土曜日の東京は、朝から暑かった。
駅を出た途端、熱を吸い込んだアスファルトから、むっとする空気が立ち上ってくる。南硫黄島の夏にも容赦はないが、あちらには海がある。潮を含んだ風が絶えず吹き、日陰へ入れば、火照った肌を撫でる涼しさがわずかに残っている。けれど東京の夏には、その逃げ場がなかった。道路も、壁も、停まっている車も、何もかもが昨日からずっと熱を溜め込んでいるようで、街全体が巨大な釜の中に沈んでいるようだった。
「暑っ……」
蓮根奎星は駅前へ出て五分も経たないうちに、額へ浮いた汗を手の甲で拭った。
「まだ五分も歩いていません」
隣を歩く烏丸スズメが、呆れたように彼を見る。
「東京の夏を舐めんなよ、スズメちゃん」
「私も東京に住んでいました」
「そういやそうだった」
「忘れないでください」
スズメは白い半袖のシャツに濃紺のスカートという、一般社会へ出ても目立たない服装をしていた。学校で身につけている教員用の長衣はなく、顎の辺りで真っ直ぐ揃えられた黒髪だけが、いつもの彼女を思わせる。
奎星も制服ではなく、Tシャツの上に薄手のシャツを羽織っただけの格好だった。腰に神代榊を差して歩くわけにもいかないため、杖は細長い専用の袋へ収め、鞄の脇へ固定してある。
二人が東京へ着いたのは、一時間ほど前のことだった。南硫黄島から大型のウミツバメで本土へ渡り、そこから一般社会の交通機関を乗り継いできたのである。
一年前、奎星が初めてマホウトコロへ向かったときも、順番こそ逆だったが、似たような道を通った。あの頃の彼は魔法の存在すら信じきれておらず、夜中に突然部屋へ現れ、魔法学校へ来いと言い出したスズメのことも、怪しい女としか思っていなかった。
今では、こうして隣を歩きながら、彼女の歩幅に合わせることさえ自然になっている。
「コンビニ寄る?」
「寄りません」
「アイス」
「溶けます」
「今食うんだよ」
「ご実家まで十分もありません」
「十分あるならアイス一本いけるだろ」
「遺品を調べに来たのですよね?」
「研究者ってアイス食わないの?」
「そういう問題ではありません」
奎星は不満そうに唇を尖らせたが、結局コンビニの前を通り過ぎた。自分たちの距離が、いつの間にかこれほど変わっていたことを、彼はおそらく自覚していない。
スズメもまた、わざわざ指摘するつもりはなかった。ただ、彼が少し先を歩けば自然に歩調を速め、遅れれば何も言わずに待つ。その繰り返しが、二人の間ではすでに会話と同じくらい当たり前になっていた。
やがて、見慣れた住宅街へ入った。低い家々の間を細い道路が縫い、どこかの庭から風鈴の音が聞こえてくる。
植木へ水を撒く老人のホースから、陽を受けた水滴が細かな光となって飛び散っていた。遠くから車の音が近づき、二人の横を通り過ぎて、また別の生活の中へ消えていく。
一年前の夏休みに帰ってきたときと、ほとんど変わっていない。
「ここ」
奎星が顎で示した。
「覚えています」
「マジで?」
「一度来ていますから」
「一年以上前だぞ」
「あなたほど忘れません」
「一言多いな」
角を曲がると、蓮根家が見えた。特別大きくも小さくもない二階建ての家で、父が休日になると洗っている古い車が、今日も同じ場所へ停まっている。玄関脇には母が選んだ妙に可愛らしい表札が掛かり、その下では、夏の陽射しを受けた鉢植えが少しだけ葉を垂らしていた。
奎星は何の迷いもなく門を開けた。
「ただいまー」
「まだ入っていません」
「自分ちなんだからいいだろ」
玄関へ向かいながら、奎星はポケットへ手を入れた。鍵を出そうとした、その瞬間だった。
がちゃり、と内側から扉が開く。
「いらっしゃいませ!」
「うおっ」
母が立っていた。
満面の笑みを浮かべ、背筋を妙に伸ばしている。まるで旅館の女将のような出迎えだった。
「……何してんの」
「何って、お出迎えよ」
「したことないよね?」
「あなたじゃなくて烏丸先生を」
「息子も迎えろよ」
「蓮根君のお母様、ご無沙汰しております」
スズメが丁寧に頭を下げると、母の笑みはいっそう深くなった。
「まあまあ、烏丸先生! 暑かったでしょう。どうぞどうぞ、中へ!」
「いえ、お気遣いなく」
「遠慮なさらずに」
「…………」
奎星は母の顔をじっと見た。母は笑っている。笑っているのだが、どうにも不自然だった。普段なら「暑かったでしょう」と言う前に、まず息子へ「靴を揃えなさい」と言うはずである。
一瞬遅れて、玄関の奥から父も現れた。
「お、おお。烏丸先生」
「ご無沙汰しております」
「遠いところ、どうも」
「いえ」
父まで姿勢がいい。両手を前で組み、奎星の顔を見るたびに、何かを確認するような目をしている。
奎星の眉間に皺が寄った。
「なあ」
「何?」
「何で二人ともそんな気持ち悪いの」
「帰ってきて第一声がそれ?」
「だって気持ち悪いだろ!」
「失礼ですよ、蓮根君」
「スズメちゃん、気づかない!?」
「何にです?」
「空気!」
スズメは玄関の中を見回した。狭い玄関、靴箱、その上に置かれた母親趣味の小さな猫の置物。どれも以前と変わらず、どう見ても普通の蓮根家である。
「いつも通りでは?」
「いや、絶対何かある」
「早く上がりなさい。暑いでしょう」
「ほら! 母さんが俺に優しい!」
「どういう意味よ!」
奎星は最後まで怪しみながら靴を脱いだ。
*
数分後、スズメは蓮根家の居間に座っていた。
畳の匂いと、庭から差し込む夏の光。低いテーブルの向こうには、以前この家を訪れたときと同じ窓があり、その外では風に揺れた木の葉が畳の上へ淡い影を落としている。部屋の造りそのものは変わっていない。
ただし、テーブルの上だけが明らかに違っていた。
透明なグラスには、氷の浮いた冷たい麦茶が注がれている。その横には黒塗りの菓子皿が置かれ、艶やかな羊羹が、普段よりもずっと丁寧に切り分けられていた。羊羹を載せる皿まで、いつも使っているものより上等である。
奎星は菓子皿を見つめた。
「何これ」
「羊羹」
「見りゃ分かる」
母は澄ました顔で答えた。
「どこの?」
「いただきもの」
「嘘つけ。箱そこにあるじゃん」
奎星が棚の上を指差す。そこには百貨店の包装紙が、隠す気もなく置かれていた。
「買ってんじゃん!」
「細かい男ねえ」
「何で今日だけ高いやつ買ったんだよ!」
「いいじゃない」
「前にスズメちゃんが来たときも羊羹出してたけど、こんないいのじゃなかったぞ!」
「覚えていたのですか」
スズメが少し意外そうに奎星を見る。
「覚えてるよ。スズメちゃん、普通に食ってたじゃん」
「いただいたものを食べただけです」
「俺が『馴染むなよ』って言った」
「言っていましたね」
「懐かしいな」
奎星は笑った。けれど、父と母は笑わなかった。
その沈黙に気づき、奎星の笑顔が少しずつ消えていく。
「だから何なんだよ」
「何が?」
「二人とも!」
父は咳払いをし、座布団の上で背筋を伸ばした。奎星は嫌そうに目を細める。さっきから感じていた嫌な予感が、いよいよ形を持ちはじめていた。
「烏丸先生」
「はい」
スズメも自然に姿勢を正す。
父は一度奎星を見、それからスズメを見た。最後に母へ視線を送り、母が小さく頷く。そのやり取りを見て、奎星の予感は確信へ変わった。
「何だよ」
父が口を開く。
「……結婚の挨拶ですか?」
「違います!」
スズメの返事は、奎星が今まで聞いた中でもかなり上位に入る速さだった。
「は?」
奎星だけが一拍遅れて声を漏らす。
「何言ってんの、父さん」
「だってお前!」
父のほうが慌てた。
「『スズメちゃんと大事な話があるから帰る』って!」
「うん」
「二人で!」
「うん」
「先生を連れて!」
「うん」
「大事な話!」
「そうだよ」
「それで何で分からないんだ、お前は!」
「何が!?」
母がそこへ身を乗り出した。
「じゃあ、もしかして子供できた?」
「母さん!!」
ぶっ、と小さな音がした。
全員の動きが止まる。
スズメが口元を押さえていた。次の瞬間、彼女は激しく咳き込み、肩を震わせた。
「げほっ……ごほっ……!」
「スズメちゃん!?」
奎星が飛び上がる。
魔法省の査問でも、黒曜の事件でも、時間が巻き戻ったときでさえ、ここまで明確に狼狽えたスズメを見たことはなかった。幕末から血まみれで帰ってきて、彼女へ抱きついたときでさえ、スズメはもっと冷静だったはずである。
「大丈夫!?」
「ごほっ……だ、大丈夫、です……」
「全然大丈夫じゃねえじゃん!」
奎星は隣へ移動し、咳き込むスズメの背中をさすった。細い背中が、彼の手のひらの下で小さく上下している。
「ゆっくり。ほら」
「誰の……せいだと……」
「俺!?」
スズメが顔を上げた。目は据わっているのに、耳だけがわずかに赤い。
「ちゃんと説明するように言いましたよね」
「したよ!」
「何と」
「スズメちゃんと二人で帰るって。大事な話があるから」
「研究のためだと伝えてと言いましたよね!?」
「…………」
奎星が固まった。
研究室。夕方。スズメが言った言葉が、遅れて記憶の底から浮かび上がってくる。
研究のために伺うことをご両親へきちんと伝えてくださいね。
そのとき奎星は胸を叩き、まかせておけと答えた。
「…………」
「蓮根君」
「忘れてた」
「蓮根君!!」
「だって送ったあと、飯のこと考えてたから!」
「何の言い訳にもなっていません!」
父が大きく息を吐き、そのまま座布団へ沈み込んだ。
「な、なーんだ……父さん、どうしようかと思っちゃったよ」
「どうしようって何だよ!」
「だって急に息子が若い女性を連れてくるって言うから」
「俺とスズメちゃんは教師と生徒!」
母が即座に口を挟んだ。
「先生を下の名前でちゃん付けする生徒はいません」
「ここにいるだろ!」
「普通はいないって話よ」
「俺は普通だ!」
「普通ではありません」
「スズメちゃんまで!?」
ようやく咳が収まったスズメが、麦茶を一口飲んだ。父も額の汗を拭い、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「だから、こんな準備をしてきたんだ。羊羹も用意したし。ほら、烏丸先生」
「いただきます」
「スズメちゃん!」
スズメは羊羹を一口食べた。舌の上で甘さを確かめるように、ほんの少し目を細める。
「美味しいです」
母の顔がぱっと明るくなった。
「でしょう?」
「はい」
「スズメちゃん!」
「お茶にも合いますね」
「そうなのよ!」
「スズメちゃん! 研究の話!」
三人は、まるで奎星の声など聞こえなかったかのように会話を続けた。
*
「学校ではどうなんです?」
父が訊いた。
「何が?」
「お前に聞いてない」
「俺の家なのに!」
スズメは湯呑みを置き、母と父へ向き直った。
「学校生活についてですか?」
「はい」
「概ね元気です」
「概ね」
母がその言葉を拾った。
「概ねって何です?」
「そのままの意味です」
「待って」
奎星が割って入る。
「何で家庭訪問始まってんの?」
「いい機会じゃない」
「今日は研究!」
「先生が家に来たのだから、学校の話も聞きたいでしょう」
「最初に研究をやろうよ!」
誰も聞かなかった。
「成績は?」
父が尋ねる。
「父さん!」
「魔法史はよくできています」
「お」
奎星の胸が少し張った。
「古代魔術に関する理解も、他の生徒よりかなり深いです」
「おお」
さらに胸が張る。
「実技も悪くありません」
「ほら!」
「ただし」
奎星の胸が元へ戻った。
「魔法法規に問題があります」
「言い方!」
「魔法史でも、興味のない年代になると露骨に集中力が落ちます」
「そこまで言う!?」
「基礎理論は理解しているのに、問題文を最後まで読まないため失点します」
「…………」
「答案を見直してくださいと言っても、終わった瞬間に伏せます」
「何で全部言うんだよ!」
父が腕を組んだ。
「昔からだな」
「そうなのよ」
母も頷く。
「小学校のテストも、最後の一問をよく読み飛ばしていたわ」
「昔の話を出すな!」
「変わっていないのですね」
「スズメちゃん!」
話はそのまま進路へ移った。
「第一志望が禍祓官?」
「闇の魔法使い、魔女を専門に逮捕、捜査する警察のようなものです」
「へえ……」
父が少し驚いた顔をする。
「奎星がねえ」
「何だよ、その反応」
「いや、お前が仕事についてちゃんと考えていることに」
「考えてるよ!」
「教師も第二希望にしています」
「先生?」
母が目を丸くし、次いで奎星を見た。その目が、みるみる不安そうになっていく。
「何だよ!」
「人に教えられる?」
「失礼だな!」
「私も少し心配です」
「スズメちゃん!?」
「ですが、人へ説明するときは意外と分かりやすいこともあります」
「ほら!」
「自分が理解している範囲なら」
「一言多い!」
「それより、補習は?」
父が訊いた。
奎星の顔から、すっと表情が消えた。
「父さん」
「ん?」
「今、一番聞いちゃいけない言葉」
「夏季補習を受けています」
「スズメちゃん!!」
「何で隠すのよ」
母が呆れた顔になる。
「隠してねえよ!」
「日本を二回救ったから補習を免除してほしいと主張しています」
「そこまで言わなくていいだろ!」
父が止まった。
「二回?」
母も黙り込む。
奎星が「あ」と声を漏らした。そういえば、両親にはまだきちんと話していない。
「俺、幕末に行ったんだよ」
居間が静かになった。
庭の外で蝉が鳴き、麦茶の氷がからん、と音を立てる。さっきまで賑やかだった部屋に、妙に広い空白が生まれた。
父が奎星を見る。
「……何て?」
「幕末」
「どこの?」
「日本の」
「幕末って何個もあるの?」
「知らねえけど!」
母がゆっくりスズメへ顔を向けた。
「烏丸先生」
「はい」
「うちの子は大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫ではありません」
「即答!?」
「時間移動そのものは事実です」
「そっち!?」
父が額を押さえた。
「ちょっと待て。待ってくれ」
「だから幕末へ行ってさ」
「何でそんなコンビニへ行ったみたいに言うんだ」
「気づいたらいたから」
「もっと怖いわ!」
「で、清弦っていう俺の先祖がいて」
「清弦?」
「蓮根清弦です」
スズメが補足する。
「幕末期の魔法史に記録が残る人物です。奎星君の祖先であることは、以前から学校側でも確認されていました」
「そいつと会って」
「会った?」
「うん」
「先祖と?」
「うん」
「幕末で?」
「そう」
「似てた?」
母の質問だけ、妙に方向が違った。
「めちゃくちゃ」
「写真ある?」
「ある」
「あるの!?」
「撮ったから」
「幕末で!?」
「そこ引っかかる?」
「引っかかるわよ!」
結局、その写真まで見せることになった。
奎星がスマートフォンを取り出し、保存されていた画像を開く。画面の中には、清弦と鈴、平坂、そして村人たちが写っていた。百五十年以上前の人々が、現代の小さな居間で、何も知らない父と母を見返している。
父と母は、しばらく言葉を失った。
「……本当に似てるな」
父が小さく言った。
「だろ?」
「奎星を真面目にした感じ」
「父さん!」
「こっちの女の人が鈴ちゃん?」
母が画面を指差す。
「そう」
「可愛い人ねえ」
「だろ?」
奎星は、なぜか自分のことのように得意そうな顔をした。
スズメの目が横から向く。
「何であなたが得意そうなのです?」
「いや、清弦に言ってやりたくて」
「何をです?」
「お前、よくやったって」
「余計なお世話でしょう」
「絶対殴られるな」
「でしょうね」
そのやり取りを、母は少しだけ面白そうな顔で眺めていた。奎星は、やはり気づかなかった。
*
「これが幼稚園」
「母さん!!」
調査が始まったのは、それからさらに一時間後だった。正確に言えば、まだ始まっていなかった。母が押し入れの奥からアルバムを引っ張り出してきたからである。
「見なくていいって!」
「せっかく先生が来たんだから」
「何のせっかくだよ!」
スズメは畳へ座り、開かれたアルバムを興味深そうに眺めていた。古い写真の角は少し丸くなり、台紙には長い年月の間に染みついた紙と埃の匂いが残っている。
「これが蓮根君ですか?」
「そうです」
「丸いですね」
「子供は丸いんだよ!」
「今より髪が短いです」
「幼稚園児だからな!」
「これは運動会ですね」
「母さん!」
「一等だったのよ」
「お」
スズメが少しだけ顔を上げた。
「足は速かったのですね」
「今も速いよ!」
「逃げ足は」
「普通に走るのも!」
父が別の写真を指差した。
「これは小学校」
「やめろ!」
写真の中では、歯が一本抜けた奎星が、満面の笑みで虫取り網を持っていた。夏の陽射しを浴びた顔は今よりずっと丸く、得意げに胸を張っている。その隣には、捕まえた虫を入れたらしい透明なケースがぶら下がっていた。
スズメの口元が、わずかに緩む。
「楽しそうですね」
「見るな!」
「なぜです?」
「恥ずかしいから!」
「今とあまり変わりません」
「どこが!?」
「顔が」
「変わってるだろ!」
「うるさいところも」
「写真からうるささ分かる!?」
「分かる気がします」
「ひどくね!?」
誰も助けてくれない。
「研究の話は!?」
奎星の叫びだけが、蓮根家の居間へ虚しく響いた。
*
それでも、アルバムが三冊目へ入ったところで、部屋の空気が少し変わった。
「あ」
奎星の指が止まる。
そこにあったのは、少し色褪せた古い写真だった。幼い奎星が写っている。その隣には、白髪の混じった女性が座り、彼の頬を片手でつまんで笑っていた。
「ばあちゃん」
蓮根八重子だった。
写真の中の八重子は、幼い奎星の頬を容赦なく引っ張っている。奎星は嫌そうな顔をしているのに、逃げようとはしていない。二人の間には、長い時間を一緒に過ごしてきた者だけが持つ、遠慮のない親しさがあった。
「よくやられてたのよ、それ」
母が笑う。
「覚えてる」
奎星も写真を見ながら笑った。
「痛えんだよ。ばあちゃん、指強くて」
「魔法使いだから?」
「関係ないだろ」
スズメは写真を見つめていた。
八重子の顔。その隣にいる小さな奎星。誰が見ても、ごく普通の祖母と孫の写真だった。鬼火鳥もいない。霊脈もない。杖もない。ただ夏の日差しの中で、二人が笑っている。
「……この頃には」
スズメが静かに言った。
「八重子さんは、すでに蓮根家と鬼火鳥の関係をご存じだったのでしょうね」
「多分」
奎星は写真を見たまま答えた。
知っていた。魔法のことも、鬼火鳥のことも、神代榊へ至る道も、蓮根家が何を受け継いできたのかも。それでも八重子は、それを孫へ背負わせなかった。
普通の学校へ行って、普通に馬鹿をやって、好きなことを見つけて、好きに生きてほしい。あの場所で、八重子はそう言った。
「ばあちゃんの物って、どこ?」
奎星が母を見る。
「押し入れの奥。まだあるわよ」
「見ていい?」
「いいけど」
母は少し考えてから、肩をすくめた。
「本当に大したものはないわよ?」
「それでいいんです」
スズメが答えた。
「重要な資料である必要はありません」
その言葉が、後になって妙に残った。
*
八重子の遺品は、奎星が想像していたよりもずっと普通だった。
古い眼鏡。若い頃に使っていたらしい革の財布。何十年も前の年賀状。旅行先で買った小さな土産物。住所録、手紙、古い写真、診察券、レシート。料理の作り方を書いた紙まである。
「ばあちゃん、肉じゃがの作り方メモってんじゃん」
「覚えるまで時間がかかったのよ」
母が笑った。
「料理下手だった?」
「最初はね」
「初耳」
「あなたが生まれた頃には、普通に作れるようになっていたもの」
奎星は紙をひっくり返した。そこには魔術式など一つもなく、少し癖のある字で、醤油と砂糖の分量、じゃがいもを煮崩さないための注意が書かれている。
《醤油 大さじ二》
《砂糖 少し》
《じゃがいも煮崩れ注意》
「……普通だな」
「普通ですよ」
スズメが言った。
それからしばらく、二人は黙って遺品を見ていった。何か秘密が出てくると思っていたわけではない。それでも奎星のどこかには、少しくらい期待があった。
蓮根家の秘密。鬼火鳥についての記録。神代榊の場所。清弦から続く何か。もしかしたら八重子が、自分へ何かを残しているのではないか。そんな期待が、胸の底に薄く残っていた。
けれど、何も出てこなかった。
奎星へ課された使命もなかった。謎を解くためだけに用意された遺言も、未来の孫へ向けた秘密の手紙も、何百年も前から待っていた魔法の道具も、どこにも見当たらなかった。
そこに残っていたのは、蓮根八重子という一人の女性が、長い人生を生きた痕跡だった。
友人と笑っている写真。旅行先で撮った写真。娘が小さかった頃の写真。幼い奎星を抱いた写真。年賀状を送った相手。昔働いていた場所らしい住所。病院、店、友人、知人、親戚。誰かが結婚して住所を変えた跡。亡くなった相手の名前の横へ、小さく引かれた線。
魔女ではない。蓮根家の秘密を知る者でもない。ただ、八重子だった。
奎星は一枚の写真を手にしたまま、少しだけ笑った。
「ばあちゃんらしいな」
「そうですね」
スズメも静かに答えた。
そのとき、奎星の指が止まった。
古い住所録だった。今使われている電話番号の桁数とは違う頁もあり、何度も書き直された紙の端は、長い年月の間に指でめくられ続けたせいか丸くなっている。
「何です?」
「これ」
奎星が一つの文字を指差す。
スズメが身を寄せた。
古い住所の中に、地名が記されている。
《小萱》
「…………」
スズメの目が止まった。
「小萱村?」
「そう見えます」
奎星が住所録を持ち上げる。
「何で、ばあちゃんの住所録に」
「待ってください」
スズメの声が変わった。研究室で古い資料を見ているときと同じ、静かだが鋭い声だった。
二人で次の頁をめくる。別の名前の住所の末尾に、また同じ文字があった。
《小萱》
「ある」
「はい」
さらに古い住所へ進む。
《旧小萱村》
「また」
その次は住所ではなかった。昭和のものらしい小さな白黒写真の裏に、八重子の字らしい文字が残されている。
《小萱にて》
奎星とスズメは顔を見合わせた。
「ばあちゃん、小萱村知ってた?」
奎星が母へ訊く。
「こがやむら?」
「うん」
「さあ……聞いたことないわ」
「父さんは?」
「ないな」
父も首を傾げた。
「昔の友達じゃないか?」
「でも村だぜ」
「昔の地名なんて、今と違うところがいっぱいあるだろ」
父は何気なく言った。
その一言に、スズメの手が止まった。
「……昔の地名」
「スズメちゃん?」
返事はなかった。
スズメは鞄を引き寄せ、中から数枚の資料を取り出した。
「持ってきたの?」
「当然です」
「俺、何も持ってきてない」
「知っています」
「何で」
「あなたなので」
「腹立つ!」
スズメは答えず、数枚の紙を畳の上へ広げた。蓮根家に関する古い記録、霊脈、鬼火鳥、歴代の蓮根家が移動した場所。そして今回の調査のために複写してきた古い地図である。
「小萱村……」
スズメの指が地図上の文字を追う。
「幕末には存在しています」
「俺、行ったからな」
「はい」
「清弦の家があった」
「聞いています」
「鈴ちゃんの家も」
「何度も聞きました」
「貧乏な村だった」
「それも」
「石、めっちゃあった」
スズメの指が止まった。
「石?」
「うん」
奎星も地図へ身を乗り出した。
「田んぼとか畑の脇に、山から落ちてきたみたいな石がいっぱい積んであった」
記憶が、ゆっくりと形を取り戻していく。
夜、清弦と鈴を送りながら歩いた道。町から離れ、山裾へへばりつくように広がっていた小さな農村。狭い田畑。畦へ積み上げられた大小の石。古びた茅葺き屋根。細い道。誰かの家から聞こえた子供の泣き声と、それに応じる三軒先からの声。
そして、村を見下ろすように枝を広げていた巨大な神代榊。
「山……」
スズメが呟いた。
「え?」
「小萱村の位置を、現在の地形へ重ねます」
スズメは別の地図を取り出した。比較的新しい地図で、奎星にも見覚えがある。
「あれ」
「覚えていますか?」
「……これ」
一年前、鬼火鳥たちを故郷へ帰した日。大型ウミツバメの上で、スズメが広げていた地図だった。
「鬼火鳥を帰したときの」
「はい」
スズメは当時の経路を指で辿った。
「神代榊の反応を追って移動しました。この付近から、一般地図の記録が極端に少なくなっています」
「あったな。そんな話」
「そして、最後に」
指が止まる。
「ここです」
そこには、四方を険しい山に囲まれた谷が描かれていた。現在の地図には、ほとんど何も記されていない。道路も、集落名もない。ただ山の線だけが、古い地図の輪郭と重なっている。
奎星の顔から、少しずつ笑みが消えていった。
一年前の景色が蘇る。大型ウミツバメの背中から見下ろした谷。高度が落ちるにつれて近づいてきた木々の梢。四方を険しい山に囲まれた、深い谷。谷底だけが不自然なほど濃い緑に覆われ、その森の切れ間から、巨大な榊の枝が空へ伸びていた。葉は星空のように瞬き、その周囲を何百羽もの鬼火鳥が飛び交っていた。
「待って」
奎星の声が低くなる。
「俺ら……あそこ行ってる」
「はい」
スズメも地図を見つめている。
「でも」
奎星は記憶を探った。家は見ていない。田んぼも、石垣も、道も見ていない。
「村なんかなかったぞ」
「私たちは村を探していません」
「…………」
「上空から神代榊を確認し、その付近へ降りています。目的は鬼火鳥を野生へ返すことでした」
「あ」
「谷全体を調査してはいません」
そうだった。
大型ウミツバメは巨大な神代榊の近くへ降りた。保護していた鬼火鳥を一羽ずつ外へ出し、岳が最後まで手放せなかった一羽を帰した。鬼火鳥が残していった羽根を拾い、何百羽もの青白い炎を見送った。
誰も、地面に転がる石を村の痕跡として意識してはいなかった。村の跡を探してもいない。そこに昔、人が住んでいた可能性すら考えていなかった。
奎星は古い地図と新しい地図を交互に見た。
「これ」
まず幕末の地図へ指を置く。
「小萱村」
次に現在の地図へ指を移す。
「鬼火鳥の谷」
二つの場所が重なる。山の形、谷へ入る道、古い沢の位置。そして何より、神代榊。
「神代榊」
奎星が呟いた。
幕末で見た大樹。清弦が霊脈を感じ取っていた木。鈴が暮らした村の空を、何十羽もの鬼火鳥が当たり前のように飛んでいた場所。
未来には、同じような深い谷があり、同じように巨大な神代榊が立ち、その周囲を何百羽もの鬼火鳥が飛んでいる。
「……マジか」
奎星は畳へ座ったまま、ゆっくり息を吐いた。
今まで知っていた。全部、知っていた。ただ、それぞれの記憶が繋がっていなかったのだ。
去年の夏、自分たちはあの場所へ空から入った。森に覆われた谷しか見ていない。幕末では、同じ場所を人の足で歩いた。畑があり、家があり、人がいた。清弦がいて、鈴がいた。
百五十年以上の時間が、その二つの景色の間に横たわっている。
「小萱村……なくなったんだ」
奎星が小さく言った。
「少なくとも、現在の地図にその名はありません」
「でも」
奎星は住所録を見る。八重子の字。小萱。旧小萱村。そして写真。
「ばあちゃんは知ってた」
「はい」
スズメが答えた。
「おそらく、地名が失われた後も、何らかの形で関わりが残っていたのでしょう」
「蓮根家だから?」
スズメはすぐには頷かなかった。
「分かりません」
「……そっか」
「決めつけるべきではありません」
「うん」
「八重子さんが魔女だったからなのか。蓮根家だからなのか。それとも、ただ友人がいたからなのか」
スズメは古い写真へ目を落とした。何人かの若い男女が写り、八重子もその中で笑っている。魔法を示すものは何もない。
「今ある資料だけでは分かりません」
「でも、それでいいのかもな」
「え?」
奎星は写真を一枚手に取った。
「ばあちゃん、何でも魔法で生きてたわけじゃないし」
八重子が言ったことを思い出す。
普通の学校へ行って、普通に馬鹿をやって、好きなことを見つけて、好きに生きてほしかった。
自分だって、きっとそうだったのだ。鬼火鳥の秘密を守るためだけに生きていたわけではない。誰かと遊び、働き、結婚し、娘を育て、孫へ小遣いを渡し、ゲームの操作を覚えようとして三分で諦め、肉じゃがの味を覚えるために醤油の量を紙へ書いた。
その人生の中に、小萱という土地があった。ただ、それだけなのかもしれない。
けれど、その「ただそれだけ」が、百五十年以上前の村と現在の谷を繋いでいた。
「スズメちゃん」
「はい」
「行く?」
返事はすぐには来なかった。
スズメは二枚の地図を見ている。古い地図と現在の地図。その上には、八重子の住所録が置かれていた。紙の上に並んだ三つの時代が、夕方の光の中で静かに重なっている。
「……調査する価値はあります」
「じゃ、決まり」
「まだ何も準備していません」
「行ったことある場所だぜ?」
「だからといって、何の準備もせず山へ入ってはいけません」
「前行ったとき、普通に行けたじゃん」
「大型ウミツバメと鷹司先生と御影先生と真壁さんがいました」
「…………」
「今回は?」
「俺とスズメちゃん」
「却下です」
「早っ!」
「最低でも現地の資料を調べ、現在の地形を確認します」
「じゃあ、それやって行こう」
「蓮根君」
「何?」
「あなた、明後日から補習ですよね」
奎星の顔から光が消えた。
「今それ言う?」
「現実です」
「小萱村見つけたんだぞ!?」
「補習はなくなりません」
「歴史的大発見かもしれないじゃん!」
「魔法法規は免除されません」
「何で俺の人生こうなの!?」
父が少し離れたところから声をかけた。
「何か分かったのか?」
「分かった!」
奎星は勢いよく振り返った。
「俺、幕末で住んでた村、一年前に行ってた!」
父が止まった。母も止まった。
「ごめん」
父が言った。
「全然分からない」
「俺も今分かったんだよ!」
「順番に説明しなさいよ」
「長い!」
「さっきから全部長いわよ!」
また居間に声が響く。その横で、スズメは小さく息を吐いた。呆れているようにも見えたが、口元にはほんの少しだけ笑みが浮かんでいた。
*
夕方になると、西日が蓮根家の庭へ差し込み、畳の上へ長い影を落とした。テーブルの上には、すっかりぬるくなった麦茶と、ほとんどなくなった羊羹が残っている。開きっぱなしのアルバム、古い住所録、地図、写真。八重子の人生が、雑然としながらも不思議な秩序を持って広がっていた。
奎星は一枚の写真を持ち上げた。
若い八重子が笑っている。写真の裏には、八重子の字で《小萱にて》と書かれていた。
たった四文字だった。
使命など書かれていない。未来の孫への言葉もない。鬼火鳥という文字すらない。
けれど、その何でもない四文字が、百五十年以上前に蓮根清弦と白川鈴が生きた村へ繋がっている。そして一年前、奎星たちが鬼火鳥を帰した谷へも繋がっている。
「なあ」
奎星が言った。
「はい」
「あそこ行ったらさ」
スズメが顔を上げる。
「何か残ってるかな」
家はないかもしれない。道も、田畑も、茅葺き屋根も、すでに森へ呑み込まれているかもしれない。百五十年以上という時間は、それほど長い。
それでも、石なら残っているかもしれなかった。
奎星は幕末の村を思い出す。狭い田畑。山から転がり落ちてきたような石。畦へ積み上げられた大小の石。人の暮らしを守るため、誰かが一つずつ運び、積み重ねた石。
「分かりません」
スズメは答えた。
「ですが」
彼女は現在の地図へ指を置いた。名もない深い谷が、夕暮れの光の中で静かに浮かび上がっている。
「一度、地上から見てみる必要はありますね」
奎星の口元が上がった。
「だよな」
あの日、彼らは空から来た。神代榊を見つけ、鬼火鳥を帰し、それで帰った。谷を調べて回ったわけではない。神代榊の周辺へ降りただけで、谷の地形や遺構を調査してはいない。
家々の跡が。道の跡が。畑を区切っていた石が。百五十年以上前の小萱村が、まだどこかに残っているかもしれない。
窓の外で蝉が鳴いた。
夏の夕暮れ、東京の小さな家。笑い声と羊羹と幼い頃の写真に囲まれた場所で、奎星とスズメは次に向かう場所を見つけた。
鬼火鳥の故郷。
かつて、小萱村と呼ばれていた谷へ。