マホウトコロ   作:西野圭吾

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第10話 一夜の兄弟

 横浜の町並みが見えたとき、奎星は馬の背から身を乗り出した。山道の先、低い家々が折り重なるように広がり、その向こうには夕方の光を受けた海があった。港に立つ帆柱は細い木々のように空へ伸び、街道には荷車や馬車が行き交っている。小萱村とは比べものにならない人の多さだった。

 

「見えた!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「落ちるぞ!」

 

 隣を走る清弦が怒鳴った。

 

「落ちねえよ!」

 

 そう言い返した直後、ウミツバメ二号が石を踏んだ。奎星の身体が大きく揺れ、慌てて鞍へしがみつく。

 

「……今のは馬が悪い」

 

「貴様が前のめりになったからだ」

 

「細かいな!」

 

 横浜へ来たばかりの頃なら、奎星はこの町のすべてに目を奪われていただろう。異国の言葉、見慣れない服、見たことのない杖、地下の決闘場、知らない料理、そして舶来のビール。どれもが新鮮で、歩いているだけで胸が浮き立った。

 

 しかし今は、海の輝きにも、港から漂う潮の匂いにも、ほとんど心が動かなかった。脳裏に浮かぶのは、熱に浮かされた鈴の顔と、浅く速い呼吸だけだった。細い腕を這っていた黒い線。あれを自分へ移そうとした清弦の、あまりにも静かな顔。あのまま放っておけば、清弦は本当に自分の命を差し出していたに違いない。

 

「急ぐぞ、二号!」

 

 奎星が手綱を引くと、ウミツバメ二号は鼻を鳴らし、さらに速度を上げた。

 

「清弦二号も!」

 

「その名で呼ぶな!」

 

 後ろから黒鹿毛が追ってくる。清弦二号は主人の怒声など気にする様子もなく、一定の歩調で街道を駆けていた。

 

 山を下り、街道へ入る。町へ近づくにつれて人の数は増え、奎星たちは馬車を避け、荷車の脇を抜け、通りの端を縫うように進んだ。すれ違う人々が驚いた顔で振り返る。外国人の姿も多く、聞き慣れない言葉があちこちから飛び交っていた。

 

 奎星は何度も左手首へ目を落とした。

 

 銀色の腕時計が、何事もなかったように時を刻んでいる。幕末の横浜で正確な時刻を示しているのかどうかなど、確かめようもない。ただ、未来で合わせた時間のまま、秒針だけが淡々と進んでいた。

 

 こち、こち、と小さな音が聞こえる気がした。

 

「……鈴ちゃん」

 

 奎星は呟いた。

 

 熱。浅い呼吸。腕を這う黒い線。清弦がそれを自分へ移そうとしたときの顔。

 

「間に合わせる」

 

 奎星は前を向いた。

 

「絶対に」

 

「言われなくても分かっている」

 

 清弦の声が隣から返ってくる。

 

 その腰には、杖がなかった。奎星の腰にも、今は神代榊がない。二本分の空白が、妙に大きく感じられた。

 

 自分の杖を平坂の作業台へ置いてきたことが、奎星にはひどく落ち着かなかった。学校へ入ってから、ほとんど毎日のように腰へあったものだ。手を下ろせば、いつもそこに柄が触れた。杖は道具であると同時に、身体の一部に近いものだったのかもしれない。

 

 今は、手を伸ばしても何もない。

 

「……やっぱ変な感じする」

 

「何がだ」

 

「杖がないの」

 

「私など、最初から持っていない」

 

「お前は元々そうだろ」

 

「なら問題ない」

 

「俺には問題があるんだよ!」

 

「今日は戦いに来たわけではない」

 

「分かってるけどさ」

 

 奎星は空いた腰を一度叩いた。

 

「パンツを忘れて外へ出たみたいで落ち着かねえ」

 

「例えを選べ!」

 

「落ち着かねえってことだよ!」

 

「分かったから黙れ!」

 

 そんな言い合いをしながら、二人は横浜の町へ入った。

 

            *

 

 町へ入ってから、十分も経たなかった。

 

「KEISEI!」

 

 通りの向こうから、聞き覚えのあるような、ないような声が飛んできた。

 

 奎星が振り返ると、大柄な外国人の男がこちらへ手を振っていた。顔には見覚えがある。昨日、地下の酒場でジェームズたちと一緒に笑い、奎星が何か言うたびに杯を掲げていた男だ。

 

「……あ!」

 

 奎星は馬を止めた。

 

「こないだの奴!」

 

「友人ではなかったのか」

 

「一晩で全員の名前を覚えられるかよ!」

 

 男は満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。

 

「KEISEI! SAMURAI!」

 

「サムライじゃねえ!」

 

 男はさらに笑った。どうやら、こちらの抗議はまったく伝わっていないらしい。

 

 奎星は馬から飛び降りた。

 

「ちょうどいい!」

 

「何がだ」

 

「こいつ、前にいた!」

 

 男の前へ立ち、奎星は両手を広げた。

 

「なあ! ちょっと来てほしいんだけど!」

 

「……?」

 

「だから!」

 

 奎星は両腕を大きく広げた。

 

「モンスター!」

 

 男が瞬きをする。

 

「Monster?」

 

「そう!」

 

 奎星はさらに腕を広げた。

 

「ビッグ!」

 

「Big?」

 

「ビッグ!」

 

 背伸びをし、両手を頭上へ掲げる。

 

「ベリー・ビッグ!」

 

「Very big?」

 

「そうそうそう!」

 

 奎星は頭の上へ両手を置き、角の形を作った。

 

「こういうの!」

 

 男は首を傾げた。

 

「……Bull?」

 

「違う!」

 

「Cow?」

 

「牛じゃねえ!」

 

「分かっていないぞ」

 

 清弦が横から冷静に言った。

 

「分かってるよ!」

 

「では、何とかしろ」

 

「今やってる!」

 

 奎星は地面へしゃがみ込み、指で土へ絵を描き始めた。四本脚、巨大な身体、角、口、そして身体の中を走る赤黒い光。自分ではかなり上手く描けたつもりだった。

 

「こう!」

 

 男が覗き込む。

 

 しばらく絵を見つめたあと、首を傾げた。

 

「……Dog?」

 

「犬じゃねえよ!」

 

 清弦が顔を背けた。

 

「笑った?」

 

「笑っていない」

 

「肩が震えてんぞ!」

 

「笑っていない!」

 

 外国人の男は、奎星が描いた巨大妖魔らしきものを見つめたまま腕を組んだ。そして突然、杯を持つ仕草をする。

 

「Drink?」

 

「飲まねえよ!」

 

 奎星の絶叫が通りへ響いた。

 

「何でそうなるんだよ! 今、めちゃくちゃ真面目な話をしてんの!」

 

「前の印象が、それなのだろう」

 

「俺、何したんだよ!」

 

 男は楽しそうに笑っている。奎星は頭を抱えた。

 

「英語、無理……」

 

「知っている」

 

「モンスターとビッグで何とかなると思った」

 

「ならなかったな」

 

「あと何知ってたっけ」

 

「私に聞くな」

 

「うわー、とか」

 

「それは英語ではない」

 

「外国でも通じるだろ!」

 

「悲鳴としてならな」

 

 そのとき、別の方向からまた声がした。

 

「KEISEI!」

 

 奎星が顔を上げると、今度は二人の外国人がこちらへ歩いてくる。そのうちの一人には、はっきり見覚えがあった。

 

「ミラー!」

 

 奎星の顔が明るくなる。

 

「Miller!」

 

 ミラーも顔を輝かせた。隣の男も、昨日の地下酒場にいたはずだ。

 

 二人は奎星と地面の絵を見比べ、先ほどの男を交えて何か話し始めた。奎星には一言も分からない。

 

「何て言ってんの」

 

「私が分かると思うか」

 

「だよな」

 

 ミラーが奎星へ向き直った。

 

「Monster?」

 

「そう!」

 

「Big?」

 

「そう!」

 

 奎星は両腕を限界まで広げた。

 

「めちゃくちゃビッグ!」

 

「Very big?」

 

「ベリー!」

 

「Dangerous?」

 

 奎星が止まった。

 

「…………」

 

 清弦を見る。

 

「何だ」

 

「今の何」

 

「知らん」

 

「何か危なそうな意味だよな?」

 

「知らんと言っている」

 

 奎星はミラーへ向き直った。

 

「イエス!」

 

 言ってから不安になり、慌てて付け足す。

 

「多分!」

 

「英語に日本語を混ぜるな」

 

「しょうがねえだろ!」

 

 奎星は自分の胸を指し、次に清弦を指した。それから二人で戦う仕草をし、派手に吹き飛ぶ真似をする。

 

「うわー!」

 

 地面へ倒れ、すぐに起き上がる。もう一度、妖魔の絵を指した。

 

 今度は鈴を表すつもりで、自分の額へ手を当て、苦しそうに顔を歪める。

 

「うっ……熱……」

 

「何をしている」

 

「鈴ちゃん!」

 

「分かるか!」

 

「じゃあどうすんだよ!」

 

 奎星は自分の腕へ黒い線を描く仕草をし、胸を押さえ、倒れる。それから妖魔の絵を指し、山の方角を示し、最後に三人の外国人を指した。

 

「来て!」

 

 手招きをする。

 

「カモン!」

 

「それは知っているのか」

 

「映画で聞いた!」

 

 三人の外国人は黙って奎星を見ていた。さっきまで浮かべていた笑みが、少しずつ消えていく。

 

 奎星の言葉は、正確には伝わっていない。何がいるのかも、どれほど危険なのかも、誰が倒れているのかも、まだ分かっていないはずだった。それでも、これは遊びではないこと、昨日のように決闘をしたいわけでも、酒を飲みたいわけでもないことだけは、どうにか伝わったらしい。

 

 ミラーが奎星の肩へ手を置いた。

 

「Keisei」

 

「ん?」

 

 ミラーは自分の胸を拳で叩き、次に奎星を指し、それから山の方角を指した。

 

 奎星は瞬きをした。

 

「来る?」

 

 ミラーは言葉の意味など分からないはずなのに、力強く頷いた。

 

「……マジ?」

 

 隣の男も頷いた。最初の男も、地面の絵をもう一度見てから、深く頷く。

 

 奎星は三人を見回した。

 

 言葉は通じない。何が待っているのかも、どれほど危険なのかも、まだ何も分かっていない。それでも彼らは来ると言っている。

 

「来てくれんの?」

 

 三人が何かを言った。奎星には分からなかった。ただ、その表情だけは分かった。

 

「……ありがと」

 

 奎星が笑うと、ミラーが思い切り背中を叩いた。

 

「痛っ!」

 

 外国人たちが笑う。

 

「何で毎回強えんだよ!」

 

「奎星」

 

 清弦が声をかけた。

 

「感動しているところ悪いが」

 

「何」

 

「三人の名は」

 

「…………」

 

 奎星はミラー以外の二人を見た。二人も奎星を見る。

 

「……ハロー」

 

「貴様、本当に友人なのか?」

 

            *

 

 そこからが大変だった。

 

「高瀬さん!」

 

 奎星は通りを走った。

 

「高瀬さーん!」

 

 後ろから清弦が追い、そのさらに後ろを外国人三人がついてくる。大柄な外国人を三人も連れて走れば、当然ながら目立つ。通りの人々が振り返り、店先から顔を出し、何事かと囁き合った。

 

「何だ、あれ」

 

「こないだの侍だ」

 

「外国人を連れているぞ」

 

「また決闘か?」

 

「違う!」

 

 奎星が走りながら叫ぶ。

 

「今日は決闘じゃねえ!」

 

「前の三人抜きだ!」

 

「そうだけど!」

 

「侍!」

 

「違うって!」

 

 地下決闘場のある辺りへ近づくにつれ、見覚えのある顔が増えていった。

 

「おい!」

 

 今度は日本語だった。

 

 奎星が足を止める。店先で荷物を運んでいた男が、こちらへ駆けてきた。地下で一緒に酒を飲んだ男だ。奎星の杯へ何度も勝手に酒を注ごうとし、そのたびに清弦へ止められていた。

 

「あの時の坊主!」

 

「あ!」

 

「三人抜きの!」

 

「そう!」

 

「今日は飲むのか?」

 

「飲まねえよ!」

 

「何だよ!」

 

「何だよじゃねえ!」

 

 奎星は男の両肩を掴んだ。

 

「魔法、使える!?」

 

「は?」

 

「おっさん、前杖持ってたよな!?」

 

「おっさんじゃねえ、まだ二十九だ!」

 

「使える!?」

 

「使えるけど」

 

「強い!?」

 

「いきなり失礼だな、お前!」

 

「ごめん! でも急いでんの!」

 

 奎星の顔を見て、男の表情が変わった。冗談ではないと、ようやく伝わったらしい。

 

「……何かあったのか」

 

「あった」

 

 今度は言葉が通じる。奎星は一気に話した。

 

 小萱村のこと。霊脈のこと。神代以蔵のこと。山の奥に打ち込まれた杭のこと。巨大な妖魔のこと。二人で戦ったが勝てなかったこと。そして、鈴が倒れ、呪いが北の霊脈と繋がっていること。

 

 男は途中から一度も口を挟まなかった。

 

 奎星が話し終えると、男はしばらく彼を見つめた。

 

「……お前、それで人を集めに来たのか」

 

「うん」

 

「会ったばかりの連中を?」

 

「他にいねえんだよ!」

 

 奎星は声を張った。

 

「俺ら二人じゃ勝てなかった!」

 

 通りのざわめきの中で、その言葉だけが妙にはっきり響いた。

 

「だから」

 

 奎星は男を見た。

 

「助けてほしい」

 

 男は数秒、奎星を見つめた。それから鼻で笑った。

 

「最初からそう言え」

 

「え」

 

「行くよ」

 

「マジ!?」

 

「俺の酒を飲んだだろ」

 

「飲んだ……っけ?」

 

「飲んだ」

 

「覚えてねえ」

 

「三杯も」

 

「ごめん」

 

「そこを謝るのかよ」

 

 男は笑った。

 

「柴崎甚八だ。今度は覚えろ」

 

「甚八さん!」

 

「甚八でいい」

 

「ありがとう!」

 

「まだ何もしてねえよ」

 

「でも来てくれるんだろ!」

 

「言っただろ」

 

 甚八は店の中へ顔を向けた。

 

「おい、宗次!」

 

「何だ!」

 

 奥から返事が返る。

 

「こないだの侍が化け物退治するってよ!」

 

「侍じゃねえ!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 店の奥から、別の男が顔を出した。

 

「面白そうだな!」

 

「面白くねえ! マジでヤバいんだって!」

 

「なら余計に行く」

 

「軽くない!?」

 

 清弦が隣で呟いた。

 

「貴様と同類ばかりだな」

 

「違うだろ!」

 

「どこがだ」

 

 甚八が清弦を見る。

 

「そっちの細い兄ちゃんは?」

 

「清弦」

 

「先祖」

 

「言う必要があるか!」

 

「似てんなと思って」

 

「兄弟みたいだろ?」

 

「違う!」

 

「先祖だって!」

 

「もっと意味が分からねえよ!」

 

 甚八が笑った。

 

「まあいい。高瀬なら、さっき海側の通りで見たぞ」

 

「マジ!?」

 

「ああ。異人の商人と話していた」

 

「行く!」

 

「俺らも支度して後で行く」

 

「待って!」

 

 奎星が振り返る。

 

「もう一人の人、誰!?」

 

 店から出てきた男が手を挙げた。

 

「佐伯宗次郎」

 

「宗次郎さん!」

 

「宗次でいい」

 

「来てくれる!?」

 

「ああ」

 

「よし!」

 

 奎星は拳を握った。

 

 一人。二人。後ろには外国人が三人いる。まだ何も始まっていない。それでも、昨日まで二人だった数が、少しずつ増えていた。

 

            *

 

「高瀬さーん!」

 

「うるさいな!?」

 

 ようやく高瀬を見つけた。

 

 異国の店が並ぶ一角で、高瀬は紙束を抱えたまま外国人の男と話していた。奎星の声に驚いて振り返り、その後ろにいる人間を見て、さらに目を丸くする。

 

「何だ、その集団」

 

「助けて!」

 

「何が!?」

 

「マジで助けて!」

 

「待て待て待て!」

 

 高瀬は外国人との話を切り上げ、奎星のところへ来た。まず清弦を見、それから後ろの外国人三人へ視線を移す。

 

「何で連れてる」

 

「分かんない」

 

「は?」

 

「モンスター、ビッグ、うわーで来てくれた」

 

「何を言ってるんだ、お前は」

 

「俺の英語力の全部」

 

「少なすぎるだろ!」

 

「だから高瀬さんを探してたんだよ!」

 

「学校で何を勉強してきたんだ!」

 

「魔法!」

 

「英語もやれ!」

 

「スズメちゃんと御影先生と同じこと言うなよ!」

 

 高瀬は額へ手を当てた。

 

「とにかく」

 

 奎星の声が変わった。

 

「聞いて」

 

 その一言で、高瀬の顔からも軽さが消えた。

 

 奎星はもう一度、最初から話した。今度は途中で清弦も補った。杭が霊脈を曲げていること。関東の流れを集めていること。その中心に巨大な妖魔がいること。二人では勝てなかったこと。そして。

 

「鈴ちゃんが呪われた」

 

 高瀬が息を止めた。

 

「……あの子が?」

 

「うん」

 

「髪飾りをもらった?」

 

「それは昨日」

 

「そんな説明はいい」

 

 清弦が低く言った。

 

「今も意識がない」

 

 高瀬の顔から完全に笑みが消えた。

 

「時間は?」

 

「分からない」

 

 奎星が答える。

 

「でも、待ってられない」

 

「……分かった」

 

 高瀬は紙束を近くの店へ預けた。

 

「俺も行く」

 

 奎星の目が開く。

 

「いいの?」

 

「ここまで聞いて、通訳だけして帰れるか」

 

「高瀬さん!」

 

「抱きつくな!」

 

 奎星が伸ばしかけた腕を止める。

 

「あと」

 

 高瀬は後ろの外国人三人を見た。

 

「お前、こいつらへどこまで説明した?」

 

「モンスター」

 

「うん」

 

「ビッグ」

 

「うん」

 

「うわー」

 

「……他は?」

 

「カモン」

 

「それだけ!?」

 

「めちゃくちゃ頑張ったんだぞ!」

 

「これでよく三人もついてきたな!?」

 

 高瀬は外国人たちへ向き直り、英語で話し始めた。

 

 奎星には、一瞬で何も分からなくなった。高瀬の口から流れる言葉は、意味を掴む前に次の音へ変わっていく。

 

「……すげえ」

 

 清弦が高瀬を見る。

 

「何と言っている」

 

「分かんない」

 

「貴様も分からないのか」

 

「だから言ってんじゃん!」

 

 高瀬の説明が続くにつれ、三人の顔が変わっていった。最初は驚き、次に疑い、やがて真剣な表情になる。巨大妖魔の話になったのか、地面の絵を指差して何かを尋ねた。鈴の話へ移ったらしいところで、三人の顔から笑いが消えた。

 

 最後に、高瀬が奎星と清弦を指した。

 

 三人は顔を見合わせた。

 

 そして、全員が頷いた。

 

「……何て?」

 

 奎星が訊く。

 

 高瀬が少し笑った。

 

「行くってさ」

 

「マジで!?」

 

「ああ」

 

「何で!?」

 

「お前が訊くのか」

 

「だって、ちゃんと内容を聞いたら、やっぱ無理ってなるかもしれねえじゃん!」

 

「ならなかったらしい」

 

 高瀬が三人のうち一人を指した。

 

「トーマス」

 

「トーマス!」

 

「こっちがエドワード」

 

「エドワード!」

 

「ミラーは知ってるな」

 

「ミラー!」

 

 ミラーが笑って手を上げる。

 

「覚えた!」

 

「今度は忘れるなよ」

 

「大丈夫!」

 

 そのとき、通りの向こうが少し騒がしくなった。

 

「何だ?」

 

 高瀬が振り返る。

 

 人混みの間から、大柄な外国人が二人歩いてくる。そのうちの一人を見た瞬間、奎星の顔が明るくなった。

 

「ジェームズ!」

 

「KEISEI!」

 

 ジェームズも一気に笑った。そのまま大股で近づき、奎星の前で両腕を広げる。

 

「待っ――」

 

 抱き締められた。

 

「ぐえっ!」

 

「KEISEI!」

 

「力強え!」

 

 背中を何度も叩かれる。

 

「痛い痛い痛い!」

 

 ジェームズはようやく奎星を離し、両肩を掴んだ。何かを早口で言う。

 

「ごめん!」

 

 奎星は即答した。

 

「全然分かんねえ!」

 

 ジェームズが止まる。

 

「……?」

 

「英語!」

 

 奎星は自分を指し、首を振った。

 

「ノー!」

 

 頭を指し、もう一度首を振る。

 

「英語、ノー!」

 

「それは伝わるな」

 

 高瀬が言った。

 

「だろ!」

 

「誇るところじゃない」

 

 ジェームズが高瀬を見る。高瀬が説明を始めると、ジェームズの顔から笑いが消えた。隣の男も真剣な顔になる。

 

 高瀬が最後まで話し終えると、ジェームズは奎星を見た。次に清弦を見て、もう一度奎星へ視線を戻す。それから何かを言った。

 

「何て?」

 

 奎星が訊く。

 

 高瀬が訳した。

 

「『なぜ俺を最初に呼ばなかった』」

 

「え」

 

 ジェームズはさらに言葉を重ねた。

 

「何て?」

 

「『あの夜、一緒に杯を交わした』」

 

 ジェームズは自分の胸を拳で叩き、次に奎星の胸を軽く叩いた。

 

 高瀬が言う。

 

「『あの日から、俺たちは兄弟だ』」

 

 奎星は、すぐには何も言えなかった。

 

 あの夜、決闘をした。酒を飲んだ。名前を叫ばれた。自分は酔っ払って、スズメが好きだと叫び、清弦へ鈴に告白しろと絡み、最後には柱へ抱きついた。そんな一夜だった。

 

 奎星にとっては、それだけの夜だったはずだ。

 

 けれど、ジェームズにとっては違ったらしい。

 

「……兄弟」

 

 奎星は笑った。

 

「何か」

 

 鼻を擦りながら、少しだけ困ったように言う。

 

「重くね?」

 

 高瀬が訳すと、ジェームズは大声で笑った。そして、また奎星の肩を叩く。

 

「痛えって!」

 

 高瀬も笑った。

 

「『日本の侍は細かいことを気にするな』」

 

「侍じゃねえ!」

 

 高瀬が訳す。

 

 ジェームズはさらに笑った。

 

「そこも伝えなくていい!」

 

「大事だろ」

 

「大事だけど!」

 

 隣の外国人も手を上げた。

 

「こいつはウィリアム」

 

「ウィリアム!」

 

「いたのを覚えてるか?」

 

「…………」

 

 奎星はウィリアムを見る。ウィリアムは笑っている。

 

「覚えてる!」

 

「今の間は何だ」

 

「顔は覚えてる!」

 

「名前は?」

 

「今覚えた!」

 

「堂々と言うな!」

 

 これで外国人の魔法使いは五人になった。ジェームズ、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム。そこへ高瀬が加わる。

 

 奎星の胸の奥が、少しずつ熱くなっていった。

 

「あと」

 

 高瀬が周囲を見回す。

 

「日本人の術者もいた方がいい」

 

「二人来る!」

 

「誰だ」

 

「甚八と宗次!」

 

「知り合いか?」

 

「さっき友達になった!」

 

「今日!?」

 

「前も飲んでた!」

 

「基準が酒になってるぞ!」

 

 清弦が呆れたように額を押さえた。

 

「だから言っただろう」

 

「何を」

 

「一晩で友人になった奴らがいると」

 

「お前まで得意げになるな!」

 

 しかし、その言葉は本当だった。

 

            *

 

 話は、そこから勝手に広がっていった。

 

 甚八と宗次郎が戻ってきた。二人ともすでに支度を整えており、甚八は肩へ細長い袋を掛け、宗次郎は腰へ二本の短い木製杖を差している。

 

「準備早っ!」

 

「急ぐんだろ」

 

「うん!」

 

「なら話はあとだ」

 

 さらに、人混みの向こうから声が飛んだ。

 

「おい、侍!」

 

「だから違う!」

 

 昨日の決闘場で見た男が歩いてくる。

 

「俺も行く」

 

「誰!?」

 

「前にジェームズに負けた男だよ!」

 

「あー!」

 

「その反応、腹立つな!」

 

「ごめん! 名前を聞いてなかった!」

 

「秋月寅之助!」

 

「寅之助!」

 

「覚えろ!」

 

「今覚えた!」

 

 秋月は不機嫌そうに杖を肩へ担いだ。

 

「昨日、優勝したやつが、今度は化け物に負けたって聞いた」

 

「うん」

 

「なら見に行く」

 

「何で!?」

 

「俺が負けた奴に勝った奴が、そんな簡単に負けたままなのは気に食わん」

 

「めんどくせえ理屈!」

 

「うるせえ!」

 

 その後ろから、もう一人の男が現れた。

 

「秋月だけ行かせたら死にそうだから、俺も行く」

 

「誰!?」

 

「前一緒に飲んだだろ!」

 

「ごめん!」

 

「杉浦弥平!」

 

「弥平さん!」

 

「弥平でいい!」

 

「ありがとう!」

 

 四人。

 

 あと一人。

 

 そこへ、低い声が重なった。

 

「何だ何だ。面白そうなことをしてんな」

 

 振り向くと、昨日の酒場で隅に座っていた男がいた。奎星は覚えている。たぶん。

 

「……酒を飲ませてきた人!」

 

「覚え方が最悪だな」

 

「名前、何だっけ!」

 

「辰巳源兵衛」

 

「源兵衛!」

 

「おう」

 

「魔法使える!?」

 

「使えなきゃ昨日あそこにいねえよ」

 

「来て!」

 

「いいぞ」

 

「早っ!」

 

「話は聞いた」

 

 源兵衛は笑った。

 

「困ったときは数だ」

 

 清弦の目が、ほんの少し動いた。

 

 困ったときには助ける。こちらが困ったときには、助けてもらう。誰か一人で抱えるものではない。以前なら、清弦はその言葉を他人へ向けていた。今は、それが自分たちにも向けられている。

 

「ただし」

 

 源兵衛が奎星を見る。

 

「俺は酒を持っていくぞ」

 

「飲まねえからな!?」

 

「景気づけだ」

 

「スズメちゃんに怒られる!」

 

「誰だよ」

 

 外国人組が「SUZUME」という言葉に反応した。

 

「SUZUME!」

 

「反応すんな!」

 

 ジェームズまで杯を掲げる真似をする。

 

「やめろ!」

 

 笑いが広がった。清弦ですら、口元を押さえている。

 

「お前も笑うな!」

 

「笑っていない」

 

「笑ってる!」

 

 その騒ぎを聞きつけ、さらに何人かが「俺も行く」と申し出てきた。奎星なら、そのまま全員を連れて行きかねなかった。

 

 だが、清弦が静かに声を上げた。

 

「待て」

 

 大きな声ではなかった。それでも、周囲は自然に口を閉じた。

 

「遊びではない」

 

 清弦は集まった人々を見回した。

 

「昨日、私たちは二人で戦った」

 

 奎星も黙る。

 

「勝てなかった」

 

 清弦は、そこを誤魔化さなかった。

 

「巨大な妖魔だ。霊脈から魔力を吸い、傷を塞ぐ。攻撃を受ければ、死ぬ可能性がある」

 

 高瀬がジェームズたちへ訳していく。

 

「来るなら」

 

 清弦は続けた。

 

「そのつもりで来てほしい」

 

 しばらく、誰も口を開かなかった。

 

 やがて甚八が言った。

 

「だから来るんだろ」

 

「…………」

 

「お前ら二人じゃ勝てねえんだろ?」

 

「ああ」

 

「じゃあ、増やすしかねえ」

 

 宗次郎も頷いた。

 

「俺らが二人分増えれば四人だ」

 

「計算が雑じゃね?」

 

「分かりやすいだろ」

 

 秋月が杖を肩へ乗せる。

 

「俺は一人で二人分働く」

 

「昨日、俺に負けてたじゃん」

 

「今帰るぞ」

 

「ごめん!」

 

 外国人たちの方では、高瀬が何かを話していた。ジェームズが鼻で笑い、答える。高瀬が訳した。

 

「『やばい状況で俺よりやばくて頼れるやついるか?』」

 

「……何だよ」

 

 奎星が少し俯く。

 

「カッコいいこと言うじゃん」

 

 ジェームズが笑う。

 

「意味、分かってんの?」

 

「高瀬さんが訳したから!」

 

 ミラーも何か言った。

 

「何て?」

 

「『昨日三人倒した男が助けを求めている。それだけで十分だ』」

 

「…………」

 

「トーマスは『怪物を見たい』」

 

「急に軽い!」

 

「エドワードは『怪我人を助ける魔法も少し使える』」

 

「マジ!?」

 

「ウィリアムは」

 

 高瀬が一瞬黙った。

 

「何」

 

「『日本の山に行ってみたかった』」

 

「観光じゃねえぞ!」

 

 それでも、誰も帰らなかった。

 

 清弦は、その光景を黙って見ていた。

 

 昨日まで、彼にとって助けとは、自分が誰かへ差し出すものだった。土地が傷つけば自分が調べ、鬼火鳥が迷えば自分が道を探し、鈴が苦しめば自分が代わりに苦しむ。それでいいと思っていた。

 

 けれど今、自分たちのために十一人が立っている。血縁でもない。同じ村でもない。同じ国ですらない者がいる。昨日まで名前も知らなかった者たちが、それでもここにいる。

 

「清弦」

 

 奎星が隣へ来た。

 

「すげえな」

 

「ああ」

 

「俺、友達多くね?」

 

「半分以上、今日名前を覚えただろう」

 

「細けえな!」

 

「事実だ」

 

「友達は友達だろ!」

 

「……そうだな」

 

「え」

 

 奎星が清弦を見る。

 

「今、認めた?」

 

「聞き間違いだ」

 

「認めたじゃん!」

 

「支度をしろ!」

 

「誤魔化した!」

 

 清弦は前を向いた。けれど、その口元には、ほんの少しだけ笑みが残っていた。

 

            *

 

 その日のうちに横浜を発つことはできなかった。

 

 すでに日が傾き始めていた。小萱村までの山道を、十人を超える人数で暗闇の中進むのは、急ぐどころか余計に時間を失う危険がある。馬が脚を折れば、鈴のもとへ戻るのはさらに遅くなる。

 

「今から行こうぜ!」

 

 奎星はなおも言い張った。

 

「無理だ」

 

 高瀬が即答する。

 

「でも鈴ちゃんが!」

 

「だからこそだ」

 

 清弦が言った。

 

「途中で馬が脚を折れば、もっと遅れる」

 

 奎星は歯を食いしばった。反論したい気持ちはあったが、清弦の言葉が正しいことも分かっていた。

 

「夜明け前に出る」

 

「……分かった」

 

 その代わり、夜はすべて準備に使った。

 

 馬、食料、水、縄、灯り、傷薬、包帯、雨具。外国人たちはそれぞれの杖を確認し、日本人組も必要な術具を集めた。高瀬は町の中を走り回り、馬屋へ話をつけ、宿を確保し、道の状態を聞き出した。

 

「乗れる奴は?」

 

 高瀬が尋ねると、ジェームズが手を上げ、ミラー、トーマス、ウィリアムも続いた。エドワードだけが少し嫌そうな顔をする。

 

「何て?」

 

「『馬より箒がいい』」

 

「箒あんの!?」

 

「横浜ならあるが、全員分はない」

 

「じゃあ馬!」

 

 日本人組もほとんどが馬へ乗れた。源兵衛だけは、馬の前で腕を組んだ。

 

「俺、馬が嫌いなんだよ」

 

「何で!?」

 

「噛まれたことがある」

 

「何したの」

 

「酔って抱きついた」

 

「自業自得じゃん!」

 

「お前に言われたくねえ!」

 

 深夜になっても、奎星はほとんど眠れなかった。

 

 布団へ入っても、鈴の顔が浮かぶ。スズメの顔も浮かぶ。いつかの病室で、自分を待っていた人。今度は、自分が待たせている。

 

 左手首の時計が、暗闇の中で微かに光っていた。

 

「……寝ろ」

 

 隣から清弦の声がした。

 

「起きてんじゃん」

 

「貴様が動くからだ」

 

「寝れねえ」

 

「私もだ」

 

 しばらく、二人とも黙っていた。

 

「だが寝ろ」

 

「うん」

 

 少し間が空く。

 

「清弦」

 

「何だ」

 

「十一人だぞ」

 

「ああ」

 

「めちゃくちゃ増えたな」

 

「騒がしい奴ばかりだ」

 

「お前もな」

 

「黙れ」

 

 奎星は目を閉じた。

 

「絶対勝とうな」

 

 返事は、少し遅れて返ってきた。

 

「ああ」

 

            *

 

 まだ空が青黒いうちに、横浜を出た。

 

 外国人五人。ジェームズ、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム。その間を繋ぐ高瀬。日本人の魔法使い五人、柴崎甚八、佐伯宗次郎、秋月寅之助、杉浦弥平、辰巳源兵衛。合わせて十一人。

 

 そこへ奎星と清弦が加わる。

 

 十三人の一行が、まだ眠りの中にある横浜の道を進み始めた。馬の蹄が石を叩き、朝の冷たい空気を切り裂いていく。

 

「行くぞ!」

 

 奎星が声を上げる。

 

 ジェームズが何か叫んだ。

 

「何て!?」

 

 高瀬が馬上で笑う。

 

「『侍隊、出発!』」

 

「侍じゃねえっつってんだろ!」

 

 朝の横浜へ笑い声が響いた。

 

 やがて町が遠ざかる。畑が増え、街道が細くなり、山の影が近づいてくる。途中で何度も休憩を入れたが、誰も長く休もうとはしなかった。

 

「Keisei!」

 

「何!」

 

 ジェームズが水筒を投げて寄越す。

 

「お、ありがと!」

 

 奎星は受け取って飲み、それから眉をひそめた。

 

「これ、水だよな!?」

 

 高瀬が笑う。

 

「酒じゃない」

 

「確認しとかないと怖えんだよ!」

 

「こないだのことを反省しているのか」

 

「めちゃくちゃしてる!」

 

 源兵衛が後ろから声をかけた。

 

「酒ならあるぞ」

 

「要らねえ!」

 

「消毒にも使える」

 

「それなら持っとけ!」

 

「飲むか?」

 

「飲まねえ!」

 

 外国人たちが笑う。言葉は半分も通じない。それでも、前よりずっと一緒に進んでいるという感覚があった。

 

 昼を過ぎ、山へ入る。清弦は何度も測定器を取り出した。針は、やはり北を指している。数値は強く、昨日より弱まってはいない。

 

「まだ動いてる?」

 

 奎星が訊く。

 

「ああ」

 

「鈴ちゃんの呪いも」

 

「繋がったままだろう」

 

「……急ごう」

 

「ああ」

 

 馬が進む。十一人も、何も言わずについてきた。

 

            *

 

 小萱村が見えた頃には、空はすでに夕方の色へ変わっていた。

 

「見えた!」

 

 奎星が指差す。

 

 山の間に茅葺き屋根が見え、畑の向こうには巨大な神代榊が立っている。枝は夕陽を受けて赤く染まり、その上では鬼火鳥が何羽も羽を休めていた。

 

 外国人たちの間から、低い声が上がる。

 

「Whoa……」

 

 奎星が振り返った。

 

「それ知ってる!」

 

「英語ではない」

 

「うわー仲間!」

 

「貴様は黙れ!」

 

 高瀬ですら、しばらく神代榊を見上げていた。

 

「……でかいな」

 

「だろ」

 

 奎星が少し得意そうに言う。

 

「俺の木じゃねえけど」

 

 清弦が横目で見る。

 

「そこは分かっているのだな」

 

「誰のものでもないんだろ?」

 

「……ああ」

 

 村の入口へ近づくと、人影が見えた。村人たちが道へ出て、こちらを待っている。

 

「来た!」

 

「帰ってきたぞ!」

 

「清弦!」

 

「奎星さん!」

 

 声が広がる。

 

 そして、奎星たちの後ろに続く人々を見た瞬間、村人たちは一斉に足を止めた。

 

 外国人五人。高瀬。日本人五人。馬と荷物。

 

「増えすぎじゃないか?」

 

 老人が言った。

 

 奎星は胸を張った。

 

「友達!」

 

「昨日までいなかっただろ!」

 

「横浜でできた!」

 

「早いな!?」

 

 子供たちが外国人たちを見て目を輝かせる。

 

「異人だ!」

 

「五人いる!」

 

「でっか!」

 

 ジェームズも子供たちへ手を振った。子供たちも一斉に手を振り返す。

 

「HELLO!」

 

「お」

 

 奎星が目を丸くする。

 

「お前ら、英語できんの?」

 

「昨日教えてもらった!」

 

「俺よりできるじゃん!」

 

 高瀬が吹き出した。

 

「十八歳が子供に負けるなよ」

 

「しょうがねえだろ!」

 

 村では、すでに客人を迎える準備が始まっていた。空いている家や納屋には布団が敷かれ、炊事場では大量の飯が用意されている。馬を繋ぐ場所も確保され、水や薪まで揃えられていた。

 

 清弦たちが人を連れて戻ると言って出たため、何人来てもいいように、村人たちは朝から準備していたらしい。

 

「十一人とは思わなかったけどね」

 

 老婆が笑う。

 

「ごめん!」

 

「謝ることじゃないよ」

 

「飯、足りる?」

 

「村を何だと思ってるんだい」

 

 別の女が腕をまくる。

 

「十三人くらい、食わせられるよ」

 

 その言葉に、清弦は少しだけ目を伏せた。

 

「鈴は」

 

 真っ先に訊く。

 

 笑い声が静まった。

 

「まだ寝てる」

 

 老人が答える。

 

「熱はある」

 

「線は」

 

「広がってはいる。だが、昼からはそれほど進んでいない」

 

 清弦が馬から降りる。奎星も続いた。

 

「俺も行く」

 

「いや」

 

 清弦が止めた。

 

「人を頼む」

 

「……分かった」

 

 清弦は一人で鈴の家へ走っていった。

 

 奎星はその背中を見送った。少し前なら、止めていたかもしれない。けれど今は、清弦が戻ってくると分かっていた。

 

            *

 

「奎星」

 

 低い声がした。

 

 振り返ると、平坂が立っていた。いつもの作業着の袖をまくり、肩には木屑がついている。

 

「爺ちゃん!」

 

「爺ちゃん言うな」

 

「できた!?」

 

「誰に物を言っとる」

 

 平坂は奎星を睨んだ。

 

「夕方にはできとる」

 

「早っ!」

 

「急げと言ったのはお前らだ」

 

「清弦だけど!」

 

「同じような顔をしおって」

 

「俺の方が若い!」

 

「兄弟なんだろう?」

 

「百五十年違う!」

 

「頭が痛くなるから黙れ」

 

 平坂は納屋へ向かった。

 

「来い」

 

 奎星はすぐについていった。横浜組も興味を持ったのか、何人かが後ろから続く。高瀬、甚八、ジェームズ、ミラー。

 

「何?」

 

 奎星が振り返る。

 

「杖だろ?」

 

 高瀬が答えた。

 

「うん」

 

「見たい」

 

「俺も」

 

 甚八も言う。ジェームズが何かを言った。

 

「何て?」

 

「『新しい杖なら見たい』」

 

「みんな好きだな!」

 

「魔法使いだからな」

 

 納屋へ入ると、木と油の匂いが鼻をついた。作業台の上には、二本の杖が並んでいた。

 

 奎星の足が止まる。

 

 一つは、見慣れた自分の神代榊だった。黒に近い木肌、使い込まれた表面、炎のような彫刻。もう一つは、それによく似ていた。

 

 けれど、同じではない。

 

 木の色は少し若く、表面にはまだ新しい滑らかさが残っている。握りには同じように炎を思わせる細い彫りが走り、長さも太さも重心も、ほとんど同じに整えられていた。

 

 ただ、そこには時間の違いがあった。

 

「……すげえ」

 

 奎星が近づく。

 

「俺のじゃん」

 

「違う」

 

 平坂が即答した。

 

「分かってるけど!」

 

 そのとき、清弦が戻ってきた。少し息を切らしている。

 

「鈴ちゃんは?」

 

 奎星が訊く。

 

「変わらない」

 

「そっか」

 

「だが」

 

 清弦は一度目を閉じた。

 

「生きている」

 

「うん」

 

「行くぞ」

 

 清弦は作業台へ目を向け、そこで初めて新しい杖に気づいた。

 

「……できたのか」

 

「遅い」

 

 平坂が言う。

 

「夕方にはできとる」

 

 清弦が杖へ近づき、手を伸ばす。

 

「いいのか」

 

「お前のために作ったんだ」

 

「…………」

 

「持て」

 

 清弦の指が、新しい神代榊へ触れた。

 

 その瞬間、木肌の内側を青白い光が細く走った。

 

「……っ」

 

 清弦が目を開く。

 

 鬼火鳥の尾羽。神代榊。握り手。平坂が、百五十年以上先から来た杖を見ながら削った一本。

 

 清弦は杖を持ち上げた。

 

「どう?」

 

 奎星が訊く。

 

「……妙だ」

 

「何が」

 

「分からん」

 

「重い?」

 

「いや」

 

「軽い?」

 

「そうではない」

 

「使えそう?」

 

「だから分からん!」

 

「振ってみろよ!」

 

「狭い!」

 

 奎星が笑った。

 

 作業台から自分の神代榊を取る。握った瞬間、やはり馴染んだ。何日かぶりでもないのに、何日も離れていたような気がする。

 

「やっぱこれだわ」

 

「そんなに違うか」

 

「違うよ」

 

 奎星は自分の杖を腰へ戻し、清弦の手にある新しい杖を見た。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「ちょっと貸して」

 

「なぜだ」

 

「試したい」

 

「自分のがあるだろう」

 

「いいじゃん!」

 

「何をする気だ」

 

「一発だけ!」

 

「嫌だ」

 

「ケチ!」

 

「私のだ!」

 

「今完成したばっかじゃん!」

 

「だからだ!」

 

 奎星は清弦の腕へ手を伸ばした。

 

「貸せって!」

 

「やめろ!」

 

「一回!」

 

「壊したら殺すぞ!」

 

「壊さねえよ!」

 

「貴様は信用できん!」

 

「お前までそれ言うの!?」

 

 二人が杖を取り合い始める。

 

 平坂の顔が険しくなった。

 

「外でやれ!」

 

「はい!」

 

 二人は同時に止まった。

 

            *

 

 納屋の前には、いつの間にか村人たちが集まっていた。横浜から来た十一人も、何が始まるのかと少し離れた場所で見守っている。

 

「何でこんなに見てんの?」

 

「見たいんだろ」

 

 高瀬が言った。

 

「恥ずいんだけど」

 

「昨日、決闘場で三人倒した奴が今さら何を言っている」

 

「それとは違う!」

 

 清弦が新しい杖を奎星へ渡した。

 

「一度だけだ」

 

「分かってる」

 

「傷つけるな」

 

「分かってるって」

 

「貴様の『分かっている』は」

 

「信用できないって言うな!」

 

 奎星は杖を受け取った。

 

 そして、動かなくなった。

 

「……ん?」

 

 清弦が見る。

 

「どうした」

 

「いや」

 

 奎星は杖を見つめた。

 

 右手の親指、人差し指、小指。指の位置を探す必要がなかった。自分の神代榊を見本にして作られたのだから、握りも長さも重心も似ているのは当然だ。

 

 それでも、ただ似ているというだけでは説明できない感覚があった。

 

「……変な感じ」

 

「さっき私も言った」

 

「新品だよな」

 

「夕方できた」

 

 奎星は軽く杖を振った。空気が、すっと切れる。

 

「お」

 

 もう一度振る。

 

「使いやすい」

 

 平坂が鼻を鳴らした。

 

「誰が作ったと思っとる」

 

「爺ちゃん天才!」

 

「爺ちゃん言うな」

 

 奎星は周囲を見回した。

 

「何か持って」

 

「何か?」

 

 清弦が眉を寄せる。

 

「飛ばすから」

 

「私が?」

 

「うん」

 

 清弦は奎星の神代榊を見る。

 

「それでいいのか?」

 

「私の新しい杖で、未来から来た古い方を飛ばすのか」

 

 二人はしばらく黙った。

 

「何か変だな」

 

「ああ」

 

「やめる?」

 

「いや」

 

 清弦が奎星の神代榊を抜いた。

 

「やれ」

 

「落とすなよ!」

 

「飛ばすのは貴様だろう!」

 

「そうだった!」

 

 周囲から笑いが起こる。

 

 清弦が未来の神代榊を持ち、奎星が生まれたばかりの神代榊を構える。

 

 二本の杖は、同じ木と同じ鬼火鳥の尾羽から生まれていた。ただ、片方には百五十年以上の時間が積もり、もう片方にはまだ何も積もっていない。

 

 夕暮れの小萱村で、その二本が初めて向かい合う。

 

 奎星は息を吐いた。

 

 狙うのは、杖だけだった。

 

「エクスペリアームス」

 

 赤い光が走った。

 

 ぱしん、と乾いた音が響く。

 

 清弦の手から、未来の神代榊だけが抜けた。杖はくるりと一度宙を回り、奎星の左手へ収まる。

 

「うお」

 

 奎星は両手に一本ずつ杖を持った。古い杖と、新しい杖。過ぎた時間と、これから積み重なる時間。

 

「めちゃくちゃいい」

 

 ジェームズたちから歓声が上がった。

 

「Whoa!」

 

「それは俺でも分かる!」

 

 奎星が笑う。

 

 その手の中で、新しい神代榊の木肌がほんの一瞬だけ青白く灯った。

 

 奎星は気づかなかった。誰も気づかなかった。

 

 杖の奥で鬼火鳥の尾羽が微かに震え、十七歳の少年の魔力が、初めてその一本の中を通り抜けた。

 

 奎星は何も知らず、清弦へ杖を返した。

 

「ほら」

 

「何だ」

 

「いい杖じゃん」

 

「当然だ」

 

「お前が作ったわけじゃねえだろ」

 

「私の材料だ」

 

「木も羽根も借り物だろ!」

 

「細かい!」

 

 二本の杖が、それぞれの手へ戻る。

 

 時間は前へ進んでいく。けれど木と魔法だけは、ときどき物事の順番を間違えるのかもしれなかった。

 

            *

 

「じゃ」

 

 奎星が言った。

 

「やるぞ」

 

「今からか」

 

「今から」

 

 空は、かなり暗くなっていた。村では横浜から来た者たちのために夕餉の準備が始まっている。炊かれる米、汁、魚、野菜。あちこちから湯気と匂いが立ち上り、外国人たちは興味津々で鍋を覗き込んでいた。

 

 だが清弦は、食事より先に新しい杖を使えるようにすることを選んだ。

 

「飯のあとでは駄目なのか」

 

「覚えてから食え」

 

「横暴だな」

 

「時間がねえだろ」

 

「それはそうだが」

 

 奎星は自分の神代榊を抜いた。

 

「最初に教えるのは」

 

 清弦も新しい杖を構える。

 

「防壁か」

 

「違う」

 

「では気絶」

 

「違う」

 

「拘束」

 

「違う」

 

「吹き飛ばすもの」

 

「違う」

 

 奎星が笑った。

 

「エクスペリアームス」

 

 清弦の眉間に皺が寄る。

 

「…………」

 

「何、その顔」

 

「妖魔は杖を持っていなかったぞ」

 

「知ってる」

 

「では、何の役に立つ」

 

「めちゃくちゃ大事」

 

「昨日のあれには使えん」

 

「めちゃくちゃ大事!」

 

「話を聞け!」

 

「聞いてるよ!」

 

 奎星は杖を振った。

 

「俺も最初、同じことを思ったんだって。こんなの地味じゃんって」

 

「実際、地味だ」

 

「だろ!?」

 

「なぜ嬉しそうなんだ」

 

「でも」

 

 奎星の顔から笑いが少し消えた。

 

「御影先生に、最初にこれを教えられた」

 

「未来の妖魔か」

 

「先生!」

 

「半分妖魔なのだろう」

 

「それ、俺が言ったけど忘れて!」

 

 清弦が新しい杖を見る。

 

「なぜ、これを最初に」

 

「杖の扱いを覚えるのにちょうどいいから」

 

 奎星は近くにあった細い木の棒を拾った。

 

「魔法は、呪文を唱えて魔力を出せばいいだけじゃないんだよ」

 

「どういう意味だ」

 

「これだけを飛ばす」

 

 棒を持ち上げる。

 

「俺を飛ばさない」

 

「当たり前だろう」

 

「俺は最初、人形ごと壁まで飛ばした」

 

「…………」

 

「めちゃくちゃ強かった」

 

「下手だったの間違いでは?」

 

「うるせえ!」

 

 奎星は棒を清弦へ見せた。

 

「強すぎても駄目。弱すぎても駄目。相手をぶっ壊すんじゃなくて、持ってるものだけを落とす」

 

 御影の声が、記憶の底から蘇る。

 

 殺すことは、強さではない。相手を壊すだけなら、力があればできる。殺さずに止める方が難しい。

 

「必要な分だけ」

 

 奎星は言った。

 

「それを覚える呪文」

 

 清弦の表情が変わった。

 

「必要な分だけ」

 

「うん」

 

「……なるほど」

 

「あと」

 

 奎星は自分の杖を上げた。

 

「杖だけを見るな」

 

「今、杖だけを狙えと言っただろう」

 

「狙うのは杖だけ」

 

「…………」

 

「見るのは全部」

 

「…………」

 

「肩とか、足とか、手とか。相手が動く前に、どこが動くかを見る」

 

「待て」

 

「撃ったあとも止まらない」

 

「待て」

 

「魔力を出しすぎない」

 

「多い!」

 

「大事なんだよ!」

 

「最初から一度に言うな!」

 

「俺もこうやって教わった!」

 

「絶対に嘘だ!」

 

「途中から!」

 

 清弦が額を押さえた。

 

「貴様、教師には向いていないな」

 

「進路に悩んでんだから、そういうこと言うなよ!」

 

「事実だろう」

 

「教えられるし!」

 

「では、分かるように教えろ」

 

「……こう」

 

 奎星が杖を振る。

 

「シュッて」

 

「やはり向いていない」

 

「うるせえ!」

 

 少し離れたところで、高瀬たちが笑っていた。

 

 奎星が振り返る。

 

「見るなよ!」

 

「気になるだろ!」

 

「先生役してんの!」

 

「頑張れ、先生!」

 

「うるせえ!」

 

 外国人たちも状況は分からないまま笑っている。ジェームズが親指を立てた。

 

「何で応援されてんだ、俺!」

 

「続けろ」

 

 清弦が言った。

 

「え」

 

「時間がないのだろう」

 

「……うん」

 

「なら」

 

 清弦は新しい神代榊を握り直した。

 

「教えろ」

 

 奎星は少しだけ笑った。

 

「よし」

 

 清弦の前へ立つ。

 

「まず、握りすぎ」

 

「これでか」

 

「力が入りすぎてる」

 

「杖など使ったことがない」

 

「だから」

 

 奎星が清弦の手首を少し下げる。

 

「こう」

 

「近い」

 

「教えてんだよ!」

 

「分かっている」

 

「肩も力を抜け」

 

「こうか」

 

「もっと」

 

「こう?」

 

「抜きすぎ」

 

「面倒だな!」

 

「魔法は細部です」

 

 言ってから、奎星が止まった。

 

「…………」

 

「何だ」

 

「スズメちゃんがよく言うやつ」

 

「知らん」

 

「今、俺、先生っぽくね?」

 

「全く」

 

「一瞬あっただろ!」

 

「ない」

 

 清弦の口元が、ほんの少しだけ上がった。奎星も笑う。

 

「言葉は」

 

 奎星は真面目な顔へ戻った。

 

「エクスペリアームス」

 

「エクスペリアームス」

 

「そう」

 

「意味は」

 

「武装解除」

 

「言葉そのものの意味だ」

 

「英語とかラテン語とか、俺に聞かないで」

 

「貴様、本当に未来人か」

 

「未来人でも英語ができねえ奴はいる!」

 

 奎星は木の棒を持った。

 

「俺のこれを狙って」

 

「外したら」

 

「俺に当てんなよ」

 

「それは私の台詞だろう」

 

「出力は弱め」

 

「どの程度だ」

 

「こう」

 

「分からん」

 

「何となく!」

 

「貴様を殴っていいか」

 

「駄目!」

 

 清弦は溜息を吐いた。それでも杖を構えた。

 

 夕暮れの神代榊の下で、百五十年以上未来から来た少年と、まだ歴史になる前の少年が向かい合っている。枝の間から差し込む光は次第に薄れ、鬼火鳥の尾羽だけが青白く浮かび上がっていた。

 

「いくぞ」

 

「おう」

 

 清弦が息を吐き、杖を振る。

 

「エクスペリアームス」

 

 何も起こらなかった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 清弦の眉が動く。

 

「今のは」

 

「失敗」

 

「分かっている!」

 

「怒んなって!」

 

 二度目。

 

「エクスペリアームス!」

 

 杖先が赤く光った。だが光は十センチほど進んだところで消える。

 

「お」

 

 奎星の目が輝く。

 

「出たじゃん!」

 

「消えたぞ」

 

「最初はそんなもん!」

 

「貴様は?」

 

「七回目くらいでできた」

 

「なら六回以内にやる」

 

「張り合うなよ!」

 

 三度目。光が飛んだが、奎星の持っている棒の横を抜けた。

 

「惜しい!」

 

「当たっていない」

 

「俺なんか最初、人形を吹っ飛ばしたから、それよりいい!」

 

「比較対象が酷すぎる!」

 

 四度目。

 

 清弦が構える。奎星が棒を持つ。

 

「杖だけじゃなくて」

 

「全部見る」

 

「撃ったあと」

 

「止まらない」

 

「魔力」

 

「出しすぎない」

 

「いいじゃん」

 

「うるさい」

 

 清弦の目が変わった。

 

 奎星の手、腕、肩、足、そして棒。すべてを同時に見る。新しい神代榊を小さく振る。

 

「エクスペリアームス」

 

 赤い光が走った。

 

 ぱしっ、と音がした。

 

「あ」

 

 奎星の手から、棒だけが抜けた。棒は一メートルほど飛び、草の上へ落ちる。

 

 清弦の目が少し開いた。

 

 奎星は数秒、落ちた棒を見ていた。それから、にっと笑った。

 

「できたじゃん」

 

「…………」

 

「四回」

 

「当然だ」

 

「めちゃくちゃ嬉しそう」

 

「嬉しそうではない」

 

「口元!」

 

「黙れ!」

 

「ほら!」

 

「黙れ!」

 

 村の向こうから笑い声が上がった。ジェームズが何か叫ぶ。

 

「何て!?」

 

 高瀬が答える。

 

「『SAMURAI TWO!』」

 

「何でだよ!」

 

 奎星の声が、夕暮れの村へ響いた。

 

 昨日、二人は負けた。巨大な妖魔を前に、力が足りなかった。知識も、人数も、何もかもが足りなかった。

 

 だから、増やした。借りた。頼った。

 

 横浜から十一人。村の人々。平坂。鬼火鳥。神代榊。そして、新しく生まれた一本の杖。

 

 清弦は、その杖を見つめた。

 

「もう一度だ」

 

「お」

 

 奎星が棒を拾う。

 

「やる?」

 

「ああ」

 

「次は動くぞ」

 

「望むところだ」

 

「撃ったあと、止まんなよ」

 

「分かっている」

 

「その『分かってる』は信用できねえな」

 

「貴様にだけは言われたくない!」

 

 奎星が笑う。清弦も杖を上げる。

 

 その向こうで、十一人の仲間が、小さな村が、次の戦いへ向けて動き始めていた。

 

 北には、まだ巨大な妖魔がいる。神代以蔵もいる。鈴の呪いも消えてはいない。何も解決していない。

 

 それでも、昨日とは違う。

 

 二人ではない。

 

「行くぞ、清弦」

 

「ああ」

 

 神代榊の枝の間から、最後の夕陽が差し込んだ。新しい杖の先へ、赤い光が灯る。

 

「エクスペリアームス」

 

 戦うための最初の魔法は、相手を傷つけるための魔法ではなかった。

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