目が覚めたとき、奎星の目に最初に飛び込んできたのは、手を伸ばせば届きそうな灰色の岩肌だった。薄暗い洞穴の中では、岩の凹凸さえも夜の名残を帯びて見える。どこか遠くで水滴が落ち、乾いた反響が長く続いた。
昨夜、弱く灯したままにしていた《ルーモス》は、いつの間にか消えていたらしい。目が暗闇に慣れてくると、すぐそばに置かれた荷物の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。身体は重く、肩には鈍い痛みが残っていた。硬い地面の上で眠ったせいか、首を動かすたびに、ごき、と嫌な感覚がする。
「うぅ……」
奎星は顔をしかめながら、ゆっくりと上体を起こした。
その瞬間、昨夜のことが一気に蘇った。
洞穴の中で、スズメと二人きりだったこと。互いに近づき、額を合わせたこと。目を閉じた彼女の顔。そして、あと少しで触れそうだった距離。
最後に、自分で自分の頬を叩いた音まで、妙に鮮明に耳の奥へ戻ってきた。
「うわぁ……」
奎星は両手で顔を覆った。
「何やってんだ俺……」
「……起きていたのですか」
「うおっ!?」
すぐ後ろから声がして、奎星の肩が跳ねた。慌てて振り返ると、スズメもすでに目を覚ましていた。岩壁に背を預けて座り、こちらを見ている。昨夜、奎星から借りた大きめのシャツをまだ自分の服の上から羽織っていて、寝起きのせいか、いつも整っている黒髪の片側だけが少し跳ねていた。
「…………」
「…………」
目が合った。
それだけで、二人の間に昨夜の記憶が戻ってくる。奎星が先に視線を逸らし、スズメもほとんど同時に顔を背けた。
「……おはよ」
「……おはようございます」
洞穴の中へ、ぎこちない挨拶が落ちた。
しばらくして、また水滴が落ちる。
「よく寝れた?」
「……それなりに」
「俺も」
「そうですか」
「うん」
会話はそこで途切れた。
奎星は天井を見上げた。そこには、昨日と変わらない岩肌がある。スズメは床へ視線を落とした。こちらにも、特別なものは何もない。
昨日までなら、三秒もあればどちらかが何かを言っていたはずだった。けれど今は、言葉を探すたびに、あと少しで触れそうだった唇の感触を思い出してしまう。
「……蓮根君」
「はい!」
奎星は反射的に返事をした。
「なぜ敬語なのです?」
「分かんない!」
「そうですか」
「スズメちゃんもなんか変じゃね?」
「変ではありません」
「声ちっさくない?」
「洞穴なので響くのです」
「昨日もっと叫んでたじゃん」
「昨日は昨日です」
「…………」
「…………」
再び沈黙が落ちた。
奎星は頭を掻き、どうにか話題を探す。
「えーっと……顔、洗う?」
「……そうしましょう」
「よし」
なぜか二人とも、重大な決断を下したような顔で同時に立ち上がった。
*
昨日見つけた水場で顔を洗い、少しだけ非常食を口に入れるころには、二人の間に漂っていたぎこちなさも、ほんの少しだけ薄れていた。完全に消えたわけではない。目が合えばどちらかが先に逸らし、距離が近づけば、互いに半歩ずつ離れてしまう。
スズメが借りていたシャツを脱ぎ、丁寧に畳んで奎星へ返したときも、二人の間には妙な沈黙があった。
「……ありがとうございました」
「うん」
「助かりました」
「うん」
「ちゃんと洗って返します」
「いや、別にそのままで」
「洗います」
「はい」
昨日までとは別の意味で、会話が続かなかった。
それでも、荷物をまとめてしまえば、二人の意識は少しずつ現実へ戻っていく。ここはまだ地下であり、帰るためには洞穴の先へ進まなければならない。
「行くか」
「はい」
奎星が神代榊を構え、《ルーモス》を唱える。杖先に白い光が灯り、暗闇の中へ細い道が浮かび上がった。
二人は、昨日確認していなかった洞穴の奥へ歩き始めた。
*
道は思っていたよりも長く続いていた。
自然にできた洞窟らしく、足元は不規則に隆起し、ところどころに大きな岩が転がっている。天井が低くなれば身体を横にして通り抜け、急に開けた場所へ出れば、今度は頭上の暗がりへ杖の光を向けて安全を確かめた。
ただ、進むにつれて一つだけ確かな変化があった。
「風、強くなってない?」
「少し」
スズメが答える。
昨日から感じていた微かな空気の流れが、先へ進むほどはっきりしていた。冷たい風が、洞穴の奥から絶えず吹いてくる。
「やっぱ出口ある?」
「可能性は高くなりました」
「お」
「出口とは限りません」
「またそういう」
「地下に大きな空間があるだけかもしれません」
「夢なくない?」
「遭難中に夢を求めないでください」
「もう遭難二日目だぞ」
「だからです」
ようやく、いつもの調子が少し戻った。奎星は苦笑しながら前方を照らす。
そのとき、杖先の光が、洞穴の一部で妙な反射を返した。
「……ん?」
奎星が足を止める。
「スズメちゃん」
「見えています」
二人の前に、壁があった。
洞穴に壁があること自体は珍しくない。けれど、その壁だけは明らかに周囲と様子が違っていた。自然に削られた岩肌は凹凸が激しく、ところどころに水の流れた跡が残っている。それなのに、目の前の壁だけは不自然なほど平らで、まるで誰かが岩を削り、そこへ蓋をしたように見えた。
スズメが近づき、杖の光を壁へ当てる。
「……石ですね」
「そりゃ壁だし」
「そういう意味ではありません」
スズメは奎星を一度見てから、再び壁へ視線を戻した。
「削られています。自然にできたものではありません」
「人工?」
「おそらく」
表面には苔がほとんどなく、洞穴の湿気による染みだけが薄く残っている。岩を削ったというより、平らに加工した石材を嵌め込んだようにも見えた。
奎星は周囲へ光を向ける。
「ここだけ?」
「はい」
スズメは壁と自然の岩盤との境目を、左右、上、床の順に確かめていった。
「……もしかすると」
「ん?」
「元々は、こちら側まで人工物だったのかもしれません」
「どういうこと?」
「長い年月のあいだに周囲の岩盤が削れたか、崩れたのでしょう。その結果、自然洞穴と人工的な石室が繋がったのかもしれません」
「なるほど」
「推測です」
「はいはい」
「はいは一回です」
「はい」
壁には取っ手もなければ、扉の継ぎ目も見当たらなかった。奎星が拳で軽く叩くと、ごん、と低い音が返ってくる。
「中、空洞っぽくない?」
「音はそう聞こえますね」
「開く?」
「どうでしょう」
二人はしばらく壁を調べた。魔法の反応を探り、周囲を見回し、押してみたり、隙間を探したりもした。しかし、壁は沈黙したままだった。
「……昨日だったら勝手に開いたのにな」
「昨日の扉と同じ仕組みとは限りません」
「ここでずっと待つ?」
「嫌です」
「即答」
「何日も地下で待つつもりですか?」
「じゃ」
奎星は神代榊を持ち上げた。
「壊す?」
「あなたは下がっていてください」
「え?」
スズメが一歩前へ出る。
「私がやります」
「何で?」
「あなたが撃つと、必要以上に壊す可能性があるので」
「最近めっちゃ加減できるよ!」
「知っています」
「じゃあ!」
「それでも私がやります」
「信用!」
「念のためです」
「絶対信用してない!」
スズメは壁の中央へ杖を向けた。
「人一人が通れる程度で十分です」
「二人並んでは?」
「必要ありません」
「狭いじゃん」
「広く壊す理由もありません」
「はい」
スズメは壁の厚みを見定めるように、杖先をゆっくり動かした。
「離れてください」
「はーい」
奎星が数歩後ろへ下がる。
「レダクト」
光が壁へ突き刺さった。次の瞬間、低い衝撃音が洞穴全体へ響き、壁の中央に亀裂が走る。砕けた石片は前方ではなく、主にこちら側へ落ちた。スズメが威力を抑えたため、崩れた範囲は人一人が屈めば通れる程度に収まっている。
「うま」
「当然です」
「ちょっと自慢した?」
「していません」
「今した」
「進みますよ」
粉塵が落ち着くのを待ってから、二人は穴の向こうを覗き込んだ。奎星が杖を差し入れ、《ルーモス》を唱える。
白い光が、狭い空間の奥まで広がった。
「……部屋だ」
そこには、小さな石室があった。
*
二人はすぐには中へ入らなかった。入口から内部を照らし、床、壁、天井を一つずつ確認していく。
石室は、これまで通ってきた地下施設よりも遥かに狭かった。石の壁と石の床に囲まれ、棚も、古文書も、石像もない。何もない空間の中央に、ただ一つ、低い石台だけが置かれていた。
その上に、球体があった。
「……何だあれ」
両手で包めるほどの大きさだった。硝子のように透明ではなく、白とも灰色ともつかない淡い色をしている。表面は滑らかだが、杖先の光を受けても普通の石のようには反射しない。水晶にも見えず、金属のような冷たさもない。
ただ一つの球体が、何もない石室の中央に置かれていた。
「これ」
「触らないでください」
「言うと思った」
「なら近づかないでください」
「いや、調べるだろ」
「近づくことと触ることは別です」
「分かってるって」
二人は慎重に石室へ入った。奎星は周囲へ神代榊を向け、床、天井、背後の壁を順番に確認する。
「石像いない?」
「いません」
「隠れてない?」
「どこにです?」
「壁の中とか」
「昨日のせいで疑いすぎです」
「だって四メートルのやつ来たんだぞ」
「分かっています」
「剣でっかかったし」
「覚えています」
「俺ら殺しかけたし」
「そうですね」
「絶対忘れない」
スズメは球体の周囲を調べていた。石台には文字も刻印もなく、術式らしい線も見当たらない。球体そのものにも、見える範囲では紋様らしきものはなかった。
「……なんかわかった?」
「まだ何も」
「また?」
「またです」
奎星は両手を背中へ回した。
「俺、触んないよ」
「珍しいですね」
「昨日学んだ」
「一日で?」
「成長が速いんで」
「そこだけなら素晴らしいです」
「そこだけって言うな」
スズメがわずかに口元を緩めた、その瞬間だった。
ご、と小さな音がした。
二人が同時に動きを止める。
石台の上で、球体がわずかに揺れていた。先ほどのレダクトの衝撃が遅れて石室へ伝わったのかもしれない。球体はゆっくりと傾き、石台の端へ向かって転がり始めた。
「蓮根君!」
「うおっ!」
考えるより早く、奎星が飛び込んだ。石台から落ちる寸前の球体を、両手で受け止める。
「取った!」
「触らないでと――!」
その瞬間、バチッ、と鋭い音が弾けた。
「っ――!?」
電撃のようなものが、奎星の両腕を一気に駆け上がった。指が開かない。球体が手のひらへ張りついたように離れず、掌が焼けるように熱くなる。
「何だ、これ……!」
奎星の右手に、青白い光が走った。
スズメの目が大きく見開かれる。
掌から手の甲へ、手首から腕へ。細い光が皮膚の下を走り、枝分かれしながら肩へ伸びていく。淡い青白さを帯びたその光を、スズメは見間違えなかった。
「……あの時の……」
あのとき、久我朔弥が放った死の呪文を、奎星が素手で受け止めたときに現れたものと同じだった。右手から腕へ、腕から肩へ、そして全身へ走った、あの青白い光。
「蓮根君、離して!」
「離れ……っ」
奎星の声が途切れた。
視界が、白く弾けた。
*
青い空が見えた。
風に揺れる草。遠くまで続く山々。田畑の間を走り回る子どもたちの笑い声。鳥の声と、夏の匂いが混ざり合っている。
見覚えがあるような気もしたが、どこで見た景色なのかは分からなかった。
*
誰かがいる。
男だった。
顔は見えない。杖を構え、光を放っている。地面が弾け、怒鳴り声が響く。手が前へ伸びる。
いや。
違う。
あれは、自分の手ではない。
*
泣き声が聞こえた。
腕の中には、小さな赤ん坊がいる。女の子だった。柔らかな頬と、小さな指。その指が、誰かの手を握っている。
胸の奥に、どうしようもなく温かなものが広がった。
*
「奎星」
幼い声がした。
目の前に、まだ幼い自分がいる。丸い頬を膨らませ、不満そうな顔でこちらを見上げている。
誰かが手を伸ばした。
幼い奎星の頬をつねる。
「いひゃい!」
抗議の声が上がり、誰かが笑った。
自分が笑っている。
違う。
俺じゃない。
俺は、見られている。
*
「――っ!!」
奎星は大きく息を吸い込んだ。
視界が戻る。
石室。石台。青白い光。そして、目の前にいるスズメ。
「蓮根君!」
「っ、は……!」
奎星は反射的に球体から手を離そうとした。今度は、あっけないほど簡単に手が離れた。
球体が落ちる。
「危なっ!」
奎星は咄嗟に腰へ下げていたタオルを広げた。球体はその中へ落ち、ぼす、と鈍い音を立てる。
二人とも、しばらく動かなかった。
奎星はタオル越しに球体を包み込む。
「セーフ……?」
「今、それを言いますか!?」
スズメが奎星のもとへ駆け寄った。
「手を!」
「大丈夫」
「見せてください!」
「はい!」
奎星が両手を差し出す。火傷はなく、皮膚も赤くなっていない。先ほどまで走っていた青白い光も、すでに消え始めていた。
「痛みは?」
「ない」
「痺れは?」
「ちょっと……いや、もうない」
「本当に?」
「うん」
スズメは奎星の手首を掴み、掌から腕まで慎重に確認した。青白い光は完全に消え、そこにはいつもの皮膚だけが残っている。
「……同じでした」
「何が?」
「光です」
スズメの声が低くなる。
「第零書庫で、あなたの身体に現れたものと」
「…………」
「色も、反応の仕方も」
奎星も自分の掌を見つめた。
「俺、今……」
「何です?」
「…………」
言葉が出てこない。
頭の中には、まだ映像の残骸が残っていた。山。田舎の景色。顔の見えない男。赤ん坊。そして、幼い自分。
「……今、なんか……俺がいた」
スズメの眉がわずかに寄る。
「何を……?」
「ガキの頃の、なんか」
奎星はこめかみを押さえた。
「でも、俺じゃなくて」
「…………」
「俺を、見てた」
スズメの顔から表情が消えた。
「俺がちっちゃくて」
「はい」
「誰かが」
奎星は自分の頬へ触れた。
「俺のほっぺ、つねってた」
その瞬間だけ、八重子の顔が脳裏に浮かんだ。子どものころ、何度も頬をつねられた記憶。亡くなったあと、あの不思議な場所で再び会ったときのこと。
けれど、奎星はその名前を口にしなかった。まだ、何も分からない。
「他にも」
「何を見ました?」
「景色」
「景色?」
「山とか、畑とか」
「…………」
「あと、誰かと戦ってた」
「誰か?」
「分かんない」
「顔は?」
「見えなかった」
「他には?」
奎星は黙った。
「赤ちゃん」
「……赤ちゃん?」
「女の子」
「…………」
「抱いてた」
スズメはしばらく何も言わなかった。やがて、その視線が奎星からタオルに包まれた球体へ移る。
「……蓮根君」
「ん?」
「もしかしたら」
慎重に言葉を選びながら、スズメは続けた。
「それは、人の記憶かもしれませんね」
「記憶?」
「はい」
「これに入ってた?」
「断定はできません」
「でも」
「可能性はあります」
スズメは球体を見つめた。
脳裏に、別の光景が浮かんでいる。透明な硝子玉。その内部を巡る銀色の糸。壁一面に並べられていた、人間の記憶。そして、眞田大が行っていた三年前の研究。
記憶を外部媒体へ保存する術式。
ただし、目の前の球体は、あの硝子玉とは外見が違う。内部に銀色の糸も見えない。奎星へ映像を見せた仕組みが同じものかどうかも分からなかった。
それでも、人の経験を本人の身体以外へ残すという意味では、確かに似ている。
「似ています」
「眞田の?」
「仕組みが同じとは言えません」
「うん」
「ですが、人の経験を本人の身体以外へ残すという意味では」
「……そっか」
奎星はタオル越しに球体を持ち上げた。もう直接触れるつもりはない。さすがに、そこは学習した。
「なあ」
「はい」
「俺らが探してたものって」
奎星は石室を見回した。何もない。石台と球体、それだけだ。
「ここが隠そうとしてたものって、これ?」
スズメもゆっくりと部屋を見回した。
人を道から逸らす魔法。巨大な地下施設。侵入者を試すような石像。保存された数え切れないほどの資料と魔法具。そして、巨大な守護像。
そのすべてを抜けた先、自然洞穴のさらに奥へ隠されていた小さな石室。
「……そのように思えます」
スズメが答えた。
「少なくとも、これまで見つけたものの中では、最も厳重に隠されていたものです」
「じゃあ」
「ですが、ここでは調べません」
「え」
「当然でしょう」
スズメの声が強くなる。
「先ほど何が起きたと思っているのですか」
「ちょっと記憶見た」
「ちょっとではありません」
「はい」
「あなたの身体に、第零書庫と同じ反応まで出ています」
「はい」
「もう直接触らないでください」
「はい」
「絶対ですよ」
「はい」
「返事だけではありませんね?」
「今回はマジ」
スズメは小さく息を吐いた。
「一度、それは魔法省に預けましょう」
「……魔法省?」
「ここで私たちだけが調べるものではありません」
「まあ」
奎星は球体を見た。
「そうだな」
「保存状態も、魔力反応も、記憶との関係も、専門の設備で調べる必要があります」
「う、うん」
奎星は珍しく素直に頷いた。
さすがに怖かった。ほんの数秒だったはずなのに、自分ではない誰かの人生へ、頭ごと落とされたような感覚がまだ残っている。
そして最後に見たもの。幼い自分へ伸びてきた手。
奎星は無意識に、自分の頬へもう一度触れた。
*
そのとき、背後から低い音が響いた。
ゴゴゴゴ……。
二人が同時に振り返る。
石室の壁。入ってきた穴とは反対側にある、何もなかったはずの石壁が、ゆっくりと横へ動いていた。
「また勝手に開いた」
「警戒してください」
「これ、マジで試されてたんじゃ」
「まだ断定しません」
「ここまで来ても!?」
石壁が完全に開く。
その向こうから、光が差し込んだ。
二人はしばらく動かなかった。
白い光だった。
本物の太陽の光だった。
「外?」
奎星が呟く。
温かな風が流れ込み、土と草と木の匂いを運んでくる。遠くからは、蝉の声が聞こえた。
「外だ!!」
「蓮根君!」
奎星が走り出す。
「待って!」
「外!」
「分かっています!」
二人は石室を抜けた。数メートルほどの短い石造りの通路を進み、その先へ出る。
眩しさに、奎星は思わず目を細めた。
夏だった。
緑があり、青空があり、肌を焼くような熱気がある。蝉の大合唱が森を満たしていた。昨日までなら鬱陶しいとさえ思っていたその音が、今はすべてありがたく感じられる。
「うおおおお!」
奎星が両腕を上げた。
「外だあああ!!」
「大声を出さないでください!」
「外だぞ!?」
「見れば分かります!」
「太陽!」
「あります!」
「空!」
「あります!」
「蝉!」
「うるさいです!」
奎星は笑いながら空を見上げ、それからふと視線を下ろした。
見覚えのある巨木があった。
神代榊。
昨日、二人が地下施設へ入る前に見上げた、あの巨大な榊だった。位置は少し離れているものの、間違いない。
「ここ」
奎星が周囲を見回す。
「戻ってきた?」
「どうやら」
スズメも神代榊へ目を向けた。
「施設を通って、反対側へ回ったようですね」
「うわぁ……」
奎星は頭を抱えた。
「入口から普通に出してくれればよかったじゃん!」
「石像を壊した人が何を言っているのですか」
「最初だけ!」
「三体壊しました」
「共同責任!」
「二体目以降は、あなたが先に手を出しました」
「細かい!」
そこで、奎星がふと動きを止めた。
「あれ?」
「何です?」
「ウミツバメ」
二人は神代榊の周囲を見回した。
昨日、巨大な身体が座っていた場所には、羽根と足跡が残っている。草も大きく押し倒されていた。しかし、肝心の本体はどこにもいなかった。
奎星は空を見上げる。右、左、頭上。どこを探しても、あの大きな影は見えない。
「いない」
「いませんね」
「マジ?」
「はい」
「え」
奎星の口が開く。
「あいつぅ……」
「…………」
「帰りやがった!」
「当然ですよ」
「何で!?」
「一日待たせたのですから……」
「待ってろよ!」
「いつ戻るか伝えていなかったでしょう」
「でも!」
「ウミツバメにも生活があります」
「生活!」
「あります」
「俺ら置いて!」
「遭難したのはこちらです」
「薄情者ぉ!」
森へ向かって叫んでも、返事はなかった。スズメは腕時計を確認する。
「十時です」
「朝?」
「午前です」
「マジか」
奎星も時計を覗き込んだ。午前十時。昨日洞窟へ入ってから、ほとんど丸一日が経っている。
「どうする?」
「歩くしかないでしょう」
「…………」
「何です?」
「歩くの?」
「はい」
「ここから?」
「はい」
「昨日もめっちゃ歩いた」
「知っています」
「石像からもめっちゃ走った」
「知っています」
「寝床、岩」
「私もです」
「肩痛い」
「それはあなたが無茶をしたからです」
「帰りたい」
「帰りますよ」
「今すぐ」
「歩いて」
「スズメちゃ〜ん」
「行きますよ」
スズメは先に歩き始めた。
奎星はタオルで包んだ球体を、さらにリュックの中へ慎重に収めた。ほかの荷物とぶつからないよう、替えの衣服で周囲を固定する。
「絶対触らないでくださいね」
「分かってる」
「途中で気になって開けないでください」
「俺もさすがに怖いって」
「ならいいです」
「ちょっと見たいけど」
「蓮根君」
「見ない!」
二人は神代榊を背に、山を下り始めた。
*
それから、とにかく歩いた。
昨日までなら、山道の景色にも興味を持ったかもしれない。小萱村の痕跡を探し、八重子のことを話し、道端の植物や古い石垣に足を止めていたかもしれない。
しかし今は、二人とも体力の限界に近づいていた。
「腹減った」
「私もです」
「足痛い」
「私もです」
「暑い」
「私もです」
「帰りたい」
「私もです」
「スズメちゃんも?」
「当たり前でしょう」
朝、少しだけ非常食を食べたとはいえ、昨日の夕食はほとんど菓子だった。煎餅、羊羹、グミ、焼き菓子。あれはあれで美味しかったが、温かい食事の代わりにはならない。
「肉食いてえ……」
「私は米が食べたいです」
「汁物」
「いいですね」
「味噌汁」
「飲みたいです」
「定食」
「やめてください」
「何で?」
「余計に空腹になるので」
「唐揚げ」
「蓮根君」
「焼き魚」
「…………」
「スズメちゃん、今反応した」
「していません」
「焼き魚食いたい?」
「…………」
「食いてえんじゃん」
「歩いてください」
二人は無言で歩き続けた。
十分、二十分、三十分。山道を下り、木々の間から少しずつ人の気配が感じられるようになったころ、奎星が突然足を止めた。
「スズメちゃん」
「何です?」
「あれ」
山道の先に、古びた看板が立っていた。赤い文字で店名が書かれ、軒先には暖簾が揺れている。小さな駐車場の奥に、食事処らしい建物があった。
二人は看板を見つめ、それから互いの顔を見た。
「行く?」
「行きます」
返事は即答だった。
*
「唐揚げ定食!」
「焼き魚定食をお願いします」
二人の注文は、席へ座ってから十秒もかからなかった。
山道沿いの小さな定食屋だった。昼には少し早い時間のためか、客は他に二組しかいない。壁には手書きの品書きが貼られ、店内のテレビでは、一般社会の昼前の情報番組が流れている。
魔法の気配など、どこにもない。
それが今は妙に安心できた。
「水」
奎星がコップを持ち上げ、一気に飲み干す。
「一気に飲まない」
「昨日と同じこと言ってる」
「昨日と同じことをするからです」
「うま」
「もう一杯あります」
「飲む」
「食事前に水で腹を満たさないでください」
「母ちゃんみたい」
「誰がですか」
数分後、料理が運ばれてきた。
唐揚げ、白米、味噌汁、漬物、小鉢。スズメの前には、焼き魚と白米、味噌汁、小鉢が並ぶ。湯気が立ち上り、焼いた魚の香ばしい匂いと、味噌汁の温かな香りが二人の空腹を一気に刺激した。
「いただきます!」
「いただきます」
そこから、二人はほとんど喋らなくなった。
奎星は唐揚げを頬張り、白米をかき込み、味噌汁を飲む。スズメも魚の身をほぐし、米と一緒に口へ運んでいく。普段なら、奎星が何かを話し、スズメが注意し、奎星がまた余計なことを言う。しかし今は、二人とも食べることだけに集中していた。
昨日の昼に弁当を食べて以来、まともな食事らしい食事をしていない。菓子も非常食も助けにはなったが、温かい米と味噌汁は、それらとはまったく別のものだった。
十分ほどして、奎星が箸を置いた。
「ごちそうさまでした!」
スズメもほとんど同時に箸を置く。
「ごちそうさまでした」
二人は水を飲み、揃って深く息を吐いた。
「はぁぁぁ……」
「…………」
「生き返った」
「昨日も言っていましたね」
「昨日より生き返った」
「それは分かります」
「唐揚げすげえ」
「焼き魚も美味しかったです」
「一個交換すればよかった」
「もうありません」
「気づくの遅かった」
ようやく、頭がまともに動き始めた。奎星は水をもう一口飲み、ふと思い出したように尋ねる。
「なあ」
「はい」
「こっから魔法省まで電車でどんくらい?」
スズメは少し考えてから答えた。
「……最寄りの駅から二時間ほどです」
「二時間?」
「はい」
「よし!」
奎星が元気よく頷く。
「意外と近いじゃん!」
「ただし」
「ん?」
「最寄り駅までは、歩いて二時間ほどです」
「…………」
「…………」
奎星の顔から、ゆっくりと表情が消えた。
「嘘だろぉ……」
「仕方ありません」
「二時間歩いて!」
「はい」
「そっから二時間電車!?」
「乗り換えもあります」
「増えた!」
「時間によっては」
「減らして!」
「私に言わないでください」
奎星は机へ突っ伏した。
「箒」
「駄目です」
「まだ言ってない」
「箒で駅まで行くつもりでしょう」
「一瞬じゃん!」
「一般社会です」
「山だぞ?」
「道路があります」
「上飛べば!」
「目撃されたらどうするのです」
「めっちゃ高く」
「飛行機やヘリコプターは?」
「めっちゃ低く」
「人がいます」
「森の中!」
「木があります」
「うぅぅ……」
「歩きますよ」
「魔法使いなのに……」
「魔法使いだからこそ、一般社会で魔法を使わない判断が必要です」
「法律の補習みたいなこと言うなよ……」
「必要そうですね」
「いらない!」
奎星は最後の水を飲み干した。
「行くかぁ……」
「はい」
二人は席を立った。
*
長かった。
本当に長かった。
「まだ?」
「まだです」
「駅、逃げてない?」
「逃げません」
「さっきから全然近づいてる感じしない」
「進んでいます」
「足痛え……」
「昨日よりは平坦でしょう」
「昨日と比較すんなよ!」
「では、元気ですね」
「どこが!?」
一時間ほど歩いたところで、奎星がまた口を開いた。
「スズメちゃん」
「何です?」
「俺が禍祓官になったら」
「はい」
「こういうとき、省の車とか来る?」
「任務であれば」
「よし」
「今は生徒です」
「早く卒業したい」
「昨日も聞きました」
「別の意味で!」
スズメが一瞬だけ黙った。
奎星も、自分で言ってから口を閉じる。
昨夜のことが、また二人の間へ戻ってきた。
「今のは」
「分かっています」
「うん」
「歩いてください」
「はい」
ぎこちなさまで、すっかり戻ってしまった。
それでも歩き続け、ようやく駅が見えたときには、奎星は本気で両腕を上げた。
「駅ぃぃぃ!!」
「大声を出さないでください!」
*
冷房が効いている。
座席がある。
屋根がある。
文明がある。
電車の座席へ身体を沈めた奎星は、深い息を吐いた。
「最高……」
「寝ないでください」
「何で」
「乗り換えがあります」
「起こして」
「自分で起きてください」
「昨日一緒に泊まった仲じゃん」
「言い方!」
「何で!?」
向かいに座っていた乗客が、一瞬だけこちらを見た。スズメは声を落とす。
「公共の場です」
「ごめん」
奎星も小声になった。
電車がゆっくりと走り始める。窓の外を、山と田畑が流れていった。
奎星はしばらく、その景色を眺めていた。
朝、球体へ触れたときに見た景色も、こんな田舎だった。緑があり、畑があり、山があった。ただ、あの景色のほうがずっと古い。道路も、家も、そこを歩いていた人々の服も、今とは違っていた。
奎星は足元に置いたリュックへ視線を落とした。その奥には、タオルと衣服で何重にも包んだ球体が入っている。
「スズメちゃん」
「はい」
「これ、どうすりゃいいかな」
スズメもリュックへ目を向けた。
「魔法省で調べます」
「誰が?」
「まずは、魔法具や古代魔術に詳しい部署へ回すことになるでしょう」
「うん」
「ただ」
スズメは少し考えた。
「記憶なら」
「ん?」
「詳しい人が一人、魔法省にいます」
「誰?」
スズメは窓の外から視線を戻した。
「眞田先輩です」
奎星が黙った。
電車は一定の音を刻みながら走り続けている。
がたん。
ごとん。
奎星は足元のリュックを見つめた。
その中には、誰のものかも分からない記憶が、静かに眠っていた。