マホウトコロ   作:西野圭吾

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第3話 ようこそ問題児サイドへ

 夏休みが始まった。

 

 正確に言えば、授業がなくなっただけである。上級課程三年の蓮根奎星が思い描いていた夏休みは、朝寝坊をして、昼まで寝巻きのまま過ごし、気が向いたら海へ行き、夕方になれば友人たちと飯を食うという、きわめて幸福なものだった。学期末試験をどうにか乗り越えたときには、もうそのつもりでいた。

 

 しかし、現実は違った。

 

 七月最後の月曜日、午前九時。奎星は、いつもの上級課程三年の教室で机に突っ伏していた。

 

「もう無理……」

 

「まだ始まって一時間よ」

 

 隣の席から、楓の冷たい声が飛んでくる。

 

「一時間もやった」

 

「一時間しか、でしょ」

 

「人間の集中力って四十五分くらいだぜ」

 

「どこ情報よ」

 

「俺」

 

「一番信用できない情報源じゃない」

 

 楓は呆れたように言いながら、自分の問題集へ視線を戻した。

 

 夏休みに入った教室は、普段よりずっと静かだった。机の半分以上は空いている。帰省した生徒もいれば、部活動や実習へ出ている生徒もいる。窓の外では、濃い青の海が夏の日差しを跳ね返していた。風が入るたび、薄いカーテンがゆっくりと膨らみ、白い壁に淡い影を揺らしている。

 

 そんな景色だけを見ていれば、完璧な夏休みだった。

 

 黒板に書かれた文字さえ見なければ。

 

《魔法省採用試験対策 魔法法規》

 

 大きな文字の下には、さらに細かな項目が並んでいる。

 

《一般社会における魔法使用》

 

《緊急避難》

 

《緊急魔法使用許可》

 

《国際魔法使い機密保持法》

 

《魔法犯罪捜査における拘束・記録・報告》

 

 奎星は、もう一度机へ額を押しつけた。

 

「字が多い……」

 

「法律だもの」

 

「法律、絵で説明してくんねえかな」

 

「無理でしょ」

 

「漫画」

 

「勉強しなさい」

 

「アニメ」

 

「勉強しなさい」

 

「映画化」

 

「奎星」

 

 楓が問題集から顔を上げた。

 

「この問題を解かないと、今日も帰れないわよ」

 

「うるさい!」

 

「私に怒らないでよ!」

 

「事実を言うな!」

 

「一番面倒な怒り方ね!」

 

「はい、そこまで」

 

 柔らかな声が教室に落ちた。

 

 それだけで、奎星と楓は同時に口を閉じる。

 

 教卓の前には、担任の土御門芽衣子が立っていた。いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべているが、その笑顔のまま「終わるまで帰れません」と言える人間であることを、奎星はすでに知っていた。その隣では、坪田茜が苦笑しながら二人を見ている。

 

「水無瀬さんの言う通りですよ、蓮根君」

 

「土御門先生まで……」

 

「今日の範囲が終われば帰れます」

 

「終わらなかったら?」

 

「終わるまでです」

 

「笑顔で怖いこと言うじゃん」

 

「頑張りましょうね」

 

「怖い……」

 

「何で私より土御門先生には素直なのよ」

 

 楓が呆れた顔になる。

 

「担任だから」

 

「私は同級生よ」

 

「だから言い返せる」

 

「殴るわよ」

 

「ほら!」

 

「二人とも」

 

「はい」

 

「はい……」

 

 教室に、ようやく静けさが戻った。

 

 奎星は渋々、問題用紙を手元へ引き寄せる。本当なら、もう少し頑張れると思っていた。そう思えるだけの理由もあった。

 

 小萱村。

 

 先日の土曜日、実家で八重子の遺品を調べたあと、奎星とスズメは、すぐに谷へ入るのはやめようと話し合った。昔の小萱村と現在の地形を照合し、現地の状況を確認する必要がある。以前、大型ウミツバメで谷へ入ったときとは違い、今回は地上を歩くことになる。神代榊の周辺だけでなく、谷底全体を調べる可能性もあった。

 

 学校側への届け出も必要だった。移動経路を確認し、鬼火鳥が現在も生息している土地へ入る以上、魔法生物に関する現状確認もしておかなければならない。

 

 そして何より、奎星には補習がある。

 

 話し合いの結果、小萱村へ向かう日は、お盆の休校期間に決まった。その期間だけは夏季補習も一度止まり、校務も最小限になる。普段なら生徒や教師が行き交う校舎も、職員区画や医務室、一部の研究施設を除けば、ほとんど閉じられる。スズメも研究室を空けられ、奎星も補習から解放される。

 

 二人で遠くへ出るには、そこが一番都合がよかった。

 

 だから奎星は思った。お盆まで頑張ればいい。スズメと二人で久しぶりに遠出をし、小萱村を探し、清弦と鈴が生きていた場所を自分の足で歩く。神代榊を見上げ、鬼火鳥の故郷を地上から確かめる。

 

 それさえ考えていれば、魔法法規くらい余裕で乗り越えられる。

 

 そのはずだった。

 

「もう無理……」

 

「二回目だよ、それ」

 

 茜が笑いながら言った。

 

「さっきより気持ちがこもってる」

 

「成長した」

 

「悪化したんだと思うな」

 

 茜は教卓から離れ、奎星の机まで歩いてきた。机の上に広げられた答案を覗き込み、数秒間、何も言わずに見つめる。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「これ、何?」

 

「答え」

 

「どの部分が?」

 

「全部」

 

「ひどいよこれ」

 

 茜は問題文を指差した。

 

《一般社会の駅構内において、大規模な構造物崩落が発生した。周囲には多数の非魔法族がおり、術者は第三者の生命に重大な危険が及んでいると判断。事前の許可なく大規模防護魔法を使用し、人的被害を防止した。この場合に成立し得る法的評価、および魔法使用後に必要となる対応について述べよ》

 

 その下に、奎星はこう書いていた。

 

《緊急避難。セーフ。》

 

「分かりやすいだろ」

 

「試験だったら、かなり点数低いよ」

 

「意味は合ってるじゃん!」

 

「半分ね」

 

「半分も!?」

 

「喜ぶところじゃないでしょ」

 

 楓が横から口を挟む。

 

 茜は問題用紙を机へ戻した。

 

「緊急避難が成立する可能性はある。そこは合ってる」

 

「ほら!」

 

「でも、それで全部終わりじゃないよ」

 

「助けたのに?」

 

「助けたことと、事後の手続きは別」

 

 奎星の眉が寄った。

 

 土御門も教卓の前から静かに続ける。

 

「蓮根君。一般社会で、多数の方が見ている前で大規模な魔法を使いました。その場合、何が発生しますか?」

 

「…………」

 

「ヒント。あなたがマホウトコロへ来て二日目に習っています」

 

「二日目って、一年前じゃん」

 

「覚えていませんか?」

 

「覚えてるよ!」

 

 奎星は頭を抱えた。一般社会。魔法。見られる。その三つの言葉が、頭の中で嫌な形に結びついていく。

 

「……機密保持局」

 

「はい」

 

「あ」

 

 奎星が顔を上げた。

 

「一般人に魔法を見られたら、機密保持局」

 

「そうです」

 

「記憶消す」

 

「すぐそこへ行かない」

 

 茜が笑った。

 

「え?」

 

「全員の記憶を片っ端から消すわけじゃないよ」

 

「違うの?」

 

「必要なら記憶処置も選択肢にはなる。でも、まずは状況確認。目撃範囲、映像や記録、残留魔力、一般社会側でどういう事故として処理されているか。魔法生物の目撃なのか、魔法そのものなのかでも対応は変わる」

 

「めんどくさ……」

 

「その面倒なことを誰かがやっているから、今の魔法社会が成り立っているの」

 

 茜の声は明るいままだったが、内容は軽くなかった。

 

「一般社会に魔法の痕跡が残れば、機密保持局。事故そのものが大規模なら、災害対策局とも連携する。使った本人からは魔法使用の経緯を確認する。特に学生が学校の管理区域外で大規模な魔法を使えば、学校側にも確認が入る」

 

 奎星は黙った。

 

 妙に聞き覚えがあった。

 

 灰色の取調室。机の上に浮かぶ羽根筆。事故。電車。背中の痛み。そして、戸倉。

 

 あのときは腹が立った。人を助けたのに、自分が魔法を使わなければ、もっと多くの人間が死んでいたかもしれないのに、どうして自分が調べられるのかと、本気で怒った。

 

 けれど、最終的には緊急避難として扱われた。

 

 現場に残った魔力。車両の損傷。列車の速度。乗員の証言。災害対策局の記録。学校からの確認。そうしたものをすべて調べたうえで、判断されたのだ。

 

 助けたから無条件で許されたのではない。助ける必要があったことを、あとから確認されたのである。

 

「……報告」

 

 奎星が言った。

 

 茜が少し笑う。

 

「そう」

 

「あと、現場の確認。残った魔力とか、目撃者とか」

 

「うん」

 

「機密保持局」

 

「うん」

 

「災害なら災害対策局」

 

「いいね」

 

「学校にも?」

 

「学生なら必要になる場合があるね」

 

 奎星は答案へ書き足した。

 

《緊急避難の成立を確認。一般社会への露見について機密保持局が対応。大規模事故なら災害対策局と連携。魔法使用の報告、現場記録、残留魔力、目撃状況などを確認。》

 

 書き終えて顔を上げる。

 

「これなら?」

 

「かなり良くなった」

 

「帰れる?」

 

「まだ一問目です」

 

「もう無理……」

 

「三回目」

 

 楓が淡々と数えた。

 

     *

 

 二問目の問題は、《緊急避難と緊急魔法使用許可の違いを説明せよ》だった。

 

「ヤバい状況が今あるのが緊急避難」

 

 奎星は問題文を見たまま言った。

 

「制度側から、使っていいよってなるのが緊急使用許可」

 

 茜が黙った。土御門も黙った。楓は顔を伏せている。

 

「何だよ」

 

「間違ってはいないのが腹立つわね」

 

「だろ?」

 

「そのまま答案へ書かないでくださいね」

 

 土御門が優しく言った。

 

「昔、スズメちゃんにも同じこと言われた」

 

「でしょうね」

 

 楓が即答した。

 

 奎星は不満そうに鉛筆を回す。

 

「緊急魔法使用許可は、制度上、特定の状況における魔法使用を、事前または事後の手続きによって認めるものです」

 

 土御門が黒板へ二つの言葉を書いた。

 

《許可》

 

《危難》

 

「対して緊急避難は、現に存在する危険から生命、身体、財産などを守るために行った行為について、成立要件を判断するものです」

 

「だから、ヤバい状況が今ある」

 

「試験では言い換えましょう」

 

「分かりやすいのに」

 

「採点者が困ります」

 

「法律って不便」

 

「法律に便利さだけを求めないでください」

 

 その返しまで、どこかスズメに似ていた。

 

 奎星は渋々、答案を書き直す。

 

 三問目は、保護対象に指定された魔法生物を負傷状態で発見した場合、治療のため一時的に拘束するには何を確認すべきか、という問題だった。

 

「あ」

 

 奎星の鉛筆が止まった。今度は、答えがすぐに浮かんだ。

 

「拘束具の登録」

 

 楓がこちらを見る。

 

「管理者の登録印。魔法省の許可番号か、施設の識別紋」

 

 茜の目が少し大きくなる。

 

「よく覚えてるね」

 

「見たことある」

 

 夏の森。青白い炎。傷ついた鬼火鳥の右脚。そして、何も刻まれていなかった黒い足枷。登録印も、許可番号も、施設の識別紋もなかった。

 

 あの瞬間、楓の顔から祭り気分が消えたことを、奎星は覚えている。

 

「鬼火鳥」

 

 楓も思い出したらしい。

 

「そう」

 

「山で見つけた子ね」

 

「うん」

 

 茜は二人を見た。

 

「実例があると強いね」

 

「俺、実地ならできるんだよ」

 

「だから筆記でもできるようになろうね」

 

「そこ繋げなくてよくない?」

 

「禍祓官志望なんでしょ?」

 

「そうだけど」

 

 茜は黒板の前へ戻った。白いチョークが、乾いた音を立てて板書を始める。

 

《発見》

 

《確認》

 

《制圧》

 

《拘束》

 

《捜査》

 

《記録》

 

「禍祓官って、戦えるだけの仕事じゃないから」

 

 茜は黒板に並んだ言葉を順に指した。

 

「魔法犯罪を見つける。危険があるか判断する。必要なら制圧する。被疑者を拘束する。証拠を確認する。事情を聞く。そして全部、記録を残す」

 

「最後、多くね?」

 

「最後がものすごく多いよ」

 

「嫌なんだけど」

 

「法執行局、書類多いからね」

 

 茜は笑いながら続けた。

 

「事情聴取記録、魔法使用報告、拘束申請、捜査継続申請――」

 

「あー」

 

 奎星が声を上げた。

 

「見た見た。斎賀さんが死んだ魚みたいな目をして書いてた」

 

「…………」

 

 茜の声が止まった。

 

 奎星も止まる。

 

 教室の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 茜が首を傾げる。

 

「蓮根君、法執行局の執務室に入ったことあった?」

 

「…………」

 

 奎星の口が開き、そして閉じた。

 

 あった。

 

 坪田茜と一緒に、魔法交通管理局を見た。災害対策局を見た。魔法生物・妖怪共生局を見た。記録局へ行き、国際魔法協力局へ行き、機密保持局、魔法法執行局、監察局まで回った。茜と二人で魔法省を歩き、昼飯も食べた。斎賀が机の上の書類を見つめながら、死んだ魚のような目をしていた。

 

 けれど、それは今の茜と歩いた日ではない。

 

 逆転時計で巻き戻される前の、消えた六月。後藤孝雄が奎星の進路へ入り込み、彼を特別顧問として魔法省へ囲い込もうとしていた時間の中で起きたことだった。

 

 今の世界には、あの日はない。

 

 今の茜にとって、奎星との最初の授業は六月一日のキャリアデザインだった。黒板へ《自分を知る》と書き、自己分析シートを配った日。それ以前に二人で魔法省を歩いた記憶など、彼女には存在しない。

 

「……前」

 

 奎星が小さく言った。

 

「え?」

 

「いや」

 

 奎星は鉛筆を持ち直した。

 

「何でもない」

 

 茜は少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。奎星も説明しなかった。

 

 なくなった時間を覚えているのは、自分だけだ。

 

 だから、あの一日を茜と共有することはできない。それでも、そこで教わったことまで失う必要はなかった。

 

 奎星は答案へ書き込んだ。

 

《事情聴取記録》

 

《魔法使用報告》

 

《拘束申請》

 

《捜査継続申請》

 

「……覚えてんじゃん」

 

 楓が横から覗き込む。

 

「実地ならな」

 

「前に見たって、どこで?」

 

「長い話」

 

「またそれ?」

 

「めちゃくちゃ長い」

 

 楓は怪訝そうな顔をしたが、土御門が次の問題を示したため、会話はそこで途切れた。

 

     *

 

 四問目は、重大な魔法犯罪へ関与した者が、その後、別の重大事件の解決に大きく協力した場合、過去の犯罪行為は消滅するか、という問題だった。

 

「しない」

 

 奎星は即答した。今度こそ迷いはなかった。

 

「協力したことは、減刑とか処遇で考えられることはある。でも、やったことそのものは消えない」

 

 教室の中が、少しだけ静かになった。

 

 黒曜の環。鬼火鳥。御影へ向けられた杖。スズメへ向けられた杖。そして、星帰り作戦。

 

 斎賀玄弥。

 

 あの男が神代冥司を止めるために戦ったからといって、それ以前の罪までなかったことにはならなかった。

 

「正解です」

 

 土御門が頷く。

 

「お」

 

 奎星の顔が明るくなる。

 

「今の完璧?」

 

「はい」

 

「帰れる?」

 

「まだ四問目です」

 

「問題数いくつ?」

 

「二十五問」

 

「もう無理!!」

 

「四回目」

 

「数えんな!」

 

 教室のあちこちから、小さな笑いが起きた。

 

 奎星は机へ突っ伏す。

 

「俺、禍祓官向いてないかもしれん……」

 

「判断早すぎない?」

 

 茜が笑った。

 

「書類多い」

 

「そこ?」

 

「もっと現場で、こう……悪い魔法使いを見つけて」

 

 奎星は起き上がり、杖を振る真似をした。

 

「止まれ!」

 

「うん」

 

「エクスペリアームス!」

 

「うん」

 

「捕まえた!」

 

「そこから書類」

 

「何でだよ!」

 

「何でって」

 

「捕まえたじゃん!」

 

「誰を、どこで、どういう根拠で追って、何を確認して、どんな魔法を使って、相手にどの程度の負傷があって、何を押収して、誰が立ち会って――」

 

「待って待って待って!」

 

「全部必要」

 

「御影先生、こんなのやってたの!?」

 

「禍祓官ですから」

 

 土御門が答えた。

 

「戦って終わりではありませんよ」

 

「夢が……」

 

「むしろ、そこが大事なんだよ」

 

 茜の声が、少しだけ真面目になる。

 

「魔法って、使う人によってできることの差が大きいでしょ」

 

「まあ」

 

「強い人が『俺が正しいと思ったから』だけで誰かを拘束できたら、怖いよね」

 

「……うん」

 

「だから記録する。あとから別の人が見ても、その判断が必要だったと確認できるように」

 

 奎星は黙った。

 

「禍祓官は、悪い人を倒す仕事じゃないよ」

 

 茜は続けた。

 

「危険を止める仕事」

 

 その一言に、奎星の目が少し変わった。

 

「止める」

 

「そう」

 

「倒すんじゃなくて?」

 

「必要な力を使って止める。拘束する。そして、自分も生きて帰る」

 

 奎星は黙ったまま、黒板の文字を見つめた。

 

 どこかで、似たことを考えたことがある。

 

 進路希望調査。第一志望。

 

《禍祓官》

 

 あの文字を書いたとき、奎星の中にあったのは、強くなりたいという気持ちだけではなかった。必要な力だけを使うこと。相手を止めること。怖くても判断すること。そして、生きて帰ること。

 

 強いだけでは足りない。

 

「……なるほど」

 

 奎星は、少しだけ姿勢を直した。

 

 楓が横から彼を見る。

 

「急に真面目になった」

 

「俺、元から真面目」

 

「今の一分だけよ」

 

「失礼だな」

 

「じゃあ次の問題」

 

「もう無理……」

 

「五回目」

 

「楓!」

 

     *

 

 正午前、休憩の合図が出る頃には、奎星の机の上は紙で埋まっていた。

 

 緊急避難。秘匿義務。魔法生物保護。拘束。捜査。報告。国際規定。魔法交通。一般社会。魔法社会。

 

 魔法を覚えたばかりの頃、スズメから聞いた言葉が、今になって別の意味を持って並び直している。

 

 あの頃は、ただ面白かった。一般人に魔法を見られたらどうするのか。魔法省にはどんな部署があるのか。禍祓官は手錠を持つのか。魔法パトカーはあるのか。どれも、知らない世界の話だった。

 

 今は違う。

 

 鬼火鳥の違法捕獲を見た。一般社会で魔法を使った。機密保持局で事情を聞かれた。黒曜の環を見た。斎賀が裁かれた。魔法省が内部から壊れるところも見た。

 

 規則を守る人間も、規則を利用する人間も、規則を破る人間もいる。その結果がどうなるのかも、奎星は知っている。

 

「法規、前より分かるようになったかも」

 

 奎星がぽつりと言った。

 

「じゃあ午後も頑張れるわね」

 

 楓が即座に返す。

 

「余計なこと言った」

 

 その瞬間、ぶぶぶ、と小さな振動音がした。

 

 楓の鞄だった。

 

 もう一度、ぶぶぶ、と震える。さらに短い振動が続き、鞄の中で端末がせわしなく鳴った。

 

「…………」

 

 楓の眉が動く。

 

 奎星が見る。

 

「何」

 

「いや」

 

 また、ぶぶぶ、と鳴った。

 

 楓は無言で鞄からスマートフォンを取り出した。休憩時間なので問題はない。授業中の携帯端末使用は禁止されているため、さっきからずっと鞄の中で振動していたのだろう。

 

 画面を点けた奎星が、思わず声を漏らした。

 

「うわ。めっちゃ来てんじゃん」

 

「うるさいのよ」

 

「誰?」

 

 答えを聞く前に、画面に表示された名前が見えた。

 

《日向》

 

 未読二十三件。

 

「二十三!?」

 

「朝からずっとよ」

 

「何送ってくんの?」

 

「どうでもいいこと」

 

 楓はそう言いながら、上から順番に確認していく。

 

《着いた》

 

《暑い》

 

《箒置き場でかい》

 

《今日午後から練習》

 

《見ろ》

 

 青空、競技用箒、競技場、知らない選手、昼飯。続いて、短い文章が並んでいる。

 

《ここの飯うまい》

 

《でも岳いたら足りない》

 

《今から飛ぶ》

 

《風強い》

 

《監督こわい》

 

《宿着いた》

 

《部屋広い》

 

《明日朝早い》

 

《眠い》

 

《でも寝れん》

 

《楓これ好きそう》

 

 最後には、遠征先の売店に並んでいる小さな魔法具の写真が添えられていた。

 

「…………」

 

 楓の指が止まる。

 

 奎星は横から顔を覗き込んだ。

 

「めっちゃ送ってきてんじゃん」

 

「ほんっとうるさい」

 

「でも全部見てんじゃん」

 

「通知が溜まるのが嫌なのよ」

 

「返信してんじゃん」

 

「返さないとうるさいのよ」

 

 そう言いながら、楓の指は画面の上を動いた。

 

《ちゃんと寝なさい。明日朝早いんでしょ》

 

 送信。

 

 数秒後、すぐに返信が来る。

 

《お母さん?》

 

 楓の眉間に皺が寄った。

 

《誰がお母さんよ》

 

 送信。

 

 一秒も経たないうちに、また返事が届く。

 

《怖》

 

「うざっ!」

 

 楓が声を上げた。

 

 けれど、その口元はほんの少しだけ笑っていた。

 

 奎星は、それを見逃さなかった。

 

「なあ」

 

「何よ」

 

「日向いないから聞くけど」

 

「嫌な予感がするんだけど」

 

「いつ付き合うの?」

 

「な、何言ってるの!?」

 

 予想以上の反応だった。楓の声が教室へ響き、何人かの生徒がちらりとこちらを見る。まだ休憩時間だったため、すぐにそれぞれの会話へ戻っていった。

 

 奎星は首を傾げる。

 

「いや……両想いだろ?」

 

「違うわよ!」

 

「何が?」

 

「何がって!」

 

「日向、お前のこと好きじゃん」

 

「知らないわよ!」

 

「お前も好きじゃん」

 

「違う!」

 

「何でだよ」

 

「何であんたに決められなきゃいけないのよ!」

 

「だって俺、見たし」

 

 楓が止まった。

 

「……何を」

 

「星帰り作戦の前の夜」

 

 楓の顔から表情が消えた。

 

 奎星は、記憶を探るように視線を上へ向ける。

 

「手繋いで」

 

「…………」

 

「日向が『絶対俺が守る』とか言って」

 

「…………」

 

「お前が日向の肩に頭乗せて」

 

「ちょっと待って」

 

「めちゃくちゃイチャついてた」

 

「なんで見てたの!?」

 

 楓が立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、大きな音を立てる。

 

「寝れなくて外へ出たら」

 

「それで何で見るのよ!」

 

「いや、最初は日向とお前が夜中に二人でいるから、デキたのかと思って」

 

「何がよ!!」

 

「途中から真面目な話をしてたから、動けなくなって」

 

「帰りなさいよ!」

 

「でも日向が手を握るから」

 

「見ないでよ!」

 

「お前も肩に頭を乗せるし」

 

「忘れなさい!!」

 

「無理だろ!」

 

「今すぐ!」

 

「記憶消去は機密保持局の案件だから」

 

「黙りなさい!」

 

 奎星は笑った。

 

「途中でスズメちゃんにも趣味悪いって怒られて、ちゃんとやめたよ」

 

「烏丸先生までいたの!?」

 

「後から来た」

 

「最悪!」

 

「何で俺だけ!?」

 

「二人ともよ!」

 

 楓は両手で顔を覆った。耳まで赤くなっている。

 

「信じらんない……」

 

「別にいいじゃん。両想いなんだから」

 

「違うって言ってるでしょ!」

 

「じゃあ何なんだよ」

 

「知らないわよ!」

 

「十二年くらい一緒にいて、まだ分かんないの?」

 

「うるさい!」

 

「日向かわいそ」

 

「何であんたが日向側なのよ!」

 

「友達だから」

 

「私も友達でしょ!」

 

「じゃあ付き合えよ」

 

「話飛びすぎなのよ!」

 

「飛んでないだろ!」

 

 楓はしばらく奎星を睨んでいたが、やがて何かを思いついたように目を細めた。

 

「……あんただって」

 

「何?」

 

「烏丸先生とどうなのよ!」

 

 今度は奎星が止まった。

 

「どうってなんだよ!」

 

「そのままの意味よ!」

 

「先生だよ!」

 

「下の名前でちゃん付けしてるじゃない!」

 

「一年ずっとそうだろ!」

 

「家にも二人で行ったんでしょ!」

 

「調査!」

 

「二人で東京まで!」

 

「俺の実家だぞ!」

 

「ご両親に結婚の挨拶だと思われたんでしょ!」

 

「何で知ってんだよ!?」

 

「さっき烏丸先生に聞いた!」

 

「スズメちゃん!!」

 

 研究室まで届くはずもないのに、奎星は窓の外へ向かって叫んだ。

 

「ほら!」

 

 楓が指を突きつける。

 

「何が!」

 

「何も進展ないじゃない!」

 

「ありますー!」

 

「何がよ!」

 

「今度、お盆に二人で神代榊を調べに行きますー!」

 

 奎星は得意げに胸を張った。

 

 楓が固まる。

 

「…………」

 

「どうだ」

 

「調査でしょ!」

 

「二人だぞ!」

 

「調査よ!」

 

「遠出だぞ!」

 

「調査!」

 

「一日一緒だぞ!」

 

「仕事みたいなものでしょ!」

 

「じゃあお前らは何したんだよ!」

 

「何って!」

 

「お前らは調査すらしてねえだろ!」

 

「何を調査するのよ!」

 

「知らねえよ! 恋愛感情とか!」

 

「それを調査って言わないわよ!」

 

「じゃあ何だよ!」

 

「知らないわよ!」

 

「だから進展してねえじゃん!」

 

「あんたに言われたくない!」

 

「俺はしてる!」

 

「どこが!」

 

「実家!」

 

「調査!」

 

「小萱村!」

 

「調査!!」

 

「羊羹一緒に食った!」

 

「それはただのお茶でしょ!!」

 

「スズメちゃん、美味しいって言ってた!」

 

「知らないわよ!!」

 

「はい」

 

 声がした。

 

 二人の動きが止まる。

 

 いつの間にか、教室は静まり返っていた。休憩時間は終わっている。前の席も、後ろの席も、廊下側も窓側も、何人もの生徒がこちらを見ていた。

 

 そして教卓には、土御門芽衣子が立っていた。いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。その隣では、坪田茜が片手で口元を押さえ、明らかに笑いを堪えていた。

 

「盛り上がっているところ申し訳ないのですが」

 

 土御門が言った。

 

「休憩は終わりましたよ」

 

「…………はい」

 

 楓が座る。

 

「はい……」

 

 奎星も座った。

 

「それから」

 

 土御門の視線が二人へ向く。

 

「朝比奈君と烏丸先生のお話は、魔法法規の試験範囲には入りません」

 

 教室中で笑いが起きた。

 

「先生!」

 

 楓の顔が真っ赤になる。

 

「私、何も!」

 

「蓮根君も」

 

「俺!?」

 

「声が廊下まで聞こえていました」

 

「楓が!」

 

「あんたが始めたんでしょ!」

 

「お前がスズメちゃんの話を出すから!」

 

「元は日向の話でしょ!」

 

「はい、二人とも」

 

「…………」

 

「…………」

 

 二人は揃って口を閉じた。

 

 茜がとうとう吹き出す。

 

「ふっ……ごめん」

 

「坪田先生!」

 

「ごめんごめん。でも」

 

 茜は笑いながら黒板を指差した。

 

「二人とも、元気は戻ったね」

 

 黒板には、新しい問題が書かれていた。

 

《一般社会における魔法犯罪捜査と機密保持局の連携について述べよ》

 

 奎星の顔から、再び光が消える。

 

「もう無理……」

 

「六回目」

 

 楓が即座に言った。

 

「お前も怒られただろ!」

 

「誰のせいよ!」

 

     *

 

 午後四時、ようやく補習が終わった。

 

 西へ傾き始めた太陽が、教室の床へ長い光を落としている。午前中には青く眩しかった海も、今は少しずつ金色を帯び、波のきらめきが窓の向こうでゆっくりとほどけていた。

 

 他の生徒たちは次々に教室を出ていく。奎星は机へ突っ伏したまま、しばらく動かなかった。

 

「終わった……」

 

「明日もあるわよ」

 

「言うな」

 

「現実よ」

 

「嫌い」

 

「私じゃなくて現実を嫌いなさい」

 

「両方」

 

「殴るわよ」

 

 楓は問題集を鞄へ入れた。その横で、スマートフォンがまた震える。

 

 ぶぶぶ。

 

 画面を見ると、日向から新しいメッセージが届いていた。

 

《練習終わった》

 

《死ぬ》

 

《飯》

 

 楓の眉が少し下がる。けれど、すぐに指を動かした。

 

《お疲れ。ちゃんと水飲みなさい》

 

「お母さんじゃん」

 

「うるさい!」

 

 奎星が笑う。

 

 楓はスマートフォンを鞄へ突っ込み、そのまま奎星を睨んだ。

 

「あんたのせいで怒られたじゃない!」

 

「俺も怒られた」

 

「あんたはいつもでしょ!」

 

 奎星はゆっくり身体を起こした。

 

 夕方の光の中、机の上には今日一日かけて埋めた魔法法規の問題集がある。まだ間違いは多く、赤い印も残っている。明日も補習、その次の日も補習。お盆までは、まだ少し時間があった。

 

 それでも、奎星の中には、かすかな楽しみが残っていた。

 

 小萱村。鬼火鳥の谷。神代榊。百五十年以上前の石。そして、スズメ。

 

 そこまで行けば、夏休みらしい何かが待っている。多分、きっと。少なくとも、そう思っていれば、もう少しくらいは頑張れる。

 

 奎星は鞄を肩へ掛け、まだ怒っている楓へ、にやりと笑った。

 

「ようこそ問題児サイドへ」

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