翌朝、小萱村の空はよく晴れていた。夜のうちに山へ溜まっていた薄い霧が、朝日を受けながら谷の奥へほどけていく。茅葺き屋根の先からは細い煙が立ちのぼり、畑ではすでに何人かの村人が鍬を振るっていた。巨大な神代榊の枝には十数羽の鬼火鳥が留まり、青白い尾羽を揺らしながら、ときおり甲高い声を交わしている。
横浜へ向かう前と、ほとんど変わらない朝だった。
ただ、鈴だけは昨日までより明らかに厳しかった。
「今日は絶対に無理しないでくださいね」
「言われてるぞ清弦」
「お前だ間抜け」
「二人ともです」
鈴はそのまま清弦へ薬包を押しつけた。
「朝の分」
「さっき飲んだ」
「これは昼の分」
「要らん」
「要ります」
「持っている」
「見せて」
「…………」
「清弦」
「……分かった」
清弦は渋々、薬包を懐へしまった。
その様子を眺めながら、奎星は昨夜の説教を思い出していた。長かった。ものすごく長かった。酒を飲んだこと、病み上がりの清弦に飲ませたこと、決闘へ勝手に出たこと。三人抜きについては、鈴も途中から何と怒ればいいのか分からなくなっていたようだが、とにかく危ないことをするなという結論だけは最後まで変わらなかった。
最終的に奎星は正座のまま足が痺れ、清弦は「私は一口だ」と四回主張し、そのたびに奎星から「嘘つけ」と訂正された。
そして今、鈴の黒髪には細い青色の硝子が光っている。昨日、清弦が横浜で買った髪飾りだった。
奎星はそれを見る。次に清弦を見る。それから、もう一度鈴へ視線を戻した。
「清弦」
「何だ」
「似合って――」
「黙れ」
「まだ何も言ってねえだろ!」
「昨日からその顔を見ていれば分かる!」
鈴が二人を交互に見た。
「朝から元気ですね」
「こいつがな」
「お前だろ!」
いつもの言い合いだった。
けれど、今日の二人の足元には、昨日までなかった木箱が置かれている。中に収められているのは、真鍮の測定器と、清弦が横浜からの帰路で書き留めた記録だった。
笑っていられるのは、ここまでだった。
*
村を出て北へ向かった。
奎星はウミツバメ二号にまたがり、清弦は本人が断固として認めていない清弦二号へ乗っている。朝の冷気が頬を撫で、馬の蹄が乾いた土を規則正しく叩いていた。
「なあ」
「何だ」
「清弦二号って呼んだら、昨日より反応よくなってね?」
「手綱に反応している」
「名前覚えたんだよ」
「馬を巻き込むな」
「清弦二号」
黒鹿毛の耳がぴくりと動いた。
「ほら!」
「貴様の声がうるさいからだ!」
奎星は楽しそうに笑ったが、清弦はすぐに前へ視線を戻した。
昨夜、二人は地図らしきものを広げていた。正確な地図ではない。清弦が自分の足で歩いて知っている山や沢、村、街道、神代榊の位置、鬼火鳥がよく通る方角を、大雑把に紙へ落としたものだった。
そこへ、横浜から戻る途中で測定した地点を書き加えた。異常がなかった場所、僅かな偏りがあった場所、そして小萱村へ近づくほど大きくなっていた偏り。測定器の針は、そのすべてで北寄りを示していた。
「もう一回やるぞ」
村から四半刻ほど進んだところで、清弦が馬を止めた。二人は道を外れ、木立に囲まれた少し開けた草地へ降りる。
清弦が木箱を開いた。真鍮の器具を取り出し、三本脚を地面へ立てる。盤面には細かな目盛りが刻まれ、中央の針は置いた直後こそ不規則に震えていたが、清弦が側面のつまみを僅かに回すと、やがて揺れを小さくしながら一方へ寄っていった。
「触るなよ」
「まだ何もしてねえじゃん」
「昨日壊しかけただろう」
「壊してねえ!」
「針が端まで飛んだ」
「戻っただろ」
「そういう問題ではない」
清弦は地面へ膝をつき、左手を土へ置いた。目を閉じる。測定器だけに頼るのではなく、指先へ伝わる湿り気や、地中を細く流れる魔力、木々の根を抜けていくわずかな脈動を探っているのだろう。
清弦は昔から知ってきた方法で土地へ触れ、その隣では、西洋から来たばかりの真鍮の器具が同じものを針の動きへ変えていた。古い感覚と新しい道具が、互いを否定することなく同じ地面の上へ並んでいる。その光景を、奎星は不思議な気持ちで眺めていた。
しばらくして、清弦が目を開く。
「北だ」
「やっぱ?」
「ああ」
測定器の針も、ほぼ同じ方角を示している。
清弦は紙へ記録を書き込んだ。奎星が横から覗き込む。
「読めねえ」
「なら覗くな」
「字が昔すぎんだよ」
「貴様の字が崩れすぎなのだ」
「俺の方が未来の字だから新しい!」
「新しければ読めるという話ではない!」
二人は再び馬へ乗った。
北へ進み、測り、また進む。最初は一刻に一度ほどだった測定の間隔が、やがて少しずつ短くなっていった。進むほどに、針の偏りが強くなっている。
「こっちだ」
清弦が街道から外れた。
「道じゃねえけど」
「流れは道に沿っているわけではない」
「馬、行ける?」
「途中までだ」
杉の林へ入ると、地面には去年の落ち葉が厚く積もり、その下には細い根が無数に這っていた。日差しは木々に遮られ、昼前だというのに空気は冷たい。二頭を少し開けた場所へ繋ぎ、そこからは徒歩になる。
「結局歩くのかよ……」
「馬を買った意味がないな」
「言うなよ! めっちゃ金使ったんだぞ!」
「買ったのは貴様だ」
「清弦二号もな!」
「その名で呼ぶな」
文句を言いながら歩いていた奎星が、ふと足を止めた。
「清弦」
「ああ」
今度は清弦も同時に気づいていた。
土の匂いが変わっている。湿っているわけでも、腐っているわけでもない。けれど、以前の沢で嗅いだものと似た、焦げた鉄と泥を混ぜたような臭いが鼻の奥へ引っかかった。
二人は声を落とし、斜面を下りた。
その先に、小さな沢があった。水そのものはまだ黒くない。しかし、流れの脇に生えた草の一部だけが、根元から色を失っている。
清弦がしゃがみ込み、奎星も隣へ降りた。
「これ」
奎星が草を掻き分けると、平たい石が現れた。自然に転がったとは思えないほど、地面へ真っ直ぐ埋め込まれている。
奎星の顔から笑みが消えた。
「前のと同じじゃん」
「ああ」
二人は周囲を探した。
一つ、二つ、三つ。少し離れた場所に四つ目があり、さらに探すと五つ目、そして六つ目が見つかった。石はほぼ同じ間隔で、沢を囲うように配置されている。
「六つ」
奎星が呟く。
「また」
清弦は一つの石へ手を掛けた。
「待て」
「何だ」
「何か埋まってんじゃね?」
二人で土を掘った。石の下を指二本分ほど掘ったところで、金属へ触れる。
「……あった」
清弦が土を払うと、細い杭が姿を現した。真鍮らしい鈍い金色の表面には、細かな刻みが何本も入っている。
奎星は横浜で見たものを思い出した。
「六本の測量杭」
「ああ」
「以蔵が買ったやつ?」
「同じ物かは分からん」
「でも」
「似ている」
清弦は測定器を取り出し、三本脚を立てた。針は今までより明らかに大きく震え、右へ寄り、戻り、また同じ方向へ引かれていく。
「北」
奎星が言った。
「いや」
清弦が盤面を覗き込む。
「北東へ少しずれている」
「前の沢は?」
「ほぼ北だった」
「じゃ別?」
「……待て」
清弦は紙を広げた。前の沢、今いる場所、小萱村、帰路で測った地点。いくつもの点を結び、線を引いていく。
「奎星」
「ん?」
「ここの流れが北東へ寄っているのは、元からではない」
「分かるの?」
「地面へ触れれば分かる。元の流れはもっと東だ」
「じゃあ杭が曲げてる?」
「可能性は高い」
奎星は六本の杭を見た。
「一か所じゃなかったんだ」
「……ああ」
清弦の声が低くなった。
その日のうちに、もう一組の杭が見つかった。二里ほど北、古い畑の端にある、今は使われていない水路の脇だった。そこにも同じ六本が、同じ間隔で、同じように平石へ隠されている。
測定器の針は、さらに強く北西へ引かれた。
「おかしくね?」
昼を大きく過ぎた頃、奎星は木陰へ紙を広げた。二人は握り飯もほとんど食べず、記録を見比べている。
「ここが北東」
「ああ」
「こっちは北西」
「ああ」
「前の沢が北」
「ああ」
奎星が三本の線を指でなぞった。
「でもさ」
「何だ」
「全部、同じとこ向いてね?」
清弦の手が止まった。
紙の上には三つの地点と、それぞれから伸びる方角が記されている。線を延ばせば、ばらばらに見えた流れは一つの地点へ近づいていく。
「偶然?」
「三つなら、まだそう言える」
「でも帰り道のやつも入れたら?」
清弦が昨日の記録を重ねた。横浜から小萱村へ戻る途中で測った、僅かに偏っていた流れ。その方向も延ばしていく。
「……同じだ」
声が掠れていた。
奎星は地図を見つめた。背中へ薄い寒気が走る。
「これ」
彼はゆっくりと言った。
「一か所の霊脈を曲げてるんじゃねえ」
六本の杭は、一つの仕掛けではなかった。同じものが、いくつも置かれている。一本の太い川を無理やり曲げれば、誰でも異変に気づく。だが、支流を一つずつ、ほんの少しだけ向きを変えればいい。少しずつ、少しずつ。それが何十、何百と重なれば、やがて土地全体の流れさえ変えられる。
「全部」
奎星が言った。
「一方向に寄せてる」
清弦は答えず、紙へ描かれた線を見つめていた。
「この辺だけじゃないなら」
「ああ」
「関東中にこれがあったら」
「…………」
「霊脈そのものを」
奎星の指先が、線の先で止まる。
「一か所に集められる」
風が吹き、木々がざわめいた。遠くで鬼火鳥の声がする。一羽、二羽。何かから逃げるように、南へ飛んでいく。
清弦が立ち上がった。
「行くぞ」
「どこ」
「線の先だ」
*
辿り着いたのは、山と山の間へ落ち込んだ深い窪地だった。
夕方にはまだ早い。それなのに、谷底だけは光が薄かった。左右から伸びた尾根が陽を遮り、湿った岩壁には濃い苔が張りついている。中央には、川と呼ぶには細く、沢と呼ぶには大きな流れが一本通っていた。その水は透明だったが、近づくだけで皮膚がざらつくような不快感がある。
奎星が腕を擦った。
「ここ、ヤバくね?」
「ああ」
清弦の顔色も変わっていた。
測定器を置くと、針が跳ね上がった。盤面の端まで振れ、戻る気配がない。
「うわ……振り切れてる」
「強すぎる」
「魔力が?」
「流れだ」
清弦は地面へ手を置いた。その瞬間、顔を歪めて手を引く。
「どうした」
「多い」
「何が」
「流れが多すぎる」
清弦は自分の掌を見つめた。触れただけなのに、指先が僅かに震えている。
「本来ここを通らない流れまで来ている」
「全部?」
「全部ではない。だが、少なくとも周囲の支流がいくつも」
奎星は谷を見回した。最初は自然の岩だと思っていたものの中に、金色のものが混じっている。
「あれ」
沢の向こう、岩の間に真鍮の杭が見えた。一つ。その少し先にもう一つ。さらに奥にもある。今まで見つけたものより太く、その間を髪の毛より細い金属線が繋いでいた。
「親玉じゃん」
「触るな」
「触らねえよ」
奎星は神代榊へ手を置いた。杖から返ってきたのは、前の沢で黒い流れへ近づいたときよりも強い不快な震えだった。まるで杖そのものが、この場所を嫌がっているようだった。
「清弦」
「ああ」
二人の声は自然に小さくなった。
「これ、絶対誰か来るだろ」
「そうだな」
「以蔵かな」
「分からん」
「でも」
「決めつけるな」
「分かってる」
そう言いながら、奎星は周囲を見回した。谷、岩、木、沢。人影はない。鳥の声も消えている。虫すら、ほとんど鳴いていなかった。
魔力はこれほど集まっているのに、生き物だけが避けている。
「見事ですね」
声がした。
二人が同時に振り返る。
岩場の上に、いつからそこにいたのか分からない男が立っていた。旅装束に濃い色の羽織。腰には細身の西洋杖があり、革の帯には横浜で見たものとよく似た真鍮の器具がいくつも下がっている。
神代以蔵だった。
「……お前」
清弦が立ち上がる。奎星も神代榊を抜いた。
以蔵は二人の姿を見ても驚かなかった。むしろ清弦の手元にある測定器へ視線を落とし、ほんの僅かに口元を緩めた。
「購入されたのですね」
「…………」
「横浜の器具は、まだ精度に難がありますが、補助としては優秀です」
「貴様」
「蓮根清弦殿」
以蔵は静かに頭を下げた。
「その器具を手に取られたことを、私は嬉しく思います」
「何を言っている」
「我々は、思っていたほど違わないということです」
清弦の眉が寄る。
以蔵は岩場から降りた。奎星が杖を向けていることすら、気にしていないように見える。
「来るな」
奎星が言った。
以蔵の目が奎星へ向く。
「またお会いしましたね」
「覚えてんの?」
「もちろん」
以蔵は神代榊を見る。
「その杖を忘れる方が難しい」
奎星の手に力が入った。清弦が半歩前へ出る。
「この杭は貴様か」
以蔵は否定しなかった。
「ええ」
あまりにも簡単な返答だった。清弦の顔が固くなる。
「沢も?」
「どの沢を指しておられるかによりますが」
「小萱の南西だ。六つの杭。黒く濁った水」
「ああ」
以蔵は思い出したように頷いた。
「あそこも私です」
奎星の神代榊が僅かに上がった。
「お前――」
「待て」
清弦が止める。
「何のためだ」
以蔵は清弦を見る。
「もうお分かりなのでは?」
「貴様の口から聞く」
しばしの沈黙のあと、以蔵はゆっくりと谷を見渡した。
「関東の霊脈を整えます」
「整える?」
「ええ」
「これが?」
清弦の声が低くなる。
「流れを無理やり曲げ、人や作物を弱らせ、鬼火鳥の道まで乱しておいて。それを整えると言うのか」
「途中だからです」
「途中?」
「大きな流れを変えようとすれば、一時的な歪みは出る」
「一時的」
清弦の目が冷たくなった。
「鈴が寝込んだ」
以蔵の表情は変わらない。
「村の者もだ。畑も弱った。鬼火鳥の雛も道を失った」
「承知しています」
「承知している?」
初めて、清弦の声へはっきりとした怒気が混じった。
「知っていて続けたのか」
「必要な観測でした」
奎星が息を呑む。
以蔵は淡々と続けた。
「どこまで流れを動かせば周辺へ影響が出るのか。どの程度なら自然に戻るのか。どの地点で別の霊脈と干渉するのか。測らなければ分からない」
「人が住んでいる」
「だからこそ測るのです」
「何?」
「人が住んでいるから、感覚のままに放置してはならない」
清弦が黙る。
以蔵は谷の奥へ視線を向けた。
「関東の地下には、無数の魔力の流れがあります。それは作物へ影響し、人へ影響し、妖へ影響する。ひとたび滞れば病が増え、偏れば魔法が乱れ、妖魔を引き寄せる」
「知っている」
「では」
以蔵の声が少し強くなる。
「なぜ管理しないのです」
空気が変わった。
奎星の指が、神代榊の柄の上で止まる。その言葉は、どこかで何度も聞いたものと似ていた。
「……管理」
奎星が呟く。
以蔵は奎星を見たあと、再び清弦へ向き直った。
「蓮根家は長いあいだ、この土地の道を知ってきた。鬼火鳥の飛ぶ道。神代榊へ続く道。そして霊脈の道」
「知ってきただけだ」
「同じことです」
「違う」
清弦は即座に言った。
「我々は管理などしていない」
「それこそ無責任なのです」
清弦の目が細くなった。
以蔵は一歩も退かなかった。
「貴殿の家は、何百年も霊脈の流れを知ってきた。鬼火鳥は貴殿らへ道を示し、貴殿らは傷ついた鬼火鳥を助ける。神代榊は村の背後に立ち、その力を貴殿らは利用してきた」
「利用していない」
「なら何と呼びます」
「借りている」
以蔵が、初めて少しだけ眉を寄せた。
「借りる?」
「あれは我々の木ではない」
清弦は谷の南、見えないはずの小萱村の方角へ目を向けた。
「私が生まれる前からあそこにあり、私が死んだ後もあそこにある。鬼火鳥も同じだ。あれらは我々のものではない」
「綺麗な言葉ですね」
「事実だ」
「いいえ」
以蔵は首を振った。
「貴殿らが、そう思っているだけです」
清弦の顔が険しくなる。
「外から見れば、蓮根家は巨大な力のすぐ隣に生まれ、その扱い方を代々受け継いできた一族です」
「扱い方ではない」
「呼び方の問題ではありません」
「問題だ」
清弦が一歩出た。
「貴様は最初から、それを物として見ている」
「力は力です」
「土地は物ではない」
「土地は土地です」
「鬼火鳥は道具ではない」
「もちろん生物です」
「なら分かるだろう」
「分かっているから言っているのです」
以蔵の声が初めて僅かに熱を帯びた。
「生物だから死ぬ。人間だから忘れる。家は絶える。記録は失われる」
清弦が止まる。
「蓮根家が明日なくなったらどうするのです」
「…………」
「貴殿が死ねば?」
奎星の表情が変わった。
以蔵は続ける。
「鬼火鳥が道を変えれば。神代榊が倒れれば。貴殿らが口伝してきた知識が一代で失われれば」
「だから記録する」
「それだけでは足りない」
「何が足りない」
「仕組みです」
以蔵は腰から小さな真鍮の器具を外した。
「測る」
盤面を示す。
「記録する」
折り畳まれた紙を示す。
「同じ条件なら、誰でも同じ結果を得られるようにする」
腰の西洋杖へ触れる。
「人間一人の感覚へ依存しない。家の血へ依存しない。妖の気分へ依存しない」
清弦は何も言わなかった。
「それの何が悪いのです」
以蔵が訊いた。
静かな問いだった。煽っているわけでもない。本気で訊いている。そのことが、かえって不気味だった。
清弦は真鍮の測定器を見る。横浜で欲しがったもの。奎星の賞金で買ったもの。自分の感覚だけでしか分からなかった霊脈を、針の動きとして他人にも見せられる道具。
「悪くない」
清弦が言った。
奎星が横を見る。以蔵の目が僅かに細くなる。
「測ることは悪くない」
清弦は続けた。
「記録することも。誰か一人しか使えない術を、他の者も使える形へすることも」
「なら」
「だが」
清弦が遮った。
「川を測ったからといって、川が貴様のものになるわけではない」
以蔵が黙る。
「流れの速さを知った。深さを知った。水量を知った。だから自分が流れる場所まで決めていい。そんな話にはならん」
「霊脈は川ではない」
「同じだ」
「違います」
「同じだ!」
谷へ声が響いた。
清弦がこれほど強く声を張るのを、奎星は初めて聞いた。
「流れているものには、その場所の理由がある。木がある。草がある。妖がいる。人が住む。何百年も、互いに影響して形を変えてきた」
「だからこそ複雑になる」
「複雑で何が悪い」
「人が死ぬ」
以蔵の返答は速かった。
清弦が止まる。
「複雑だから見落とす。感覚だから間違える。土地ごとに違うから、別の土地の者は手を出せない」
「…………」
「貴殿は知っている。だが、隣の村の者は知らない。隣の国の術者はもっと知らない。ならば、貴殿がいない場所で異変が起きればどうする」
「教える」
「間に合わなければ?」
「…………」
「記録が読める者がいなければ?」
「…………」
「鬼火鳥が来なければ?」
清弦の拳が握られる。
以蔵は一歩近づいた。
「偶然選ばれた一族の感覚に、関東の命運を委ねるわけにはいかない」
「偶然……?」
「貴殿が蓮根家に生まれたのは、貴殿が選ばれたからですか」
清弦の目が鋭くなる。
「違うでしょう」
以蔵は静かに言った。
「たまたま、その家に生まれた」
「だから何だ」
「それだけで、巨大な神代榊の傍らに立ち、鬼火鳥の道を知り、霊脈の異変を誰より早く知ることができる」
「…………」
「その力を、代々の家の善意と経験だけへ任せてきた」
「任された覚えはない」
「そこです」
以蔵の声が硬くなる。
「それこそが無責任だと言っている」
清弦の顔から、完全に表情が消えた。
「管理していない。所有していない。借りているだけ」
以蔵は淡々と繰り返した。
「美しい。実に美しい考えです」
「…………」
「ですが、事故が起きたとき、誰が責任を取るのです」
「誰か一人が責任を取れば、死人が戻るのか」
「戻らないから、起こさないために管理するのです」
奎星の背筋へ冷たいものが走った。
ああ、同じだ。
顔は違う。声も違う。時代も百五十年以上違う。けれど、根にあるものは同じだった。
「……俺」
奎星が口を開く。
二人が見る。
「その話、未来で聞いたことある」
以蔵の眉が僅かに動いた。
「未来?」
「人は間違えるから、管理するって」
清弦が奎星を見る。
「全部、自分に任せればいいって」
奎星は以蔵から目を離さなかった。
「そうすれば誰も間違えねえって言ってた奴がいた」
神代冥司。マホウトコロ。すべてを自分の管理下へ置こうとした男。
以蔵が少しだけ笑った。
「理に適っていますね」
奎星の目が変わった。
「やっぱ似てるわ」
「誰にです」
「知り合い」
「未来の?」
「そう」
「私の子孫ですか?」
奎星の喉が詰まった。確証はない。神代という姓と、似た思想。それだけだ。
「知らねえよ」
「そうですか」
以蔵はそれ以上追わなかった。
清弦が低く言う。
「結局、貴様は何をするつもりだ」
以蔵は谷の中央を見る。
「関東の霊脈を、一つの体系へ組み直します」
「組み直す?」
「流れを測り、主要な分岐点を定め、異常が起きたとき人間の手で調整できるようにする」
奎星が顔をしかめた。
「蛇口みたいに?」
「蛇口?」
「……いい。続けて」
「流れが弱ければ補う。強すぎれば逃がす。妖魔が巣食えば、その区画だけを切り離す」
「そんなことができるのか」
清弦が訊く。
「今は、まだ」
以蔵の答えは、以前と同じだった。
「ですが、できるようにします」
「そのために」
清弦の視線が南へ向く。
「神代榊が要る」
「ええ」
即答だった。
奎星が神代榊を握り直す。
「巨大な神代榊は、あの地域を通る太い流れと深く繋がっている。長い年月を生きた木ほど、地中の変化を蓄積している」
「木を何だと思ってる」
「貴重な観測点です」
「ふざけんな」
「そして」
以蔵は清弦を見る。
「蓮根家も必要です」
清弦の目が冷たくなる。
「断る」
「まだ内容をお話ししていません」
「聞く必要がない」
「私は貴殿らを排除したいわけではない」
「同じだ」
「違います」
「貴様の下へ置くのだろう」
「協力していただきたいだけです」
「貴様の決めた仕組みの中で?」
「そうです」
「それを下へ置くと言う」
以蔵が黙った。
清弦は一歩、前へ出る。
「測れ」
以蔵の目が動く。
「学べ」
清弦が続けた。
「外国の術でも、道具でも、使えるものは使えばいい。記録も残せ。誰でも学べるようにすればいい」
「…………」
「だが」
清弦の声が、さらに低くなる。
「自分だけが正しく扱えると思うな」
谷の水音が、やけに大きく聞こえた。
「土地も。妖も。人も」
清弦は以蔵を真っ直ぐ見た。
「貴様のものではない」
以蔵は長いあいだ何も言わなかった。怒ったようにも、傷ついたようにも見えない。ただ、本当に残念そうに、ほんの僅かに目を伏せた。
「……そうですか」
奎星が神代榊を構える。
嫌な予感がした。
以蔵は右手を腰へ下ろし、西洋杖の柄へ触れた。
「では」
ゆっくりと杖を抜く。
「仕方ありませんね」
その瞬間、地面の下で何かが動いた。
ご、と低い音が谷底へ響く。
奎星が足元を見る。
「……何」
ごご、と今度ははっきり地鳴りがした。
「清弦!」
「離れろ!」
二人が同時に後退する。
谷の中央、太い真鍮杭の間で地面が膨らんだ。湿った黒い土が持ち上がり、岩が押し退けられる。その下から、何か硬いものが覗く。
黒い。
皮膚だった。
「は?」
奎星の声が落ちた。
次の瞬間、地面が爆発した。
土砂が空へ吹き上がり、清弦が腕で顔を庇う。奎星は反射的に神代榊を振った。
「プロテゴ!」
白銀の盾が展開される。
直後、巨大な岩が盾へぶつかった。轟音とともに衝撃が腕へ突き抜け、奎星の靴が地面を滑る。盾の表面へ細い亀裂が走った。
土煙の向こうで、何かが起き上がる。
いや、起き上がったのではない。
四つの脚で、地面を押し下げた。
奎星の口が開いた。
今まで見た妖魔とは違う。犬ほどの大きさでも、泥と煙の塊でもない。それは、怪物だった。
頭の位置だけで、奎星たちの身長の倍近くある。四肢は古木の幹より太く、地面へ着く爪は鎌のように長い。全身を覆う皮膚は黒褐色で、岩と肉を無理やり一つへ固めたような質感をしていた。その下を赤黒い光が脈打っている。
形だけなら巨大な獣に近い。狼にも、猪にも、熊にも見えるが、そのどれでもない。頭部は前へ長く伸び、額からは歪んだ角が二本突き出している。口が開くと、牙の奥から黒い霧が漏れた。
そして、白く濁った巨大な眼球が二人を見下ろした。
「……でっか」
奎星の声が掠れる。
清弦の顔が青ざめた。
「妖魔……?」
「これが?」
怪物が息を吐いた。空気が震え、周囲の魔力が吸い寄せられる。奎星の神代榊が強く震えた。
「何だよ、これ……!」
清弦が地面を見る。
「流れが」
「何!」
「こいつへ入っている!」
六本の杭。いや、谷にあるすべての杭と、それらを繋ぐ細い金属線。集められた霊脈が、怪物の足元へ向かっている。赤黒い光が皮膚の下で強くなった。
奎星が以蔵を見る。
「お前――!」
以蔵は怪物のすぐ前に立っていた。その顔には恐怖がない。
「これも観測の一つです」
「ふざけんな!!」
奎星が杖を向ける。
「ステューピファイ!」
赤い光が以蔵へ飛ぶ。
しかし、届く直前に空気が弾けた。
ぱんっ、と乾いた音が谷へ響き、以蔵の姿が消える。
「――っ!」
奎星の目が見開かれた。
「今の」
清弦が振り向く。
「何だ!?」
「姿くらまし!」
「何?」
「瞬間移動!」
以蔵がいた場所を赤い光だけが通り過ぎる。もう、どこにもいない。気配すら消えていた。
「逃げやがった!」
怪物が動いた。
「奎星!」
前脚が持ち上がる。
ただ、それだけの動作だった。だが、巨大な脚が二人へ落ちてくる。
「プロテゴ!!」
白銀の盾が展開され、怪物の脚と衝突した。
どん、と地面が沈む。
「ぐあっ!」
奎星の腕へ衝撃が突き抜け、盾の表面へ亀裂が走った。もう一度、前脚が押し込まれる。盾が軋み、白銀の光が砕け散った。
「避けろ!」
清弦が奎星の襟を掴み、二人で横へ飛ぶ。直後、巨大な爪が地面を抉り、土と石を吹き飛ばした。
「っぶねえ!」
「前!」
「分かってる!」
怪物が頭を振る。角が横薙ぎに迫った。奎星は身体を伏せ、清弦は後ろへ転がる。頭上を通り抜けた角が岩壁へぶつかり、岩が大きく砕けた。
「マジかよ!」
「右へ回れ!」
「おう!」
奎星が走る。
御影の訓練で叩き込まれたように、相手の杖だけでなく肩、足、重心を見る。だが、相手があまりにも大きすぎた。脚一本が丸太ほどもあり、首を振るだけで数メートルの範囲が薙ぎ払われる。一歩進むたびに地面そのものが揺れた。
「でかすぎんだろ!」
奎星が叫びながら杖を振る。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が右前脚へ直撃した。怪物が僅かによろめく。
「通った!」
「効いている!」
清弦が両手を地面へ置いた。指が土を掴む。
「――地の底を走るものよ」
低い声で古い言葉を唱えると、谷の地面が鳴った。怪物の足元から、太い根のような岩が立ち上がる。一本、二本、三本。岩は前脚へ絡みつき、巨体を地面へ縫い止めた。
「止まった!」
「今だ!」
「インカーセラス!」
奎星の杖先から縄が飛び出し、怪物の首、脚、胴へ次々に絡みついた。縄が締まり、怪物が低く唸る。
「いける!」
奎星が一歩踏み込む。
「デパルソ!」
青白い衝撃が顎の下へ直撃し、巨大な頭部が跳ね上がった。
「おおっ!」
清弦の目も開く。
効いている。現代魔法も、古い術も、確かに通っている。
だが、次の瞬間、怪物が吠えた。
音ではなかった。
圧力だった。
縄が弾け、清弦の岩が砕ける。衝撃波が谷を走り、二人の身体をまとめて吹き飛ばした。
奎星は背中から地面へ落ちた。息が消え、視界が白くなる。
「奎星!」
清弦の声が遠い。
怪物が走る。四足の巨体とは思えない速さだった。
「やば――」
奎星は転がったまま神代榊を上げた。
「プロテゴ!!」
白銀の盾が現れ、怪物の頭突きを受け止める。激突の衝撃で盾が歪み、腕が痺れ、肩が抜けそうになる。
「清弦!」
「分かっている!」
横から地面が割れ、細い石柱が何本も突き出した。怪物の腹を押し上げ、巨体が僅かに浮く。
「デパルソ!」
奎星も合わせて杖を振った。青白い衝撃が怪物へ重なり、巨体が横へよろめく。そのまま倒れ、大地が揺れた。
「やった!?」
「止まるな!」
清弦が怒鳴る。
その言葉どおり、怪物はすぐに起き上がった。皮膚には傷があり、石柱が当たった腹からは黒い血のような液体が流れている。だが、傷の周囲へ赤黒い光が集まり、脈打つと同時に黒い液体が止まった。
「……治ってね?」
清弦の顔が変わる。
「霊脈だ」
「何」
「集めた魔力を食っている!」
怪物の足元で、杭と金属線が淡く光っている。
「じゃあ、こいつ、ここにいる限り回復すんの?」
「おそらく」
「クソゲーじゃん!」
「何だそれは!」
「倒せねえって意味!」
「最初からそう言え!」
怪物が再び吠えた。
「来る!」
二人が左右へ分かれる。
前脚が清弦へ向かった。
「清弦!」
「見るな!」
清弦が身を滑らせる。爪が着物の袖を裂き、赤い血が散った。
「っ!」
「お前!」
「浅い!」
奎星の顔が変わった。
「ステューピファイ!」
一発、二発、三発。目、鼻、前脚へ赤い閃光が連続して当たる。怪物は顔を振り、明らかに嫌がっている。それでも止まらない。
「クソッ!」
四発目を放とうとした瞬間、清弦が叫んだ。
「奎星! 撃ちすぎるな!」
「でも!」
「魔力を食わせている!」
怪物の皮膚の下で、奎星の魔法が当たった場所から赤黒い光が周囲へ流れている。攻撃そのものは傷になる。だが、散った魔力の一部を怪物が吸い上げていた。
「最悪じゃん……!」
怪物が突進する。
奎星は撃たず、ぎりぎりまで引きつけた。前脚、肩、首。巨大すぎても、動く前には身体が予兆を見せる。御影の声が脳裏へ蘇った。
――撃たれてから考えるな。
「今!」
奎星が横へ飛ぶ。怪物が通り過ぎた瞬間、その脚元へ杖を向けた。
「デパルソ!」
地面が爆ぜ、足場が崩れる。巨体が大きく傾いた。
「清弦!」
「ああ!」
清弦が両手で印を結ぶ。普段のように長く地面を探る必要はなかった。さっきまで何度も触れ、流れの位置を掴んでいる。
掌を地面へ叩きつけた。
「伏せろ!」
地面が沈み、怪物の右前脚だけが深く落ちる。
「おお!」
「杭だ!」
清弦が叫んだ。
「一本でも壊せ!」
「了解!」
奎星が走る。
中央にある太い真鍮杭へ向かう。怪物がそれに気づき、首を動かした。
「遅え!」
奎星は神代榊を振る。
「デパルソ!」
杭へ直撃したが、曲がっただけだった。
「硬っ!」
「もう一度!」
「分かってる!」
怪物が脚を引き抜く。
「早く!」
「デパルソ!!」
二発目で杭が地面から抜け、金属線が切れた。ばちん、と青白い火花が散る。同時に、測定器の針が僅かに戻った。
「効いた!」
「次だ!」
清弦が別の杭へ走る。
怪物が吠えた。怒っていることが、はっきり分かった。
「清弦、後ろ!」
間に合わなかった。
岩の陰から、今まで見えていなかった巨大な尾が横薙ぎに振られた。
「っ!」
清弦の身体が宙へ浮く。
「清弦!!」
数メートル飛ばされ、地面へ叩きつけられる。
「ぐ……!」
動かない。
奎星の顔から血の気が引いた。
「おい!」
走り出す。
だが、怪物がその先へ立ちはだかった。
「どけぇ!!」
奎星は杖を振る。
「デパルソ!!」
最大の力を込めた青白い衝撃が、怪物の横腹へ叩き込まれた。
巨体が、半歩だけ動いた。
それだけだった。
「……は?」
奎星の目が見開かれる。
自分の魔力量は規格外だと、ずっと言われてきた。暴走すれば人を傷つける。強すぎる。必要な分だけ使え。そう教えられてきた。
その自分が、本気に近い一撃を入れた。
なのに、怪物は半歩しか動かなかった。
白い目が奎星を見下ろす。
「……マジかよ」
初めて、はっきりと思った。
勝てない。
怪物が口を開く。黒い光が集まり、魔力が凝縮されていく。
「っ!」
奎星は清弦の前へ滑り込んだ。
「プロテゴ!!」
白銀の防壁が展開され、黒い奔流と激突する。
世界から音が消えた。
腕、肩、腰。全身が押される。靴底が土を削り、盾へ亀裂が走った。一つ、二つ、三つ。
「まだ……!」
御影の声が脳裏へ響く。
必要な分だけ。
だが、今は必要な分が大きすぎる。
「うおおおおおっ!!」
奎星が魔力を流すと、盾が厚くなった。黒い光が左右へ裂け、岩壁を削り、背後の木々をなぎ倒していく。
「奎……星……」
後ろから清弦の声がした。
「清弦!」
「……持たせるな」
「何?」
「あれを受け続けるな!」
「無理だろ! お前、動けんの!?」
「動く!」
「その声で言うな!」
盾が砕けた。
二人の身体が吹き飛ぶ。奎星は清弦へ覆い被さるように地面へ落ちた。耳鳴りがし、口の中に血の味が広がる。
「……清弦」
「生きている」
「足」
「動く」
「腕」
「動く」
「頭」
「貴様よりはまともだ」
「よし」
「何がよしだ」
奎星は笑わなかった。
怪物が近づいてくる。一歩ごとに地面が揺れ、二人の身体へ低い振動が伝わってくる。
ここでまだ戦えば、死ぬ。
そのことが、今度ははっきり分かった。
御影なら、どうする。勝てない相手。守るもの。負傷者。戦う理由。逃げる場所。
――殺すことは強さじゃない。
――止められないなら。
奎星は息を吐いた。
「清弦」
「何だ」
「俺に掴まれ」
「何?」
「早く!」
奎星は清弦の腕を掴み、自分の肩へ回した。
「立てる?」
「何をする気だ」
「逃げる」
「馬が――」
「馬は後!」
「おい!」
怪物の頭が下がった。突進の姿勢だった。
「時間ねえ!」
奎星は清弦を強く抱えた。
「離すなよ!」
「何を――」
行き先を定める。
身体。
空間。
真壁に教わった姿くらましの感覚が、遠い昔の記憶のように蘇った。
三メートル先の木箱。スズメ。転んだ。向きが逆だった。四十センチずれた。何度も失敗した。
今は三メートルではない。
一人でもない。
「奎星!」
「黙って掴まってろ!」
場所を具体的に思い浮かべる。村、では曖昧すぎる。神代榊。巨大な幹。その南側。朝、鈴と話した場所。二頭の馬を繋いだ柵。大きな根。平たい石。
そこへ。
二人分。
清弦の腕、脚、身体。自分の身体。全部を一つの場所へ運ぶ。
迷うな。
怖がるな。
途中で戻ろうとするな。
怪物が迫る。十メートル。八メートル。六メートル。
「行くぞ!」
「どこへ!」
「帰る!」
奎星は身体を引いた。
空間を折り畳む。
ぱんっ――!!
怪物の爪が地面を砕いた。
だが、そこにはもう二人はいなかった。
*
世界が潰れた。
清弦には、そう感じられた。上下も左右もない。身体全体を一瞬だけ細い穴へ押し込まれ、その直後、逆方向から無理やり引きずり出されたような感覚だった。
息ができない。目を開けられない。音も光も何もない。
そして、ぱんっ、と乾いた音がした。
「がっ!」
二人は地面へ転がった。奎星の肩が土へぶつかり、清弦もその上へ半分重なる。
「いってぇ……!」
「な……」
清弦が咳き込む。
「何だ……今の……!」
「姿くらまし……」
奎星も息が続かない。
「二人でやんの……しんど……!」
視界が回り、吐き気が込み上げる。頭の奥が強く締めつけられていた。
それでも、匂いが違った。
土。草。煙。そして、巨大な木の匂い。
清弦が顔を上げる。
「……神代榊」
そこにあった。
村の背後で空を覆う巨大な枝。朝に見た場所。二人は戻ってきていた。
「成功……」
奎星が笑いかけ、そのまま仰向けになった。
「マジで死ぬかと思った……」
「貴様」
清弦も起き上がろうとして、脇腹を押さえた。尾に打たれた場所がひどく痛む。
「っ……」
「動くな!」
奎星がすぐに起き上がる。
「お前、全然大丈夫じゃねえじゃん!」
「貴様も顔から血が出ている」
「これは口切っただけ!」
「肩もおかしい」
「お前よりマシ!」
二人の声が村へ響いた。
村の方から、人が走ってくる。
「清弦!?」
鈴だった。
朝とは違い、顔色が変わっている。二人の血と泥、破れた服を見た瞬間、表情が強張った。
「奎星さん!」
鈴が駆け寄る。
「何があったの!?」
「鈴ちゃん」
「どうしてこんな――」
「ごめん」
奎星は一度だけ息を整えた。いつものように笑おうとしたが、うまくいかなかった。
「ちょっと」
神代榊の向こう、北を見る。
「あれ、マジでヤバい」
清弦も同じ方角を見た。
今までなら、大丈夫だ、何とかなると口にしていたかもしれない。だが、今回は言わなかった。
「鈴」
「何」
「村の者を集めろ」
鈴の表情が変わる。
「……何があったの」
清弦が答えようとした、そのときだった。
からん、と小さな音がした。
三人が振り返る。
奎星が持ち帰った木箱。姿くらましの瞬間にも、清弦が手放さなかった測定器。その蓋が半分開いている。
中で、針が動いていた。
清弦が這うように近づき、器具を取り出す。三本脚など立てていない。調整もしていない。それなのに、針はぴたりと北を指していた。
「まだ」
奎星が呟く。
「引かれてる」
清弦は黙って盤面を見つめた。
関東の地下を走る無数の流れ。それらはこれまで、それぞれの土地を通り、それぞれの木や妖や人のそばを流れていた。その一つ一つが、少しずつ、少しずつ、同じ方角へ寄せられている。
六本の杭は、一つではなかった。
沢に。畑に。山に。おそらく、自分たちがまだ見つけていない場所にも。
一本の流れを奪うためではない。関東という巨大な土地の下を走る力、そのものへ手を掛けるために。
その中心に立とうとしている男がいる。
神代以蔵。
測ることを知っている。記録する意味も知っている。外国の魔法を恐れず、便利なものなら迷わず取り入れる。
そこまでは、清弦と同じだった。
違うのは、その先だけだ。
清弦は、知ったものと共に生きようとする。以蔵は、知ったものを自分の手の中へ置こうとする。
土地も、霊脈も、妖も、人も。
間違えるものなら、管理すればいい。
未来で、奎星は一度その言葉と戦った。そして今、百五十年以上前の同じ国で、同じ言葉がすでに生まれていた。
「……管理、か」
奎星が小さく言った。
左手首の銀色の腕時計は、泥に汚れながらも動いている。秒針が一つ進み、もう一つ進む。
未来はまだ来ていない。
神代冥司も、まだ生まれていない。
今ここにいるのは、神代以蔵という一人の男だけだ。
だから、まだ何も決まっていない。
「清弦」
「ああ」
「次」
奎星が北を見る。そこには山しか見えない。巨大な妖魔も、消えた以蔵も、地中を寄せられていく霊脈も、ここからは何も見えなかった。
それでも二人には分かっていた。
今日、初めて、本当に敵の形が見えた。
「絶対、止めようぜ」
清弦はすぐには答えなかった。真鍮の針を見て、神代榊を見て、それから巨大な枝へ留まっている鬼火鳥を見上げた。
一羽が飛び立つ。
北へ向かおうとして、途中で迷うように旋回し、やがて南へ戻ってきた。
清弦は、その姿を長く見ていた。
「ああ」
やがて、静かに答える。
「止める」
それは英雄の言葉ではなかった。後世に名を残す男の言葉でもない。まだ病み上がりで、幼馴染へ髪飾り一つ渡すのにも理由をつけ、未来から来た子孫と毎日のように口喧嘩をしている、十八歳ほどの一人の少年の言葉だった。
けれど、百五十年以上先の記録には、この先、蓮根清弦が妖魔を退け、関東の霊脈を取り戻したと残る。
その傍らには、歴史から名を失ったもう一人がいた。
今はまだ、二人ともそんな未来を知らない。
ただ、北を指し続ける針だけが、次に彼らが向かうべき場所を、黙って示していた。