目を開けた瞬間、奎星は、自分がどこにいるのか分からなかった。
見知らぬ天井だった。少しくすんだ木の板が横へ走り、節の黒い模様が朝の淡い光の中へ浮かんでいる。右手には障子があり、左手には壁がある。鼻を動かすと、畳と古い木の匂いに混じって、昨夜どこかで嗅いだ酒の気配が、まだ部屋の隅に薄く残っていた。
奎星は布団の中で何度か瞬きをした。学校ではない。清弦の家でもない。もちろん、あの黒ずんだ沢のほとりでもなかった。
「……どこだここ」
身体を起こそうとした、その瞬間だった。
頭の中で、誰かが鐘を鳴らした。
「っっっっ……!」
奎星は両手で頭を押さえ、そのまま布団へ沈み込んだ。額の奥から後頭部まで、脈を打つたびに鈍い痛みが走る。喉はひどく乾き、口の中には妙な苦みと粘つきが残っていた。胃のあたりも、何かを訴えるように重い。
「……何これ」
昨夜の記憶を探る。
地下酒場。決闘。ジェームズ。三人抜き。賞金。食事。ビール。そして、誰かが叫んでいた。
――SUZUME!
「…………」
奎星の眉間に深い皺が寄った。
そこから先の記憶が、ひどく曖昧だった。笑っていたことは覚えている。食べていたことも、ジェームズと肩を組んだことも、清弦に酒を飲ませようとしたことも、ぼんやりながら覚えている。たぶん、そこまではいい。
問題は、そのあとだった。
「……これが父さんの言ってた二日酔いか……」
正月の朝、父親が居間で頭を抱えながら、「酒は飲んでるときより、次の日が面倒なんだ」と言っていたのを思い出す。十八年間の人生で、その言葉を実感する日が幕末の横浜になるとは、さすがに想像していなかった。
「あったまいてぇ……」
「自業自得だ」
「うわっ」
声のした方へ顔を向けると、部屋の隅に清弦がいた。すでに身支度を終えている。髪は結び直され、着物にも乱れがない。荷物はきちんとまとめられ、鈴から渡された薬包まで整理されている。そのうえ、昨日まではなかった木箱と、革張りの細長い鞄まで二人の荷物に加わっていた。
清弦は、まるで昨夜など存在しなかったかのような顔で、紙を折り畳んでいる。
「……お前、何でそんな元気なの」
「貴様ほど飲んでいない」
「飲んでたじゃん」
「誰かに無理やり飲まされたからな」
「誰だよ、最低だな」
清弦が無言で奎星を見る。
「…………俺?」
「他に誰がいる」
奎星は、もう一度布団へ倒れ込んだ。
「昨日俺、何してた……?」
清弦は折り畳んだ紙を荷物へしまいながら、何でもないことのように答えた。
「スズメが好きだと」
奎星の目が開いた。
「はあ!? 言ってねえだろ!?」
「言っていた」
「言ってねえ!」
「言っていた」
「言ってねえ!」
「言っていた」
「言ってねえ!」
「もう少し建設的な話をしないか!?」
清弦がついに声を荒らげた。その声が頭の中へ直接響き、奎星は顔をしかめる。
「痛っ……! 大声出すなよ……」
「貴様が出させたのだ!」
「だから響くって!」
「知るか!」
奎星は頭を押さえたまま、昨夜の記憶を必死に掘り起こした。酒。スズメ。卒業。好き。言う。鈴。清弦。好きなら言え。
断片が、嫌な順番で戻ってくる。
「……俺、マジで言った?」
「何度もな」
「どこまで?」
「卒業したら本人へ言うと」
「…………」
「進路も決めると」
「…………」
「帰るとも言っていた」
「…………」
「そのあと私に、鈴へ好きだと言えと絡み続けた」
「そこは覚えてる」
「そこだけ覚えているのか!?」
奎星は布団を頭まで被った。
「忘れよう」
「私は忘れんぞ」
「頼むから忘れろよ、先祖!」
「今だけ先祖扱いするな」
「百五十年後まで持ってくなよ!?」
「私は百五十年後にはいない!」
「手記に書くな!」
「書くか!」
しばらく布団の中で呻いたあと、奎星はようやく身体を起こした。障子の向こうはすでに明るく、廊下からは人の足音が聞こえている。遠くから届く町のざわめきと、時折響く馬の嘶きからして、ここは横浜の旅籠らしい。
枕元には制服の上着がきれいに畳まれていた。左手首には腕時計もある。それを確かめてから、奎星はようやく少しだけ息を吐いた。
「俺、ここまでどうやって来たの」
「覚えていないのか」
「全然」
「例の日本人と、ジェームズという男が運ぶのを手伝った」
「運ばれたの、俺!?」
「途中までは歩いていた」
「じゃあいいじゃん」
「旅籠の前で『俺は侍じゃねえ』と言いながら、柱に抱きついていた」
「何で!?」
「私が訊きたい」
また記憶にない。奎星は絶望的な気分になった。
「酒、怖え……」
「今さらか」
「もう飲まねえ」
「昨夜も最初の一口のあと、似たようなことを言っていたぞ」
「嘘だろ」
「その五分後には飲んでいた」
「俺の信用がどんどん無くなる……」
「最初から大してない」
「お前、朝から容赦ねえな」
喉がひどく乾いていたので、枕元に置かれていた水を飲んだ。冷たくはなかったが、乾ききった身体へ染み込んでいくように美味かった。一息で半分ほど飲み干し、ようやく周囲へ意識を向ける。
そこで、奎星は見慣れない木箱へ目を止めた。
「何それ」
「昨日の測定器だ」
「え?」
頭痛を忘れ、奎星は布団から這い出して箱の前へ座った。清弦が蓋を開く。
中には、昨日の魔法商店街で見た真鍮製の器具が収まっていた。丸い盤面には細かな目盛りが刻まれ、その上で細い針が揺れている。側面には小さなつまみがあり、底には折り畳み式の三本脚が付いていた。無機質な道具のはずなのに、そこには未知の流れを目に見える形へ変えるための、静かな執念のようなものが感じられた。
「買ったの!?」
「ああ」
「高かったじゃん!」
「買えた」
「金どうしたの!?」
清弦は奎星を見た。
「貴様の賞金だ」
「俺の!?」
「昨夜、貴様自身が渡した」
「嘘だ!」
「『調査費! 未来への投資!』と言ってな」
「絶対酔ってんじゃん!」
「酔っていた」
「俺の金!」
「返すか?」
「…………」
奎星は測定器を見た。昨日、清弦が何度も振り返っていたもの。その目が、隠しようもなく欲しがっていたもの。
「……いや」
「何だ」
「いいよ。いるんだろ」
「調べるには便利だ」
「ならいい」
清弦が僅かに眉を上げた。
「随分あっさりだな」
「俺、金を稼ぐために戦ったんじゃん。調査に使うなら目的通りだろ」
「飯と宿のためだったのではないのか」
「それも目的!」
「主にそちらだっただろう」
「細けえな」
奎星は革袋へ手を伸ばした。持ち上げると、銀貨が重くぶつかり合う音がした。
「……まだこんなにあんの?」
中には一分銀や日本の銀貨に混じって、見慣れない外国銀貨も入っている。昨日より減っているとはいえ、幕末へ飛ばされてから一度に持ったことのない金額が、まだかなり残っていた。
「俺、昨日何人倒したっけ」
「三人」
「決闘って儲かるな」
「その発想は捨てろ」
「進路、地下決闘士にしようかな」
「未来へ帰って教師に言ってみろ」
「……やめとく」
スズメの顔が浮かんだ。頭痛が少し増した気がした。
*
朝餉を食べたあと、二人は再び部屋へ戻った。奎星は味噌汁を二杯飲み、ようやく人間らしい顔色を取り戻していた。頭痛はまだ残っているものの、目を開けていることすら辛いほどではない。
清弦は測定器を畳の上へ置いた。
「昨日の話をする」
「俺がスズメちゃん好きって話?」
「違う!」
「大声……」
「貴様が言わせているんだろうが!」
清弦は一度目を閉じ、怒りを押し込めるように長く息を吐いた。
「神代以蔵だ」
奎星の表情から、ふざけた色が消えた。
「何か分かった?」
「ああ」
清弦は昨日集めたらしい紙を広げた。聞き取った内容を自分なりに書き留めたものらしく、いくつもの人名や店の名、日付らしきものが並んでいる。奎星には崩した字のほとんどが読めなかったが、清弦の指が紙の上を移るたび、断片的な情報が少しずつ形を持ちはじめた。
「以蔵が横浜へ来たのは、数日前が初めてではなかった」
「……何回も来てた?」
「少なくとも、何人かが別の日にも見ている。外国の術具を扱う店にも出入りしていた」
清弦は紙の一か所を指した。
「杖もここで手に入れたらしい」
「杖」
「ああ。海の向こうの術を試したいと言っていたそうだ」
奎星は、昨日歩いた魔法商店街を思い出した。壁一面に並べられた西洋杖。決まった言葉と決まった動作。誰が使っても、ある程度同じ結果を出すための仕組み。
「以蔵って、そういう新しいのを結構使ってんだな」
「元々、知らないものを嫌う男には見えなかった」
「清弦と同じじゃん」
「一緒にするな」
「何でだよ。お前も測定器買ったじゃん」
「私は土地を人間の所有物にしようとはしていない」
返答があまりに速かったので、奎星の口元から笑いが消えた。
「……そこか」
「ああ」
清弦は真鍮の器具へ視線を落とした。
「測ることが悪いとは思わん。昨日も言ったが、私一人にしか分からないものを、これで他の者にも見せられるなら便利だ。記録も残せる」
「うん」
「杖も同じだ。あの武装を飛ばす術も、火を点ける術も、覚えれば多くの者が使える。便利なものは使えばいい」
「お前、横浜へ来てめっちゃ柔軟になったな」
「元からだ」
「嘘つけ」
「黙れ」
少しだけいつもの調子へ戻ったが、清弦はすぐに紙へ目を落とした。
「問題は、以蔵が何を知ろうとしていたかだ」
「霊脈?」
「ああ」
清弦の指先が一行をなぞる。
「流れの強さ。深さ。方角。季節による変化。そこまでは分かる。私でも知りたい」
「測るだけならな」
「だが」
指が止まった。
「流れを移す方法を訊いている」
「移す?」
「昨日聞いた者は、『曲げる』と言っていた」
奎星の脳裏に、あの黒ずんだ沢が浮かんだ。同じ間隔で置かれていた六つの石。不自然に乱された地面。水へ混じっていた黒いもの。
「……六本の杭も?」
「それもだ」
「外国人の技師に会いに行ったってやつ」
「ああ」
清弦は頷いた。
「ただ、もっと気になることがある」
「何」
「順番だ」
奎星が首を傾げる。
「順番?」
「以蔵が横浜で霊脈について聞き始めたのは、私のところへ来るより前だ」
奎星は数秒かけて、その意味を飲み込んだ。
「……前?」
「ああ」
「お前と会う前から?」
「そうだ」
頭痛が、少し遠のいた。
「じゃあ」
奎星は身体を起こした。
「村の霊脈がおかしくなったのって」
「以蔵が私へ会いに来たあとではない」
清弦の声は静かだった。
「私も鈴も、その前から体調を崩していた。作物もおかしかった。鬼火鳥も道を外れ始めていた」
清弦は断定しなかった。証拠がない以上、そうするべきではないと考えているのだろう。だが、奎星にはその沈黙の中身が分かった。
「最初から?」
「何がだ」
「最初から、お前に会いに来たんじゃなくて」
奎星は紙へ目を落とした。
「……何かやったあとで、お前んとこ来たってこと?」
清弦は答えなかった。その沈黙だけで、十分だった。
「でも何で」
奎星は考えた。
「お前なんだよ」
「知らん」
「だってさ。霊脈を曲げたいなら、勝手にやればいいじゃん。何でわざわざ小萱村まで来て、お前と話す必要があんの?」
「…………」
「蓮根家だから?」
清弦の目が僅かに動いた。
奎星は続ける。
「鬼火鳥の道を知ってる。神代榊がある。霊脈の流れも、お前なら分かる」
「管理しているわけではない」
「分かってるよ」
未来で八重子から聞いた言葉を思い出す。飼い主ではない。主人でもない。従わせていたわけでもない。困ったときは助け、こちらが困ったときには助けてもらう。互いの場所を守り、互いの道を教える。
「でも外から見たら、そう見えるかもじゃん」
奎星は言った。
「蓮根家が、鬼火鳥とか神代榊とか、この辺の霊脈を動かせる家に」
「…………」
「以蔵みたいな奴から見たらさ」
清弦の眉間へ皺が寄った。
「欲しいの、お前じゃなくて」
奎星は言葉を選びながら、ゆっくり続けた。
「お前ん家が知ってる『道』なんじゃねえの?」
部屋が静かになった。外では人が歩き、遠くで馬が鳴いている。横浜の朝はすでに動き始めているのに、二人の間だけが、そこだけ時間を止めたように沈黙していた。
「まだ分からん」
清弦が言った。
「うん」
「以蔵がやったとも決まっていない」
「うん」
「決めつければ、見えるものまで見えなくなる」
「御影先生みたいなこと言うじゃん」
「誰だ、それは」
「妖魔より怖い未来の人」
「またその男か」
「でも正しい」
奎星は紙を見た。
「じゃあ、帰ろうぜ」
「そのつもりだ」
「村でもう一回調べる」
「ああ」
「あと」
「何だ」
「帰る前に寄りたいとこある」
清弦が嫌そうな顔をした。
「飯屋か」
「違う」
「杖屋か」
「違う」
「では何だ」
奎星は革袋を持ち上げた。中で銀貨がじゃらりと鳴る。
「買い物」
「嫌な予感しかしないな」
「今回は絶対役に立つって」
「昨夜も似たような顔をして決闘場へ行ったな」
「全然違う!」
*
宿を出た瞬間、道の向こうから声が飛んできた。
「Hey!」
奎星が反射的にそちらを見る。知らない外国人だった。いや、顔を見たような気もする。昨日の地下にいたような、いなかったような、曖昧な記憶しかない。
男は奎星を見つけると満面の笑みを浮かべ、拳を高く掲げた。
「KEISEI!」
「…………」
「SAMURAI!」
「違う!」
奎星が即答すると、男は意味が分からないまま笑い、親指を立てて去っていった。
奎星はその後ろ姿を見送った。
「……誰?」
「知らん」
「俺も知らねえ」
十歩ほど進んだところで、今度は店先で荷を動かしていた日本人の男が、奎星を見るなり声を上げた。
「昨日の坊主じゃねえか!」
「え?」
「三人抜き!」
「あー……」
「強かったなあ!」
「どうも……」
「侍の坊主!」
「侍じゃねえっす!」
清弦が横で顔を背けた。
「笑った?」
「笑っていない」
「絶対笑っただろ」
さらに進むと、パンを売っている店の前で、昨日とは別の外国人らしい店員が奎星を見た。ほんの一瞬、相手の目が奎星の顔を確かめるように動く。
「Keisei?」
「何で知ってんの!?」
店員は嬉しそうに両手を上げた。
「SAMURAI!」
「だから違うって!」
近くにいた日本人が笑う。
「有名人だな」
「嫌な有名になり方してんだけど!」
その後も、道ですれ違った外国人から名前を呼ばれ、知らない日本人に肩を叩かれ、酒場の前を通れば「昨日の三人抜きだ」と指を差された。果てには、外国人の船乗りらしい男が奎星を見つけた瞬間、杯を掲げる仕草をして叫んだ。
「SUZUME!」
奎星の足が止まった。
清弦も止まった。
「……昨日俺、何してたんだ……」
奎星は両手で顔を覆った。
「だいたい話しただろう」
「足りねえよ! 何で街までスズメちゃん知ってんだよ!」
「貴様が広めたからだ」
「俺一人の力でここまで広がる!?」
「地下にいた者が広めたのだろう」
「口コミ怖え!」
「未来にもあるのか」
「もっと怖いのあるよ!」
頭痛とは別の意味で頭を抱えながら歩いた。だが、その胸元では革袋が重い音を立てている。昨日の自分が何をしていたとしても、金を稼いだことだけは確かだった。
*
横浜の外れにある馬屋へ入ったのは、それから少し後のことだった。
昨日までなら、馬は借りるものだった。だが、柵の中に並ぶ馬たちを見た奎星は、革袋を持ち上げると、ほとんど迷わず言った。
「買う」
「何を」
「馬」
清弦が奎星を見る。
「本気か」
「本気」
「村へ戻れば必要ないだろう」
「あるじゃん。これからも調べに行くかもしれねえし」
「まあ……」
「歩くの嫌だし」
「結局それか」
「一番大事だろ!」
清弦は何か言いたそうだったが、反論はしなかった。今後、霊脈の異常を調べるなら移動手段は必要になる。横浜との往復に毎回馬を借りるより、村で飼える環境があるなら、所有しておく意味はある。
馬屋の主人と清弦が値段や世話の方法について話している間、奎星は柵の中を歩きながら、一頭ずつ顔を見ていった。栗毛、黒鹿毛、芦毛。小柄な馬もいれば、奎星が見上げるほど大きな馬もいる。
その中で、一頭の茶色い馬が顔を上げた。
昨日借りた馬と、少し似ている。同じ馬ではなく、額の白い模様も違う。それでも、つぶらな目と、どこか面倒そうにこちらを見る顔がよく似ていた。
「お」
奎星は馬の鼻先へ手を伸ばした。
「決めた」
「早いな」
清弦がやって来る。
「お前、今日からウミツバメ二号な」
「またか」
「二号は永久欠番じゃないんだよ」
「意味が分からん」
「今度こそ俺の二号」
馬がぶるる、と鼻を鳴らした。
「ほら、気に入ったって」
「嫌がっているのではないか」
「違う」
「そうか」
「清弦も選べよ」
「私はいらん」
「いるって」
「同じ村へ帰るのに二頭も要るか」
「調査で別行動になったら?」
「…………」
「鈴ちゃんを乗せるかもしれないし」
清弦が止まった。
奎星は、その反応を見逃さなかった。
「いる?」
「調査には必要だな」
「鈴ちゃんって便利な言葉だな」
「黙れ」
二人でもう一度馬を見て回った。少し離れた柵の奥に、黒に近い濃い毛色の馬がいる。奎星が近づくと、その馬はじっとこちらを見た。愛想がなく、鼻先へ手を伸ばしても寄ってこない。かといって逃げるわけでもなく、ただ少し不機嫌そうな目で奎星を観察している。
「こいつ」
「何だ」
「お前に似てる」
「どこがだ」
「顔」
「馬だぞ」
「雰囲気」
「どういう意味だ」
奎星は馬屋の主人を見る。
「こいつもください!」
「おい!」
清弦が止めるより早く話が進んだ。
二頭分の代金に加え、鞍、手綱、簡単な手入れ道具まで揃えると、銀貨が次々に減っていく。昨日まで宿代すら気にしていた奎星からすれば、目眩がするような金額だった。それでも、三人抜きの賞金は思った以上に残っていた。
支払いを終え、奎星は満足そうに二頭を見た。
「よし。茶色い方がウミツバメ二号」
「まだ言うのか」
奎星は黒鹿毛を指した。
「で、こっちが清弦二号」
「待て」
「お前も聞き込み頑張ったから買ってやった」
「私への褒美なのか、馬への命名なのか、どちらかにしろ!」
「清弦二号」
「やめろ!」
「似合ってるって」
「私の名を馬につけるな!」
「じゃあ清弦号?」
「悪化している!」
馬屋の主人が笑いを堪えている。
「ほら、清弦二号も喜んでる」
黒鹿毛の馬は、完全に無表情だった。
「どこがだ!」
「お前そっくりじゃん」
「殺すぞ!」
「それもそっくり!」
結局、清弦がどれだけ抗議しても、奎星はその馬を清弦二号と呼び続けた。馬本人がどう思っていたかは、誰にも分からない。
*
馬を買えば、今度は荷を積める。荷を積めるとなれば、奎星は買い物を始めた。
「それも買うのか」
「村のガキ、喜ぶだろ」
硬い西洋菓子。昨日の地下で食べたものに似たビスケット。
「それは?」
「女の人らに。布きれ」
「随分派手だな」
「横浜土産っぽくていいじゃん」
綿や毛織物を扱う店で、普段の村では見ない色合いの布を少しずつ買う。次は小さな硝子玉、丈夫そうな針、珍しい模様の紐、子供でも持てる木製の玩具。村の老人には外国の茶葉まで買おうとして、清弦に「茶は村にもある」と止められた。
「じゃあ何がいい?」
「なぜ全員へ買う前提なんだ」
「だって金あるし」
「貯めろ」
「幕末に貯金してどうすんだよ」
「この先使うだろう!」
「じゃあ半分残す」
「最初からそうしろ」
清弦が財布を取り上げ、残額を確認し始める。
「うわ、母さんみたい」
「誰のせいだ」
「鈴ちゃんには?」
清弦の手が止まった。
「何が」
「土産」
「皆と同じでいいだろう」
「ふーん」
「何だ」
「別に」
「その顔をやめろ」
「俺、何も言ってねえじゃん」
「言う前の顔だ!」
奎星は笑いながら店先を見回した。硝子細工を扱う小さな店の一角に、細い青色の硝子を使った簡素な髪飾りが置かれている。
奎星はそれを見た。
清弦も見た。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
「買えば?」
「なぜ私が」
「俺が買おうかな。鈴ちゃんに」
「待て」
即答だった。
奎星の口元が上がる。
「何」
「……私が買う」
「好きじゃん」
「黙れ!」
「昨日散々言われたくせに」
「昨日の話を蒸し返すな!」
「俺のは蒸し返したじゃん!」
「貴様は声が大きかったからだ!」
清弦は不機嫌な顔で、青い硝子の髪飾りを買った。自分の金で。
奎星は何も言わなかった。ただ、その顔には、ずっと笑みが浮かんでいた。
*
横浜を出る頃には、太陽はかなり高くなっていた。奎星の二日酔いも、馬へ乗る頃にはだいぶ収まっている。
二頭の新しい馬には荷が括りつけられていた。ウミツバメ二号の背には奎星の荷物と村への土産。清弦二号の方には清弦の荷物、測定器、それから薬や食料が積まれている。
「行くぞ、二号!」
奎星が声をかけると、ウミツバメ二号が歩き出した。
「おお!」
奎星の顔が明るくなる。
「聞いた!?」
「手綱を動かしたからだ」
「名前を覚えたんだよ!」
「一日目だぞ」
「天才なんだよ!」
「どちらが」
「俺ら両方」
「馬は関係ないのか」
二頭が並んで道を進む。横浜の町並みは少しずつ背後へ遠ざかっていった。
行きは何もかもが初めてだった。借りた馬、異国の町、魔法商店街、地下決闘。今は、昨日より少しだけ荷物が増えている。二頭の馬、真鍮の測定器、村への土産、そして神代以蔵についての新しい情報。
清弦は途中、何度か測定器を取り出した。道の端へ三本脚を立て、つまみを調整する。針が細かく揺れ、周囲の魔力の流れを探るように盤面を行き来した。
「どう?」
「この辺りは普通だ」
「普通って分かるの?」
「昨日、店の者に扱い方を聞いた。まだ正確ではないが、流れが大きく乱れていれば分かる」
「すげえじゃん」
奎星も横から覗き込む。
「俺にもできる?」
「やってみろ」
「いいの?」
「ああ」
奎星がつまみに触れると、針が勢いよく振れた。
「うお」
「触るな」
「今やれって言ったじゃん!」
「そこではない!」
「先に言えよ!」
「説明を聞け!」
「難しい!」
「まだ何も説明していない!」
清弦が測定器を奪い返す。
「向いていない」
「早すぎるだろ!」
「杖は使えるのに、なぜこういうものは駄目なんだ」
「直感でできねえから」
「直感で使うものではない!」
「だから!」
奎星は諦めた。
それから数刻、街道を進み、昼を食べ、また馬へ乗った。景色が変わっていく。建物が減り、畑が増え、さらに進むと山が近づいて、湿った土と草の匂いが強くなった。
そこで再び、清弦が測定器を取り出した。
今度は、さっきまでとは違った。細い針が一度右へ振れ、戻り、また同じ方向へ振れる。
「……ん?」
清弦の顔が変わる。
「何」
「少しおかしい」
「もう?」
「ああ」
まだ小萱村までは距離がある。清弦は器具を持ち上げ、向きを変えた。針は震えながら、特定の方角へ引かれていく。
「強い?」
「違う」
「弱い?」
「それとも違う」
「じゃあ何」
「……偏っている」
清弦は道の向こうを見た。
「流れが一方へ寄っている」
「村の方?」
「完全には一致しない」
「じゃあ」
「今は分からん」
清弦は記録を取った。
奎星は、その横顔を見ていた。昨日までなら、清弦は地面へ手を触れ、自分の感覚だけで探っていた。今は、同じことを器具でも確かめている。古いものを捨てたわけではない。新しいものへ置き換えたわけでもない。ただ、二つを並べている。
それが、妙に清弦らしいと思った。
未来の記録。西洋から入ってきた現代式魔法を研究し、この国へ広めた男。たぶん、こういうところから始まったのかもしれない。
「何だ」
清弦が顔を上げる。
「いや」
「また気味の悪い顔をしているな」
「歴史って面白えなって」
「昨日も聞いた」
「お前を見てると実感すんだよ」
「やめろ」
「何で」
「自分がまだ生きているのに歴史扱いされると気味が悪い」
「俺からしたら先祖だもん」
「貴様から見ればな」
清弦は器具を箱へ戻した。
「行くぞ」
「はいはい」
二頭の馬が再び進む。その先で、鬼火鳥が一羽、空を横切った。
*
小萱村へ着いたのは、日が西へ傾き始めた頃だった。
「見えた!」
奎星が馬上から声を上げる。
山間に寄り添うように並んだ茅葺きの家々。その間に広がる小さな畑。さらに奥には、山の上へ突き出す巨大な神代榊が見える。
数日しか離れていない。それなのに、横浜のあまりにも濃い景色を見たあとでは、村の静けさが妙に懐かしく感じられた。風の匂いも、土の色も、遠くで鳴く鳥の声も、奎星の中にいつの間にか居場所を作っていたらしい。
最初に二人へ気づいたのは、畑の脇にいた子供だった。
「あ!」
手にしていた籠を落としかける。
「清弦だ!」
「帰ってきた!」
声が広がった。家から人が顔を出し、畑にいた者が手を止める。道の向こうから子供が二人、三人と走ってきた。
「奎星兄ちゃんもいる!」
「馬!」
「馬だ!」
「二頭いる!」
奎星が笑った。
「ただいま!」
自分の村ではない。この時代へ来て、まだ数日しか経っていない。それでも、その言葉は自然に口から出た。
「お土産あるぞ!」
「ほんと!?」
「横浜の!」
「何!?」
「待て待て! 馬の前へ出るな!」
子供たちが一斉に寄ってくる。ウミツバメ二号が驚いて足を止め、奎星が慌てて手綱を引いた。清弦も清弦二号を止める。
「道を空けろ。踏まれるぞ」
その声を聞いた大人たちが、子供たちを下がらせた。
「清弦、どうだった?」
「異人の町は?」
「何か分かったか?」
「その隣の馬は?」
「何で馬が増えた?」
一気に質問が飛んでくる。清弦が露骨に面倒そうな顔をしたので、奎星が代わりに答えた。
「色々あった!」
「何が?」
「決闘した!」
「おい」
「三人倒した!」
「おい!」
「金稼いだ!」
「黙れ!」
「馬買った!」
「それは見れば分かる!」
村人たちが笑った。
「馬の名前は?」
子供の一人が訊く。
奎星は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「こっちがウミツバメ二号!」
「馬なのに?」
「そこは気にすんな!」
「じゃあ清弦の方は?」
「清弦二号!」
「奎星!!」
村中へ清弦の怒声が響いた。一拍遅れて、大爆笑が起きる。
「似てる!」
「どこがだ!」
「顔!」
「馬だぞ!」
「清弦、二号になった!」
「私が二号ではない!」
「じゃあ馬の方?」
「どちらも違う!」
清弦が本気で怒り、奎星が笑い、子供たちはさらに笑った。その騒ぎの向こうから、一人の女が走ってくる。
「清弦!」
鈴だった。
髪を後ろで結び、薄い色の着物の裾を少し持ち上げながら、こちらへ急いでいる。清弦の顔が変わった。
「鈴」
清弦は馬から降りた。行きのときの奎星とは比べものにならないほど手慣れた動きで地面へ立つと、鈴の方へ数歩進む。
「走るな」
「誰のせいだと思ってるの!」
「何がだ」
「何日も連絡もなく!」
「連絡する方法がないだろう」
「それは分かってるけど!」
鈴は清弦の前まで来ると、まず顔を見た。次に腕、肩、服と視線を移していく。
「怪我は?」
「ない」
「熱は?」
「ない」
「薬は?」
「飲んだ」
「本当に?」
「奎星に訊け」
鈴が奎星を見る。
「奎星さん」
「飲んでたよ。俺が見てた」
清弦が少し得意そうな顔をする。奎星は続けた。
「酒も」
「貴様!!」
清弦の顔が変わった。
鈴が止まる。
「……お酒?」
「いや」
「清弦」
「違う」
「何が違うの?」
「一口だ」
「一口ではなかったじゃん」
「奎星!」
「俺も飲んだから共犯!」
「共犯なら黙っていろ!」
「帰ったら言うって話だったろ!」
「言わない話だっただろう!」
鈴の目が細くなった。
「……二人とも?」
奎星と清弦が同時に黙る。
「二人とも飲んだの?」
「……少し」
清弦が答えた。
「……俺はちょっと多め」
奎星が続ける。
鈴はしばらく何も言わなかった。そして、とても静かな声で言った。
「あとで話しましょうね」
奎星の背中へ冷たいものが走った。
「清弦」
「何だ」
「鈴ちゃんって、スズメちゃんと似てるとこある」
「今それを言うな」
怒られる未来が確定した。
*
それでも、土産を出せば村は一気に明るくなった。
「これ何!?」
「ビスケット!」
「びす……?」
「食ってみ」
子供たちは最初こそ恐る恐る硬い菓子を齧ったが、一人が「甘い!」と叫んだ瞬間、奎星の周りへさらに集まった。
「俺も!」
「私も!」
「一人一個! 待てって!」
「二個!」
「欲張んな!」
派手な色の布は村の女たちに好評だった。
「まあ、綺麗」
「こんな色、どこで染めるんだろうねえ」
「横浜すげえぞ。日本じゃねえみたい」
「日本だよ」
清弦が横から訂正する。
「半分くらい外国だったじゃん」
「それでも日本だ」
「細けえな」
小さな硝子玉は子供と若い娘たちへ渡り、丈夫な針は奎星が予想した以上に喜ばれた。
「これ、細いのにしっかりしてる」
「外国の?」
「多分!」
「多分なの?」
「店で売ってた!」
「奎星さん、説明が雑です」
鈴に言われた。
「スズメちゃんにもよく言われる」
「その方のお気持ちが少し分かります」
「会ってないのに!?」
老人の一人は、奎星が買ってきた小さな真鍮の道具を珍しそうに何度も裏返していた。
「横浜ってのは、そんな物が何でもあるのか」
「魔法の店もすげえよ。外国の杖とか、薬とか、本とか、箒とか」
「お前は遊びに行ったのか」
清弦が言う。
「調査もしたって!」
「決闘と酒宴の方が長かっただろう」
「そこ言うな!」
村人たちがまた笑う。
その輪から少し離れたところで、清弦が荷物へ手を入れた。小さな包みを取り出す。
奎星はすぐに気づいた。
「あ」
清弦が睨む。
「何だ」
「何も」
「言うなよ」
「何も言ってねえじゃん」
清弦は奎星を無視し、鈴の方へ向いた。
「鈴」
「何?」
「これ」
包みを差し出すと、鈴が目を瞬いた。
「私に?」
「……横浜にあった」
「うん」
「別に、珍しかっただけだ」
奎星の頬が膨らんだ。笑うのを堪えている。清弦は見ないふりをした。
鈴が包みを開く。
細い青色の硝子を使った、小さな髪飾りだった。夕陽を受けると、青い部分の中へ淡い光が透ける。
「……綺麗」
鈴の表情が柔らかくなる。
「ありがとう、清弦」
「別に」
「嬉しい」
「そうか」
「うん」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
奎星は耐えきれなかった。
「清弦〜」
とニヤニヤしながら言うと清弦の拳が飛んできた。
「痛え!」
「黙れと言っただろう!」
「言われてねえよ!」
鈴が不思議そうに二人を見る。
「何の話?」
「何でもない!」
清弦の返事だけが異様に速かった。
それを聞いた鈴はますます不思議そうに首を傾げ、奎星は殴られた頭を押さえながら、とうとう堪えきれずに笑った。
夕暮れの小萱村に、その笑い声が広がっていく。子供たちはまだ横浜土産を手に騒ぎ、大人たちは二頭の馬を珍しそうに眺めていた。誰かが「清弦二号」と呼んでは本人に睨まれ、そのたびにまた笑いが起きる。ほんの数日前まで、霊脈の異変と体調不良に沈んでいた村に、久しぶりに明るい声が重なるのであった。