マホウトコロ   作:西野圭吾

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第10話 閉じた道

 日本魔法省へ着いたころには、奎星はもう、今日だけで何日分の時間を動き回ったのか分からなくなっていた。山を下り、定食をかき込み、二時間歩き、さらに電車を乗り継いで、ようやく霞が関まで辿り着いたのである。一般社会の庁舎群に紛れた入口から地下へ降り、認識阻害の境界を越えると、見慣れた青白い魔法灯が長い廊下を照らしていた。

 

「帰ってきた……」

 

「あなたの家ではありません」

 

「でも、なんか安心する」

 

「それは分かります」

 

「スズメちゃんも?」

 

「少しだけ」

 

 隣を歩くスズメも、さすがに疲れていた。表情こそ普段と大きく変わらないものの、歩幅はいつもより小さい。昨日から洞穴で眠り、石像に追われ、朝から山道を歩き続けたのだから無理もなかった。奎星の肩にも、まだ鈍い痛みが残っている。

 

 それでも、彼が何より気にしていたのは、足元に置いたリュックだった。中には替えの衣服とタオルで何重にも包んだ球体が入っている。地下深くの石室で見つけ、触れた瞬間に自分の記憶へ侵入してきた、あの得体の知れない球体である。

 

「……本当に、眞田に見せんの?」

 

「眞田先輩です」

 

「本人いないのに?」

 

「本人がいなくてもです」

 

「はい」

 

「それに、勝手に会わせてもらえるわけではありません」

 

「そりゃそうか」

 

 眞田大は、以前のように自由に研究室を使える立場ではない。面会も、資料への接触も、術式を扱うことも、すべて魔法省側の許可が必要になる。今回の面会を認めたのも監察局だった。

 

 そして、その監督役が廊下の先で待っていた。

 

「遅かったな」

 

 腕を組んだ真壁征士郎が、淡々と声をかける。

 

「真壁さん!」

 

「連絡を受けてから三時間以上経っている」

 

「駅が遠かったんだって!」

 

「聞いた」

 

「ウミツバメに置いてかれたし!」

 

「それも聞いた」

 

「石像にも追われた!」

 

「それはまだ詳しく聞いていない」

 

「でっかいやつ!」

 

「蓮根君」

 

 真壁の目が細くなる。

 

「報告は順番に聞く」

 

「はい」

 

「まず、物を見せろ」

 

 奎星は、すぐに口を閉じた。

 

     *

 

 通されたのは、以前スズメが眞田と話した監察局の面会区画とは少し違う部屋だった。中央には大きな石製の机が据えられ、その周囲には魔力反応を測定するための器具が並んでいる。壁には観測用の術式が刻まれ、天井にも幾重もの防護陣が埋め込まれていた。

 

 普通の面会室ではない。危険な魔法具や資料を一時的に持ち込むための、簡易検査室なのだろう。

 

 机の向こうには、一人の男が座っていた。

 

 眞田大。

 

 以前より顔色は良くなっている。けれど、かつて研究室で見たような、何もかも自分の理論だけで押し通そうとする鋭さは、少し薄れていた。奎星が入ってくると、眞田は椅子に座ったまま、わずかに眉を上げる。

 

「……また君か」

 

「第一声それ?」

 

「君を見るたびに、記憶に関係する問題が増えている気がする」

 

「俺のせいみたいに言うなよ!」

 

「半分くらいは君のせいじゃないか?」

 

「ちょーい!」

 

「否定できますか?」

 

 スズメが横から静かに言った。

 

「スズメちゃんまで!?」

 

 真壁が机を指で叩く。

 

「始めろ」

 

「はい」

 

「はーい」

 

 奎星はリュックを机のそばへ置き、慎重にファスナーを開いた。まず衣服を取り出し、次に包んでいた布を一枚、さらにもう一枚と外していく。最後に残ったタオルを見て、眞田がわずかに目を細めた。

 

「随分厳重だな」

 

「触ったら変なの見たから」

 

「その説明は事前に聞いた」

 

「じゃあ聞くなよ」

 

「状態を見ている」

 

 奎星は返事をせず、最後のタオルをゆっくりと机の上へ広げた。

 

 淡い白灰色の球体が姿を現す。

 

 透明でもなく、硝子でもない。かといって、普通の石とも違っていた。柔らかな魔法灯の下に置かれているのに、表面は不思議なほど光を返さず、周囲の明かりを吸い込むように静まり返っている。

 

 奎星は両手を引いた。

 

「これ」

 

 眞田を見る。

 

「知ってる?」

 

「知らない」

 

「即答!」

 

「僕の技術じゃない」

 

「おい、なんも分かんねえじゃねえか!」

 

「最後まで聞け」

 

「はい」

 

 眞田は椅子から少し身を乗り出した。球体には触れず、表面の状態や置かれ方、色合い、タオルとの接触部分まで、目だけで慎重に追っていく。

 

「少なくとも、僕が使っていた外部媒体固定術式とは違う」

 

 スズメが球体を見つめた。

 

「銀糸もありません」

 

「ああ」

 

「硝子でもない」

 

「材質から違う」

 

 眞田は、球体から視線を離さずに続けた。

 

「三年前に僕と烏丸が研究していたものは、古代記憶術式を現在の魔法体系へ変換し、記憶を外部媒体へ固定するものだった」

 

「うん」

 

「これは、その系統じゃない」

 

 奎星が眉を寄せる。

 

「じゃあ何?」

 

「だから最後まで聞けと言っている」

 

「はい」

 

 眞田はしばらく球体を見つめたあと、低い声で言った。

 

「これは、僕らの知っている術式より遥かに古い」

 

「……古い?」

 

「ああ」

 

「百年とか?」

 

「そんな単位じゃないかもしれない」

 

 奎星の表情が変わり、スズメも黙り込んだ。

 

「球体そのものがいつ作られたかは、まだ分からない。だが、内部に残っている魔法の組み方が違う。僕と烏丸が研究していた資料より、さらに古い構造をしている」

 

「…………」

 

「今ある術式を単純に古くした、という感じでもない」

 

「どういうこと?」

 

「考え方そのものが違う」

 

 眞田は指先で机を軽く叩いた。

 

「僕たちが使う魔法は、呪文、術式、魔力経路、それぞれの役割を分けて構築する」

 

「うん」

 

「これは、それらが分かれていない」

 

 スズメが目を細めた。

 

「古代魔術……」

 

「その可能性が高い」

 

 奎星は球体を見た。白灰色の表面には、何の紋様も浮かんでいない。それなのに、そこへ触れたときに見た光景だけは、今も鮮明に脳裏へ残っている。

 

「……じゃあ」

 

「何だい」

 

「分からない?」

 

 今度の声は、少しだけ小さかった。

 

 眞田はすぐには答えなかった。球体と奎星を交互に見てから、ようやく口を開く。

 

「少し時間をくれ」

 

「え」

 

 眞田は隣へ視線を移した。

 

「烏丸」

 

「はい」

 

「手伝ってくれるか?」

 

 スズメは一瞬だけ眞田を見た。

 

 かつての先輩。三年前、一緒に研究をしていた人。間違いを認められず、失ったものを取り戻すことだけに固執し、ついには彼女自身の記憶まで奪った人。

 

 それでも、スズメの返事に迷いはなかった。

 

「はい」

 

「え」

 

 奎星がスズメを見る。

 

「だ、大丈夫なの?」

 

「何がです?」

 

「いや……」

 

 奎星は眞田を見、それからまたスズメへ視線を戻した。

 

「その……研究」

 

 スズメは少しだけ目を細めた。

 

「大丈夫です」

 

「でも」

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「前にも言ったでしょう」

 

 静かな声だった。

 

「間違ったことと、積み重ねた知識は別です」

 

「…………」

 

「それに」

 

 スズメは球体へ目を向けた。

 

「私も、知りたい」

 

 その言葉だけは、研究者のものだった。

 

 奎星はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 

「……そっか」

 

「はい」

 

「じゃあ」

 

 奎星は眞田を指差した。

 

「変なことすんなよ!」

 

「君に言われるのは、かなり腹が立つな」

 

「何でだよ!」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

 真壁が扉へ向かう。

 

「私は術式解析班を呼んでくる」

 

「え」

 

「この二人だけで触らせると思うか?」

 

「信用ねえな!」

 

「君も含めてな」

 

「俺、何もしてないじゃん!」

 

 三人分の視線が奎星へ集まった。

 

 奎星は口を閉じた。

 

「触るなと言われた球体を素手で掴んだ人が何を言っているのです?」

 

「落ちそうだったんだって!」

 

「結果、記憶を見た」

 

 眞田が淡々と付け加える。

 

「うるせえ!」

 

     *

 

 十分もしないうちに、部屋の空気は完全に変わった。

 

 職員が三人、さらに二人と入ってきて、術式解析用の器具を次々に運び込む。球体を囲むように小型の観測石が配置され、机の周囲には透明な防護膜が展開された。床には臨時の記録術式まで敷かれ、先ほどまで面会室に過ぎなかった場所が、たちまち専門家たちの作業場へ変わっていく。

 

 スズメは眞田の横で紙へ術式を書き出していた。

 

「第一層、反応なし」

 

「魔力を直接入れないでください」

 

「了解」

 

「外周だけ走査します」

 

「記憶媒体だと決めつけるな。まず構造を取る」

 

「はい」

 

「烏丸、そこ」

 

「見えています」

 

「接続点が一つ多い」

 

「……いいえ」

 

 スズメの羽根筆が紙の上を滑る。

 

「これは接続ではありません。重なっています」

 

 眞田が紙を覗き込んだ。

 

「なるほど」

 

「こちらが古い層です」

 

「なら、その上に後から何かを固定した?」

 

「可能性はあります」

 

「記録」

 

「取っています」

 

 声が飛び交い、数字が空中へ浮かび、術式図が次々と増えていく。魔法具が低い音を立てるたび、球体の周囲に淡い光が走った。

 

 奎星は部屋のいちばん遠い壁際で、その様子を眺めていた。隣には真壁がいる。

 

「なんかすげえ……」

 

 奎星がぽつりと言う。

 

「そうだな」

 

「スズメちゃん、めっちゃ研究者じゃん」

 

「元々そうだ」

 

「眞田もすげえ」

 

「それも事実だ」

 

 奎星は少しだけ黙った。眞田の横顔には、かつての傲慢さとは別の集中が浮かんでいる。自分の知識を誇示するためではなく、目の前のものを理解するためだけに、彼は術式を追っていた。

 

「真壁さん」

 

「何だ」

 

「眞田のこと、嫌い?」

 

 真壁は奎星を見なかった。

 

「仕事に好き嫌いを持ち込むほど若くない」

 

「答えてなくね?」

 

「必要な知識があるなら使う」

 

「スズメちゃんと同じこと言うじゃん」

 

「似たような状況で働いているからな」

 

「大人だなぁ」

 

「君も十八で成人だろう」

 

「俺、まだ学生」

 

「便利なときだけ使うな」

 

 奎星は笑った。そして再び、忙しく動く人々へ視線を戻す。

 

 数日前まで、ただの夏休みだった。補習を受け、スズメと実家へ帰り、山へ行き、弁当を食べ、洞穴で一晩を過ごした。危うくキスをしそうになり、石像に殺されかけ、今は魔法省で古代の記憶らしき球体を解析している。

 

 自分でも、何がどうしてこうなったのか分からない。

 

「しかし」

 

 真壁が言った。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

「君も忙しい子だな」

 

「俺?」

 

「夏休みに入ってから、普通の学生が一度も遭遇しないような案件を、何件増やすつもりだ」

 

「色々気になること増えちゃって」

 

「自分から首を突っ込んでいるようにも見えるが」

 

「半分くらいは向こうから来てる!」

 

「半分は認めるのか」

 

「…………」

 

 奎星は視線を逸らした。

 

 少しして、思い出したように尋ねる。

 

「てか」

 

「何だ」

 

「お盆なのにいるんだね」

 

「いる」

 

「休まないの?」

 

「役人に休みはない」

 

「え」

 

 奎星の顔が本気で曇った。

 

「禍祓官やめとこうかな……」

 

「そもそも筆記に受かるのか?」

 

 奎星が勢いよく振り返る。

 

「ちょーい! 舐めんなよ!」

 

「法規の補習を受けていたと聞いたが」

 

「それとこれとは別!」

 

「同じだ」

 

「俺、実技なら絶対いけるし!」

 

「採用試験は実技だけではない」

 

「知ってる!」

 

「なら勉強しろ」

 

「ここにも先生いた!」

 

 真壁の口元が、ほんのわずかに動いた。

 

 奎星が不満そうに腕を組んだ、そのときだった。

 

「真壁さん」

 

 部屋の中央から、スズメの声がした。

 

 全員の動きが少しずつ止まる。

 

 眞田は球体を見たまま、静かに言った。

 

「一度、話したい」

 

     *

 

 解析に参加していた職員たちが、いったん器具から離れた。奎星と真壁が中央へ戻ると、眞田は机の上に広げられた術式図を指でなぞった。

 

「何か分かった?」

 

 奎星がすぐに訊く。

 

「少し」

 

「見れる?」

 

「ああ」

 

「マジ!?」

 

「最後まで聞け」

 

「はい!」

 

 今日は何度目か分からない言葉だった。

 

 眞田は術式図から顔を上げる。

 

「完全な復元ではない」

 

「うん」

 

「球体の中に記録されたものを、そのまま人間へ流し込むのは危険すぎる」

 

「それはやめて」

 

「最初からやらない」

 

「よかった」

 

「だから、情報を外部へ投影する形へ変換した」

 

 眞田が壁を見る。

 

「映像と音声として見ることはできる」

 

 奎星の目が大きくなる。

 

「じゃあ」

 

「ああ」

 

「朝、俺が見たやつも?」

 

「含まれている可能性が高い」

 

 幼い自分。頬をつねる手。赤ん坊。山。戦い。断片的な光景が、奎星の脳裏をよぎった。

 

「ただし」

 

 眞田の声が変わった。

 

「その前に、伝えておかなければならないことがある」

 

「何?」

 

 眞田が真壁を見る。真壁が小さく頷いた。

 

 それから眞田は、改めて奎星へ向き直った。

 

「これを見る権利があるのは、君だ」

 

「俺?」

 

「ああ」

 

「何で?」

 

「個人の記憶だからだ」

 

 奎星が黙る。

 

「全体は見ていない」

 

 眞田は慎重に言葉を選んだ。

 

「内容を復元する必要はなかった。外側の識別情報と、記憶の帰属だけを照合した」

 

「帰属……」

 

「誰の記憶か、ということです」

 

 スズメが横から補足する。

 

 奎星は彼女を見、それから再び眞田へ視線を戻した。

 

「誰?」

 

 短い沈黙のあと、眞田が答えた。

 

「これは君の祖母の記憶だ」

 

「…………」

 

 奎星は瞬きをした。

 

「祖母?」

 

「そうだ」

 

「ばあちゃんの……?」

 

「すべてを確認したわけではない」

 

 眞田は続ける。

 

「だが、帰属反応、血縁照合、君へ接触した際の受容反応。確認できた範囲では」

 

 一拍置いて、はっきりと言った。

 

「蓮根八重子さんの記憶と考えて、ほぼ間違いない」

 

「…………そっか」

 

 それだけだった。

 

 大声も出なかった。驚いているはずなのに、妙に納得している自分もいる。小さなころの自分。頬をつねった手。あの笑い声。どれも確かに知っている。身体のどこかでは、最初から知っていたような気さえした。

 

「それから」

 

 真壁が言った。

 

「個人記憶だ」

 

「うん」

 

「まして、すでに亡くなった者のものだ」

 

「…………」

 

「閲覧を許可するかどうかは、遺族である君に委ねる」

 

 奎星は球体を見た。白灰色の表面は、何も語らずに沈黙している。

 

「見る」

 

 すぐに答えた。

 

「分かった」

 

 真壁が周囲の職員へ目を向ける。

 

「全員、一度退室」

 

 職員たちは器具を最低限の状態へ固定し、順番に部屋を出ていった。眞田も椅子から立ち上がる。

 

「僕も出る」

 

「え」

 

「再生操作は外からできる」

 

「…………」

 

 眞田は奎星を見る。

 

「君の家族の記憶だ」

 

 それだけ言って、扉へ向かった。真壁も続く。

 

「何かあればすぐ止める。異常を感じたら声を出せ」

 

「分かった」

 

 やがて部屋に残ったのは、奎星とスズメだけになった。

 

 スズメも立ち上がる。

 

「では、私も」

 

 その腕が動いた。

 

 奎星の手が、スズメの手首を掴んでいた。

 

「……蓮根君?」

 

 自分でも、ほとんど考えていなかった。ただ、行ってほしくなかった。

 

「スズメちゃんには」

 

 奎星は少し俯いた。

 

「いてほしい」

 

 スズメが黙る。

 

「一人で見るの」

 

 奎星は壁を見たまま続けた。

 

「なんか……嫌だ」

 

 スズメは、自分の手首を掴んでいる奎星の手を見た。それから、ゆっくりと彼の顔へ視線を戻す。

 

「……分かりました」

 

 奎星の指から、少しだけ力が抜けた。

 

「ありがと」

 

「はい」

 

 二人は並んで壁の前に立った。部屋の照明が落ち、最後に残った淡い光が、壁一面へ静かに広がっていく。

 

     *

 

 最初に映ったのは、空だった。

 

 青く、高い空。視線は低く、周囲の草がやけに大きく見える。風が吹くたび、草の穂が波のように揺れ、その向こうから誰かの手が伸びてきた。

 

『八重子』

 

 男の声だった。

 

 幼い視線が上を向く。そこにいたのは、奎星の知らない男だった。けれど、幼い少女へ向ける表情には、明らかな親しさがある。

 

「……俺のひいじいちゃん?」

 

 奎星が小さく呟く。

 

「断定はできません」

 

 スズメも小声で返した。

 

 男は少女の前にしゃがみ、目線を合わせる。

 

『よく聞きなさい』

 

 幼い八重子が、じっと男を見つめている。

 

『私たち蓮根と、神代の家は、ずっと昔から対立している』

 

『ずっと?』

 

『ずっとだ』

 

『なんで?』

 

 男はすぐには答えなかった。遠くで鬼火鳥が鳴き、青白い炎をまとった影が巨大な榊の枝から飛び立っていく。

 

『いつか、お前も知る』

 

 そこで映像が揺れた。

 

     *

 

 季節が変わっていく。

 

 春の淡い風が吹き、夏の陽射しが村を照らし、秋の落ち葉が道を埋め、冬の白い息が家々の軒先に漂う。そのたびに少女の視線は少しずつ高くなり、身体も成長していった。

 

 八重子は小萱村の中を走っていた。田畑の間を抜け、子どもたちと笑い、川へ足を入れ、泥だらけになって家へ戻る。村人に叱られ、別の大人から菓子をもらい、鬼火鳥の羽根を拾い、怪我をした一羽へ恐る恐る手を伸ばす。

 

 そして、神代榊の下で眠る。

 

 奎星は何も言えなかった。そこに映っているのは、知っている景色だった。

 

「小萱……」

 

「はい」

 

 スズメも壁から目を離さない。

 

 奎星が幕末に見た小萱より、少しだけ時代は進んでいる。家の形も服装も違う。それでも、山の形は同じだった。畑の位置も、石の多い土地も、神代榊の巨木も変わらない。

 

     *

 

 また時間が飛んだ。

 

 今度は、両手が大きくなっていた。少女ではない。若い女性の手だった。その前に、一人の老人が立っている。老人は細長い箱を抱えていた。

 

『八重子』

 

『何?』

 

『これは、お前が持ちなさい』

 

 箱が開く。

 

 奎星の息が止まった。

 

「……神代榊」

 

 そこにあったのは、今、奎星の腰に差しているものと同じ杖だった。まだ傷は少ない。けれど、木目も、握り手も、炎を思わせる彫刻も、間違いようがない。

 

『これ、うちの?』

 

『そうだ』

 

 老人の指が杖をなぞる。

 

『先祖代々、受け継がれてきた』

 

『古いねえ』

 

『古いどころじゃない』

 

 男がわずかに笑った。

 

『何人もの魔法使いが、これを使っている』

 

 杖が光へかざされる。

 

 その瞬間、表面だけではない何かが映像として浮かび上がった。幾重もの魔力の跡が、赤、青、金、白と重なっている。使った人間ごとに異なる魔法の残滓が、年輪のように層を作っていた。

 

「こんな……」

 

 スズメが思わず声を漏らす。

 

 老人が、その中心を指す。

 

『ただ』

 

 さらに奥。最も深い層だけは、色が違っていた。淡く、青白い。

 

『これだけは、私たちにも分からない』

 

『何が?』

 

『魔法だ』

 

 老人は言った。

 

『一番内側に、知らない魔法が残っている』

 

『先祖のじゃないの?』

 

『それが分からん』

 

 八重子の手が神代榊を握る。

 

 奎星は自身の杖に触れた。きっとこの杖にも、八重子と清弦の層が残っているのだろう。

 

     *

 

 映像が激しく揺れた。

 

 爆発音が響き、土が弾け、木々が大きく揺れる。八重子の手には神代榊が握られていた。

 

『そこを退きなさい!』

 

 若い女の声が、煙の向こうから飛んでくる。

 

 煙が晴れ、その姿が現れた。

 

 長い黒髪。白い肌。若い顔立ち。今より遥かに若い。それでも、その目だけは同じだった。

 

 奎星の身体が固まる。

 

「……神代」

 

 スズメの表情も変わった。

 

 神代冥司。

 

 間違えようがない。奎星たちが何度も戦い、学校を奪われ、最後には霊脈そのものを支配しようとした男。その男が、何十年も前の八重子の記憶の中に立っている。

 

『相変わらずですね、蓮根八重子』

 

 若い神代が微笑む。

 

『うるさいねえ』

 

 まだ若い。それなのに、その言い方だけは奎星の知っている祖母と同じだった。

 

『あんたもしつこいんだよ』

 

 神代の杖が上がる。

 

 八重子も神代榊を構えた。

 

 次の瞬間、二つの光が激突した。

 

     *

 

 一度ではなかった。

 

 場所を変え、季節を変え、二人は何度も争っていた。山、町、林、古い石造りの建物。神代は何かを求め、八重子はそれを拒む。神代は力を集めようとし、八重子は決して渡さない。

 

 会話のすべてが残っているわけではない。記憶が途切れているのか、球体そのものが重要な部分だけを拾っているのかも分からなかった。

 

 ただ一つ、二人が長いあいだ敵対していたことだけは疑いようがなかった。

 

     *

 

 やがて、小萱村に人が集まっていた。

 

 荷物を抱える者。子どもの手を引く者。家の前で、最後に振り返る老人。誰も笑っていない。

 

『本当にいいのかい』

 

 誰かが八重子へ訊いた。

 

 八重子は村を見渡した。小さな家、畑、石垣、川、そして神代榊。

 

『ここにいたら、また巻き込まれる』

 

『もう十分だよ』

 

『でも』

 

『場所は無くならない』

 

 八重子は山の下へ視線を向けた。

 

『生きてりゃ、また来られる』

 

 その日、小萱の人々は山を降りた。一人、また一人と、何十年、何百年と続いてきた村から人がいなくなっていく。

 

 最後に残った八重子が、神代榊の前へ立った。

 

 古びた一冊の書物を開く。

 

「……これ」

 

 奎星が身を乗り出した。

 

 古い文字。古い術式。見覚えがある。幕末で、あの男が何度も紙へ書いていた文字だった。

 

 蓮根清弦。

 

『こんなのまで残してたのかい』

 

 八重子が小さく笑う。

 

 頁の端に、古い名が残っていた。

 

 ――清弦。

 

 奎星の喉が鳴る。

 

「清弦……」

 

 スズメが息を呑んだ。

 

 百年以上前、帰る直前に、奎星自身が清弦へ言った。古代魔術を残せ。失くすな。スズメが好きだから。魔法史の先生だから。あのときは半分冗談のような会話だった。

 

 なのに、残っていた。

 

 八重子の指が、古い術式を辿る。

 

『道はある』

 

 静かな声だった。

 

『でも』

 

 神代榊を地面へ向ける。

 

『見つけなくていい』

 

 魔力が広がった。

 

 地面へ、木々へ、岩へ、山道へ。神代榊の根元から幾重もの古い線が谷全体へ染み込んでいく。

 

 道そのものが消えたわけではない。そこにある。けれど、視線が外れ、足が違う方へ向く。正しい道を前にしても、なぜか別の道のほうが自然に思えてしまう。

 

 スズメが小さく呟いた。

 

「……道から人を逸らす」

 

 奎星も理解した。

 

「あれ……」

 

 自分たちが山で何度も引き返させられた魔法。

 

 八重子だった。

 

 小萱村を人の目から隠したのは、祖母だった。

 

     *

 

 また時間が流れた。

 

 八重子は、少し年を取っていた。机の上には古い家系記録が広がっている。神代。蓮根。二つの名と、何代にもわたる争いの記録。衝突、負傷、封印、術式。積み重なった因縁が、紙の上で乾いた傷跡のように連なっていた。

 

『……馬鹿馬鹿しい』

 

 八重子が呟き、頁を閉じる。

 

『いつまでやるんだい』

 

 返事はない。

 

『どっちかの血が絶えるまでかい』

 

 八重子の手が、自分の腹へ触れた。

 

 丸く膨らんでいる。

 

 奎星の目が止まった。

 

「……母さん?」

 

 スズメは答えなかった。

 

 八重子はしばらく、自分の腹を見つめていた。

 

『あんたには』

 

 その声は優しかった。

 

『関係ないよ』

 

 机の上へ、古い術式書が開かれる。清弦の名が残された頁とは違う、さらに古い術式だった。文字というより、形そのものに近い。

 

 八重子がゆっくりと息を吸い、両手を腹へ添える。

 

『内にあるものは、内に』

 

 淡い光が灯った。

 

『流れは生きよ』

 

 八重子の身体の中で、小さな魔力が揺れている。まだ生まれていない命。その中にも、確かに何かがあった。

 

『されど』

 

 青白い光が広がる。

 

『外へ至る道は閉じよ』

 

 奎星の身体が強張った。

 

 光は胎児の周囲を包んだ。消しているのではない。押し潰しているのでもない。内側にある魔力は、そのまま残っている。ただ、身体の外へ、杖へ、世界へ、魔法として放たれるはずの道だけが閉じていく。

 

 薄い膜のようなものが形成され、その表面に青白い線が走った。枝分かれする光の紋様は、掌から手首へ伸びるものとよく似ている。

 

「……これ」

 

 奎星が自分の右手を見る。

 

「同じ……」

 

 昨日、球体へ触れた瞬間に掌から走った光。第零書庫で自分の身体を覆った光。その形が、映像の中の術式と重なっていた。

 

 スズメも息を呑んでいる。

 

 映像の中で、八重子は腹を撫でた。

 

『これでいい』

 

     *

 

 赤ん坊の泣き声が響いた。

 

 朝、球体へ触れたときに見たものだった。小さな女の子が八重子の腕の中で泣いている。柔らかな頬。小さな手。八重子がその指へ自分の指を差し出すと、赤ん坊はぎゅっと握った。

 

 八重子は、何かを確かめるように、しばらく娘を見つめていた。

 

 魔力反応はない。身体の外へ漏れ出すものもない。

 

 やがて、八重子の声が震えた。

 

『……よかった』

 

 安堵だった。

 

『ちゃんと、閉じてる』

 

 赤ん坊が小さく声を上げる。

 

『あんたは』

 

 八重子が笑う。

 

『普通に生きていいんだよ』

 

 奎星は何も言えなかった。

 

 以前、八重子は言っていた。娘に魔力が出なかったと分かったとき、少し安心したのだと。背負わせたくなかったのだと。

 

 あれは偶然ではなかった。

 

 八重子自身が、そうしたのだ。

 

     *

 

 さらに年月が流れた。

 

 八重子の手には皺が増えていた。家の中には夕方の光が差し込み、古い木の床に細長い影を落としている。

 

 玄関が開いた。

 

 ゆっくりと足音が近づいてくる。

 

 そこに現れた男を見て、奎星の背筋がわずかに固くなった。

 

 神代冥司。

 

 老いていた。髪には白いものが増えている。それでも顔は異様なほど若い。時間だけを拒絶しているような、不自然な姿だった。

 

『久しぶりですね』

 

『……まだ生きてたのかい』

 

 八重子が言う。

 

 神代はわずかに笑った。

 

『あなたも』

 

『私はちゃんと老いてるよ』

 

 二人の間に、昔のような殺気はなかった。けれど、親しさもない。長いあいだ互いを見張り続け、戦い続け、もう戦う理由さえ擦り切れかけたような、冷たい静けさだけが残っていた。

 

 神代が八重子を見る。

 

『力を』

 

 一拍置いて、続ける。

 

『私に任せる気は、ないのですか』

 

 八重子は鼻で笑った。

 

『もう、そんな力も出す元気もないよ』

 

『…………』

 

『娘も、力はなかった』

 

 神代の目がわずかに動く。

 

『………そうですか』

 

 八重子はしばらく神代を見つめた。それから、静かに尋ねる。

 

『あんたは』

 

『何です?』

 

『子供を残さないのかい』

 

 初めて、神代の笑みが消えた。

 

『必要ありません』

 

『そうかい』

 

『この世界は』

 

 神代が窓の外を見る。

 

『私が管理しなければならない』

 

『…………』

 

『私の子供であっても、任せられない』

 

 静かな声だった。そこには何の迷いもない。

 

『私は』

 

 黒い瞳が八重子へ戻る。

 

『まだ死ねない』

 

 八重子は、しばらく何も言わなかった。

 

『……そうかい』

 

 それだけだった。

 

 一人は、自分のあとへ命を繋ぐことを選んだ。力を断ち切ってでも、次の世代を自由に生かそうとした。

 

 もう一人は、自分以外へ何も任せず、自分自身が残り続けることを選んだ。

 

     *

 

 時間が、また流れた。

 

 室内に昼の光が満ちている。誰かが赤ん坊を八重子へ渡した。

 

『お母さん、気をつけてよ』

 

『分かってるよ』

 

 その声に、奎星の肩が動いた。

 

「母さん……」

 

 若い。けれど、間違いない。八重子の娘であり、奎星の母親だった。

 

 八重子の腕の中に、小さな赤ん坊が収まる。男の子。丸い頬、閉じた目、小さな手。

 

 八重子は、その顔を長い時間見つめていた。

 

 赤ん坊が目を開き、八重子の指を握る。

 

 その瞬間、八重子の息が止まった。

 

『そうかい……』

 

 ひどく優しい声だった。

 

『あんたが……』

 

 映像の前で、奎星は動けなかった。

 

 朝見た記憶。

 

 あの赤ん坊は、自分だった。

 

     *

 

 場面が変わった。

 

 見慣れた場所だった。けれど、今より少し古い。

 

 マホウトコロの校舎。その一室で、八重子は細長い箱を机の上へ置いた。

 

 向かいにいる人物を見て、奎星の目が見開かれる。

 

「校長先生……?」

 

 九重院紫苑だった。

 

 今より少し若い。けれど、背筋の伸びた姿勢も、静かな目も変わらない。

 

 九重院が箱を見る。

 

『これは』

 

『頼みがある』

 

 八重子が箱を開く。

 

 神代榊。

 

 九重院の目がわずかに動いた。

 

『私の娘は、魔法が覚醒しなかった』

 

『…………』

 

『でも』

 

 八重子は杖へ手を添える。

 

『孫までは分からない』

 

『お孫さん』

 

『奎星っていう』

 

 壁の前で、奎星の喉がわずかに鳴った。

 

『あの子に魔法の覚醒が起きたら』

 

 八重子は九重院を見る。

 

『これを渡してやってくれ』

 

『蓮根さん……』

 

『私から渡したら、あの子は余計なものまで背負う』

 

『…………』

 

『だから』

 

 八重子が少し笑った。

 

『あんただから任せるんだよ』

 

 九重院は、長いあいだ神代榊を見つめていた。それから両手で、静かに箱を受け取る。

 

『……ありがとうございます』

 

 八重子の視線が上がる。

 

 九重院は真っ直ぐに言った。

 

『あなたのお孫さんは』

 

 一拍置いて、続ける。

 

『私が、必ず守ります』

 

 奎星は目を伏せた。

 

 入学した日、何も知らない自分へ九重院が差し出した杖。

 

 ――新品ではありません。

 

 あの言葉。

 

 誰が使っていたのか訊いても、教えてくれなかった。

 

 あの日から、すべては始まっていたのだ。

 

     *

 

 最後の景色は、森だった。

 

 八重子は一人で歩いている。神代榊は、もう持っていない。手には杖をつき、足取りも昔ほど強くはない。それでも、道に迷うことはなかった。

 

 誰も見つけられないはずの山道を、八重子はまっすぐ進んでいく。

 

 神代榊の巨木。

 

 その根元。

 

 苔に覆われた石。

 

 そして、地下へ続く入口。

 

「……あそこだ」

 

 奎星が呟いた。

 

 自分たちが迷い込み、石像と戦い、逃げ回った、あの地下要塞。けれど八重子は迷わない。

 

 石扉が静かに開く。

 

 八重子は中へ入り、保管庫を抜け、さらに奥へ進んでいく。やがて、見覚えのある小さな石室へ辿り着いた。

 

 中央の石台。

 

 八重子の手には、白灰色の球体があった。

 

 今、魔法省の机の上に置かれているものと同じだった。

 

 八重子は球体を石台へ置き、両手を離した。長い息を吐く。それから、まるでいつかここへ辿り着く誰かがいることを知っていたように、球体へ向かって話しかけた。

 

『奎星』

 

 奎星の身体が止まる。

 

 八重子の声。

 

 何度も聞いた声だった。小さいころから聞いていた声。死んだあとに会った、あの場所でも聞いた声。

 

 同じ声だった。

 

『これを見てるなら』

 

 八重子は、少しだけ笑っている。

 

『たどり着いたってことだね』

 

 奎星の目が揺れた。

 

『自分のやりたいことに』

 

 そこで、映像は途切れた。

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