マホウトコロ   作:西野圭吾

12 / 114
第12話 見つけてください

 

その日、烏丸スズメの姿が見えないことに真っ先に気づいたのは、蓮根奎星だった。

 

もっとも、朝の時点では、ほんの些細な違和感にすぎなかった。

 

午前七時。奎星は布団の中で目を覚ますと、しばらく天井を眺めた。いつもなら、そろそろ襖が開く時間だ。最近では自力で起きられる日も増えたため、スズメにアロホモラで鍵を開けられることこそなくなったものの、朝食の時間になると彼女は必ず一度、奎星の部屋へ顔を出していた。

 

「起きていますか」

 

「制服を着てください」

 

「教科書を枕にしないでください」

 

「蓮根君、聞いていますか」

 

一か月も聞き続ければ、目覚まし時計より馴染み深い声である。

 

しかし、その日は何も聞こえなかった。

 

奎星は枕元の時計を手に取った。七時十二分。いつもなら、もうスズメが二度目の声かけをしている頃だ。

 

「……遅刻じゃん、スズメちゃん」

 

寝坊だろうか。そう考えた直後、奎星は自分で首を傾げた。

 

烏丸スズメが寝坊する。少なくとも、この一か月で一度も見たことがない。彼女は朝が早く、時間に正確で、奎星が五分遅れただけでも「五分は五分です」と真顔で言う人間だった。

 

奎星が髪を掻きながら起き上がったところで、廊下からぺたぺたと小さな足音が聞こえてきた。

 

「レンコン、ゴハン」

 

襖の隙間から、天ぷらが顔を出す。

 

「蓮根な。おはよ」

 

「オハヨ」

 

天ぷらが運んできたお盆には、焼き魚と卵焼き、味噌汁に白米、それから小鉢が二つ載っていた。いつもなら二人分あるはずの朝食が、今日は一人分しかない。

 

奎星は何気ないふりをして廊下へ目を向けた。

 

「天ぷら、スズメちゃんは?」

 

「トリマル?」

 

「烏丸先生」

 

「イナイ」

 

「研究室?」

 

「イナイ」

 

「食堂?」

 

「シラナイ」

 

天ぷらは耳を横へ倒し、困ったように首を傾げた。

 

奎星は一瞬だけ黙ったものの、すぐに肩をすくめた。

 

「まあ、また研究だろ」

 

スズメが授業へ来ないこと自体は、それほど珍しくなかった。正確には、無断欠勤をするわけではない。古代魔術の調査や魔法省からの資料照会、校内の史料整理などが入ると、代講を立てることもある。

 

何より、彼女が研究へ没頭すると時間を忘れることは、教師にも生徒にも知られていた。

 

以前、日向から聞いたことがある。

 

「烏丸先生、研究室で朝迎えたことあるらしいぞ」

 

「マジ?」

 

「土御門先生にめちゃくちゃ怒られたって」

 

「先生も怒られるんだな」

 

「そりゃ二十一だし」

 

そのときは笑った。

 

だから今日も、たぶん、それだけだと思った。

 

一時間目は呪文学だった。

 

教室へ入った土御門芽衣子は、いつもの穏やかな笑顔を浮かべながら、黒板へ今日の課題を書き始めた。

 

「では今日は、二人一組で精度を確認しますね。強く撃つ必要はありませんから、丁寧にお願いします」

 

奎星は楓と組んでいた。

 

昨日の事故以来、初めて楓へ杖を向けることになる。杖を構えた奎星の手が、ほんの少しだけ止まった。

 

楓はそれに気づいたらしい。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「今日は床に変な石、ないわよ」

 

奎星の目が丸くなる。

 

楓は杖を構えたまま、ほんの少し笑った。

 

「藤森先生も、昨日のはあなたの制御ミスじゃない可能性が高いって言ってたでしょう」

 

「……うん」

 

「なら、やりましょう」

 

「怖くない?」

 

「少しは」

 

楓は正直に答えた。そのうえで、奎星から目を逸らさずに続ける。

 

「でも、奎星がわざとやったとは思ってないから」

 

奎星は数秒黙ってから、ゆっくり頷いた。

 

「分かった」

 

二人が向かい合う。土御門は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。

 

「では、始めてください」

 

奎星は息を整え、杖へ流す魔力量を意識した。昨日の感覚を思い出すと、まだ胸の奥がざわつく。魔法を使うこと自体が怖いわけではない。ただ、また何かを壊すのではないかという不安が、指先に残っていた。

 

それでも、奎星は杖を振った。

 

「エクスペリアームス」

 

今度は、何も起きなかった。

 

いや、正確には、普通の魔法が起きた。

 

楓の杖が軽く手から抜け、床へ落ちる。大きな音も、衝撃も、異常な光もない。

 

奎星の肩から力が抜けた。

 

「……普通だ」

 

楓が呆れたように笑う。

 

「魔法を使って『普通だ』って安心する人、初めて見たわ」

 

「今は普通が一番だよ」

 

その言葉を聞いていた土御門が、少しだけ目を細めた。

 

昨日までの奎星なら、もっと強く、もっと派手に、と考えていたかもしれない。けれど今は、必要なだけの力を使おうとしている。

 

少なくとも、少しずつ変わっている。

 

二時間目は魔法史だった。

 

教室へ入ってきたのは、スズメではなかった。

 

奎星はそこで初めて、本格的な違和感を覚えた。

 

「本日の魔法史は自習です」

 

代わりに教室へ来た土御門が、何枚かの紙を手にしていた。

 

日向が隣で小声を漏らす。

 

「やった」

 

楓がすぐに振り返った。

 

「何が?」

 

「いや、烏丸先生いないなら今日は平和かなって」

 

「本人に聞かれたら課題三倍ね」

 

「いないから言ってんだよ」

 

奎星は笑わなかった。

 

土御門は教壇の上で一枚の紙を掲げた。

 

「烏丸先生から、自習内容について書き置きがありました。指定された教科書の範囲を読み、最後の設問まで解いておいてください」

 

黒板へ紙が留められる。

 

奎星は何気なく目を向けた。

 

そこには短い文章が書かれていた。

 

本日は研究上の都合により自習とします。第四章を読み、課題一から八までを終えてください。提出は次回授業時。

 

簡潔で、無駄がない。いかにもスズメが書きそうな内容だった。

 

実際、誰も気にしていない。日向は自習になったことを喜び、岳は机の下で何かを食べようとして楓に見つかり、伊織はすでに教科書を開いている。

 

奎星だけが、黒板を見つめていた。

 

「…………」

 

何かが変だ。

 

すぐには分からなかった。だから奎星は立ち上がり、黒板へ近づいた。

 

土御門が不思議そうに見る。

 

「蓮根君?」

 

「先生、これ」

 

奎星は紙を指差した。

 

「スズメちゃんが書いたの?」

 

「烏丸先生です」

 

反射的に訂正したのは楓だった。

 

「楓まで!?」

 

「一か月聞いてたら移ったのよ」

 

土御門は苦笑しながら答えた。

 

「今朝、教員室の烏丸先生の机に置いてあったそうですよ」

 

「誰が見つけたの?」

 

「早瀬先生だったと思います」

 

奎星は紙へ顔を近づけた。

 

文字は几帳面で、癖もよく似ている。一見すれば、スズメの筆跡にしか見えない。

 

「……違う」

 

奎星が小さく呟いた。

 

伊織が教科書から顔を上げる。

 

「何が?」

 

奎星は紙の最後を指した。

 

「スズメちゃん、こんな書き方しない」

 

日向が首を傾げる。

 

「いや、めっちゃ言いそうだけど」

 

「言いそう。でも違う」

 

奎星自身、説明しろと言われると困った。たった一か月。それでも毎日、教科書や課題、補習のノートを通して、スズメの字を何度も見てきた。

 

書き置きも、課題の添削も、赤い文字で「やり直し」と書かれた紙も、嫌というほど見ている。

 

「スズメちゃん、提出物なら絶対に時間まで書く」

 

楓が瞬きをする。

 

「時間?」

 

「うん。『次回授業開始時まで』とか、『午前八時五十分まで』とか。変なところ細かいんだよ、あの人」

 

日向が紙を覗き込む。

 

「あー……言われてみれば」

 

「あと、『研究上の都合』って書かないと思う」

 

土御門の表情が僅かに変わった。

 

「どうしてです?」

 

「絶対もっとちゃんと書くから。『研究資料の確認のため』とか、『魔法省からの照会対応のため』とか。あの人、そういうところだけ妙に細かいんだよ」

 

楓も紙を見つめた。

 

「筆跡は似ているけれど、違和感があるということ?」

 

「うん。あと、字が綺麗すぎる」

 

「烏丸先生、字綺麗でしょう?」

 

「綺麗だけど、急いで書くと『魔』の最後がちょっと跳ねるんだよ」

 

日向が奎星を見た。

 

「お前、烏丸先生の字どんだけ見てんの?」

 

「補習で毎日見てるから!」

 

「怖いくらい詳しいな」

 

「俺が怖いみたいに言うな!」

 

いつもの調子で返したものの、奎星の顔から笑いは消えていた。

 

胸の中へ、小さな棘が刺さっている。

 

研究室にいない。

 

朝食にも来ない。

 

授業も休み。

 

そして、本人が書いたように見える、本人ではない書き置き。

 

「土御門先生」

 

奎星が振り返る。

 

「スズメちゃん、今日どこにいるか知ってる?」

 

「私は聞いていませんねえ」

 

「校長先生は?」

 

「確認してみます」

 

土御門はそう答えた。

 

けれど、奎星の胸騒ぎは消えなかった。

 

昼休み。

 

いつもの五人は大食堂に集まっていたが、奎星の箸はほとんど進んでいなかった。

 

目の前には鶏の照り焼きがある。普段なら真っ先になくなるはずなのに、まだ半分以上残っている。

 

岳がそれをじっと見ていた。

 

「食わないなら」

 

「駄目」

 

奎星は皿を引き寄せた。

 

「食う」

 

「食わないなら俺が」

 

「食うって」

 

「さっきから三分止まってる」

 

「時間測んなよ」

 

岳が本気で残念そうな顔をした。

 

楓は心配そうに奎星を見る。

 

「土御門先生、校長先生に確認してくれたんでしょう?」

 

「うん」

 

九重院も、スズメから今日の欠勤について正式な報告を受けていなかった。

 

研究で授業を抜けることはある。しかし、何も言わずに一日丸ごと姿を消すことはない。

 

伊織が湯呑みを置いた。

 

「先生たちも探しているみたいだね」

 

「御影先生、さっき廊下を走ってた」

 

日向が言った。

 

奎星の目が上がる。

 

「御影先生が?」

 

「あの人が走るの、初めて見た」

 

その瞬間、嫌な予感が確信へ近づいた。

 

スズメに、何かあった。

 

奎星は立ち上がった。

 

「どこへ行くの?」

 

楓が訊く。

 

「探す」

 

「先生たちが探しているでしょう」

 

「俺も探す」

 

「待って、奎星」

 

日向が腕を掴もうとする。

 

奎星は振り返った。

 

「昨日さ」

 

四人が見る。

 

「スズメちゃんに、秘密の場所を教えてもらった」

 

「秘密の場所?」

 

「うん」

 

それ以上は言わなかった。

 

言っていいのか、まだ分からない。

 

けれど昨日、スズメはあそこへ奎星だけを連れていった。そして、第零書庫の話をした。

 

入れるのは九重院とスズメ。

 

スズメ自身が、鍵の半分。

 

「ちょっと見てくる」

 

奎星は食堂を出た。

 

昨日歩いた道を、今度は一人で進む。

 

本校舎の裏手にある、普段は誰も使わない石段。蔦に覆われた門。その先に、古い観測塔がある。

 

昼間に見ると、昨夜よりさらに寂れて見えた。潮風に削られた外壁、崩れかけた屋根、錆びた蝶番。

 

けれど奎星には、昨夜の景色が鮮明に残っていた。

 

スズメが初めて誰かを連れてきた場所。

 

「……いないよな」

 

扉へ手をかけた、そのときだった。

 

足元の石の隙間に、何か白いものが見えた。

 

「ん?」

 

奎星はしゃがみ込み、それを拾い上げた。

 

小さな紙だった。一度折られたものが、半分だけ開いている。何も書かれていないように見えたが、光へ透かすと、紙の表面に爪で押しつけたような僅かな溝が浮かび上がった。

 

奎星は指でなぞる。

 

文字だった。

 

悩むなら、景色の良いところで。

 

心臓が強く鳴った。

 

昨日、森の奥で景色の悪い場所に膝を抱えていた自分へ、スズメが言った言葉。

 

――悩むのであれば、もう少し景色の良いところで悩みませんか。

 

「……スズメちゃん」

 

これは偶然ではない。

 

誰かが、自分へ残したものだ。

 

しかも、この意味が分かるのは、おそらく自分だけだった。

 

奎星は観測塔を見上げる。

 

扉を開け、螺旋階段を駆け上がった。

 

昨日、スズメと上った道。けれど最上部へ辿り着いても、誰もいなかった。

 

風だけが吹いている。

 

月の代わりに、昼の青い海が見えた。

 

「……違う?」

 

奎星は息を整えながら周囲を見回した。古い観測器具、長椅子、青銅の輪、星座盤。どこにもスズメはいない。

 

紙をもう一度見る。

 

悩むなら、景色の良いところで。

 

ここへ来い。

 

それだけではないはずだ。

 

何かを見つけろ。

 

スズメなら、たぶんそういう意味で残した。

 

「考えろ……」

 

奎星は自分へ言い聞かせるように呟いた。

 

魔法を覚えて一か月。失敗したら原因を探す。一度見たものを思い出す。

 

昨日、塔へ来た。

 

螺旋階段を上った。

 

途中に、何かあった。

 

「…………」

 

奎星の目が止まった。

 

階段の途中に、古い天体図があった。太陽、月、七つの星。昨日はスズメについて上まで行くことしか考えていなかったため、気にも留めなかった。

 

奎星は階段を駆け下りる。

 

一階、二階、そして途中の踊り場。

 

「あった」

 

壁へ大きな天体図が埋め込まれている。

 

奎星は近づき、指で触れた。石の表面は冷たく、何の変哲もない。

 

「第零書庫……」

 

昨夜の会話が頭の中へ戻ってくる。

 

――入口に鍵ある?

 

――教えません。

 

――アロホモラで開く?

 

――開きません。

 

――合言葉?

 

――違います。

 

――杖?

 

スズメは黙った。

 

――スズメちゃん自身が鍵?

 

――半分だけ。

 

「……人と杖」

 

奎星が呟く。

 

スズメ自身と、彼女の杖。それが鍵の半分。

 

なら、ここが入口だったとしても、自分には開けられない。

 

「くそ」

 

奎星は壁を叩いた。

 

その瞬間、指先に何かが触れた。

 

奎星は動きを止める。

 

天体図の中央、月と太陽の間。そこだけ、石の表面にごく新しい傷があった。杖先を押し当てたような細い跡。

 

「…………」

 

奎星は自分の杖を抜いた。

 

神代榊。

 

持ち上げ、同じ位置へ触れさせる。

 

何も起こらない。

 

当然だ。自分は入庫資格を持っていない。

 

「御影先生……」

 

呼ぶべきだ。

 

そう思った。

 

御影へ伝える。九重院校長へ言う。この場所と紙を、全部見せる。

 

それが正しい。

 

奎星は階段を下りかけた。

 

一歩。

 

二歩。

 

そこで、足が止まった。

 

もしスズメが自分へこの紙を残したのなら、なぜ御影ではなく、自分にしか分からない言葉を使ったのか。

 

いや、自分にしか分からないというより、この場所を知っている相手へ知らせたかったのだ。

 

昨日まで、この観測塔を知っている人間は他にもいただろう。けれどスズメは言った。

 

「初めて人に教えた」

 

奎星に。

 

初めて。

 

御影を呼んでいる間に、何かが起きたら?

 

昨日、日向が倒れたとき、自分は何もできなかった。目の前で友達が運ばれていくのを、ただ見ていた。

 

もし今度は、スズメだったら。

 

「…………」

 

奎星は杖を握った。

 

怖かった。

 

昨日までなら、迷わなかったかもしれない。面白そう、行ってみたい。そのくらいの理由で危険な場所にも首を突っ込んだ。

 

今は違う。

 

魔法で人は傷つく。失敗すれば、取り返しのつかないことがある。スズメ自身が教えてくれた。

 

だからこそ、無茶をするべきではない。

 

分かっている。

 

分かっているのに。

 

「スズメちゃん……」

 

自分を探しに来てくれた人だ。

 

補習をサボって誰にも見つからない場所へ隠れていた自分を、息を切らしながら探しに来てくれた。

 

一緒に原因を探すと言ってくれた。

 

だったら今度は、奎星が探す番だった。

 

天体図の前へ戻る。

 

「人と杖が鍵……でも、俺じゃ開かない」

 

奎星は壁を睨んだ。

 

スズメはここを通った。

 

もし誰かに連れ去られたのなら、その誰かも一緒に入ったはずだ。

 

どうやって?

 

資格のある人間と杖。それだけで開くなら、久我でも、誰でも、スズメを連れてくれば入れる。

 

でも、スズメは「半分だけ」と言った。

 

つまり、もう半分、別の条件がある。

 

「何だよ……」

 

壁。

 

太陽。

 

月。

 

七つの星。

 

古代の観測塔。

 

魔力潮汐。

 

第零書庫。

 

奎星は一つずつ見ていった。

 

「入口が人を見てる?」

 

昨日、そう訊いた。

 

スズメは否定しなかった。

 

資格。

 

本人。

 

杖。

 

「俺、資格ないし」

 

それでも、杖を天体図の中央へ触れさせる。

 

目を閉じる。

 

スズメなら、どうする?

 

アロホモラではない。

 

合言葉でもない。

 

なら、魔力か。

 

奎星はほんの僅かに、杖へ魔力を流した。

 

その瞬間、七つの星のうち一つが微かに光った。

 

「え?」

 

すぐに消える。

 

奎星は目を見開いた。

 

「今……」

 

もう一度、魔力を流す。

 

今度は二つの星が青白く光り、また消えた。

 

「なんで?」

 

資格がないのに、反応している。

 

奎星は杖を見つめた。

 

神代榊。鬼火鳥の尾羽。九重院が渡した杖。新品ではない。以前の持ち主がいる。

 

校長は何かを知っている。

 

「…………」

 

嫌なほど、点が繋がっていく。

 

もし、この杖が以前、第零書庫へ入ることを許された魔法使いのものだったら。

 

「マジかよ」

 

奎星の心臓が速くなる。

 

一か月前、この杖を握った瞬間、初めてなのに帰ってきたような感覚があった。

 

今、壁も何かを覚えている。

 

「じゃあ」

 

奎星は深く息を吸った。

 

杖へ魔力を流す。

 

一つ。

 

二つ。

 

三つ。

 

星が灯る。

 

四つ。

 

五つ。

 

六つ。

 

最後の一つ。

 

七つすべてが、青白く光った。

 

塔の奥深くから、低い音が響いた。

 

「……開いた」

 

天体図が、ゆっくり左右へ割れていく。

 

その向こうには、地下へ続く、果ての見えない階段があった。

 

冷たい空気が下から昇ってくる。古い紙、湿った石、そして微かに焦げたような匂い。

 

奎星は階段の前で立ち尽くした。

 

本当に開いた。

 

普通なら、ここで戻るべきだった。

 

御影を呼ぶ。九重院へ伝える。大人へ任せる。

 

それが正しい。

 

奎星も、もうそれくらいは分かる。

 

腰の奥に、昨日の恐怖が残っている。日向が倒れた。魔法が暴走した。自分はまだ、一か月しか魔法を知らない。

 

この先には、スズメですら危険だと言った古代魔術がある。

 

行くべきではない。

 

頭では、はっきり分かっていた。

 

それでも暗い階段の向こうを見たとき、奎星の脳裏に昨夜の声が蘇った。

 

――昨日は、私があなたを見つけました。

 

実際に、スズメがそんな言葉を口にしたわけではない。

 

けれど、あの紙と、あの場所と、あの言葉が、奎星にはそう聞こえた。

 

「……待ってろよ」

 

奎星は小さく呟いた。

 

「スズメちゃん」

 

神代榊の杖を握り直す。

 

その手は、少し震えていた。

 

怖い。

 

それでも、行く。

 

奎星は一歩、暗闇へ踏み出した。

 

二歩目。

 

三歩目。

 

背後で、天体図の壁がゆっくり閉じ始める。

 

昼の光が細くなっていく。

 

最後の隙間が閉じる直前、奎星は一度だけ後ろを振り返った。

 

戻るなら、今だ。

 

御影を呼べる。楓たちにも助けを求められる。

 

それでも、足は止まらなかった。

 

石壁が閉じる。

 

光が消える。

 

完全な闇。

 

奎星は杖を持ち上げた。

 

一瞬だけ、昨日の事故を思い出す。魔法を使うのが、まだ少し怖かった。

 

それでも唇を噛み、杖先へ意識を集中させる。

 

「ルーモス」

 

杖先に、小さな光が灯った。

 

一か月前なら、部屋中を白く焼いた魔法。今は、必要な場所だけを照らしている。

 

静かな光の先に、古い石段が地下深くへ続いていた。

 

奎星はその階段を、一人で降りていった。

 

誰にも許可されず、誰にも知られず。

 

マホウトコロで最も危険な書庫。

 

第零書庫へ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。