大型のウミツバメが、深い谷の底へ向けてゆっくりと高度を落としていった。上空から見えていた緑は、次第に一枚一枚の葉へと姿を変え、険しい山肌を覆う木々の梢がすぐ近くまで迫ってくる。長い翼が風を掴むたび、枝の先が大きく揺れ、葉の隙間からこぼれた夏の光が、二人の身体をまだらに照らした。
「見えた」
奎星が声を上げた。
森の向こうに、周囲の木々とは明らかに異なる巨木が立っていた。何人で囲んでも腕が回りきらないほど太い幹から、谷全体を覆うような枝が伸びている。神代榊だった。真夏の光を受けた葉の間には、淡い青白い光が宿り、風に揺れるたび、枝の奥で小さな星が瞬いているように見えた。
一年前に見たときと、何も変わっていない。
「やっぱでっけえな……」
奎星が目を細めると、枝の間から一羽の鬼火鳥が飛び立った。続いて、もう一羽が青白い尾羽を引きながら夏の日差しの中を横切り、森の向こうへ消えていく。
「いる」
「当然でしょう。ここは今も生息域ですから」
「岳を連れてきたら喜んだだろうな」
「帰らなくなる可能性があります」
「あー……」
二人の脳裏に、鬼火鳥の群れの前へ座り込む岳の姿が浮かんだ。十分経っても、一時間経っても、三時間経っても動かず、帰るよう促されても「もう少しだけ」と言い続ける姿まで、容易に想像できる。
「連れてこなくてよかったかも」
「でしょう」
ウミツバメが最後に一度、大きく羽ばたいた。どん、と重い振動が鞍へ伝わり、巨体が神代榊から少し離れた開けた地面へ降り立つ。巻き上がった枯れ葉と土埃が二人の周囲を舞い、湿った森の匂いが一気に濃くなった。
「着いたー!」
奎星が固定帯を外そうとする。
「まだ立たないでください」
「もう止まってるじゃん」
「完全に翼を畳んでからです」
「大丈夫だって」
「蓮根君」
「はい」
スズメの声に押され、奎星は素直に座り直した。ウミツバメが長い翼をゆっくりと畳み終えるのを待ってから、スズメが頷く。
「いいですよ」
「よし!」
奎星は勢いよく飛び降りた。靴底が柔らかな土を踏み、足元で枯れ葉が乾いた音を立てる。
その瞬間、さっきまで浮かれていた顔が、ほんの少しだけ変わった。
湿った土の匂い。草の青臭さ。蝉の声。葉の隙間から落ちてくる細かな光。そして、どこか遠くで鳴く鬼火鳥の声。どれも知っているはずのものだった。けれど、記憶の中にある景色と、目の前に広がるものがどうしても重ならない。
「……ここ」
奎星はゆっくりと周囲を見回した。
神代榊がある。それだけは間違いなかった。一年前にも見たし、百五十年以上前にも、何度となくその巨大な枝を見上げている。
ならば、この周囲には村があったはずだった。
奎星は右を見た。木々がある。左を見ても木々がある。前にも後ろにも、背丈ほどの草が生い茂り、太い蔓が幹へ絡みつき、ところどころには人間の胴ほどもある倒木が苔に覆われて横たわっている。
森だった。
どこまでも、完全な森だった。
「村……」
奎星の声が小さくなる。
スズメもウミツバメから降りると、すぐには地図を広げず、まず周囲へ視線を巡らせた。
「ありませんね」
「いや」
奎星は神代榊を見上げた。
「ここだったんだよ」
「はい」
「絶対」
「疑っていません」
「この辺」
奎星は数歩歩いた。けれど、五歩も進まないうちに足を止める。
「……どこだ?」
記憶の中では、神代榊の向こうに畑があった。山間へ寄り添うように茅葺きの家々が並び、低い屋根の隙間から細い煙が上がっていた。田畑は狭く、山から転がり落ちてきた大小の石が畦へ積まれていた。子供たちが走り、どこかの家から誰かを呼ぶ声が聞こえ、鶏がけたたましく鳴いていた。
「清弦の家って……」
奎星は木々の向こうを見つめた。
「どっちだ?」
答える者はいない。
「鈴ちゃんの家も」
記憶を探るように、奎星はゆっくりと首を巡らせた。鈴の家へ何度も行った。清弦が熱を出したときも、飯を食ったときも、怒鳴られたときも、喧嘩をしたときも、そこへ向かう道を歩いたはずだった。
「平坂さんの家は南だった」
それだけは覚えている。村の南端にあった大きな納屋。木屑と油の匂い。作業台に並んだ鉋や鋸や鑿。そして、百五十年以上先の自分が使う神代榊を見本にして、清弦の杖を削っていた老人の姿。
「南……」
奎星は空を見上げた。けれど、木々が深すぎて遠くが見えない。
「どっちが南だよ」
「こちらです」
スズメが地図と方位を確認し、指を向けた。
「あっち?」
「はい」
奎星はその方向を見た。そこにも、鬱蒼とした木々しかない。
「……家あったんだけどな」
呟きは、森の湿った空気へ吸い込まれた。
奎星は別の方向へ目を向けた。
「あと、写真」
「写真?」
「みんなで撮ったやつ」
「ああ」
「この辺だったはずなんだよ」
正確な位置までは分からない。それでも、確かにこの村で撮った写真だった。清弦と鈴が並び、横浜から来た仲間たちが並び、村人たちが集まり、子供たちに腕を引かれた奎星だけが清弦から少し離れていた。ウィリアムが写真機の向こうで何かを叫び、高瀬がそれを訳して、みんな動くなと伝えた。
あのとき、足元にあった地面がどこなのかも、今では分からない。
「どこだよ……」
奎星は小さく笑おうとした。けれど、口元はうまく動かなかった。
「何もねえじゃん」
百五十年以上も経っているのだから、家が残っているとは思っていなかった。茅葺きの屋根が同じ姿で待っているはずもない。木の壁は腐り、道は草に埋もれ、人は移り住む。そんなことは、歴史の授業を受けるまでもなく分かっている。
それでも、奎星にとっては数週間前の出来事だった。
清弦と別れたのは。
鈴と笑ったのは。
平坂に爺ちゃんと呼ぶなと怒鳴られたのは。
子供たちに腕を引かれたのは。
昨日の続きを探すような気持ちで戻ってきた場所が、百五十年以上という時間を、何も残さずに突きつけてくる。
「……本当に、なくなったんだな」
スズメはしばらく何も言わなかった。やがて、奎星の隣へ静かに立つ。
「村がなくなること自体は、歴史的に見れば不自然ではありません」
「うん」
「特に、これほど山深い場所なら」
スズメも森を見渡した。
「生活には向いていません」
「めちゃくちゃ言うじゃん」
「実際、そうでしょう」
「まあ……貧乏だったけど」
「山に囲まれています。平地も少ない。田畑も、あなたの話ではかなり狭かった」
「石だらけだった」
「交通も不便です」
「横浜まで馬だった」
「でしょう」
スズメは地図へ目を落とした。
「時代が進めば、山中の小さな集落から、より生活しやすい麓へ移ることは珍しくありません。道が整備されれば、なおさらです」
「村ごと?」
「一日で全員が消える、という意味ではありません。何十年もかけて、少しずつ人が減ることもあります。仕事、生活、医療、教育、交通。理由はいくらでも考えられます」
「そっか」
「最後に残った数軒が移れば、地名だけがしばらく残る場合もあります」
奎星は八重子の住所録を思い出した。そこに記されていた文字が、脳裏へ浮かぶ。
《小萱》
《旧小萱村》
「あ」
「何です?」
「ばあちゃんの」
「はい」
「旧小萱村って書いてあった」
「そうですね」
「じゃあ、ばあちゃんの頃には、もう村としてはなくなってた?」
「可能性はあります」
スズメはすぐに言葉を継いだ。
「ただし、まだ断定はできません」
「分かってるって」
「あなたはすぐ断定するので」
「最近ちょっと成長しただろ」
「少し」
「少しかよ」
奎星は笑った。さっきよりは、ちゃんと笑えた。
「行こうぜ」
「はい」
「何か残ってるかもしれないし」
二人は神代榊の根元を離れ、森の中へ歩き始めた。
*
三十分ほど歩いたところで、奎星が突然立ち止まった。
「スズメちゃん」
「はい」
「これさ」
「はい」
「さっき見たよな」
二人の前には、巨大な神代榊が立っていた。
見間違えようがない。周囲のすべてを覆う枝も、黒に近い太い幹も、根元近くに走る裂けたような古い傷も、先ほど見たものと同じだった。
少し離れた場所では、二人が乗ってきた長距離用ウミツバメが丸くなって休んでいる。鳥は顔を上げ、二人を見て小さく鳴いた。
「キュゥ」
「ただいま」
「帰ってきたわけではありません」
「いや、帰ってきたじゃん」
「……そうですね」
二人は顔を見合わせた。
「俺ら、まっすぐ歩いたよな?」
「そのつもりでした」
「曲がってないよな?」
「大きくは」
「じゃあ何で戻ってんの?」
「分かりません」
スズメはすぐに地図を開いた。奎星はその横から覗き込む。
「今どこ?」
「ここです」
「最初のとこじゃん」
「見れば分かります」
「じゃなくて!」
「歩いた経路を確認しています」
スズメは記録用の紙へ、さっきまでの経路を簡単な線で描き始めた。
「神代榊から北西方向へ進みました」
「うん」
「途中、小さな沢を右手に見ました」
「見た」
「その後、緩い斜面を上がった」
「うん」
「さらに木が密集した場所を避けて左へ」
「…………」
「そのあと倒木を越えました」
「……曲がってんじゃん」
「はい」
二人は黙った。
「でも」
奎星は眉を寄せる。
「俺、左行った覚えあんまない」
「私もです」
「まっすぐ行ってたつもりだった」
スズメは、二人が歩いてきた森の奥へ視線を向けた。
「もう一度行きましょう」
「おう」
*
二十分後、二人は再び神代榊の前へ戻ってきた。
「…………」
「…………」
ウミツバメが、今度は少し呆れたように鳴いた。
「キュゥ」
「ただいま」
「だから帰ってきていません」
「二回目だぞ」
「分かっています」
奎星は頭を掻いた。
「何これ」
「もう一度」
「まだやんの?」
「確認します」
「スズメちゃん、こういうとこマジ研究者だよな」
「何です?」
「俺ならもう魔法ってことにする」
「それでは、何の魔法か分からないでしょう」
「道迷わせる魔法」
「雑です」
「当たってんじゃね?」
「まだです」
「じゃあさ」
奎星は近くの木へ歩み寄った。低い位置に伸びていた細い枝を掴み、ためらいなく折る。
「何をしているのですか」
「目印」
「木を無闇に折らないでください」
「一本だけ!」
折れた枝の先には、まだ青い葉がついていた。奎星はそれを木の幹へ押し当てるようにして、歩き出す方向を指差す。
「これで分かるだろ。この木から真っすぐ。絶対曲がらない」
「分かりました」
二人は歩き始めた。今度は何度も後ろを振り返り、折れた枝の位置を確認しながら進む。
「まだ真っすぐ」
「はい」
「これ、真っすぐだよな?」
「そのはずです」
「よし」
五分、十分と歩くうちに、奎星の額から汗が流れた。
「暑っ」
「集中してください」
「してるよ」
「先ほどから三回、虫を追っています」
「でかい蝶いたから」
「調査中です」
「見るくらいいいじゃん」
さらに歩いたところで、奎星が急に足を止めた。
「……あれ?」
目の前の木から、一本の枝が途中で折れて垂れ下がっている。青い葉が地面へ触れそうになっていた。
「俺の?」
「おそらく」
「嘘だろ」
奎星は木へ駆け寄った。折れた断面はまだ新しく、間違いなく先ほど自分が折った枝だった。
「これ、さっき俺が折ったやつ」
「はい」
「いつ曲がった?」
スズメは答えず、周囲を見回した。木々、草、地面。そして、神代榊の方向。
「俺ら、真っすぐだったよな?」
「少なくとも、私はそう認識していました」
「認識?」
奎星が振り返る。
スズメは折れた枝ではなく、森全体を見ていた。
「……可能性があります」
「何が?」
「少し待ってください」
「何だよ」
スズメは杖を抜いた。すぐに魔法を放つのではなく、目を閉じ、周辺に漂う魔力の流れを探る。森の静けさの中で、蝉の声だけが遠く響いていた。
数秒が過ぎ、さらに十秒が過ぎる。
「分かる?」
「ごく薄いです」
「何が?」
「魔力の痕跡」
スズメは目を開いた。
「結界……というより」
「より?」
「認識へ作用しているのかもしれません」
「認識?」
奎星の顔から、わずかに表情が消えた。
マホウトコロの校庭。こちらへ杖を向けていた生徒たち。神代冥司を校長だと思い込み、九重院や御影を敵だと信じていた、あのときの記憶が蘇る。
「神代がみんなにやったみたいなやつ!?」
「違います」
スズメは即座に否定した。
「違うの?」
「あれは、そんな単純なものではありません」
杖を下ろし、静かに説明を続ける。
「神代冥司が行ったのは、認識の前提そのものへの大規模な干渉です。神代冥司は校長である。九重院校長たちは学校へ害を与える敵である。そうした前提を変えたうえで、生徒たちは自分で考えていました」
「……ああ」
奎星も思い出す。操り人形ではなかった。怒っていた。迷っていた。怖がっていた。ただ、最初に置かれた情報だけが違っていたのだ。
「しかも、学校全体の霊脈を利用していました」
「じゃあ、これは?」
「もっと単純です」
「どういう?」
「例えば、あそこに道があるとします」
スズメが前方を指差す。
「目には入っています。ですが、あなたはそれを道として認識しない。少し歩きにくそうだ、こちらのほうが通れそうだ、そう思って自然に別の方向へ進む。本人には、進路を変えた意識すらほとんど残りません」
「意味わかんねえ!」
奎星が叫んだ。
「今説明したでしょう!」
「説明されて、さらに意味分かんなくなった!」
「何がですか!」
「見えてんのに見えないって何!?」
「見えていないとは言っていません!」
「じゃあ見えてんじゃん!」
「視覚情報と認識は別です!」
「そこから分かんねえ!」
森に声が響き、どこかの鬼火鳥が驚いたように鳴いた。
スズメは一度、深く息を吐いた。
「……つまり、道を消しているのではありません」
「うん」
「道から人を逸らしているのです」
「最初からそう言ってよ!」
「最初からそう言っています!」
「言ってない!」
「言いました!」
二人の声が、誰もいない森の奥へ吸い込まれていった。
*
それからさらに四十分ほど歩いたところで、奎星はとうとう膝へ両手をついた。
「……もう無理」
「補習でも聞きましたね」
「今はガチのやつ」
森の中は直射日光こそ少ないものの、湿気がひどかった。歩けば歩くほど汗が噴き出し、シャツが背中へ張りついていく。足元の土は柔らかく、ところどころに伸びた根が靴底へ引っかかった。
「ちょっと休もうぜ」
「そうですね」
「やった」
「別に褒美ではありません」
二人は少し開けた場所を探し、大きな木の根元へ腰を下ろした。頭上を太い枝が覆い、そこだけは夏の強い日差しから守られている。奎星はリュックを下ろすと、そのまま地面へ背中を預けそうになった。
「疲れたー……」
「寝ないでください」
「寝ないよ」
「そのまま寝る人の姿勢です」
「五分」
「駄目です」
「三分」
「昼食にしましょう」
「飯!」
奎星は一瞬で起き上がった。
「元気ですね」
「飯は別」
「知っています」
奎星はリュックを開き、朝、食堂で用意してもらった握り飯を二つ取り出した。少し形は潰れていたが、食べるぶんには問題ない。
「いただきまーす!」
包みを開き、一口かじる。
「……うま」
その横で、スズメもリュックを開いた。
奎星の咀嚼が止まる。
「何です?」
「それ」
「昼食です」
「見れば分かる」
スズメの膝の上には、小さな弁当箱が置かれていた。蓋を開けると、白い米に卵焼き、焼いた魚、少量の煮物と野菜が詰められている。特別豪華なものではない。けれど、山へ持ってくるにはちょうどいい、手作りの弁当だった。
「スズメちゃん」
「はい」
「弁当なんか作れるんだ」
「馬鹿にしないでください」
「いや、だって」
「料理くらいします」
「研究室で水羊羹食ってるイメージしかない」
「それはあなたが勝手に持っているイメージです」
「卵焼き作れるんだ」
「見れば分かるでしょう」
「買ったやつじゃなくて?」
「蓮根君」
「はい」
「食べなくていいんですか」
奎星は自分の握り飯を見た。一口かじり、それからスズメの弁当へ視線を戻す。卵焼き、煮物、焼き魚。どれも握り飯には入っていない。
「なんかくんない?」
「おにぎり持ってるじゃないですか」
「おかずないじゃん」
「自分で選んだのでしょう」
「俺の水羊羹食べたろ!」
「私の分として持ってきたと言いましたよね?」
「食べたのは事実!」
「無茶苦茶ですね」
「卵焼き」
「嫌です」
「一個」
「嫌です」
「端っこでいいから」
「端も中央も同じでしょう」
「じゃ真ん中」
「もっと嫌です」
「ケチ」
「自分の昼食を食べてください」
奎星は握り飯をもう一口食べた。それから、何も言わずにスズメを見る。
「何です?」
「卵焼き」
「駄目です」
さらに一口。
「見ないでください」
「卵焼き」
「子供ですか」
「腹減った」
「今食べているでしょう」
「おかずが」
「もう……」
スズメはとうとう箸を伸ばし、卵焼きを一つ掴んだ。
「はい」
「お」
奎星が手を伸ばしかける。
「……何です?」
「くれんじゃないの?」
「取ってください」
「あ」
奎星は右手の握り飯と、左手の水筒を見た。
「手塞がってる」
「水筒を置いてください」
「面倒」
スズメは無言になった。
奎星は、何のためらいもなく口を開いた。
「あー」
「…………」
「早く」
「自分で取ってください」
「あー」
「蓮根君」
「あー」
数秒の沈黙のあと、スズメは心底呆れたような顔をした。それでも、やがて小さく息を吐き、箸を奎星の口元へ運ぶ。
卵焼きが、奎星の口へ入った。
「ん」
奎星が口を閉じ、スズメが箸を戻す。
そこで、二人とも動きを止めた。
風が吹き、木の葉が揺れた。遠くで蝉が鳴いている。
今、何をしたのか。
奎星は卵焼きをゆっくり噛みながら、スズメを見る。スズメも箸を持ったまま、奎星を見ていた。
距離が近い。
かなり近い。
手を伸ばせば触れられる、という程度ではない。今までにも、二人は何度も近づいてきた。抱きしめたこともある。手を握ったこともある。一緒に踊ったことも、怪我をした相手の身体を支えたこともある。
それでも、昼下がりの山の中、誰もいない木陰で、弁当の卵焼きを「あーん」するという行為は、今までのどれとも少し違っていた。
「…………」
「…………」
奎星が卵焼きを飲み込む。
「うま」
「……そうですか」
「甘いやつ」
「はい」
「好き」
スズメの箸が止まった。
「卵焼きがね!?」
「ああ…」
「顔赤くね?」
「暑いので」
「俺も暑い」
「でしょうね」
「もう一個」
「駄目です」
「何で!?」
「今ので十分です!」
「何が!?」
「知りません!」
スズメは弁当を少し自分の側へ寄せた。奎星は笑い、二人とも今の行為について、それ以上は何も言わなかった。
少し近い。普通の教師と生徒なら、たぶん近すぎる。
けれど、今さらだった。
奎星は、まあいいかと思った。スズメもまた、今さら気にするほうが、かえって不自然な気がしていた。
「煮物」
「駄目です」
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かります」
「顔で決めつけんなよ!」
*
昼食を終えたあとも、スズメは完全には休まなかった。身体は木陰で休ませていたが、頭の中ではすでに調査を続けているらしい。
地図を地面へ広げ、さっきまで歩いた経路を書き込んでいく。どの線も、最初は神代榊から外へ向かっている。けれど、途中から少しずつ曲がり、本人たちに自覚のないまま、最終的には神代榊の周辺へ戻っていた。
「……神代榊を中心に、少なくとも三方向で同じように進路を逸らされています」
「輪っかじゃん」
「完全な円ではありません」
「俺には輪っかに見える」
「かなり歪んでいます」
「歪んだ輪っか」
「そこはどうでもいいです」
「何で」
奎星は木の幹へ背中を預けたまま、水筒を飲んだ。
「問題は、どの範囲へ術が掛かっているかです」
「谷全部?」
「それなら、私たちはここへ入ってくること自体が難しかったはずです。ウミツバメは問題なく神代榊へ降りています」
「じゃあ人間だけ?」
「可能性はあります」
「鬼火鳥は?」
「普通に飛んでいますね」
「ずる」
「何がです?」
「俺らだけ迷ってんじゃん」
「鳥に文句を言わないでください」
スズメは別の紙を取り出した。
「それから、術式がいつ作られたものなのか」
「清弦の時代にはなかった」
「断言できます?」
「できる」
奎星は即答した。
「こんなんあったら、俺と清弦、毎日村へ帰れねえもん。北の山から普通に戻ってたし、横浜から帰ってきたときも村が見えた」
「では、幕末より後」
「ばあちゃんの時代?」
「それも分かりません」
「誰が作ったんだろ」
「分かりません」
「何隠してんだ?」
「分かりません」
「ばあちゃん?」
「決めつけない」
「はい」
奎星は素直に水筒を飲んだ。スズメの指先は、地図の上を動き続けている。
「神代榊を守るためなら、もう少し外側へ術式を置いたほうが自然です」
「そっか」
「鬼火鳥の生息域を守る目的でも、同じです」
「じゃあ村?」
「それも妙です」
「何で?」
「村跡を隠すだけなら、ここまで長期間維持する理由が分かりません」
「長期間って分かるの?」
「新しい術には見えません」
「何で?」
「周囲の霊脈へ馴染みすぎています」
「…………」
「分からない顔をしないでください」
「今のは分かんねえよ」
「長い間ここに存在している可能性が高い、という意味です」
「最初からそう言って」
「言っています」
「言ってない」
「言いました」
また始まった言い合いに、奎星は笑った。水筒の蓋を閉め、そのまま木へ背中を預け直す。
スズメは地図を見ている。奎星は空を見ている。役割分担と言えば聞こえはいいが、実際には奎星が考えるのをやめただけだった。
「暑いなぁ……」
「夏ですから」
「蝉うるさ」
「山ですから」
「腹いっぱい」
「食べたので」
「眠い」
「寝ないでください」
「分かってるって」
奎星は半分目を閉じた。
木々の間から強い夏の光が落ちている。葉が風で揺れるたび、地面の影も揺れた。明るくなり、暗くなり、また明るくなる。その単調な変化を眺めているうちに、奎星の頭から補習も、法律も、神代も、時間の巻き戻りも、清弦のことさえも、ほんの一時だけ遠のいていった。
今はただ、暑い。
蝉がうるさい。
腹がいっぱいだ。
それだけだった。
光。
影。
草。
影。
木。
影。
「…………ん?」
奎星の目が、ゆっくりと開いた。
「スズメちゃん」
「今度は何です?」
「いや」
奎星はすぐには起き上がらず、少し離れた場所を見つめた。
「何か変」
「何がです?」
「分かんない。ちょっと待って」
奎星は水筒を持ち上げ、地面へ置いた。午後の日差しを受けた水筒から、短い影が伸びる。次に自分の手を上げると、その影も動いた。
「何をしているのです?」
「影」
「影?」
「うん」
奎星は立ち上がった。スズメも地図から顔を上げる。
「あそこ」
奎星が指差したのは、二十メートルほど先の木々の間だった。低木、シダ、細い幹、蔓。見たところ、何もおかしくない普通の森である。
けれど。
「影、おかしくね?」
スズメが目を凝らす。
「どこがです?」
「そこ」
「木があります」
「ある」
「草も」
「ある」
「では」
「でもさ」
奎星は地面を指した。
「そこ、明るいじゃん」
スズメが黙った。
奎星はその場所へ歩いていく。
「上に葉っぱあんのに」
見上げれば、確かに枝がある。葉もある。ならば、その下には影が落ちるはずだった。
しかし地面には、一本の細長い光が差し込んでいる。まるで、そこだけ上に何もないようだった。
「……本当ですね」
スズメも立ち上がった。
「あと、これ」
奎星は別の場所を指した。
何本ものシダが生えている。けれど、葉の向きが妙だった。森の植物は、それぞれわずかな光を求めるように葉を広げている。その一角だけ、左右の植物が真ん中を避けるように外側へ伸びていた。
「ここ、何か通ってない?」
「…………」
「道みたいに」
スズメの目つきが変わった。すぐに近づき、しゃがみ込んで植物と土と根を調べる。
「踏まれた跡はありません」
「今は誰も通ってないからじゃね?」
「ですが」
スズメは指で土へ触れた。
「植物の生え方が不自然です」
「だろ?」
「左右へ分かれている」
「真ん中だけ少ない」
「……光」
スズメが顔を上げた。
「光の入り方も」
「変だろ」
奎星は少し得意そうに笑った。
「私がずっと見ていたのに」
「地図をな」
「…………」
「俺、何も考えずぼーっと見てたから」
「自慢するところですか?」
「見つけたじゃん!」
「それはそうですが」
「ほら!」
「調子に乗らない」
「褒めろよ!」
「よく気づきましたね」
「……お」
奎星が止まった。
「普通に褒めた」
「何です?」
「いや」
少し嬉しそうに笑い、奎星は細長い光へ目を戻した。
「じゃあさ、道見ないで行こうぜ」
「え?」
「道だと思うから分かんなくなるんだろ?」
「……はい」
「じゃあ、影だけ追う。明るいところと、こいつらが避けてる真ん中」
スズメは数秒考えた。
「理屈としては、あり得ます」
「よし」
「ただし、離れないでください」
「分かってる」
「本当に」
「スズメちゃんが俺から離れなきゃいいじゃん」
「…………」
「何?」
「何でもありません」
二人は、細長い光の続く方向へ歩き始めた。
*
「右」
「はい」
「いや、違う」
奎星が足を止めた。
目の前には、明らかに右側のほうが歩きやすそうな場所があった。木々の間隔も広く、草も少ない。人間なら、自然にそちらへ進みたくなる。
「俺、今右行きたかった」
「私もです」
「じゃ左」
「はい」
二人は、わざと歩きにくそうな方へ進んだ。枝を避け、低い草を跨ぎ、足元の根を越える。その先に、また地面へ一本の光が落ちていた。左右の植物が、そこだけを避けるように伸びている。
「こっちだ」
二人はさらに進んだ。
五分、十分と歩いても、今度は神代榊へ戻らなかった。
「いけてる?」
「おそらく」
「おお」
「まだ油断しないでください」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
「…………」
「何?」
「いえ」
「今ちょっと嬉しかっただろ」
「何がです?」
「俺が素直に一回で言ったから」
「歩いてください」
奎星が笑う。
けれど、少し進んだところで、その笑いが消えた。
「……スズメちゃん」
「はい」
「これ」
地面の様子が変わっていた。
土ではない。
石だった。
最初は自然に割れた岩かと思った。だが、よく見ると、平たい石が半分ほど土へ埋まりながら、一直線に続いている。苔や落ち葉や根に覆われてはいるものの、自然に並んだものではない。人間が一つずつ運び、道として敷いた石だった。
「並んでる」
「道?」
「可能性はあります」
「小萱村の?」
「まだ分かりません」
「はい」
奎星は今度は一度で答えた。
スズメの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「成長しましたね」
「だろ?」
二人は石を追った。さらに森の奥へ進み、光の線を追い、影の向きを見て、植物が避ける場所だけを選んで歩く。
一度気づいてしまえば、少しずつ分かるようになった。
目は相変わらず、そこに森を見せてくる。ここには道などない。この先は木が多い。左へ行ったほうが自然だ。そう感じさせられる。
けれど、地面だけを見れば、そこには確かに人の手が入った痕跡が続いていた。
奎星の胸が、少しずつ高鳴っていく。
「何だこれ」
石の道は、やがて緩やかに下り始めた。
「谷の外じゃない」
「はい」
「むしろ」
「地下へ向かっていますね」
「地下?」
奎星が眉を寄せる。
斜面は次第に急になり、足元の石も増えていった。そして不意に、森が途切れた。
「……え」
奎星の足が止まる。
目の前に、壁があった。
山の斜面へ埋め込まれるようにして、巨大な石造りの壁が横へ伸びている。自然の岩ではない。一つ一つ形の整えられた黒灰色の石が積み重ねられ、長い年月の間に苔と蔓へ覆われていた。高さは奎星の背丈の数倍もあり、左右は森の中へ埋もれて端が見えない。
「何これ……」
壁の中央、地面より少し低くなった場所に開口部があった。
階段が、地下へ向かって続いている。
両側には分厚い石壁がそびえ、その奥には、昼の光さえ届かない暗闇が口を開けていた。
奎星はゆっくりと近づいた。
「防空壕?」
「違うと思います」
「じゃ地下室?」
「規模が違います」
「……要塞?」
冗談のように言ったが、笑えなかった。
入口だけでも大きい。人が数人並んで入れるほどの幅があり、山の斜面そのものを利用して、その下へ何かが続いている。
「こんなの」
奎星は振り返った。
「前、なかったぞ」
「あなたの時代には?」
「絶対ない」
即答だった。
「ここまででかいもん、清弦が知らないわけない」
スズメは入口を見つめた。
「では、幕末以降」
「でも」
奎星も暗闇へ目を向ける。
「何で隠すんだ…?」
答えはなかった。
地下から、冷たい空気がゆっくりと流れてくる。真夏の森に満ちた熱気とは明らかに違う、乾いた冷気だった。土と石の匂い。その奥に、長い間閉ざされていた場所特有の、乾いた古い匂いが混じっている。
奎星は腰へ手を伸ばし、神代榊を抜いた。
「蓮根君」
「入んないよ」
「…………」
「まだ」
「その一言が余計です」
「でも調べるだろ?」
「入口までは」
「中も気になるじゃん」
「まず外側です」
「はいはい」
「はいは一回」
「はい」
二人は暗い入口の前へ立った。
背後では、夏の光が森を照らしている。蝉が鳴き、鬼火鳥の声が遠く響き、百五十年以上前に小萱村があった谷は、何事もなかったように緑へ覆われていた。
その地下に、人の目から外されるようにして、巨大な何かが眠っている。
奎星は神代榊を握り直した。
「……ばあちゃん」
小さく呟く。
八重子がこの場所を知っていた理由。
小萱村が消えた理由。
認識を曲げる魔法。
そして、幕末には存在しなかった地下へ続く入口。
今まで別々だったものが、初めて一つの場所へ集まり始めていた。