八月十三日。お盆の休校期間へ入ったマホウトコロは、驚くほど静かだった。普段なら朝食へ向かう生徒たちの声が響く回廊にも、今日はほとんど人影がない。閉じられた教室の窓は暗く、灯りの落ちた廊下には、海が岩肌へ砕ける音と、時折、校舎の上を横切っていくウミツバメの鳴き声だけが遠く響いていた。
そんな午前七時前、男子寮の一室で、蓮根奎星は異様なほど機嫌よく出発の準備をしていた。
「よし」
ベッドの上へ広げたリュックを開き、まず水筒を入れる。タオル、着替え、簡易の救急用品、地図、筆記具、それから昨日スズメから渡された調査用の紙束。ここまでは、山へ入るための準備として問題ない。
「これもいるな」
奎星は煎餅の袋を手に取り、迷いなくリュックへ押し込んだ。
「これも」
続いて飴を入れる。チョコレートは溶けるかもしれないと一度持ち上げたものの、結局は諦めきれず、グミの袋と一緒に入れた。最後に羊羹と水羊羹を小さな保冷袋へ収める。
「完璧」
すでに十分膨らんでいたリュックへ、さらに菓子の袋を押し込んだせいで、ファスナーは途中で止まった。奎星は両手で上から押さえつけ、体重までかける。
「……入れ」
それでも閉まらない。
「入るだろ」
もう一度、力を込める。じじじ、と苦しそうな音を立てながら、ようやくファスナーが最後まで走った。
「勝った」
何に勝ったのかは、本人にもよく分かっていなかった。
寝台の端には、今日着ていく服もすでに用意してある。動きやすい薄手のシャツに、山へ入るための長ズボン。足元には履き慣れた靴を置き、腰にはスズメから貰った深い焦茶色の杖入れを固定していた。その中へ神代榊を差し込み、位置を二度直す。
準備を終えた奎星は、部屋の鏡へ向かった。髪を確認し、手のひらへ少しだけ水をつけて撫でつける。だが、跳ねた髪は思うように収まらなかった。
「……まあいいか」
一年前、スズメと二人で八咫小路へ行くことになった朝は、待ち合わせが十時だったにもかかわらず、六時半には起きていた。伊織を叩き起こし、服を何枚も並べ、髪まで直してもらった。本人だけが最後まで「調査だ」と言い張っていたが、心の中ではかなりデートに近いものだと思っていた。
今は違う。
「調査だからな」
誰もいない部屋で、奎星は鏡の中の自分へ言い聞かせた。
「小萱村の」
もちろん、それは本当だった。八重子がなぜ小萱という土地を知っていたのか。蓮根家と小萱村の関係は、清弦たちの時代から現代までどのように残っていたのか。村はいつ消えたのか。百五十年以上前の石や道は、今も残っているのか。
知りたいことはいくらでもある。
けれど、鏡の中の自分を見ていると、どうしても口元が緩んだ。
「久しぶりだな」
スズメと二人で出かける。
結局、今朝の奎星をここまで早起きさせ、菓子を詰め込ませ、何度も髪を直させた最大の理由は、それだった。
以前は、もっと二人でいる時間があった。補習のあと、そのままどうでもいい話をした。二人で飯を食い、八咫小路を歩き、水月庵へ行った。奎星が葛切りを食べ、スズメが水羊羹を食べるのを眺めながら、古い本や杖を見て、甘味処へ寄るかどうかで言い合った。
研究室へ行けばスズメがいた。スズメが忙しいと言っても、奎星は構わず居座った。追い出されても、次の日にはまた顔を出した。それが当たり前だった。
ところが、この半年ほどはどうだろう。
年明け早々、スズメが自分の記憶だけを失った。ようやく元へ戻ったと思えば、今度は時間が巻き戻された。六月十五日を何度も繰り返し、しかもその記憶を持っているのは奎星だけだった。そして極めつけは、幕末への時間旅行である。
「普通、そんなことある?」
鏡の中の自分へ問いかける。当然、返事はなかった。
奎星はリュックを背負った。ずしりと肩へ重みがかかる。
「……まあ、いける」
今日くらいは、何も起きなくていい。
小萱村を調べる。昔の石を探す。スズメと喋る。菓子を食う。そして帰る。
それだけでいい。むしろ、それがいい。
「よし!」
奎星は勢いよく部屋を出た。
*
午前七時二十分。マホウトコロの発着場には、一羽の長距離用ウミツバメが待っていた。
黒みを帯びた濃灰色の羽根に、大きく丸い目。長い翼を畳んだ身体は、それでも奎星の背丈など簡単に隠してしまうほど大きい。去年、鬼火鳥たちを帰すために使った遠征用の巨大個体ほどではないが、二人と荷物を乗せて長距離を飛ぶには十分な大きさだった。背には鞍が固定され、前後に二人分の座席と荷物用の金具が取り付けられている。
その鳥の前で、奎星はしゃがみ込んでいた。
「だからさ」
ウミツバメが奎星を見る。
「久しぶりなんだよ」
鳥は瞬きをした。
「スズメちゃんと二人で出かけんの」
もう一度、瞬きをする。
「前は結構あったんだぜ。八咫小路へ行ったり、水月庵へ行ったり」
ウミツバメは嘴を少し開いた。
「そう。水羊羹を食った店」
もちろん、鳥がその店を知っているわけではない。それでも奎星は構わず話し続けた。
「でも最近、マジでないの。聞いてくれよ。まずスズメちゃんが俺の記憶なくして」
ウミツバメが首を傾げる。
「俺の記憶だけな。ひどくね?」
「何を相談しているのですか」
「うおっ!」
背後から声がして、奎星は飛び上がった。
振り返った先に、スズメが立っている。
いつもの濃紺の教員衣ではなかった。薄い生成り色の半袖シャツに、山へ入るための濃い色の細身の長ズボン。足元も普段の革靴ではなく、足首まで覆う丈夫そうな靴だった。肩には小さめのリュックを背負い、その横へ丸めた地図入れを固定している。顎の辺りで真っ直ぐ揃った黒髪だけは、いつもと変わらない。
「…………」
「何です?」
「いや」
奎星は、つい上から下までスズメを見てしまった。
一年前にも、教師の服ではないスズメを見たとき、似たような反応をした気がする。
「めっちゃ調査する人っぽい」
「調査へ行くのですから当然でしょう」
「スズメちゃん、そういう格好するんだな」
「山へ教員衣で入れと?」
「それは動きにくそう」
「でしょう」
スズメは奎星の隣を通り、ウミツバメの鞍を確認した。留め具、固定帯、荷物用金具。ひと通り目で追ってから、奎星へ視線を戻す。
正確には、奎星の背中へ。
「…………」
「何?」
「何をそんなに持ってきたんですか」
「え?」
奎星は自分のリュックを見た。横から見ても明らかに膨らみ、ファスナー部分には無理やり閉じた跡が残っている。
「必要なもの」
「具体的には」
「水」
「はい」
「タオル」
「はい」
「着替え」
「はい」
「救急用品」
「はい」
「お菓子いっぱい」
「最後」
「お菓子」
「何種類です?」
「分かんない」
「…………」
「数えてないから」
スズメは目を閉じた。
「遠足ではないんですよ」
「分かってるって」
「本当に?」
「一応、スズメちゃんにもあげるよ?」
「そういう問題ではありません」
「水羊羹もある」
スズメの目が、ほんの一瞬だけリュックへ落ちた。
奎星は見逃さなかった。
「今見た!」
「見ていません」
「絶対見た!」
「荷物を見ただけです」
「水羊羹に反応しただろ!」
「していません」
「昔からそれ言うよな!」
「何の話です?」
「水月庵でも言ってた!」
「覚えていなくていいところばかり覚えていますね」
「大事だからな」
奎星は得意げに言った。
スズメは何か言い返そうとしたが、結局、諦めたように息を吐く。
「はいはい。乗りますよ」
ウミツバメへ手を掛ける。
奎星の眉が上がった。
「はいは一回!」
スズメの動きが止まる。ゆっくり振り返り、奎星を見る。
「蓮根君」
「はい」
「一回ですね」
「…………」
「乗りますよ」
「はい」
奎星は素直に従った。
*
巨大な翼が一度地面を打つと、風が爆発したように広がった。発着場の草が一斉に伏せ、奎星のシャツが強くはためく。次の瞬間には身体が下へ引かれる感覚があり、ウミツバメの巨体が空へ浮かび上がった。
「おお!」
「身体を乗り出さない!」
「まだ乗り出してない!」
「今からする顔をしています!」
「顔で怒るなよ!」
奎星は固定帯を締め直しながら笑った。
ウミツバメは白い校舎の上を大きく旋回し、そのまま島を離れていく。眼下には南硫黄島が広がっていた。濃い緑に覆われた山、海岸線へ砕ける白い波、朝日に照らされたマホウトコロの屋根。それらは少しずつ小さくなり、やがて視界の大半を夏の海が占めるようになった。
前方に座るスズメは、一度だけ学校を振り返ったあと、鞄から地図を取り出した。
「前回の記録と現在地を照合しながら行きます」
「もう道分かってるだろ?」
「大まかには」
「神代榊もあるし」
奎星は腰へ触れた。
「前回は鬼火鳥たちの反応もありました。今回はありません」
「あいつら、向こうで待ってんじゃね?」
「待ち合わせをしているわけではないでしょう」
「俺が来るって分かるかも」
「なぜです?」
「友達だから」
「便利な言葉ですね」
「だろ?」
「褒めていません」
以前と同じ道筋を辿ればいい。一年前は、どこへ向かうのかすら分からないまま、神代榊が示す方角を追った。今は谷の位置も、周辺の山の形も分かっている。
それでも、近場ではない。いくつもの山を越え、一般の地図では記録が薄くなる地域まで飛ばなければならない。順調に進んでも、数時間は空の上だ。
奎星はそれを知っていた。だからこそ、出発して間もないうちから、待ちきれないように声を上げた。
「じゃ〜、早速お菓子食べますか!」
「食べません」
「なんで!?」
「まだ出発して十分も経っていません」
「時間関係ある?」
「あります」
「腹減るじゃん」
「朝食を食べたでしょう」
「食った」
「では必要ありません」
「馬鹿だなぁ」
「誰がです?」
「水羊羹ってエネルギー補給に向いてるんだぜ?」
「初めて聞きました」
「糖分あるし」
「他にもあります」
「水分もある」
「水を飲んでください」
「冷たい」
「それは長所なのですか?」
「夏は大事だろ」
奎星は身体を捻り、背後へ固定したリュックを引き寄せた。
「ちょっと待って」
「何をしているんですか」
「水羊羹」
「今ですか?」
「今!」
保冷袋を取り出す。中には小さな容器が二つ入っていた。
「ほら」
「…………」
「二個」
「なぜ二個」
「俺とスズメちゃん」
「最初から私の分も入れていたのですか」
「当たり前じゃん」
あまりにも自然な声だった。
スズメが一瞬だけ黙る。奎星は、その沈黙の意味に気づかない。
「いらないなら俺二個食うけど」
「いただきます」
「えっ」
スズメの手が伸び、奎星の手から水羊羹が一つ消えた。
「あー! 取るな!」
「私の分でしょう?」
「一回断ったじゃん!」
「気が変わりました」
「返せ!」
「嫌です」
「子供か!」
「あなたに言われたくありません」
スズメは小さな容器の蓋を開けた。奎星も慌てて自分の分を開ける。
夏の空の下、眼下には青い海が広がっている。二人を乗せたウミツバメは、朝の風を切りながら北へ進んでいた。その背中で、二人は水羊羹を食べた。
「うま」
「落とさないでくださいね」
「スズメちゃんも食ってんじゃん」
「いただいたので」
「俺のだからな、それ」
「私の分として持ってきたのでしょう?」
「そうだけど!」
しばらく、二人とも笑っていた。
それだけのことだった。けれど奎星には、その「それだけ」が妙に久しぶりに感じられた。
*
記憶を失う人間はいない。時間も巻き戻らない。百五十年前へ飛ばされることもない。誰も戦っていない。
ただ、ウミツバメが飛んでいる。風の音があり、時々スズメが地図を見て、奎星が菓子を開ける。それをスズメが一つ取れば、奎星が文句を言う。
そんな穏やかな時間が、一時間ほど続いた。
「そういやさ」
奎星は煎餅を割りながら言った。
「楓の奴、まだ日向と付き合ってないんだよ」
スズメが地図から顔を上げる。
「まだ付き合っていないのですか?」
「そーなんだよ!」
「随分長いですね」
「だろ!?」
奎星は待っていましたとばかりに身体を前へ出した。
「絶対好きなのに!」
「蓮根君」
「何?」
「煎餅の欠片が飛んでいます」
「あ、ごめん」
手のひらで拾い上げる。
「でもマジでさ。あいつら、もう十二年くらい一緒なんだぜ?」
「幼馴染ですからね」
「なのに付き合ってない」
「本人たちには本人たちの事情があるのでしょう」
「ないだろ」
「なぜ断言できるのです」
「見れば分かる」
「…………」
「何、その顔」
「どこかで聞いた理屈だと思って」
「清弦?」
「はい」
「あ」
奎星も笑った。
「確かに。なんか清弦と鈴ちゃんみたい」
「蓮根清弦と白川鈴は結婚しましたね」
「な!」
奎星は嬉しそうに声を上げた。
「やっぱ俺、合ってたじゃん!」
「結果としては」
「見れば分かったもん。清弦、鈴ちゃんのことめちゃくちゃ好きだったし」
「本人は最後まで認めなかったのでしょう?」
「全然。聞いたら怒るし」
「朝比奈君たちと同じですね」
「そうなんだよ!」
奎星は煎餅の残りを口へ放り込んだ。
「日向と楓も結婚すんのかなぁ」
「話が飛びましたね」
「でも付き合ったら、その先あるじゃん」
「ありますが」
「子供とかどんな感じになるんだろ」
「さらに飛びましたね」
「絶対うるさいだろ」
「誰に似るかによるのでは?」
「どっちでもうるさくね?」
「水無瀬さんは、朝比奈君がいなければ比較的静かですよ」
「日向がいると三倍うるさい」
「あなたが加わると六倍くらいですね」
「何で俺入れた?」
「経験則です」
奎星は笑った。それから、何でもないことのように続ける。
「スズメちゃんは?」
「何がです?」
「何歳までに結婚したいとかある?」
「…………」
風の音だけが残った。
スズメはゆっくり地図から顔を上げる。
「何ですか、いきなり」
「恋バナ」
「聞けば分かります」
「嫌いだっけ?」
「苦手です」
「知ってる」
「でしたら、なぜ振るのです?」
「俺だからいいかなって」
「…………」
スズメは黙った。
奎星は本当に深い意味なく言ったような顔をしている。少なくとも、表面上は。それが余計に困る。
「駄目?」
「……駄目とは言っていません」
「じゃあ何歳?」
「期限を決めるものではないでしょう」
「三十までとかないの?」
「ありません」
「二十五」
「ありません」
「四十」
「なぜ刻むのです?」
「当てようかと」
「クイズではありません」
「じゃあ百」
「生きていたら考えます」
「遅っ!」
奎星が笑う。
「でも、結婚したくないわけじゃないんだ?」
「そういうわけではありません」
「へえ」
「何です?」
「スズメちゃん、そういうの興味なさそうだったから」
「恋愛の噂話が苦手なのと、結婚そのものに興味がないことは別でしょう」
「あー」
奎星は納得したように頷いた。
「星迎祭の舞踏会も、それで出なかったんだもんな」
「よく覚えていますね」
「俺、意外と記憶力いいから」
「試験でも発揮してください」
「今関係ないだろ!」
「あります」
「恋バナ中だぞ!」
「魔法法規の点数はいつでも関係あります」
「最悪!」
スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
奎星はそれを見て、また身体を前へ乗り出す。
「じゃあさ」
「まだ続くのですか?」
「どんな人がいい?」
「…………」
「結婚するなら」
「蓮根君」
「何?」
「随分楽しそうですね」
「人の恋バナ好きだから」
「知っています」
「楓とかめちゃくちゃ面白いぞ」
「本人の前ではほどほどにしてください」
「昨日も怒られた」
「でしょうね」
「で?」
「何がです」
「どんな人」
「忘れていなかったのですか」
「俺、意外と記憶力いいから」
「二回目ですよ」
スズメは小さく息を吐き、視線を地図へ戻した。このまま答えなければ、奎星はそのうち別の話を始めるかもしれない。けれど、なぜか今日は、話を終わらせたくなかった。
「……そうですね」
「お」
奎星がすぐに反応する。
「一緒にいて、疲れない人がいいです」
「疲れない?」
「無理に話をしなくてもいい人」
「俺、ずっと喋ってるけど」
「あなたの話はしていません」
「いや、例として」
「なぜ自分を例にするのですか」
「近くに俺しかいないから」
「ウミツバメがいます」
「こいつ喋んないじゃん」
ウミツバメが、きゅう、と小さく鳴いた。
「喋った!」
「鳴いただけです」
「否定された気する」
「気のせいです」
スズメは笑った。
「それから」
「まだある?」
「聞いたのはあなたでしょう」
「どうぞ」
奎星は妙に姿勢を正した。
「……約束を、大切にする人でしょうか」
「約束?」
「はい」
「守る人?」
「必ず守れる人、という意味ではありません」
スズメは少し考えた。風に揺れる地図の端を押さえながら、言葉を選ぶ。
「忘れない人です」
奎星が瞬きをした。
「守れなかったとしても、なかったことにしない人。何かあれば話して、一緒に考えられる人」
「…………」
「それくらいです」
「結構ちゃんとしてんな」
「あなたが聞いたのでしょう」
「もっと、金持ちとかイケメンとか身長とか来ると思った」
「その程度で決めません」
「じゃあ顔どうでもいい?」
「どうでもいいとは言っていません」
「お」
「何です、その反応は」
「やっぱ顔見るんじゃん」
「人間ですから」
「スズメちゃんもそういうのあるんだな」
「ありますよ」
「へえー」
「何です?」
「誰がカッコいいと思う?」
「話が変わっています」
「恋バナだろ?」
「苦手だと言ったでしょう」
「でもめっちゃ答えてくれるじゃん」
「…………」
スズメの言葉が止まった。
確かに、学生だった頃なら、ここまで話してはいなかった。美琴に聞かれても適当にかわしていたし、舞踏会の噂だけでも面倒で、最初から参加しないことを選んだ。誰と誰が好きだとか、誰が誰を誘ったとか、そういう話に自分が巻き込まれることが嫌だった。
けれど、目の前にいる少年には話せる。
なぜかは、もう分かっていた。分かっているからこそ、簡単には口にできないこともある。
「……蓮根君なら」
「ん?」
「話してもいいと思っただけです」
奎星の動きが止まった。
ほんの一瞬だけ、風の音が二人の間を通り抜ける。
「…………」
「何です?」
「いや」
奎星は視線を逸らした。
「なんでも」
「そうですか」
「うん」
耳が少し赤い。
スズメは気づいたが、指摘しなかった。
「では逆に…」
少しして、スズメが言った。
「え?」
「蓮根君は?」
「俺?」
「自分だけ聞いて終わりですか?」
「えー」
「何歳までに結婚したいのです?」
「考えたことねえな」
「でしょうね」
「決めつけんなよ!」
「では、ありますか?」
「ない」
「でしょうね」
「くっそ」
奎星は頭を掻いた。
「でも、まあ」
そこで一度、言葉を止める。
「好きな人と一緒なら、別に何歳でもよくね?」
スズメの指先が止まった。地図の端を押さえたまま、動かない。奎星はその変化に気づかなかった。
「二十五でも、三十でも」
「…………」
「ちゃんと一緒にいたいって思ってんなら、それでよくない?」
「……そうですね」
「結婚って、何が変わるんだろな」
「急に哲学的ですね」
「名字?」
「そこですか?」
「家?」
「場合によります」
「飯?」
「なぜ食事が変わるのです?」
「毎日一緒に食うようになるとか」
奎星は空を見ながら言った。
「朝起きてさ」
「はい」
「飯食って」
「はい」
「仕事とか学校とか行って」
「はい」
「帰ってきて」
「はい」
「今日こんなんあったって喋って」
「…………」
「たまにどっか出かけて」
ウミツバメの大きな翼が風を掴み、身体がゆっくり上下する。
「甘いもん食ったり」
「…………」
「くだらねえことで喧嘩して」
「…………」
「次の日には普通にまた喋って」
奎星は少し笑った。
「そういうのがずっと続くなら、なんかいいな」
スズメは何も言わなかった。海から吹き上げる風が、顎の辺りで揃った黒髪を小さく揺らしている。
奎星が横を見る。
「何?」
「……随分、具体的ですね」
「そう?」
「はい」
「一般論」
「そうですか」
「一般論です」
「二回言いましたね」
「大事だから」
「そうですか」
スズメは前を向いた。その口元が、ほんの少しだけ上がっている。
「何笑ってんの?」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「風です」
「何だよ風って!」
「知りません」
「スズメちゃん!」
奎星は騒いでいた。だから気づかない。今、自分が並べたものが、一緒に食事をすること、今日あったことを話すこと、たまに二人で出かけること、甘いものを食べること、くだらないことで言い合い、次の日にはまた会うこと――そのほとんどが、二人が今までしてきたことだということに。
少なくとも、本人は気づいていないつもりだった。
スズメは知っている。彼が自分をどう思っているのかを。
あの日、銀色の光の中で聞いた。神代冥司に問われ、一秒も迷わず答えた声を。
──愛してる。
──スズメちゃんのこと。
本人は知らない。自分が聞いていたことを。そして、本人へはまだ言えていないと、今も思っていることも。
だからスズメは何も言わなかった。
ただ、静かに口を開く。
「……それなら」
「ん?」
「私も、そういうものがいいと思います」
奎星が少しだけ目を大きくした。
「マジ?」
「はい」
「じゃあ結婚式とか派手なの嫌?」
「そこまで話を進めていません」
「でも舞踏会嫌いだったじゃん」
「人前で噂されるのが嫌だったのです」
「じゃあ二人だけならいい?」
「何がです?」
「ダンス」
「…………」
「前、踊ったじゃん」
星迎祭。観測塔。花火。二人ともひどく下手だったダンス。
「……あれは」
「めっちゃ足踏みそうになったけど」
「あなたが動きを覚えないからです」
「スズメちゃんも下手だっただろ!」
「私はあなたよりはましでした」
「同じくらい!」
「違います」
「また踊る?」
「嫌です」
「即答!」
「あなたの足を踏む可能性があります」
「踏まれんの俺!?」
「前回の経験から」
「踏んでないだろ!」
「危なかったです」
「じゃあ今度練習しようぜ」
「何のためにです?」
「知らん」
「ではしません」
「えー」
また、くだらない言い合いになる。
そのことが、スズメには少し嬉しかった。
*
「じゃあさ」
しばらくして、奎星が三袋目の菓子を開けながら言った。
「好きな人できたら、スズメちゃん自分から言う?」
スズメは危うく地図を落としかけた。
「…………」
「スズメちゃん?」
「なぜ、さらに踏み込むのです」
「恋バナだから」
「便利に使わないでください」
「どうなの?」
「……苦手です」
「知ってる」
「では聞かないでください」
「でも大事じゃん」
「何がです?」
「言わないと分かんないだろ」
「…………」
「清弦なんか百五十年経っても、俺が記録を見るまで分かんなかったぞ」
「それはあなたが知らなかっただけで、鈴さんは知っていた可能性もあるでしょう」
「あ」
「本人たちの間では話していたかもしれません」
「確かに」
奎星は菓子を一つ口へ入れた。
「でも俺、言ったほうがいいと思う」
「そうですか」
「うん」
「蓮根君は?」
「え?」
「自分から言うのですか?」
今度は、奎星が止まった。
「…………」
スズメは静かに彼を見る。
「好きな人ができたら」
「いや」
「はい」
「その」
「はい」
「…………言うんじゃね?」
明らかに声が弱い。
「随分、自信がありませんね」
「そういうのってタイミングあんじゃん!」
「そうなのですか?」
「あるだろ!」
「私は詳しくありませんので」
「俺も詳しくねえよ!」
「では、なぜ断言したのです?」
「何となく!」
奎星の耳が赤くなっている。スズメはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「でも」
奎星は前を向いた。さっきまでより、声が少しだけ静かになる。
「言うよ」
「…………」
「多分」
「多分ですか」
「いや」
一度、言い直す。
「ちゃんと言う」
スズメの表情が止まった。
奎星は空を見たままだった。
「好きなら」
小さな声だった。
「ちゃんと本人に言う」
風が吹いた。夏の熱を含んだ風ではなく、高い空を渡ってきた、少し冷たい風だった。
「…………そうですか」
「うん」
「いつです?」
「知らねえよ!!」
奎星が勢いよく振り返る。
スズメが笑っていた。小さく、けれどはっきりと。
「何で笑うんだよ!」
「別に」
「今絶対からかっただろ!」
「していません」
「した!」
「していません」
「顔!」
「顔で決めつけないでください」
「さっき俺にやったじゃん!」
「何のことでしょう」
「スズメちゃん!」
彼は知らない。
だから、スズメもそれ以上は聞かなかった。
言う、と言った。ならば、いつか本人が自分の言葉で言うのだろう。あの銀色の光の中で、誰かに追い詰められて答えた言葉ではなく、戦いの最中に叫んだ言葉でもなく、自分で選び、自分へ向けて。
そのときまで、知らないふりをしていてもいい。
少なくとも、今は。
「楽しみにしています」
「何を!?」
「さあ」
「絶対なんか知ってる言い方じゃん!」
「知りません」
「怪しい!」
「前を向いてください。落ちますよ」
「話逸らした!」
「蓮根君」
「何!」
「菓子の袋が飛びます」
「あっ!」
風に煽られ、開けた袋が奎星の手から離れかけた。奎星は慌てて両手で掴む。
「うおおお!」
「危なっ!」
「だから言ったでしょう」
「中身守った!」
「袋を閉じてください」
「はい」
「はいは一回」
「一回だったよね!?」
ウミツバメの鳴き声が、二人の声に重なった。
*
海ばかりだった景色は、いつの間にか変わっていた。
遠くに陸地が現れ、やがて山が増える。深い緑に覆われた尾根が一つ、また一つと重なり、その間を細い川が光りながら流れている。進むにつれて、人の暮らしを示すものは少なくなっていった。道路も、建物も、電線も、畑も、少しずつ眼下から消えていく。
「そろそろですね」
スズメの声が変わった。
さっきまでの柔らかな響きから、研究者のものへ戻っている。彼女は地図を開き、現在地と古い記録を照合した。
「この山を越えた先から、記録が極端に少なくなります」
「去年も言ってたな」
「覚えていますか?」
「覚えてるよ」
奎星も菓子をしまい、身体を起こした。腰から神代榊を抜く。古い木肌が朝の光を受け、手の中で静かに重みを返した。
「前はここから反応した?」
「もう少し先だったと思います」
「そっか」
ウミツバメは山の間を抜けていく。
風が変わった。海の匂いが消え、代わりに深い森の湿った空気が混ざる。奎星は眼下へ目を向けた。木々、谷、岩、そしてまた木々。百五十年以上前、自分はこの辺りを歩いた。
正確な場所までは分からない。それでも、その山のどこかに清弦と並んで歩いた道があり、鈴が見送った村があった。
さっきまであれほど喋っていた奎星が、少しずつ静かになっていく。スズメも何も言わなかった。
やがて、奎星の右手がぴくりと動いた。
「ん?」
神代榊の杖先が、ごく僅かに震えている。
「スズメちゃん」
「はい」
「来た」
スズメがすぐに地図から顔を上げた。
奎星は杖を強く握らず、以前そうしたように力を抜いた。すると、神代榊の先端がゆっくりと一つの方角を向く。右。そして、少し下。
「そっち」
「前回と一致します」
「よし」
奎星の顔が変わった。
浮かれていた少年の顔から、百五十年以上前の村を知る者の顔へ。
ウミツバメが進路を少し変える。山が近づき、一つ目の尾根を越える。そのさらに向こうには、険しい山々が幾重にも重なり、外からでは気づきにくいほど深く切れ込んだ谷があった。
「あ」
奎星が声を漏らす。
まだ遠い。神代榊も見えない。鬼火鳥の青白い炎も見えない。
それでも、奎星には分かっていた。
「……あそこだ」
スズメが隣を見る。
「分かるのですか?」
「うん」
一年前にも、同じことを聞かれた。あのときは、夢で見た場所だからだとしか説明できなかった。
けれど、今は違う。
奎星は、あの谷を知っている。空からだけではない。土の匂いを知っている。細い道を知っている。畑を知っている。石を知っている。そこにいた人たちを知っている。
清弦を。
鈴を。
「帰ってきた」
奎星が小さく言った。
「一年前にも来ていますよ」
「そっちじゃなくて」
スズメが一瞬黙り、それから静かに答えた。
「……そうでしたね」
「うん」
奎星は笑った。
百五十年以上前、名もない未来人として転がり込み、飯を食わせてもらい、怒鳴られ、笑い、戦い、別れた村。現在の地図には、もう名前すら残っていない。
けれど、そこにあった。
夏の深い緑の下に、小萱村が。
「行こうぜ」
「はい」
ウミツバメが翼を傾けた。高度がゆっくりと下がっていく。山肌が近づき、森が近づく。
そして、そのさらに下で、百五十年以上の夏を越えた地面が、二人を待っていた。