マホウトコロ   作:西野圭吾

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第5話 シャル・ウィ・ダンス?

 横浜が見えた。

 

 最初にそれを口にしたのは清弦だった。夜明けとともに、前夜を過ごした沢を発ってから数時間、二人は借りた馬に揺られながら街道を進んでいた。山道はいつしか緩やかな丘へ変わり、左右から迫っていた木々が途切れると、頭上には驚くほど広い空が開けた。その向こうに、海があった。

 

「……おお」

 

 奎星は思わず背筋を伸ばした。

 

 小萱村から見渡した山の彼方にも、青いものはあった。けれど、目の前に広がる海は、それとはまるで違っていた。視界の果てまで続く水面には、幾本もの帆柱が林立している。白い帆を畳んだ大型船が沖に浮かび、そのさらに向こうでは、黒い船影が煙を吐きながらゆっくりと進んでいた。小舟はその間を縫うように行き交い、海岸へ近づけば、荷を積み下ろすための波止場が二本、海へ向かって伸びている。

 

 港の背後には、海と陸の狭間へ押し込まれるようにして町が広がっていた。瓦屋根や板葺きの家、白壁の土蔵が密集する中に、見慣れない建物がいくつも混じっている。二階建ての白い壁、大きな硝子窓、外へ張り出した欄干、縦長の鎧戸。屋根の上や海岸近くでは、日の丸とは異なる色と模様の旗が風を孕み、異国の存在を隠そうともせずに翻っていた。

 

 丘の下からは、町のざわめきが風に乗って届いてくる。人の声、馬のいななき、荷車の車輪が石を擦る音、木箱を積み重ねる音、どこかで鳴る金属音。そのすべてに、潮の匂いが混じっていた。海の匂いだけではない。濡れた木材、魚、石炭、汗、異国の香辛料。いくつもの土地の気配が、港という一つの場所へ押し寄せている。

 

「横浜……」

 

 奎星が呟くと、清弦が短く「ああ」と答えた。

 

 その瞬間、奎星の胸の内で堰が切れた。

 

「横浜じゃん!!」

 

 突然の大声に、茶色い馬が驚いて耳を立てた。奎星が勝手にウミツバメ二号と呼んでいる馬である。

 

「うるさい!」

 

「ごめん二号!」

 

「馬に謝る前に私に謝れ!」

 

「いや、待って、マジで横浜じゃん!」

 

「だから横浜へ来たのだろうが!」

 

「そういうことじゃねえんだよ!」

 

 奎星は手綱を握ったまま、丘の下に広がる町を忙しなく見回した。未来の横浜なら何度か訪れたことがある。駅も、舗装された道路も、高層建築も、海沿いに並ぶ巨大な施設も知っている。けれど、いま目の前にある横浜は、彼の記憶の中にあるどの景色とも繋がらなかった。

 

「俺、横浜には何回か来たことあるんだよ!」

 

「未来の横浜だろう」

 

「そう! でも全然違う!」

 

「当たり前だ」

 

「ビルねえ!」

 

「びる?」

 

「観覧車ねえ!」

 

「何だそれは」

 

「駅もねえ!」

 

「昨日からそればかりだな」

 

「海はある!」

 

「横浜だからな」

 

「港もある!」

 

「横浜だからな!」

 

 清弦は苛立たしげに言い返したが、その声とは裏腹に、彼自身も丘の下から目を離せずにいた。

 

 奎星が町全体を一枚の絵のように眺めているのに対し、清弦はそこにあるものを一つずつ拾い上げていた。沖合に浮かぶ船の形、帆の張り方、港へ向かう荷車の数、荷に掛けられた筵、遠くに見える異国風の建物、馬に乗った外国人らしき男の服装、頭に載せた見慣れない帽子、店先の看板に並ぶ読めない文字。彼の視線は忙しく動いているのに、表情は妙に静かだった。

 

 知らないものを前にして警戒している。けれど同時に、明らかに魅せられている。

 

「お前」

 

 奎星がにやりと笑った。

 

「何だ」

 

「めっちゃ見てんじゃん」

 

「見ていない」

 

「見てるじゃん」

 

「町を確認しているだけだ」

 

「楽しい?」

 

「何が」

 

「横浜」

 

「調べ物に来ただけだ」

 

「昨日、俺が八咫小路の話をしたときのスズメちゃんみたいなこと言ってんな」

 

「誰だ、それは」

 

「昨日、散々話しただろ!」

 

 清弦は答えず、馬の腹を軽く蹴った。二頭の馬が丘を下り始める。

 

 しかし、その直後だった。異国船から降ろされたらしい木箱を運ぶ一団が道を横切ると、清弦の首がまたそちらへ向いた。

 

 奎星は見逃さなかった。

 

「ほら見た!」

 

「黙れ」

 

            *

 

 丘を下るにつれて、横浜は遠くから眺める町ではなく、一つ一つの生活として奎星たちの前へ現れ始めた。

 

 まず目についたのは、荷だった。縄で何重にも括られた生糸の束、茶を詰めた木箱、海産物らしい俵。港へ向かう荷車には、日本各地から集められた品が積まれ、反対方向へ進む荷車には、色鮮やかな織物、鉄製品、硝子瓶、見たことのない器具が載せられている。

 

 どこか一つの町から物が集まっているのではない。日本中から集められたものがここへ流れ込み、海の向こうから来たものが、ここを起点にまた日本各地へ散っていく。その流れが、道を歩いているだけで分かった。

 

「生糸だ」

 

 清弦が前方の荷車を見ながら言った。

 

「そうなの?」

 

「村にも買い付けに来る者がいる。だが、あれほどの量は初めて見た」

 

「へえ」

 

「あれは茶か」

 

「たぶん」

 

「貴様、未来から来たくせに何も知らんな」

 

「未来人が全員、横浜港の貿易品を知ってると思うなよ」

 

「何のための未来人だ」

 

「お前の歴史を見るためじゃねえよ!」

 

 道の端では、商人たちが声を張り上げていた。羽織姿の日本人商人と、帽子を被った外国人の間に、若い日本人が一人立っている。彼は片言の英語と身振りを交えながら、紙へ数字を書きつけ、双方へ見せていた。値段の交渉をしているらしい。

 

 町へ近づくほど、聞こえてくる音も変わっていった。日本語の怒鳴り声に英語が混じり、さらにその向こうから、喉の奥で転がすような異国の言葉が聞こえる。フランス語らしい響きもあった。船員が大声で笑い、商人が怒鳴り、荷運び人足が「道を空けろ」と叫ぶ。そのすべてを、馬の蹄が乾いた音で縫っていく。

 

「すっげえ……」

 

 奎星は完全に観光客の顔をしていた。

 

「見ろ清弦、外国人めっちゃいる」

 

「見れば分かる」

 

「うわ、あの人、帽子高っ」

 

「指を差すな」

 

「あっちの建物、洋館じゃん」

 

「ようかん?」

 

「建物!」

 

「菓子かと思った」

 

「お前も水羊羹に染まってきてねえ?」

 

「何の話だ」

 

 二人は開港場の入口近くで馬を預けた。昨日借りた宿場と繋がりのある馬方へ印を見せると、こちらで引き取ってくれることになっていたらしい。

 

 奎星は馬から降りた。昨日とは違い、もう反対側へ落ちそうになることもない。少し得意そうに地面へ立つと、茶色い馬の鼻先を撫でた。

 

「じゃあな、二号」

 

 馬が鼻を鳴らす。

 

「達者でな」

 

 馬は顔を背けた。

 

「おい」

 

 さらに背ける。

 

「昨日、一緒に寝ただろ!?」

 

「馬に未練がましくするな」

 

「二号!」

 

 馬方に引かれたウミツバメ二号は、一度も振り返らなかった。

 

 清弦が淡々と言う。

 

「最後まで嫌われていたな」

 

「照れてんだよ」

 

「幸せな頭だな」

 

 二人は橋を渡り、関門を抜けて町へ入った。

 

 そこから先は、空気の密度そのものが変わった。道の両側には日本人商人の店が並び、その先には外国人向けの商館が見える。古い日本家屋の隣に、真新しい二階建ての西洋風建築が建ち、白壁の建物の横には木材の色を残した家が立っている。格子戸の隣には大きな硝子窓があり、瓦屋根の先からは煙突が伸びていた。

 

 町そのものが、まだ自分の行き先を決めていないように見えた。

 

 日本でもある。

 

 外国でもある。

 

 どちらでもなく、けれど、どちらにもなろうとしている。

 

 奎星は何度も足を止めた。

 

「清弦、見て!」

 

「何だ」

 

「パン!」

 

 店の奥で、丸い褐色の塊が籠へ並べられている。焼けた小麦の香りが、潮の匂いに混じって漂ってきた。

 

「何だ、それは」

 

「パン!」

 

「だから何だ」

 

「食いもん!」

 

 別の店先では、大きな肉の塊が吊るされていた。

 

「うわ、でけえ肉!」

 

「声を落とせ」

 

 さらに先には、硝子の奥へ見慣れない器具が並んでいる。

 

「何あれ」

 

「私に訊くな」

 

「外国の酒かな」

 

「昼間から酒のことを考えるな」

 

「あ、写真屋っぽい!」

 

「しゃしん?」

 

「未来で説明する!」

 

「今説明しろ!」

 

 清弦は文句を言いながらも、奎星が指した店を一つ残らず見ていた。硝子、真鍮、機械、印刷物、海の向こうで作られたらしい細かな部品。日本語ではない文字。その一つ一つへ、彼の視線が留まる。

 

 奎星はそんな清弦の横顔を見て、少しだけ笑った。

 

 これが後に、外国から入ってきた魔法を調べる男になる。未来の資料に書かれていたことを思い出す。近代魔術の礎を築いた一人。西洋の魔法体系を研究し、それを日本へ広めた人物。

 

 目の前の清弦は、まだ何も知らない。ただ、その始まりになるかもしれない光景を、いま初めて見ている。

 

「……何だ」

 

 視線に気づいた清弦が眉を寄せた。

 

「いや」

 

「気味が悪い」

 

「歴史って面白えなって」

 

「私の顔を見て言うな」

 

「お前の話なんだけど」

 

「意味が分からん」

 

「知らなくていいよ」

 

 奎星は前へ向き直った。

 

 そして三歩進んだところで、また足を止めた。

 

「うわ!」

 

「今度は何だ!」

 

            *

 

 最初は、ただの細い路地に見えた。

 

 日本人が営む生糸商の店と、外国製の金属器具を扱っているらしい商館。その間に、人一人がどうにか通れるほどの隙間がある。道行く人々は誰も気に留めず、荷車でさえ、その前だけは自然に避けて通っていた。

 

 けれど、奎星には見えた。

 

 路地の奥、日陰になっているはずの空間で、淡い青い光が揺れている。光は壁に反射しているのではなく、空気そのものの中で呼吸するように明滅していた。

 

「清弦」

 

「ああ」

 

 清弦にも見えていた。

 

 路地の入口には、小さな木札が掛かっている。表には筆で書かれた日本語、その下にはアルファベット、さらにその下には奎星にも読めない文字が刻まれていた。風が吹くたび、文字の並びがわずかに入れ替わる。

 

「これ」

 

 奎星の声が弾んだ。

 

「魔法だよな」

 

「だろうな」

 

「行こう」

 

「待て」

 

 清弦の制止より先に、奎星は路地へ入った。

 

「おい!」

 

 一歩、路地の陰へ身体を入れる。二歩目で、外の喧騒が少し遠ざかった。三歩目を踏み出したとき、空気の質が変わった。

 

「……うわ」

 

 奎星は思わず声を漏らした。

 

 路地の向こうにあったはずの狭い空間が、あり得ないほど広がっていた。

 

 八咫小路とは、まるで違う。

 

 八咫小路が古い日本の魔法社会を、そのまま一つの町へ閉じ込めた場所だとすれば、ここは世界中の魔法が港でぶつかり合い、そのまま一つの通りへ押し込められたような場所だった。

 

 石畳の両側には、木造の日本家屋だけでなく、黒い格子を持つ二階建ての商館、白壁と濃い木枠を組み合わせた店、硝子窓を大きく取った薬舗が並んでいる。その隣には、どう見ても江戸の商家としか思えない建物があり、暖簾の横へ英語の看板が吊られていた。

 

 軒先からは提灯が下がり、そのすぐ隣では真鍮製のランタンの中で青い炎が燃えている。日本語、英語、フランス語、オランダ語らしき文字が、縦書きと横書きのまま一枚の看板の中で肩を並べていた。

 

 不思議なことに、雑然としているのに町全体は一つに見えた。

 

「うっわ……」

 

 奎星の目が完全に輝いた。

 

「何これ」

 

「私が知るわけないだろう」

 

「めちゃくちゃいいじゃん!」

 

 八咫小路で初めて魔法の商店街を見たときとは、また違う興奮だった。あそこには、昔から続いてきたものの美しさがあった。木、紙、灯籠、老舗、長い年月の中で磨かれた魔法。けれど、ここにはまだ完成していないものの勢いがある。だからこそ、何でもあった。

 

 通りの一角では、着物姿の老人が外国人の男へ護符を見せている。男は片手に杖を持ち、もう片方の手で紙へ何かを書きながら質問していた。互いの言葉は十分には通じていないらしく、途中から身振りまで加わっている。

 

 その隣には、細長い箱が壁一面に並んでいた。

 

 杖屋だった。

 

 日本の木で作られたものだけではない。色の濃い木、白っぽい木、節の奇妙な木、銀や真鍮を柄へ巻いたもの。細身のものもあれば、船の櫂を思わせるほど太いものもある。店先には英語の看板が掲げられ、その横に日本語で《西洋杖 修理・調整》と書かれていた。

 

「杖屋!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「見れば分かる」

 

「ちょっと入ろうぜ!」

 

「神代以蔵を探しに来たのだろう」

 

「三分!」

 

「駄目だ」

 

「一分!」

 

「駄目だ」

 

「見るだけ!」

 

「いま見ている」

 

「中!」

 

「後だ!」

 

 清弦に襟首を掴まれて引き戻される。

 

「スズメちゃんかよ!」

 

「誰がだ!」

 

 通りを進んでも、奎星の首は忙しく動き続けた。

 

 右手には魔法薬店がある。外国製らしい透明な硝子瓶が棚へずらりと並び、その中で赤や青の液体が勝手に泡立っていた。日本の薬草を束ねたものと、奎星にも見覚えのない乾燥植物が同じ棚へ置かれている。

 

 左手には本屋があった。和綴じ本の隣に革張りの洋書が並び、魔法陣を描いた巻物や、金色の文字が表紙の上を動き続ける分厚い本まで置かれている。店の奥では、外国人の魔法使いと日本人の店主が同じ本を指差しながら値段を交渉していた。

 

「本屋!」

 

「入らんぞ」

 

「まだ何も言ってねえだろ!」

 

「顔に書いてある」

 

「古本あるかな」

 

「知らん」

 

「スズメちゃん連れてきたら、一日出てこなそう」

 

「その教師の話は昨日からもう十分だ」

 

「絶対好きだって」

 

「知らん」

 

 次の店では箒が売られていた。日本の竹を組んだもの、西洋風の長い柄を持つもの、その中には船の櫂を加工したような巨大なものまで吊るされている。

 

「箒!」

 

「もう驚くな」

 

「でも、これ飛ぶんだろ!?」

 

「魔法使いの店ならそうだろう」

 

「日向に見せてえ!」

 

「誰だ」

 

「友達」

 

「昨日話していた奴か」

 

「そう。箒バカ」

 

「貴様の周りは変なのしかおらんのか」

 

「お前に言われたくねえ」

 

 町には、物だけでなく人も混ざっていた。羽織袴の日本人、洋服姿の外国人、着物の上へ西洋風の上着だけを羽織った者。外国人らしい顔立ちなのに足元だけ草履の男もいる。片言の日本語で客を呼び込む店員の横では、ひどい英語で値切ろうとする日本人が声を張り上げていた。

 

 その足元を、頭ほどの大きさしかない小妖が酒瓶を抱えて走り抜ける。

 

 奎星は目を見開いた。

 

「天ぷらみたいなのいる!」

 

「何だ、天ぷらとは」

 

「知り合いの小妖」

 

「なぜ食べ物の名を」

 

「本人が気に入ってんだよ」

 

「未来は本当に大丈夫なのか」

 

「大丈夫じゃないからここにいるんだよ」

 

 さらに奥へ進むと、貿易商らしい大きな店の前に木箱が積まれていた。側面には英語で行き先が記され、その上から日本語の札が貼られている。中身は魔法薬の材料らしく、乾燥薬草や魔力を通しやすい絹布が詰められていた。

 

 その向こうでは、西洋から運ばれてきたらしい真鍮製の測定器を、日本人の術者が興味深そうに覗き込んでいる。

 

 清弦の足が止まった。

 

 奎星も立ち止まる。

 

「これ」

 

 清弦の視線が、一つの器具へ向いていた。丸い盤、細い針、刻まれた目盛り、側面に付いた小さな取っ手。神代以蔵が持っていた器具と、どこか似ている。

 

「ああ」

 

 奎星も頷いた。

 

 完全に同じではない。けれど、そこにある思想は同じだった。感じるものを測り、針へ変え、数字へ変え、記録できる形にする。

 

 清弦が店先へ近づく。先ほどまで「調べ物に来ただけだ」と言い張っていた男の目が、明らかに変わっていた。

 

「いらっしゃい」

 

 店主は四十ほどの日本人で、着物の上から西洋風の濃い色の前掛けをしていた。

 

「それが気になるかね」

 

 清弦は器具を指した。

 

「何を測る」

 

「魔力の動きだよ。外国から入ってきたものを、こっちの職人が少し直した。まだ狂うがね」

 

「どの程度」

 

「地面に置けば方角くらいは出る。流れの強弱も大雑把には分かる」

 

 清弦は黙って器具を見つめた。

 

「買うかい?」

 

「いくらだ」

 

 値段を聞いた瞬間、清弦の表情がわずかに固まった。そして、何事もなかったように器具を元の場所へ戻す。

 

 奎星が訊いた。

 

「高い?」

 

「黙れ」

 

「高いんだ」

 

「黙れ!」

 

 店を離れてからも、清弦は何度か振り返った。奎星は口元を上げる。

 

「欲しい?」

 

「欲しくない」

 

「目が欲しいって言ってる」

 

「言っていない」

 

「買えば?」

 

「金がない」

 

「素直じゃん」

 

「黙れ」

 

 清弦は不機嫌そうに前へ進んだ。

 

 けれど奎星には分かっていた。この町は、清弦にとって危険だ。何もかもが新しすぎる。そして、面白すぎる。

 

            *

 

 しばらく歩いたところで、奎星の腹が鳴った。周囲の喧騒にも負けない、ぐうううう、という音だった。

 

「腹減った」

 

「聞けば分かる」

 

「飯にしようぜ」

 

「駄目だ」

 

「何で!?」

 

 奎星はすぐ近くの店を指した。店先では大きな鍋から湯気が立ち、肉と豆を煮込んでいるらしい香辛料の匂いと、焼いた小麦の香ばしさが道へ流れている。別の卓にはパンが積まれ、その向こうには日本の焼き魚と飯を出す店があった。さらに先では、見たことのない丸い焼き菓子を外国人が食べている。

 

「見ろよ!」

 

「何を」

 

「飯!」

 

「見えている」

 

「食おう!」

 

「だから駄目だ」

 

「金あるじゃん」

 

 奎星が清弦の懐を見ると、清弦の目が細くなった。

 

「これは宿代だ」

 

「あるじゃん」

 

「宿代だと言った」

 

「ちょっとくらい使っても」

 

「足りなくなれば野宿だ」

 

 奎星の口が止まった。昨夜の沢、硬い地面、冷たい夜気、朝になったときの身体の痛みが、鮮明に蘇る。

 

「宿、大事だな」

 

「だろう」

 

「でも飯も大事じゃん」

 

「我慢しろ」

 

「死ぬ」

 

「昼までは食べただろう」

 

「何時間前だと思ってんの」

 

「人間は半日食べなければ死ぬのか」

 

「俺は死ぬ」

 

「勝手に死ね」

 

「子孫だぞ、俺!」

 

「百五十年後なら今ここで死んでも私は困らん」

 

「クソジジイ!!」

 

 奎星は腹を押さえながら歩いた。香りだけが次々と襲ってくる。

 

「パン……」

 

「見るな」

 

「肉……」

 

「見るな」

 

「何か甘いやつ……」

 

「見るな」

 

「拷問じゃん」

 

「神代以蔵を探せ」

 

「腹減って集中できねえ」

 

「普段から大して集中していないだろう」

 

「何でスズメちゃんと同じこと言うんだよ!」

 

 そのときだった。

 

「おい。お前、今夜の決闘会は出るか?」

 

 少し先の路地脇で、二人の日本人魔法使いが話していた。奎星の足が止まり、清弦も同時に振り返る。

 

「決闘?」

 

 二人の男は二十代ほどだった。一人は長笛を腰へ差し、もう一人は細い数珠のようなものを手首へ巻いている。

 

「出るわけねえだろ」

 

 数珠の男が吐き捨てた。

 

「昨日見ただろ。あんなの、決闘じゃねえ」

 

「賞金はいいぞ」

 

「だから皆出るんだろうが」

 

「お前なら一人くらい倒せるんじゃないか」

 

「板の上でか?」

 

 男は鼻で笑った。

 

「地面から浮かせた台に乗せられて、合図が鳴った瞬間には向こうの杖が飛んでくる。地脈を読む暇も、印を組む暇もありゃしねえ」

 

「まあな」

 

「あいつら、自分らに都合のいいやり方で勝って楽しんでやがる」

 

「それでも昨日は三人出ただろ」

 

「意地だよ」

 

 男は苦々しい顔をした。

 

「異人どもに、こっちの術が遅いだ弱いだ言われて、黙って帰れるか」

 

 奎星の目が細くなる。

 

 清弦が横目で彼を見た。

 

 嫌な予感がした。それは、奎星と出会って数日しか経っていない清弦にさえ分かる顔だった。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「何を考えている」

 

「何も」

 

「顔が笑っている」

 

「笑ってねえよ」

 

「口元を見ろ」

 

 奎星は自分の口元へ触れた。確かに、上がっていた。

 

「賞金あるって」

 

「駄目だ」

 

「飯食える」

 

「駄目だ」

 

「宿も取れる」

 

「駄目だ」

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「面白そうじゃね?」

 

「やめろと言っている!」

 

 だが、奎星はすでに二人の男へ近づいていた。

 

「すんません」

 

「ん?」

 

「その決闘って、どこでやってんすか?」

 

            *

 

 場所を聞いた瞬間、奎星は迷わなかった。

 

 魔法商店街の大通りから横へ入り、酒場と魔法薬店の間にある細い裏路地へ進む。清弦はその後ろを追いながら、何度も声を荒らげた。

 

「待て!」

 

「早く!」

 

「何が早くだ!」

 

「始まってんだろ!」

 

「神代以蔵はどうする!」

 

「終わってから探す!」

 

「本末転倒だ!」

 

「金ねえんだろ!」

 

「だからといって決闘で稼ぐ奴があるか!」

 

「ここにいる!」

 

「自慢するな!」

 

 路地の一番奥、樽が積まれた壁の横に地下へ続く階段があった。入口には大柄な外国人の男が立っている。赤らんだ顔で腕を組み、近づいてきた奎星を見て眉を上げた。

 

 男は二人を見比べると、奎星の腰に差された神代榊へちらりと目をやり、英語で訊ねた。

 

「You here to watch, boy, or are you putting your name down to fight?」

 

「…………」

 

 奎星が止まった。

 

 清弦も止まる。

 

「何と言った」

 

「知らねえ」

 

「即答か」

 

「だって何言ってんのか全然わかんねえもん!」

 

「貴様、未来では外国の言葉を習わんのか」

 

「習うけど分かるとは言ってねえだろ!」

 

 外国人は怪訝そうに眉を寄せた。

 

 今度は少し声を落とし、自分の目を指してから地下を示し、続いて拳を握って杖を振るような仕草をした。

 

「Watch? Or fight? Fight?」

 

「……ファイト!」

 

 そこだけは分かった。

 

 奎星の顔がぱっと明るくなる。

 

「あ、ファイト! ファイトは分かる!」

 

「威張るな」

 

 奎星は自分の胸を親指で何度も指した。

 

「ミー! ミー!」

 

 次に握り拳を作り、見えない杖を振るような動きをする。

 

「ファイト! ミー、ファイト!」

 

 地下を指す。

 

 また自分を指す。

 

「ミー! ファイト! アンダー! ゴー! オーケー!?」

 

「…………」

 

 清弦が横で何とも言えない顔をした。

 

「何だよ」

 

「それは何語だ」

 

「英語だよ!」

 

「本当に?」

 

「たぶん!」

 

 奎星はさらに身振りを大きくした。

 

 自分を指す。

 

 地下を指す。

 

 神代榊を指す。

 

 拳を構える。

 

「ファイト! 俺! ……じゃねえ、ミー! ミー・ファイト! オーケー!?」

 

 最後には両手で大きな丸まで作った。

 

 外国人は数秒、無言で奎星を眺めていた。

 

 やがて。

 

 ぶふっ、と吹き出した。

 

「何で笑った!?」

 

「知らん」

 

 男は肩を揺らしながら道を開け、親指で地下を示した。

 

 どうやら意図だけは伝わったらしい。

 

「ほら! 通じた!」

 

「言葉ではなく動きでな」

 

「コミュニケーション取れてんだから一緒だろ!」

 

「貴様はもう喋らない方が伝わるのではないか」

 

「うるせえ!」

 

 奎星は階段を下りた。三段、五段、十段と進むにつれて、地下から響く音が大きくなっていく。最初は人の声だった。それがやがて怒号になり、机を叩く音、笑い声、外国語、日本語、何かが爆ぜる音が混じり合った。

 

 そして、地鳴りのような歓声が地下から吹き上がってきた。

 

 階段の最後にある厚い木の扉を抜けた瞬間、熱気が身体へぶつかった。

 

「……っ」

 

 清弦が足を止める。

 

 奎星の顔から、腹が減ったという表情が完全に消えた。

 

 地下室は広かった。元は倉庫か酒蔵だったのかもしれない。石造りの壁、低い天井、太い梁。その中央だけが大きく開けられ、そこへ木製の四角い台が組まれている。

 

 奎星が見た瞬間に思ったのは、プロレスのリングだった。

 

 もちろん、未来のものとは違う。四隅には太い柱が立ち、その間を縄が囲んでいる。床板には白い円と何本もの西洋魔術式が描かれ、ところどころへ打ち込まれた真鍮の杭の先端を、淡い光が走っていた。観客へ魔法が飛ばないようにするための、簡易的な防護結界なのだろう。

 

 しかし、清弦が見ていたのは別の部分だった。

 

「……地面から切っている」

 

「何?」

 

「台だ」

 

 リングは石床から腰ほどの高さまで持ち上げられている。

 

「これでは、地の流れを掴みにくい」

 

「ああ」

 

 先ほどの男たちが言っていた意味が分かった。土地、霊脈、足元、呼吸、印。そうしたものを組み合わせて術を発動する古い日本の魔法使いにとって、ここは最悪に近い場所だった。

 

 対して、杖を握り、術者自身の魔力を通し、一つの言葉と動作で放つ西洋式魔法には、ほとんど関係がない。

 

「ホームゲームじゃん」

 

「何だ」

 

「向こうの土俵ってこと」

 

「ああ」

 

 清弦の眉間へ深い皺が刻まれた。

 

 リングの周囲には、外国人の魔法使い、日本人の魔法使い、商人、船乗り、通訳らしき者、酒場の女たちがひしめいている。卓の上には酒瓶と木製の杯が並び、見慣れない銀貨や一分銀、紙に書かれた賭け札が飛び交っていた。金が飛び、罵声が飛び、酒まで飛ぶ。

 

「Five on James!」

 

「十両だ!」

 

「馬鹿、そんなに張るな!」

 

「Come on, James! Finish him!」

 

「立て! まだ終わってねえぞ!」

 

 四方から飛んでくる英語は、奎星の耳にはほとんど意味のない音の塊だった。

 

「何言ってんの、あいつら」

 

「私に訊くな」

 

「ジェームズは分かった」

 

「人の名だろう」

 

「あとジャパンなら分かる」

 

「大したものだな」

 

「バカにしてる?」

 

「している」

 

 空気は煙で白く濁っていた。煙草と酒、汗、焦げた木、魔力を撃ち合った後に残る鉄に似た臭いが、地下室の熱気へ混じっている。

 

「……すげえな」

 

 奎星が呟く。

 

「感心するところか」

 

「学校の決闘場より治安悪そう」

 

「学校にこんなものがあるのか?」

 

「あるけど酒はねえよ!」

 

 そのとき、リングから大きな衝撃音が響いた。

 

「Depulso!」

 

 奎星の目が開く。

 

 それだけは英語ではない。

 

 聞き慣れた呪文だった。

 

 青白い衝撃が一直線に走り、リング上にいた日本人魔法使いが、印を結び終えるより早く胸を撃ち抜かれる。身体が浮き、そのまま縄へ背中から叩きつけられた。

 

 縄が大きくしなり、男はリングの内側へ落ちた。

 

「うおおおおっ!」

 

 外国人側の観客が沸き、日本人側から罵声が飛ぶ。

 

 リング中央には、一人の男が立っていた。金褐色の髪、三十歳前後の年齢、肘まで捲った白いシャツ、濃い色のズボン、革靴。上着はリング脇へ脱ぎ捨てられ、手には細身の杖が握られている。

 

 男は倒れた日本人を見下ろしながら、英語で言った。

 

「Is that the famed sorcery of Japan? By thunder, I’ve seen dockhands move quicker than that!」

 

 外国人たちが爆笑する。

 

「…………」

 

 奎星は黙って男を見た。

 

「何と言った」

 

 清弦が訊いた。

 

「知らねえよ」

 

「何一つか」

 

「ジャパンって言った」

 

「それだけか」

 

「あとなんかめっちゃ喋ってた」

 

「見れば分かる」

 

「でも絶対バカにしてる」

 

「それも見れば分かる」

 

 リングの男はさらに両手を大きく広げた。

 

「Come now, gentlemen! Is there not one Japanese wizard in Yokohama with a quicker hand?」

 

「…………」

 

 奎星と清弦が揃って黙る。

 

「今のは?」

 

「ジャパニーズは聞こえた」

 

「それで?」

 

「あとヨコハマ」

 

「地名だな」

 

「以上」

 

「役に立たんな」

 

「お前ゼロじゃん!」

 

「私は未来の人間ではない」

 

「ずるくね!?」

 

 そのとき、すぐ近くで酒を飲んでいた日本人の男が鼻で笑った。

 

「お、おい高瀬今なんて言ってたんだよ!」

 

隣の男がその笑った男、高瀬に聞く。

 

 歳は三十前後だろうか。着物姿だが、腰には西洋杖を差している。港に長く出入りしているのか、外国人の言葉にも慣れているらしい。

 

「日本のご立派な魔法はその程度か。波止場の荷運び人足の方がまだ速い、だとさ」

 

 奎星と清弦が同時に高瀬を見る。

 

 高瀬は杯の酒を一口飲んでから、苦々しくリングを見上げた。

 

「今のは、『横浜に俺より素早く杖を使える日本人はいねえのか』ってよ」

 

「…………」

 

 清弦の眉がぴくりと動いた。

 

 高瀬は乾いた笑いを漏らす。

 

「舐められたもんだ」

 

 リング下では、先ほど負けた日本人が仲間に支えられていた。大怪我ではなさそうだ。ただ、その顔には悔しさが濃く残っている。

 

 清弦はその姿を見て、それからリングへ視線を戻した。

 

「術そのものの差ではない」

 

「うん」

 

「場所と、始め方が悪い」

 

「それも実力って言われたら終わりだけどな」

 

 観客の一人が叫んだ。

 

「ジェームズ!」

 

「James!」

 

「Another round!」

 

 どうやら、リング上の男の名はジェームズらしい。

 

「今ので何人目だ?」

 

 日本人側から声が上がる。

 

「四人だ」

 

「今日は全勝かよ」

 

「杖使い相手に、あそこへ上がるからだ」

 

「でも誰か止めねえと、明日からまた言われるぞ」

 

 ジェームズは酒を一口受け取り、リングの中央で飲んだ。杯を返すと、杖で日本人側の観客席を軽く示す。

 

「No more? Have I frightened the whole country? Come, then! Who’s next?」

 

 また外国人たちがどっと笑った。

 

 奎星は顔をしかめる。

 

「何だって?」

 

 高瀬が酒杯を弄びながら訳した。

 

「もういねえのか。国じゅう俺に怯えちまったか、次は誰だ――だとよ」

 

 男は吐き捨てるように付け足した。

 

「ったく。好き放題言いやがる」

 

「…………」

 

 清弦の眉間へ皺が深くなる。

 

「清弦?」

 

「何だ」

 

「怒ってる?」

 

「怒っていない」

 

「怒ってんじゃん」

 

「怒っていない」

 

 奎星の口元が上がった。

 

 清弦は明らかに怒っている。

 

 けれど、それ以上に。

 

 奎星自身が笑っていた。

 

「おもしれえ」

 

「何?」

 

「おもしれえじゃん」

 

「おい」

 

 奎星が前へ出る。

 

「待て」

 

「金いるだろ」

 

「だから何だ」

 

「勝てば出るんだよな?」

 

 壁際には、勝者へ渡される賞金を記した札が掛けられていた。日本語と英語で、異国の銀貨の枚数と一分銀へ換算した額が並んでいる。勝ち抜くほど賞金は増えるらしい。

 

 清弦が札を見る。

 

「……まさか」

 

「宿」

 

「やめろ」

 

「飯」

 

「やめろ」

 

「ついでに調査代」

 

「調査に金は要らん!」

 

「測定器、買えるかも」

 

 清弦が一瞬だけ黙った。

 

 奎星は見逃さなかった。

 

「あ」

 

「違う」

 

「いま揺れた!」

 

「揺れていない!」

 

「欲しいんじゃん!」

 

「貴様の賭けで買う気はない!」

 

「賭けじゃねえよ。勝つんだよ」

 

 奎星は上着の留め具へ手を掛けた。

 

「奎星」

 

「何」

 

「やめろ」

 

「大丈夫だって」

 

「何が大丈夫だ」

 

「俺」

 

 奎星は笑った。

 

「こういうの、めちゃくちゃ慣れてる」

 

 制服の上着を脱ぎ、清弦へ投げる。

 

「持ってて」

 

「おい!」

 

 反射的に受け取った清弦が怒鳴ったが、奎星は聞いていなかった。白いシャツの袖を捲り、左手首の銀色の腕時計を露わにする。腰には神代榊。昨日の山賊相手とは違い、今度は杖を使う。

 

 革の杖入れの位置を確かめ、一度抜き、握り、角度を確認してから差し直す。その動作は、御影との訓練で何百回、何千回と繰り返してきたものだった。速い。けれど慌ててはいない。必要なときに、必要なだけ動く。

 

 清弦の目が、その一連の動きを追った。

 

 遊びに見える。奎星本人も半分は楽しんでいる。けれど、杖へ手を置いた瞬間だけ、動きから一切の無駄が消えた。

 

「貴様」

 

 清弦の声が低くなる。

 

「相手は四人倒しているぞ」

 

「だから?」

 

「強いということだ」

 

「うん」

 

「向こうの術を全部知っているわけでもない」

 

「たぶん何個かは知ってる」

 

「たぶんで出るな!」

 

「大丈夫」

 

「その根拠は何だ!」

 

 奎星はリングを見る。

 

 ジェームズの立ち方、杖の位置、重心、観客へ意識を向けながらも右手をいつでも動かせる位置に置いていること。素人ではない。かなり慣れている。

 

 だからこそ、余計に面白かった。

 

「御影先生よりは優しそう」

 

「その基準を捨てろ!」

 

 奎星が観客の間へ入っていく。

 

「おい!」

 

 清弦も追おうとしたが、制服の上着と二人分の荷物を抱えている。

 

「奎星!」

 

 聞こえている。聞こえているが、止まる気はなかった。

 

 リングのすぐ近くまで進む。ジェームズはまだ観客を煽っていた。周囲の外国人たちは次の挑戦者がいないことを面白がり、日本人側は悔しそうに酒を煽っている。

 

 奎星は一度、深く息を吸った。

 

 英語は学校で習った。

 

 けれど。

 

 習ったからといって分かるわけではない。

 

 授業中は何度も途中で意識が飛び、単語帳を開けば三分で飽き、試験前には伊織や楓に呆れられた。聞き取れる単語といえば、ファイトだのジャパンだの、日常でも耳にするものがせいぜいだった。

 

 そもそも、さっき入口で「ミー・ファイト」と言って突破してきた男である。

 

 まともな英会話など、できるわけがない。

 

 だが。

 

 一つだけ。

 

 なぜか知っている言葉があった。

 

 奎星は右手を上げた。

 

「ヘイ!」

 

 思ったより大きな声が出た。

 

 ジェームズがこちらを見る。

 

 外国人たちも振り向き、日本人たちも顔を上げる。

 

 地下室が、一瞬だけ静かになった。

 

 奎星はリングを指した。

 

 次に自分を指す。

 

 そのまま、にやりと笑った。

 

「シャル・ウィ・ダンス!?」

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 外国人たちが爆発した。

 

「HAHAHAHAHA!」

 

「A dance!」

 

「Did you hear the boy!?」

 

「James! The lad asks you to dance!」

 

「おい」

 

 清弦が後ろから言う。

 

「何を言った」

 

「踊りませんかって」

 

「なぜだ!?」

 

「知ってる英語がこれだった!」

 

「決闘を申し込め!」

 

「雰囲気で分かるだろ!」

 

「最初から雰囲気しか使っていないではないか!」

 

 通じてはいた。

 

 むしろ、とてもよく通じた。

 

 リング上でジェームズが腹を抱えて笑っている。しばらく笑ったあと、目元を拭いながら奎星を見た。制服姿、若い顔、どう見ても自分より歳下の少年。ジェームズは杖を肩へ担ぎ、にやりと笑った。

 

「Dance with a schoolboy? I don’t make a habit of it, son. But climb up—I’ll try not to tread on your toes.」

 

 再び笑いが起こる。

 

「…………」

 

 奎星は当然、一言も分からなかった。

 

「何だって?」

 

 高瀬が今度は堪えきれずに吹き出す。

 

「坊主と踊る趣味はねえが、上がってこい。足を踏まねえようにしてやる、とさ」

 

 奎星の笑顔が止まった。

 

「……あ?」

 

 ゆっくりとジェームズを見る。

 

 口元が上がる。

 

 今度の笑みは、さっきより少しだけ悪かった。

 

「言ったな」

 

「向こうには分からんぞ」

 

 清弦が言う。

 

「関係ねえ」

 

 奎星はリング脇へ進んだ。

 

 係らしい外国人が奎星へ声をかける。

 

「Your name? Name?」

 

「…………」

 

 奎星は首を傾げた。

 

 係の男が自分の胸を指し、それから奎星を指した。

 

「Name. Your name.」

 

「あー」

 

 奎星も自分を指した。

 

「ケイセイ!」

 

 男が紙へ筆記具を構える。

 

「ハスネ! ケイセイ・ハスネ!」

 

 発音が正しいのかどうかなど知らない。

 

 係の男は聞こえた通りに何かを書きつけた。

 

 続いて賞金や決闘の規則についてらしい説明を早口で始める。

 

「……?」

 

 奎星は三秒聞いた。

 

 四秒目には諦めた。

 

「オーケー!」

 

「絶対分かっていないだろう」

 

 清弦が言う。

 

「勝てば金もらえんだろ?」

 

「おそらくな」

 

「じゃあオーケー!」

 

「規則を聞け!」

 

「分かんねえんだからしょうがねえじゃん!」

 

 勝てば金が出る。

 

 そこだけ分かれば十分だった。

 

「奎星」

 

 清弦がもう一度呼ぶ。今度の声は、先ほどより静かだった。

 

 奎星が振り返る。

 

「何」

 

「本当にやるのか」

 

「うん」

 

「……目的を忘れるなよ」

 

「分かってる」

 

「怪我をしたら鈴に何と言えばいい」

 

 奎星が笑った。

 

「そこ?」

 

「私が怒られるだろうが!」

 

「お前、結局鈴ちゃん基準じゃん!」

 

「黙れ!」

 

「大丈夫だって」

 

 奎星はリングへ片足を掛けた。そして、ほんの少しだけ真面目な顔になる。

 

「勝つから」

 

 清弦は何も言わなかった。ただ、奎星が木製の台へ上がる姿を見つめていた。

 

 ここへ来るまで、清弦は何度も未来の魔法を見た。妖魔を簡単に弾いた防御魔法、相手を吹き飛ばす術、刀だけを奪った武装解除、焚き火を一言で点けた炎。便利だと思った。速いとも思った。

 

 だが、同じ西洋式の魔法を使う者同士が本気で向かい合えば、どうなるのか。その答えを、清弦自身も見たいと思っていた。

 

 リングの反対側で、ジェームズが杖を構えた。笑っている。余裕の顔だった。

 

 今日だけで四人の日本人魔法使いを倒している男と、いまリングへ上がってきた、見たこともない服を着た十八歳の少年。観客の大半は、その少年が妖魔と戦い、密猟者と戦い、黒曜の環と戦い、神代冥司と戦い、御影玄一郎に朝四時台から叩き起こされて何百発も魔法を撃たされ続けてきた人間だとは知らない。

 

「Look at him!」

 

 誰かが笑った。

 

「James, be gentle!」

 

「Don’t break the boy!」

 

 周囲からまた笑いが起きる。

 

 奎星には何を言っているのか分からない。

 

 けれど。

 

 自分を見て笑っている。

 

 それだけは分かった。

 

「……笑ってろよ」

 

 奎星は小さく呟いた。

 

 神代榊へ手を置く。

 

 まだ抜かない。

 

 呼吸を一つ、二つ。正面を見る。ジェームズの杖先、肩、肘、足、視線。御影の声が、勝手に頭の奥で再生された。

 

 ――相手の杖だけを見るな。

 

 ――先に身体が動く。

 

 ――撃たれてから考えるな。

 

 ――考えるのは、撃たれる前だ。

 

 奎星の笑みが少しずつ薄くなった。遊びの顔から、決闘の顔へ変わっていく。

 

 リング脇の男が前へ出た。片手には小さな金属製の鐘がある。

 

 ジェームズが奎星を見て、杖先を軽く持ち上げた。

 

「Ready, boy?」

 

「…………」

 

 奎星は当然、分からなかった。

 

「何?」

 

 ジェームズが一瞬眉を上げる。

 

 近くから、高瀬の声が飛んできた。

 

「準備はいいか、だとよ!」

 

「ああ!」

 

 奎星はジェームズを見た。

 

 にやりと笑う。

 

「いつでも来いよ」

 

「…………?」

 

 今度はジェームズの方が分からない。

 

 奎星は気にしなかった。

 

 杖を持つ右手の指を二度、自分へ向かって曲げる。

 

 来い。

 

 それだけなら、言葉などなくても伝わる。

 

 ジェームズの笑みが少し深くなった。

 

「……Oh?」

 

 鐘を持つ男の腕が上がる。

 

 地下の熱気が、一つに集まっていく。金、酒、怒号、異国語、日本語、古い魔法、新しい魔法。開国したばかりの港へ流れ込んだ世界中のものが、いま一つの小さなリングを囲んでいた。

 

 清弦は奎星を見る。

 

 その腰には神代榊がある。自分の村に立つ大樹から生まれ、百五十年以上先の未来で作られた杖。そして正面には、海の向こうからやってきた新しい時代の魔法使いがいる。

 

 金属の鐘が振り下ろされた。

 

 ――カァン!

 

 乾いた音が地下室へ響き渡る。

 

 ジェームズの杖が動いた。

 

 同時に、奎星の右手が神代榊を抜いた。

 

 勝負が、始まった。

 

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