第1話 近づく夏
七月の終わり、南硫黄島の夏は朝から容赦がなかった。
海から吹き上がる風には湿った塩の匂いが混じり、白い羊脂玉で造られた校舎の壁は、昼を過ぎる頃には眩しいほど陽を返している。開け放たれた窓の向こうでは、濃い青の海がどこまでも光を弾き、そのさらに上を一羽のウミツバメが、風に身を預けるようにゆっくりと旋回していた。蝉の声はない。それでも、木々の葉擦れと遠くで砕ける波の音を聞いていれば、夏が来たことは十分すぎるほど分かった。
そんな穏やかな午後の教室で、上級課程三年の蓮根奎星は机へ突っ伏していた。
「終わった……俺は、生き抜いた……」
机の脇から垂れた右腕の先で、答案用紙が頼りなく揺れている。紙面には赤い丸と赤い文字が散らばり、ところどころに教師たちの容赦ない指摘が書き込まれていた。それでも右上に記された点数は、どうにか人間としての尊厳を保てる程度には収まっている。
学期末試験は、数日前に終わっていた。今日は最後の答案が返却され、追試対象者の発表まで済んだところである。そして、奎星の名前はそこになかった。
「勝った……」
「何に?」
隣の席で、楓が夏季補習の案内冊子をめくりながら尋ねた。
「試験に」
「最低限の点数を取っただけでしょう」
「勝ちは勝ちだろ」
「その理屈で、よく一年やってこられたわね」
「一年やってきたから言えるんだよ」
奎星は顔だけを横へ向けた。楓の机には、彼の答案とは比べものにならないほど整然とした冊子が何冊も積まれている。魔法省の組織案内、行政職採用試験対策、魔法教育管理局の業務紹介。細かな文字がびっしり並んだ紙面には、几帳面な付箋まで貼られていた。
見ただけで頭が痛くなり、奎星はそっと視線を逸らした。
「夏休みだ……」
「海」
「あるわね」
「飯」
「毎日食べているでしょう」
「昼寝」
「するでしょうね」
「自由」
「ないわね」
奎星の顔から、わずかに表情が消えた。やがて、何か重大な聞き間違いをしたのではないかと確かめるように、ゆっくりと上体を起こす。
「何で?」
「補習」
「…………」
聞かなかったことにして、奎星は再び机へ突っ伏した。
「夏休みだ……」
「補習よ」
「海」
「補習」
「飯」
「食堂で食べればいいでしょう」
「昼寝」
「終わってからしなさい」
「自由」
「勉強する自由ならあるわよ」
奎星は勢いよく顔を上げた。
「俺、日本救ったんだけど!」
「関係ない」
楓の返事は、迷いのない一言だった。
「待てよ!」
奎星が椅子を鳴らして身体ごと楓へ向く。勢いに押された机の脚が床を擦り、教室の何人かがこちらを振り返った。
「普通さ、日本救ったら何かあるだろ!」
「知らないわよ」
楓は冊子から一度も顔を上げなかった。その落ち着き払った態度が、奎星の焦りをいっそう煽る。
「しかも現代だけじゃねえぞ!?」
「はいはい」
「幕末でも救ったんだぜ!?」
そこでようやく、楓の目が冊子から離れた。
奎星は待っていたとばかりに胸を張り、人差し指と中指を立てる。
「二回だぜ!?」
「だから何よ」
「二回!」
「回数は聞こえたわよ」
「日本を二回救った十八歳なんて、俺くらいだろ!」
「二回救ったら魔法法規が免除になる制度はないの」
「作れよ!」
「誰がよ」
「教育管理局へ行くんだろ! お前が作れ!」
「私を何だと思っているのよ」
楓は額を押さえた。窓から入った風が机の上の紙を一枚めくり、その下から見覚えのある文字が現れる。
魔法省採用試験。
専門科目。魔法法規。魔法史。実技。面接。
奎星は、そこに並ぶ文字を見ただけで露骨に目を細めた。
「第一志望に禍祓官と書いたのは、あなたでしょう」
「昔の俺が勝手に」
「数週間前よ」
「人は成長する」
「逃げようとしているだけでしょう」
「後藤さんの特別顧問の話、受けときゃよかった……」
楓の手が止まった。
「何それ」
「試験なしで、部屋があって、給料が高くて、なんか偉い会議とか出られて」
「また意味の分からないことを言っている」
「本当にあったんだって」
「夢じゃない?」
「夢じゃねえよ」
「じゃあ、何で今ないのよ」
「そこを説明するの、長いんだよなぁ……」
「じゃあ、いい」
「切るの早くね?」
楓はもう冊子へ視線を戻していた。奎星だけが、納得のいかない顔で口を尖らせている。
確かに、今はない。
後藤から魔法省特別魔術顧問という職を提示されたことも、専用の執務室が用意されると言われたことも、採用試験を受けなくていいと聞いて心の底から喜んだことも、現在の世界には存在していない。
けれど、奎星は覚えている。
何度も同じ六月十五日を走ったことも、何度も失敗したことも、そのたびに次は変えようとしたことも。逆転時計によって時間が巻き戻され、消えてしまった出来事であっても、彼の中から記憶まで消えたわけではなかった。
なかったことになったからといって、本当になかったことになるわけではない。少なくとも奎星にとっては、そうだった。
「試験なしだったのに……」
それでも、惜しいものは惜しい。
「未練、そこなの?」
「でけえだろ」
「大きくないわよ」
教室の前方では、日向が鞄へクィディッチの手袋を詰めていた。夏休みが始まれば、すぐに遠征へ出るらしい。いくつかの学校外チームが視察に訪れる大会で、その後にはセレクションも控えているという。
窓際では岳が、鷹司から渡された魔法生物保護区の注意事項を読んでいた。珍しく食べ物ではない紙を真剣に見つめているが、その横には、いつの間に用意したのか煎餅の袋が置かれている。
伊織は高宮から借りたらしい術式解析の資料を読みながら、眼鏡の位置を直していた。補習とはいっても、彼にとっては半分研究のようなものなのだろう。頁をめくる指先が、むしろ楽しそうに動いている。
皆、それぞれの夏へ向かっている。
日向は空へ。岳は魔法生物のいる保護区へ。伊織は複雑な術式の世界へ。そして楓は、教育管理局を目指して魔法省の採用試験対策へ。
奎星も同じように、夏の先にある進路へ向かわなければならない。けれど、同じ道を歩いているはずなのに、自分だけが罰ゲームへ連れていかれるような気がしてならなかった。
「何で俺だけ罰ゲームみたいなんだろ」
「普段の積み重ねじゃない?」
「俺も禍祓官を目指しているだけなのに」
「勉強していないからでしょう」
「目指す気持ちはある」
「気持ちで採用してくれたら苦労しないわよ」
「俺、実績あるよ?」
「だから採用試験は武勇伝大会じゃないの」
楓は最後まで冷静だった。
奎星はしばらく彼女を見つめていたが、やがて何かを諦めたように息を吐いた。
「癒やしを求めてくる」
「どこに」
「心の故郷」
「寮?」
「違う」
「食堂?」
「かなり近い」
奎星が立ち上がると、楓は嫌そうに眉を寄せた。
「研究室ね」
「正解」
「烏丸先生の邪魔をしないのよ」
「俺がいつ邪魔したよ」
楓が顔を上げる。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「自覚がないんだと思って」
「失礼な奴だな!」
その声に、教室の向こうで日向が笑った。奎星は振り返って何か言い返そうとしたが、すぐにやめた。どうせ味方はいない。
腰に神代榊を差し、椅子の背へ掛けていた鞄を肩へ引っ掛ける。そうして奎星は、まだ笑いの残る教室を後にした。
*
魔法史研究室の前へ来ると、奎星は足を止めた。
見慣れた扉だった。一年前には、この扉を何度も勝手に開けた。そのたびに怒られ、それでもまた開けた。百五十年前から戻った日には、血まみれのまま扉を開け、怒られるより先にスズメへ抱きついたこともある。
今思えば、かなりひどい。
奎星は扉の前で姿勢を正し、右手を上げた。以前なら、そのまま取っ手へ伸ばしていたところだが、今日は違う。
こん、こん。
「どうぞ」
中から、聞き慣れた声が返ってきた。
奎星の口元が自然に緩む。扉を開けると、机に向かっていた烏丸スズメは、顔を上げないまま作業を続けていた。
黒い髪はいつものように顎の辺りで真っ直ぐ揃っている。白い指が紙の上を滑り、羽根筆が細い文字を連ねていた。机の上には古い資料、新しい複写紙、開いた本が幾重にも重なり、窓から差し込む午後の光が紙の端を薄く透かしている。
「スズメちゃん!」
返事はない。
「ノックできるようになったよ!」
「当然ですが」
「褒めて!」
「当然なので」
「進歩を!」
羽根筆が止まった。
スズメはようやく顔を上げ、奎星を見た。表情はいつも通り淡々としているが、ほんのわずかに眉が動いている。
「十八歳です」
「十八歳でも成長は褒めるべきだろ」
「扉をノックしただけでしょう」
「昔の俺なら開けてた」
「昨日も一度、開けましたよね」
「昨日の俺より成長した」
「成長の単位が一日なのですか」
奎星は笑いながら、勝手知ったる様子で空いている椅子を引いた。そのままスズメの隣へ腰を下ろす。
以前なら、机を挟んで向かいに座っていた。いつからか、資料を見るときは隣に座るようになった。奎星本人は特に意識していないし、スズメも何も言わない。ただ、彼が腰を下ろすと、スズメは自分の右側に積んでいた本を二冊だけ向こうへずらし、奎星が肘を置ける場所を空ける。
それも、いつの間にか二人の間では自然なことになっていた。
「何見てんの?」
奎星が机へ身を乗り出す。
古い写真、手書きの記録、霊脈図。そして、その紙面に記された一つの名前。
「清弦だ」
名前を見た途端、奎星の声が変わった。
「はい」
スズメは一枚の資料を持ち上げた。
「魔法省から、蓮根清弦に関する資料の写しをいただきました」
「ふーん」
奎星は頬杖をつき、紙面を覗き込む。
「そんな大層な奴じゃないけどなぁ」
「歴史上では大層な人物なのです」
「性格悪いぞ」
「知っています」
「頑固だし」
「あなたから何度も聞きました」
「すぐ怒るし」
「それも」
「俺のこと妖怪だと思った」
「それは、あなたの説明にも問題があったと思います」
「何でだよ」
「令和の江戸から来た、と説明したのでしょう?」
「…………」
「違いましたか?」
「細かいこと覚えてんな」
「あなたが話したのです」
スズメは再び資料へ目を落とした。
奎星が会った蓮根清弦と、歴史に残っている蓮根清弦。その二つの像を重ね合わせるように、机の上には幾つもの時代の記録が並んでいる。神代榊、鬼火鳥、関東霊脈、幕末に発生した大型妖魔、横浜で広がり始めていた西洋式魔法、そして神代以蔵。
百五十年前の出来事は、すべてが明らかになったわけではない。むしろ本人に会ったことで、分からないことは増えていた。
「謎はまだまだ多いです」
スズメが静かに言った。
「そもそも、なぜ神代冥司が彼に関する資料を隠し持っていたのかも分かっていません」
「それな」
奎星も資料へ目を落とした。
神代冥司の拠点から見つかった清弦の記録。神代榊を持つ若い清弦の写真。霊脈について書かれた文書。そして、後になって発見された本人の手記。
神代以蔵と清弦は、あの時代に確かに会っている。その一方で、百五十年以上後の神代冥司が清弦の資料を集めていた。偶然とは思いにくい。だが、その意味はまだ分からなかった。
奎星は数秒だけ真面目な顔をしていた。
そして、ふいに顔を上げる。
「でも一番気になるのは、清弦が結婚したのが鈴ちゃんかどうかだな」
「…………」
スズメの視線が、ゆっくりと横へ動いた。
「あなたは誰にでもちゃん付けなのですか?」
「ん?」
「鈴ちゃん」
「ああ」
奎星は少し考えた。考える必要があるのかと、スズメは思ったかもしれない。
「スズメちゃんと鈴ちゃんだけ」
「…………」
スズメの目がわずかに細くなった。
「ふうん」
「何?」
「別に」
スズメは紙を一枚めくった。いつもより、ほんの少しだけ音が強い。
奎星は気づかなかった。
「それより」
スズメの指が止まる。
「見てください」
「何?」
さっと一枚の複写紙が、奎星の前へ滑ってきた。
かなり古い記録の写しだった。黄ばんだ原本をそのまま写し取ったらしく、墨の濃淡や紙の傷まで薄く残っている。奎星は首を傾げながら紙面を覗き込み、やがて見覚えのある記録だと気づいた。
「これ……」
ずっと前、星迎祭の日。九重院のいる教員会議室で、初めて自分の先祖の名前を知ったときに見せられた家系記録だった。
「前に校長先生が見せてくれたやつじゃん」
「同じ家系記録です」
「これ、まだあったんだ」
「当然です。記録ですから」
「俺ならなくす」
「だから、あなたには管理を任せません」
「失礼だな」
奎星は笑いながら紙面へ目を戻した。
そして、止まった。
「…………」
そこに、一つの名前がある。
《蓮根清弦》
知っている。
もう、文字だけの先祖ではない。声を知っている。怒った顔も、笑った顔も、意地を張るときに少しだけ目を逸らすことも知っている。
その名のすぐ横に、小さな文字が添えられていた。
《妻 白川鈴》
「…………」
奎星の身体が、少しずつ前へ傾いていく。目を凝らし、文字を読み直し、さらにもう一度確かめる。
そして三度目に、堪えきれなくなった。
「うおおおおおおおおおおおおおお!!」
「うるさいです!」
スズメの声が研究室に響いた。
「やっぱり!」
「近いです! 声が!」
「ほら言ったじゃん!」
「聞こえています!」
「あいつ、鈴ちゃんのこと好きだって!」
「そのようですね」
「だから言ったじゃん!」
「同じことを何度も大きな声で言わないでください!」
奎星は記録を両手で持ち上げ、もう一度そこに並ぶ二つの名前を見た。間違いない。清弦と鈴が、並んでいる。
「うわー!」
「静かに」
「清弦、ちゃんと結婚したんだ!」
「静かに」
「やるじゃん、あいつ!」
「あなたは何目線なのですか」
「子孫」
「それはそうですが」
奎星は心底嬉しそうだった。本人がここにいたら、おそらく殴られている。その様子まで容易に想像できるからこそ、余計に笑えてしまう。
百五十年前、最後に見た二人。鈴の隣へ立った清弦は、何も言っていないのに、顔だけで胸の内をすべて語っているような男だった。
「絶対好きだったんだよ」
「結果だけ見れば、あなたの推測は正しかったようですね」
「推測じゃねえって。見れば分かる」
「ご本人から聞いたわけではないのでしょう?」
「聞いたら怒るんだもん」
「でしょうね」
「スズメちゃんまで分かってんじゃん」
スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。けれど、それはすぐに研究者の真面目な表情へ戻る。
「ただし、分かったのはそこまでです」
「え?」
「婚姻の記録はあります。ですが、その後の詳細はまだ欠けている部分が多い。子孫についても途中の記録が曖昧ですし、古代魔術をどのように残したのかも分かりません」
「ちゃんと残せって言ったのにな」
「百五十年前の人へ、無茶な注文をしないでください」
「俺、理由まで説明したぞ」
「私が好きだから、でしたね」
「そう」
「意味が分からなかったでしょうね」
「めっちゃ怒ってた」
「でしょうね」
二人とも、しばらく笑った。
窓の外では、海面に夕方の光が散り始めていた。真昼の白さを失った陽が校舎の縁を淡い金色に染め、風が研究室へ入り込んで、古い紙の匂いと潮の匂いを混ぜていく。
奎星は、もう一度家系記録へ目を落とした。
清弦。
鈴。
たった二つの名前である。
けれど奎星にとって、その文字の向こうには顔があった。声があり、村の夕暮れがあり、神代榊の枝を飛び交う鬼火鳥の青い炎がある。
そして、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「あ」
「何です?」
「もしかしたら、俺の実家へ戻ったら、なんか分かるかも」
スズメの筆が止まった。
「ご実家?」
「ばあちゃんの遺品」
蓮根八重子。奎星の祖母であり、蓮根家がかつて霊脈と鬼火鳥に関わっていたことを知りながら、それを娘にも孫にも背負わせまいとした人だった。生前、すべてを語ったわけではない。だからこそ、語られなかったものの中に、まだ何かが残っている可能性はあった。
「家にまだ残ってんだよ。ばあちゃんの物」
「整理していないのですか?」
「一応したけど、古い箱とか写真とか、父さんも母さんもよく分かんない物は残してる」
「古文書なども?」
「あるかも」
「確認しましたか?」
「してない」
「なぜです?」
「読めないから」
スズメは黙った。
「今馬鹿だと思った?」
「今だけではありません」
「スズメちゃん!」
奎星は口を尖らせたが、スズメの目はすでに研究者のものになっていた。古い記録を前にしたとき特有の、静かな集中が瞳の奥に宿っている。
「可能性はありますね」
「だろ?」
「八重子さんが蓮根家に関する情報を持っていたことは確かです。今まで重要視されていなかった物の中に、何か残っているかもしれません」
「じゃ、見に行く?」
奎星が軽く言うと、スズメは顔を上げた。
「どこへです?」
「俺ん家」
「…………」
「東京」
「それは分かります」
「次の土曜」
もうすぐ夏休みだった。補習は平日のみで、土日は休みである。その事実を知ったとき、奎星は「人権が残ってた」と本気で喜んだ。
研究のためなら、東京へ戻る時間は十分にある。
スズメは少しだけ考えた。やがて、静かに頷く。
「では、伺いましょう」
「よっしゃ」
「蓮根君」
「ん?」
「研究のために伺うことを、ご両親へきちんと伝えてくださいね」
「まっかせて!」
奎星は胸を叩いた。
スズメは、その姿をじっと見た。
「…………」
「何、その顔」
「大丈夫なんですか……」
「信用ねえな!」
奎星は立ち上がった。機嫌がいい。ものすごくいい。清弦と鈴のことが分かり、実家へ戻る予定まで決まり、しかも今から飯を食べられる。
「じゃ、飯行ってくる!」
「走らないでください」
「走ってねえよ!」
言いながら、ほとんど走る速度で扉へ向かう。
「蓮根君」
「何!」
「資料を踏まないでください」
「踏んでない!」
「今、紙を蹴りました」
「風!」
「閉めてください」
「はい!」
扉が閉まる。
研究室に静けさが戻った。
スズメはしばらく閉じた扉を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……本当に大丈夫でしょうか」
当然、大丈夫ではなかった。
*
廊下を歩きながら、奎星はスマートフォンを取り出した。両親との連絡欄を開き、指を迷いなく動かす。
《次の土曜日スズメちゃんと大事な話あるから帰るわ!》
送信。
「よし」
完璧だった。
研究のために帰ることも、蓮根清弦の家系記録を調べることも、祖母の遺品を確認することも、そのあたりは一文字も書かれていない。本人は、そこに何の問題も感じていなかった。
スマートフォンを制服のポケットへ戻し、奎星は上機嫌のまま大食堂へ向かった。
数百キロ離れた東京の蓮根家では、居間に置かれた母親のスマートフォンが震えていた。
「…………」
画面を見た母の動きが止まる。
「あなた」
「ん?」
向かいで新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「奎星から」
「珍しいな」
「土曜日、帰ってくるって」
「そうか」
「烏丸先生と」
父の新聞が、わずかに下がった。
「…………」
「…………」
二人で画面を見つめる。
《スズメちゃんと大事な話あるから帰るわ!》
沈黙の中で、時計の針が一秒進んだ。
「大事な話」
母が呟く。
「ああ」
「スズメちゃんと」
「ああ」
「何かやらかした?」
「まず、そこを疑うのか」
「奎星よ?」
父は何も言えなかった。もう一度、画面へ目を落とす。
「…………結婚とか」
「十八だぞ」
「でも、先生を連れて大事な話よ?」
「いや、待て」
父の顔が少し険しくなる。
「まさか、何かやらかしたから結婚とかじゃないだろうな」
「何で悪化するのよ!」
「母さんがやらかしたって言うからだろ!」
「あなたが結婚と繋げたんでしょう!」
居間に二人の声が響いた。
母は慌てて返信を打つ。
《大事な話って何?》
送信。
既読はつかない。
その頃、南硫黄島では、奎星が何も知らず夕暮れの回廊を歩いていた。
「今日の飯なんだろ」
頭にあるのは、清弦と鈴のこと、土曜日のこと、そして夕飯のことだけだった。
研究のために帰る。その最も重要な一文を送っていないことなど、とうに忘れている。スズメも、まだその事実を知らない。
窓の外では、夏の海が光っていた。白い校舎へ長い影が伸び、夕陽を受けた波が遠くで一度だけ眩しく砕ける。
夏休みは、もうすぐそこまで来ていた。