。
忘れられた冬。
もう一度出会い直した日。
そして、何事もなく「また明日」と言えた帰り道。
過ぎた時間ばかりではない。
まだ来ていない時間も、その向こうにはある。
卒業。
進路。
自分の知らない明日。
スズメの知らない自分になるかもしれない未来。
それでも、そこへ帰りたかった。
会いたい、と口にすれば簡単だった。
好きだ、と言ってしまえば、もっと簡単だったのかもしれない。
けれど奎星にとって帰るということは、そのどちらより少し大きかった。
彼女のいる場所へ戻るだけではない。
彼女と出会ったことで始まった、自分自身の人生の続きを選びに戻ることだった。
腕時計の秒針が、一つ進んだ。
もう一つ。
逆転時計とは違う。
戻らない。
巻き戻さない。
ただ前へ進む。
幕末の山中で、未来から来た少年が眠りについたあとも。
銀色の時計だけは、百五十年以上先にある「また明日」へ向かうように、静かに時を刻み続けていた。