「……すげえ」
奎星は、目の前に広がる棚を見上げたまま呟いた。
杖先に灯った《ルーモス》の光が、地下の保管区画を淡く照らしている。光の届く範囲には、石で作られた箱や古びた杖、用途の分からない魔法具、巻物、冊子、革表紙の本が並んでいた。棚は一列だけではない。奥へ向かって何列も続き、光が届かなくなった先にも、まだ同じような収蔵品が眠っている気配がある。
何百年ものあいだ、誰にも触れられず、誰にも見つけられず、時間だけを静かに積もらせてきた場所。そこにあるものは、単なる古道具には見えなかった。どれもが、長い歴史の一部をそのまま閉じ込めているようだった。
「これ」
奎星が、いちばん近くにあった細長い箱へ手を伸ばす。
「触らない」
スズメが素早くその手首を掴んだ。
「痛っ!」
「触らないと言ったでしょう」
「まだ触ってない!」
「触ろうとしていました」
「見るだけ!」
「手で?」
「近くで見たいんだよ」
「目を使ってください」
「箱の中、見えないじゃん」
「だからといって開けていい理由にはなりません」
「何が入ってるか気になるだろ!」
「気になります」
あまりにも即答だったので、奎星は口を閉じた。
「……気になるんじゃん」
「当たり前でしょう」
スズメは奎星の手を離し、改めて棚へ向き直った。その目には、さっきまで石像に追い回されていた人間とは思えないほどの鋭い光が宿っている。古い杖の形状、魔法具に刻まれた意匠、文書の保存状態。彼女は一つ一つを手に取ることもなく、視線だけで慎重に追っていた。
研究者としての好奇心を、理性で押さえ込んでいるのが分かる。
「これだけの資料がまとまって残っているなら……」
スズメが小さく呟いた。
「年代を特定できるものが一つでもあれば、この場所がいつ造られたのか分かるかもしれません」
「じゃあ開けようぜ」
「開けません」
「何で!?」
「最後まで聞いてください」
「はい」
「素直ですね」
「怒られたから」
スズメは棚の前へ寄った。けれど、やはり手は伸ばさない。少し腰を落とし、箱や杖の配置、棚の奥に刻まれた細かな線を目だけで確認していく。
「保存方法が分かりません」
「保存方法?」
「この部屋そのものが、何らかの保存術式になっている可能性があります」
「さっき何もなかったじゃん」
「分かりやすい術式が見つからなかっただけです」
「あ」
「それに、先ほどの石像を忘れましたか?」
「忘れてない」
「触れたことを条件に、何かが起動する可能性もあります」
「……あるな」
「あります」
奎星は伸ばしかけていた手を、胸元まで引っ込めた。
「あと」
スズメは古文書へ視線を移した。
「紙は特に危険です」
「破れる?」
「それもあります。百年以上経っている可能性があるものを、いきなり持ち上げれば崩れるかもしれません」
「じゃあ魔法で」
「それも駄目です」
「まだ言ってない」
「浮かせようとしたでしょう」
「うん」
「魔力に反応するものだったらどうするのです」
奎星は黙った。
「分かりましたか?」
「分かった」
「本当に?」
「今回はちゃんと」
奎星は両手を背中へ回した。
「ほら。触んない」
「子供ですか」
「信用してくんねえから!」
「日頃の行いです」
スズメは小さく息を吐いた。それでも、棚から視線を離すことはできない。古い杖も、用途不明の魔法具も、保存状態の良い文書も、彼女にとっては喉から手が出るほど調べたいものなのだろう。
「スズメちゃん」
「何です?」
「触りたい?」
「…………」
「めっちゃ触りたい?」
「うるさいです」
「触りたいんじゃん!」
「あなたよりは我慢できます」
「俺も今我慢してる!」
「三秒前まで箱を開けようとしていたでしょう!」
「今は!」
「威張らないでください」
奎星は笑った。スズメは呆れたように彼を見たあと、保管区画の奥へ視線を向ける。
棚と棚のあいだを抜けた先に、暗い壁があった。その中央には、これまでの通路とは明らかに違う、大きな石扉が一つ設けられている。
「……先がありますね」
「行く?」
「一度、このまま進んでみましょう」
「ここ、調べないの?」
「調べたいです」
「めちゃくちゃ正直じゃん」
「ですが、今は止めておきます」
スズメの声には、わずかな名残惜しさが混じっていた。
「この場所が何なのか分からない以上、下手に手を加えるべきではありません。出口も閉じていますし、まず内部の構造を確認するほうが先です」
「戻ってこられる?」
「それも確認しなければ分かりません」
「じゃあ、印つける?」
「何も触らずに?」
「俺らが通ったって分かるように」
「記録だけ取ります」
スズメは鞄から紙を取り出し、簡単な見取り図を書き始めた。石像の部屋、そこから続く通路、保管区画、棚、そして奥の扉。奎星は横から紙を覗き込む。
「字ちっさ」
「読めればいいんです」
「俺、読めない」
「私の記録ですから」
「俺にも分かるようにしてよ」
「では自分で書いてください」
「絵でいい?」
「不安なのでやめてください」
「何で!?」
そんなやり取りをしている最中だった。
ご、と低い音がした。
二人の声が同時に途切れる。
続いて、地の底から響くような重い振動が、保管区画全体へ広がった。目の前の石扉が、長い眠りから目を覚ますように、ゆっくりと横へ動き始める。
「うわ」
奎星が一歩下がる。スズメもすぐに杖を構えた。
二人は何もしていない。保管されているものへ触れてもいないし、魔法を使ったわけでもない。ただ、手を出さずに奥へ進むことを決めただけだった。
やがて石扉が完全に開く。その向こうには、さらに暗い通路が伸びていた。
奎星がスズメの顔を見る。
「……なんか俺ら、試されてる?」
スズメはすぐには答えなかった。開いた扉、手をつけなかった保管物、破壊せずに止めた石像、そして閉ざされた入口。それらを頭の中で一つずつ並べているようだった。
「……かもしれませんね……」
「やっぱ?」
「まだ断定はできません」
「分かってる」
「ですが」
スズメは開いた扉を見つめた。
「偶然にしては、出来すぎています」
奎星は神代榊を握り直した。
「じゃ」
「慎重に」
「はい」
二人は、開いた扉の向こうへ進んだ。
*
通路は、それほど長くなかった。数十メートルほど進むと、前方が急に開ける。保管区画よりもさらに広い空間だった。
奎星が先頭で足を止める。
「…………でか」
部屋の中央に、一体の石像が立っていた。
先ほどまでの騎士像とは明らかに違う。大きさだけでも、奎星の身長の倍どころではない。四メートル近くはあるだろうか。頭上は高い天井へ迫り、両肩の幅だけでも人間二人分ほどある。
全身を覆う石の甲冑は厚く、装飾は少ない。兜には顔を示すものがなく、ただ縦長の細い隙間だけが刻まれていた。
右手には、巨大な剣が握られている。刃も柄もすべて石でできているのに、先ほどの騎士たちが持っていたものとは比べものにならないほど分厚く、長かった。その剣だけで、奎星の身長ほどもある。
「剣もでっか……」
奎星が小声で言う。
「これ」
「何です?」
「絶対動くやつじゃん」
「声を落としてください」
「いやでも」
「近づかない」
「分かってるって」
二人は入口付近から石像を観察した。石像は微動だにしない。
「……寝てる?」
「石像に睡眠はありません」
「じゃあ待機中」
「その可能性はあります」
「起こさないように端を通る?」
「まず――」
そのときだった。
石像の兜の奥、細い隙間に淡い白い光が灯った。
奎星の口がわずかに開く。
「起きた」
「下がって」
次の瞬間、地鳴りのような音が部屋を満たした。巨大な身体が動き、両足が石床を踏む。その一歩だけで、部屋全体が揺れ、天井から細かな砂が降ってきた。
石像がこちらを向き、剣を持ち上げる。
「来ます!」
「分かってる!」
奎星が杖を振った。
「ペトリフィカス・トタルス!」
光が石像の胸へ当たる。一瞬だけ、その動きが止まった。
「いけた!?」
しかし、すぐに低い音が響く。石像の右足が、再び床を踏みしめた。
「駄目じゃん!」
「効いてはいます!」
「どこが!?」
「少し遅くなりました!」
「少しじゃん!」
石像が剣を振り上げる。
「避けて!」
二人が左右へ飛んだ直後、巨大な剣が床へ叩きつけられた。衝撃で石片が爆発するように飛び散り、床には深い亀裂が走る。
「プロテゴ!」
奎星が咄嗟に盾を広げた。飛んできた石片が白い防壁へ次々とぶつかり、乾いた音を立てて床へ落ちていく。
「これ、ヤバいって!」
「見れば分かります!」
「さっきの奴らと全然違う!」
石像が剣を引き抜く。床の亀裂がさらに広がった。
「インカーセラス!」
スズメが杖を振る。銀色の縄が石像の両脚へ絡みつき、ぎりぎりと締め上げた。
「よし!」
しかし石像は一歩進んだ。
縄が軋み、次の瞬間には、乾いた音を立てて切れた。
「え」
「蓮根君、下がって!」
「いや、待って!」
奎星が杖を向ける。
「デパルソ!」
強い衝撃が石像の左膝へ直撃した。巨体がわずかに傾く。
「お!」
けれど、倒れない。
「……倒れねえ!」
「大きすぎます!」
「じゃあ、もっと強く――」
「駄目です!」
スズメの声が飛んだ。
「ここは地下です!」
「分かってる!」
奎星は歯を食いしばった。全力で撃てば、押し返せるかもしれない。壊せるかもしれない。けれど、頭上も周囲も床も、すべて石で囲まれている。ここがどれほどの衝撃に耐えられるのかは分からない。
石像だけを壊して、自分たちまで埋まってしまえば意味がない。
「くっそ!」
巨大な剣が横薙ぎに振るわれた。
「しゃがんで!」
二人が同時に身を伏せる。重い風が頭上を通り過ぎ、剣先が壁へ激突した。
ドガァン、と轟音が響く。
「おい!」
石壁の一部が吹き飛んだ。
「こいつ、自分で壊してんじゃん!」
「文句を言っても止まりません!」
「守る気あんのかよ!」
「知りません!」
石像が再び剣を振る。二人は走って、部屋の端にある柱の陰へ逃げ込んだ。
「こっち!」
「はい!」
剣が柱へ直撃する。石柱に大きな亀裂が走った。
「マジで壊すじゃん!」
「移動してください!」
「してる!」
スズメが杖を上げる。
「デパルソ!」
衝撃が石像の腕へ当たり、剣先がわずかに逸れた。その隙に二人は距離を取る。
「どうすりゃいい!?」
「今考えています!」
「さっきみたいに壊さなかったら!?」
「止まりません!」
「石化!」
「効きません!」
「武装解除!」
「試します!」
スズメが杖を向けた。
「エクスペリアームス!」
青白い光が巨大な石剣へ直撃する。剣が大きく揺れ、石像の指がわずかに開いた。
「お!」
しかし、石像は剣を手放さなかった。指を握り直し、さらに一歩踏み込む。
「くっ……!」
「惜しい!」
「褒めている場合ですか!」
二人は同時に杖を上げた。
「エクスペリアームス!」
「エクスペリアームス!」
二つの光が剣へ集中する。石像の腕が大きく跳ね上がった。
「いけ――!」
けれど、剣は手から離れなかった。
代わりに、石像の巨体が大きくよろめく。その肩が、先ほど亀裂の入った柱へぶつかった。
バキ、と嫌な音がした。
「あ」
天井から、さらに嫌な音が響いた。
ごごごごご……。
二人が同時に上を見る。
「……やば」
天井の石がずれた。一つ、二つと亀裂が走り、次の瞬間、巨大な石材が一気に崩れ落ちてきた。
「スズメちゃん!」
スズメが杖を振り上げる。
「アレスト・モメンタム!」
落下していた石の速度が急激に鈍った。巨大な石材は空中で完全に止まったわけではない。押し潰そうとする重さを残したまま、ゆっくりと、じりじり下降してくる。
「っ……!」
スズメの腕が震えた。
「スズメちゃん!」
「動いて!」
「でも!」
「長くは持ちません!」
頭上に浮かぶのは、小さな破片ではない。一枚でも直撃すれば、人間など簡単に押し潰されるほどの石だった。スズメは杖を上げたまま、落下速度を抑え続けている。
「先に!」
「一緒に行く!」
「蓮根君!」
「置いてけるかよ!」
奎星がスズメの腕を掴もうとした、そのときだった。
ゴゴゴゴ――。
石像が、まだ動いていた。
「……嘘だろ」
瓦礫の向こうで、巨大な影が動く。石像は崩れかけた天井など気にも留めず、ゆっくりと剣を持ち上げていた。
狙いは、スズメだった。
「スズメちゃん!!」
剣が振り下ろされる。
スズメは天井へ杖を向けている。間に合わない。
奎星の身体が先に動いた。
「っ!」
神代榊を握ったまま踏み込み、左腕をスズメの背中へ回す。右腕を膝裏へ差し入れ、そのまま身体を持ち上げた。
「え――」
「ごめん!」
「何を――!」
奎星はスズメを横抱きにしたまま、全力で横へ走った。
直後、巨大な剣が二人のいた場所へ突き刺さる。
ズガァァァァン!!
同時に、スズメの魔法が途切れた。頭上で止められていた石が一斉に落下し、石と石がぶつかり合う轟音が部屋を満たす。
「うわああああ!!」
「前を見て!」
「見てる!!」
奎星はスズメを抱えたまま走った。背後で石が石を砕き、床が大きく震える。粉塵が一気に広がり、視界が白く霞んだ。
「右!」
「どっち!?」
「あなたから見て右です!」
「分かってる!」
「なら聞かないでください!」
「確認!」
奎星が右へ曲がった。直後、瓦礫が肩を掠める。
「痛っ!」
「蓮根君!」
「大丈夫!」
「下ろしてください!」
「まだ!」
「走りにくいでしょう!」
「今降ろしたら踏まれる!」
「もう十分離れています!」
「マジ?」
「マジです!」
奎星が一瞬だけ後ろを見る。粉塵の向こうで、石像の巨大な影がこちらへ向かっていた。
「全然離れてねえじゃん!」
「だから下ろしてください!」
「はい!」
奎星はようやくスズメを床へ下ろした。スズメの足が着く。一瞬だけ、二人の顔が近づいた。
いつもなら、近いとか、重かったとか、今の抱き方は何だとか、何か一つくらい言葉があったかもしれない。
けれど、背後で巨大な石の足音が響いた。
「走るぞ!」
「はい!」
それどころではなかった。
*
攻略も、研究も、建造年代の推測も、保存されていた古文書や杖の価値も、誰が何のためにこの場所を作ったのかという疑問も、すべて頭から吹き飛んでいた。
今は、生きて帰ることだけが重要だった。
「こんなとこで死ぬかよぉ!!」
「当たり前です!」
二人は走った。
開いた扉を抜け、次の通路へ入る。背後から、石像の足音が追ってくる。ドン、ドン、と一歩ごとに地下全体が揺れた。
「速くない!?」
「身体が大きいんです!」
「一歩がでけえ!」
「説明している場合ですか!」
奎星は振り返った。巨大な影が、確実に距離を詰めている。
「スズメちゃん、先行って!」
「一緒に!」
「すぐ行く!」
奎星が立ち止まり、杖を向けた。
「インペディメンタ!」
赤い光が石像の脚へ直撃する。動きがわずかに鈍った。
「よし!」
奎星はすぐに走り出す。
「止まらないでください!」
「止めないと追いつかれるだろ!」
「なら私も!」
「スズメちゃんは前見て!」
「命令しないでください!」
「今だけ!」
「嫌です!」
「聞けよ!」
石像が剣を振るった。
「後ろ!」
「プロテゴ!」
奎星は振り返りざまに盾を出した。剣そのものではなく、壁から弾き飛ばされた石片が白い防壁へ次々とぶつかる。
「っ……!」
盾が震え、奎星の足が滑った。
「蓮根君!」
「大丈夫!」
「全然大丈夫に見えません!」
「走って!」
二人はまた進んだ。
通路が曲がる。石像も曲がる。
「こいつ、どこまで来んだよ!」
「分かりません!」
「部屋から出ないとかないの!?」
「もう出ています!」
「だよな!」
石像の肩が壁へぶつかり、ゴリゴリと石を削る音が響いた。
「幅ギリギリじゃん!」
「だから追いつかれていません!」
「じゃあ、もっと狭いところ!」
「探しています!」
二人は走り続けた。地下の構造など、もう覚えていられない。右へ曲がり、左へ折れ、階段を下り、また通路へ入る。後ろから追ってくる巨大な足音だけが、二人の進む方向を決めていた。
奎星は何度も振り返り、そのたびに魔法を撃った。
「インカーセラス!」
銀色の縄が石像の脚へ絡みつく。
しかし、次の瞬間には引きちぎられた。
「早っ!」
「一秒でも止まれば十分です!」
「なるほど!」
「納得している場合ですか!」
「デパルソ!」
衝撃を足元へ叩き込む。石像の身体がわずかに傾き、その隙に二人は距離を取った。
「スズメちゃん、怪我してない!?」
「していません!」
「本当に!?」
「あなたこそ肩!」
「掠っただけ!」
「血が出ています!」
「あとで!」
今は止まれない。それだけは二人とも分かっていた。
前方に、また分かれ道が現れた。
「どっち!?」
「左!」
「何で!?」
「右は広い!」
「納得!」
二人は左へ飛び込んだ。
細い通路だった。石像も身体をねじるようにして入ってくる。
「入れんじゃん!」
「まだ広いです!」
「もっと細いところ!」
「注文が多い!」
「命がかかってんだぞ!」
「分かっています!」
さらに奥へ進むと、人工的に積まれていた石壁が少しずつ姿を変え始めた。整えられた石の表面が途切れ、剥き出しの岩肌が現れる。壁には水の跡が残り、天井からは小さな石の突起が伸びていた。
「……ん?」
奎星が足を緩める。
「スズメちゃん!」
「見えています!」
「洞穴?」
「建造物と自然洞穴が繋がっています!」
奎星が杖の光を向ける。左手の岩壁に、人間一人がやっと通れる程度の裂け目があった。
「入れる!」
「狭い!」
「だからいいんだろ!」
奎星はスズメの背中を押した。
「先行って!」
「蓮根君も!」
「後で行くよ!」
スズメが裂け目へ身体を滑り込ませる。奎星が振り返ると、石像はすぐそこまで迫っていた。
「速っ!」
巨大な剣が持ち上がる。
「スズメちゃん、奥!」
「早く!」
「分かってる!」
奎星は裂け目へ飛び込んだ。身体を横に向ける。肩が岩へ擦れ、背負ったリュックが引っかかった。
「引っかかった!」
「何をしているのですか!」
「荷物!」
「菓子を入れすぎです!」
「今言う!?」
スズメが奎星の腕を掴んだ。
「リュックを外して!」
「待って!」
背後で、石像の剣が持ち上がる。
「やば!」
奎星は力任せに身体を捻った。布が岩へ擦れ、肩紐がずれる。
「うおおおお!」
次の瞬間、二人の身体がまとめて洞穴の奥へ転がり込んだ。
「痛っ!」
「っ……!」
直後、巨大な剣が裂け目の入口へ叩き込まれた。
ドォォォン!!
岩盤が揺れ、奎星は反射的にスズメへ覆い被さった。
「伏せて!」
ぱらぱらと小石が落ち、続いて土と大きな岩が崩れ落ちる。裂け目の入口が一気に塞がれ、轟音と粉塵が狭い洞穴を満たした。
奎星は目を閉じたまま、頭を低くする。
数秒。
十秒。
もっと長かったかもしれない。
やがて、音が止んだ。
奎星がゆっくり顔を上げる。
「ル……ルーモス」
神代榊の先に、弱い光が灯った。
白い光が洞穴を照らす。自然の岩壁、狭い空間、崩れ落ちた石。そして、完全に塞がれた入口。
二人はしばらく動かなかった。
耳を澄ましても、何も聞こえない。さっきまで響いていた巨大な足音も、石の剣が壁を削る音も、石像が身体を動かす重い摩擦音も、すべて消えていた。
「……来ない?」
奎星が小声で言う。
スズメは起き上がり、塞がれた入口へ近づいた。杖先を岩へ向け、しばらく待つ。
何も起きない。
「この幅では、あの石像は入れなかったのでしょう」
「じゃあ」
「少なくとも今は」
スズメが振り返った。
「追ってきません」
奎星はその場へ座り込み、岩壁へ背中を預けた。
「…………生きてる?」
スズメも、ゆっくりとその場へ腰を下ろす。
「……たぶん」
二人は顔を見合わせた。
髪も、服も、顔も、白い埃にまみれている。奎星の頬には細かな擦り傷があり、肩のシャツは裂けていた。スズメの黒髪にも石の粉が付着し、いつも整っている毛先がひどく乱れている。
「ひどい顔」
「あなたもです」
「スズメちゃん粉で髪白いよ」
「蓮根君の方が白いです」
「はは……」
二人とも、少しだけ笑った。
「怖かった……」
奎星が呟く。
「はい」
「マジで死ぬかと思った」
「私もです」
「研究どころじゃなかったな」
「ええ」
「箱……」
「諦めてください」
「杖……」
「諦めてください」
「古文書……」
「今は諦めてください」
「気になる?」
「ものすごく」
「だよなぁ」
二人はまた少し笑った。笑える程度には、生きていた。
*
少し落ち着いてから、二人は洞穴の状態を確認した。
幸い、完全に閉じ込められたわけではなかった。石像が追ってきた入口は崩れているが、自然洞穴そのものは反対側へ続いている。暗闇の奥からは、かすかな風が流れてきていた。
「暗いな」
「地下ですから」
「どこまで続いてんだろ」
「分かりません」
「外、出られる?」
「分かりません」
「いつもの」
「何です?」
「分かりません」
「分からないものは分かりません」
「今日それ、めっちゃ聞いた」
奎星はリュックを下ろした。さっき岩へ引っかかったせいで、側面が少し擦れている。
「うわ」
「破れました?」
「いや」
奎星はリュックを開き、中身を確認した。
「お菓子、生きてる」
「最初に確認するのがそこですか」
「重要だろ!」
「水は?」
「あ」
水筒は無事だった。予備の水、タオル、救急用品、着替え、そして大量の菓子も残っている。
スズメがリュックの中を覗き込んだ。
「意外と役に立ちましたね」
「だろ!?」
「菓子の量は多すぎますが」
「遭難対策!」
「結果論です」
「でも、ある!」
「ありますね」
奎星は満足そうに頷いた。
それから肩の傷を確認する。深くはない。石片で擦った程度だった。
「平気」
「見せてください」
「大丈夫だって」
「信用していません」
「何で!?」
「あなたは背中を怪我しても、『身体は大丈夫』と言う人でしょう」
奎星は黙った。
「見せてください」
「はい」
奎星は素直に肩を向けた。
スズメが傷を確認し、救急用品から消毒液と布を取り出す。
「痛っ」
「動かない」
「染みる!」
「当然です」
「もっと優しく!」
「動くからです」
「教師!」
「患者!」
洞穴に、いつもの言い合いが少しだけ戻った。
傷の処置を終えたあと、スズメは腕時計を確認した。そして、しばらく黙り込む。
「何時?」
「……思っていたより時間が経っています」
「え」
奎星も時計を覗き込んだ。
地下へ入ってから、時間の感覚は完全に狂っていた。外の光は見えず、蝉の声も聞こえない。それでも、朝から移動し、山を歩き、石像と戦い、逃げ続けた身体には、一日分の疲労が重く溜まっている。
「外、暗くなる?」
「おそらく、そう遠くありません」
「でも、ウミツバメ」
「神代榊の近くです」
「待ってるよな」
「どうでしょう」
「帰らないと」
「戻る道がありません」
奎星は塞がれた入口を見た。
「壊せない?」
「今すぐは」
「じゃあ、洞穴の先へ」
「進めるかもしれません」
「なら」
「ですが」
スズメは暗闇の奥へ視線を向けた。
「疲労した状態で、構造の分からない洞穴を夜間に進むのは危険です」
「地下だから昼夜同じじゃね?」
「身体は同じではありません」
「あ」
「今日は朝から移動して、山を歩いて、石像と戦って、走り続けました」
「……結構やったな」
「結構どころではありません」
「まだ元気だけど」
「興奮しているだけです」
「そう?」
「そうです」
スズメは自分のリュックも確認した。水、最低限の食料、調査用品、防寒に使えそうな衣類。野外で一晩を過ごすための最低限のものは揃っている。
「幸い、ここならあの石像は入れません」
「うん」
「空気も流れています」
「出口があるってこと?」
「可能性はあります」
「お」
「明るくなってから――」
「地下だけど?」
「……休んでから」
「はい」
「周囲を確認しましょう」
スズメはそう言って、洞穴の平らな場所を見回した。比較的乾いていて、落石の危険も今のところはなさそうだった。
そして、まるでごく普通の予定を決めるような口調で言った。
「今日はここで泊まりましょう」
「えっ」
奎星の声が洞窟に響いた。