二〇二七年六月。
光が弾けた。白と青と銀が混ざり合ったまばゆい光が、何も見えなくなるほど会議室を満たし、その中心から人の身体が投げ出される。
「――っ!」
奎星の足が硬い床へ着いた。そう思った次の瞬間には、膝から崩れ落ちていた。右手を床につき、どうにか顔から突っ込むことだけは避けたものの、全身に刻まれた傷が一斉に痛みを訴え、背中と肩、脇腹へ鈍い痛みが走る。
白い床。白い壁。天井から降り注ぐ魔法灯。低く唸る空調音。見慣れた長机。その中央には、三重の封印術式に囲まれた銀色の懐中時計――K─417、逆転時計が置かれている。
壁面には、まだ古い手記が映し出されていた。
蓮根清弦。
「…………」
奎星は片膝をついたまま、何度も瞬きをした。土ではない。草でもない。湿った山の空気でも、幕末の村を包む煙でもない。ここは魔法省だった。
「も……」
掠れた声が喉から漏れる。
「戻った!?」
その声が会議室へ響いた瞬間、机の向こうで真壁征士郎が息を呑んだ。
「蓮根君!?」
真壁は立っていたというより、驚きのあまりその場に縫い留められていた。片手には杖、もう片方の手は机に置かれている。普段なら何が起きても容易には表情を変えない男の目が、眼鏡の奥で明らかに見開かれていた。
その隣では、逆転時計の管理を担当していた職員が、封印術式へ杖を向けたまま動けずにいる。記録局の職員も、手にしていた資料を半ば持ち上げた姿勢で固まっていた。
「…………」
「…………」
「…………」
奎星は三人の顔を順番に見た。
「何その顔」
「蓮根君」
「うん」
「……蓮根君?」
「二回言った」
「君なのか」
「他の誰に見えんの!?」
その一言で、真壁がようやく動いた。椅子を蹴るようにして机の横を回り、奎星の前まで歩み寄る。
「何があった!?」
「え」
「何があった!?」
「真壁さんが二回聞くの珍し!」
「答えろ!」
奎星は、自分の姿を見下ろした。制服は裂け、全身が泥にまみれている。乾いた血が袖や襟元にこびりつき、肩には治療布が巻かれていた。袖は焦げ、膝は破れ、靴には幕末の山の土がまだ残っている。懐には一枚の写真があり、腰には神代榊が差され、左手首には銀色の腕時計がある。
真壁からすれば、奎星はつい数秒前までこの会議室にいたはずだった。逆転時計が異常作動し、神代榊が反応し、清弦の手記にある名前の失われた部分へ青白い光が走った。そして奎星の姿が消えた。
それだけだった。
ほんの数秒。
なのに、戻ってきた少年は、何日も戦場を歩き回ったような有様になっている。
「何があったって……」
奎星は真壁を見た。
幕末。清弦。鈴。小萱村。神代榊。鬼火鳥。横浜。ジェームズ。決闘。酒。十三人の仲間。大型妖魔。霊脈。以蔵。プロテゴ。エクスペリアームス。そして、常世返し。
思い返せば、あまりにも多くのことがあった。
「……色々あったよ!!」
「色々で済ませるな!」
「長いんだよ!」
「どのくらいだ!」
「知らねえよ! 何日いたか途中から数えてねえ!」
「何日!?」
管理担当の職員が思わず声を上げた。
「こちらでは数秒です!」
「マジ!?」
今度は奎星が驚いた。
「数秒!?」
「三秒も経っていません!」
「嘘だろ!?」
「こちらの台詞です!」
「俺、めちゃくちゃ頑張ったのに三秒!?」
「時間の長さに文句を言わないでください!」
「頑張った分くらい経てよ!」
「蓮根君!」
真壁が奎星の肩へ手を伸ばした。触れる直前、奎星はふと壁面へ目を向けた。
清弦の手記が、まだそこに映っている。
古い墨。欠けた紙。消えた名前。
「……あ」
「蓮根君?」
奎星は立ち上がった。
「待て」
「真壁さん」
「座れ」
「これ借りてくよ!」
「何?」
奎星は机へ飛びついた。記録局の職員の前に置かれていた資料の束――清弦について集められた公的記録、霊脈復旧に関する古い資料の複写、現代字体へ直された手記――を、まとめて掴み取る。
「なっ――」
記録局の職員が声を上げた。
「ちょっと!?」
「蓮根君!」
「ありがと!」
「待て!」
「な、おい! 魔法省のものだぞ!」
「俺の家族のだろ!!」
「そういう問題ではない!」
「あとで返す!」
「先に許可を取れ!」
「急いでんの!」
「医務室が先だ!」
「それもあと!」
「蓮根君!」
扉が開き、奎星は廊下へ飛び出した。ところが数歩走ったところで、何かを思い出したように戻ってくる。
「何だ!」
「これ!」
机の横へ転がっていた自分の鞄を拾い上げる。
「忘れてた!」
「蓮根君!!」
「じゃ!」
今度こそ、奎星は走り去った。扉が閉まり、会議室に静寂が落ちる。
記録局の職員が、呆然としたまま真壁を見た。
「……止めなくていいんですか」
「止まると思うか?」
「思いません」
「私もだ」
真壁は額へ手を当てた。
机の中央では、逆転時計がすでに動きを止めている。三重の封印術式に囲まれた銀色の時計は、何事もなかったかのように、ただ静かにそこにあった。
*
マホウトコロの校舎が見えた瞬間、奎星は足を止めた。
南硫黄島の海が、初夏の陽射しを受けて青く輝いている。羊脂玉の校舎は白い光をまとい、回廊には潮の匂いが流れていた。空を飛ぶ鳥の影が壁を横切り、遠くから生徒たちの声が聞こえてくる。
全部、知っている景色だった。
つい数秒前まで、こちら側にいたはずの場所なのに、ひどく懐かしく感じられた。
「……懐かし」
思わず口からこぼれた。
転移区画の職員が、不思議そうに奎星を見る。ぼろぼろの制服、血と泥にまみれた身体、手に抱えた大量の資料。どう見ても、今しがた普通に魔法省から帰ってきた生徒の姿ではない。
「蓮根君?」
「はい!」
「どうしたんですか、その……」
「色々!」
「またですか?」
「またって何!?」
言い返しながら、奎星は校舎へ向かって走り出した。
石畳を駆け、階段を上り、白い回廊を抜ける。見慣れた角を曲がり、何度も歩いた廊下を進む。すれ違った生徒たちが、驚いた顔で振り返った。
「蓮根?」
「お前どうした!?」
「あとで!」
「血出てるぞ!」
「知ってる!」
「どこ行くんだよ!」
「研究室!」
行く場所は、最初から決まっていた。
魔法史研究室。
あの小さな部屋。教科書と資料が積まれ、赤い文字で訂正された紙が机の上に散らばり、何度同じことを尋ねても答えてくれる人がいる場所。奎星がずっと帰りたかった場所だった。
走るたびに背中が痛み、脇腹が軋み、脚が重くなる。それでも止まらなかった。廊下の先に、見慣れた扉が見える。
魔法史研究室。
奎星はノックをしなかった。勢いよく扉を開ける。
「スズメちゃん!!」
「――っ!?」
机の向こうで、烏丸スズメが椅子から飛び上がった。
「は、蓮根君!?」
長い黒髪。見慣れた服。机の上に開かれた本と資料。窓の向こうに広がる青い海。
「スズメちゃん!」
「蓮根君、その格好は――」
最後まで言わせず、奎星は真っ直ぐ歩み寄った。一歩、二歩と距離を詰め、スズメの前へ立つ。そして、そのまま彼女を抱き締めた。
「…………!」
スズメの身体が完全に固まる。
「蓮……」
奎星の腕が背中へ回っている。強く、それでいて、そこにいることを確かめるような抱き方だった。
「な、ど……どうしたんですか」
スズメの声は、珍しく分かりやすく乱れていた。
「蓮根君?」
「…………」
「怪我をしているではありませんか」
「うん」
「血も」
「うん」
「一体どこで――」
「や……」
奎星は、彼女の背中へ回した腕に少しだけ力を込めた。
「しばらくこうさせて」
「…………」
スズメは言葉を失った。
奎星の肩越しに見えるのは、破れた制服、乾いた泥、治療布、擦り傷、そして微かに震える指だった。数秒前にどこかで転んだという程度の怪我ではない。そのことを、スズメは何となく理解した。
「…………分かりました」
声が柔らかくなる。
スズメの両手は、しばらく宙に浮いたままだった。どこへ置けばいいのか分からないように迷ったあと、片手が奎星の背中へ触れ、もう片方が制服の肩をそっと掴む。
奎星は目を閉じた。
土の匂いはしない。煙も、馬の汗も、山の冷たい風もない。ここにあるのは、紙と古い本の匂い、それから海から流れ込む潮の香りと、知っている人の温度だった。
「……帰ってきた」
小さく呟く。
「え?」
「いや」
顔はまだスズメの肩の近くにある。
「何でもない」
「何でもない人は、このような格好では戻ってきません」
「それはそう」
「それから」
「ん?」
「そろそろ説明してください」
「もうちょい」
「…………」
「駄目?」
スズメは少しだけ困った顔をした。けれど、腕を離そうとはしなかった。
「……あと少しだけです」
「うん」
「そのあと、必ず医務室です」
「今言う?」
「言います」
「雰囲気」
「怪我人が雰囲気を優先しないでください」
「はい……」
「それと」
「何?」
「痛いところは」
「全部」
「全部?」
「全部」
スズメの眉がゆっくり寄る。
「蓮根君」
「怒んないで」
「まだ怒っていません」
「その顔は怒る前じゃん」
「まだです」
「怖っ」
奎星はようやく、少しだけ身体を離した。目の前にあるスズメの顔を見つめる。
「…………」
「何です?」
「いる」
「私はいますが」
「うん」
「蓮根君?」
奎星は笑った。
「スズメちゃん」
「……烏丸先生です」
「それ」
「何です?」
「めっちゃ久しぶり」
「先ほども補習で言いました」
「俺には久しぶりなの!」
スズメの眉間に、新しい皺が増えた。
*
「百五十年前?」
「うん」
「幕末?」
「うん」
「蓮根清弦本人に?」
「会った」
「…………」
「喧嘩した」
「なぜですか」
「最初、妖怪だと思われた」
「…………」
「俺が」
「でしょうね」
「そこ即答!?」
十分後、奎星は魔法史研究室の椅子へ座らされていた。スズメが持っていた簡易の治療具で傷を手当てされ、目立つ出血だけは止まっている。それでも本格的な治療が必要なことに変わりはない。
本来なら今すぐ医務室へ連行されるところを、「資料見たら行く!」という奎星の猛烈な抵抗によって、十分だけ猶予をもらっていた。
机の上には、魔法省から奎星が半ば強奪してきた資料の束が広げられている。蓮根清弦、幕末、関東霊脈、大型妖魔、近代魔法、古い手記。そこへ奎星は、懐から一枚の写真を取り出して置いた。
「…………」
スズメの目が、そこで初めて本当に止まった。
「蓮根君」
「ん?」
「これは」
「写真」
「それは分かります」
「昨日撮った」
「…………」
「百五十年前に」
「…………」
「昨日」
「どちらかにしてください」
「どっちも本当なんだよ!」
スズメは写真をそっと両手で持ち上げた。
まだ古びていない。撮られてから、奎星の感覚では一日も経っていない。けれど、そこに写っている人々の服や家、村の景色、大きな神代榊は、どう見ても現代のものではなかった。
前列には子供たちと村人、老人たち。後ろには怪我をした男たちと外国人たちが並び、杖を持つ者、笑っている者、妙に硬い表情をしている者がいる。中央付近には、一人の青年が立っていた。顔立ちは奎星と少し似ている。着物と袴を身につけ、右手には神代榊を持っていた。
「……清弦」
スズメが呟く。
「分かる?」
「資料の写真と一致します」
「そう」
奎星は写真を指差した。
「こいつ」
「はい」
「めっちゃ性格悪い」
「先祖に対する第一声としてどうなのですか」
「本当だもん」
「あなたと似ているのでは?」
「顔だけ!」
「そうでしょうか」
「何で!」
スズメは写真の清弦から、すぐ隣へ視線を移した。そこには一人の少女がいる。長い黒髪の少女が、清弦の隣に自然な様子で立っていた。
「この方は?」
「鈴ちゃん」
「…………」
「白川鈴」
「鈴ちゃん」
「うん」
「随分、親しげですね」
「俺?」
「あなたがです」
「友達」
「百五十年前の?」
「うん」
「…………」
スズメは、考えることを一度やめたようだった。
「こちらの外国人は?」
「ジェームズ」
「こちらは?」
「ミラー」
「この方は?」
「トーマス」
「こちらは」
「ウィリアム。写真撮ったのもこいつ」
「こちらは」
「エドワード。めっちゃ怒る治療役」
「こちらの日本人は?」
「甚八。宗次郎。秋月。弥平。源兵衛。で、高瀬さん」
「…………」
「全員で戦った」
スズメの指が写真の縁で止まる。
「十三人」
「うん」
「蓮根君を含めて?」
「うん」
「清弦も」
「うん」
「そして」
スズメは写真を見つめた。
「この村の方々」
「うん」
「鬼火鳥も?」
「鳥も」
「…………」
スズメは長い間、写真から目を離さなかった。
「本当に……行ったのですね」
「だから言ってんじゃん!」
「俄かには信じ難い話です」
「俺もそう思う!」
「本人が言わないでください」
「だって百五十年前だぞ!?」
「声を落としてください」
「はい」
奎星は机へ腕を置き、魔法省から持ち出した資料を引き寄せた。
そこには、奎星がつい数秒前まで読んでいたものと同じ記述がある。幕末、関東一帯で発生していた霊脈異常。地下の霊脈へ巣食った妖魔。周囲の魔法を食らいながら増殖し、集落へ魔力障害や病、異常現象を引き起こしたこと。そして、それを蓮根清弦が討ち、霊脈を解放したこと。
多くの記録が、その出来事をそうまとめていた。
「…………」
奎星の眉が、だんだん寄っていく。
「何これ」
「何がです?」
「何であいつ一人の手柄になってんだよ!!」
「声」
「俺らだって頑張ったぞ!」
「俺らとは誰ですか」
「俺とかジェームズとか!」
「ジェームズとは誰ですか」
「さっき説明したじゃん!」
「名前だけではなく、です」
「あいつプロテゴめちゃくちゃ強くて、デパルソも強くて、英語でずっと化け物煽ってて――」
「待ってください」
「何?」
「一人ずつ説明するつもりですか」
「するけど?」
「長くなります」
「めちゃくちゃ長いよ!」
「でしょうね」
スズメは資料を一枚めくった。
「ただ」
「何」
「こちらには、協力者が存在したという記録も残っています」
「それは知ってる」
「でしたら」
「でも名前ねえじゃん!」
奎星は写真を机へ置いた。
「この人たち!」
指で一人ずつ辿っていく。
「ジェームズも! ミラーも! トーマスも! エドワードも! ウィリアムも!」
次に、日本人たちを指す。
「甚八も! 宗次郎も! 秋月も! 弥平も! 源兵衛も! 高瀬さんも!」
そして清弦。
「こいつも!」
最後に、自分を指差す。
「俺も!」
「はい」
「めちゃくちゃ頑張った!」
「分かりました」
「鬼火鳥も来た!」
「はい」
「平坂さんも杖作った!」
「はい」
「村のみんなも助けてくれた!」
「はい」
「なのに!」
奎星は資料の大きな見出しを指で叩いた。
「幕末の英雄、蓮根清弦って何だよ!」
「…………」
「あいつ」
奎星は写真の清弦を見る。
「鈴ちゃんのために頑張っただけだぞ!」
「鈴ちゃんとは誰ですか」
「清弦の好きな女の子!」
「…………」
スズメが写真へ目を落とす。清弦と鈴は、確かに隣同士に並んでいた。
「本人から聞いたのですか」
「聞いてない」
「ではなぜ断言できるのです」
「見りゃ分かる!」
「…………」
「マジで分かるって!」
「あなたと同じ理屈ですね」
「何が」
「何でもありません」
「何だよ!」
「続けてください」
「何でちょっと笑ってんの?」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「蓮根君」
「はい」
奎星は少し身体を椅子へ預けた。さっきまでの笑いが、ゆっくり消えていく。
「あいつさ」
「はい」
「英雄になんかなろうとしてねえよ」
スズメが顔を上げる。
「村を守りたかった」
奎星は写真の小萱村へ目を向けた。
「霊脈も」
神代榊へ視線を移す。
「鬼火鳥も」
枝に止まる小さな光を思い出す。
「別に、自分のもんにしたかったわけじゃない」
清弦の言葉が蘇る。川を測ったからといって、川が自分のものになるわけではない。
「守りたかったんだよ」
奎星は写真の鈴を見る。
「あと」
少し笑う。
「この子」
「鈴さん」
「うん」
「あいつ、鈴ちゃん助けるためなら自分が死んでもいいとか思ってたし」
「それは」
スズメの眉が寄る。
「馬鹿ですね」
「だろ!?」
「蓮根君が言えますか?」
「何で俺!?」
「心当たりは」
「…………」
「ありますね」
「まあ……」
「ありますね」
「……はい」
奎星は頬を掻いた。
「でも」
写真を見る。
「あいつが妖魔と戦ったのって、日本の魔法界を救って歴史に名前を残そうとかじゃねえんだよ」
資料の見出しには、英雄、幕末、近代魔法史という言葉が並んでいる。
「村があって」
奎星は写真の村を指した。
「友達がいて」
並んだ人々を指す。
「鈴ちゃんがいて」
清弦の隣の少女を指す。
「そこに化け物が来て」
拳を握る。
「だから、ぶっ飛ばしただけ」
スズメは何も言わなかった。
「それがさ」
奎星は笑った。
「百五十年経ったら、何かめちゃくちゃ立派になってんの」
「…………」
「幕末の英雄」
鼻で笑う。
「何だよそれ」
「…………」
「あいつ、普通に馬鹿だったぞ」
「蓮根君」
「何」
スズメは奎星を静かに見た。
「それは」
一拍置いて、言う。
「あなたもそうでしょう」
「え?」
奎星が止まった。
「何が」
「あなたです」
「俺?」
「蓮根君は」
スズメは資料へ指先を置いた。
「英雄になろうとして、マホウトコロを取り戻したのですか」
「…………」
「黒曜の環と戦ったのも」
「…………」
「星帰り作戦で走り回ったのも」
「…………」
「神代冥司へ立ち向かったのも」
「…………」
「そのためですか」
「……違う」
答えは、すぐに出た。
スズメは静かな声で続ける。
「では、なぜです?」
奎星は答えなかった。けれど、答えなくても分かっていた。
学校へ帰りたかった。寮へ帰りたかった。教室へ戻りたかった。飯を食べ、補習を受け、日向や楓や岳や伊織や御影や九重院や先生たちと、くだらない話をしたかった。
そして、目の前にいる黒い髪の少女を守りたかった。
神代の前で、愛していると簡単に言えた。けれど、その本人へは、まだ言えていない。
「……帰りたかった」
奎星が言った。
「はい」
「学校に」
「はい」
「みんなのところに」
「はい」
スズメは、それ以上尋ねなかった。
「歴史に残るのは」
資料へ目を落としながら、彼女は言った。
「多くの場合、結果です」
「結果?」
「何を成し遂げたか。何を変えたか。後世へ何を残したか。それを整理し、積み重ねるのが歴史です」
古い紙と現代の文字が、机の上で重なっている。
「ですが」
スズメは写真へ触れた。
「その人が、その瞬間に何を怖がっていたのか。誰に生きていてほしかったのか。どこへ帰りたかったのか。そうしたものすべてを、一行の記録へ残すことはできません」
「…………」
「蓮根清弦は」
スズメは少しだけ笑った。
「英雄になろうとして、英雄になったのではないのでしょう」
「…………」
「その日、その日で、自分が必要だと思ったことをした。その結果を後世の人が見て、英雄と呼んだ」
「…………」
奎星の指が止まった。
清弦。英雄。自分の先祖。幕末の魔法界を変えた人間。神代榊を使い、現代式魔法を広め、霊脈を救った人間。
奎星はずっと、その看板を見せられてきた。立派な先祖。偉大な魔法使い。国のために戦った人間。その血を引いている。同じ杖を持っている。だから自分も、そうあるべきなのだと、どこかで勝手に思わされていた。
清弦ならどう思う。清弦ならどうする。英雄の末裔なら、どう生きる。
けれど、奎星は本人に会った。
百五十年前、まだ英雄などではなかった蓮根清弦に。
身体が弱く、熱を出し、鈴に怒られ、変なところで頑固で、すぐ自分だけで何とかしようとして、見たことのない西洋魔法に目を輝かせ、測定器を買い、馬の名前に本気で怒り、エクスペリアームスに失敗し、成功すれば少しだけ嬉しそうにして、鈴のことになるとものすごく分かりやすくなる。それなのに、最後まで絶対に認めようとしなかった。
「…………」
奎星の口元が、少しずつ上がった。
「……なんだ」
「蓮根君?」
「なんだよ」
笑う。
「同じじゃん」
「何がです?」
「俺と」
清弦。
「めちゃくちゃ同じじゃん」
笑いが少し大きくなる。
「国救おうとかじゃねえんだ」
「…………」
「俺も、学校に帰りたかっただけ」
友達と、みんなと馬鹿をやりたかった。
そして、守りたい人がいた。
奎星は目の前のスズメを見る。彼女の目が、ほんの僅かに動いた。けれど、奎星はそこだけ、それ以上言わなかった。
「そしたら」
写真へ視線を戻す。
「いつの間にか学校救ってた」
清弦へ目を向ける。
「こいつも」
写真越しに、清弦の額を指先で軽く叩く。
「村守って」
「はい」
「土地守って」
「はい」
「好きな女の子守ろうとして」
「はい」
「気づいたら日本救ってた」
奎星は肩を揺らして笑った。
「何だよ、それ」
「…………」
「英雄って」
笑いながら言う。
「案外そんなもんなのかよ」
スズメも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「少なくとも」
「うん」
「蓮根家では、そうなのかもしれませんね」
「嫌な家系!」
「今更でしょう」
「スズメちゃんまで!」
「烏丸先生です」
「戻った!」
「何がです?」
「いや」
奎星は笑ったまま、首を横に振った。
「それでいい」
*
机の上には、写真の隣に古い手記の複写が置かれていた。スズメはそれをゆっくりめくり、ある一行のところで指を止める。
「これが」
「うん」
「魔法省で見つかったという、清弦本人の手記ですね」
「そう」
「蓮根君が消える直前に見ていた」
「うん」
「では」
スズメは一行を指した。
「これは」
「…………」
奎星の笑みが止まった。
見覚えのある文字だった。つい何日か前、いや、百五十年以上前に、本人へ冗談めかして言った言葉が蘇る。
ちゃんと書いとけよ。俺がめちゃくちゃカッコよかったって。
「……まさか」
奎星は紙を自分の方へ引き寄せ、そこに記された文章を読む。
《しかし、あれを我一人の功績として記すことは、到底できない。》
清弦の声が、耳の奥で聞こえた気がした。
《あの妖魔どもを退け得たのは、彼の助けがあったからだ。》
谷。黒い妖魔。十三人の仲間。叫び声。鬼火鳥。青白い光。インペディメンタ。エクスペリアームス。そして、清弦。
《私には、兄弟がいた。》
奎星の指が止まった。
スズメは何も言わない。
《彼なしでは、私はあの日を越えることはできなかっただろう。》
奎星の喉が、ゆっくり動く。
「……あいつ」
声が少し掠れた。
さらに先へ目を移す。
《無礼で。》
「おい」
次の一文。
《不躾で。》
「待て」
そして。
《それでいて、とても勇敢だった。》
「…………」
奎星はしばらく黙った。
「どうしました?」
「いや」
「褒められていますよ」
「前二つ悪口じゃん!」
「事実では?」
「スズメちゃん!?」
「烏丸先生です」
「今そこ!?」
スズメは小さく笑った。奎星も、もう一度手記へ目を落とす。
《彼は、私と同じ大きな神代榊から作られた杖を使っていた。》
右手に握った自分の神代榊。平坂が百五十年前、未来の杖を見本にして清弦へ作った、同じ一本の杖。違う時間を越えて、二人の手に渡った杖。
《杖の芯には、鬼火鳥の羽根が使われていた。》
「…………」
奎星は神代榊を机の上へ置いた。古い木が、乾いた音を立てる。
「全部」
小さく言う。
「書いてんじゃん」
「はい」
「マジで」
「はい」
「…………」
さらに先へ進む。
《名を――》
そこで紙は欠けていた。名前だけがない。
その先には。
《――という。》
奎星は、その空白を見つめた。
数日前まで、ここに誰の名があったのか知らなかった。清弦の兄弟とは誰なのか。もう一人の英雄とは誰なのか。分からなかったからこそ、面白そうだと思った。清弦より変な奴だったら面白い。そう言って、百五十年前へ行った。
長い、長い寄り道だった。
けれど今なら、名前がなくても分かる。
「蓮根君」
「ん?」
「この人物は」
スズメが手記を見る。
「あなたなのですね」
「うん」
「清弦の」
一拍置いて、彼女は言った。
「兄弟」
「…………」
奎星は清弦の写真を見た。妙に硬い顔。右手には神代榊。隣には鈴。少し離れたところに自分がいる。子供たちに引っ張られ、清弦の横から追いやられている。
あの日、最後に聞いた。
また会えるか。
会えるわけねえだろ。百五十年後だぞ。
そうだったな。
光。
またな。
「…………」
奎星の口元が、ゆっくり上がった。
「誰が兄弟だ」
笑う。
「馬鹿……」
その声は、嬉しそうだった。
スズメは何も言わない。奎星は笑ったまま、目元を手の甲で少しだけ擦った。
「しかも無礼で不躾って」
「書かれていますね」
「お前もだろ、清弦」
「聞こえませんよ」
「分かってる」
「ではなぜ」
「言いたかっただけ」
「そうですか」
「うん」
奎星は手記を見る。
「俺さ」
「はい」
「ずっと」
一拍置いて、言った。
「あいつのこと、めんどくさかったんだよ」
「清弦を?」
「うん」
資料に記された英雄という文字。末裔という言葉。自分の背中へ勝手に立てられた看板。
「勝手に背中に立たされて」
「…………」
「こいつみたいになれって言われてる感じして」
「はい」
「俺、清弦じゃねえよって」
「はい」
「何回も思った」
けれど。
「会ったら」
写真を見る。
「ただの馬鹿だった」
「かなり失礼な結論ですね」
「俺と同じくらい」
「さらに失礼です」
奎星が笑う。
「でも」
指先が、手記の《兄弟》という文字へ近づく。触れはしない。ただ、そのすぐ横で止まった。
もう、英雄ではない。
歴史の向こうにいる知らない人間でもない。自分の人生を縛る大きな名前でもない。
熱を出し、頑固で、口が悪く、鈴のことが好きで、一緒に戦った友達。
「……清弦だ」
奎星は言った。
「はい」
「俺の」
少し照れくさそうに、続ける。
「兄弟」
スズメは笑った。
「はい」
「本人には言わねえけど」
「もう会えないのでしょう?」
「だから言わなくて済む」
「逃げましたね」
「逃げてねえ!」
「そうですか?」
「そう!」
研究室に、二人の笑い声が響いた。
*
しばらくして、奎星は椅子の背へ身体を預けた。
「……疲れた」
「当然です」
「マジで疲れた」
「医務室へ行きますよ」
「もうちょい」
「駄目です」
「五分」
「駄目です」
「三分」
「駄目です」
「一分」
「蓮根君」
「はい」
「立ってください」
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「そこは譲らねえなあ」
「譲りません」
奎星は立ち上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。スズメがすぐに腕を支える。
「ほら」
「これは」
「何です」
「久しぶりに動いたから」
「数分前まで走ってきた人が言わないでください」
「幕末では休んだ」
「幕末を時間の基準へ入れないでください」
「無理だろ!」
奎星はスズメの肩を借りながら立ち上がった。
机の上には、資料と古い手記、それから一枚の新しい写真が残されている。その中で、清弦と鈴が並び、ジェームズが笑い、甚八、宗次郎、秋月、弥平、源兵衛、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム、高瀬、村の人々、鬼火鳥、そして奎星が、百五十年前の光の中に立っていた。
「……スズメちゃん」
「何です?」
「話の続き」
「今ですか?」
「うん」
「医務室へ向かいながらなら」
「長いぞ」
「でしょうね」
「横浜で決闘した話から」
「そこからですか」
「その前に山賊」
「山賊?」
「あと清弦が高熱出して」
「最初からにしてください」
「めちゃくちゃ長いけど」
「構いません」
「夜までかかるぞ」
「途中で寝たら明日聞きます」
「明日?」
「はい」
スズメは、何でもないことのように言った。
「また明日です」
奎星の足が止まった。
「蓮根君?」
また明日。
その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。
何度、この言葉を失いたくないと思っただろう。明日。次の日。その次の日。時間が続くこと。帰ってくること。また会えること。
「……うん」
奎星は笑った。
「また明日」
スズメが少し不思議そうに奎星を見る。
「何です?」
「何でもない」
「今日はそれが多いですね」
「色々あったから」
「そうでしたね」
二人で研究室の扉へ向かう。
開ける直前、スズメがふと立ち止まった。
「蓮根君」
「ん?」
スズメは一瞬だけ言葉を選び、それから穏やかに笑った。
「おかえりなさい」
奎星は何も言わなかった。
百五十年前、知らない土地へ落ちた。帰るために歩き、その途中で友達ができた。兄弟ができた。誰かの家へ上がり、飯を食い、喧嘩をし、馬に名前をつけ、魔法を教え、魔法を教わり、戦い、笑い、別れた。
あまりにも長い寄り道だった。
それでも最後には、帰ってきた。
「……ただいま」
奎星は笑った。
「スズメちゃん」
スズメも少し笑う。
「烏丸先生です」
「はいはい」
扉が開いた。
初夏の海から吹き上がる風が回廊を抜け、研究室の紙を一枚だけ揺らした。
古い手記。
《私には、兄弟がいた。》
その横には、百五十年前に撮られ、百五十年後へ持ち帰られた写真がある。
英雄と呼ばれた少年と、英雄と呼ばれることになった少年が、どちらもそんな未来など知らない顔で、そこに立っていた。
奎星の左手首で、銀色の腕時計が時を刻む。
こち。
戻らない。
一秒。
次の一秒。
また、その次。
清弦はもう、歴史の向こうにいる英雄ではなかった。
百五十年の長い寄り道の果て、ようやく奎星の兄弟になったのだ。
こち。
時計は、ただ前へ進んでいた。