マホウトコロ   作:西野圭吾

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第12話 神代榊の杖

 空木宗玄は、奎星から神代榊を受け取ると、すぐには何も言わなかった。以前と同じように、まず柄を眺め、木目へ爪を滑らせ、杖先を夕方の光へかざす。けれど、前回とは違い、今度はそのまま作業台へ向かった。

 

「八重子さんの記憶では、この杖には使用者ごとの魔力の残滓が、層のように残っていました」

 

 スズメが説明すると、空木は鼻を鳴らした。

 

「層ねえ。杖を長く使ってりゃ、持ち主の魔力が残ること自体は珍しくねえ」

 

「見られますか?」

 

「普通の杖なら、ここまで古いもんを一枚ずつ見る必要もねえんだがな」

 

 そう言いながら、空木は作業台の下へ手を入れた。何かを探す音が、木の床に低く響く。その横では、例の猫が丸くなって眠っていた。

 

「店主」

 

「にゃあ」

 

「今日もいるな」

 

「住んでいるのでしょう」

 

「家賃払ってんのかな」

 

「知りません」

 

「払ってるぞ」

 

 作業台の下から空木の声が返ってきた。

 

「マジで!?」

 

「鼠を取る」

 

「現物支給!」

 

「うるせえ」

 

 空木が立ち上がる。その手には、以前使った細い銀製の器具とは別の観測器具が握られていた。円形の金具に薄い硝子板がはめ込まれ、その奥には何枚もの透明な鉱石片が重ねられている。持ち手から伸びた細い銀線の先には、指輪ほどの輪がついていた。

 

「何それ」

 

「杖の残留魔力を見る道具だ」

 

「名前は?」

 

「聞いてどうする」

 

「前にスズメちゃんから、道具の名前くらい覚えろって怒られたから」

 

 スズメが横目で奎星を見る。

 

「怒ってはいません」

 

「注意された」

 

「それなら合っています」

 

 空木は面倒そうに息を吐いた。

 

「残留魔力分光鏡」

 

「…………」

 

「覚えたか?」

 

「残留……」

 

「もういい」

 

「早い!」

 

 空木は神代榊を細い木製の台へ固定した。杖には直接器具を当てず、銀の輪だけを根元へ通す。そこからゆっくりと杖先へ向かって輪を滑らせていくと、そのたびに薄い硝子板の中へ色が浮かび上がった。

 

 赤、淡い金、紫、白。いくつもの色が、古い木の年輪のように重なっている。

 

「おお……本当にある」

 

 奎星が身を乗り出す。

 

「触るなよ」

 

「触んないって」

 

「昨日、触るなと言われた球を掴んだそうじゃねえか」

 

「何で知ってんの!?」

 

「嬢ちゃんが入ってきたとき言ってた」

 

「言いました」

 

「スズメちゃん!」

 

「事実です」

 

 奎星は口を尖らせたが、空木は二人を無視して作業を続けた。

 

「こいつが後から使った奴。こっちがその前だ」

 

 硝子の中に浮かぶ色を、空木は順番に指で示していく。

 

「使用期間が長い奴ほど濃い。強い魔法を何度も通した奴もな」

 

「誰か分かる?」

 

「名前までは無理だ」

 

「そっか」

 

「ただ、魔力には癖がある」

 

「癖?」

 

「指紋みてえなもんだ。完全に同じ魔力を持つ人間はいねえ」

 

 スズメが頷いた。

 

「魔力波形ですね」

 

「学者はそう呼ぶな」

 

「じゃあ」

 

 奎星は杖へ視線を落とした。

 

「ばあちゃんとか清弦のも?」

 

「残ってる可能性は高い」

 

「おお……」

 

 清弦が使い、その子孫たちが使い、八重子が使った。何人もの魔法使いの手を渡ってきた時間が、一本の杖の内側へ積み重なっている。

 

 奎星は、いつも腰に差している神代榊を見る目を、少しだけ変えた。戦うときも、授業のときも、困ったときも、腹を立てたときも、何度となく握ってきた杖。その内側には、自分の知らない人生がいくつも残っている。

 

「一番内側」

 

 スズメが言った。

 

「そこを見られますか?」

 

「ああ」

 

 空木の顔から、少しずつ軽さが消えていった。銀の輪を杖の握り手近くへ戻し、今度は硝子板を一枚ではなく三枚重ねる。光の角度を変え、さらに別の細い器具を取り出して、杖へ触れないぎりぎりのところまで近づけた。

 

 きぃん、と微かな音がした。金属とも硝子ともつかない、高く澄んだ音だった。

 

 硝子板の中で、いくつもの色が薄れていく。一つ、また一つと外側の層が透け、その奥から、より古いものが姿を現していく。

 

 空木は黙ったまま、器具の角度を変えた。さらに一枚、また一枚と層が剥がれていく。スズメも息を止めるようにして、その様子を見つめていた。

 

 そして、ほとんど杖の芯材と接するほど内側に、淡い光が現れた。

 

 青白い光だった。

 

「これです」

 

 スズメの声が僅かに低くなる。

 

「八重子さんの記憶にあったものと同じです」

 

 空木は返事をしなかった。ただ青白い光を見つめ、眉を寄せる。もう一度器具を調整し、神代榊の向きを変え、別の角度から光を覗き込んだ。

 

「空木さん?」

 

 スズメが声をかけても、返事はない。

 

 やがて空木は突然、作業台から離れた。

 

「坊主」

 

「何?」

 

「手ぇ出せ」

 

「え」

 

「いいから」

 

 奎星が右手を差し出すと、空木は小さな透明の石をその掌へ載せた。

 

「魔力だけ流せ」

 

「魔法撃たなくていい?」

 

「撃つな。店壊す気か」

 

「俺、そんな壊さないって」

 

 スズメが奎星を見る。

 

「昨日、石像を三体壊しました」

 

「地下でね!?」

 

「場所の問題ではありません」

 

「早くしろ」

 

「はい」

 

 奎星は透明な石を握り、ほんの僅かに魔力を流した。石の中央へ青白い筋が走る。空木はそれを別の硝子板へ当て、神代榊の最内層と奎星の現在の魔力を並べて見比べた。

 

 奎星とスズメは黙って待った。空木の目が細くなる。一秒、二秒、三秒。やがて、その肩が小さく揺れた。

 

「……く」

 

「え?」

 

「くくっ」

 

 奎星が瞬きをする。空木は額へ手を当て、次の瞬間、堪えきれないように声を上げて笑い始めた。

 

「はっはっはっは!」

 

「ええ!?」

 

「空木さん?」

 

「いや!」

 

 空木はまだ笑っている。

 

「こりゃあ駄目だ!」

 

「何が!?」

 

「余計、謎が増えちまったよ!」

 

「だから何なのです」

 

 スズメの声が少し強くなる。

 

「説明してください」

 

「悪い悪い」

 

 空木は目元を拭った。

 

「長いこと杖を見てきたが、こんなのは初めてだ」

 

「何?」

 

 空木は硝子板を奎星へ向けた。そこには、先ほどの青白い光が浮かんでいる。

 

「この杖の一番内側に残ってる魔力」

 

「うん」

 

「これな」

 

 空木は一拍置いた。

 

「坊主の魔力と同じだぞ」

 

 奎星が固まった。

 

「…………俺?」

 

「お前だ」

 

「…………」

 

「ほぼ間違いねえ」

 

 スズメが一歩前へ出る。

 

「待ってください」

 

「ああ」

 

「蓮根君がこの杖を使い始めたのは、一年前です」

 

「知ってる」

 

「なら」

 

 スズメは神代榊へ視線を落とした。

 

「彼の魔力が残るなら、一番外側になるはずです」

 

「普通ならな」

 

「ですが、これは」

 

「一番内側だ」

 

 空木が笑う。

 

「しかも、外側にも坊主の魔力がある」

 

 奎星はさらに混乱した。

 

「二人いる!?」

 

「蓮根君は一人です」

 

「いや、だって!」

 

「今使ってる分が外側に残ってる」

 

 空木は硝子板を指で叩いた。

 

「こっちは去年から今までのものだ」

 

「うん」

 

「問題はこっちだ」

 

 空木が示したのは、一番深い青白い層だった。

 

「こいつは、この杖がほとんど新品だった頃についた」

 

「…………」

 

「もっと言えば」

 

 空木は少し楽しそうに奎星を見る。

 

「事実だけ並べるなら」

 

 スズメも息を止めた。

 

「この杖を最初に使った魔法使いは」

 

 空木は奎星を指差した。

 

「お前だ」

 

 店の中が静まり返った。猫が毛繕いをする音と、外を誰かが歩いていく足音だけが聞こえる。遠くでは、小さな風鈴が風に揺れていた。

 

「…………は?」

 

 ようやく奎星が声を出した。スズメも珍しく、完全に言葉を失っている。

 

「そんな馬鹿な話……」

 

「あっ!!!」

 

 奎星が突然叫んだ。猫が飛び上がり、「にゃっ」と短く鳴く。

 

「蓮根君!?」

 

「そうだ!!」

 

「何です!?」

 

「俺だ!!!」

 

「何がです!」

 

 奎星は両手で頭を抱えた。

 

「俺じゃん!!」

 

 空木が怪訝そうな顔をする。

 

「何を納得してんだ」

 

「ちょっと待って!」

 

 奎星の頭の中で、百五十年以上前の光景が一気に蘇った。

 

 小萱村。平坂の家。納屋の作業台。鬼火鳥が落としていった青白い尾羽。神代榊の木。そして、夕暮れの中で完成したばかりの一本の杖。

 

『一度だけだ』

 

 清弦は嫌そうな顔をしながら、新しい杖を奎星へ渡した。

 

『傷つけるな』

 

『分かってるって』

 

『貴様の「分かっている」は』

 

「信用できないって言うな!』

 

 奎星は笑いながら、その新品の杖を握った。清弦には、未来から持ってきた古い神代榊を持たせた。二本の同じ杖が、夕暮れの小萱で向かい合う。片方は百五十年以上の時間を積み重ねた杖で、もう片方は、まだ何も積み重ねていない生まれたばかりの杖だった。

 

 そして、最初に魔法を通したのは奎星だった。

 

「エクスペリアームス……」

 

 奎星が呟く。

 

「何です?」

 

 スズメが見る。

 

「俺」

 

 奎星は神代榊を指差した。

 

「使った」

 

「…………」

 

「清弦の新しい杖」

 

 スズメの目が、少しずつ大きくなる。

 

「できた日に」

 

「まさか」

 

「俺が最初に撃った」

 

 奎星の声まで上ずってきた。

 

「清弦じゃない!」

 

 記憶の中で、赤い光が弾ける。《エクスペリアームス》によって、清弦の手から未来の神代榊が弾き飛ばされた。そのとき奎星の手の中にあったのは、出来上がったばかりの新しい神代榊だった。

 

 あの瞬間、確かに、初めて魔力を通した。

 

「……俺じゃん」

 

 今度は呆然と呟いた。

 

 空木が腕を組む。

 

「だから何で納得してんだ」

 

「いや」

 

 奎星が顔を上げる。

 

「俺、ちょっと前に幕末まで行っててさ」

 

 空木の顔から表情が消えた。

 

「幕末」

 

「うん」

 

「まで」

 

「行った」

 

「…………」

 

 空木はゆっくりとスズメを見る。

 

「嬢ちゃん」

 

「はい」

 

「こいつ大丈夫か?」

 

 スズメは一瞬だけ目を伏せ、少し困ったように笑った。

 

「まあ」

 

「まあって何!?」

 

「説明すると長くなります」

 

「長くても説明した方がいいんじゃねえか!?」

 

「昨日からの話も必要になります」

 

「確かに長い!」

 

「地下施設からになりますので」

 

「その前の小萱からじゃね?」

 

「では、さらに長いです」

 

 空木はしばらく二人を交互に見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

 

「……まあいい」

 

「信じるの?」

 

「信じる信じねえは別だ」

 

 空木は神代榊を見る。

 

「杖は嘘つかねえ」

 

 奎星も黙った。

 

「これの一番古い魔力が坊主のものだってのは、見りゃ分かる」

 

「…………」

 

「それに」

 

 空木の口元がまた上がる。

 

「もし本当に、出来上がったその日にお前が最初に魔法を通したってんなら」

 

「うん」

 

「全部辻褄は合う」

 

 空木は神代榊を持ち上げた。夕日の中で、古い木肌が僅かに光る。

 

「杖ってのはな」

 

「うん」

 

「持ち主を覚える」

 

「覚える?」

 

「ああ」

 

「杖に頭あるの?」

 

「そういう意味じゃねえ」

 

「だよね」

 

「だが、長く魔法を通せば、術者の魔力の癖が残る」

 

 空木は自分の指を曲げた。

 

「強い魔法。何度も使った術式。持ち方。魔力を入れる速さ。迷い方まで残ることがある」

 

「迷い方?」

 

「杖を振る寸前、人間ってのは思ってる以上に色んなことをしてる。杖は、それを全部通される」

 

 空木は神代榊の柄を軽く叩いた。

 

「だから古い杖は、新しい持ち主に馴染みにくいこともある」

 

「前の人の癖があるから?」

 

「そうだ」

 

「じゃあ」

 

 奎星は神代榊を見る。

 

 入学した日、九重院紫苑に渡された古い杖。新品ではないと言われた。誰が使っていたものなのかも分からなかった。それなのに、握った瞬間から妙に馴染んだ。初めて持ったはずなのに、初めてではないような感覚があった。

 

「……最初から」

 

 奎星が呟く。

 

「俺のこと知ってた?」

 

「そうなるな」

 

 空木は神代榊を奎星へ差し出した。

 

「お前にとっては初めてでも、こいつにとっては」

 

 一拍置いて、空木は言った。

 

「久しぶりだったってことだ」

 

 奎星は動かなかった。

 

 差し出された杖。何百回、何千回と握った柄。今ではもう、手のどこへ当たるかまで考えなくても分かる。その杖が、自分が生まれるより前から、八重子より前から、何代もの蓮根家の人間より前から、自分を知っていた。

 

「…………やば」

 

 ようやく、それだけ言った。

 

「語彙」

 

 スズメが言う。

 

「いや、やばいって!」

 

「もう少し何かあるでしょう」

 

「だって」

 

 奎星は神代榊を受け取った。

 

「百五十年ずっと俺のこと覚えてたってこと!?」

 

「ずっと考えてたわけじゃねえぞ」

 

 空木が言う。

 

「分かってるよ!」

 

「杖に人格があるみたいに言うからだ」

 

「でも覚えてたんだろ?」

 

「痕跡としてな」

 

 奎星は杖を握った。親指、人差し指、小指。いつもの感触が、自然に手の中へ収まる。

 

 そのとき、ふと奎星の顔から笑みが消えた。

 

「……待って」

 

「何です?」

 

 スズメが見る。

 

 奎星は杖を見たままだった。

 

「杖って、使った人の記憶とかも残るの?」

 

「記憶そのもの、とは言わねえ」

 

「でも」

 

「経験の痕跡が残ることはある」

 

 空木は答えた。

 

「特に古い杖はな。何十年、何百年と魔力を通してりゃ、術者がどういう魔法を好んだか、どういう状況で使ったか、その癖が積み重なる」

 

「…………」

 

「人間の記憶みてえに映像が入ってるわけじゃねえ」

 

「うん」

 

「だが」

 

 空木は神代榊を見る。

 

「身体が覚える、って言うだろ。杖にも似たもんはある」

 

 奎星の指が止まった。スズメも、その変化に気づく。

 

「蓮根君?」

 

「俺さ」

 

「はい」

 

「六月」

 

 低い声だった。

 

「何度も時間、戻ったじゃん」

 

 スズメの表情が変わる。空木は事情を知らないため、眉を寄せた。

 

「時間?」

 

「逆転時計です」

 

 スズメが短く説明する。

 

「一日を繰り返す魔法具の影響を、蓮根君だけが少しずつ記憶していました」

 

「完全にじゃないけど」

 

 奎星が続ける。

 

「最初は忘れてんの」

 

「…………」

 

「でも、何回もやってるうちに」

 

 奎星は神代榊を握り直した。

 

「思い出す」

 

 後藤。六月十五日。魔法省。失敗。やり直し。戻るたび、記憶は沈んだ。全部を持って帰れたわけではない。それでも、身体は覚えていた。戦い方を、人を、何かがおかしいという感覚を。

 

「……もしかして」

 

 奎星は神代榊へ目を落とした。

 

「お前だったの?」

 

 スズメは何も言わなかった。空木も、ただ奎星を見ている。

 

「俺が忘れてても」

 

 奎星は神代榊へ話しかけるように言った。

 

「お前が、俺のこと覚えてて」

 

 もちろん、杖は答えない。

 

「思い出させてくれてたのか……?」

 

 神代榊は沈黙したままだった。ただ、奎星の手の中で、木は僅かに温かかった。

 

 空木が腕を組む。

 

「そこまでは分からん」

 

「うん」

 

「時間を巻き戻す魔法なんざ、俺は専門外だ」

 

「うん」

 

「ただ」

 

 空木は奎星を見る。

 

「あり得ねえ話だとは言い切れんな」

 

 奎星が顔を上げる。

 

「この杖の一番深いところには、百五十年以上前のお前の魔力がある」

 

「…………」

 

「時間を戻されても消えねえ、ずっと昔のお前の痕跡だ」

 

 スズメの目が僅かに動いた。

 

「一種の基準点……」

 

「何?」

 

「もし」

 

 スズメは神代榊を見つめた。

 

「時間が戻るたびに、蓮根君自身の記憶が曖昧になったとしても、この杖の最深部には常に『蓮根奎星』の魔力が存在していた」

 

「…………」

 

「それが、あなた自身の魔力と共鳴していたのなら」

 

「思い出すきっかけに?」

 

「可能性はあります」

 

 スズメはすぐに付け加えた。

 

「ですが、断定はできません」

 

「分かってる」

 

 今度の奎星は、すぐに頷いた。

 

 そして、杖を見下ろした。

 

 自分はずっと、この杖を先祖から受け継いだものだと思っていた。清弦の杖。蓮根家の杖。八重子の杖。それを、自分が最後に受け取ったのだと思っていた。

 

 それは間違っていない。

 

 けれど、それだけでもなかった。

 

 百五十年以上前、この杖へ最初に魔力を流したのは自分だった。先祖から受け取ったはずのものを、先祖より先に、自分が使っていたのだ。

 

「変なの」

 

 奎星が笑った。

 

「何がです?」

 

「俺さ」

 

 杖を軽く持ち上げる。

 

「ずっと、清弦の杖借りてる気してた」

 

「…………」

 

「でも、最初に使ったの俺なんだ」

 

 スズメは奎星を見ていた。何かが、ようやく彼自身の中へ収まっていくように見えた。

 

 第零書庫がなぜ彼を受け入れたのか。なぜ神代榊が最初から彼の手に馴染んだのか。なぜ、この杖だけが何度も青白い光で彼へ応えたのか。すべてが解けたわけではない。むしろ、謎は増えている。

 

 けれど、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。

 

 奎星はもう、誰かに選ばれただけの人間ではない。先祖の力を偶然受け取っただけでもない。自分自身が過去へ行き、自分自身で杖を握り、自分自身の魔法を最初にそこへ刻んだ。その積み重ねが巡り巡って、未来の自分へ返ってきたのだ。

 

 スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「何?」

 

 奎星が気づく。

 

「いいえ」

 

「今笑った?」

 

「笑っていません」

 

「絶対笑った」

 

「気のせいです」

 

「最近それ多くない?」

 

「何がです?」

 

「誤魔化すとき」

 

「気のせいです」

 

「ほら!」

 

 空木が大きく息を吐いた。

 

「用が済んだなら帰れ」

 

「え、冷た!」

 

「こっちは今から、この訳の分からん結果を記録すんだ」

 

「空木さんも調べる?」

 

「調べる」

 

「めっちゃ気になってんじゃん」

 

「職人だからな」

 

「スズメちゃんと同じ」

 

「誰がです?」

 

「気になると止まらない」

 

「蓮根君に言われたくありません」

 

「何で!?」

 

「一昨日からの自分の行動を思い出してください」

 

「調査です!」

 

「便利な言葉ですね」

 

 空木は神代榊を奎星へ返した。

 

「持ってけ」

 

「ありがと、じいちゃん!」

 

「じいちゃん言うな」

 

「また来る!」

 

「来るな」

 

「どっち!?」

 

「必要なときだけ来い」

 

「じゃあまた来る!」

 

「帰れ!」

 

     *

 

 店の外へ出ると、夕方の八咫小路は、祭りを明日に控えた静かな町の顔をしていた。祭りの日ほど人は多くなく、屋台もまだ出ていない。通りには普段どおり古い商家が並び、軒先から吊るされた飾りだけが、明日の賑わいを予告するように風へ揺れている。

 

 奎星は神代榊を深い茶色の杖入れへ戻した。

 

「すげえな」

 

「何がです?」

 

「今日」

 

「今日だけですか?」

 

「昨日もすごかった」

 

「一昨日からです」

 

「夏休み濃すぎない?」

 

「自分から濃くしている部分もあります」

 

「半分は向こうから来てるって真壁さんにも言った」

 

「半分は認めているのですね」

 

「…………」

 

 そのとき、ひゅるるるる、と細い音が聞こえた。

 

「ん?」

 

 奎星が空を見上げる。スズメも続いて顔を上げた。音は八咫小路の建物の向こうから、さらに高く昇っていく。

 

 ひゅるるる――。

 

 次の瞬間、どん、と夕暮れの空に大きな光が咲いた。

 

「うおっ!」

 

 金色の花火が、普通の花火よりも長く空へ残った。やがて細かな星へほどけ、薄紫色の残光を引きながら消えていく。

 

「花火?」

 

 もう一発、ひゅるるるる、と音が上がった。今度は青い光が空の中で羽のように広がる。

 

「……あれ?」

 

 奎星は八咫小路を見回した。屋台はない。人も少ない。太鼓も笛も聞こえず、祭りらしい飾りもまだほとんど出ていない。

 

「今日って、八咫祭?」

 

「いいえ」

 

 スズメが答える。

 

「祭りの様子ではありませんね」

 

「だよな」

 

 そのとき、背後で引き戸が開いた。空木が顔を出し、足元には猫が寄り添っている。

 

「おお」

 

 空木は空を見上げた。

 

「そうか」

 

「何?」

 

「祭り、明日だったか」

 

「明日!?」

 

「ああ」

 

「じゃあこれ何?」

 

「試し打ちだろ」

 

「リハーサル?」

 

「そんなもんだ」

 

 空木は店の柱へ背を預け、猫もその隣へ座った。二人揃って、静かな空を見上げる。

 

「普段の八咫小路なんざ、祭りの時期でもなきゃ大して人も来ねえ」

 

「今も結構いるじゃん」

 

「祭りの日と比べりゃ、誰もいねえのと同じだ」

 

「言い過ぎじゃね?」

 

「だから」

 

 空木は二発目の花火を見上げた。

 

「こっちの方が好きでな」

 

「本番じゃなくて?」

 

「ああ」

 

 ひゅるるる、と赤い光が昇る。

 

「騒がしくねえ。酒臭え奴もいねえ。前を塞ぐ奴もいねえ」

 

 どん、と赤い花火が空へ広がった。

 

「花火だけ見られる」

 

 猫が小さく鳴いた。

 

「にゃあ」

 

「お前もそう思うか」

 

「猫と会話してる」

 

「店主だからな」

 

「まだそれ言うんだ」

 

 奎星は笑った。

 

 けれど、次の花火が上がる音を聞いたとき、ふと隣を見た。

 

 スズメが空を見上げている。

 

 一年前、初めて八咫祭へ来た日もそうだった。人混みに流され、友人たちとはぐれ、偶然スズメと出会った。二人で歩き、花火を見た。

 

 あの日のスズメも、今と同じ顔をしていた。口を僅かに開き、普段の落ち着いた教師の表情を忘れて、次々と変わる空の色をただ夢中で追いかけていた。赤、青、金、紫。奎星はあの日、スズメがこんなふうに笑うことを初めて知った。

 

 今も同じだった。

 

 祭りの喧騒はない。誰も押してこない。屋台の匂いも、太鼓も、歓声もない。静かな八咫小路の上で、二人だけへ見せるように花火が上がっている。

 

 少し後ろでは、空木が奎星を見ていた。次にスズメを見て、もう一度奎星へ視線を戻す。何も言わずに猫を抱き上げた。

 

「にゃ?」

 

「店主」

 

「にゃあ」

 

「中入るぞ」

 

「にゃ」

 

 からん、と音を立てて引き戸が閉じる。

 

 奎星は気づかなかった。スズメも気づかなかった。二人はただ、並んで空を見ていた。

 

 ひゅるるるる――。

 

 白い光が高く昇る。

 

 どん。

 

 今度の花火は大きかった。白から金へ、金から青へと色を変えた光が細長く伸び、やがて翼の形になって夜になりかけた空へ広がっていく。

 

「……鳥」

 

 スズメが呟いた。

 

「三本脚じゃないな」

 

「試し打ちですから」

 

「失敗?」

 

「調整中なのでは?」

 

「でも綺麗」

 

「はい」

 

 その返事は、とても自然だった。

 

 奎星は花火ではなく、スズメの横顔を見ていた。黒い髪に青や金や赤の光が映り、頬の輪郭が一瞬ごとに違う色へ染まっていく。

 

 昨夜の洞窟で近づいた距離。閉じた目。自分で自分を叩いた頬。そして、口にした言葉。

 

 ――俺、絶対、卒業するから。

 

 まだ、その約束は変わっていない。今すぐ何かを変えるつもりもなかった。

 

 けれど、ふと思った。

 

 明日、またここへ来たい。

 

 今度は調査でも、地下施設でも、古代魔術でも、神代榊でもない。ただ、スズメと。

 

 奎星は彼女の方へ身体を向けた。

 

「スズメちゃん」

 

「はい?」

 

 スズメも振り向いた。目が合う。

 

 ほんの一瞬、奎星の胸が速くなる。けれど、今度は自分を叩かなかった。代わりに、まっすぐ笑った。

 

「明日」

 

「はい」

 

 奎星は、空へ咲く花火にも負けないほど明るい声で言った。

 

「一緒に祭りいこ!」

 

 その向こうで、次の花火が夜になりかけた空へ昇っていった。

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