第零書庫へ続く石段を下りながら、奎星は何度目になるか分からないほどスズメの名前を呼んでいた。
「スズメちゃん!」
返事はない。
「スズメちゃん! いるなら返事して!」
杖先に灯したルーモスの光が、長い階段と湿った石壁を淡く照らしている。声を上げるたび、その響きは地下深くへ走り、幾重にも重なった反響となって戻ってきた。
スズメちゃん。
スズメちゃん。
スズメちゃん。
自分の声だけが、まるで誰かに真似されているように暗闇の向こうから返ってくる。
奎星は唇を噛み、さらに足を速めた。
第零書庫へ向かうと決めたとき、彼はもっと普通の「図書館」に近い場所を想像していた。古い本や巻物が大量に並び、それらを厳重な魔法で守っている、少し変わった資料室。せいぜいその程度だと思っていたのだ。
しかし、長い階段を抜けた先に広がっていたのは、図書館という言葉では到底言い表せない空間だった。
巨大な地下空洞。
杖先の光では天井まで届かず、黒い岩盤をくり抜いた壁際には、木とも石とも判別できない棚が何列も並んでいる。その中には無数の巻物や古書、箱、石板、錆びついた魔法具が収められていた。
紙の匂いがする。
埃と湿気、それから金属が焼けたような、鼻の奥に残る奇妙な匂いも混じっていた。
棚の一部には細い縄が張られ、その縄には見たこともない文字が青白く浮かんでいる。封印された巻物の中には、奎星が近づいただけで内側から何かが動くように震えるものさえあった。
いつもの奎星なら、間違いなく目を輝かせていただろう。
何これ。
あれ何。
触っていい?
そう言って、スズメに怒られていたはずだ。
けれど今は、何一つ興味が湧かなかった。
「スズメちゃん!」
声を張る。
やはり返事はない。
奎星は走った。
書架と書架の間は入り組んでおり、所々で通路が枝分かれしている。床には古い文字の刻まれた石板が嵌め込まれ、奎星の足音に反応するように、ごく微かな青白い光を灯していた。
その光が、一瞬だけ強くなる。
奎星の腰にある神代榊の杖へ反応したようにも見えたが、本人は気づかなかった。今はそれどころではない。
「スズメ――」
角を曲がったところで、奎星は言葉を失った。
杖先の光が、少し先にある広い空間へ届いている。
そこに、人がいた。
「……スズメちゃん?」
書架に囲まれた円形の閲覧室。その中央に立つ黒い石柱へ、スズメが拘束されていた。
細い両手首は頭上でまとめられ、黒い縄のような魔法によって石柱へ固定されている。足元にも同じ拘束が絡みつき、濃紺の教員衣は所々が裂けていた。
普段きちんと揃っている黒髪は乱れ、頬には汗が張りついている。手首には黒い拘束が食い込んだ赤紫色の痕が残っていた。
「スズメちゃん!」
奎星が駆け出す。
スズメが顔を上げた。
その瞬間、疲労と苦痛に歪んでいた顔が、明確な恐怖へ変わった。
「――!」
声が出せない。
口元にも魔法による拘束が掛けられている。
スズメは必死に首を振った。
来るな。
戻れ。
そう言っている。
奎星には一目で分かった。
だからこそ、止まらなかった。
「待ってろ!」
スズメの目が大きく見開かれる。
奎星は石柱の前へ滑り込むように膝をつき、まず彼女の手首へ伸びる黒い拘束を掴んだ。
触れた瞬間、指先が痺れる。
普通の縄ではない。魔力で作られた拘束そのものが、スズメの身体へ絡みついている。
「これ、どうやって外すんだ……!」
奎星は杖を向けようとして、ためらった。
下手に魔法を使って、また昨日のようになったら。
一瞬だけ浮かんだ恐怖を、奎星は歯を食いしばって押し殺した。
今はスズメがいる。
「レパロじゃねえよな……アロホモラ? いや、違う……」
スズメがさらに激しく首を振る。
逃げろ。
早く。
奎星は気づかないふりをした。
「ちょっと待って。今、外すから」
そのときだった。
背後から、乾いた音が響いた。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
拍手だった。
奎星の身体が固まる。
ゆっくりと振り返る。
書架の陰から、男が一人歩いてきた。
「いやあ」
久我朔弥だった。
いつもと同じ濃灰色の長衣を着て、いつもと同じ穏やかな顔をしている。その右手には杖があり、左腕には古い革張りの本が何冊か抱えられていた。
教壇に立っていたときと、ほとんど何も変わらない。
それが、奎星には吐き気がするほど気味悪く感じられた。
「まさか本当に、一人でここまで辿り着くとは思いませんでしたよ」
久我は拍手をやめ、奎星を眺めた。
「驚きました、蓮根君。あなたはやはり、私が思っていた以上に優秀だ」
奎星は立ち上がった。
「……久我先生?」
問いかけながらも、答えはもう分かっていた。
スズメの拘束。
久我の杖。
第零書庫。
昨日、自分へ向けられた異常なエクスペリアームス。
高等魔法理論。
魔力の増幅。
そして今、この男がここにいる。
「昨日のも」
奎星の声が低くなる。
「お前か」
久我は返事をしなかった。
ただ、少し微笑んだ。
奎星の中で、何かが切れた。
神代榊の杖が上がり、久我へ真っ直ぐ向けられる。もう右手は震えていなかった。
「スズメちゃんを離せ」
久我は奎星の目を見る。その瞳に浮かんでいるものを見て、少しだけ興味深そうに眉を上げた。
奎星はもう一度言った。
「離せ」
久我は動かない。
奎星の指が杖を握り込む。
「……殺すぞ、テメェ」
その声を聞いたスズメの目が、大きく見開かれた。
ほんの数日前、御影に言われた。
殺すことは強さではない。
殺さずに止めるほうが難しい。
その言葉を忘れたわけではない。
それでも、スズメの手首に残る痕を見た瞬間、頭に血が上った。
自分の魔法を細工し、日向を傷つけ、楓を泣かせ、自分に人を傷つける恐怖を植えつけた。
そのうえ、今度はスズメを。
久我は少しだけ首を傾げた。
「いいのですか?」
「何がだよ」
久我が杖を僅かに動かす。
その瞬間、スズメを拘束していた黒い魔法が強く光った。
「――っ!」
口元の拘束を越えて、小さな声が漏れる。
苦痛に耐えるような、押し殺した声だった。
スズメの身体が強張り、手首へ絡んだ黒い拘束がさらに深く食い込む。
奎星の顔色が変わった。
「やめろ!」
久我の杖が、もう少し動く。
「――ぅ……!」
スズメの顔が歪んだ。
「やめろって!」
奎星は即座に杖を下ろした。
迷わなかった。
杖を床へ置き、両手を上げる。
「分かった」
久我が動きを止める。
奎星は両手を上げたまま、一歩も動かなかった。
「なんでも言うこと聞くよ」
怒りで声が震えている。それでも、抑えた。
「だから頼む。もうやめてくれ……」
久我はしばらく奎星を眺めていた。
やがて、満足そうに微笑む。
「杖をこちらへ」
奎星は床にある神代榊を見た。
「蹴ってよこしてください」
「…………」
「早く」
奎星は唇を噛み、靴の先で自分の杖を蹴った。
床を滑った神代榊が、久我の足元まで届く。
久我はそれを見下ろした。
その目が、ほんの一瞬だけ異様に鋭くなる。
「……神代榊」
小さな呟きだった。
奎星には聞こえない。
久我は自分の杖を振った。
スズメを拘束していた黒い魔法が少しだけ緩む。口元の拘束が消え、手首の縄も、完全ではないものの身体へ食い込む力を弱めた。
「スズメちゃん!」
奎星はすぐに駆け寄った。
「蓮根君!」
声を取り戻した瞬間、スズメは怒鳴った。
「なぜ一人で来たのですか!?」
奎星が目を丸くする。
「は!?」
「御影先生か九重院校長を呼ぶべきでしょう!」
「スズメちゃんが呼んだんだろ!?」
「私は『一人で来てください』などと一言も書いていません!」
「時間なかったんだよ!」
「それでもです!」
「いや、あんなヒント残されたら来るだろ、普通!」
「普通は教師へ相談します!」
「スズメちゃんが捕まってんのに、そんなゆっくりできるかよ!」
「だからといって――っ」
スズメが顔を歪めた。
拘束で傷ついた手首が動いたらしい。
奎星の顔から怒りが消える。
「待って。動かないで」
声が変わった。
驚くほど優しくなる。
「今、外すから」
黒い拘束は、久我が弱めたことで指を差し込める程度になっていた。奎星はスズメの手首に触れないよう注意しながら、絡みついた魔法の縄を少しずつ緩めていく。
「痛い?」
「……大丈夫です」
「大丈夫な手じゃねえだろ」
赤紫色の痕が、細い手首に何本も残っている。
普段、杖を振り、教科書を持ち、自分のノートを何度も添削してきた手だ。
そこに、くっきりと傷が残っている。
奎星はひどく顔を顰めた。
ようやく片方の手が外れる。
スズメの腕が落ちる前に、奎星がそっと支えた。
その触れ方は、彼らしくないほど慎重だった。
「……蓮根君」
「何?」
スズメは怒っていた。
一人で来たことも、無茶をしたことも、教師へ相談しなかったことも、全部怒っている。
それでも、目の前で必死に自分の拘束を外そうとしている少年を見ているうち、その表情は少しずつ変わっていった。
「助けに来てくれたことは」
奎星の手が止まる。
「……嬉しいです」
奎星が顔を上げた。
スズメは小さく息を吐く。
「本当に」
それから、声を低くした。
「ですが、久我先生は危険です」
二人が視線を向けると、久我は既に二人への興味を失ったように、書架から古い本を次々と抜き取っていた。
厚い革表紙。
木簡。
巻物。
黒い金具で閉じられた古書。
まるで宝物を見つけた子どものように、一冊ずつ嬉しそうに眺めている。
「今すぐ、あなただけでも逃げてください」
スズメが囁く。
奎星は、信じられないものを見るようにスズメを見た。
「は?」
「私なら何とかします」
「何とかできてないから、こうなってんだろ」
「蓮根君」
「置いてけるわけないだろ……!?」
声が思わず大きくなった。
スズメが黙る。
奎星は最後の拘束を外した。
自由になったスズメの腕が、力なく下がる。
奎星はその手首を両手でそっと持った。
指で触れるだけでも痛そうな痕が、何本も残っている。
「こんな」
奎星の眉間に皺が寄る。
声が低く、掠れた。
「こんなん見て、待てるわけないだろ……」
スズメは何も言えなかった。
普段なら、生徒が教師を守る必要はありません、と叱ったはずだ。
けれど奎星は、ただ勢いだけでここまで来たわけではない。
怖かったはずだ。
昨日、自分の魔法で友人を傷つけたと思い込み、杖を握ることさえ怖がっていた。
それでも、ここまで来た。
誰かを傷つけるためではなく、自分を探すために。
「……馬鹿ですね」
スズメが呟く。
奎星が顔を上げた。
「今それ言う?」
「今だからです」
「助けに来たんだけど」
「だから馬鹿なんです」
「ひでえ」
それでも、少しだけ奎星の口元が緩んだ。
その背後では、久我が最後の一冊を手に取っていた。
黒い革表紙。
中央には見たこともない銀色の紋章が刻まれている。
久我の指が、表紙を愛おしむように撫でた。
「これなら」
小さな声だった。
「神代様も、お喜びになる」
奎星が顔を上げる。
「……神代?」
久我の手が止まった。
ほんの一瞬、久我の顔から笑みが消える。
しまった。
そう思ったのが、奎星にも分かるほどはっきりした反応だった。
「今」
奎星が立ち上がる。
「神代って言った?」
スズメも目を細めた。
「久我先生」
久我はしばらく二人を見つめた。
そのあと、小さく息を吐く。
「……まあ」
肩をすくめると、いつもの穏やかな笑みが戻った。
「構いませんか」
「何が」
奎星が警戒する。
「どうせ」
久我は集めた古代魔術書を一つの革袋へ収めた。袋の外見からは到底入らない量の本が、吸い込まれるように消えていく。
最後に口を閉じる。
「あなた方には、ここで死んでいただくのですから」
奎星の顔が強張った。
スズメがすぐに立ち上がろうとする。しかし、まだ足に力が戻っていない。
「久我先生!」
「残念ですよ、烏丸先生」
久我は二人へ杖を向けた。
「あなたとは、研究者としてもう少し話してみたかった」
「……何をするつもりです」
「余計なことを喋られては困りますからね」
スズメの顔色が変わった。
久我の杖先に、光が集まり始めている。
赤ではない。
青でも、白でもない。
毒々しいほど鮮やかな緑。
スズメが息を呑んだ。
「蓮根君」
声が変わった。
その一声だけで、奎星には分かった。
今まで、どんな危険な魔法について話していても、スズメがこんな声を出したことはない。
「逃げて」
「スズメちゃん?」
「今すぐ逃げてください!」
「何――」
「早く!!」
悲鳴に近かった。
その瞬間、奎星の頭の中へ授業で聞いた言葉が一気に戻ってくる。
許されざる呪文。
魔法界でも、最も重い禁忌。
生命を直接奪う魔法。
防ぐ方法は、ほとんどない。
そして、その呪文の色は緑。
「――アバダ・ケダブラ!」
久我の杖から、緑色の閃光が放たれた。
時間が遅くなったように感じた。
光が真っ直ぐ飛んでくる。
スズメへ。
自分へ。
避ける。
無理だ。
杖は久我の足元にある。
プロテゴ。
使えない。
使えたとしても、死の呪文は盾の呪文では防げない。
そんなことは、魔法を学んで一か月の奎星でも知っている。
後ろにスズメがいる。
なら、身体が先に動いた。
奎星は右手を前へ出した。
杖はない。
何もない。
ただ、掌を飛んでくる死の光へ向ける。
スズメの目が見開かれた。
「駄目です!!」
聞こえている。
それでも、退かなかった。
あの日、日向が楓の前へ飛び込んだように、理屈ではない。
スズメが後ろにいる。
それだけだった。
緑の光が奎星の掌へ迫る。
一メートル。
五十センチ。
十センチ。
久我の口元に笑みが浮かんだ。
死の呪文に反対呪文は効かない。
盾も通じない。
まして、素手で受け止めるなどあり得ない。
――そのはずだった。
奎星の掌が熱くなった。
「……え?」
奎星自身が最初に気づいた。
右手の奥。
身体の中。
どこか、自分でも知らない場所が開いた。
一か月前、リモコンを引き寄せたときとも、水晶を壊したときとも、魔力を暴走させたときとも全く違う。
何かが、目を覚ました。
右手の掌に、見たこともない紋様が浮かぶ。
青白い光。
それは、地下深くで奎星がマホウトコロへ来た日から何度も静かに輝いていた、あの古代文字と同じ光だった。
「な――」
久我の顔から、初めて完全に余裕が消えた。
奎星の右手から光が放たれる。
呪文は唱えていない。
杖もない。
ただ、光だけが死の呪文へ正面からぶつかった。
緑と青白。
二つの光が接触する。
一瞬、無音になった。
そのあと、緑の光が砕けた。
「……嘘でしょう」
久我が呟く。
スズメは言葉すら出なかった。
アバダ・ケダブラが消えた。
弾かれたのではない。
逸れたのでも、何かへ命中したのでもない。
奎星の掌から放たれた青白い光によって、死の呪文そのものが消し去られた。
次の瞬間、第零書庫全体が震えた。
床へ刻まれた無数の古代文字が、一斉に青白く燃え上がる。封印された巻物が震え、書架が軋み、天井から石の欠片が降り注いだ。
「蓮根君!!」
スズメが叫ぶ。
奎星も、自分の右手を呆然と見ていた。
「俺……何した……?」
答える者はいなかった。
青白い光は右手から腕へ、腕から肩へ、そして身体中へ走っていく。
そのとき、久我の足元に落ちていた神代榊の杖が、共鳴するように強烈な光を放った。
「まず――」
久我が言い終えるより早く、第零書庫の最深部から何かが応えた。
轟音。
地面が跳ね上がる。
光が視界のすべてを飲み込んだ。
そして。
第零書庫は、爆発した。