マホウトコロ   作:西野圭吾

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第13話 一撃のために

 杭を壊し、霊脈の流れを断った。巨大妖魔の傷は、もう塞がらない。そこまでを並べれば、ようやく勝負の土俵へ引きずり下ろせたように思えた。実際、十三人の誰もが、ほんの一瞬だけそう思った。

 

 けれど、妖魔の巨体は、霊脈を失ったあとも谷底に立ち続けていた。

 

「デパルソ!」

 

 奎星の神代榊から白い衝撃が放たれ、真正面から妖魔の胸へ突き刺さる。以前なら、その一撃を受けた直後から黒い泥のようなものが傷口を埋めていた。今は違う。皮膚は裂けたまま、岩のような欠片が何枚も剥がれ落ちていく。

 

 確かに、回復はしていない。

 

 だが、巨体は半歩も下がらなかった。

 

「……動いてねえ!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 前回の戦いと同じだった。いや、正確には少し違う。霊脈から無尽蔵に魔力を喰えなくなったぶん、再生だけは止まっている。それだけだった。妖魔そのものの強さは、何ひとつ変わっていない。

 

 巨大妖魔が頭を振る。全身へ集められていた赤黒い光が胸の奥で脈打ち、次の瞬間、前脚が地面へ叩きつけられた。

 

「散れ!!」

 

 奎星が二本指を開く。全員が左右へ飛び退いた直後、地面が爆発した。岩と土が十メートル以上も上空へ跳ね上がり、谷底へ降り注ぐ。

 

「OH, COME ON!」

 

 ジェームズが飛んできた岩を盾で弾いた。

 

「THIS THING’S STILL GOT THAT MUCH LEFT!?」

 

「何て!?」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「『まだこんなに元気なのか』!」

 

 高瀬が答えながら横へ転がった。

 

「俺もそう思う!!」

 

「会話してる場合か!」

 

 甚八が怒鳴った。

 

 その声を追うように、巨大妖魔の尾が横薙ぎに振られる。

 

「守れ!」

 

 奎星が掌を前へ向けた。

 

「プロテゴ!」

 

「Protego!」

 

 甚八とジェームズの防壁が重なった。直後、尾が二枚の盾をまとめて殴りつける。轟音とともに二人の身体が後ろへ滑った。盾は割れなかったが、足元の地面が衝撃に耐えきれず、土が大きく削れていく。

 

「源兵衛!」

 

「やってる!」

 

 源兵衛が杖を突き立てると、崩れかけた地面が硬化した。同時にウィリアムも斜面へ杖を向ける。

 

「Hold together! Come on!」

 

 崩れかけた岩が噛み合い、二人の足場を支えた。

 

 そこへトーマスが縄を飛ばす。

 

「INCARCERUS!」

 

 太い縄が妖魔の右前脚へ巻きついた。

 

「Got the leg!」

 

「秋月!」

 

「おう!」

 

 秋月が横から杖を振り抜く。

 

「デパルソ!」

 

 衝撃が同じ脚へ入った。巨大妖魔の身体が、ほんの僅かに傾く。

 

「今だ!」

 

 宗次郎が二本の短い杖を構えた。

 

「ステューピファイ!」

 

「ステューピファイ!」

 

 赤い光が首と胸へ相次いで突き刺さる。続いてミラーが杖を振った。

 

「Stupefy!」

 

 奎星も横から撃ち込む。

 

「ステューピファイ!」

 

 四発の赤い閃光が連続して巨体へ突き刺さった。しかし、妖魔は止まらなかった。身体の表面で光が弾け、焦げた皮膚と黒い欠片が落ちていく。効いていないわけではない。だが、あまりにも大きすぎた。

 

 人間を気絶させるための魔法を四発重ねたところで、この巨体にとっては、一瞬身体を揺らす程度にしかならない。

 

「やっぱデカいのには無理か!」

 

 奎星が歯を食いしばる。

 

 宗次郎が顔をしかめた。

 

「分かっちゃいたが!」

 

「もう一発いくぞ!」

 

 秋月が前へ出ようとする。

 

「待て!」

 

 奎星が止めた。

 

「何だ!」

 

「ただ撃っても減るだけだ!」

 

「何が!」

 

「俺らの魔力!」

 

 秋月の足が止まる。

 

 それだった。

 

 杭を壊したことで、妖魔はもう外から魔力を喰えない。同時に、こちらの魔力も有限になった。十三人はすでに、杭を壊すまでの戦いでかなり消耗している。

 

 甚八とジェームズは何度も黒い吐息と突進を受け止め、源兵衛とウィリアムは足場を維持し、トーマスは何本もの拘束を作り直していた。ミラーと宗次郎と清弦は小型妖魔を止め続け、奎星に至っては、谷の端から端まで走り回りながら、防御、攻撃、杭の破壊、小型妖魔の処理まで一人で引き受けている。

 

 息は荒く、腕は重い。それでも、目の前の怪物はまだ立っていた。

 

「……火力が足りねえ」

 

 奎星が呟く。

 

 清弦が隣で巨大妖魔を睨んだ。

 

「何だ」

 

「倒す火力」

 

 奎星は神代榊を握り直した。

 

「回復しないのはいい。でも、そもそも削り切れねえ。俺のデパルソで動かない。ステューピファイも大して効かない。レダクトを連打すれば傷はつくけど……」

 

 妖魔の身体を見上げる。あまりにも巨大だった。

 

「こんなん全部削ってたら、こっちが先に空になる」

 

 清弦は答えなかった。

 

 巨大妖魔が口を開く。

 

「来る!」

 

 黒い吐息が谷底を覆う。ジェームズ、甚八、源兵衛、ウィリアム、そして奎星が一斉に杖を掲げた。

 

「PROTEGO!」

 

「プロテゴ!」

 

 白い防壁が幾重にも立ち上がり、黒い奔流が激突する。最初の盾が軋み、次の盾に亀裂が走った。

 

「Hold it! HOLD IT!」

 

「押されるぞ!」

 

「足場!」

 

「やってる!」

 

 五人が踏ん張る。黒い霧が盾の表面を削り、白い光が火花のように飛び散った。奎星の腕へ痺れが走る。

 

 重い。

 

 前より重くなったわけではない。最初から、これだけ重かったのだ。回復しなくなったからといって、攻撃力まで落ちたわけではない。妖魔は弱くなっていない。ただ、治らなくなっただけだった。

 

「くっそ……!」

 

 奎星が歯を食いしばる。

 

「話が違うじゃん!」

 

「誰が弱くなると言った!」

 

 清弦が後ろから怒鳴る。

 

「言ってねえけど!」

 

「なら文句を言うな!」

 

「雰囲気的に弱くなると思うだろ!」

 

「知らん!」

 

 防壁が大きく撓む。ジェームズが叫んだ。

 

「KEISEI!」

 

「何!」

 

「LESS TALKING!」

 

「絶対喋るなって言っただろ今!」

 

「分かるのか!」

 

 高瀬が驚く。

 

「雰囲気で!」

 

 次の瞬間、黒い吐息が途切れた。

 

「散れ!」

 

 奎星が叫ぶ。全員が横へ飛び退いた直後、巨大妖魔が突っ込んできた。地面が揺れ、岩壁が砕ける。さっきまで立っていた場所へ、巨大な頭部が突き刺さった。

 

「Jesus fucking Christ!」

 

 ジェームズが転がりながら叫ぶ。

 

「今のは訳さなくていい!」

 

 高瀬が叫んだ。

 

「俺も何となく分かった!」

 

 奎星が立ち上がる。もう笑っている者はいなかった。さっきまでの余裕は、少しずつ削り取られていた。

 

            *

 

「レダクト!」

 

 奎星の魔法が妖魔の肩を砕く。

 

「デパルソ!」

 

 秋月の衝撃が同じ場所へ重なった。

 

「Now!」

 

 ジェームズが叫び、杖を振る。

 

「DEPULSO!」

 

 三発の攻撃が同じ場所へ集中し、ようやく岩のような肉が大きく抉れた。

 

「いける!」

 

 秋月が叫ぶ。

 

「そこだ!」

 

 しかし、巨大妖魔は傷ついた肩ごとジェームズへぶつかってきた。

 

「James!」

 

「Oh, shit――!」

 

 ジェームズは咄嗟に盾を出した。

 

「Protego!」

 

 間に合った。だが、真正面から巨体そのものを受けた瞬間、盾がばきんと砕けた。ジェームズの身体が宙へ浮く。

 

「ジェームズ!」

 

 奎星が走り、着地点へ斜めの防壁を出した。ジェームズの身体は盾へぶつかって角度を変え、そのまま地面を転がった。

 

「ぐっ……!」

 

「大丈夫!?」

 

 奎星が駆け寄る。

 

 ジェームズは右肩を押さえながら起き上がった。

 

「I’m good!」

 

「グッド!?」

 

 肩は明らかに下がっている。

 

「絶対グッドじゃねえだろ!」

 

 打撲か、脱臼しかけているのか。エドワードがすぐに走ってきた。

 

「James! Sit down!」

 

「No.」

 

「Sit the hell down!」

 

「No!」

 

「何言ってんの!?」

 

「座れ、嫌だ、の喧嘩!」

 

 高瀬が叫ぶ。

 

「分かりやすい!」

 

 ジェームズは杖を左手へ持ち替えた。

 

「Still got one arm.」

 

 エドワードが何かを怒鳴る。奎星には分からなかったが、ジェームズが前へ戻ろうとしていることだけは伝わった。

 

「待て!」

 

 奎星が胸を押す。

 

「何だよ!」

 

 ジェームズも奎星の言葉は分からない。奎星は肩を指した。

 

「怪我!」

 

 ジェームズは首を振る。

 

「No problem.」

 

「プロブレムだよ!」

 

 そのとき、黒い影が二人の上を覆った。

 

「奎星!」

 

 清弦の声に振り返る。巨大妖魔の尾が迫っていた。

 

「っ!」

 

 ジェームズが奎星の襟を掴み、二人で倒れ込む。頭上を巨大な尾が通過した。

 

「うおっ!」

 

「MOVE!」

 

「それは分かる!」

 

 二人は転がったまま顔を見合わせた。ジェームズが笑う。

 

「Told you.」

 

「何!」

 

「多分『言っただろ』!」

 

「ムカつく!」

 

 奎星も笑いかけた。しかし、その笑みはすぐに消えた。

 

「トーマス!」

 

 前方で、トーマスの拘束がまとめて引きちぎられていた。

 

「Back! BACK!」

 

 トーマスが下がろうとする。だが、間に合わない。巨大妖魔の後脚が跳ね上がった。

 

「プロテゴ!」

 

 甚八が盾を滑り込ませる。蹴りが盾へ直撃し、甚八の身体がトーマスへぶつかった。二人はまとめて斜面を転がる。

 

「甚八! トーマス!」

 

「Edward!」

 

 ウィリアムが叫び、エドワードが走る。

 

 前衛が一人減った。

 

「源兵衛!」

 

「おう!」

 

「前!」

 

「任せろ!」

 

 源兵衛が広い盾を張り、ウィリアムも隣へ入る。

 

「Together!」

 

「何言ってんのか知らんが、合わせりゃいいんだろ!」

 

 二つの防壁が重なった。巨大妖魔が突っ込んでくる。

 

「うおおおおおっ!」

 

「HOLD!」

 

 止める。一秒、二秒、三秒。源兵衛の顔が歪んだ。

 

「……重っ!」

 

「だから言ったろ!」

 

 奎星が横から盾を足す。

 

「お前ら最初こんなの受けてたのか!」

 

「そうだよ!」

 

「先に言え!」

 

「見てただろ!」

 

 妖魔が前脚を振り上げる。

 

「下!」

 

 奎星が叫ぶ。全員が伏せ、爪が頭上を通り過ぎた。

 

「宗次!」

 

「見えてる!」

 

 二本の杖が同時に上がる。

 

「ステューピファイ!」

 

「ステューピファイ!」

 

 顔面へ二発。ミラーも続けて撃つ。

 

「Stupefy!」

 

 妖魔が顔を振り、僅かに動きを鈍らせた。

 

「秋月!」

 

「おう!」

 

 秋月が杖を振り抜く。

 

「デパルソ!!」

 

 衝撃で頭部が横へ逸れる。

 

「効いてる!」

 

「でも足りねえ!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 その通りだった。攻撃は通っている。一発ごとに傷は増え、皮膚は砕け、脚も少しずつ削られている。それでも決定打にはならない。傷を十作っても、巨大妖魔はまだ動く。二十作っても、三十作っても、こちらの魔力だけが減っていく。

 

「……どうすんだよ」

 

 奎星が息を切らす。

 

 初めて、勝ち筋が見えなかった。

 

            *

 

 清弦は戦いながら、ずっと別のものを見ていた。巨大妖魔ではない。地面、谷、霊脈。杭が切れたあと、本来の場所へ戻り始めた土地の流れ。そして、奎星たちが作り続けている傷。

 

 その呼吸が、ふいに変わった。

 

 奎星が気づく。

 

「清弦?」

 

「奎星」

 

「何!」

 

「時間を稼げ」

 

「何!?」

 

 清弦は新しい神代榊を握り直した。

 

「時間だ!」

 

「どんくらいだよ!?」

 

「わからん!」

 

「は!?」

 

「これは実戦で使ったことはない!」

 

「おい!!」

 

 いつもの言い合いではなかった。清弦の顔色は変わり、声には冗談の余地がない。

 

「何すんの!?」

 

「術を使う」

 

「今も使ってるだろ!」

 

「違う」

 

 清弦は巨大妖魔を見た。

 

「一撃で終わらせる」

 

 奎星の顔が止まった。

 

「……できんの?」

 

「分からん」

 

「また!?」

 

「理屈の上ではできる!」

 

「それ一番怖いやつ!」

 

「うるさい!」

 

 清弦が地面へ片膝をつき、左手を土へ置いた。右手には新しい神代榊。目を閉じる。

 

「何する気だよ!」

 

「土地の流れを束ねる」

 

「霊脈?」

 

「ああ」

 

「また妖魔に喰われない?」

 

「もう道は切った」

 

 清弦の声は早かった。

 

「今、流れは戻ろうとしている」

 

 杭によって無理やり捻じ曲げられていた霊脈は、妖魔へ集められていた道を失い、本来の場所へ帰ろうとしている。清弦は、その流れを一瞬だけ借りるつもりだった。

 

「それを借りる」

 

「借りるって」

 

「ほんの一瞬」

 

 清弦が目を開く。

 

「奴へ返す」

 

 奎星は、その言葉を聞いた。奪うのではない。支配するのでもない。借りて、返す。清弦がずっと言ってきたことだった。

 

「威力は?」

 

 奎星が訊く。

 

「分からん!」

 

「範囲!」

 

「分からん!」

 

「時間!」

 

「だから分からん!」

 

「何なら分かんだよ!」

 

「成功すれば奴を消せる!」

 

「そこだけ!?」

 

「ああ!」

 

 奎星は数秒、清弦を見た。それから、にっと笑った。

 

「十分」

 

「何?」

 

「それ分かってんなら十分!」

 

 清弦の目が僅かに動く。

 

「高瀬さん!」

 

 奎星が叫んだ。

 

「何だ!」

 

「清弦がデカいの撃つ!」

 

「どのくらい!?」

 

「分かんない!」

 

「何だそれ!」

 

「時間稼ぐ!」

 

 高瀬は一瞬、清弦を見た。地面へ膝をつき、すでに目を閉じている。杖の先には、青白い光が灯り始めていた。

 

「……分かった!」

 

 高瀬が外国人たちへ叫ぶ。

 

「EVERYONE! BUY HIM TIME!」

 

 ジェームズが振り返る。

 

「How long!?」

 

 高瀬が清弦を見る。

 

「どのくらいだ!」

 

「分からん!」

 

 高瀬の顔が引きつる。

 

 ジェームズがもう一度訊いた。

 

「How long!?」

 

 高瀬は一秒黙り、それから叫んだ。

 

「HE DOESN’T KNOW!」

 

「WHAT!?」

 

「俺と同じ反応してる!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 ジェームズは清弦を見、次に妖魔を見た。それから、なぜか笑った。

 

「All right!」

 

 杖を上げる。

 

「THEN WE GIVE HIM ALL THE DAMN TIME HE NEEDS!」

 

「何て!?」

 

「『必要なだけ全部稼ぐ』!」

 

「よし!」

 

 奎星が神代榊を構えた。

 

「それで行く!」

 

            *

 

 そこからの戦いは、倒すための戦いではなくなった。清弦へ近づけさせない。ただ、それだけが目的になった。

 

「ジェームズ!」

 

 奎星が妖魔を指し、次に自分たちを指す。そして清弦から離れる方向へ手を振った。

 

 ジェームズは即座に理解した。

 

「HEY! UGLY!」

 

 杖を振る。

 

「DEPULSO!」

 

 妖魔の頭部へ強烈な衝撃が入った。

 

「OVER HERE!」

 

 甚八も怪我を押して戻っていた。

 

「こっちだ化け物!」

 

「甚八、休めって!」

 

「今休んだらあいつんとこ行くだろうが!」

 

「でも!」

 

「後で寝る!」

 

 ジェームズと甚八が左右へ分かれる。妖魔の白い目が動き、清弦から視線が逸れた。

 

「よし!」

 

 トーマスも立ち上がっていた。片脚を引きずっている。

 

「Thomas!」

 

 エドワードが止める。

 

「I can still cast!」

 

「No!」

 

「I don’t need my damn leg to use a wand!」

 

「何て!?」

 

「『杖振るのに脚はいらない』!」

 

「いや要るだろ!」

 

 トーマスは座り込んだまま杖を振った。

 

「INCARCERUS!」

 

 縄が妖魔の後脚へ巻きつく。

 

「See!?」

 

「何か得意げ!」

 

「奎星!」

 

 宗次郎が叫ぶ。小型妖魔がまだ残っている。

 

「そっち頼む!」

 

「分かった!」

 

 宗次郎とミラーが並んだ。

 

「ステューピファイ!」

 

「Stupefy!」

 

 一体、二体、三体。清弦へ近づく小型だけを止め、追いはしない。他の個体は放っておく。

 

 弥平の札が黒く染まった。

 

「右から二!」

 

「ミラー!」

 

「Got it!」

 

「それ分かる!」

 

 赤い光が走り、小型妖魔が止まる。

 

 その間、清弦は動かなかった。地面へ置いた左手の周囲に、青白い線が広がり始めている。一つ、二つ、三つ。細い光が地面の中を走り、谷のあちこちへ伸びていく。

 

 杭があった場所。切れた金属線。沢。岩。木の根。それぞれから僅かな光が戻り、清弦の周囲へ集まっていた。

 

「……集まってる」

 

 奎星が呟く。

 

 今まで妖魔へ引きずられていた流れとは違う。無理やり奪われているのではなく、細い光が自分から道を選ぶように清弦へ寄っている。

 

 清弦の唇が動いた。

 

「天にあるものは天へ」

 

 低い声だった。

 

「地にあるものは地へ」

 

 神代榊の先端が青白く光る。

 

「流るるものは流れ」

 

 地面の光の線が増える。

 

「留まるものは留まれ」

 

 奎星の目が開いた。

 

 長い。呪文一つで発動する現代魔法とは違う。一節、また一節と、何かを確かめるように言葉が重ねられていく。

 

「これ……」

 

 清弦の古い術。今まで見てきたものより、明らかに大きい。

 

「マジで時間かかるやつじゃん……!」

 

 その瞬間、甚八の声が飛んだ。

 

「奎星!!」

 

 巨大妖魔が来る。

 

 奎星は振り返った。妖魔の前脚が振り下ろされる。

 

「プロテゴ!」

 

 防壁が生まれ、爪が激突した。ばきん、と一撃で盾が割れる。奎星の身体が地面を転がった。

 

「Keisei!」

 

 ジェームズが前へ入る。

 

「PROTEGO!」

 

 二枚目の盾が爪を受け止めた。

 

「Get up!」

 

「言われなくても!」

 

 奎星が起き上がる。清弦は見ない。見るな。今は。

 

「続けろ清弦!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 清弦の眉が僅かに動いた。それでも詠唱を止めない。

 

「山に満つるもの」

 

 一節。

 

「谷に巡るもの」

 

 もう一節。

 

「奪われし道を離れ」

 

 杖の光が強くなる。

 

「帰るべきところへ帰れ」

 

 巨大妖魔が咆哮した。まるで、自分にとって危険なものが生まれつつあることを理解したようだった。濁った白い目が清弦へ向く。

 

「駄目!」

 

 奎星が妖魔の前へ飛び出した。

 

「お前はこっち!」

 

「デパルソ!」

 

 全力に近い衝撃が頭部へ入る。巨体の顔が僅かに横を向いた。

 

「COME ON!」

 

 ジェームズも横から撃つ。

 

「LOOK AT US!」

 

 甚八が地面を叩いた。

 

「こっち見ろ!」

 

 三人の攻撃に、妖魔の視線が戻る。

 

「よし!」

 

 しかし、次の瞬間、尾が来た。

 

「下がれ!」

 

 間に合わない。

 

「源兵衛!」

 

「プロテゴ!!」

 

 広い盾が展開され、尾が直撃した。白い防壁が粉々に砕け、源兵衛の身体が吹き飛ぶ。

 

「源兵衛!」

 

 岩へ背中から叩きつけられ、そのまま動かなくなった。

 

「Edward!」

 

 高瀬が叫ぶ。エドワードが走る。

 

 奎星も行こうとした。

 

「前!」

 

 甚八の声が飛ぶ。

 

 妖魔がいる。

 

 奎星は足を止めた。エドワードがいる。任せろ。役割がある。今、自分が行く場所ではない。

 

「……頼む!」

 

 奎星は前を向いた。

 

            *

 

 時間が進むほど、一人ずつ立っている者が減っていった。

 

「William!」

 

 斜面が崩れ、ウィリアムが足場を支える。

 

「Stay up! STAY――!」

 

 巨大妖魔の突進が土壁と石壁をまとめて砕いた。

 

「っ――!」

 

 ウィリアムが土煙の中へ消える。

 

「ウィリアム!」

 

 返事がない。

 

「Edward!」

 

「I SEE HIM!」

 

 エドワードが走る。

 

 次に、トーマスの縄が切れた。

 

「Hold still!」

 

 一本、二本、三本。妖魔が力任せに脚を引く。トーマスの身体ごと引きずられた。

 

「Shit――!」

 

「離せ!」

 

 秋月が縄を切る。

 

「ディフィンド!」

 

 直後、妖魔の肩が秋月へぶつかった。秋月は地面を転がる。

 

「秋月!」

 

「まだ……!」

 

 起き上がろうとするが、脚に力が入らない。

 

「くそ……動けよ!」

 

 拳で地面を叩く。それでも脚は動かなかった。

 

「秋月、下がれ!」

 

「動けねえんだよ!」

 

「エドワード!」

 

「I KNOW!」

 

「忙しすぎる!」

 

 高瀬が叫ぶ。

 

 エドワードはもう一人では足りなかった。あちらで誰かが倒れ、こちらで誰かが助けを求める。

 

「弥平!」

 

 小型妖魔が横から飛び出した。弥平が札を投げる。

 

「来る!」

 

 宗次郎が杖を向けた。

 

「ステューピファイ!」

 

 一体。もう一体が反対から迫る。

 

「宗次!」

 

「分かってる!」

 

 杖を返す。しかし、僅かに遅れた。小型妖魔が宗次郎の肩へぶつかり、二本の短い杖のうち一本が飛んだ。

 

「宗次!」

 

 ミラーが即座に撃つ。

 

「Stupefy!」

 

 小型妖魔が止まる。宗次郎は肩を押さえて膝をついた。

 

「大丈夫!?」

 

「片方ある!」

 

 残った杖を上げる。

 

「まだ撃てる!」

 

「無理すんな!」

 

「清弦がまだやってんだろ!」

 

 奎星の口が止まった。

 

 清弦を見る。

 

 まだ詠唱している。

 

「東に昇るもの」

 

 声は少し掠れていた。

 

「西へ沈むもの」

 

 額から汗が落ちる。

 

「巡りて絶えず」

 

 青白い光は、もう清弦一人の周囲に収まっていない。地面から空気へ、谷全体へ、巨大な円のように広がっている。

 

「その身に留めず」

 

 清弦の右腕が震えていた。術そのものが、清弦の身体へも大きな負担を掛けている。

 

「おい……」

 

 術はまだ完成していない。

 

「どんだけ長えんだよ……!」

 

 巨大妖魔も待ってはくれない。

 

「Keisei!」

 

 ジェームズが叫ぶ。

 

 黒い吐息が来た。

 

「守れ!!」

 

 残っている者が集まる。奎星、ジェームズ、甚八、ミラー、高瀬。

 

「PROTEGO!」

 

「プロテゴ!」

 

「プロテゴ!」

 

 三枚の防壁が立ち上がる。黒い奔流が激突し、盾が軋んだ。最初にミラーの防壁が割れる。

 

「Miller!」

 

「I’m fine!」

 

 ミラーが後ろへ吹き飛ばされる。

 

 次に甚八の盾へ亀裂が走った。

 

「まだだ!」

 

 奎星が支える。

 

「甚八!」

 

「前見ろ!」

 

 ばきんっ、と盾が砕けた。黒い光の端が甚八の胸へ当たり、甚八が倒れる。

 

「甚八!」

 

 動かない。呼吸はある。だが、もう戦えない。

 

「くそ……!」

 

 ジェームズと奎星が二枚の盾を支える。

 

「HOLD!」

 

「分かってる!」

 

 黒い息が続く。腕が痺れ、膝が沈む。

 

「ジェームズ!」

 

「DON’T YOU DARE DROP IT!」

 

「何言ってる!?」

 

「落とすなって!」

 

 高瀬が叫ぶ。

 

「俺も落としたくねえよ!」

 

 その高瀬の横へ、小型妖魔が迫った。

 

「高瀬さん!」

 

 ミラーが撃とうとするが、遅い。高瀬は身を捻って一体目を避けた。しかし、二体目が背中へぶつかる。

 

「っ!」

 

 高瀬が地面を転がった。

 

「高瀬さん!」

 

「構うな!」

 

 高瀬が叫ぶ。

 

「俺は戦力じゃねえ!」

 

「でも!」

 

「前見ろ!!」

 

 奎星の顔が歪む。

 

 みんなが、次々に倒れていく。

 

「清弦!」

 

 早くしろ、と叫びそうになった。だが、清弦の顔を見た。歯を食いしばり、汗を流し、震える腕で杖を握っている。止まっているわけではない。清弦も戦っている。誰よりも。

 

 奎星は前を向いた。

 

「やるぞジェームズ!」

 

 意味は伝わらない。それでもジェームズは笑った。

 

「HELL YEAH!」

 

「多分イエス!」

 

 二人で盾を張る。

 

            *

 

 清弦の耳には、すべてが聞こえていた。源兵衛が飛ばされた音、ウィリアムの叫び、秋月が倒れた声、宗次郎、甚八、高瀬。誰かが呼ぶ声と、痛みを堪える息。

 

 それでも目を開けない。術を解かない。左手を地面から離さない。

 

 何度も身体が前へ動こうとした。助けに行きたい。目を開けたい。今すぐ。

 

「……清弦!」

 

 奎星の声が聞こえた。

 

 清弦の瞼が開きかける。

 

「見るな!!」

 

 奎星の怒声が飛んだ。

 

「っ……!」

 

「構うんじゃねえ!!」

 

 清弦の歯が噛み合う。

 

「続けろ!!」

 

「だが!」

 

「みんなそれに賭けてんだよ!!」

 

 奎星の声は近かった。だが、清弦は顔を見なかった。

 

「俺らが何のためにここにいんだと思ってんだ!!」

 

 衝撃音が響き、誰かが倒れる。

 

「お前はお前の仕事しろ!!」

 

 その言葉が、清弦の胸を撃った。

 

 昨日、学んだこと。一人で全部をやらない。できないことは誰かへ任せる。怪我をした者を治す者がいる。前で止める者がいる。敵を拘束する者がいる。足場を支える者がいる。流れを見る者がいる。

 

 そして今の自分の仕事は、助けに走ることではない。

 

 清弦は目を閉じ直した。

 

 鈴の顔が浮かぶ。

 

 戻る。勝って、帰る。それをするために。

 

「我がものとせず」

 

 詠唱を続ける。

 

「汝がものともせず」

 

 青白い光が増す。

 

「ただ在るべき流れを借り」

 

 神代榊が震える。鬼火鳥の尾羽が、杖の奥で明るく灯った。

 

「一時」

 

 土地が応える。

 

「我が手へ集え」

 

            *

 

「ミラー!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

「Stupefy!」

 

 小型妖魔が止まる。ミラーが次へ向いた瞬間、巨大妖魔の爪が迫った。

 

「ミラー!」

 

「――!」

 

 間に合わない。爪の先がミラーの脇腹を掠め、身体が回転して地面へ落ちた。

 

「Miller!」

 

 ジェームズが叫ぶ。

 

 ミラーは起き上がらない。

 

「くそ!」

 

 奎星が小型妖魔へ杖を向ける。

 

「ステューピファイ!」

 

 一体。次。

 

「ステューピファイ!」

 

 二体。さらに次。

 

「ステューピファイ!」

 

 三体。

 

「どんだけ出すんだよ!」

 

 大型の身体から小型を生む余裕も、もう減っている。最初より数は少ない。それでも、こちらも同じように減っていた。

 

 今、立っているのは奎星、ジェームズ、弥平、エドワード、そして清弦。エドワードは戦える状態ではなく、倒れた者たちの間を走り続けている。弥平も攻撃魔法は得意ではなく、札を投げて小型の位置を知らせるだけだった。

 

 実質、前に立っているのは二人だけだった。

 

「……二人に戻っちまったな」

 

 奎星が息を吐く。

 

 ジェームズが何か言った。

 

「What?」

 

「分かんねえ」

 

 奎星は笑った。

 

「でもまあ」

 

 杖を上げる。

 

「兄弟なんだろ?」

 

 ジェームズは、その一語だけ聞き取ったらしい。

 

「Brother?」

 

「そう!」

 

 奎星は妖魔を指した。

 

「モンスター!」

 

 次に二人を指す。

 

「ブラザー!」

 

 最後に拳を前へ突き出した。

 

「ぶっ飛ばす!」

 

 ジェームズは最後だけ分からなかった。一秒考え、それから笑う。

 

「Fuck it!」

 

「LET’S GO!」

 

「それは分かる!」

 

 二人が同時に走った。

 

「デパルソ!」

 

「DEPULSO!」

 

 左右から衝撃が入り、妖魔の顔が上がる。

 

「こっち!」

 

「OVER HERE!」

 

 爪を避け、尾を伏せてかわす。

 

「伏せろ!」

 

「DOWN!」

 

 二人が同時に地面へ倒れ込む。頭上を尾が通過した。

 

「ジェームズ!」

 

 奎星が立ち上がりながら杖を振る。

 

「プロテゴ!」

 

 ジェームズの前へ防壁が生まれ、爪が激突する。

 

「Nice!」

 

「ナイスは分かる!」

 

「PROTEGO!」

 

 今度はジェームズが奎星の横へ盾を出した。黒い光が弾ける。

 

「おお!」

 

「KEEP MOVING!」

 

「ムービング!」

 

 二人は止まらなかった。前へ出て、横へ逃げ、下がり、撃ち、避け、また盾を張る。

 

「デパルソ!」

 

「Stupefy!」

 

「ステューピファイ!」

 

「DEPULSO!」

 

 攻撃は通じない。足りない。それでも時間は進んでいた。

 

 一秒。また一秒。

 

 奎星の左手首で、銀色の腕時計が時を刻む。

 

 こち。こち。こち。

 

「あとどんくらいだよ清弦!!」

 

「分からん!!」

 

「まだ分かんねえの!?」

 

「黙って稼げ!!」

 

「やってるよ!!」

 

 清弦の声が返った。生きている。続いている。それでいい。

 

「ジェームズ!」

 

「YEAH!」

 

「もうちょい!」

 

「WHAT!?」

 

「知らん!」

 

「WHAT!?」

 

「分かんねえ!」

 

 ジェームズが一瞬顔をしかめ、それから叫んだ。

 

「OKAY!」

 

「何で分かった!?」

 

 巨大妖魔が身体を沈めた。

 

「来る!」

 

 突進。奎星が二本指を開く。

 

「散れ!」

 

 二人が左右へ飛ぶ。だが、巨大妖魔は奎星の方へ曲がった。

 

「え、俺!?」

 

「KEISEI!」

 

「分かってる!」

 

 走る。背後から地面が砕ける音が追ってくる。

 

「うわああああああ!」

 

 奎星は横へ飛んだ。爪が肩を掠め、制服が裂ける。血が滲んだが、傷は浅い。

 

「平気!」

 

 言った直後、尾が来た。

 

「奎星!」

 

 弥平の声。

 

 奎星が振り返る。間に合わない。

 

「プロテ――」

 

 どん、と身体の横からものすごい衝撃が加わった。視界が回り、空と地面と岩がめちゃくちゃに入れ替わる。背中から落ち、肺から空気がすべて押し出された。

 

 神代榊が手を離れそうになる。

 

 それでも握った。

 

 それだけは。

 

「Keisei!!」

 

 ジェームズの声が遠くから聞こえる。

 

 起きろ。身体を動かせ。

 

 右脚。感覚はある。左もある。腕は痛いが、折れてはいない。

 

「……立て」

 

 自分へ言い聞かせる。

 

 御影の声が浮かんだ。

 

 ――立て。

 

「分かってるよ……」

 

 手をついた、その瞬間だった。

 

 ジェームズが飛んだ。

 

 妖魔の爪を盾で受けたが、盾は割れ、大柄な身体が地面へ叩きつけられる。

 

「ジェームズ!」

 

 動かない。

 

「……嘘だろ」

 

 前には、もう誰もいなかった。弥平は小型妖魔を避けながら札を投げ、エドワードは負傷者の側にいる。他は倒れている。ほとんど。

 

 巨大妖魔が、ゆっくり顔を上げた。

 

 濁った白い目が、清弦を捉える。

 

            *

 

 清弦はまだ詠唱していた。

 

「名なき山」

 

 声は掠れている。

 

「名なき水」

 

 右手の神代榊が激しく震える。

 

「名なき火」

 

 杖先へ光が集まる。

 

「名なき風」

 

 空気が変わる。

 

「此処に生き」

 

 土地。

 

「此処に死し」

 

 空。

 

「此処へ還るもの」

 

 谷。

 

 すべてが一つへ収束し始めていた。

 

 あとどれくらいか、清弦自身にも分からない。あと何節なのか、自分がいつまで耐えられるのかも分からない。それでも、途中で止めればすべてが無駄になる。

 

 巨大妖魔の足音が聞こえた。

 

 どん。

 

 一歩。

 

 清弦の喉が動く。

 

 どん。

 

 二歩。

 

 近い。

 

 助けに行けない。行ってはいけない。

 

 奎星の声が蘇る。

 

 ――お前はお前の仕事しろ。

 

「……分かっている」

 

 清弦は小さく呟いた。

 

「我、道を命ぜず」

 

 妖魔が近づく。

 

「我、流れを縛らず」

 

 光が集まる。

 

「ただ」

 

 清弦の目が開いた。

 

「この地に在るものへ」

 

 巨大妖魔が、真っ直ぐこちらを見ている。誰も、その間にはいない。

 

 終わった。

 

 清弦はそう思った。

 

 術はあと少しだった。だが、間に合わない。

 

 妖魔が前脚を上げる。巨大な影が清弦を覆った。

 

「……鈴」

 

 口から、名前が落ちた。

 

 次の瞬間、青白い光が視界を横切った。

 

「――!」

 

 清弦の目が開く。

 

 一羽、二羽、三羽。

 

「何……」

 

 鬼火鳥が、青白い尾羽を引きながら妖魔の顔の前を横切った。四羽、五羽、十羽。さらに木々の上から、谷の向こうから、何十という鬼火鳥が飛び込んでくる。

 

 きぃぃぃぃぃ――!

 

 鳴き声と翼の音が重なり、青白い光が妖魔の目の前を縦横無尽に飛び回った。妖魔が頭を振り、前脚を振り回す。鬼火鳥たちは散るが、すぐにまた集まり、白い目の前を塞いだ。

 

「……お前ら」

 

 清弦が息を呑む。

 

 誰も呼んでいない。命じてもいない。従わせてもいない。それでも、彼らは来た。

 

 妖魔が咆哮し、鬼火鳥を振り払う。一羽が大きく弾かれた。

 

「っ!」

 

 清弦の身体が動きかける。

 

 だが、止めた。

 

 詠唱を続けろ。

 

「奎星……!」

 

 どこだ。

 

 返事はない。

 

            *

 

「……クソ」

 

 地面の岩陰で、奎星がゆっくり顔を上げた。視界は滲み、耳鳴りがして、口の中には血の味が広がっている。

 

「……めちゃくちゃ……痛え……」

 

 身体を起こし、右膝をつく。立てない。もう一度、左足へ力を込める。

 

「……っ」

 

 立った。

 

 身体は揺れている。それでも、神代榊は握っていた。

 

 目の前を鬼火鳥が飛ぶ。

 

「……来たんだ」

 

 奎星は少しだけ笑った。

 

「お前ら、マジで」

 

 青白い尾羽が目の前を横切る。

 

「友達じゃん」

 

 巨大妖魔が鬼火鳥を振り払い、再び清弦へ向かおうとする。

 

「やめろ…!」

 

 奎星は杖を上げた。

 

 腕が重い。魔力はほとんど残っていない。

 

 何を撃つ。

 

 デパルソは無理だ。動かない。ステューピファイでは足りない。拘束はすぐに切られる。プロテゴは守るだけ。

 

 なら、止める。

 

 ほんの少しでいい。一秒でもいい。

 

 御影。真壁。学校。何度も見た、相手の動きを一瞬だけ鈍らせる魔法。

 

「……あれ」

 

 奎星の目が細くなる。

 

 インペディメンタ。

 

 人間なら足を止める。巨大妖魔なら、どこまで効くかは分からない。

 

「知らねえ」

 

 清弦みたいな言葉が出た。

 

 奎星は笑う。

 

「でも」

 

 左手首の銀色の腕時計へ目を落とす。秒針が進む。

 

 こち。

 

「一秒」

 

 奎星は神代榊を両手で握った。

 

「一秒でいい」

 

 胸の奥に残った魔力を、すべて引き出す。今までなら御影に怒られる。出しすぎだ、必要な分だけ使え、と。

 

「……必要なんだよ」

 

 奎星が呟く。

 

「今は」

 

 巨大妖魔が鬼火鳥を振り払った。白い目が清弦を捉え、前脚が上がる。

 

「清弦!!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 清弦の目が奎星へ向いた。

 

「最後までやれ!!」

 

「奎星!」

 

「こっちは俺が止める!!」

 

 奎星は神代榊を妖魔へ向けた。全身から魔力が集まる。いつものように抑えない。一滴でも、一杯でもない。全部。

 

「インペディメンタァァァァァァァァァッ!!」

 

 青白い光が谷を埋めた。轟音とともに妖魔へ直撃する。

 

 一瞬、何も起きなかった。

 

「……っ」

 

 奎星の顔が歪む。

 

「止まれ……!」

 

 杖を握る。

 

「止まれよ……!」

 

 妖魔の前脚が、僅かに鈍った。

 

「おおおおおおおおおおッ!!」

 

 奎星が叫ぶ。青白い光がさらに太くなり、地面が割れ、服が風に煽られる。神代榊が悲鳴のような音を立てた。

 

「止まれぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」

 

 巨大妖魔の身体が止まった。前脚を上げたまま、尾も首も完全に動かない。

 

「……っ!」

 

 清弦の目が見開かれる。

 

 一秒。

 

 奎星の腕時計が時を刻む。

 

 こち。

 

「清弦!!」

 

 二秒。

 

「今!!」

 

 清弦の詠唱が最後へ至る。

 

「借りたるものを」

 

 新しい神代榊を掲げる。青白い光が空へ伸びた。

 

「借りたるままに」

 

 谷を巡る光が、地面、水、木、風、鬼火鳥、神代榊へ集まっていく。

 

「還す」

 

 三秒。

 

 妖魔の身体が動き始めた。インペディメンタの光が砕ける。

 

「っ――」

 

 奎星の杖が下がり、身体もその場へ倒れた。

 

 だが、間に合った。

 

 清弦が杖を振り下ろす。

 

「――還れ」

 

 世界が白くなった。

 

            *

 

 音は、少し遅れてやって来た。

 

 最初に光があり、次に、谷の空気そのものが押し潰されたような轟音が響いた。

 

 どおおおおおおおおおおおおおおおおん――!!

 

 清弦の杖から放たれたものは、光線でも炎でも衝撃でもなかった。谷を巡っていた青白い光そのものが一斉に立ち上がり、巨大妖魔の身体を内側から貫いた。

 

 脚、胴、背、頭。幾百もの細い光が黒褐色の身体を走り、無数の亀裂を刻んでいく。そのすべてから青白い光が漏れた。

 

「――――――――ッ!」

 

 妖魔が叫ぶ。声にならない声が山を震わせ、岩壁を軋ませる。それでも光は止まらなかった。

 

「返せ……!」

 

 清弦の腕が震える。

 

「喰ったものを……!」

 

 妖魔の胸で赤黒い光が渦巻き、青白い光に押し返されていく。

 

「全部……!」

 

 清弦の目が開いた。

 

「この土地へ返せ!!」

 

 巨大妖魔の胸が砕けた。赤黒い光が空へ噴き出し、その瞬間、青白い光がすべてを飲み込んだ。

 

 黒い身体が崩れる。

 

 大きな塊ではない。砂、灰、さらに細かな塵へと、光に触れた場所からほどけていく。前脚、後脚、胴体、背、最後に頭。濁った白い目が一瞬だけ清弦を見た。

 

 そして、消えた。

 

 風が吹いた。黒い塵が谷の空へ舞い上がる。

 

 何も残らない。

 

 巨大な影も、赤黒い光も、あれほど山を揺らしていた咆哮も、もうどこにもなかった。

 

 清弦は杖を下ろせなかった。右手が震え、呼吸がうまくできない。

 

「……終わった……?」

 

 自分で呟いた。

 

 返事はない。

 

 しばらく、本当に何もなかった。

 

 やがて、地面から甚八の声がした。

 

「……終わったぞ」

 

 仰向けになったまま、片手だけを上げる。

 

「たぶん……」

 

 宗次郎も起き上がれないまま笑った。

 

「もう……いねえ」

 

 ミラーが咳き込みながら顔を上げる。

 

「Is it……dead?」

 

「死んだ……と思う」

 

 高瀬が地面へ座り込んだまま答えた。

 

「Dead?」

 

「イエス……」

 

 奎星の声が聞こえた。

 

 清弦が振り返る。

 

「奎星」

 

 少し離れた地面で、奎星が仰向けになっていた。動かない。

 

「奎星!」

 

「うるせえ……」

 

 手が上がる。親指が立った。

 

「生きてる……」

 

 清弦の肩から力が抜けた。

 

「……馬鹿」

 

「お前に……言われたくねえ……」

 

 息も絶え絶えなのに、それでも笑っている。

 

 ジェームズも地面へ片膝をついたまま笑った。

 

「Holy shit……」

 

 甚八が訊く。

 

「何て?」

 

 高瀬も笑う余裕がない。

 

「たぶん……俺らと同じ感想……」

 

 ジェームズが清弦へ目を向け、親指を立てた。

 

「Samurai Two.」

 

 清弦の眉が僅かに動く。

 

「……それは」

 

 奎星が地面から言った。

 

「俺でも……分かる……」

 

 清弦の口元が、ほんの少し上がった。

 

「誰が侍だ」

 

 その瞬間、膝が崩れた。

 

 術が終わった途端、身体から力が消えた。清弦が倒れる。

 

「清弦!」

 

 奎星は動けない。

 

 ジェームズが反射的に手を伸ばした。

 

「Whoa!」

 

 清弦の身体を受け止める。大柄な腕に支えられ、清弦は完全に倒れることなく、ジェームズの肩へ身体を預けた。

 

「…………」

 

 清弦が顔を上げ、ジェームズを見る。

 

「……重い」

 

「What?」

 

「貴様ではない」

 

「それ絶対悪口だろ……」

 

 奎星が笑う。

 

 ジェームズは意味が分からないまま笑った。

 

「You did it.」

 

「何だ」

 

 高瀬が息を整えながら訳す。

 

「『やったな』」

 

 清弦は少しだけ目を伏せた。それから、ジェームズの腕を借りてゆっくり立ち上がる。脚は震えていたが、それでも立った。

 

 新しい神代榊は、手の中に残っている。折れていない。

 

 平坂の言葉が蘇った。

 

 ――帰ったら直してやる。だから持って帰れ。

 

 清弦は杖を掲げた。高く、谷の空へ。

 

 その姿を見て、誰かが笑った。

 

 甚八が親指を立てる。宗次郎も残った片手で応じ、秋月も地面へ座ったまま親指を上げた。

 

「……やったな」

 

 弥平、源兵衛、ウィリアム、トーマス、ミラー、エドワード、高瀬。一人ずつ、親指を立てる。

 

 ジェームズは当然のように、満面の笑みで親指を上げた。

 

「HELL YEAH!」

 

 奎星も地面へ寝たまま、右手を上げる。

 

「……帰ったら」

 

 息を吸う。

 

「飯……」

 

「そこか」

 

 清弦が笑った。

 

「あと……鈴ちゃん……」

 

 清弦の目が変わる。

 

「……ああ」

 

 霊脈は戻った。妖魔は消えた。鈴の呪いも、きっと。

 

「帰るぞ」

 

 清弦が言った。

 

「村へ」

 

 誰かが息を吐いた。

 

 ようやく終わった。戦いが終わった。誰も死んでいない。怪我人ばかりで、立てない者もいる。それでも、帰れる。

 

 清弦は鈴との約束を思い出していた。勝って、戻る。起こす。ようやく、それができる。

 

 奎星が空を見上げる。鬼火鳥たちが谷の上を旋回していた。青白い尾羽が、昼の空へ細い線を描いている。

 

「……ありがとな」

 

 小さく呟く。

 

 鬼火鳥は誰のものでもない。誰にも従わない。ただ、一羽がきぃ、と鳴いた。

 

 返事のように聞こえた。

 

 奎星が笑う。

 

「聞こえた?」

 

「何がだ」

 

「今、返事した」

 

「気のせいだ」

 

「したって」

 

「していない」

 

「絶対した」

 

「寝ていろ」

 

「勝ったのに冷たくね?」

 

「怪我人は黙っていろ」

 

「スズメちゃんみたいなこと言うじゃん」

 

「誰がだ」

 

 清弦が言い返す。

 

 奎星が笑い、ジェームズも意味が分からないまま笑った。高瀬は疲れ切った顔で座り込む。

 

「もう通訳しねえぞ……」

 

「今のはいいよ」

 

「最初からそうしろ……」

 

 谷に、笑い声がほんの少し戻った。

 

 そのときだった。

 

 赤い光が、清弦の背後から走った。

 

「――ステューピファイ」

 

 静かな声。

 

「え」

 

 奎星の笑みが消える。

 

 赤い光が二本、ほとんど同時に清弦とジェームズの背中へ突き刺さった。

 

「っ――」

 

「GH――!」

 

 清弦の身体から力が抜ける。支えていたジェームズも、同時に崩れた。

 

「清弦!!」

 

 奎星が叫ぶ。

 

 清弦の手から新しい神代榊が落ちた。からん、と乾いた音が谷に響く。杖は土の上を一度転がり、止まった。

 

「ジェームズ!」

 

「何だ!?」

 

 甚八が起き上がろうとする。

 

「敵!?」

 

 宗次郎が残った杖を探す。ミラーも、トーマスも、誰もすぐには立てない。

 

 奎星は肘を地面へついた。

 

「誰だ……!」

 

 身体が動かない。

 

「誰だよ……!」

 

 視線だけを、清弦たちの後ろへ向ける。

 

 そこには男が立っていた。

 

 濃い色の着物。西洋式の杖。衣服に汚れはなく、息も乱れていない。まるで最初からずっと、この戦いを遠くから見ていたかのような、静かな顔をしている。

 

「…………」

 

 奎星の瞳が開く。

 

「てめえ……」

 

 神代以蔵。

 

 以蔵は地面へ倒れた清弦を見た。その手から転がった新しい神代榊を見て、次に、ボロボロになった十三人を一人ずつ見回した。

 

 鬼火鳥が空で鳴く。

 

 さっきまで勝利の余韻が残っていた谷から、笑い声も安堵も、帰れるという希望も、一瞬で消えていた。

 

 以蔵は杖を下ろさない。静かに、ほんの少しだけ眉を寄せる。

 

「本当に……」

 

 溜息に近い声だった。

 

「厄介ですね……あなたたちは……」

 

 奎星の指が土を掴む。

 

 以蔵の視線が清弦から奎星へ移った。

 

 谷に、もう歓声はなかった。

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