横浜の町並みが見えたとき、奎星は馬の背から身を乗り出した。山道の先、低い家々が折り重なるように広がり、その向こうには夕方の光を受けた海があった。港に立つ帆柱は細い木々のように空へ伸び、街道には荷車や馬車が行き交っている。小萱村とは比べものにならない人の多さだった。
「見えた!」
奎星が叫ぶ。
「落ちるぞ!」
隣を走る清弦が怒鳴った。
「落ちねえよ!」
そう言い返した直後、ウミツバメ二号が石を踏んだ。奎星の身体が大きく揺れ、慌てて鞍へしがみつく。
「……今のは馬が悪い」
「貴様が前のめりになったからだ」
「細かいな!」
横浜へ来たばかりの頃なら、奎星はこの町のすべてに目を奪われていただろう。異国の言葉、見慣れない服、見たことのない杖、地下の決闘場、知らない料理、そして舶来のビール。どれもが新鮮で、歩いているだけで胸が浮き立った。
しかし今は、海の輝きにも、港から漂う潮の匂いにも、ほとんど心が動かなかった。脳裏に浮かぶのは、熱に浮かされた鈴の顔と、浅く速い呼吸だけだった。細い腕を這っていた黒い線。あれを自分へ移そうとした清弦の、あまりにも静かな顔。あのまま放っておけば、清弦は本当に自分の命を差し出していたに違いない。
「急ぐぞ、二号!」
奎星が手綱を引くと、ウミツバメ二号は鼻を鳴らし、さらに速度を上げた。
「清弦二号も!」
「その名で呼ぶな!」
後ろから黒鹿毛が追ってくる。清弦二号は主人の怒声など気にする様子もなく、一定の歩調で街道を駆けていた。
山を下り、街道へ入る。町へ近づくにつれて人の数は増え、奎星たちは馬車を避け、荷車の脇を抜け、通りの端を縫うように進んだ。すれ違う人々が驚いた顔で振り返る。外国人の姿も多く、聞き慣れない言葉があちこちから飛び交っていた。
奎星は何度も左手首へ目を落とした。
銀色の腕時計が、何事もなかったように時を刻んでいる。幕末の横浜で正確な時刻を示しているのかどうかなど、確かめようもない。ただ、未来で合わせた時間のまま、秒針だけが淡々と進んでいた。
こち、こち、と小さな音が聞こえる気がした。
「……鈴ちゃん」
奎星は呟いた。
熱。浅い呼吸。腕を這う黒い線。清弦がそれを自分へ移そうとしたときの顔。
「間に合わせる」
奎星は前を向いた。
「絶対に」
「言われなくても分かっている」
清弦の声が隣から返ってくる。
その腰には、杖がなかった。奎星の腰にも、今は神代榊がない。二本分の空白が、妙に大きく感じられた。
自分の杖を平坂の作業台へ置いてきたことが、奎星にはひどく落ち着かなかった。学校へ入ってから、ほとんど毎日のように腰へあったものだ。手を下ろせば、いつもそこに柄が触れた。杖は道具であると同時に、身体の一部に近いものだったのかもしれない。
今は、手を伸ばしても何もない。
「……やっぱ変な感じする」
「何がだ」
「杖がないの」
「私など、最初から持っていない」
「お前は元々そうだろ」
「なら問題ない」
「俺には問題があるんだよ!」
「今日は戦いに来たわけではない」
「分かってるけどさ」
奎星は空いた腰を一度叩いた。
「パンツを忘れて外へ出たみたいで落ち着かねえ」
「例えを選べ!」
「落ち着かねえってことだよ!」
「分かったから黙れ!」
そんな言い合いをしながら、二人は横浜の町へ入った。
*
町へ入ってから、十分も経たなかった。
「KEISEI!」
通りの向こうから、聞き覚えのあるような、ないような声が飛んできた。
奎星が振り返ると、大柄な外国人の男がこちらへ手を振っていた。顔には見覚えがある。昨日、地下の酒場でジェームズたちと一緒に笑い、奎星が何か言うたびに杯を掲げていた男だ。
「……あ!」
奎星は馬を止めた。
「こないだの奴!」
「友人ではなかったのか」
「一晩で全員の名前を覚えられるかよ!」
男は満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。
「KEISEI! SAMURAI!」
「サムライじゃねえ!」
男はさらに笑った。どうやら、こちらの抗議はまったく伝わっていないらしい。
奎星は馬から飛び降りた。
「ちょうどいい!」
「何がだ」
「こいつ、前にいた!」
男の前へ立ち、奎星は両手を広げた。
「なあ! ちょっと来てほしいんだけど!」
「……?」
「だから!」
奎星は両腕を大きく広げた。
「モンスター!」
男が瞬きをする。
「Monster?」
「そう!」
奎星はさらに腕を広げた。
「ビッグ!」
「Big?」
「ビッグ!」
背伸びをし、両手を頭上へ掲げる。
「ベリー・ビッグ!」
「Very big?」
「そうそうそう!」
奎星は頭の上へ両手を置き、角の形を作った。
「こういうの!」
男は首を傾げた。
「……Bull?」
「違う!」
「Cow?」
「牛じゃねえ!」
「分かっていないぞ」
清弦が横から冷静に言った。
「分かってるよ!」
「では、何とかしろ」
「今やってる!」
奎星は地面へしゃがみ込み、指で土へ絵を描き始めた。四本脚、巨大な身体、角、口、そして身体の中を走る赤黒い光。自分ではかなり上手く描けたつもりだった。
「こう!」
男が覗き込む。
しばらく絵を見つめたあと、首を傾げた。
「……Dog?」
「犬じゃねえよ!」
清弦が顔を背けた。
「笑った?」
「笑っていない」
「肩が震えてんぞ!」
「笑っていない!」
外国人の男は、奎星が描いた巨大妖魔らしきものを見つめたまま腕を組んだ。そして突然、杯を持つ仕草をする。
「Drink?」
「飲まねえよ!」
奎星の絶叫が通りへ響いた。
「何でそうなるんだよ! 今、めちゃくちゃ真面目な話をしてんの!」
「前の印象が、それなのだろう」
「俺、何したんだよ!」
男は楽しそうに笑っている。奎星は頭を抱えた。
「英語、無理……」
「知っている」
「モンスターとビッグで何とかなると思った」
「ならなかったな」
「あと何知ってたっけ」
「私に聞くな」
「うわー、とか」
「それは英語ではない」
「外国でも通じるだろ!」
「悲鳴としてならな」
そのとき、別の方向からまた声がした。
「KEISEI!」
奎星が顔を上げると、今度は二人の外国人がこちらへ歩いてくる。そのうちの一人には、はっきり見覚えがあった。
「ミラー!」
奎星の顔が明るくなる。
「Miller!」
ミラーも顔を輝かせた。隣の男も、昨日の地下酒場にいたはずだ。
二人は奎星と地面の絵を見比べ、先ほどの男を交えて何か話し始めた。奎星には一言も分からない。
「何て言ってんの」
「私が分かると思うか」
「だよな」
ミラーが奎星へ向き直った。
「Monster?」
「そう!」
「Big?」
「そう!」
奎星は両腕を限界まで広げた。
「めちゃくちゃビッグ!」
「Very big?」
「ベリー!」
「Dangerous?」
奎星が止まった。
「…………」
清弦を見る。
「何だ」
「今の何」
「知らん」
「何か危なそうな意味だよな?」
「知らんと言っている」
奎星はミラーへ向き直った。
「イエス!」
言ってから不安になり、慌てて付け足す。
「多分!」
「英語に日本語を混ぜるな」
「しょうがねえだろ!」
奎星は自分の胸を指し、次に清弦を指した。それから二人で戦う仕草をし、派手に吹き飛ぶ真似をする。
「うわー!」
地面へ倒れ、すぐに起き上がる。もう一度、妖魔の絵を指した。
今度は鈴を表すつもりで、自分の額へ手を当て、苦しそうに顔を歪める。
「うっ……熱……」
「何をしている」
「鈴ちゃん!」
「分かるか!」
「じゃあどうすんだよ!」
奎星は自分の腕へ黒い線を描く仕草をし、胸を押さえ、倒れる。それから妖魔の絵を指し、山の方角を示し、最後に三人の外国人を指した。
「来て!」
手招きをする。
「カモン!」
「それは知っているのか」
「映画で聞いた!」
三人の外国人は黙って奎星を見ていた。さっきまで浮かべていた笑みが、少しずつ消えていく。
奎星の言葉は、正確には伝わっていない。何がいるのかも、どれほど危険なのかも、誰が倒れているのかも、まだ分かっていないはずだった。それでも、これは遊びではないこと、昨日のように決闘をしたいわけでも、酒を飲みたいわけでもないことだけは、どうにか伝わったらしい。
ミラーが奎星の肩へ手を置いた。
「Keisei」
「ん?」
ミラーは自分の胸を拳で叩き、次に奎星を指し、それから山の方角を指した。
奎星は瞬きをした。
「来る?」
ミラーは言葉の意味など分からないはずなのに、力強く頷いた。
「……マジ?」
隣の男も頷いた。最初の男も、地面の絵をもう一度見てから、深く頷く。
奎星は三人を見回した。
言葉は通じない。何が待っているのかも、どれほど危険なのかも、まだ何も分かっていない。それでも彼らは来ると言っている。
「来てくれんの?」
三人が何かを言った。奎星には分からなかった。ただ、その表情だけは分かった。
「……ありがと」
奎星が笑うと、ミラーが思い切り背中を叩いた。
「痛っ!」
外国人たちが笑う。
「何で毎回強えんだよ!」
「奎星」
清弦が声をかけた。
「感動しているところ悪いが」
「何」
「三人の名は」
「…………」
奎星はミラー以外の二人を見た。二人も奎星を見る。
「……ハロー」
「貴様、本当に友人なのか?」
*
そこからが大変だった。
「高瀬さん!」
奎星は通りを走った。
「高瀬さーん!」
後ろから清弦が追い、そのさらに後ろを外国人三人がついてくる。大柄な外国人を三人も連れて走れば、当然ながら目立つ。通りの人々が振り返り、店先から顔を出し、何事かと囁き合った。
「何だ、あれ」
「こないだの侍だ」
「外国人を連れているぞ」
「また決闘か?」
「違う!」
奎星が走りながら叫ぶ。
「今日は決闘じゃねえ!」
「前の三人抜きだ!」
「そうだけど!」
「侍!」
「違うって!」
地下決闘場のある辺りへ近づくにつれ、見覚えのある顔が増えていった。
「おい!」
今度は日本語だった。
奎星が足を止める。店先で荷物を運んでいた男が、こちらへ駆けてきた。地下で一緒に酒を飲んだ男だ。奎星の杯へ何度も勝手に酒を注ごうとし、そのたびに清弦へ止められていた。
「あの時の坊主!」
「あ!」
「三人抜きの!」
「そう!」
「今日は飲むのか?」
「飲まねえよ!」
「何だよ!」
「何だよじゃねえ!」
奎星は男の両肩を掴んだ。
「魔法、使える!?」
「は?」
「おっさん、前杖持ってたよな!?」
「おっさんじゃねえ、まだ二十九だ!」
「使える!?」
「使えるけど」
「強い!?」
「いきなり失礼だな、お前!」
「ごめん! でも急いでんの!」
奎星の顔を見て、男の表情が変わった。冗談ではないと、ようやく伝わったらしい。
「……何かあったのか」
「あった」
今度は言葉が通じる。奎星は一気に話した。
小萱村のこと。霊脈のこと。神代以蔵のこと。山の奥に打ち込まれた杭のこと。巨大な妖魔のこと。二人で戦ったが勝てなかったこと。そして、鈴が倒れ、呪いが北の霊脈と繋がっていること。
男は途中から一度も口を挟まなかった。
奎星が話し終えると、男はしばらく彼を見つめた。
「……お前、それで人を集めに来たのか」
「うん」
「会ったばかりの連中を?」
「他にいねえんだよ!」
奎星は声を張った。
「俺ら二人じゃ勝てなかった!」
通りのざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。
「だから」
奎星は男を見た。
「助けてほしい」
男は数秒、奎星を見つめた。それから鼻で笑った。
「最初からそう言え」
「え」
「行くよ」
「マジ!?」
「俺の酒を飲んだだろ」
「飲んだ……っけ?」
「飲んだ」
「覚えてねえ」
「三杯も」
「ごめん」
「そこを謝るのかよ」
男は笑った。
「柴崎甚八だ。今度は覚えろ」
「甚八さん!」
「甚八でいい」
「ありがとう!」
「まだ何もしてねえよ」
「でも来てくれるんだろ!」
「言っただろ」
甚八は店の中へ顔を向けた。
「おい、宗次!」
「何だ!」
奥から返事が返る。
「こないだの侍が化け物退治するってよ!」
「侍じゃねえ!」
奎星が叫ぶ。
店の奥から、別の男が顔を出した。
「面白そうだな!」
「面白くねえ! マジでヤバいんだって!」
「なら余計に行く」
「軽くない!?」
清弦が隣で呟いた。
「貴様と同類ばかりだな」
「違うだろ!」
「どこがだ」
甚八が清弦を見る。
「そっちの細い兄ちゃんは?」
「清弦」
「先祖」
「言う必要があるか!」
「似てんなと思って」
「兄弟みたいだろ?」
「違う!」
「先祖だって!」
「もっと意味が分からねえよ!」
甚八が笑った。
「まあいい。高瀬なら、さっき海側の通りで見たぞ」
「マジ!?」
「ああ。異人の商人と話していた」
「行く!」
「俺らも支度して後で行く」
「待って!」
奎星が振り返る。
「もう一人の人、誰!?」
店から出てきた男が手を挙げた。
「佐伯宗次郎」
「宗次郎さん!」
「宗次でいい」
「来てくれる!?」
「ああ」
「よし!」
奎星は拳を握った。
一人。二人。後ろには外国人が三人いる。まだ何も始まっていない。それでも、昨日まで二人だった数が、少しずつ増えていた。
*
「高瀬さーん!」
「うるさいな!?」
ようやく高瀬を見つけた。
異国の店が並ぶ一角で、高瀬は紙束を抱えたまま外国人の男と話していた。奎星の声に驚いて振り返り、その後ろにいる人間を見て、さらに目を丸くする。
「何だ、その集団」
「助けて!」
「何が!?」
「マジで助けて!」
「待て待て待て!」
高瀬は外国人との話を切り上げ、奎星のところへ来た。まず清弦を見、それから後ろの外国人三人へ視線を移す。
「何で連れてる」
「分かんない」
「は?」
「モンスター、ビッグ、うわーで来てくれた」
「何を言ってるんだ、お前は」
「俺の英語力の全部」
「少なすぎるだろ!」
「だから高瀬さんを探してたんだよ!」
「学校で何を勉強してきたんだ!」
「魔法!」
「英語もやれ!」
「スズメちゃんと御影先生と同じこと言うなよ!」
高瀬は額へ手を当てた。
「とにかく」
奎星の声が変わった。
「聞いて」
その一言で、高瀬の顔からも軽さが消えた。
奎星はもう一度、最初から話した。今度は途中で清弦も補った。杭が霊脈を曲げていること。関東の流れを集めていること。その中心に巨大な妖魔がいること。二人では勝てなかったこと。そして。
「鈴ちゃんが呪われた」
高瀬が息を止めた。
「……あの子が?」
「うん」
「髪飾りをもらった?」
「それは昨日」
「そんな説明はいい」
清弦が低く言った。
「今も意識がない」
高瀬の顔から完全に笑みが消えた。
「時間は?」
「分からない」
奎星が答える。
「でも、待ってられない」
「……分かった」
高瀬は紙束を近くの店へ預けた。
「俺も行く」
奎星の目が開く。
「いいの?」
「ここまで聞いて、通訳だけして帰れるか」
「高瀬さん!」
「抱きつくな!」
奎星が伸ばしかけた腕を止める。
「あと」
高瀬は後ろの外国人三人を見た。
「お前、こいつらへどこまで説明した?」
「モンスター」
「うん」
「ビッグ」
「うん」
「うわー」
「……他は?」
「カモン」
「それだけ!?」
「めちゃくちゃ頑張ったんだぞ!」
「これでよく三人もついてきたな!?」
高瀬は外国人たちへ向き直り、英語で話し始めた。
奎星には、一瞬で何も分からなくなった。高瀬の口から流れる言葉は、意味を掴む前に次の音へ変わっていく。
「……すげえ」
清弦が高瀬を見る。
「何と言っている」
「分かんない」
「貴様も分からないのか」
「だから言ってんじゃん!」
高瀬の説明が続くにつれ、三人の顔が変わっていった。最初は驚き、次に疑い、やがて真剣な表情になる。巨大妖魔の話になったのか、地面の絵を指差して何かを尋ねた。鈴の話へ移ったらしいところで、三人の顔から笑いが消えた。
最後に、高瀬が奎星と清弦を指した。
三人は顔を見合わせた。
そして、全員が頷いた。
「……何て?」
奎星が訊く。
高瀬が少し笑った。
「行くってさ」
「マジで!?」
「ああ」
「何で!?」
「お前が訊くのか」
「だって、ちゃんと内容を聞いたら、やっぱ無理ってなるかもしれねえじゃん!」
「ならなかったらしい」
高瀬が三人のうち一人を指した。
「トーマス」
「トーマス!」
「こっちがエドワード」
「エドワード!」
「ミラーは知ってるな」
「ミラー!」
ミラーが笑って手を上げる。
「覚えた!」
「今度は忘れるなよ」
「大丈夫!」
そのとき、通りの向こうが少し騒がしくなった。
「何だ?」
高瀬が振り返る。
人混みの間から、大柄な外国人が二人歩いてくる。そのうちの一人を見た瞬間、奎星の顔が明るくなった。
「ジェームズ!」
「KEISEI!」
ジェームズも一気に笑った。そのまま大股で近づき、奎星の前で両腕を広げる。
「待っ――」
抱き締められた。
「ぐえっ!」
「KEISEI!」
「力強え!」
背中を何度も叩かれる。
「痛い痛い痛い!」
ジェームズはようやく奎星を離し、両肩を掴んだ。何かを早口で言う。
「ごめん!」
奎星は即答した。
「全然分かんねえ!」
ジェームズが止まる。
「……?」
「英語!」
奎星は自分を指し、首を振った。
「ノー!」
頭を指し、もう一度首を振る。
「英語、ノー!」
「それは伝わるな」
高瀬が言った。
「だろ!」
「誇るところじゃない」
ジェームズが高瀬を見る。高瀬が説明を始めると、ジェームズの顔から笑いが消えた。隣の男も真剣な顔になる。
高瀬が最後まで話し終えると、ジェームズは奎星を見た。次に清弦を見て、もう一度奎星へ視線を戻す。それから何かを言った。
「何て?」
奎星が訊く。
高瀬が訳した。
「『なぜ俺を最初に呼ばなかった』」
「え」
ジェームズはさらに言葉を重ねた。
「何て?」
「『あの夜、一緒に杯を交わした』」
ジェームズは自分の胸を拳で叩き、次に奎星の胸を軽く叩いた。
高瀬が言う。
「『あの日から、俺たちは兄弟だ』」
奎星は、すぐには何も言えなかった。
あの夜、決闘をした。酒を飲んだ。名前を叫ばれた。自分は酔っ払って、スズメが好きだと叫び、清弦へ鈴に告白しろと絡み、最後には柱へ抱きついた。そんな一夜だった。
奎星にとっては、それだけの夜だったはずだ。
けれど、ジェームズにとっては違ったらしい。
「……兄弟」
奎星は笑った。
「何か」
鼻を擦りながら、少しだけ困ったように言う。
「重くね?」
高瀬が訳すと、ジェームズは大声で笑った。そして、また奎星の肩を叩く。
「痛えって!」
高瀬も笑った。
「『日本の侍は細かいことを気にするな』」
「侍じゃねえ!」
高瀬が訳す。
ジェームズはさらに笑った。
「そこも伝えなくていい!」
「大事だろ」
「大事だけど!」
隣の外国人も手を上げた。
「こいつはウィリアム」
「ウィリアム!」
「いたのを覚えてるか?」
「…………」
奎星はウィリアムを見る。ウィリアムは笑っている。
「覚えてる!」
「今の間は何だ」
「顔は覚えてる!」
「名前は?」
「今覚えた!」
「堂々と言うな!」
これで外国人の魔法使いは五人になった。ジェームズ、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム。そこへ高瀬が加わる。
奎星の胸の奥が、少しずつ熱くなっていった。
「あと」
高瀬が周囲を見回す。
「日本人の術者もいた方がいい」
「二人来る!」
「誰だ」
「甚八と宗次!」
「知り合いか?」
「さっき友達になった!」
「今日!?」
「前も飲んでた!」
「基準が酒になってるぞ!」
清弦が呆れたように額を押さえた。
「だから言っただろう」
「何を」
「一晩で友人になった奴らがいると」
「お前まで得意げになるな!」
しかし、その言葉は本当だった。
*
話は、そこから勝手に広がっていった。
甚八と宗次郎が戻ってきた。二人ともすでに支度を整えており、甚八は肩へ細長い袋を掛け、宗次郎は腰へ二本の短い木製杖を差している。
「準備早っ!」
「急ぐんだろ」
「うん!」
「なら話はあとだ」
さらに、人混みの向こうから声が飛んだ。
「おい、侍!」
「だから違う!」
昨日の決闘場で見た男が歩いてくる。
「俺も行く」
「誰!?」
「前にジェームズに負けた男だよ!」
「あー!」
「その反応、腹立つな!」
「ごめん! 名前を聞いてなかった!」
「秋月寅之助!」
「寅之助!」
「覚えろ!」
「今覚えた!」
秋月は不機嫌そうに杖を肩へ担いだ。
「昨日、優勝したやつが、今度は化け物に負けたって聞いた」
「うん」
「なら見に行く」
「何で!?」
「俺が負けた奴に勝った奴が、そんな簡単に負けたままなのは気に食わん」
「めんどくせえ理屈!」
「うるせえ!」
その後ろから、もう一人の男が現れた。
「秋月だけ行かせたら死にそうだから、俺も行く」
「誰!?」
「前一緒に飲んだだろ!」
「ごめん!」
「杉浦弥平!」
「弥平さん!」
「弥平でいい!」
「ありがとう!」
四人。
あと一人。
そこへ、低い声が重なった。
「何だ何だ。面白そうなことをしてんな」
振り向くと、昨日の酒場で隅に座っていた男がいた。奎星は覚えている。たぶん。
「……酒を飲ませてきた人!」
「覚え方が最悪だな」
「名前、何だっけ!」
「辰巳源兵衛」
「源兵衛!」
「おう」
「魔法使える!?」
「使えなきゃ昨日あそこにいねえよ」
「来て!」
「いいぞ」
「早っ!」
「話は聞いた」
源兵衛は笑った。
「困ったときは数だ」
清弦の目が、ほんの少し動いた。
困ったときには助ける。こちらが困ったときには、助けてもらう。誰か一人で抱えるものではない。以前なら、清弦はその言葉を他人へ向けていた。今は、それが自分たちにも向けられている。
「ただし」
源兵衛が奎星を見る。
「俺は酒を持っていくぞ」
「飲まねえからな!?」
「景気づけだ」
「スズメちゃんに怒られる!」
「誰だよ」
外国人組が「SUZUME」という言葉に反応した。
「SUZUME!」
「反応すんな!」
ジェームズまで杯を掲げる真似をする。
「やめろ!」
笑いが広がった。清弦ですら、口元を押さえている。
「お前も笑うな!」
「笑っていない」
「笑ってる!」
その騒ぎを聞きつけ、さらに何人かが「俺も行く」と申し出てきた。奎星なら、そのまま全員を連れて行きかねなかった。
だが、清弦が静かに声を上げた。
「待て」
大きな声ではなかった。それでも、周囲は自然に口を閉じた。
「遊びではない」
清弦は集まった人々を見回した。
「昨日、私たちは二人で戦った」
奎星も黙る。
「勝てなかった」
清弦は、そこを誤魔化さなかった。
「巨大な妖魔だ。霊脈から魔力を吸い、傷を塞ぐ。攻撃を受ければ、死ぬ可能性がある」
高瀬がジェームズたちへ訳していく。
「来るなら」
清弦は続けた。
「そのつもりで来てほしい」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて甚八が言った。
「だから来るんだろ」
「…………」
「お前ら二人じゃ勝てねえんだろ?」
「ああ」
「じゃあ、増やすしかねえ」
宗次郎も頷いた。
「俺らが二人分増えれば四人だ」
「計算が雑じゃね?」
「分かりやすいだろ」
秋月が杖を肩へ乗せる。
「俺は一人で二人分働く」
「昨日、俺に負けてたじゃん」
「今帰るぞ」
「ごめん!」
外国人たちの方では、高瀬が何かを話していた。ジェームズが鼻で笑い、答える。高瀬が訳した。
「『やばい状況で俺よりやばくて頼れるやついるか?』」
「……何だよ」
奎星が少し俯く。
「カッコいいこと言うじゃん」
ジェームズが笑う。
「意味、分かってんの?」
「高瀬さんが訳したから!」
ミラーも何か言った。
「何て?」
「『昨日三人倒した男が助けを求めている。それだけで十分だ』」
「…………」
「トーマスは『怪物を見たい』」
「急に軽い!」
「エドワードは『怪我人を助ける魔法も少し使える』」
「マジ!?」
「ウィリアムは」
高瀬が一瞬黙った。
「何」
「『日本の山に行ってみたかった』」
「観光じゃねえぞ!」
それでも、誰も帰らなかった。
清弦は、その光景を黙って見ていた。
昨日まで、彼にとって助けとは、自分が誰かへ差し出すものだった。土地が傷つけば自分が調べ、鬼火鳥が迷えば自分が道を探し、鈴が苦しめば自分が代わりに苦しむ。それでいいと思っていた。
けれど今、自分たちのために十一人が立っている。血縁でもない。同じ村でもない。同じ国ですらない者がいる。昨日まで名前も知らなかった者たちが、それでもここにいる。
「清弦」
奎星が隣へ来た。
「すげえな」
「ああ」
「俺、友達多くね?」
「半分以上、今日名前を覚えただろう」
「細けえな!」
「事実だ」
「友達は友達だろ!」
「……そうだな」
「え」
奎星が清弦を見る。
「今、認めた?」
「聞き間違いだ」
「認めたじゃん!」
「支度をしろ!」
「誤魔化した!」
清弦は前を向いた。けれど、その口元には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。
*
その日のうちに横浜を発つことはできなかった。
すでに日が傾き始めていた。小萱村までの山道を、十人を超える人数で暗闇の中進むのは、急ぐどころか余計に時間を失う危険がある。馬が脚を折れば、鈴のもとへ戻るのはさらに遅くなる。
「今から行こうぜ!」
奎星はなおも言い張った。
「無理だ」
高瀬が即答する。
「でも鈴ちゃんが!」
「だからこそだ」
清弦が言った。
「途中で馬が脚を折れば、もっと遅れる」
奎星は歯を食いしばった。反論したい気持ちはあったが、清弦の言葉が正しいことも分かっていた。
「夜明け前に出る」
「……分かった」
その代わり、夜はすべて準備に使った。
馬、食料、水、縄、灯り、傷薬、包帯、雨具。外国人たちはそれぞれの杖を確認し、日本人組も必要な術具を集めた。高瀬は町の中を走り回り、馬屋へ話をつけ、宿を確保し、道の状態を聞き出した。
「乗れる奴は?」
高瀬が尋ねると、ジェームズが手を上げ、ミラー、トーマス、ウィリアムも続いた。エドワードだけが少し嫌そうな顔をする。
「何て?」
「『馬より箒がいい』」
「箒あんの!?」
「横浜ならあるが、全員分はない」
「じゃあ馬!」
日本人組もほとんどが馬へ乗れた。源兵衛だけは、馬の前で腕を組んだ。
「俺、馬が嫌いなんだよ」
「何で!?」
「噛まれたことがある」
「何したの」
「酔って抱きついた」
「自業自得じゃん!」
「お前に言われたくねえ!」
深夜になっても、奎星はほとんど眠れなかった。
布団へ入っても、鈴の顔が浮かぶ。スズメの顔も浮かぶ。いつかの病室で、自分を待っていた人。今度は、自分が待たせている。
左手首の時計が、暗闇の中で微かに光っていた。
「……寝ろ」
隣から清弦の声がした。
「起きてんじゃん」
「貴様が動くからだ」
「寝れねえ」
「私もだ」
しばらく、二人とも黙っていた。
「だが寝ろ」
「うん」
少し間が空く。
「清弦」
「何だ」
「十一人だぞ」
「ああ」
「めちゃくちゃ増えたな」
「騒がしい奴ばかりだ」
「お前もな」
「黙れ」
奎星は目を閉じた。
「絶対勝とうな」
返事は、少し遅れて返ってきた。
「ああ」
*
まだ空が青黒いうちに、横浜を出た。
外国人五人。ジェームズ、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム。その間を繋ぐ高瀬。日本人の魔法使い五人、柴崎甚八、佐伯宗次郎、秋月寅之助、杉浦弥平、辰巳源兵衛。合わせて十一人。
そこへ奎星と清弦が加わる。
十三人の一行が、まだ眠りの中にある横浜の道を進み始めた。馬の蹄が石を叩き、朝の冷たい空気を切り裂いていく。
「行くぞ!」
奎星が声を上げる。
ジェームズが何か叫んだ。
「何て!?」
高瀬が馬上で笑う。
「『侍隊、出発!』」
「侍じゃねえっつってんだろ!」
朝の横浜へ笑い声が響いた。
やがて町が遠ざかる。畑が増え、街道が細くなり、山の影が近づいてくる。途中で何度も休憩を入れたが、誰も長く休もうとはしなかった。
「Keisei!」
「何!」
ジェームズが水筒を投げて寄越す。
「お、ありがと!」
奎星は受け取って飲み、それから眉をひそめた。
「これ、水だよな!?」
高瀬が笑う。
「酒じゃない」
「確認しとかないと怖えんだよ!」
「こないだのことを反省しているのか」
「めちゃくちゃしてる!」
源兵衛が後ろから声をかけた。
「酒ならあるぞ」
「要らねえ!」
「消毒にも使える」
「それなら持っとけ!」
「飲むか?」
「飲まねえ!」
外国人たちが笑う。言葉は半分も通じない。それでも、前よりずっと一緒に進んでいるという感覚があった。
昼を過ぎ、山へ入る。清弦は何度も測定器を取り出した。針は、やはり北を指している。数値は強く、昨日より弱まってはいない。
「まだ動いてる?」
奎星が訊く。
「ああ」
「鈴ちゃんの呪いも」
「繋がったままだろう」
「……急ごう」
「ああ」
馬が進む。十一人も、何も言わずについてきた。
*
小萱村が見えた頃には、空はすでに夕方の色へ変わっていた。
「見えた!」
奎星が指差す。
山の間に茅葺き屋根が見え、畑の向こうには巨大な神代榊が立っている。枝は夕陽を受けて赤く染まり、その上では鬼火鳥が何羽も羽を休めていた。
外国人たちの間から、低い声が上がる。
「Whoa……」
奎星が振り返った。
「それ知ってる!」
「英語ではない」
「うわー仲間!」
「貴様は黙れ!」
高瀬ですら、しばらく神代榊を見上げていた。
「……でかいな」
「だろ」
奎星が少し得意そうに言う。
「俺の木じゃねえけど」
清弦が横目で見る。
「そこは分かっているのだな」
「誰のものでもないんだろ?」
「……ああ」
村の入口へ近づくと、人影が見えた。村人たちが道へ出て、こちらを待っている。
「来た!」
「帰ってきたぞ!」
「清弦!」
「奎星さん!」
声が広がる。
そして、奎星たちの後ろに続く人々を見た瞬間、村人たちは一斉に足を止めた。
外国人五人。高瀬。日本人五人。馬と荷物。
「増えすぎじゃないか?」
老人が言った。
奎星は胸を張った。
「友達!」
「昨日までいなかっただろ!」
「横浜でできた!」
「早いな!?」
子供たちが外国人たちを見て目を輝かせる。
「異人だ!」
「五人いる!」
「でっか!」
ジェームズも子供たちへ手を振った。子供たちも一斉に手を振り返す。
「HELLO!」
「お」
奎星が目を丸くする。
「お前ら、英語できんの?」
「昨日教えてもらった!」
「俺よりできるじゃん!」
高瀬が吹き出した。
「十八歳が子供に負けるなよ」
「しょうがねえだろ!」
村では、すでに客人を迎える準備が始まっていた。空いている家や納屋には布団が敷かれ、炊事場では大量の飯が用意されている。馬を繋ぐ場所も確保され、水や薪まで揃えられていた。
清弦たちが人を連れて戻ると言って出たため、何人来てもいいように、村人たちは朝から準備していたらしい。
「十一人とは思わなかったけどね」
老婆が笑う。
「ごめん!」
「謝ることじゃないよ」
「飯、足りる?」
「村を何だと思ってるんだい」
別の女が腕をまくる。
「十三人くらい、食わせられるよ」
その言葉に、清弦は少しだけ目を伏せた。
「鈴は」
真っ先に訊く。
笑い声が静まった。
「まだ寝てる」
老人が答える。
「熱はある」
「線は」
「広がってはいる。だが、昼からはそれほど進んでいない」
清弦が馬から降りる。奎星も続いた。
「俺も行く」
「いや」
清弦が止めた。
「人を頼む」
「……分かった」
清弦は一人で鈴の家へ走っていった。
奎星はその背中を見送った。少し前なら、止めていたかもしれない。けれど今は、清弦が戻ってくると分かっていた。
*
「奎星」
低い声がした。
振り返ると、平坂が立っていた。いつもの作業着の袖をまくり、肩には木屑がついている。
「爺ちゃん!」
「爺ちゃん言うな」
「できた!?」
「誰に物を言っとる」
平坂は奎星を睨んだ。
「夕方にはできとる」
「早っ!」
「急げと言ったのはお前らだ」
「清弦だけど!」
「同じような顔をしおって」
「俺の方が若い!」
「兄弟なんだろう?」
「百五十年違う!」
「頭が痛くなるから黙れ」
平坂は納屋へ向かった。
「来い」
奎星はすぐについていった。横浜組も興味を持ったのか、何人かが後ろから続く。高瀬、甚八、ジェームズ、ミラー。
「何?」
奎星が振り返る。
「杖だろ?」
高瀬が答えた。
「うん」
「見たい」
「俺も」
甚八も言う。ジェームズが何かを言った。
「何て?」
「『新しい杖なら見たい』」
「みんな好きだな!」
「魔法使いだからな」
納屋へ入ると、木と油の匂いが鼻をついた。作業台の上には、二本の杖が並んでいた。
奎星の足が止まる。
一つは、見慣れた自分の神代榊だった。黒に近い木肌、使い込まれた表面、炎のような彫刻。もう一つは、それによく似ていた。
けれど、同じではない。
木の色は少し若く、表面にはまだ新しい滑らかさが残っている。握りには同じように炎を思わせる細い彫りが走り、長さも太さも重心も、ほとんど同じに整えられていた。
ただ、そこには時間の違いがあった。
「……すげえ」
奎星が近づく。
「俺のじゃん」
「違う」
平坂が即答した。
「分かってるけど!」
そのとき、清弦が戻ってきた。少し息を切らしている。
「鈴ちゃんは?」
奎星が訊く。
「変わらない」
「そっか」
「だが」
清弦は一度目を閉じた。
「生きている」
「うん」
「行くぞ」
清弦は作業台へ目を向け、そこで初めて新しい杖に気づいた。
「……できたのか」
「遅い」
平坂が言う。
「夕方にはできとる」
清弦が杖へ近づき、手を伸ばす。
「いいのか」
「お前のために作ったんだ」
「…………」
「持て」
清弦の指が、新しい神代榊へ触れた。
その瞬間、木肌の内側を青白い光が細く走った。
「……っ」
清弦が目を開く。
鬼火鳥の尾羽。神代榊。握り手。平坂が、百五十年以上先から来た杖を見ながら削った一本。
清弦は杖を持ち上げた。
「どう?」
奎星が訊く。
「……妙だ」
「何が」
「分からん」
「重い?」
「いや」
「軽い?」
「そうではない」
「使えそう?」
「だから分からん!」
「振ってみろよ!」
「狭い!」
奎星が笑った。
作業台から自分の神代榊を取る。握った瞬間、やはり馴染んだ。何日かぶりでもないのに、何日も離れていたような気がする。
「やっぱこれだわ」
「そんなに違うか」
「違うよ」
奎星は自分の杖を腰へ戻し、清弦の手にある新しい杖を見た。
「なあ」
「何だ」
「ちょっと貸して」
「なぜだ」
「試したい」
「自分のがあるだろう」
「いいじゃん!」
「何をする気だ」
「一発だけ!」
「嫌だ」
「ケチ!」
「私のだ!」
「今完成したばっかじゃん!」
「だからだ!」
奎星は清弦の腕へ手を伸ばした。
「貸せって!」
「やめろ!」
「一回!」
「壊したら殺すぞ!」
「壊さねえよ!」
「貴様は信用できん!」
「お前までそれ言うの!?」
二人が杖を取り合い始める。
平坂の顔が険しくなった。
「外でやれ!」
「はい!」
二人は同時に止まった。
*
納屋の前には、いつの間にか村人たちが集まっていた。横浜から来た十一人も、何が始まるのかと少し離れた場所で見守っている。
「何でこんなに見てんの?」
「見たいんだろ」
高瀬が言った。
「恥ずいんだけど」
「昨日、決闘場で三人倒した奴が今さら何を言っている」
「それとは違う!」
清弦が新しい杖を奎星へ渡した。
「一度だけだ」
「分かってる」
「傷つけるな」
「分かってるって」
「貴様の『分かっている』は」
「信用できないって言うな!」
奎星は杖を受け取った。
そして、動かなくなった。
「……ん?」
清弦が見る。
「どうした」
「いや」
奎星は杖を見つめた。
右手の親指、人差し指、小指。指の位置を探す必要がなかった。自分の神代榊を見本にして作られたのだから、握りも長さも重心も似ているのは当然だ。
それでも、ただ似ているというだけでは説明できない感覚があった。
「……変な感じ」
「さっき私も言った」
「新品だよな」
「夕方できた」
奎星は軽く杖を振った。空気が、すっと切れる。
「お」
もう一度振る。
「使いやすい」
平坂が鼻を鳴らした。
「誰が作ったと思っとる」
「爺ちゃん天才!」
「爺ちゃん言うな」
奎星は周囲を見回した。
「何か持って」
「何か?」
清弦が眉を寄せる。
「飛ばすから」
「私が?」
「うん」
清弦は奎星の神代榊を見る。
「それでいいのか?」
「私の新しい杖で、未来から来た古い方を飛ばすのか」
二人はしばらく黙った。
「何か変だな」
「ああ」
「やめる?」
「いや」
清弦が奎星の神代榊を抜いた。
「やれ」
「落とすなよ!」
「飛ばすのは貴様だろう!」
「そうだった!」
周囲から笑いが起こる。
清弦が未来の神代榊を持ち、奎星が生まれたばかりの神代榊を構える。
二本の杖は、同じ木と同じ鬼火鳥の尾羽から生まれていた。ただ、片方には百五十年以上の時間が積もり、もう片方にはまだ何も積もっていない。
夕暮れの小萱村で、その二本が初めて向かい合う。
奎星は息を吐いた。
狙うのは、杖だけだった。
「エクスペリアームス」
赤い光が走った。
ぱしん、と乾いた音が響く。
清弦の手から、未来の神代榊だけが抜けた。杖はくるりと一度宙を回り、奎星の左手へ収まる。
「うお」
奎星は両手に一本ずつ杖を持った。古い杖と、新しい杖。過ぎた時間と、これから積み重なる時間。
「めちゃくちゃいい」
ジェームズたちから歓声が上がった。
「Whoa!」
「それは俺でも分かる!」
奎星が笑う。
その手の中で、新しい神代榊の木肌がほんの一瞬だけ青白く灯った。
奎星は気づかなかった。誰も気づかなかった。
杖の奥で鬼火鳥の尾羽が微かに震え、十七歳の少年の魔力が、初めてその一本の中を通り抜けた。
奎星は何も知らず、清弦へ杖を返した。
「ほら」
「何だ」
「いい杖じゃん」
「当然だ」
「お前が作ったわけじゃねえだろ」
「私の材料だ」
「木も羽根も借り物だろ!」
「細かい!」
二本の杖が、それぞれの手へ戻る。
時間は前へ進んでいく。けれど木と魔法だけは、ときどき物事の順番を間違えるのかもしれなかった。
*
「じゃ」
奎星が言った。
「やるぞ」
「今からか」
「今から」
空は、かなり暗くなっていた。村では横浜から来た者たちのために夕餉の準備が始まっている。炊かれる米、汁、魚、野菜。あちこちから湯気と匂いが立ち上り、外国人たちは興味津々で鍋を覗き込んでいた。
だが清弦は、食事より先に新しい杖を使えるようにすることを選んだ。
「飯のあとでは駄目なのか」
「覚えてから食え」
「横暴だな」
「時間がねえだろ」
「それはそうだが」
奎星は自分の神代榊を抜いた。
「最初に教えるのは」
清弦も新しい杖を構える。
「防壁か」
「違う」
「では気絶」
「違う」
「拘束」
「違う」
「吹き飛ばすもの」
「違う」
奎星が笑った。
「エクスペリアームス」
清弦の眉間に皺が寄る。
「…………」
「何、その顔」
「妖魔は杖を持っていなかったぞ」
「知ってる」
「では、何の役に立つ」
「めちゃくちゃ大事」
「昨日のあれには使えん」
「めちゃくちゃ大事!」
「話を聞け!」
「聞いてるよ!」
奎星は杖を振った。
「俺も最初、同じことを思ったんだって。こんなの地味じゃんって」
「実際、地味だ」
「だろ!?」
「なぜ嬉しそうなんだ」
「でも」
奎星の顔から笑いが少し消えた。
「御影先生に、最初にこれを教えられた」
「未来の妖魔か」
「先生!」
「半分妖魔なのだろう」
「それ、俺が言ったけど忘れて!」
清弦が新しい杖を見る。
「なぜ、これを最初に」
「杖の扱いを覚えるのにちょうどいいから」
奎星は近くにあった細い木の棒を拾った。
「魔法は、呪文を唱えて魔力を出せばいいだけじゃないんだよ」
「どういう意味だ」
「これだけを飛ばす」
棒を持ち上げる。
「俺を飛ばさない」
「当たり前だろう」
「俺は最初、人形ごと壁まで飛ばした」
「…………」
「めちゃくちゃ強かった」
「下手だったの間違いでは?」
「うるせえ!」
奎星は棒を清弦へ見せた。
「強すぎても駄目。弱すぎても駄目。相手をぶっ壊すんじゃなくて、持ってるものだけを落とす」
御影の声が、記憶の底から蘇る。
殺すことは、強さではない。相手を壊すだけなら、力があればできる。殺さずに止める方が難しい。
「必要な分だけ」
奎星は言った。
「それを覚える呪文」
清弦の表情が変わった。
「必要な分だけ」
「うん」
「……なるほど」
「あと」
奎星は自分の杖を上げた。
「杖だけを見るな」
「今、杖だけを狙えと言っただろう」
「狙うのは杖だけ」
「…………」
「見るのは全部」
「…………」
「肩とか、足とか、手とか。相手が動く前に、どこが動くかを見る」
「待て」
「撃ったあとも止まらない」
「待て」
「魔力を出しすぎない」
「多い!」
「大事なんだよ!」
「最初から一度に言うな!」
「俺もこうやって教わった!」
「絶対に嘘だ!」
「途中から!」
清弦が額を押さえた。
「貴様、教師には向いていないな」
「進路に悩んでんだから、そういうこと言うなよ!」
「事実だろう」
「教えられるし!」
「では、分かるように教えろ」
「……こう」
奎星が杖を振る。
「シュッて」
「やはり向いていない」
「うるせえ!」
少し離れたところで、高瀬たちが笑っていた。
奎星が振り返る。
「見るなよ!」
「気になるだろ!」
「先生役してんの!」
「頑張れ、先生!」
「うるせえ!」
外国人たちも状況は分からないまま笑っている。ジェームズが親指を立てた。
「何で応援されてんだ、俺!」
「続けろ」
清弦が言った。
「え」
「時間がないのだろう」
「……うん」
「なら」
清弦は新しい神代榊を握り直した。
「教えろ」
奎星は少しだけ笑った。
「よし」
清弦の前へ立つ。
「まず、握りすぎ」
「これでか」
「力が入りすぎてる」
「杖など使ったことがない」
「だから」
奎星が清弦の手首を少し下げる。
「こう」
「近い」
「教えてんだよ!」
「分かっている」
「肩も力を抜け」
「こうか」
「もっと」
「こう?」
「抜きすぎ」
「面倒だな!」
「魔法は細部です」
言ってから、奎星が止まった。
「…………」
「何だ」
「スズメちゃんがよく言うやつ」
「知らん」
「今、俺、先生っぽくね?」
「全く」
「一瞬あっただろ!」
「ない」
清弦の口元が、ほんの少しだけ上がった。奎星も笑う。
「言葉は」
奎星は真面目な顔へ戻った。
「エクスペリアームス」
「エクスペリアームス」
「そう」
「意味は」
「武装解除」
「言葉そのものの意味だ」
「英語とかラテン語とか、俺に聞かないで」
「貴様、本当に未来人か」
「未来人でも英語ができねえ奴はいる!」
奎星は木の棒を持った。
「俺のこれを狙って」
「外したら」
「俺に当てんなよ」
「それは私の台詞だろう」
「出力は弱め」
「どの程度だ」
「こう」
「分からん」
「何となく!」
「貴様を殴っていいか」
「駄目!」
清弦は溜息を吐いた。それでも杖を構えた。
夕暮れの神代榊の下で、百五十年以上未来から来た少年と、まだ歴史になる前の少年が向かい合っている。枝の間から差し込む光は次第に薄れ、鬼火鳥の尾羽だけが青白く浮かび上がっていた。
「いくぞ」
「おう」
清弦が息を吐き、杖を振る。
「エクスペリアームス」
何も起こらなかった。
「…………」
「…………」
清弦の眉が動く。
「今のは」
「失敗」
「分かっている!」
「怒んなって!」
二度目。
「エクスペリアームス!」
杖先が赤く光った。だが光は十センチほど進んだところで消える。
「お」
奎星の目が輝く。
「出たじゃん!」
「消えたぞ」
「最初はそんなもん!」
「貴様は?」
「七回目くらいでできた」
「なら六回以内にやる」
「張り合うなよ!」
三度目。光が飛んだが、奎星の持っている棒の横を抜けた。
「惜しい!」
「当たっていない」
「俺なんか最初、人形を吹っ飛ばしたから、それよりいい!」
「比較対象が酷すぎる!」
四度目。
清弦が構える。奎星が棒を持つ。
「杖だけじゃなくて」
「全部見る」
「撃ったあと」
「止まらない」
「魔力」
「出しすぎない」
「いいじゃん」
「うるさい」
清弦の目が変わった。
奎星の手、腕、肩、足、そして棒。すべてを同時に見る。新しい神代榊を小さく振る。
「エクスペリアームス」
赤い光が走った。
ぱしっ、と音がした。
「あ」
奎星の手から、棒だけが抜けた。棒は一メートルほど飛び、草の上へ落ちる。
清弦の目が少し開いた。
奎星は数秒、落ちた棒を見ていた。それから、にっと笑った。
「できたじゃん」
「…………」
「四回」
「当然だ」
「めちゃくちゃ嬉しそう」
「嬉しそうではない」
「口元!」
「黙れ!」
「ほら!」
「黙れ!」
村の向こうから笑い声が上がった。ジェームズが何か叫ぶ。
「何て!?」
高瀬が答える。
「『SAMURAI TWO!』」
「何でだよ!」
奎星の声が、夕暮れの村へ響いた。
昨日、二人は負けた。巨大な妖魔を前に、力が足りなかった。知識も、人数も、何もかもが足りなかった。
だから、増やした。借りた。頼った。
横浜から十一人。村の人々。平坂。鬼火鳥。神代榊。そして、新しく生まれた一本の杖。
清弦は、その杖を見つめた。
「もう一度だ」
「お」
奎星が棒を拾う。
「やる?」
「ああ」
「次は動くぞ」
「望むところだ」
「撃ったあと、止まんなよ」
「分かっている」
「その『分かってる』は信用できねえな」
「貴様にだけは言われたくない!」
奎星が笑う。清弦も杖を上げる。
その向こうで、十一人の仲間が、小さな村が、次の戦いへ向けて動き始めていた。
北には、まだ巨大な妖魔がいる。神代以蔵もいる。鈴の呪いも消えてはいない。何も解決していない。
それでも、昨日とは違う。
二人ではない。
「行くぞ、清弦」
「ああ」
神代榊の枝の間から、最後の夕陽が差し込んだ。新しい杖の先へ、赤い光が灯る。
「エクスペリアームス」
戦うための最初の魔法は、相手を傷つけるための魔法ではなかった。