マホウトコロ   作:西野圭吾

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第8話 手のかかる生徒

 泊まることは決まった。けれど、だからといって、すぐに眠れるわけではなかった。

 

 洞穴の奥にはまだ何が潜んでいるか分からない。入口は崩れて塞がっているものの、あの巨大な石像が本当に追ってこないという保証もない。何より、ここが自然にできた洞窟なのか、それとも地下施設の一部として意図的に残された空間なのかさえ、二人には分かっていなかった。

 

「とりあえず」

 

 奎星は神代榊を持ち上げ、杖先に淡い光を灯した。

 

「ここ、ちょっとだけ見とこうぜ」

 

「同意します」

 

 スズメも立ち上がった。ただし、すぐに杖を構えるのではなく、まず周囲を見回してから、念を押すように言った。

 

「遠くへは行きません」

 

「分かってる」

 

「途中で分かれてもいけません」

 

「はい」

 

「危険があれば、すぐに戻ります」

 

「はい」

 

「それから、勝手に穴へ入らないでください」

 

「俺、穴を見つけてもそんな――」

 

「入ります」

 

「…………」

 

「入りますね?」

 

「多分」

 

「では、先に言っておいて正解でした」

 

「信用ねえなあ」

 

 二人は荷物をその場へ置き、必要最低限のものだけを持って、自然洞穴の奥へ進んだ。

 

 人工的に造られた地下施設とは、空気からして明らかに違っていた。石造りの通路は乾いていて、どこか閉ざされた墓所のような静けさがあったが、こちらは湿っている。床は平らではなく、岩が不規則に盛り上がり、ところどころに浅い窪みができていた。天井も低くなったり高くなったりを繰り返し、奎星が身を屈めなければ通れない場所もある。

 

 杖先の光を岩肌へ向けると、無数の水滴が白く浮かび上がった。水滴はゆっくりと膨らみ、重みに耐えきれなくなると、ぽたりと落ちる。その音は洞穴の奥へ長く反響し、二人の足音さえ遠くへ押し流していった。

 

「こっち、水あるな」

 

「はい」

 

 スズメは岩肌へ直接触れないようにしながら、流れを目で追った。

 

「外から染み込んでいるのでしょう。地下水のようです」

 

「水があるなら助かったな」

 

「飲用できるかは別です」

 

「すぐ飲まないよ」

 

「あなたの場合、言っておく必要があります」

 

「俺、そこまで馬鹿じゃないって!」

 

 数分ほど進むと、洞穴が少し開けた。天井が高くなり、杖先の光が奥まで届く。

 

「お」

 

 奎星が光を上げた。

 

 天井から、小さな石の柱のようなものが何本も垂れ下がっている。床から伸びているものもあり、長い年月をかけて少しずつ成長した鍾乳石が、互いに触れ合いそうな距離で並んでいた。巨大な観光地の鍾乳洞のような壮大さはない。それでも、岩壁の奥から細い水が絶えず流れ、足元に小さな水溜まりを作っている様子には、人工物にはない静かな美しさがあった。

 

「鍾乳洞?」

 

「それに近いですね」

 

「初めて見た」

 

「私も、こうして自然のものを見る機会はあまりありません」

 

 奎星は岩壁を伝う水を眺めた。透明で、杖の光を受けると銀色に輝いている。見るからに冷たそうだった。

 

 その水を見た瞬間、奎星は腰に下げていた水筒を取り外した。

 

「蓮根君?」

 

 蓋を開ける。

 

 ごく、ごくごくごくごく、と喉が鳴った。

 

「一気に飲まないでください!」

 

「ぷはっ!」

 

 奎星は残っていた水をすべて飲み干し、満足そうに息を吐いた。

 

「うま!」

 

「だから一気に飲むなと」

 

「これで空いた」

 

「まさか」

 

 奎星は水筒を手にしたまま、鍾乳石の下へしゃがみ込んだ。

 

「ここから入れる」

 

「待ってください」

 

「飲まないよ。補充」

 

「ああ……」

 

 スズメは安堵したように息を吐いたが、すぐに表情を引き締めた。

 

「一応、確認してからにしてください」

 

「はい」

 

 スズメは水の流れと水溜まりを調べた。少なくとも、妙な魔力反応や毒性を示す兆候はない。慎重に確認を終えると、奎星は水筒を細い水流の下へ置いた。

 

 ちょろちょろと、水の落ちる音が洞穴へ響く。

 

「冷て」

 

 奎星が指先で水へ触れ、思わず笑った。

 

「めちゃくちゃ冷たい」

 

「地下水でしょうから」

 

「これ」

 

 奎星は突然、自分のシャツの裾を掴んだ。

 

 次の瞬間、ばさりと布が鳴った。

 

「蓮根君!?」

 

 スズメの声が洞穴中へ響き渡る。

 

「何!?」

 

「何をしているのですか!」

 

「え?」

 

 奎星はシャツを脱いだ状態で振り返った。そこでようやく、自分が何の説明もせずに服を脱いだことに気づいたらしい。

 

「…………」

 

「…………」

 

 スズメは完全に固まっていた。

 

「いや」

 

 奎星も気まずそうに視線を逸らす。

 

「あー……」

 

「着てください!」

 

「違う違う!」

 

「何がです!」

 

「汗!」

 

「汗?」

 

「今日ずっと歩いて、戦って、走ったじゃん!」

 

「それは分かっています!」

 

「だから身体を拭こうと思って」

 

 奎星はリュックからタオルを取り出して見せた。

 

「ほら」

 

「…………」

 

 言い訳のように付け足しながら、奎星自身も妙に気まずくなっていた。シャツは汗と埃で重くなり、肩の傷の周囲には細かな砂が張りついている。彼は水筒が満たされるのを待ちながら、タオルを水へ浸し、ぎゅっと絞った。

 

 濡れた布から水が落ちる。じゅく、と湿った音がして、ぽた、ぽた、と岩の上へ弾けた。

 

 奎星は冷たいタオルを首筋へ当てた。

 

「ひ〜!」

 

「……冷たいでしょう」

 

「めちゃくちゃ冷たい」

 

 それでも気持ちよかった。奎星は首から肩へ、肩から腕へと、タオルで汗と埃を拭っていく。濡れた布が肌の上を滑るたび、ぺた、と小さな音がした。背中へ回せば、水を含んだタオルが肌へ張りつき、離れるたびに、ぺち、と妙に大きな音が洞穴へ響く。

 

「…………」

 

「…………」

 

「洞窟って音響くな」

 

「今、言わなくていいです」

 

「だって」

 

「黙って拭いてください」

 

「はい」

 

 しばらくして、奎星は新しいタオルを一枚取り出した。

 

「はい」

 

 スズメが見る。

 

「何です?」

 

「スズメちゃんの」

 

「…………」

 

「使うだろ?」

 

 スズメは差し出されたタオルへ視線を落とした。自分の服も、奎星のものと大差ない。山道を歩いた汗、石像から逃げ続けた汗、落盤の埃、転んだときについた土。それらがすべて、衣服や髪に残っている。

 

「……いただきます」

 

「ん」

 

 奎星はタオルを渡した。

 

 スズメはそれを受け取ってから、しばらく黙っていた。それから、少しだけ顔を上げる。

 

「……絶対に、こっちを見ないでください」

 

「見ねえよ」

 

「絶対ですよ」

 

「見ねえって」

 

「振り返ったら」

 

「振り返んない」

 

「本当に?」

 

「信用なさすぎだろ!」

 

「念のためです」

 

 奎星はくるりと背を向けた。

 

「ほら」

 

「そのままで」

 

「はい」

 

 背後で衣擦れの音がした。

 

 さら、と布が動く。しゅる、と何かが擦れ、汗で肌へ張りついていた布が、僅かに粘るような音を立てて剥がれた。

 

 ぺた。

 

 奎星の背筋が伸びる。

 

 聞くな。何も考えるな。後ろを見るな。ただ身体を拭いているだけだ。そう自分へ言い聞かせる。

 

 水へタオルを浸す音がした。ちゃぷ、と水が揺れ、ぎゅ、と布を絞る音が続く。ぽた、ぽた、と水滴が落ちる。そして、濡れた布が肌を拭う柔らかな音が、静まり返った洞穴の中でやけに鮮明に響いた。

 

 す、と布が滑る。

 

 ぺた、と肌へ張りつく。

 

 また、す、と離れる。

 

 外なら聞こえないはずの音だった。風が吹いていれば消えてしまうし、蝉が鳴いていれば気にも留めない。けれど今は、山の地下にある暗い洞穴で、好きな女の子と二人きりだった。互いに背中を向け、服を脱いでいる。その事実が、音の一つ一つに余計な意味を与えてくる。

 

 奎星の顔が熱くなった。

 

 何を考えている。違う。やめろ。

 

 それでも、ほんの一瞬だけ、振り返ったらどうなるのだろうという考えが頭をよぎった。

 

 ぱぁん、と乾いた音が洞穴へ響いた。

 

「痛ってぇ!」

 

「!?」

 

 背後でスズメがびくりとした気配がする。

 

「蓮根君!?」

 

「何でもない!」

 

「今の音は何です!?」

 

「蚊!」

 

「地下ですよ!?」

 

「でかい蚊!」

 

「自分の頬を叩いたでしょう!?」

 

「違う!」

 

「では、何です!?」

 

「いいから前向いてて!」

 

「私は最初からあなたに背を向けています!」

 

「そうだった!」

 

「何をしているのですか!」

 

「正気に戻っただけ!」

 

「何から!?」

 

「聞くな!!」

 

 スズメが反射的に振り返ろうとした。肩が僅かに動く。しかし、ぎりぎりのところで止まった。

 

「…………」

 

「…………」

 

 今度はスズメの顔まで熱くなった。

 

 振り返ってはいけない。そう思った瞬間、余計なことまで想像してしまう。スズメは無言で自分の額へ手を当てた。

 

「スズメちゃん?」

 

「何でもありません」

 

「声、変じゃね?」

 

「何でもありません!」

 

「はい!」

 

 再び沈黙が戻った。水音と布の擦れる音、着替えの音だけが、妙に長く続いた。

 

     *

 

「もういい?」

 

「まだです」

 

「はい」

 

「…………」

 

「まだ?」

 

「急かさないでください」

 

「ごめん」

 

 さらに少しして、ようやくスズメの声がした。

 

「……いいですよ」

 

 奎星が振り返ると、スズメは予備の服へ着替えていた。奎星もすでに新しいシャツを身につけている。二人とも、さっきよりはずっと綺麗になっていた。汗と埃が落ちただけで、身体の重さまで少し軽くなったように感じられる。

 

「生き返った」

 

「大袈裟ですね」

 

「いや、マジで気持ちいい」

 

「それは同意します」

 

「スズメちゃんも?」

 

「かなり」

 

「ほら」

 

「何です?」

 

「俺の判断、正解」

 

「服を突然脱ぎ始めたことは不正解です」

 

「先に言えばよかった?」

 

「当然でしょう!」

 

「次から言う」

 

「次がある前提で話さないでください」

 

「山行ったらあるだろ」

 

「そういう意味ではありません!」

 

「何で怒ってんの?」

 

「知りません!」

 

 奎星は笑いながら、荷物を置いた場所へ戻った。

 

     *

 

「さあ!」

 

 奎星はリュックを勢いよく開けた。

 

「ディナーにしよう!」

 

「急に元気になりましたね」

 

「飯は大事だから」

 

「昼も聞きました」

 

「今日は特別」

 

 リュックの中から、次々に菓子が取り出されていく。煎餅、飴、グミ、羊羹、小さな焼き菓子。洞穴の岩の上へ並べていくと、まるで遠足の続きを始めるようだった。

 

「…………」

 

 スズメは並べられた菓子を見つめた。

 

「改めて見ると、多いですね」

 

「非常食!」

 

「朝は遠足のお菓子として入れていたでしょう」

 

「用途が変わった」

 

「便利ですね」

 

「スズメちゃん、食べて!」

 

 奎星が焼き菓子の袋を差し出す。

 

 スズメは少し迷った。

 

「いいんですか……?」

 

「当たり前でしょ!」

 

 奎星は即答した。

 

「腹減ってるだろ」

 

「……はい」

 

「じゃ、食べよう」

 

「ありがとうございます」

 

 スズメは袋から一つ取り出し、小さく齧った。

 

「どう?」

 

「美味しいです」

 

「だろ?」

 

「はい」

 

 奎星は満足そうに笑った。それから、ふと思い出したように付け加える。

 

「あ、でも」

 

「何です?」

 

「こんなに必要なかったってのは、撤回してね」

 

「結果論でしょう」

 

「スズメちゃん!」

 

「結果論です」

 

「遭難して役立ってんじゃん!」

 

「遭難する予定で入れたのですか?」

 

「違うけど!」

 

「でしたら、結果論です」

 

「くっそ!」

 

 洞穴へ、久しぶりに笑い声が響いた。

 

 豪華な夕食ではない。煎餅と焼き菓子、羊羹、少し残っていた非常食、それから冷たい水。それだけだった。それでも二人には十分だった。今日一日、何度死にかけたか分からない。けれど今は、こうして並んで菓子を食べている。その事実だけで、食べ物の味がいつもより濃く感じられた。

 

「なあ」

 

 奎星が羊羹を齧りながら言った。

 

「はい」

 

「ここって、結局何なんだろうな」

 

 スズメも手を止めた。

 

「……分かりません」

 

「石像いっぱい」

 

「はい」

 

「人が来ないように道を曲げて」

 

「はい」

 

「入口を閉じて」

 

「はい」

 

「変な試験みたいなのやって」

 

「まだ試験とは断定できません」

 

一瞬、沈黙が落ちる。スズメが洞窟の奥を見る。

 

「そこまでして」

 

 奎星も同じ方向を見る。

 

「何を守ってんだろ」

 

「ここまで人の手によって仕込まれているということは」

 

 スズメは慎重に言葉を選んだ。

 

「何かを守りたい、という意図はあったのでしょう」

 

「やっぱ、そうだよな」

 

「ただ」

 

「何を?」

 

「……分かりません」

 

「今日、何回目?」

 

「数えていません」

 

「明日、分かるかな」

 

「分かるかもしれません」

 

「分かんないかもしれない?」

 

「はい」

 

「ばあちゃんのことも」

 

「はい」

 

「小萱村のことも」

 

「……はい」

 

 奎星は残った羊羹を口へ入れた。甘さはすぐに舌の上から消えたが、胸の中に残った引っかかりは消えなかった。

 

     *

 

 夜が深くなるにつれて、洞穴の空気はさらに冷えていった。

 

 外は八月で、昼間は汗が止まらなかった。それなのに、山の地下は夏という季節から切り離されたように涼しい。岩肌から滲み出る水の冷たさが空気へ溶け込み、吐く息の奥まで静かに冷やしていく。奎星にはそれが心地よかったが。

 

「スズメちゃん、寒い?」

 

「大丈夫です」

 

「それ、信用できないやつ」

 

「本当に――」

 

「はい」

 

 奎星は自分のリュックから、予備として持ってきていた少し大きめのシャツを取り出した。

 

「これ着て」

 

「蓮根君のでは?」

 

「俺は今着てるじゃん」

 

「ですが」

 

「寒いだろ」

 

「…………」

 

「ほら」

 

 スズメは少し迷ったあと、シャツを受け取った。

 

「……ありがとうございます」

 

「ん、別に」

 

 スズメが自分の服の上から奎星のシャツを羽織る。案の定、少し大きかった。袖は手首より先まで伸び、肩も余っている。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「いや」

 

「変ですか?」

 

「違う」

 

「では?」

 

「何でもない」

 

 奎星は目を逸らした。自分の服を着ている。それだけのことなのに、今日は何もかもを意識してしまう。

 

「寝ようぜ」

 

「そうですね」

 

 二人は比較的平らな場所を選び、リュックを枕代わりにして横になった。奎星とスズメの間には、人一人が寝られるくらいの距離がある。近すぎるわけではない。けれど、遠くもなかった。

 

 杖先の《ルーモス》を弱めると、洞穴の中は柔らかな薄明かりに包まれた。岩壁の凹凸が淡い影を作り、水滴が落ちるたび、その影がかすかに揺れる。

 

 疲れている。身体は重い。それなのに、頭だけが冴えていた。

 

「スズメちゃん」

 

「はい」

 

「起きてる?」

 

「今、横になったばかりです」

 

「そっか」

 

「何です?」

 

「いや」

 

 奎星は天井を見上げた。

 

「……この先へ行ってさ」

 

「はい」

 

「そこには、何か分かることがあるのかな」

 

「……分かりません」

 

「またそれ」

 

「嘘を言うよりいいでしょう」

 

「まあな」

 

 しばらく沈黙が続いた。水滴の音が、遠くで一定の間隔を刻んでいる。

 

「……小萱村は、なんで」

 

 奎星の声が低くなる。

 

「ばあちゃんは、なんで……?」

 

 八重子の住所録。旧小萱村。人の記憶から消えた村。隠された道。地下施設。保存された杖と文書。断片ばかりが増えていくのに、肝心の答えだけが遠ざかっている。

 

「何で小萱、知ってたんだろ」

 

 奎星は目を閉じた。

 

「清弦たちのあと、ここで何があったんだろ」

 

 スズメが寝返りを打った。奎星のほうへ顔を向ける。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「考えても仕方ありませんよ」

 

「そりゃそうだけど……」

 

 奎星も寝返りを打つ。二人が向き合う形になった。

 

「考えちゃう」

 

「知っています」

 

「何で?」

 

「あなたは気になることがあると、ずっと同じことを考えますから」

 

「スズメちゃんもじゃん」

 

「私は整理して考えています」

 

「俺も」

 

「あなたは考えながら、途中でお菓子を食べます」

 

「脳に糖分が必要だから」

 

「便利ですね」

 

「だろ?」

 

 少しだけ空気が軽くなった。スズメの目も柔らかくなる。

 

「……では」

 

「ん?」

 

「楽しい話をしましょう」

 

「楽しい話?」

 

「はい」

 

 スズメは少し考えてから、奎星へ尋ねた。

 

「蓮根君は将来、どんな大人になりたいですか?」

 

「どんな大人?うーん……」

 

 奎星は天井へ目を向けた。しばらく考えたあと、ゆっくり口を開く。

 

「やっぱ、ずっと憧れてんのは御影先生かな」

 

「禍祓官ということですか?」

 

「うーん」

 

 奎星は首を傾げた。

 

「違うかも」

 

「違う?」

 

「禍祓官にはなりたいよ」

 

「はい」

 

「でも、御影先生だからっていうのは、それだけじゃなくて」

 

 奎星は言葉を探した。

 

「あの人がいるとさ」

 

「はい」

 

「なんか、もう大丈夫って思えるじゃん」

 

 スズメは黙って聞いている。

 

「俺がニ年のときも」

 

 魔法を何も知らなかった頃。巨大な魔力を持て余し、暴走すれば危険だということさえ、自分では理解していなかった頃。御影はいつも、必要なときにはそこにいた。

 

「何かあっても、あの人が来たら『あ、大丈夫だ』ってなる」

 

「…………」

 

「強いからってだけじゃなくて」

 

 奎星は少し笑った。

 

「みんなに頼ってもらえるっていうか」

 

「はい」

 

「この人がいれば、なんとかなるって思ってもらえる人」

 

 少し照れたように鼻を擦る。

 

「そういう大人になりたい」

 

 スズメの目が僅かに細くなった。

 

「それは……とても素敵ですね」

 

「そう?」

 

「はい」

 

「じゃあ、目指す」

 

「今、決めたのですか?」

 

「褒められたから」

 

「そこは自分で決めてください」

 

「でもさ」

 

「何です?」

 

「禍祓官って儲かる?」

 

 スズメが一瞬、黙った。

 

「今の話から、よくそこへ行きましたね」

 

「大事じゃん」

 

「基準を何にするかによりますが、魔法省の一般職員よりは、危険な現場へ出る職務です。任務や危険性に応じた手当もありますから」

 

「おお」

 

「収入だけを目的に選ぶ仕事ではありませんよ」

 

「でも、結構もらえる?」

 

「……命を懸ける仕事ですから、それなりには」

 

「おお……そりゃすげえ」

 

「そこだけ嬉しそうですね」

 

「将来設計ね」

 

「便利な言葉ですね」

 

 奎星は少し笑った。

 

「先生は?」

 

「何がです?」

 

「教師」

 

「はい」

 

「儲かる?」

 

「……私の幸せに、お金は必要ありません」

 

「カッコいい」

 

「そういう意味では」

 

 スズメは一拍置いてから続けた。

 

「記録局にいた頃のほうが、その面では良かったですよ」

 

「あんまなんだ」

 

「言わないでください」

 

「いや、だって先生、大変じゃん」

 

「給与だけで職業を選んでいません」

 

「そっか」

 

「はい」

 

「ふーん……」

 

 奎星は少し黙った。それから、枕代わりにしていたリュックをずず、と動かした。

 

「何です?」

 

「首、痛かった」

 

 もう一度、ずず、と動かす。スズメとの距離が少し縮まった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「戻りたいとか、思うの?」

 

 スズメの表情が変わった。

 

「記録局」

 

「…………」

 

「研究、好きだろ?」

 

「はい」

 

 その返事には迷いがなかった。

 

「思う時はあります」

 

「やっぱ?」

 

「記録局でしていた仕事そのものが嫌いだったわけではありませんから」

 

「うん」

 

「研究も」

 

 スズメは視線を僅かに下げた。

 

「好きでした」

 

 過去形ではなかった。

 

「眞田さんのことがあって」

 

「…………」

 

「あのとき、ようやく私自身も、過去の失敗を受け入れられました」

 

 相原美里の事故。記憶を失わせた研究。怖くなり、記録局を辞め、研究からも離れた自分。

 

「三年前の私は」

 

 スズメの声は静かだった。

 

「失敗したことから逃げました」

 

 奎星は何も言わず、彼女の言葉を聞いていた。

 

「研究そのものから離れれば、もう同じことは起こさないと思っていました。でも、それは失敗と向き合ったことにはならなかった」

 

 眞田大と再会した日。自分自身が彼へ伝えた言葉が、スズメの中には今も残っている。

 

 失敗しても、間違えても、怖くても、逃げなければやり直せる。

 

「だから」

 

「じゃあ……」

 

 奎星が言った。

 

「戻る?」

 

「すぐに戻るわけではありません」

 

「何で?」

 

「私には」

 

 スズメの口元が少し緩んだ。

 

「手のかかる生徒がいますから」

 

 そして、奎星へにこりと微笑んだ。

 

「…………」

 

 奎星が瞬きをする。

 

「……それって俺のこと?」

 

「そうは言っていません」

 

「ほんと〜?」

 

「はい」

 

「ま、俺は手かからないか」

 

「蓮根君のことですよ」

 

「うぉい! っ……!」

 

 勢いよく起き上がろうとして、肩へ痛みが走った。

 

「痛っ」

 

「蓮根君!」

 

 スズメの表情が一変した。すぐに上体を起こし、奎星のところへ寄る。

 

「傷ですか?」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

 奎星も身体を起こした。

 

「さっきの肩?」

 

「ちょっと動かしただけだから」

 

「見せてください」

 

「もう処置したじゃん」

 

「開いたかもしれません」

 

「大丈夫だって」

 

 スズメの手が奎星の腕へ触れた。肩ではない。その少し下を、逃がさないように、確かめるように掴む。

 

「……あなたは」

 

「ん?」

 

「いつも怪我をします」

 

 スズメの声が、少しだけ低かった。

 

「いや」

 

「毎回です」

 

「毎回じゃ」

 

「毎回です」

 

「でもさ」

 

 奎星は困ったように笑った。

 

「そりゃ……スズメちゃんが、いつも危ない目に遭ってるから」

 

「…………」

 

「電車んときも」

 

「…………」

 

「今日だって」

 

 そこで、スズメの表情が曇った。

 

「あ!」

 

 奎星が慌てる。

 

「別に!」

 

「…………」

 

「スズメちゃんのせいって言いたいんじゃなくて!」

 

「…………」

 

「違くて!」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

 スズメの手が、奎星の腕から離れた。

 

 そして、その指先が頬へ触れる。

 

 奎星の言葉が止まった。

 

 冷えた洞穴にいたはずなのに、その手は温かかった。

 

「忘れないでください」

 

 スズメが言う。

 

「何を……?」

 

 奎星の声が小さくなる。

 

「あなたは」

 

 スズメの目が、奎星を真っ直ぐ見た。

 

「私にとって、とても大切な人なんです」

 

 奎星は何も言えなかった。

 

 その言葉を、以前にも聞いたことがある。忘れるはずがない。星迎祭の夜、観測塔で、彼女が泣きそうな顔をして自分へ言った言葉。離れないでほしいと、自分から離れないでくれと、そう願うように伝えた声。

 

 今、目の前にいるスズメも、あのときと同じような顔をしていた。ひどく切なく、何かを堪えるような表情だった。

 

「……スズメちゃんこそ」

 

「…………」

 

「俺にとって」

 

 奎星はゆっくりと手を上げた。スズメの黒い前髪に、まだ少し埃が残っている。指先でそれをそっと整える。

 

「すっごい大切な人だよ」

 

 スズメの目が揺れた。

 

 いつから、ここまで近づいたのか。二人とも分からなかった。頬へ触れていたスズメの手。前髪に触れる奎星の指。互いの呼吸が、暗い洞穴の中でやけに鮮明に聞こえている。

 

 洞穴には、もう水滴の音すら遠かった。

 

 奎星が少しだけ身体を前へ動かす。スズメも逃げなかった。額が、こつ、と触れ合う。

 

 心臓がうるさい。馬鹿みたいに、どくん、どくんと鳴っている。こんなに近ければ、スズメにも聞こえているのではないかと思った。けれど、もしかすると、自分だけではないのかもしれない。スズメの息も、いつもより僅かに速かった。

 

 奎星の視線が落ちる。

 

 スズメの唇へ。

 

 気づいた瞬間、もう戻せなくなった。

 

 スズメは少しだけ顔を上げていた。近い距離から、ひどく切なそうに奎星を見ている。

 

 奎星が、ゆっくりと顔を近づける。

 

 逃げるなら、今だった。

 

 けれど、スズメは逃げなかった。代わりに、目を閉じた。

 

 時間が止まったようだった。

 

 あと少し。ほんの少し。奎星の頭の中から、何もかもが消えていく。教師も、生徒も、地下も、小萱村も、明日も、卒業も、すべてが遠のき、ただスズメだけが残った。

 

 その瞬間、奎星の頭に、たった一つの言葉が戻ってきた。

 

 ――私には、手のかかる生徒がいますから。

 

「…………っ」

 

 ぱぁん、と乾いた音が洞穴へ響いた。

 

「え!?」

 

 スズメが目を開ける。

 

「痛って!」

 

「蓮根君!?」

 

 奎星は自分の頬を押さえたまま、勢いよく言った。

 

「寝る!!!」

 

「え!?」

 

「寝る!」

 

「蓮根君!?」

 

「明日に備える!」

 

「は、はい!」

 

 二人は、ばっと同時に離れた。奎星は自分の場所へ戻り、スズメも自分の場所へ戻る。そのまま、ほとんど逃げるように背中を向け合って横になった。

 

 奎星の顔は真っ赤だった。スズメの顔も、暗くて見えないだけで、きっと同じだった。

 

 さっきまで人一人分あった距離が、今は妙に遠く感じられる。

 

「スズメちゃん」

 

「……はい」

 

 返事は、少しだけ悲しそうだった。

 

 奎星は目を閉じた。

 

「俺、絶対、卒業するから」

 

「…………」

 

 それだけを言った。

 

 何を伝えたいのか、自分でもすべてを説明できるわけではない。けれど、今の自分は生徒で、スズメは教師だった。手のかかる生徒として守られ、叱られ、補習を受け、朝には起こされる。まだ、そんな自分だ。

 

 だから、いつか卒業する。

 

 立派になって、御影のように誰かから頼られる人間になり、禍祓官になって、自分の足で立つ。そのときには、手のかかる生徒ではなく、一人の男として、もう一度スズメの前へ行く。

 

 今度は、途中で自分を叩かなくてもいいように。

 

 そんな気持ちを、奎星はたった一言へ詰め込んだ。

 

 それがスズメへ伝わったかどうかは分からない。

 

 けれど、背中を向けた彼女の頬は、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「もちろんです」

 

 静かな声だった。

 

「私が、そうさせます」

 

「…………」

 

「補習もします」

 

「いらない」

 

「いります」

 

「いい雰囲気だったのに」

 

「試験に落ちたら卒業できませんよ」

 

「現実に戻すなよ」

 

「卒業するのでしょう?」

 

「するけど」

 

「でしたら、勉強してください」

 

「ここで言う?」

 

「どこでも言います」

 

「スズメちゃ〜ん!」

 

 洞穴に、また二人の声が響いた。

 

 やがて声は少しずつ途切れ、水滴の音だけが戻ってくる。

 

 ぽた。

 

 ぽた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「おやすみ」

 

「……おやすみなさい」

 

 それからいつしか、二人は眠りについた。

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