マホウトコロ   作:西野圭吾

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第16話 長い寄り道

 二〇二七年六月。

 

 光が弾けた。白と青と銀が混ざり合ったまばゆい光が、何も見えなくなるほど会議室を満たし、その中心から人の身体が投げ出される。

 

「――っ!」

 

 奎星の足が硬い床へ着いた。そう思った次の瞬間には、膝から崩れ落ちていた。右手を床につき、どうにか顔から突っ込むことだけは避けたものの、全身に刻まれた傷が一斉に痛みを訴え、背中と肩、脇腹へ鈍い痛みが走る。

 

 白い床。白い壁。天井から降り注ぐ魔法灯。低く唸る空調音。見慣れた長机。その中央には、三重の封印術式に囲まれた銀色の懐中時計――K─417、逆転時計が置かれている。

 

 壁面には、まだ古い手記が映し出されていた。

 

 蓮根清弦。

 

「…………」

 

 奎星は片膝をついたまま、何度も瞬きをした。土ではない。草でもない。湿った山の空気でも、幕末の村を包む煙でもない。ここは魔法省だった。

 

「も……」

 

 掠れた声が喉から漏れる。

 

「戻った!?」

 

 その声が会議室へ響いた瞬間、机の向こうで真壁征士郎が息を呑んだ。

 

「蓮根君!?」

 

 真壁は立っていたというより、驚きのあまりその場に縫い留められていた。片手には杖、もう片方の手は机に置かれている。普段なら何が起きても容易には表情を変えない男の目が、眼鏡の奥で明らかに見開かれていた。

 

 その隣では、逆転時計の管理を担当していた職員が、封印術式へ杖を向けたまま動けずにいる。記録局の職員も、手にしていた資料を半ば持ち上げた姿勢で固まっていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「…………」

 

 奎星は三人の顔を順番に見た。

 

「何その顔」

 

「蓮根君」

 

「うん」

 

「……蓮根君?」

 

「二回言った」

 

「君なのか」

 

「他の誰に見えんの!?」

 

 その一言で、真壁がようやく動いた。椅子を蹴るようにして机の横を回り、奎星の前まで歩み寄る。

 

「何があった!?」

 

「え」

 

「何があった!?」

 

「真壁さんが二回聞くの珍し!」

 

「答えろ!」

 

 奎星は、自分の姿を見下ろした。制服は裂け、全身が泥にまみれている。乾いた血が袖や襟元にこびりつき、肩には治療布が巻かれていた。袖は焦げ、膝は破れ、靴には幕末の山の土がまだ残っている。懐には一枚の写真があり、腰には神代榊が差され、左手首には銀色の腕時計がある。

 

 真壁からすれば、奎星はつい数秒前までこの会議室にいたはずだった。逆転時計が異常作動し、神代榊が反応し、清弦の手記にある名前の失われた部分へ青白い光が走った。そして奎星の姿が消えた。

 

 それだけだった。

 

 ほんの数秒。

 

 なのに、戻ってきた少年は、何日も戦場を歩き回ったような有様になっている。

 

「何があったって……」

 

 奎星は真壁を見た。

 

 幕末。清弦。鈴。小萱村。神代榊。鬼火鳥。横浜。ジェームズ。決闘。酒。十三人の仲間。大型妖魔。霊脈。以蔵。プロテゴ。エクスペリアームス。そして、常世返し。

 

 思い返せば、あまりにも多くのことがあった。

 

「……色々あったよ!!」

 

「色々で済ませるな!」

 

「長いんだよ!」

 

「どのくらいだ!」

 

「知らねえよ! 何日いたか途中から数えてねえ!」

 

「何日!?」

 

 管理担当の職員が思わず声を上げた。

 

「こちらでは数秒です!」

 

「マジ!?」

 

 今度は奎星が驚いた。

 

「数秒!?」

 

「三秒も経っていません!」

 

「嘘だろ!?」

 

「こちらの台詞です!」

 

「俺、めちゃくちゃ頑張ったのに三秒!?」

 

「時間の長さに文句を言わないでください!」

 

「頑張った分くらい経てよ!」

 

「蓮根君!」

 

 真壁が奎星の肩へ手を伸ばした。触れる直前、奎星はふと壁面へ目を向けた。

 

 清弦の手記が、まだそこに映っている。

 

 古い墨。欠けた紙。消えた名前。

 

「……あ」

 

「蓮根君?」

 

 奎星は立ち上がった。

 

「待て」

 

「真壁さん」

 

「座れ」

 

「これ借りてくよ!」

 

「何?」

 

 奎星は机へ飛びついた。記録局の職員の前に置かれていた資料の束――清弦について集められた公的記録、霊脈復旧に関する古い資料の複写、現代字体へ直された手記――を、まとめて掴み取る。

 

「なっ――」

 

 記録局の職員が声を上げた。

 

「ちょっと!?」

 

「蓮根君!」

 

「ありがと!」

 

「待て!」

 

「な、おい! 魔法省のものだぞ!」

 

「俺の家族のだろ!!」

 

「そういう問題ではない!」

 

「あとで返す!」

 

「先に許可を取れ!」

 

「急いでんの!」

 

「医務室が先だ!」

 

「それもあと!」

 

「蓮根君!」

 

 扉が開き、奎星は廊下へ飛び出した。ところが数歩走ったところで、何かを思い出したように戻ってくる。

 

「何だ!」

 

「これ!」

 

 机の横へ転がっていた自分の鞄を拾い上げる。

 

「忘れてた!」

 

「蓮根君!!」

 

「じゃ!」

 

 今度こそ、奎星は走り去った。扉が閉まり、会議室に静寂が落ちる。

 

 記録局の職員が、呆然としたまま真壁を見た。

 

「……止めなくていいんですか」

 

「止まると思うか?」

 

「思いません」

 

「私もだ」

 

 真壁は額へ手を当てた。

 

 机の中央では、逆転時計がすでに動きを止めている。三重の封印術式に囲まれた銀色の時計は、何事もなかったかのように、ただ静かにそこにあった。

 

            *

 

 マホウトコロの校舎が見えた瞬間、奎星は足を止めた。

 

 南硫黄島の海が、初夏の陽射しを受けて青く輝いている。羊脂玉の校舎は白い光をまとい、回廊には潮の匂いが流れていた。空を飛ぶ鳥の影が壁を横切り、遠くから生徒たちの声が聞こえてくる。

 

 全部、知っている景色だった。

 

 つい数秒前まで、こちら側にいたはずの場所なのに、ひどく懐かしく感じられた。

 

「……懐かし」

 

 思わず口からこぼれた。

 

 転移区画の職員が、不思議そうに奎星を見る。ぼろぼろの制服、血と泥にまみれた身体、手に抱えた大量の資料。どう見ても、今しがた普通に魔法省から帰ってきた生徒の姿ではない。

 

「蓮根君?」

 

「はい!」

 

「どうしたんですか、その……」

 

「色々!」

 

「またですか?」

 

「またって何!?」

 

 言い返しながら、奎星は校舎へ向かって走り出した。

 

 石畳を駆け、階段を上り、白い回廊を抜ける。見慣れた角を曲がり、何度も歩いた廊下を進む。すれ違った生徒たちが、驚いた顔で振り返った。

 

「蓮根?」

 

「お前どうした!?」

 

「あとで!」

 

「血出てるぞ!」

 

「知ってる!」

 

「どこ行くんだよ!」

 

「研究室!」

 

 行く場所は、最初から決まっていた。

 

 魔法史研究室。

 

 あの小さな部屋。教科書と資料が積まれ、赤い文字で訂正された紙が机の上に散らばり、何度同じことを尋ねても答えてくれる人がいる場所。奎星がずっと帰りたかった場所だった。

 

 走るたびに背中が痛み、脇腹が軋み、脚が重くなる。それでも止まらなかった。廊下の先に、見慣れた扉が見える。

 

 魔法史研究室。

 

 奎星はノックをしなかった。勢いよく扉を開ける。

 

「スズメちゃん!!」

 

「――っ!?」

 

 机の向こうで、烏丸スズメが椅子から飛び上がった。

 

「は、蓮根君!?」

 

 長い黒髪。見慣れた服。机の上に開かれた本と資料。窓の向こうに広がる青い海。

 

「スズメちゃん!」

 

「蓮根君、その格好は――」

 

 最後まで言わせず、奎星は真っ直ぐ歩み寄った。一歩、二歩と距離を詰め、スズメの前へ立つ。そして、そのまま彼女を抱き締めた。

 

「…………!」

 

 スズメの身体が完全に固まる。

 

「蓮……」

 

 奎星の腕が背中へ回っている。強く、それでいて、そこにいることを確かめるような抱き方だった。

 

「な、ど……どうしたんですか」

 

 スズメの声は、珍しく分かりやすく乱れていた。

 

「蓮根君?」

 

「…………」

 

「怪我をしているではありませんか」

 

「うん」

 

「血も」

 

「うん」

 

「一体どこで――」

 

「や……」

 

 奎星は、彼女の背中へ回した腕に少しだけ力を込めた。

 

「しばらくこうさせて」

 

「…………」

 

 スズメは言葉を失った。

 

 奎星の肩越しに見えるのは、破れた制服、乾いた泥、治療布、擦り傷、そして微かに震える指だった。数秒前にどこかで転んだという程度の怪我ではない。そのことを、スズメは何となく理解した。

 

「…………分かりました」

 

 声が柔らかくなる。

 

 スズメの両手は、しばらく宙に浮いたままだった。どこへ置けばいいのか分からないように迷ったあと、片手が奎星の背中へ触れ、もう片方が制服の肩をそっと掴む。

 

 奎星は目を閉じた。

 

 土の匂いはしない。煙も、馬の汗も、山の冷たい風もない。ここにあるのは、紙と古い本の匂い、それから海から流れ込む潮の香りと、知っている人の温度だった。

 

「……帰ってきた」

 

 小さく呟く。

 

「え?」

 

「いや」

 

 顔はまだスズメの肩の近くにある。

 

「何でもない」

 

「何でもない人は、このような格好では戻ってきません」

 

「それはそう」

 

「それから」

 

「ん?」

 

「そろそろ説明してください」

 

「もうちょい」

 

「…………」

 

「駄目?」

 

 スズメは少しだけ困った顔をした。けれど、腕を離そうとはしなかった。

 

「……あと少しだけです」

 

「うん」

 

「そのあと、必ず医務室です」

 

「今言う?」

 

「言います」

 

「雰囲気」

 

「怪我人が雰囲気を優先しないでください」

 

「はい……」

 

「それと」

 

「何?」

 

「痛いところは」

 

「全部」

 

「全部?」

 

「全部」

 

 スズメの眉がゆっくり寄る。

 

「蓮根君」

 

「怒んないで」

 

「まだ怒っていません」

 

「その顔は怒る前じゃん」

 

「まだです」

 

「怖っ」

 

 奎星はようやく、少しだけ身体を離した。目の前にあるスズメの顔を見つめる。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「いる」

 

「私はいますが」

 

「うん」

 

「蓮根君?」

 

 奎星は笑った。

 

「スズメちゃん」

 

「……烏丸先生です」

 

「それ」

 

「何です?」

 

「めっちゃ久しぶり」

 

「先ほども補習で言いました」

 

「俺には久しぶりなの!」

 

 スズメの眉間に、新しい皺が増えた。

 

            *

 

「百五十年前?」

 

「うん」

 

「幕末?」

 

「うん」

 

「蓮根清弦本人に?」

 

「会った」

 

「…………」

 

「喧嘩した」

 

「なぜですか」

 

「最初、妖怪だと思われた」

 

「…………」

 

「俺が」

 

「でしょうね」

 

「そこ即答!?」

 

 十分後、奎星は魔法史研究室の椅子へ座らされていた。スズメが持っていた簡易の治療具で傷を手当てされ、目立つ出血だけは止まっている。それでも本格的な治療が必要なことに変わりはない。

 

 本来なら今すぐ医務室へ連行されるところを、「資料見たら行く!」という奎星の猛烈な抵抗によって、十分だけ猶予をもらっていた。

 

 机の上には、魔法省から奎星が半ば強奪してきた資料の束が広げられている。蓮根清弦、幕末、関東霊脈、大型妖魔、近代魔法、古い手記。そこへ奎星は、懐から一枚の写真を取り出して置いた。

 

「…………」

 

 スズメの目が、そこで初めて本当に止まった。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「これは」

 

「写真」

 

「それは分かります」

 

「昨日撮った」

 

「…………」

 

「百五十年前に」

 

「…………」

 

「昨日」

 

「どちらかにしてください」

 

「どっちも本当なんだよ!」

 

 スズメは写真をそっと両手で持ち上げた。

 

 まだ古びていない。撮られてから、奎星の感覚では一日も経っていない。けれど、そこに写っている人々の服や家、村の景色、大きな神代榊は、どう見ても現代のものではなかった。

 

 前列には子供たちと村人、老人たち。後ろには怪我をした男たちと外国人たちが並び、杖を持つ者、笑っている者、妙に硬い表情をしている者がいる。中央付近には、一人の青年が立っていた。顔立ちは奎星と少し似ている。着物と袴を身につけ、右手には神代榊を持っていた。

 

「……清弦」

 

 スズメが呟く。

 

「分かる?」

 

「資料の写真と一致します」

 

「そう」

 

 奎星は写真を指差した。

 

「こいつ」

 

「はい」

 

「めっちゃ性格悪い」

 

「先祖に対する第一声としてどうなのですか」

 

「本当だもん」

 

「あなたと似ているのでは?」

 

「顔だけ!」

 

「そうでしょうか」

 

「何で!」

 

 スズメは写真の清弦から、すぐ隣へ視線を移した。そこには一人の少女がいる。長い黒髪の少女が、清弦の隣に自然な様子で立っていた。

 

「この方は?」

 

「鈴ちゃん」

 

「…………」

 

「白川鈴」

 

「鈴ちゃん」

 

「うん」

 

「随分、親しげですね」

 

「俺?」

 

「あなたがです」

 

「友達」

 

「百五十年前の?」

 

「うん」

 

「…………」

 

 スズメは、考えることを一度やめたようだった。

 

「こちらの外国人は?」

 

「ジェームズ」

 

「こちらは?」

 

「ミラー」

 

「この方は?」

 

「トーマス」

 

「こちらは」

 

「ウィリアム。写真撮ったのもこいつ」

 

「こちらは」

 

「エドワード。めっちゃ怒る治療役」

 

「こちらの日本人は?」

 

「甚八。宗次郎。秋月。弥平。源兵衛。で、高瀬さん」

 

「…………」

 

「全員で戦った」

 

 スズメの指が写真の縁で止まる。

 

「十三人」

 

「うん」

 

「蓮根君を含めて?」

 

「うん」

 

「清弦も」

 

「うん」

 

「そして」

 

 スズメは写真を見つめた。

 

「この村の方々」

 

「うん」

 

「鬼火鳥も?」

 

「鳥も」

 

「…………」

 

 スズメは長い間、写真から目を離さなかった。

 

「本当に……行ったのですね」

 

「だから言ってんじゃん!」

 

「俄かには信じ難い話です」

 

「俺もそう思う!」

 

「本人が言わないでください」

 

「だって百五十年前だぞ!?」

 

「声を落としてください」

 

「はい」

 

 奎星は机へ腕を置き、魔法省から持ち出した資料を引き寄せた。

 

 そこには、奎星がつい数秒前まで読んでいたものと同じ記述がある。幕末、関東一帯で発生していた霊脈異常。地下の霊脈へ巣食った妖魔。周囲の魔法を食らいながら増殖し、集落へ魔力障害や病、異常現象を引き起こしたこと。そして、それを蓮根清弦が討ち、霊脈を解放したこと。

 

 多くの記録が、その出来事をそうまとめていた。

 

「…………」

 

 奎星の眉が、だんだん寄っていく。

 

「何これ」

 

「何がです?」

 

「何であいつ一人の手柄になってんだよ!!」

 

「声」

 

「俺らだって頑張ったぞ!」

 

「俺らとは誰ですか」

 

「俺とかジェームズとか!」

 

「ジェームズとは誰ですか」

 

「さっき説明したじゃん!」

 

「名前だけではなく、です」

 

「あいつプロテゴめちゃくちゃ強くて、デパルソも強くて、英語でずっと化け物煽ってて――」

 

「待ってください」

 

「何?」

 

「一人ずつ説明するつもりですか」

 

「するけど?」

 

「長くなります」

 

「めちゃくちゃ長いよ!」

 

「でしょうね」

 

 スズメは資料を一枚めくった。

 

「ただ」

 

「何」

 

「こちらには、協力者が存在したという記録も残っています」

 

「それは知ってる」

 

「でしたら」

 

「でも名前ねえじゃん!」

 

 奎星は写真を机へ置いた。

 

「この人たち!」

 

 指で一人ずつ辿っていく。

 

「ジェームズも! ミラーも! トーマスも! エドワードも! ウィリアムも!」

 

 次に、日本人たちを指す。

 

「甚八も! 宗次郎も! 秋月も! 弥平も! 源兵衛も! 高瀬さんも!」

 

 そして清弦。

 

「こいつも!」

 

 最後に、自分を指差す。

 

「俺も!」

 

「はい」

 

「めちゃくちゃ頑張った!」

 

「分かりました」

 

「鬼火鳥も来た!」

 

「はい」

 

「平坂さんも杖作った!」

 

「はい」

 

「村のみんなも助けてくれた!」

 

「はい」

 

「なのに!」

 

 奎星は資料の大きな見出しを指で叩いた。

 

「幕末の英雄、蓮根清弦って何だよ!」

 

「…………」

 

「あいつ」

 

 奎星は写真の清弦を見る。

 

「鈴ちゃんのために頑張っただけだぞ!」

 

「鈴ちゃんとは誰ですか」

 

「清弦の好きな女の子!」

 

「…………」

 

 スズメが写真へ目を落とす。清弦と鈴は、確かに隣同士に並んでいた。

 

「本人から聞いたのですか」

 

「聞いてない」

 

「ではなぜ断言できるのです」

 

「見りゃ分かる!」

 

「…………」

 

「マジで分かるって!」

 

「あなたと同じ理屈ですね」

 

「何が」

 

「何でもありません」

 

「何だよ!」

 

「続けてください」

 

「何でちょっと笑ってんの?」

 

「笑っていません」

 

「絶対笑った!」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

 奎星は少し身体を椅子へ預けた。さっきまでの笑いが、ゆっくり消えていく。

 

「あいつさ」

 

「はい」

 

「英雄になんかなろうとしてねえよ」

 

 スズメが顔を上げる。

 

「村を守りたかった」

 

 奎星は写真の小萱村へ目を向けた。

 

「霊脈も」

 

 神代榊へ視線を移す。

 

「鬼火鳥も」

 

 枝に止まる小さな光を思い出す。

 

「別に、自分のもんにしたかったわけじゃない」

 

 清弦の言葉が蘇る。川を測ったからといって、川が自分のものになるわけではない。

 

「守りたかったんだよ」

 

 奎星は写真の鈴を見る。

 

「あと」

 

 少し笑う。

 

「この子」

 

「鈴さん」

 

「うん」

 

「あいつ、鈴ちゃん助けるためなら自分が死んでもいいとか思ってたし」

 

「それは」

 

 スズメの眉が寄る。

 

「馬鹿ですね」

 

「だろ!?」

 

「蓮根君が言えますか?」

 

「何で俺!?」

 

「心当たりは」

 

「…………」

 

「ありますね」

 

「まあ……」

 

「ありますね」

 

「……はい」

 

 奎星は頬を掻いた。

 

「でも」

 

 写真を見る。

 

「あいつが妖魔と戦ったのって、日本の魔法界を救って歴史に名前を残そうとかじゃねえんだよ」

 

 資料の見出しには、英雄、幕末、近代魔法史という言葉が並んでいる。

 

「村があって」

 

 奎星は写真の村を指した。

 

「友達がいて」

 

 並んだ人々を指す。

 

「鈴ちゃんがいて」

 

 清弦の隣の少女を指す。

 

「そこに化け物が来て」

 

 拳を握る。

 

「だから、ぶっ飛ばしただけ」

 

 スズメは何も言わなかった。

 

「それがさ」

 

 奎星は笑った。

 

「百五十年経ったら、何かめちゃくちゃ立派になってんの」

 

「…………」

 

「幕末の英雄」

 

 鼻で笑う。

 

「何だよそれ」

 

「…………」

 

「あいつ、普通に馬鹿だったぞ」

 

「蓮根君」

 

「何」

 

 スズメは奎星を静かに見た。

 

「それは」

 

 一拍置いて、言う。

 

「あなたもそうでしょう」

 

「え?」

 

 奎星が止まった。

 

「何が」

 

「あなたです」

 

「俺?」

 

「蓮根君は」

 

 スズメは資料へ指先を置いた。

 

「英雄になろうとして、マホウトコロを取り戻したのですか」

 

「…………」

 

「黒曜の環と戦ったのも」

 

「…………」

 

「星帰り作戦で走り回ったのも」

 

「…………」

 

「神代冥司へ立ち向かったのも」

 

「…………」

 

「そのためですか」

 

「……違う」

 

 答えは、すぐに出た。

 

 スズメは静かな声で続ける。

 

「では、なぜです?」

 

 奎星は答えなかった。けれど、答えなくても分かっていた。

 

 学校へ帰りたかった。寮へ帰りたかった。教室へ戻りたかった。飯を食べ、補習を受け、日向や楓や岳や伊織や御影や九重院や先生たちと、くだらない話をしたかった。

 

 そして、目の前にいる黒い髪の少女を守りたかった。

 

 神代の前で、愛していると簡単に言えた。けれど、その本人へは、まだ言えていない。

 

「……帰りたかった」

 

 奎星が言った。

 

「はい」

 

「学校に」

 

「はい」

 

「みんなのところに」

 

「はい」

 

 スズメは、それ以上尋ねなかった。

 

「歴史に残るのは」

 

 資料へ目を落としながら、彼女は言った。

 

「多くの場合、結果です」

 

「結果?」

 

「何を成し遂げたか。何を変えたか。後世へ何を残したか。それを整理し、積み重ねるのが歴史です」

 

 古い紙と現代の文字が、机の上で重なっている。

 

「ですが」

 

 スズメは写真へ触れた。

 

「その人が、その瞬間に何を怖がっていたのか。誰に生きていてほしかったのか。どこへ帰りたかったのか。そうしたものすべてを、一行の記録へ残すことはできません」

 

「…………」

 

「蓮根清弦は」

 

 スズメは少しだけ笑った。

 

「英雄になろうとして、英雄になったのではないのでしょう」

 

「…………」

 

「その日、その日で、自分が必要だと思ったことをした。その結果を後世の人が見て、英雄と呼んだ」

 

「…………」

 

 奎星の指が止まった。

 

 清弦。英雄。自分の先祖。幕末の魔法界を変えた人間。神代榊を使い、現代式魔法を広め、霊脈を救った人間。

 

 奎星はずっと、その看板を見せられてきた。立派な先祖。偉大な魔法使い。国のために戦った人間。その血を引いている。同じ杖を持っている。だから自分も、そうあるべきなのだと、どこかで勝手に思わされていた。

 

 清弦ならどう思う。清弦ならどうする。英雄の末裔なら、どう生きる。

 

 けれど、奎星は本人に会った。

 

 百五十年前、まだ英雄などではなかった蓮根清弦に。

 

 身体が弱く、熱を出し、鈴に怒られ、変なところで頑固で、すぐ自分だけで何とかしようとして、見たことのない西洋魔法に目を輝かせ、測定器を買い、馬の名前に本気で怒り、エクスペリアームスに失敗し、成功すれば少しだけ嬉しそうにして、鈴のことになるとものすごく分かりやすくなる。それなのに、最後まで絶対に認めようとしなかった。

 

「…………」

 

 奎星の口元が、少しずつ上がった。

 

「……なんだ」

 

「蓮根君?」

 

「なんだよ」

 

 笑う。

 

「同じじゃん」

 

「何がです?」

 

「俺と」

 

 清弦。

 

「めちゃくちゃ同じじゃん」

 

 笑いが少し大きくなる。

 

「国救おうとかじゃねえんだ」

 

「…………」

 

「俺も、学校に帰りたかっただけ」

 

 友達と、みんなと馬鹿をやりたかった。

 

 そして、守りたい人がいた。

 

 奎星は目の前のスズメを見る。彼女の目が、ほんの僅かに動いた。けれど、奎星はそこだけ、それ以上言わなかった。

 

「そしたら」

 

 写真へ視線を戻す。

 

「いつの間にか学校救ってた」

 

 清弦へ目を向ける。

 

「こいつも」

 

 写真越しに、清弦の額を指先で軽く叩く。

 

「村守って」

 

「はい」

 

「土地守って」

 

「はい」

 

「好きな女の子守ろうとして」

 

「はい」

 

「気づいたら日本救ってた」

 

 奎星は肩を揺らして笑った。

 

「何だよ、それ」

 

「…………」

 

「英雄って」

 

 笑いながら言う。

 

「案外そんなもんなのかよ」

 

 スズメも、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「少なくとも」

 

「うん」

 

「蓮根家では、そうなのかもしれませんね」

 

「嫌な家系!」

 

「今更でしょう」

 

「スズメちゃんまで!」

 

「烏丸先生です」

 

「戻った!」

 

「何がです?」

 

「いや」

 

 奎星は笑ったまま、首を横に振った。

 

「それでいい」

 

            *

 

 机の上には、写真の隣に古い手記の複写が置かれていた。スズメはそれをゆっくりめくり、ある一行のところで指を止める。

 

「これが」

 

「うん」

 

「魔法省で見つかったという、清弦本人の手記ですね」

 

「そう」

 

「蓮根君が消える直前に見ていた」

 

「うん」

 

「では」

 

 スズメは一行を指した。

 

「これは」

 

「…………」

 

 奎星の笑みが止まった。

 

 見覚えのある文字だった。つい何日か前、いや、百五十年以上前に、本人へ冗談めかして言った言葉が蘇る。

 

 ちゃんと書いとけよ。俺がめちゃくちゃカッコよかったって。

 

「……まさか」

 

 奎星は紙を自分の方へ引き寄せ、そこに記された文章を読む。

 

《しかし、あれを我一人の功績として記すことは、到底できない。》

 

 清弦の声が、耳の奥で聞こえた気がした。

 

《あの妖魔どもを退け得たのは、彼の助けがあったからだ。》

 

 谷。黒い妖魔。十三人の仲間。叫び声。鬼火鳥。青白い光。インペディメンタ。エクスペリアームス。そして、清弦。

 

《私には、兄弟がいた。》

 

 奎星の指が止まった。

 

 スズメは何も言わない。

 

《彼なしでは、私はあの日を越えることはできなかっただろう。》

 

 奎星の喉が、ゆっくり動く。

 

「……あいつ」

 

 声が少し掠れた。

 

 さらに先へ目を移す。

 

《無礼で。》

 

「おい」

 

 次の一文。

 

《不躾で。》

 

「待て」

 

 そして。

 

《それでいて、とても勇敢だった。》

 

「…………」

 

 奎星はしばらく黙った。

 

「どうしました?」

 

「いや」

 

「褒められていますよ」

 

「前二つ悪口じゃん!」

 

「事実では?」

 

「スズメちゃん!?」

 

「烏丸先生です」

 

「今そこ!?」

 

 スズメは小さく笑った。奎星も、もう一度手記へ目を落とす。

 

《彼は、私と同じ大きな神代榊から作られた杖を使っていた。》

 

 右手に握った自分の神代榊。平坂が百五十年前、未来の杖を見本にして清弦へ作った、同じ一本の杖。違う時間を越えて、二人の手に渡った杖。

 

《杖の芯には、鬼火鳥の羽根が使われていた。》

 

「…………」

 

 奎星は神代榊を机の上へ置いた。古い木が、乾いた音を立てる。

 

「全部」

 

 小さく言う。

 

「書いてんじゃん」

 

「はい」

 

「マジで」

 

「はい」

 

「…………」

 

 さらに先へ進む。

 

《名を――》

 

 そこで紙は欠けていた。名前だけがない。

 

 その先には。

 

《――という。》

 

 奎星は、その空白を見つめた。

 

 数日前まで、ここに誰の名があったのか知らなかった。清弦の兄弟とは誰なのか。もう一人の英雄とは誰なのか。分からなかったからこそ、面白そうだと思った。清弦より変な奴だったら面白い。そう言って、百五十年前へ行った。

 

 長い、長い寄り道だった。

 

 けれど今なら、名前がなくても分かる。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「この人物は」

 

 スズメが手記を見る。

 

「あなたなのですね」

 

「うん」

 

「清弦の」

 

 一拍置いて、彼女は言った。

 

「兄弟」

 

「…………」

 

 奎星は清弦の写真を見た。妙に硬い顔。右手には神代榊。隣には鈴。少し離れたところに自分がいる。子供たちに引っ張られ、清弦の横から追いやられている。

 

 あの日、最後に聞いた。

 

 また会えるか。

 

 会えるわけねえだろ。百五十年後だぞ。

 

 そうだったな。

 

 光。

 

 またな。

 

「…………」

 

 奎星の口元が、ゆっくり上がった。

 

「誰が兄弟だ」

 

 笑う。

 

「馬鹿……」

 

 その声は、嬉しそうだった。

 

 スズメは何も言わない。奎星は笑ったまま、目元を手の甲で少しだけ擦った。

 

「しかも無礼で不躾って」

 

「書かれていますね」

 

「お前もだろ、清弦」

 

「聞こえませんよ」

 

「分かってる」

 

「ではなぜ」

 

「言いたかっただけ」

 

「そうですか」

 

「うん」

 

 奎星は手記を見る。

 

「俺さ」

 

「はい」

 

「ずっと」

 

 一拍置いて、言った。

 

「あいつのこと、めんどくさかったんだよ」

 

「清弦を?」

 

「うん」

 

 資料に記された英雄という文字。末裔という言葉。自分の背中へ勝手に立てられた看板。

 

「勝手に背中に立たされて」

 

「…………」

 

「こいつみたいになれって言われてる感じして」

 

「はい」

 

「俺、清弦じゃねえよって」

 

「はい」

 

「何回も思った」

 

 けれど。

 

「会ったら」

 

 写真を見る。

 

「ただの馬鹿だった」

 

「かなり失礼な結論ですね」

 

「俺と同じくらい」

 

「さらに失礼です」

 

 奎星が笑う。

 

「でも」

 

 指先が、手記の《兄弟》という文字へ近づく。触れはしない。ただ、そのすぐ横で止まった。

 

 もう、英雄ではない。

 

 歴史の向こうにいる知らない人間でもない。自分の人生を縛る大きな名前でもない。

 

 熱を出し、頑固で、口が悪く、鈴のことが好きで、一緒に戦った友達。

 

「……清弦だ」

 

 奎星は言った。

 

「はい」

 

「俺の」

 

 少し照れくさそうに、続ける。

 

「兄弟」

 

 スズメは笑った。

 

「はい」

 

「本人には言わねえけど」

 

「もう会えないのでしょう?」

 

「だから言わなくて済む」

 

「逃げましたね」

 

「逃げてねえ!」

 

「そうですか?」

 

「そう!」

 

 研究室に、二人の笑い声が響いた。

 

            *

 

 しばらくして、奎星は椅子の背へ身体を預けた。

 

「……疲れた」

 

「当然です」

 

「マジで疲れた」

 

「医務室へ行きますよ」

 

「もうちょい」

 

「駄目です」

 

「五分」

 

「駄目です」

 

「三分」

 

「駄目です」

 

「一分」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「立ってください」

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「そこは譲らねえなあ」

 

「譲りません」

 

 奎星は立ち上がろうとして、脇腹の痛みに顔をしかめた。スズメがすぐに腕を支える。

 

「ほら」

 

「これは」

 

「何です」

 

「久しぶりに動いたから」

 

「数分前まで走ってきた人が言わないでください」

 

「幕末では休んだ」

 

「幕末を時間の基準へ入れないでください」

 

「無理だろ!」

 

 奎星はスズメの肩を借りながら立ち上がった。

 

 机の上には、資料と古い手記、それから一枚の新しい写真が残されている。その中で、清弦と鈴が並び、ジェームズが笑い、甚八、宗次郎、秋月、弥平、源兵衛、ミラー、トーマス、エドワード、ウィリアム、高瀬、村の人々、鬼火鳥、そして奎星が、百五十年前の光の中に立っていた。

 

「……スズメちゃん」

 

「何です?」

 

「話の続き」

 

「今ですか?」

 

「うん」

 

「医務室へ向かいながらなら」

 

「長いぞ」

 

「でしょうね」

 

「横浜で決闘した話から」

 

「そこからですか」

 

「その前に山賊」

 

「山賊?」

 

「あと清弦が高熱出して」

 

「最初からにしてください」

 

「めちゃくちゃ長いけど」

 

「構いません」

 

「夜までかかるぞ」

 

「途中で寝たら明日聞きます」

 

「明日?」

 

「はい」

 

 スズメは、何でもないことのように言った。

 

「また明日です」

 

 奎星の足が止まった。

 

「蓮根君?」

 

 また明日。

 

 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちていく。

 

 何度、この言葉を失いたくないと思っただろう。明日。次の日。その次の日。時間が続くこと。帰ってくること。また会えること。

 

「……うん」

 

 奎星は笑った。

 

「また明日」

 

 スズメが少し不思議そうに奎星を見る。

 

「何です?」

 

「何でもない」

 

「今日はそれが多いですね」

 

「色々あったから」

 

「そうでしたね」

 

 二人で研究室の扉へ向かう。

 

 開ける直前、スズメがふと立ち止まった。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

 スズメは一瞬だけ言葉を選び、それから穏やかに笑った。

 

「おかえりなさい」

 

 奎星は何も言わなかった。

 

 百五十年前、知らない土地へ落ちた。帰るために歩き、その途中で友達ができた。兄弟ができた。誰かの家へ上がり、飯を食い、喧嘩をし、馬に名前をつけ、魔法を教え、魔法を教わり、戦い、笑い、別れた。

 

 あまりにも長い寄り道だった。

 

 それでも最後には、帰ってきた。

 

「……ただいま」

 

 奎星は笑った。

 

「スズメちゃん」

 

 スズメも少し笑う。

 

「烏丸先生です」

 

「はいはい」

 

 扉が開いた。

 

 初夏の海から吹き上がる風が回廊を抜け、研究室の紙を一枚だけ揺らした。

 

 古い手記。

 

《私には、兄弟がいた。》

 

 その横には、百五十年前に撮られ、百五十年後へ持ち帰られた写真がある。

 

 英雄と呼ばれた少年と、英雄と呼ばれることになった少年が、どちらもそんな未来など知らない顔で、そこに立っていた。

 

 奎星の左手首で、銀色の腕時計が時を刻む。

 

 こち。

 

 戻らない。

 

 一秒。

 

 次の一秒。

 

 また、その次。

 

 清弦はもう、歴史の向こうにいる英雄ではなかった。

 

 百五十年の長い寄り道の果て、ようやく奎星の兄弟になったのだ。

 

 こち。

 

 時計は、ただ前へ進んでいた。

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