帰り道は、戦いへ向かった朝とはまるで別のものになっていた。行きには、霊脈を汚す妖魔を一刻も早く見つけなければならないという焦りがあり、誰もが馬を急かして森を駆け抜けた。けれど今は、その馬さえ森の中へ置き去りにしてきたため、十三人は自分の足で歩くしかない。しかも、誰一人としてまともに歩ける状態ではなかった。
「……遠くね?」
奎星が、木の幹へ肩を預けたまま呟いた。
「行きは走ってきただろう」
隣で清弦が答える。彼もまた、杖を支えにしていなければ立っていられない有様だった。
「行きの俺に言ってやりたい……帰りのこと考えろって……」
「私も同意する……」
二人はほとんど互いへ寄りかかるようにして、森の中を進んでいた。谷を出てから十五分も経っていないというのに、すでに何度目か分からない休憩を挟んでいる。木漏れ日は穏やかで、風も涼しかったが、身体の内側には戦いの熱と疲労がまだ残っていた。
奎星は全身が痛かった。巨大妖魔の尾に吹き飛ばされ、残った魔力をインペディメンタへほとんどすべて叩き込み、その直後には神代以蔵を相手に、延々とプロテゴを張り続けた。右腕は上げるだけで痛み、背中は馬に蹴られたように軋んでいる。裂けた制服の肩口からは治療布が覗き、乾いた血が布地に黒くこびりついていた。
清弦に至っては、それよりひどい。巨大な古代魔術を使った反動で魔力も体力もほとんど空になり、さらに以蔵のステューピファイまで受けている。顔色は悪く、歩くたびに足元がわずかに揺れた。立っていること自体が奇跡だった。
「なあ」
「何だ」
「俺ら、何で歩いてんの?」
「馬を森へ置いてきたのは貴様だろう!」
「そうだった……」
後ろから、甚八の呻き声が飛んできた。
「もう会話すんな……頭に響く……」
「甚八、大丈夫?」
「大丈夫じゃねえ……」
「正直!」
「昨日から全員そればっかだな……」
さらに後ろでは、エドワードが患者たちを睨みながら歩いていた。彼自身も泥だらけで、頬には擦り傷がある。それでも治療役をやめる気はないらしく、ふらつく仲間を見つけるたびに手を伸ばし、歩調を落とすよう促していた。
「Slow! Slowly!」
「何て?」
「ゆっくり歩けって」
高瀬も源兵衛に片側を支えられながら答えた。
「今、走れるように見える!?」
「言葉の問題じゃねえ……」
高瀬が呻く。
ジェームズだけは、比較的元気そうに見えた。もっとも、それは見えただけだった。
「Come on! We’re almost there!」
そう叫びながら先頭へ出た三歩後、ジェームズは右肩を押さえて顔をしかめた。
「OW……shit.」
「ほら!」
奎星が指を差す。
「絶対痛いじゃん!」
「何言ってるか分かんねえだろ」
「顔で分かる!」
ジェームズは聞き取れないまま奎星へ中指を立てようとしたが、その腕をエドワードに思いきり叩かれた。
「OW!」
「Don’t move that arm!」
「See!?」
「何か怒られてる!」
「お前も同じだよ!」
高瀬が怒鳴る。
そんな有様で、十三人は戦いへ向かったときの三倍以上の時間をかけ、ようやく馬を繋いだ森へ戻った。
木々の間に、十三頭の馬が見えた。
全員、無事だった。
「おお……!」
奎星の顔が、疲労の中で初めて明るくなる。
「ウミツバメ二号!」
呼ばれた茶色の馬が、こちらへ顔を向けて鼻を鳴らした。
「生きてた!」
「縁起でもないことを言うな」
清弦が自分の黒い馬へ近づく。
「清弦二号も!」
「その名で呼ぶな!」
「元気じゃん!」
「聞いているのか!」
黒い馬――清弦二号は、清弦の顔をしばらく見つめたあと、一度だけ大きく鼻を鳴らした。
清弦が眉を寄せる。
「何だ」
「お前、馬にも馬鹿にされてね?」
「黙れ」
少し離れたところでは、源兵衛が自分の馬を遠巻きに眺めていた。
「……覚えているか」
「何を」
「俺を」
「だから別の馬だって!」
馬が源兵衛へ顔を近づける。
「うわっ!」
源兵衛が後ろへ下がった。
「ほら!」
「ただ匂いを嗅いだだけだろ!」
「仲間から聞いている!」
「馬ネットワーク、まだ言ってんの!?」
戦いが終わっても、そこだけは何も変わっていなかった。
*
馬を見つけたからといって、すぐに帰れるわけではなかった。むしろ、ここからが新たな戦いの始まりだった。
「……乗れねえ」
奎星はウミツバメ二号の横で固まっていた。
「足が上がらねえ」
「貴様、行きは飛び乗っていただろう」
「行きの俺は元気だったの!」
「貸せ」
「お前も乗れねえだろ」
「乗れる」
清弦が鐙へ足を掛ける。だが、身体を持ち上げようとした瞬間、顔が歪み、そのまま動きを止めた。
「っ……!」
「ほら!」
「黙れ……!」
結局、十三人が馬へ乗るまでには、さらにかなりの時間がかかった。比較的動ける者が動けない者を押し上げ、押し上げた者が今度は自分で乗れなくなり、別の者がその背中を押す。ジェームズは左腕だけで奎星の背中を押し、奎星は清弦の尻を押し上げた。
「触るな!」
「じゃあ自分で乗れ!」
「押し方があるだろう!」
「馬に乗るとき、尻以外どこを押すんだよ!」
「背だ!」
「届かねえ!」
「貴様は本当に……!」
「清弦、落ちるぞ」
高瀬が言った。
清弦は黙った。
ようやく全員が馬上へ収まった頃には、戦いとは別の疲労が十三人へ降りかかっていた。
「帰るぞ……」
甚八が呟く。
「おう……」
誰も叫ばなかった。朝の「LET’S GO!」は、いったいどこへ消えたのか。馬たちは騎手たちの状態を理解しているかのように、足音を抑え、ゆっくりと森の道を歩き始めた。
奎星はウミツバメ二号の首へほとんど伏せるようにして乗っていた。手綱を握る力さえ怪しく、何度か意識が落ちかける。
「寝るな」
隣から清弦の声がした。
「お前も目閉じてんじゃん……」
「閉じていない」
「閉じてる……」
「眩しいだけだ」
「森の中だぞ……」
清弦二号の上では、清弦も前へ大きく傾いていた。馬の首へ額がつきそうなほどである。
「清弦」
「何だ」
「落ちんなよ」
「貴様こそ」
「落ちたら起こして」
「自分で起きろ」
「冷た……」
二人はそのまま黙った。馬の蹄が土を踏む音と、木々の葉擦れだけが、長いあいだ森の中に続いた。
しばらくして、奎星が顔を上げた。
「……あれ」
行きに通った沢だった。
朝には、水面へ油膜のような黒い汚れが浮かび、木々の幹には黒い筋が這い、葉の先は茶色く枯れていた。水は濁り、湿った空気には腐ったような臭いが混じっていた。
けれど今、沢の水は透き通っていた。底の小石が見え、水面へ落ちた木漏れ日が細かな光となって揺れている。沢の脇では、朝には萎れていた草がわずかに頭を上げ、風に合わせてかすかに揺れていた。
「清弦」
「ああ」
清弦も気づいていた。
完全に元通りになったわけではない。枯れてしまった葉は枯れたままで、黒く傷んだ木の幹にも痕跡が残っている。崩れた土も、折れた枝も、すぐに元へ戻ることはない。
それでも、水は流れていた。
「……臭くねえ」
奎星が鼻を動かす。
「それが最初の感想か」
「いや、行きはマジで変な匂いしてたじゃん」
「ああ」
遠くで鳥が鳴いた。
二人は同時に顔を上げる。もう一度、別の方向から声が返ってきた。虫の羽音が重なり、葉の擦れる音が森の奥から広がっていく。朝には消えていた音が、一つずつ戻ってきていた。
「戻ってるな」
奎星が言った。
「ああ」
清弦は、黒い筋の残る幹の向こうを見つめた。陽射しを受けた葉が、風の中で静かに揺れている。
「あの土地も」
「うん」
「村も」
「ああ」
奎星は笑った。
「鈴ちゃんも」
清弦が一瞬だけ黙った。
「……ああ」
その返事だけは、少し早かった。
「心配?」
「当然だ」
「お」
「何だ」
「素直」
「落とすぞ」
「馬から!?」
「黙れ」
「元気出てきたじゃん」
清弦は答えなかった。けれど、さっきより少しだけ、手綱を握る手へ力が戻っていた。
*
小萱村が見えたのは、陽がかなり傾き始めた頃だった。木々の切れ間から屋根が覗き、炊事の煙が細く空へ昇っている。その向こうには、村の象徴である巨大な神代榊が、夕方の光を受けて静かに立っていた。
「……帰ってきた」
奎星が呟く。
声にした途端、張りつめていたものが切れたのか、身体の疲れが一気に戻ってきた。
「やっと……」
甚八が後ろで呻く。
「飯……」
秋月が言う。
「寝たい……」
宗次郎が続ける。
「酒……」
源兵衛が呟いた。
「お前だけ違う!」
奎星が反射的に叫ぶ。
「元気じゃねえか!」
「酒の話ならな!」
村の入口で、こちらに気づいた子供がいた。目を丸くしたその子は、次の瞬間、村中へ響き渡る声で叫んだ。
「帰ってきたぁぁぁぁぁぁ!!」
「清弦兄ちゃんたち帰ってきた!!」
「奎星兄ちゃん!」
「みんな!」
家々から人が出てくる。老人たち、女たち、子供たち、そして平坂。誰もが、馬の上へほとんど倒れ込んでいる十三人を見つめた。
「何だ、その有様は!」
「勝った!」
奎星が片手を上げる。たったそれだけの動作で背中が痛み、顔をしかめた。
「いてっ……」
「勝ったのか!?」
「勝った!」
「妖魔は!?」
「消えた!」
「霊脈は!?」
清弦が顔を上げる。
「戻った」
一瞬、村が静まり返った。
次の瞬間、歓声が爆発した。
「うおおおおおおおおお!!」
子供たちが走り、老人たちが両手を上げる。誰かが泣き、誰かが笑い、誰かが隣の人間の肩を叩いた。平坂は腕を組んだまま、いつものようにぶっきらぼうに言った。
「遅いわ」
「こっちは死にかけたんだよ!」
奎星が返す。
「死んどらんならええ」
「軽っ!」
そのときだった。
村の奥にある一軒の家から、人影が飛び出した。
「――清弦!」
清弦の顔が止まった。
鈴だった。白い着物の裾を乱し、長い黒髪もきちんと結う余裕がなかったのか、後ろで簡単にまとめられているだけだった。顔色はまだ少し白い。それでも、彼女は一心に走っていた。
「清弦!」
清弦の目が大きく開く。
「鈴……?」
「清弦、大丈夫!?」
その声を聞いた瞬間、さっきまで一人では馬から降りることもできなかった男が、馬から飛び降りた。
「おい!」
奎星が叫ぶ。
「お前、さっき乗れなかっただろ!」
清弦の足が地面へつく。一度、膝が崩れかけた。それでも彼は踏みとどまり、鈴の方へ走った。
二人の距離がなくなる。
「清弦!」
鈴がもう一度呼ぶ。
清弦は答えなかった。そのまま鈴を抱き締めた。
鈴の目が見開かれる。清弦の両腕が、細い身体を強く抱いていた。いつもの清弦なら、決して人前でこんなことはしない。けれど今は、誰が見ているかなど考えていなかった。ただ、目の前に鈴がいることだけを確かめるように、彼女を抱き締めていた。
「せ、清弦……?」
鈴の手が、恐る恐る清弦の背中へ回る。
その瞬間、清弦が大きく息を吐いた。そこにいる。温かい。息をしている。その事実を、ようやく身体の奥で受け止めたようだった。
「こっちの台詞だ……」
鈴の肩へ顔を埋めたまま、清弦が言う。
「体は……もう痛まないのか?」
「……うん」
「熱は」
「ないよ」
鈴の声が震える。
「黒い線も……ほとんど消えて」
清弦が少しだけ身体を離し、鈴の顔を見た。頬、首、腕。あの赤黒い呪いの線は、もうどこにも残っていない。
鈴の目から涙が落ちた。
「うん……うん……」
何度も頷きながら、彼女は言った。
「清弦が、治してくれたんでしょう?」
清弦は一瞬、何も言わなかった。それから、静かに首を横へ振る。
「私じゃない」
「え?」
「私たちだ」
清弦が振り返る。
馬の上には、十三人がいた。正確に言えば、まともに手を上げられる者は半分もいなかった。それでも奎星は、ウミツバメ二号の上から大きく手を振った。
「よっ!」
ジェームズも意味は分からないまま、鈴へ親指を立てる。
「SUZUME!」
「違う!」
奎星が叫ぶ。
「そっち、鈴ちゃん!」
「SUZU?」
「そう!」
「SUZU!」
「何で教えた!」
高瀬が頭を抱える。
ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム、甚八、宗次郎、秋月、弥平、源兵衛、高瀬。全員が、それぞれの痛みに耐えながら手を上げた。
鈴は一人一人の顔を見た。怪我、血、泥、包帯。それでも、みんな笑っている。
彼女は口元を両手で覆った。涙が次々に落ちる。
「みなさん……」
深く頭を下げる。
「本当に……」
「鈴ちゃん!」
奎星が止めた。
「そういうの後!」
「え?」
「俺ら今、馬から降りられない!」
鈴が十三人を見回す。
「大丈夫なんですか!?」
「それ聞く!?」
「大丈夫ではない」
清弦が横から言った。
「お前もだよ!」
奎星が叫ぶ。
鈴は清弦へ向き直った。血と泥にまみれた着物、頬の傷、震える手。その姿を見れば、無事だと言い張る方が無理だった。
「清弦」
「何だ」
「座って」
「いや」
「座って」
「鈴、私は――」
「座って」
清弦は黙った。
そして、座った。
「つっよ」
奎星が呟く。
甚八が笑った。
「一番強いの、村にいたじゃねえか」
「マジそれ」
*
その日の夜、小萱村は戦場よりうるさかった。
「乾杯!!」
「かんぱぁぁぁぁい!!」
「CHEERS!」
「CHEERS!!」
「SUZUME!」
「何で!?」
奎星の叫びが宴の真ん中へ響く。
村の広場には、ありったけの料理が並べられていた。米、魚、鶏、芋、山菜、豆腐、漬物、味噌汁。前日の決戦前夜に食べたものより、明らかに量が多い。誰がどこから出してきたのか分からない餅まで、山のように積まれていた。
「これ全部、今日用意したの?」
奎星が驚く。
老婆が笑った。
「あんたらが帰ってきたからね」
「負けてたら?」
「明日に回す」
「強い!」
「食べな!」
「いただきます!」
「返事だけはいいねえ!」
奎星はすでに三杯目だった。
「怪我人だよな?」
高瀬が呆れる。
「怪我したから食うんだよ!」
「何だ、その理屈」
「治す材料!」
「身体は建物じゃねえぞ」
実際、全員の怪我が嘘のように消えたわけではない。甚八の額には治療布があり、トーマスは片脚を固定している。ジェームズの右肩も布で吊られ、宗次郎は左腕をあまり動かせない。秋月の足首には包帯が巻かれ、ウィリアムの頬には大きな擦り傷が残っていた。
奎星も清弦も、身体のあちこちが痛んでいる。それでも宴の騒ぎの中にいると、さっきまで谷底で倒れていたことが嘘のように遠く感じられた。
「James!」
源兵衛が酒を掲げる。
「DRINK!」
「Oh, hell yes!」
「駄目!」
奎星が割り込む。
「お前はいいだろ」
「俺は駄目!」
「何でだ」
「未来で怒られる!」
「誰に」
「スズメちゃん!」
ジェームズの耳が反応した。
「SUZUME!」
「拾うな!」
宴のあちこちから笑い声が上がる。
鈴は清弦の隣に座っていた。本当に、ずっと隣だった。清弦が少し動くたびに、鈴が彼の顔を覗き込む。
「痛い?」
「痛くない」
「今、顔しかめた」
「気のせいだ」
「清弦」
「……少し痛い」
「でしょう?」
奎星は向かい側から、にやにやと二人を眺めていた。
「何だ」
「いや?」
「その顔をやめろ」
「何もしてねえじゃん」
「顔がうるさい」
「顔に音あんの!?」
鈴が思わず笑った。
清弦が、その笑顔を見る。一瞬だけ、動きが止まった。
奎星は見逃さない。
「お」
「黙れ」
「まだ何も言ってねえ!」
「言う前に止めた」
「何か成長したな!」
「貴様を殴るぞ」
「怪我人殴んなよ!」
「お前も怪我人だろう!」
「二人とも!」
鈴が叱ると、二人は同時に口を閉じた。
「喧嘩しない」
「はい」
「……分かった」
甚八が横で吹き出した。
「やっぱ鈴ちゃん最強じゃん」
「鈴ちゃんと言うな!」
「奎星はいいのかよ!」
「俺許可とったもん!」
また笑い声が起こる。
ジェームズたちは日本語が分からない。それでも、誰かが笑えば笑い、誰かが杯を上げれば自分たちも杯を上げた。ミラーと宗次郎は言葉も通じないのに、二本の指を杖のようにして互いの射撃速度を再現し始めている。トーマスは子供たちへ縄の魔法を見せようとして、エドワードに怒られていた。
「No magic!」
「Just a little!」
「NO!」
「医者は世界共通で強えな」
奎星が感心する。
少し離れた場所では、ウィリアムが空を見上げていた。神代榊の枝に鬼火鳥が止まり、青白い尾羽が夜の闇の中で淡く光っている。
「William?」
高瀬が声を掛ける。
ウィリアムは何か答え、自分の荷物が置かれた家を指した。
「何て?」
奎星が訊く。
「明日、面白いものを見せるって」
「何!?」
「知らん」
「気になる!」
「今は食え」
「食ってる!」
奎星の前には、空になった椀がすでに七つ並んでいた。
「食いすぎだ!」
「岳ならもっといける!」
「またその基準!」
夜は遅くまで続いた。誰かが歌い、誰かが笑い、源兵衛が二杯目を要求し、奎星が止め、なぜかジェームズが源兵衛の味方をし、高瀬がついに通訳を放棄した。
「もう勝手に喋れ!」
「それ一番困る!」
「身振りで何とかしろ!」
「戦闘より難しいよ!」
戦いは、ようやく本当に終わったのだと、誰もが思える夜だった。
*
翌朝、村の広場へ大きな木箱が運び出された。
「何これ!?」
奎星は、三本の脚の上に載せられた四角い箱を見つめた。前面には丸い硝子があり、後ろからは黒い布が垂れている。その隣には硝子板や小瓶、薬品らしきものが並べられていた。
ウィリアムが胸を張る。
「Camera.」
「カメラ!?」
奎星の目が輝いた。
「マジ!?」
ウィリアムが笑う。
「You know it?」
「知ってる知ってる!」
奎星は木箱へ顔を近づけた。
「うわ、でっか!」
「触るな!」
高瀬が襟を掴む。
「何で!」
「壊したらどうすんだ!」
「触ってない!」
「触る顔してた!」
「顔で判断すんな!」
清弦が近づいてくる。
「何だ、それは」
「写真撮るやつ!」
「写真?」
「あー……」
奎星は両手で四角を作り、その枠越しに清弦を覗いた。
「こう」
「何をしている」
「一瞬を残す」
「意味が分からん」
「だよな!」
「説明する気がないだろう!」
高瀬が清弦へ説明した。光を使って姿を板へ写し取り、あとから紙へ残すことができるのだという。
清弦は箱と奎星とウィリアムを順番に見た。
「……絵ではないのか」
「違う!」
「勝手に描かれる?」
「まあ、そんな感じ!」
「気味が悪い」
「俺、最初のお前にも妖怪扱いされたからな!」
「それは今でも疑っている」
「まだ!?」
ウィリアムが笑っていた。
彼は日本の山を見たくて横浜から来たらしい。そのためなのか、村まで持ってきた荷物の中には写真機まで入っていた。決戦へ向かうときには当然置いていったが、横浜へ帰る前に、全員の姿を撮っておきたいという。
「撮ろう!」
奎星は即答した。
「絶対!」
高瀬が訳す。
ジェームズが大声を上げた。
「YES!」
ミラーも頷く。
「Absolutely.」
トーマスが尋ねる。
「All of us?」
ウィリアムは村全体へ手を広げた。
「Everyone!」
「全員だって」
「村のみんなも!?」
「そうらしい」
奎星の顔がぱっと明るくなった。
「全員呼ぼうぜ!」
「何人いると思っている」
「入るだろ!」
「写真とは、そんな簡単に撮れるものなのか?」
「令和なら一秒!」
「レイワの話は聞いていない!」
「これは違うけど!」
実際、違った。ものすごく違った。
*
「動くな!」
奎星が叫ぶ。
「動いていない!」
「さっき動いただろ!」
「貴様が押したからだ!」
「位置がずれてたんだよ!」
「勝手に触るな!」
「馬鹿、動くなよ! 令和のとは違うんだぞ、このカメラ!」
「黙れ! 何を意味の分からないことを言っている!」
「だからじっとしろって!」
「貴様が喋りかけてくるからだろう!」
「二人とも黙れ!」
高瀬が怒鳴った。
撮影は、戦闘より難航していた。
神代榊の前に、村人、子供、老人、平坂、十三人の戦闘参加者、そして鈴が並ぶ。人数が多いだけではない。怪我人が多く、立っていられない者もいる。子供たちはじっとしていられず、老人たちは座る場所を巡って譲り合い、外国人たちは日本人の指示を理解できない。
ウィリアムは箱型の写真機の後ろで黒い布を被り、何度も位置を調整していた。前列に子供、座れる老人、その後ろに大人、さらに後ろへ背の高い者たちが並ぶ。
「James! Back!」
「Here?」
「More!」
「こっち?」
「ジェームズ、分かってるじゃん!」
「お前よりな」
高瀬が言う。
「何で!」
ジェームズは最後列へ移動した。甚八もその隣に立つ。二人とも大きすぎて、後ろにいても頭一つ分ほど高かった。
「源兵衛、酒持つな!」
「記念だ」
「いらねえ!」
「俺らしさだろ」
「未来に残ったら最悪だろ!」
「未来?」
「何でもない!」
奎星は源兵衛から杯を奪った。
「秋月、ちゃんと立て!」
「足痛えんだよ!」
「じゃあ座れ!」
「子供に混ざるだろ!」
「知らねえ!」
宗次郎は二本の短い杖を持とうとしていた。
「武器持つの?」
奎星が訊く。
「清弦も持つだろ」
「確かに」
清弦は新しい神代榊を持っていた。昨日、平坂が作り、巨大妖魔を倒し、神代以蔵の杖を落とした一本である。
「じゃ、みんな杖持つ?」
「統一感出るな」
「戦闘集団みたいじゃね?」
「戦闘集団だろ」
「そうだった」
奎星も自分の古い神代榊を持った。
そして当然のように、清弦は鈴の隣へ立った。
「お」
奎星が声を漏らす。
清弦が睨む。
「何だ」
「別に?」
「なら見るな」
「鈴ちゃん、そっちでいい?」
「はい?」
鈴が清弦を見る。
「私はどこでも」
「ここでいい」
清弦が言った。
「おお」
「奎星」
「何も言ってねえ!」
「顔が言っている!」
そのやり取りの間に、子供たちが奎星の腕を引いた。
「奎星兄ちゃん、こっち!」
「え?」
「ここ!」
「俺、清弦の横じゃ――」
「早く!」
「ちょ、待て!」
奎星は子供たちに引っ張られ、清弦から二人分ほど離れた場所へ追いやられた。
「何で俺だけ!」
「そこ空いてる!」
「俺、主役じゃねえの!?」
「誰が主役だ」
清弦が言う。
「未来人!」
「関係ない!」
ウィリアムが写真機の後ろから叫んだ。
「EVERYONE! DON’T MOVE!」
高瀬が即座に訳す。
「全員、動くな!」
「どんくらい!?」
「しばらく!」
「しばらくって!?」
「黙れ!」
奎星が口を閉じる。
全員が動かなくなった。
十数秒が過ぎる。奎星の鼻がむずむずした。くしゃみが出そうになる。
清弦が横目で奎星を見る。笑っている。
奎星が目で睨み返す。
ウィリアムが叫んだ。
「Don’t move !」
「分かってる!」
高瀬が言う。
「喋るな!」
「むぐっ!」
ようやく、ウィリアムが手を上げた。
「Done!」
「終わった!?」
「ああ!」
「っはぁぁぁぁ!!」
奎星が大きく息を吐く。
「写真って命懸け!?」
「大げさだ」
「お前、笑ってただろ!」
「笑っていない」
「絶対笑ってた!」
「証拠があるのか」
「写真に写ってる!」
清弦の顔が止まった。
「お」
奎星がにやりとする。
「未来技術の勝ち」
「今の時代にもあるものだろう!」
「そうだった!」
一枚では終わらなかった。ウィリアムは念のため何枚か撮ると言った。
「また!?」
「さっきお前が動いたからだ」
「清弦も動いた!」
「貴様のせいだ!」
「やるぞ!」
「Why are they always fighting?」
ミラーが高瀬へ訊く。
高瀬はしばらく考えた。
「They like it.」
「何て言った!?」
「秘密」
「絶対変なこと言っただろ!」
二枚目、三枚目と撮影が続き、ようやく全員が解放された。
*
ウィリアムが暗くした物置へ籠もり、硝子板を処理し、そのあと朝の陽射しを使って紙へ像を移しているあいだ、横浜へ帰る組は荷物をまとめていた。
奎星は何度も物置の前をうろうろした。
「まだ?」
「まだだって」
「高瀬さん、さっきからそれしか言わないじゃん」
「十五回訊かれたからな」
「十五回も訊いてねえよ!」
「十三回くらい」
「ほぼじゃん!」
清弦は縁側へ座っていた。隣には鈴がいる。
「落ち着きがない」
清弦が言う。
「気になるだろ!」
「写真一枚で」
「未来じゃ普通に撮るけどさ」
奎星は腕時計を見た。
「こういうのは違うじゃん」
「何がだ」
「知らん」
「なら言うな」
やがて、物置の戸が開いた。
「できた!?」
ウィリアムが数枚の紙を慎重に持って出てくる。
奎星が覗き込んだ。
そこには、茶色がかった写真があった。現代の写真とはまるで違う。色はなく、輪郭にも少し曖昧なところがある。子供の一人はわずかに顔がぶれ、源兵衛は我慢できなかったのか口元が少し動いている。ジェームズだけは、なぜか完璧な笑顔だった。
「何でこいつだけ慣れてんの?」
「知らん」
写真の中央には、清弦が写っていた。着物姿で背筋を伸ばし、写真というものに慣れていないせいか、妙に硬い顔をしている。右手には一本の神代榊が握られていた。
奎星の笑みが、ゆっくり消えた。
「奎星?」
鈴が呼ぶ。
奎星は写真へ顔を近づけた。清弦の右手、杖、その握り方、その構図。知っている。
百五十年以上先の魔法省で、後藤が薄い保護紙に挟んで見せてきた写真。ひどく古く、茶色く褪せ、左右が大きく欠けていた。何人かが並んで撮ったらしい人物の断片だけが残り、その中央には一人の若い男が写っていた。
奎星は写真の中の清弦を見た。次に、目の前の清弦を見る。
「何だ」
「いや……」
「何だ」
「これだったんだ」
「何がだ」
「何でもない」
「またそれか」
奎星は少し笑った。
今、この瞬間、誰が、どこで、何のために撮ったのか。百五十年後には、誰も知らないだろう。けれど、自分だけは知っている。
「ウィリアム」
奎星が写真を指す。
「ワン」
自分を指す。
「ミー?」
ウィリアムが笑った。
「For you?」
「イエス!」
「英語通じた!」
高瀬が言う。
「俺、成長した!」
「最後までその程度か」
「うるせえ!」
ウィリアムは数枚あるうちの一枚を奎星へ渡した。別の一枚は清弦へ渡される。
「私も?」
「記念だとさ」
高瀬が言う。
「……そうか」
清弦は写真を見る。自分、鈴、奎星、昨日まで知らなかった者たち、村、神代榊、鬼火鳥。
「大事にしろよ」
奎星が言った。
「なぜ貴様に言われる」
「いいから」
「分かっている」
奎星は自分の一枚を折れないよう慎重に懐の内側へ入れた。銀色の腕時計、神代榊、そして一枚の写真。未来へ持って帰るものが、一つ増えた。
*
昼前、横浜組が帰る時間になった。
ジェームズ、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム、高瀬、柴崎甚八、佐伯宗次郎、秋月寅之助、杉浦弥平、辰巳源兵衛。全員、昨日より包帯が増えている。
「本当に今日帰んの?」
奎星が訊く。
「お前も今日帰るんだろ」
甚八が返した。
「そうだけど」
「なら同じだ」
「横浜まで結構あるじゃん」
「村にこれ以上世話になるわけにもいかねえしな」
高瀬が荷物を馬へ括りつける。
「ゆっくり戻る」
「絶対ゆっくりな」
「それはお前もだ」
「俺、馬じゃ帰らないから」
「……そうか」
高瀬の手が一瞬止まった。
奎星が未来から来たという話を、横浜組全員がどこまで本気にしているのかは分からない。少なくとも高瀬と日本人組には、もう隠していなかった。外国人組には、説明したところで奎星の英語ではまず伝わらない。
「Future!」
奎星はジェームズへ言ってみた。
「俺!」
自分を指す。
「フューチャー!」
ジェームズが眉を寄せる。
「Your future?」
「俺! 未来!」
「What?」
「ほらな!」
「高瀬さん頼む!」
「今更説明すんの!?」
高瀬は頭を抱えた。
「昨日まで化け物と戦ってた奴に、『こいつ未来人なんだ』って!?」
「今なら信じるだろ!」
「逆に何でも信じそうだよ!」
結局、高瀬がかなり省略して説明した。
ジェームズたちは黙った。
ミラーが奎星を見る。
「Seriously?」
「シリアスリー?」
「本当かって」
「イエス!」
奎星が腕時計を見せる。
「未来!」
ジェームズが時計へ顔を近づけた。
「That’s why……」
「何?」
高瀬が訳す。
「だから変な格好だったのか、だと」
「そこ!?」
トーマスが笑う。
ウィリアムは急に自分の写真機を見て、次に奎星を見た。
「写真の価値、上がった?」
高瀬が笑う。
「たぶんな」
そして、ジェームズが奎星の前へ立った。
「Keisei.」
「ん?」
さっきまでの笑顔とは少し違う、真面目な顔だった。
「I won’t forget this.」
奎星は全部を理解できたわけではない。ただ、最初の言葉だけは何となく聞き取れた。
「Forget……?」
「忘れる」
高瀬が横から静かに訳した。
ジェームズは続ける。
「Not tomorrow. Not in ten years. Hell, not in a hundred.」
少し笑う。
「Time can pass all it wants.」
自分の胸へ拳を当て、次に奎星、清弦、仲間たちを指す。
「Brothers are brothers.」
高瀬が、今度は少しだけ間を置いて訳した。
「この戦いは、絶対に忘れない。明日も、十年後も、百年後でも。時がどれだけ流れても、俺たちは兄弟だって」
奎星はジェームズを見た。
横浜、決闘、酒、SUZUME、巨大妖魔、プロテゴ、傷、笑い。短い時間の中で積み重なったものが、胸の奥へ一度に押し寄せてくる。
「……そっか」
奎星が拳を出す。
ジェームズの拳と、ごつんとぶつかった。
「ブラザー」
「Brother.」
次の瞬間、ジェームズに抱き締められた。
「うおっ!?」
「痛い痛い痛い!」
「HAHAHA!」
「怪我人! 俺、怪我人!」
「YOU’RE FINE!」
「ファインじゃねえ!」
ジェームズは構わない。ようやく解放されたと思ったら、今度はミラーがやってきた。
「お前も!?」
「Brother.」
「うおおお……!」
ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム。一人ずつ、奎星を抱き締めていく。
「お前ら、ハグ好きすぎだろ!」
エドワードだけは、抱き締める前に奎星の肩の怪我を確認した。
「Gentle.」
「ジェントル?」
「優しくするって」
「最初からそうして!」
日本人組まで、それを見ていた。
「俺らも?」
甚八が両腕を広げる。
「やるの!?」
「兄弟なんだろ?」
「お前ら日本人じゃん!」
「関係あるか?」
「ないけど!」
甚八、宗次郎、秋月、弥平、源兵衛が次々に奎星へ抱きついた。
「源兵衛、酒臭っ!」
「昨日のだ」
「まだ残ってんの!?」
最後に高瀬が来た。
「お前も?」
「ここまで来たらな」
「通訳ありがとな」
「次に会うまでに英語覚えとけ」
「無理!」
「即答すんな!」
二人も笑いながら肩を叩き合った。
十一人が馬へ乗る。
「じゃあな!」
甚八が手を上げる。
「また呼べ!」
「化け物いないときに!」
「それなら行く!」
「俺も!」
宗次郎が叫ぶ。
「今度は普通に決闘しようぜ!」
秋月が続ける。
「お前と!?」
「逃げんなよ!」
「やるやる!」
弥平が言う。
「次は札代払えよ」
「金取んの!?」
「高いんだぞ」
「賞金もう使った!」
「知らん!」
源兵衛が酒臭い声を張り上げる。
「次は飲むぞ!」
「飲まねえ!」
「百年待ってもか!」
「それは死んでる!」
笑い声の中、ジェームズが最後にもう一度、拳を胸へ当てた。
「BROTHER!」
奎星も同じように拳を掲げる。
「ブラザー!」
「SEE YOU!」
「シーユー!」
「分かってんの!?」
高瀬が驚く。
「それくらい知ってる!」
十一頭の馬が、ゆっくりと小萱村を出ていった。何度も振り返り、何度も手を振る。奎星も、彼らの姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
時が流れても、兄弟は兄弟。
奎星はその言葉を、胸の奥へ静かに残した。
*
そして今度は、奎星の番だった。
「……そういや」
奎星は神代榊の下から村を見回した。
「俺、帰るためにここまで来たんだった」
「今更か」
清弦が言う。
「いや、忘れてないよ?」
「横浜で決闘をして」
「必要だった!」
「酒盛りをして」
「事故!」
「馬に名前をつけて」
「必要!」
「妖魔と戦い」
「それは必要!」
「人を十一人連れてきて」
「超必要!」
「宴を二度して」
「……ちょっと寄り道」
「かなりだ」
奎星が笑う。
「友達、増えたなあ」
誰に言ったわけでもなかった。
百五十年前、突然知らない時代へ落ちた。最初は帰ることしか考えていなかった。スズメ、学校、仲間、自分の時代。大切なものはすべて向こう側にあると思っていた。
それなのに、帰る直前になってみれば、ここにも知っている顔がたくさんある。短い時間をともに過ごしただけなのに、別れが胸へ重く残るほどの人々がいる。
「奎星兄ちゃん!」
子供たちが走ってきた。
「本当に帰るの!?」
「帰る!」
「明日も来る?」
「無理!」
「何で!」
「百五十年あるから!」
「長い!」
「だろ?」
子供の一人が奎星の制服の袖を掴んだ。
「じゃあ、もう会えない?」
「たぶんな」
子供の顔が曇る。
奎星はその頭をぐしゃぐしゃ撫でた。
「そんな顔すんなよ」
「でも」
「お前らのこと、覚えてるから」
「本当?」
「俺、記憶だけは結構いい」
「勉強は?」
「それは別!」
子供たちが笑う。
老婆たちもやってきた。
「あんた、結局どこの誰だったんだろうねえ」
「俺もこの時代でそれ言われると思わなかった」
「飯はよく食った」
「そこ?」
「うちの米を何杯食べた?」
「数えてない」
「十二杯だ」
「清弦!」
「最終日はな」
「何で覚えてんだよ!」
「食いすぎだからだ!」
老婆が奎星の手を握った。
「達者でね」
「うん」
「向こうへ帰っても」
「うん」
「無茶はしない」
奎星は黙った。
「返事」
「努力します」
「しないね、これは」
「バレた!」
別の老婆が笑う。
「帰る場所があるなら、ちゃんと帰りな」
奎星は少しだけ目を細めた。
「うん」
今度は、ちゃんと頷く。
「帰る」
最後に、奎星は工房の前にいる平坂のもとへ歩いていった。
平坂はいつものように腕を組んでいる。
「帰るんか」
「うん」
「そうか」
「それだけ?」
「他に何を言う」
「寂しいとか」
「ない」
「即答!」
「うるさい」
奎星は笑った。
腰には古い神代榊がある。百五十年以上を経た杖。その隣で、清弦の腰には平坂が昨日作ったばかりの新しい神代榊が揺れていた。同じ形、同じ彫り、同じ鬼火鳥の尾羽。
「平坂さん」
「何じゃ」
「この杖」
奎星は清弦の方を指した。
「あんたの作る杖、きっと長持ちするよ」
平坂が眉を寄せる。
「当たり前じゃ」
「お」
「誰が作ったと思っとる」
「自信あるじゃん」
「壊れたら直せと言っただろう」
「うん」
「使う奴が阿呆でも、道具は悪くない」
「清弦、阿呆って」
「聞こえている!」
「否定しろよ!」
平坂はほんの少しだけ口元を緩めた。
「百年でも二百年でも、使えるように作った」
奎星は古い神代榊へ手を置いた。
「そっか」
本当にそうなる。百五十年以上先、この杖はまだ残っている。清弦の手を離れ、長い時間を越え、自分の手へ届く。
「じゃあ、ちゃんと作れてるよ」
「何?」
「こっちの話!」
「またそれか!」
「ありがとな、平坂さん」
平坂は一瞬だけ奎星を見た。
「おう」
それだけだった。
歴史の本に、蓮根清弦の名は残る。霊脈を救った者、古い魔法と新しい魔法を繋いだ者。けれど、その杖を作った男の名を百五十年後に知る者はいない。工房の印さえ残っていなかった。
それでも、平坂が作った一本の杖は百五十年以上残る。
名を残さなくても、未来へ届くものはある。
奎星にとって、平坂もまた、紛れもなく一人の偉人だった。
*
村の外れ、神代榊から少し離れたところに、小さな草地があった。低い山々に囲まれたその場所だけは空が大きく開け、戻った霊脈が地面の下を穏やかに流れている。
そこへ来たのは、奎星と清弦と鈴の三人だけだった。
「ここ?」
「ああ」
清弦が草地の中央へしゃがみ込み、左手を地面へつける。目を閉じ、しばらく霊脈の流れを探った。
「流れは安定している」
「帰れる?」
「おそらく」
「おそらく!?」
「やってみなければ分からん!」
「最後までそれ!」
「何だ!」
「もうちょい安心させろよ!」
「百五十年先へ人間を飛ばしたことがあると思うか!?」
「ないよね!」
「なら訊くな!」
鈴が小さく笑った。
二人が同時に彼女を見る。
「何?」
「いえ」
「鈴?」
「最後まで変わらないなと思って」
「こいつがな」
「お前だよ!」
二人がまた言い合う。鈴は笑っていた。昨日まで意識を失っていた人とは思えないほど、その表情には生気が戻っている。
奎星はその顔を見て、少しだけ安心した。
「で」
奎星が訊く。
「常世返しって、どうやんの?」
清弦は草地の中央を指した。
「そこへ立て」
「はい」
「神代榊を持て」
「はい」
「時計も外すな」
奎星の手が左手首へ触れる。
「これ?」
「ああ」
「何で?」
「お前の物だからだ」
「杖も俺の」
「そうだ」
清弦が立ち上がる。
「お前はこの時代のものではない」
「まあ」
「身体も、服も、その時計も、その杖も」
奎星は自分を見下ろした。制服、靴、銀色の腕時計、神代榊。百五十年前のこの場所に、すべてが場違いだった。
「常世返しは」
清弦が言う。
「迷い込んだものを、あるべき場所へ返す術だ」
「鬼火鳥のときみたいに?」
「あれと同じだ」
「でも今回は百五十年」
「ああ」
「怖っ」
「帰るのをやめるか?」
「やめねえよ!」
即答だった。
清弦の口元が少しだけ上がる。
「そう言うと思った」
「何笑ってんだよ」
「笑っていない」
「最近それ無理あるからな」
奎星は草地の中央へ立った。
風が吹き、遠くで神代榊の葉が揺れる。鬼火鳥が一羽、青い空を横切った。
いよいよ帰る。その事実が、今になって急に重くなる。
奎星は清弦を見る。
「なあ」
「何だ」
「清弦」
「何だ」
「…………」
「早く言え」
「いや」
奎星が笑う。
「何でもねえ」
「貴様……」
清弦も何か言いかけたが、結局口を閉じた。短い沈黙が二人のあいだに落ちる。
そして、清弦が言った。
「奎星」
「ん?」
「…また会えるか?」
奎星は一瞬、清弦を見た。真面目な顔だった。本当に、もう一度会えるのかと尋ねている。
「会えるわけねえだろ!」
奎星は笑った。
「百五十年後だぞ!」
清弦が一秒ほど固まる。
「何、その顔!」
「そうだったな」
「忘れんなよ!」
「貴様が普通にいるからだ!」
「未来人だっつってんじゃん!」
「未来人の実感がない!」
「俺もねえよ!」
鈴がまた笑った。
湿っぽくならない。それでよかった。
「奎星さん」
鈴が前へ出る。
「ん?」
「本当に……ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「村を救っていただいて」
「何言ってんだよ!」
奎星がすぐに止める。
「当たり前だろ!」
「でも」
「俺一人じゃ何もしてねえし」
清弦を見る。
「こいつも」
村の方角へ目を向ける。
「平坂さんも」
遠く、横浜へ帰っていった者たちを思う。
「みんなも」
空を見上げる。
「鳥も」
奎星は笑った。
「全員でやったんだから」
鈴は少し目を潤ませながら頷いた。
「……はい」
「じゃ」
奎星は鈴へ手を上げた。
「鈴ちゃん、元気で。こいつ絶対、今後も無茶するから頼むぜ」
清弦の眉が跳ねる。
「貴様」
「事実だろ!」
鈴が真剣に頷いた。
「もちろんです」
「鈴!?」
「清弦は本当に無茶しますから」
「お前まで……!」
奎星が笑う。
「頼んだ!」
「はい」
鈴は少しだけ困ったように笑った。
「奎星さんも」
「ん?」
「無茶はしないでくださいね」
奎星は考えた。
「それはどうかな……」
「奎星さん!」
「だって未来でも色々あるし!」
「返事は!」
「努力します!」
「さっきも同じこと言ってたな」
清弦が言う。
「お前に言われたくねえ!」
「私も努力する」
「え!?」
奎星が驚く。鈴も驚いた。清弦の顔がわずかに赤くなる。
「……何だ」
「お前がそんなこと言うなんて」
「帰るぞ、鈴」
「帰るの俺!」
「なら早く帰れ!」
三人で笑った。
奎星はふと、何かを思い出した。
「あ!」
「今度は何だ」
「大事なこと!」
清弦を指差す。
「清弦!」
「だから何だ!」
「お前の家系!」
「私の?」
「ちゃんと古代魔術残せよ!」
清弦は首を傾げた。
「なぜだ?」
「何でって」
「これからは、杖と呪文を使う魔法が広がるのだろう?」
「ああ」
「なら、古い術など自然に無くなる」
「駄目!」
「なぜだ!」
「残せ!」
「理由を言え!」
奎星は真顔で言った。
「スズメちゃんが好きだから!」
鈴が瞬きをした。
清弦は額へ手を当てる。
「……何の理由にもなっていない」
「なるよ!」
「ならん!」
「魔法史の先生なんだよ!」
「そのスズメという女は!」
「烏丸スズメ!」
「名前は聞いた!」
「古い魔法とか歴史とか、めちゃくちゃ詳しいし!」
「それで私の家系が古代魔術を残す理由になるのか!?」
「なる!」
「ならん!」
「未来でめちゃくちゃ助かる!」
「誰が!」
「俺が!」
「貴様のためではないか!」
「スズメちゃんのためでもある!」
「結局それではないか!」
清弦が大きく息を吐いた。
「……しょうがない奴だな」
「しょうがないのはお前だろ!」
「何だと?」
奎星は言葉にはしなかった。代わりに、清弦と鈴のあいだで視線を何度も往復させる。清弦、鈴、清弦、鈴。さらに鈴を見てから、清弦へ顎をほんの少し向けた。
行け。言え。何か言え。
鈴はまったく気づいていない。
「奎星さん?」
「…………」
清弦の顔が赤くなる。
「黙れ!」
「何も言ってねえじゃん!」
「顔がうるさい!」
「またそれ!」
「そろそろ始めるぞ!」
「逃げた!」
「帰すぞ」
「強制送還みたいに言うな!」
「早く立て!」
「立ってる!」
鈴は笑いを堪えきれず、口元へ手を当てた。
*
清弦が奎星から数歩離れると、表情が変わった。さっきまでの赤みも、怒りも、すべてが静かに消えていく。
「奎星」
「ん」
「動くな」
「写真と同じこと言われてる」
「黙れ」
「はい」
清弦は両手を胸の前へ上げた。指を組み、ほどき、右手の人差し指と中指を立て、左手を重ねる。見たことのない古い印が、ゆっくりと形を結んでいく。
動きはゆっくりだった。けれど、そこに迷いはなかった。
清弦の足元、地面の下で青白い光が灯る。
奎星は神代榊を握った。炎のような彫りが手のひらへ馴染んでいる。百五十年以上前、この時代でまだ新しかった杖。いや、今、清弦の腰にある一本が、いつか自分の手へ来る。
時間の順番が、また少し分からなくなる。
左手首の銀色の腕時計が、こち、こち、と音を刻んでいた。針は止まらず、未来へ進んでいる。
「道違えしもの」
清弦の声が低く響く。
「時を違え」
地面の光が奎星の足元へ伸びる。
「地を違え」
一筋、二筋、三筋。青白い線が草の間を走り、奎星を囲む円を描いていく。
「なお、その縁を失わぬもの」
草が、風もないのに揺れた。
「……清弦」
「喋るな」
「まだ何も」
「分かる」
「何で!」
「貴様は最後に何か言う顔をしている」
「顔で分かりすぎだろ!」
「黙れ!」
奎星は笑った。
「はいはい」
清弦はさらに一つ、印を結んだ。
戻ったばかりの霊脈が、地面の下で青白く広がっていく。奪うのではない。支配するのでもない。必要な分だけを借り、迷い込んだものをあるべき場所へ返す。
奎星はその光を見て、少し笑った。
似ている。
百五十年のあいだに魔法の形は変わっても、その根にあるものは案外変わらないのかもしれない。
「あるべき世へ」
清弦の声が大きくなる。
「あるべき時へ」
空気が震えた。
奎星の時計が、一瞬だけ強く光る。
「帰れ」
青白い光が走った。
「っ――!」
奎星の制服が風に煽られる。神代榊が熱を持ち、腕時計の針が激しく震えた。
あのときと同じだった。逆転時計が鳴った日、魔法省の会議室で床が消え、百五十年前へ落ちたとき。
ただ、今度は怖くなかった。
「奎星さん!」
鈴の声が光の向こうから聞こえる。
「元気で!」
鈴が手を振っている。
「鈴ちゃんも!」
奎星も大きく手を振った。
「清弦!」
「何だ!」
「ちゃんと書いとけよ!」
「何を!」
「俺がめちゃくちゃカッコよかったって!」
「誰が書くか!」
「歴史変えろよ!」
「帰れ、馬鹿者!」
「最後までそれ!?」
清弦が笑った。
本当に、今度は隠せないほどに。
奎星の目が少し開く。
「今笑った!」
「黙れ!」
「絶対笑った!」
「早く帰れ!」
「おう!」
光が奎星の身体を包んだ。足、腰、胸、腕。懐の写真、腕時計、神代榊。そのすべてが白と青の光の中へ溶けていく。
最後に、奎星は二人を見た。
清弦。
鈴。
百五十年前、ここで出会った友達。
「じゃあな!」
清弦が何かを言った。光の音に遮られて聞こえなかったが、その口の形は何となく分かった。
――またな。
奎星は笑った。
「またな、兄弟」
次の瞬間、光が弾けた。
空、草地、神代榊、清弦、鈴、小萱村、幕末。そのすべてが白く遠ざかっていく。
百五十年の、長すぎる寄り道。
海賊になりたかった少年が、未来へ帰るために始めた旅は、妖魔を倒し、霊脈を戻し、一人の先祖と一人の少女と十一人の仲間と、村中の友達を残して終わった。
そして蓮根奎星は、百五十年を越え、元の時代へと帰った。