その日、烏丸スズメの姿が見えないことに真っ先に気づいたのは、蓮根奎星だった。
もっとも、朝の時点では、ほんの些細な違和感にすぎなかった。
午前七時。奎星は布団の中で目を覚ますと、しばらく天井を眺めた。いつもなら、そろそろ襖が開く時間だ。最近では自力で起きられる日も増えたため、スズメにアロホモラで鍵を開けられることこそなくなったものの、朝食の時間になると彼女は必ず一度、奎星の部屋へ顔を出していた。
「起きていますか」
「制服を着てください」
「教科書を枕にしないでください」
「蓮根君、聞いていますか」
一か月も聞き続ければ、目覚まし時計より馴染み深い声である。
しかし、その日は何も聞こえなかった。
奎星は枕元の時計を手に取った。七時十二分。いつもなら、もうスズメが二度目の声かけをしている頃だ。
「……遅刻じゃん、スズメちゃん」
寝坊だろうか。そう考えた直後、奎星は自分で首を傾げた。
烏丸スズメが寝坊する。少なくとも、この一か月で一度も見たことがない。彼女は朝が早く、時間に正確で、奎星が五分遅れただけでも「五分は五分です」と真顔で言う人間だった。
奎星が髪を掻きながら起き上がったところで、廊下からぺたぺたと小さな足音が聞こえてきた。
「レンコン、ゴハン」
襖の隙間から、天ぷらが顔を出す。
「蓮根な。おはよ」
「オハヨ」
天ぷらが運んできたお盆には、焼き魚と卵焼き、味噌汁に白米、それから小鉢が二つ載っていた。いつもなら二人分あるはずの朝食が、今日は一人分しかない。
奎星は何気ないふりをして廊下へ目を向けた。
「天ぷら、スズメちゃんは?」
「トリマル?」
「烏丸先生」
「イナイ」
「研究室?」
「イナイ」
「食堂?」
「シラナイ」
天ぷらは耳を横へ倒し、困ったように首を傾げた。
奎星は一瞬だけ黙ったものの、すぐに肩をすくめた。
「まあ、また研究だろ」
スズメが授業へ来ないこと自体は、それほど珍しくなかった。正確には、無断欠勤をするわけではない。古代魔術の調査や魔法省からの資料照会、校内の史料整理などが入ると、代講を立てることもある。
何より、彼女が研究へ没頭すると時間を忘れることは、教師にも生徒にも知られていた。
以前、日向から聞いたことがある。
「烏丸先生、研究室で朝迎えたことあるらしいぞ」
「マジ?」
「土御門先生にめちゃくちゃ怒られたって」
「先生も怒られるんだな」
「そりゃ二十一だし」
そのときは笑った。
だから今日も、たぶん、それだけだと思った。
一時間目は呪文学だった。
教室へ入った土御門芽衣子は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべながら、黒板へ今日の課題を書き始めた。
「では今日は、二人一組で精度を確認しますね。強く撃つ必要はありませんから、丁寧にお願いします」
奎星は楓と組んでいた。
昨日の事故以来、初めて楓へ杖を向けることになる。杖を構えた奎星の手が、ほんの少しだけ止まった。
楓はそれに気づいたらしい。
「奎星」
「ん?」
「今日は床に変な石、ないわよ」
奎星の目が丸くなる。
楓は杖を構えたまま、ほんの少し笑った。
「藤森先生も、昨日のはあなたの制御ミスじゃない可能性が高いって言ってたでしょう」
「……うん」
「なら、やりましょう」
「怖くない?」
「少しは」
楓は正直に答えた。そのうえで、奎星から目を逸らさずに続ける。
「でも、奎星がわざとやったとは思ってないから」
奎星は数秒黙ってから、ゆっくり頷いた。
「分かった」
二人が向かい合う。土御門は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「では、始めてください」
奎星は息を整え、杖へ流す魔力量を意識した。昨日の感覚を思い出すと、まだ胸の奥がざわつく。魔法を使うこと自体が怖いわけではない。ただ、また何かを壊すのではないかという不安が、指先に残っていた。
それでも、奎星は杖を振った。
「エクスペリアームス」
今度は、何も起きなかった。
いや、正確には、普通の魔法が起きた。
楓の杖が軽く手から抜け、床へ落ちる。大きな音も、衝撃も、異常な光もない。
奎星の肩から力が抜けた。
「……普通だ」
楓が呆れたように笑う。
「魔法を使って『普通だ』って安心する人、初めて見たわ」
「今は普通が一番だよ」
その言葉を聞いていた土御門が、少しだけ目を細めた。
昨日までの奎星なら、もっと強く、もっと派手に、と考えていたかもしれない。けれど今は、必要なだけの力を使おうとしている。
少なくとも、少しずつ変わっている。
二時間目は魔法史だった。
教室へ入ってきたのは、スズメではなかった。
奎星はそこで初めて、本格的な違和感を覚えた。
「本日の魔法史は自習です」
代わりに教室へ来た土御門が、何枚かの紙を手にしていた。
日向が隣で小声を漏らす。
「やった」
楓がすぐに振り返った。
「何が?」
「いや、烏丸先生いないなら今日は平和かなって」
「本人に聞かれたら課題三倍ね」
「いないから言ってんだよ」
奎星は笑わなかった。
土御門は教壇の上で一枚の紙を掲げた。
「烏丸先生から、自習内容について書き置きがありました。指定された教科書の範囲を読み、最後の設問まで解いておいてください」
黒板へ紙が留められる。
奎星は何気なく目を向けた。
そこには短い文章が書かれていた。
本日は研究上の都合により自習とします。第四章を読み、課題一から八までを終えてください。提出は次回授業時。
簡潔で、無駄がない。いかにもスズメが書きそうな内容だった。
実際、誰も気にしていない。日向は自習になったことを喜び、岳は机の下で何かを食べようとして楓に見つかり、伊織はすでに教科書を開いている。
奎星だけが、黒板を見つめていた。
「…………」
何かが変だ。
すぐには分からなかった。だから奎星は立ち上がり、黒板へ近づいた。
土御門が不思議そうに見る。
「蓮根君?」
「先生、これ」
奎星は紙を指差した。
「スズメちゃんが書いたの?」
「烏丸先生です」
反射的に訂正したのは楓だった。
「楓まで!?」
「一か月聞いてたら移ったのよ」
土御門は苦笑しながら答えた。
「今朝、教員室の烏丸先生の机に置いてあったそうですよ」
「誰が見つけたの?」
「早瀬先生だったと思います」
奎星は紙へ顔を近づけた。
文字は几帳面で、癖もよく似ている。一見すれば、スズメの筆跡にしか見えない。
「……違う」
奎星が小さく呟いた。
伊織が教科書から顔を上げる。
「何が?」
奎星は紙の最後を指した。
「スズメちゃん、こんな書き方しない」
日向が首を傾げる。
「いや、めっちゃ言いそうだけど」
「言いそう。でも違う」
奎星自身、説明しろと言われると困った。たった一か月。それでも毎日、教科書や課題、補習のノートを通して、スズメの字を何度も見てきた。
書き置きも、課題の添削も、赤い文字で「やり直し」と書かれた紙も、嫌というほど見ている。
「スズメちゃん、提出物なら絶対に時間まで書く」
楓が瞬きをする。
「時間?」
「うん。『次回授業開始時まで』とか、『午前八時五十分まで』とか。変なところ細かいんだよ、あの人」
日向が紙を覗き込む。
「あー……言われてみれば」
「あと、『研究上の都合』って書かないと思う」
土御門の表情が僅かに変わった。
「どうしてです?」
「絶対もっとちゃんと書くから。『研究資料の確認のため』とか、『魔法省からの照会対応のため』とか。あの人、そういうところだけ妙に細かいんだよ」
楓も紙を見つめた。
「筆跡は似ているけれど、違和感があるということ?」
「うん。あと、字が綺麗すぎる」
「烏丸先生、字綺麗でしょう?」
「綺麗だけど、急いで書くと『魔』の最後がちょっと跳ねるんだよ」
日向が奎星を見た。
「お前、烏丸先生の字どんだけ見てんの?」
「補習で毎日見てるから!」
「怖いくらい詳しいな」
「俺が怖いみたいに言うな!」
いつもの調子で返したものの、奎星の顔から笑いは消えていた。
胸の中へ、小さな棘が刺さっている。
研究室にいない。
朝食にも来ない。
授業も休み。
そして、本人が書いたように見える、本人ではない書き置き。
「土御門先生」
奎星が振り返る。
「スズメちゃん、今日どこにいるか知ってる?」
「私は聞いていませんねえ」
「校長先生は?」
「確認してみます」
土御門はそう答えた。
けれど、奎星の胸騒ぎは消えなかった。
昼休み。
いつもの五人は大食堂に集まっていたが、奎星の箸はほとんど進んでいなかった。
目の前には鶏の照り焼きがある。普段なら真っ先になくなるはずなのに、まだ半分以上残っている。
岳がそれをじっと見ていた。
「食わないなら」
「駄目」
奎星は皿を引き寄せた。
「食う」
「食わないなら俺が」
「食うって」
「さっきから三分止まってる」
「時間測んなよ」
岳が本気で残念そうな顔をした。
楓は心配そうに奎星を見る。
「土御門先生、校長先生に確認してくれたんでしょう?」
「うん」
九重院も、スズメから今日の欠勤について正式な報告を受けていなかった。
研究で授業を抜けることはある。しかし、何も言わずに一日丸ごと姿を消すことはない。
伊織が湯呑みを置いた。
「先生たちも探しているみたいだね」
「御影先生、さっき廊下を走ってた」
日向が言った。
奎星の目が上がる。
「御影先生が?」
「あの人が走るの、初めて見た」
その瞬間、嫌な予感が確信へ近づいた。
スズメに、何かあった。
奎星は立ち上がった。
「どこへ行くの?」
楓が訊く。
「探す」
「先生たちが探しているでしょう」
「俺も探す」
「待って、奎星」
日向が腕を掴もうとする。
奎星は振り返った。
「昨日さ」
四人が見る。
「スズメちゃんに、秘密の場所を教えてもらった」
「秘密の場所?」
「うん」
それ以上は言わなかった。
言っていいのか、まだ分からない。
けれど昨日、スズメはあそこへ奎星だけを連れていった。そして、第零書庫の話をした。
入れるのは九重院とスズメ。
スズメ自身が、鍵の半分。
それから。
本校舎の奥にある、古い地下階段。
あの話になったときだけ、スズメは妙に慌てていた。
「ちょっと見てくる」
奎星は食堂を出た。
昨日歩いた道を、今度は一人で進む。
本校舎の裏手にある、普段は誰も使わない石段。蔦に覆われた門。その先に、古い観測塔がある。
昼間に見ると、昨夜よりさらに寂れて見えた。潮風に削られた外壁、崩れかけた屋根、錆びた蝶番。
けれど奎星には、昨夜の景色が鮮明に残っていた。
スズメが初めて誰かを連れてきた場所。
昨日、魔法を使うことが怖くなっていた自分を、彼女はここへ連れてきた。
そして、初めて自分の過去を話してくれた。
「……いないよな」
奎星は古い扉を開けた。
螺旋階段を駆け上がる。
昨日、スズメと上った道。けれど最上部へ辿り着いても、誰もいなかった。
風だけが吹いている。
月の代わりに、昼の青い海が見えた。
壊れかけた長椅子も、青銅製の輪も、星座盤も、昨日と同じ場所にある。
「スズメちゃん!」
呼んでみた。
返事はなかった。
奎星は息を整えながら周囲を見回した。
何かが落ちているわけでもない。荒らされた様子もない。
ただ、昨日と同じ景色が広がっていた。
「……違うか」
奎星は手すりへ両手を置いた。
眼下には、白い校舎が見える。
本校舎。
教室。回廊。中庭。
あの中のどこかに、スズメがいるのかもしれない。
「考えろ……」
奎星は自分へ言い聞かせるように呟いた。
魔法を覚えて一か月。失敗したら原因を探す。一度見たものを思い出す。
昨日、スズメは何を話した。
記録局での事故。
古代魔術。
第零書庫。
それから、あの妙な質問攻め。
――スズメちゃんさ、危険な魔法具とか巻物を管理するなら、どういう場所がいいと思う?
――関係者以外が容易に近づけず、適切な保管環境を維持できる場所でしょうね。
――じゃあさ。校舎の奥とか、地下とか、そういう使ってない場所なら向いてんのかな。
奎星は顔を上げた。
「……地下」
そうだ。
あのとき、スズメの顔が変わった。
本校舎の奥に古い階段があると言った途端に、真面目な顔になった。
――近づいたのですか?
――危険な場所もありますから。勝手に降りたりしないでください。
「…………」
あれが本当に、ただの注意だったのか。
スズメは秘密を守るのが上手い。
どれだけ訊いても、教えないと決めたことは教えない。
なのに昨日は、あの階段の話にだけ、思わず反応していた。
「……あそこか?」
奎星はもう一度、眼下の校舎を見る。
昨日、自分を連れてきたのは、この観測塔だった。
けれど、スズメが大切にしている場所と、第零書庫のある場所が同じとは限らない。
むしろ、あの人なら。
危険なものを保管する場所と、一人で考え事をする場所は、きちんと分けるだろう。
「そうだよな……」
奎星は手すりから離れた。
「スズメちゃん、待ってろよ」
階段を駆け下りる。
塔を出ると、本校舎へ向かった。
今度は、昨日の夜に話した古い地下階段を探す。
*
本校舎の奥は、昼間でも静かだった。
羊脂玉の長い回廊には、普段どおり生徒たちが行き交っている。けれど奎星が古い区画へ続く道へ入ると、その声は次第に遠ざかっていった。
壁に掛けられた案内板は、ところどころ文字が薄れている。
使われなくなった教室。
古い倉庫。
授業では滅多に訪れない資料室。
奎星は足を速めた。
「確か、こっち……」
前に一度、通りかかったことがある。
そのときは、下へ続く階段が少し気になっただけだった。
昨日、スズメと話すまでは。
角を曲がろうとしたとき、足元に何かが見えた。
白い紙だった。
石畳の隙間に引っかかっている。
「……ん?」
奎星は足を止めた。
こんな場所に紙が落ちていること自体は、珍しくないかもしれない。
けれど、何となく気になった。
しゃがみ込み、拾い上げる。
一度折られた小さな紙だった。
開いてみても、何も書かれていない。
「何だこれ」
捨てようとして、手が止まった。
紙の表面に、ごく浅い凹凸がある。
奎星は窓から差し込む光へ透かした。
「…………」
文字だ。
爪で強く押しつけたような、細い溝。
目を凝らす。
一文字ずつ、読み取った。
勝手に降りたりしないでください。
奎星の心臓が強く鳴った。
「……スズメちゃん?」
昨日、言われた言葉だった。
――危険な場所もありますから。勝手に降りたりしないでください。
何でもない注意。
普通の人間が読めば、それだけだ。
けれど、奎星には違った。
昨日の夜、あの階段を話題にしたときのスズメの表情。
妙に慌てた声。
そして、今。
誰も来ない古い回廊に落ちている、小さな紙。
「……マジかよ」
奎星は紙を握りしめた。
偶然ではない。
少なくとも、そう思った。
スズメが自分へ残したものだ。
もし誰かに見つかったとしても、ただの注意書きにしか見えない。
けれど奎星なら、昨日の会話を思い出せる。
「……分かった」
奎星は顔を上げた。
「降りろってことだろ」
白い紙を丁寧に折り、制服のポケットへ入れる。
それから、回廊の奥へ走った。
古い階段は、すぐに見つかった。
壁際に、使われなくなった魔法灯が並んでいる。
その下へ、石段が続いていた。
薄暗く、どこまで続いているのかは分からない。
昨日までなら、何の気なしに降りていたかもしれない。
今は違う。
奎星は階段の前で立ち止まった。
ここから先は、スズメが勝手に近づくなと言った場所だ。
本当に危険なものがあるのかもしれない。
もし、第零書庫の入口がこの先にあるなら。
そこへ行くこと自体、許されていない。
「御影先生……」
呼ぶべきだ。
九重院校長へ伝える。
この紙を見せる。
それが正しい。
スズメがいなくなった。
先生たちは、今も探している。
自分一人で何とかしようとする必要なんてない。
奎星は一歩、後ろへ下がった。
けれど、そのとき。
昨日のスズメの声が蘇った。
――見つかんなかったら?
――一緒に探します。
即答だった。
補習をサボって逃げていた自分を、息を切らしながら探しに来てくれた人。
杖を握ることが怖くなった自分へ、無理に魔法を使わなくてもいいと言ってくれた人。
そして、その人が今、いない。
「…………」
奎星は階段を見下ろした。
もしあの紙を残したのがスズメなら。
なぜ、ただ「助けてください」と書かなかったのか。
なぜ、わざわざ昨日の言葉を使ったのか。
奎星はポケットの上から紙に触れた。
――勝手に降りたりしないでください。
あの人は、場所を知らせようとしている。
少なくとも、自分にはそう思えた。
御影を呼んでいる間に、何かが起きたら。
そのとき自分は、また何もできないのだろうか。
昨日、日向が倒れた。
あのときも、ただ見ていることしかできなかった。
今度は、スズメだったら。
「……くそ」
奎星は神代榊を握り直した。
怖かった。
一か月しか魔法を学んでいない。
昨日、初めてまともな対人訓練をして、友達を傷つけたばかりだ。
危険な場所へ一人で行くべきではない。
分かっている。
それでも。
「……行くか」
奎星は階段を下り始めた。
*
石段は思っていたよりも長かった。
本校舎の下に、こんな場所があるとは知らなかった。
壁には古い魔法文字が刻まれ、足元には薄く埃が積もっている。
奎星は杖を持ち上げた。
「ルーモス」
小さな光が灯る。
暗い階段を、必要な範囲だけ照らした。
昨日の事故を思い出す。
少しだけ、指が強張った。
けれど光は揺れなかった。
「……よし」
奎星は歩き続けた。
途中で、いくつかの細い通路に分かれていた。
「……どっちだよ」
奎星は立ち止まる。
左も右も、同じような石壁が続いている。
何か案内があるわけでもない。
少し考えてから、足元へ光を向けた。
古い石床には、ところどころ砂埃が溜まっている。
その上に、新しい靴跡があった。
「…………」
一人分ではない。
大きな靴跡と、小さな靴跡。
誰かが、つい最近ここを歩いたらしい。
奎星はしゃがみ込み、もう一度確かめた。
確証はない。
けれど、この場所で二人分の新しい足跡があること自体、妙だった。
「……こっちか」
靴跡の残る通路を進む。
階段を下り、曲がり角を抜け、さらに奥へ。
やがて道が途切れた。
行き止まりだった。
「……は?」
目の前には、石壁があるだけだった。
扉も、取っ手もない。
ただの壁。
「ちょっと待てよ……」
奎星は周囲を見回した。
ほかに道はない。
引き返すしかないのか。
そう思いかけたとき、杖先の光が何かを照らした。
壁の中央。
小さな円形の印が刻まれている。
「……何だこれ」
奎星は近づき、指で触れた。
冷たい石だった。
印の中には、細かな線が幾重にも刻まれている。
何の文字なのかは分からない。
けれど、ただの飾りにしては妙だった。
それに。
壁の前には、ほかの場所よりはっきりとした靴跡が残っていた。
二人分。
ここで止まっている。
「…………」
奎星は壁を見上げた。
「第零書庫……?」
昨夜の会話が頭の中へ戻ってくる。
――入口に鍵ある?
――教えません。
――アロホモラで開く?
――開きません。
――杖?
――杖だけでは開きません。
――スズメちゃん自身が鍵?
――半分だけ。
「……人と杖」
奎星が呟く。
スズメ自身と、彼女の杖。
昨日、スズメはそれを否定しなかった。
この壁が本当に入口なら、普通の生徒である自分には開けられないはずだ。
「……無理じゃん」
奎星は思わず笑った。
スズメの残した紙が、ここを示しているのだとしても。
資格を持っていない自分には、どうすることもできない。
壁を叩いても、何も起きない。
アロホモラでは開かない。
力任せに壊すなど、できるはずもない。
「どうすんだよ……」
奎星は神代榊を見つめた。
スズメは、自分へ何をしてほしかったのだろう。
ここへ来い。
それだけなら、意味がない。
自分が来ても扉を開けられないことくらい、スズメは知っているはずだ。
「…………」
もう一度、石壁を見る。
何の変哲もない壁。
中央に、小さな印が一つ。
奎星は眉を寄せた。
昨日のスズメの言葉を思い出す。
――杖だけでは開きません。
杖だけでは。
ということは、杖も必要なのだろう。
少なくとも、全く関係がないわけではない。
奎星は神代榊を持ち上げた。
小さな印へ、杖先を触れさせる。
「……まあ、やってみるか」
ほんの僅かに魔力を流した。
その瞬間。
印が、青白く光った。
「……え?」
奎星が目を見開く。
次の瞬間、石壁の奥から低い音が響いた。
ごごご、と石が擦れる。
何もなかった壁へ、細い亀裂が走った。
その亀裂が左右へ広がっていく。
奎星は思わず後ずさった。
「うわっ!?」
石壁が開いていく。
その向こうに、さらに下へ続く階段が現れた。
冷たい空気が、地下から昇ってくる。
古い紙。
湿った石。
それから、微かに焦げたような匂い。
奎星は口を開けたまま、しばらく立ち尽くしていた。
「……開いた」
本当に開いてしまった。
けれど、どうして。
自分は入庫資格を持っていない。
スズメの杖でもない。
神代榊に流した魔力だって、特別なものではなかった。
さっきルーモスを使ったときと同じように、ほんの少し流しただけだ。
「…………」
奎星はもう一度、壁の印を見る。
今は、青白い光が消えている。
さっきまで、ただの石壁だった。
それが、自分の杖へ反応して開いた。
けれど。
「……待てよ」
奎星の目が動いた。
もし、本当に資格を持つ人間しか開けられないのなら。
今、自分が開けられたことのほうがおかしい。
だったら。
「……鍵、掛かってなかった?」
奎星は呟いた。
扉は閉じていた。
けれど、それと施錠されていることは同じではない。
普通の扉だって、閉じているだけなら誰でも開けられる。
魔法で封印された扉も、もし同じだったとしたら。
「…………」
奎星はポケットへ手を入れた。
小さな白い紙を取り出す。
勝手に降りたりしないでください。
昨日のスズメの言葉。
今、ここへ自分を導いた言葉。
あの人は、自分がこの場所を思い出すと考えた。
そして。
この入口も。
「……スズメちゃん」
奎星は開いた石壁を見る。
閉じているのに、鍵の掛かっていなかった入口。
自分の杖でも開いた扉。
もしかして。
スズメが、わざと施錠しなかったのだとしたら。
そうすれば、資格のない自分でも入れる。
「……俺が開けたんじゃねえ」
奎星は小さく呟いた。
スズメが、開けられるようにしておいてくれたのだ。
昨夜、あれほど教えるまいとしていた場所。
誰にも許可されていない者を入れてはいけない書庫。
その入口を、彼女は閉じただけで、鍵を掛けなかった。
なぜ。
答えは、ポケットの中にあった。
わざわざ残された、たった一行の言葉。
「……分かったよ」
奎星は紙を握りしめた。
「スズメちゃん」
返事はない。
暗い階段が、地下へ続いている。
その奥で、何が起きているのかは分からない。
ただ、ここまで来て。
この扉が開いて。
それでも戻ることなんて、もう考えられなかった。
奎星は一歩、暗闇へ踏み出しかけた。
そして、止まった。
「…………」
普通なら、ここで戻るべきだった。
御影を呼ぶ。九重院へ伝える。大人へ任せる。
それが正しい。
奎星も、もうそれくらいは分かる。
腰の奥に、昨日の恐怖が残っている。日向が倒れた。魔法が暴走した。自分はまだ、一か月しか魔法を知らない。
この先には、スズメですら危険だと言った古代魔術がある。
行くべきではない。
頭では、はっきり分かっていた。
それでも暗い階段の向こうを見たとき、奎星の脳裏に昨夜の声が蘇った。
――昨日は、私があなたを見つけました。
実際に、スズメがそんな言葉を口にしたわけではない。
けれど、あの紙と、あの扉が、奎星にはそう聞こえた。
昨日。
誰も来ない森の奥で、一人で座っていた。
自分の魔法が怖くなって、杖を捨てようかとまで思った。
そこへ、スズメが来た。
息を切らしながら。
走っていないと言い張りながら。
そして、あの景色の良い場所へ連れていってくれた。
――見つかんなかったら?
――一緒に探します。
奎星は目を閉じた。
「……待ってろよ」
小さく呟いた。
「スズメちゃん」
神代榊の杖を握り直す。
その手は、少し震えていた。
怖い。
それでも、行く。
奎星は一歩、暗闇へ踏み出した。
二歩目。
三歩目。
背後で、石壁がゆっくり閉じ始める。
回廊から差し込む淡い光が細くなっていく。
最後の隙間が閉じる直前、奎星は一度だけ後ろを振り返った。
戻るなら、今だ。
御影を呼べる。楓たちにも助けを求められる。
それでも、足は止まらなかった。
石壁が閉じる。
光が消える。
誰もいない壁の向こうで、中央の印が一度だけ青白く光った。
封印が、元に戻る。
今度は、鍵も掛かっていた。
奎星は、そのことを知らない。
完全な闇。
奎星は杖を持ち上げた。
一瞬だけ、昨日の事故を思い出す。魔法を使うのが、まだ少し怖かった。
それでも唇を噛み、杖先へ意識を集中させる。
「ルーモス」
杖先に、小さな光が灯った。
一か月前なら、部屋中を白く焼いた魔法。今は、必要な場所だけを照らしている。
静かな光の先に、古い石段が地下深くへ続いていた。
奎星はその階段を、一人で降りていった。
誰にも許可されず、誰にも知られず。
マホウトコロで最も危険な書庫。
第零書庫へ。