空木宗玄は、奎星から神代榊を受け取ると、すぐには何も言わなかった。以前と同じように、まず柄を眺め、木目へ爪を滑らせ、杖先を夕方の光へかざす。けれど、前回とは違い、今度はそのまま作業台へ向かった。
「八重子さんの記憶では、この杖には使用者ごとの魔力の残滓が、層のように残っていました」
スズメが説明すると、空木は鼻を鳴らした。
「層ねえ。杖を長く使ってりゃ、持ち主の魔力が残ること自体は珍しくねえ」
「見られますか?」
「普通の杖なら、ここまで古いもんを一枚ずつ見る必要もねえんだがな」
そう言いながら、空木は作業台の下へ手を入れた。何かを探す音が、木の床に低く響く。その横では、例の猫が丸くなって眠っていた。
「店主」
「にゃあ」
「今日もいるな」
「住んでいるのでしょう」
「家賃払ってんのかな」
「知りません」
「払ってるぞ」
作業台の下から空木の声が返ってきた。
「マジで!?」
「鼠を取る」
「現物支給!」
「うるせえ」
空木が立ち上がる。その手には、以前使った細い銀製の器具とは別の観測器具が握られていた。円形の金具に薄い硝子板がはめ込まれ、その奥には何枚もの透明な鉱石片が重ねられている。持ち手から伸びた細い銀線の先には、指輪ほどの輪がついていた。
「何それ」
「杖の残留魔力を見る道具だ」
「名前は?」
「聞いてどうする」
「前にスズメちゃんから、道具の名前くらい覚えろって怒られたから」
スズメが横目で奎星を見る。
「怒ってはいません」
「注意された」
「それなら合っています」
空木は面倒そうに息を吐いた。
「残留魔力分光鏡」
「…………」
「覚えたか?」
「残留……」
「もういい」
「早い!」
空木は神代榊を細い木製の台へ固定した。杖には直接器具を当てず、銀の輪だけを根元へ通す。そこからゆっくりと杖先へ向かって輪を滑らせていくと、そのたびに薄い硝子板の中へ色が浮かび上がった。
赤、淡い金、紫、白。いくつもの色が、古い木の年輪のように重なっている。
「おお……本当にある」
奎星が身を乗り出す。
「触るなよ」
「触んないって」
「昨日、触るなと言われた球を掴んだそうじゃねえか」
「何で知ってんの!?」
「嬢ちゃんが入ってきたとき言ってた」
「言いました」
「スズメちゃん!」
「事実です」
奎星は口を尖らせたが、空木は二人を無視して作業を続けた。
「こいつが後から使った奴。こっちがその前だ」
硝子の中に浮かぶ色を、空木は順番に指で示していく。
「使用期間が長い奴ほど濃い。強い魔法を何度も通した奴もな」
「誰か分かる?」
「名前までは無理だ」
「そっか」
「ただ、魔力には癖がある」
「癖?」
「指紋みてえなもんだ。完全に同じ魔力を持つ人間はいねえ」
スズメが頷いた。
「魔力波形ですね」
「学者はそう呼ぶな」
「じゃあ」
奎星は杖へ視線を落とした。
「ばあちゃんとか清弦のも?」
「残ってる可能性は高い」
「おお……」
清弦が使い、その子孫たちが使い、八重子が使った。何人もの魔法使いの手を渡ってきた時間が、一本の杖の内側へ積み重なっている。
奎星は、いつも腰に差している神代榊を見る目を、少しだけ変えた。戦うときも、授業のときも、困ったときも、腹を立てたときも、何度となく握ってきた杖。その内側には、自分の知らない人生がいくつも残っている。
「一番内側」
スズメが言った。
「そこを見られますか?」
「ああ」
空木の顔から、少しずつ軽さが消えていった。銀の輪を杖の握り手近くへ戻し、今度は硝子板を一枚ではなく三枚重ねる。光の角度を変え、さらに別の細い器具を取り出して、杖へ触れないぎりぎりのところまで近づけた。
きぃん、と微かな音がした。金属とも硝子ともつかない、高く澄んだ音だった。
硝子板の中で、いくつもの色が薄れていく。一つ、また一つと外側の層が透け、その奥から、より古いものが姿を現していく。
空木は黙ったまま、器具の角度を変えた。さらに一枚、また一枚と層が剥がれていく。スズメも息を止めるようにして、その様子を見つめていた。
そして、ほとんど杖の芯材と接するほど内側に、淡い光が現れた。
青白い光だった。
「これです」
スズメの声が僅かに低くなる。
「八重子さんの記憶にあったものと同じです」
空木は返事をしなかった。ただ青白い光を見つめ、眉を寄せる。もう一度器具を調整し、神代榊の向きを変え、別の角度から光を覗き込んだ。
「空木さん?」
スズメが声をかけても、返事はない。
やがて空木は突然、作業台から離れた。
「坊主」
「何?」
「手ぇ出せ」
「え」
「いいから」
奎星が右手を差し出すと、空木は小さな透明の石をその掌へ載せた。
「魔力だけ流せ」
「魔法撃たなくていい?」
「撃つな。店壊す気か」
「俺、そんな壊さないって」
スズメが奎星を見る。
「昨日、石像を三体壊しました」
「地下でね!?」
「場所の問題ではありません」
「早くしろ」
「はい」
奎星は透明な石を握り、ほんの僅かに魔力を流した。石の中央へ青白い筋が走る。空木はそれを別の硝子板へ当て、神代榊の最内層と奎星の現在の魔力を並べて見比べた。
奎星とスズメは黙って待った。空木の目が細くなる。一秒、二秒、三秒。やがて、その肩が小さく揺れた。
「……く」
「え?」
「くくっ」
奎星が瞬きをする。空木は額へ手を当て、次の瞬間、堪えきれないように声を上げて笑い始めた。
「はっはっはっは!」
「ええ!?」
「空木さん?」
「いや!」
空木はまだ笑っている。
「こりゃあ駄目だ!」
「何が!?」
「余計、謎が増えちまったよ!」
「だから何なのです」
スズメの声が少し強くなる。
「説明してください」
「悪い悪い」
空木は目元を拭った。
「長いこと杖を見てきたが、こんなのは初めてだ」
「何?」
空木は硝子板を奎星へ向けた。そこには、先ほどの青白い光が浮かんでいる。
「この杖の一番内側に残ってる魔力」
「うん」
「これな」
空木は一拍置いた。
「坊主の魔力と同じだぞ」
奎星が固まった。
「…………俺?」
「お前だ」
「…………」
「ほぼ間違いねえ」
スズメが一歩前へ出る。
「待ってください」
「ああ」
「蓮根君がこの杖を使い始めたのは、一年前です」
「知ってる」
「なら」
スズメは神代榊へ視線を落とした。
「彼の魔力が残るなら、一番外側になるはずです」
「普通ならな」
「ですが、これは」
「一番内側だ」
空木が笑う。
「しかも、外側にも坊主の魔力がある」
奎星はさらに混乱した。
「二人いる!?」
「蓮根君は一人です」
「いや、だって!」
「今使ってる分が外側に残ってる」
空木は硝子板を指で叩いた。
「こっちは去年から今までのものだ」
「うん」
「問題はこっちだ」
空木が示したのは、一番深い青白い層だった。
「こいつは、この杖がほとんど新品だった頃についた」
「…………」
「もっと言えば」
空木は少し楽しそうに奎星を見る。
「事実だけ並べるなら」
スズメも息を止めた。
「この杖を最初に使った魔法使いは」
空木は奎星を指差した。
「お前だ」
店の中が静まり返った。猫が毛繕いをする音と、外を誰かが歩いていく足音だけが聞こえる。遠くでは、小さな風鈴が風に揺れていた。
「…………は?」
ようやく奎星が声を出した。スズメも珍しく、完全に言葉を失っている。
「そんな馬鹿な話……」
「あっ!!!」
奎星が突然叫んだ。猫が飛び上がり、「にゃっ」と短く鳴く。
「蓮根君!?」
「そうだ!!」
「何です!?」
「俺だ!!!」
「何がです!」
奎星は両手で頭を抱えた。
「俺じゃん!!」
空木が怪訝そうな顔をする。
「何を納得してんだ」
「ちょっと待って!」
奎星の頭の中で、百五十年以上前の光景が一気に蘇った。
小萱村。平坂の家。納屋の作業台。鬼火鳥が落としていった青白い尾羽。神代榊の木。そして、夕暮れの中で完成したばかりの一本の杖。
『一度だけだ』
清弦は嫌そうな顔をしながら、新しい杖を奎星へ渡した。
『傷つけるな』
『分かってるって』
『貴様の「分かっている」は』
「信用できないって言うな!』
奎星は笑いながら、その新品の杖を握った。清弦には、未来から持ってきた古い神代榊を持たせた。二本の同じ杖が、夕暮れの小萱で向かい合う。片方は百五十年以上の時間を積み重ねた杖で、もう片方は、まだ何も積み重ねていない生まれたばかりの杖だった。
そして、最初に魔法を通したのは奎星だった。
「エクスペリアームス……」
奎星が呟く。
「何です?」
スズメが見る。
「俺」
奎星は神代榊を指差した。
「使った」
「…………」
「清弦の新しい杖」
スズメの目が、少しずつ大きくなる。
「できた日に」
「まさか」
「俺が最初に撃った」
奎星の声まで上ずってきた。
「清弦じゃない!」
記憶の中で、赤い光が弾ける。《エクスペリアームス》によって、清弦の手から未来の神代榊が弾き飛ばされた。そのとき奎星の手の中にあったのは、出来上がったばかりの新しい神代榊だった。
あの瞬間、確かに、初めて魔力を通した。
「……俺じゃん」
今度は呆然と呟いた。
空木が腕を組む。
「だから何で納得してんだ」
「いや」
奎星が顔を上げる。
「俺、ちょっと前に幕末まで行っててさ」
空木の顔から表情が消えた。
「幕末」
「うん」
「まで」
「行った」
「…………」
空木はゆっくりとスズメを見る。
「嬢ちゃん」
「はい」
「こいつ大丈夫か?」
スズメは一瞬だけ目を伏せ、少し困ったように笑った。
「まあ」
「まあって何!?」
「説明すると長くなります」
「長くても説明した方がいいんじゃねえか!?」
「昨日からの話も必要になります」
「確かに長い!」
「地下施設からになりますので」
「その前の小萱からじゃね?」
「では、さらに長いです」
空木はしばらく二人を交互に見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……まあいい」
「信じるの?」
「信じる信じねえは別だ」
空木は神代榊を見る。
「杖は嘘つかねえ」
奎星も黙った。
「これの一番古い魔力が坊主のものだってのは、見りゃ分かる」
「…………」
「それに」
空木の口元がまた上がる。
「もし本当に、出来上がったその日にお前が最初に魔法を通したってんなら」
「うん」
「全部辻褄は合う」
空木は神代榊を持ち上げた。夕日の中で、古い木肌が僅かに光る。
「杖ってのはな」
「うん」
「持ち主を覚える」
「覚える?」
「ああ」
「杖に頭あるの?」
「そういう意味じゃねえ」
「だよね」
「だが、長く魔法を通せば、術者の魔力の癖が残る」
空木は自分の指を曲げた。
「強い魔法。何度も使った術式。持ち方。魔力を入れる速さ。迷い方まで残ることがある」
「迷い方?」
「杖を振る寸前、人間ってのは思ってる以上に色んなことをしてる。杖は、それを全部通される」
空木は神代榊の柄を軽く叩いた。
「だから古い杖は、新しい持ち主に馴染みにくいこともある」
「前の人の癖があるから?」
「そうだ」
「じゃあ」
奎星は神代榊を見る。
入学した日、九重院紫苑に渡された古い杖。新品ではないと言われた。誰が使っていたものなのかも分からなかった。それなのに、握った瞬間から妙に馴染んだ。初めて持ったはずなのに、初めてではないような感覚があった。
「……最初から」
奎星が呟く。
「俺のこと知ってた?」
「そうなるな」
空木は神代榊を奎星へ差し出した。
「お前にとっては初めてでも、こいつにとっては」
一拍置いて、空木は言った。
「久しぶりだったってことだ」
奎星は動かなかった。
差し出された杖。何百回、何千回と握った柄。今ではもう、手のどこへ当たるかまで考えなくても分かる。その杖が、自分が生まれるより前から、八重子より前から、何代もの蓮根家の人間より前から、自分を知っていた。
「…………やば」
ようやく、それだけ言った。
「語彙」
スズメが言う。
「いや、やばいって!」
「もう少し何かあるでしょう」
「だって」
奎星は神代榊を受け取った。
「百五十年ずっと俺のこと覚えてたってこと!?」
「ずっと考えてたわけじゃねえぞ」
空木が言う。
「分かってるよ!」
「杖に人格があるみたいに言うからだ」
「でも覚えてたんだろ?」
「痕跡としてな」
奎星は杖を握った。親指、人差し指、小指。いつもの感触が、自然に手の中へ収まる。
そのとき、ふと奎星の顔から笑みが消えた。
「……待って」
「何です?」
スズメが見る。
奎星は杖を見たままだった。
「杖って、使った人の記憶とかも残るの?」
「記憶そのもの、とは言わねえ」
「でも」
「経験の痕跡が残ることはある」
空木は答えた。
「特に古い杖はな。何十年、何百年と魔力を通してりゃ、術者がどういう魔法を好んだか、どういう状況で使ったか、その癖が積み重なる」
「…………」
「人間の記憶みてえに映像が入ってるわけじゃねえ」
「うん」
「だが」
空木は神代榊を見る。
「身体が覚える、って言うだろ。杖にも似たもんはある」
奎星の指が止まった。スズメも、その変化に気づく。
「蓮根君?」
「俺さ」
「はい」
「六月」
低い声だった。
「何度も時間、戻ったじゃん」
スズメの表情が変わる。空木は事情を知らないため、眉を寄せた。
「時間?」
「逆転時計です」
スズメが短く説明する。
「一日を繰り返す魔法具の影響を、蓮根君だけが少しずつ記憶していました」
「完全にじゃないけど」
奎星が続ける。
「最初は忘れてんの」
「…………」
「でも、何回もやってるうちに」
奎星は神代榊を握り直した。
「思い出す」
後藤。六月十五日。魔法省。失敗。やり直し。戻るたび、記憶は沈んだ。全部を持って帰れたわけではない。それでも、身体は覚えていた。戦い方を、人を、何かがおかしいという感覚を。
「……もしかして」
奎星は神代榊へ目を落とした。
「お前だったの?」
スズメは何も言わなかった。空木も、ただ奎星を見ている。
「俺が忘れてても」
奎星は神代榊へ話しかけるように言った。
「お前が、俺のこと覚えてて」
もちろん、杖は答えない。
「思い出させてくれてたのか……?」
神代榊は沈黙したままだった。ただ、奎星の手の中で、木は僅かに温かかった。
空木が腕を組む。
「そこまでは分からん」
「うん」
「時間を巻き戻す魔法なんざ、俺は専門外だ」
「うん」
「ただ」
空木は奎星を見る。
「あり得ねえ話だとは言い切れんな」
奎星が顔を上げる。
「この杖の一番深いところには、百五十年以上前のお前の魔力がある」
「…………」
「時間を戻されても消えねえ、ずっと昔のお前の痕跡だ」
スズメの目が僅かに動いた。
「一種の基準点……」
「何?」
「もし」
スズメは神代榊を見つめた。
「時間が戻るたびに、蓮根君自身の記憶が曖昧になったとしても、この杖の最深部には常に『蓮根奎星』の魔力が存在していた」
「…………」
「それが、あなた自身の魔力と共鳴していたのなら」
「思い出すきっかけに?」
「可能性はあります」
スズメはすぐに付け加えた。
「ですが、断定はできません」
「分かってる」
今度の奎星は、すぐに頷いた。
そして、杖を見下ろした。
自分はずっと、この杖を先祖から受け継いだものだと思っていた。清弦の杖。蓮根家の杖。八重子の杖。それを、自分が最後に受け取ったのだと思っていた。
それは間違っていない。
けれど、それだけでもなかった。
百五十年以上前、この杖へ最初に魔力を流したのは自分だった。先祖から受け取ったはずのものを、先祖より先に、自分が使っていたのだ。
「変なの」
奎星が笑った。
「何がです?」
「俺さ」
杖を軽く持ち上げる。
「ずっと、清弦の杖借りてる気してた」
「…………」
「でも、最初に使ったの俺なんだ」
スズメは奎星を見ていた。何かが、ようやく彼自身の中へ収まっていくように見えた。
第零書庫がなぜ彼を受け入れたのか。なぜ神代榊が最初から彼の手に馴染んだのか。なぜ、この杖だけが何度も青白い光で彼へ応えたのか。すべてが解けたわけではない。むしろ、謎は増えている。
けれど、少なくとも一つだけ、確かなことがあった。
奎星はもう、誰かに選ばれただけの人間ではない。先祖の力を偶然受け取っただけでもない。自分自身が過去へ行き、自分自身で杖を握り、自分自身の魔法を最初にそこへ刻んだ。その積み重ねが巡り巡って、未来の自分へ返ってきたのだ。
スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「何?」
奎星が気づく。
「いいえ」
「今笑った?」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「気のせいです」
「最近それ多くない?」
「何がです?」
「誤魔化すとき」
「気のせいです」
「ほら!」
空木が大きく息を吐いた。
「用が済んだなら帰れ」
「え、冷た!」
「こっちは今から、この訳の分からん結果を記録すんだ」
「空木さんも調べる?」
「調べる」
「めっちゃ気になってんじゃん」
「職人だからな」
「スズメちゃんと同じ」
「誰がです?」
「気になると止まらない」
「蓮根君に言われたくありません」
「何で!?」
「一昨日からの自分の行動を思い出してください」
「調査です!」
「便利な言葉ですね」
空木は神代榊を奎星へ返した。
「持ってけ」
「ありがと、じいちゃん!」
「じいちゃん言うな」
「また来る!」
「来るな」
「どっち!?」
「必要なときだけ来い」
「じゃあまた来る!」
「帰れ!」
*
店の外へ出ると、夕方の八咫小路は、祭りを明日に控えた静かな町の顔をしていた。祭りの日ほど人は多くなく、屋台もまだ出ていない。通りには普段どおり古い商家が並び、軒先から吊るされた飾りだけが、明日の賑わいを予告するように風へ揺れている。
奎星は神代榊を深い茶色の杖入れへ戻した。
「すげえな」
「何がです?」
「今日」
「今日だけですか?」
「昨日もすごかった」
「一昨日からです」
「夏休み濃すぎない?」
「自分から濃くしている部分もあります」
「半分は向こうから来てるって真壁さんにも言った」
「半分は認めているのですね」
「…………」
そのとき、ひゅるるるる、と細い音が聞こえた。
「ん?」
奎星が空を見上げる。スズメも続いて顔を上げた。音は八咫小路の建物の向こうから、さらに高く昇っていく。
ひゅるるる――。
次の瞬間、どん、と夕暮れの空に大きな光が咲いた。
「うおっ!」
金色の花火が、普通の花火よりも長く空へ残った。やがて細かな星へほどけ、薄紫色の残光を引きながら消えていく。
「花火?」
もう一発、ひゅるるるる、と音が上がった。今度は青い光が空の中で羽のように広がる。
「……あれ?」
奎星は八咫小路を見回した。屋台はない。人も少ない。太鼓も笛も聞こえず、祭りらしい飾りもまだほとんど出ていない。
「今日って、八咫祭?」
「いいえ」
スズメが答える。
「祭りの様子ではありませんね」
「だよな」
そのとき、背後で引き戸が開いた。空木が顔を出し、足元には猫が寄り添っている。
「おお」
空木は空を見上げた。
「そうか」
「何?」
「祭り、明日だったか」
「明日!?」
「ああ」
「じゃあこれ何?」
「試し打ちだろ」
「リハーサル?」
「そんなもんだ」
空木は店の柱へ背を預け、猫もその隣へ座った。二人揃って、静かな空を見上げる。
「普段の八咫小路なんざ、祭りの時期でもなきゃ大して人も来ねえ」
「今も結構いるじゃん」
「祭りの日と比べりゃ、誰もいねえのと同じだ」
「言い過ぎじゃね?」
「だから」
空木は二発目の花火を見上げた。
「こっちの方が好きでな」
「本番じゃなくて?」
「ああ」
ひゅるるる、と赤い光が昇る。
「騒がしくねえ。酒臭え奴もいねえ。前を塞ぐ奴もいねえ」
どん、と赤い花火が空へ広がった。
「花火だけ見られる」
猫が小さく鳴いた。
「にゃあ」
「お前もそう思うか」
「猫と会話してる」
「店主だからな」
「まだそれ言うんだ」
奎星は笑った。
けれど、次の花火が上がる音を聞いたとき、ふと隣を見た。
スズメが空を見上げている。
一年前、初めて八咫祭へ来た日もそうだった。人混みに流され、友人たちとはぐれ、偶然スズメと出会った。二人で歩き、花火を見た。
あの日のスズメも、今と同じ顔をしていた。口を僅かに開き、普段の落ち着いた教師の表情を忘れて、次々と変わる空の色をただ夢中で追いかけていた。赤、青、金、紫。奎星はあの日、スズメがこんなふうに笑うことを初めて知った。
今も同じだった。
祭りの喧騒はない。誰も押してこない。屋台の匂いも、太鼓も、歓声もない。静かな八咫小路の上で、二人だけへ見せるように花火が上がっている。
少し後ろでは、空木が奎星を見ていた。次にスズメを見て、もう一度奎星へ視線を戻す。何も言わずに猫を抱き上げた。
「にゃ?」
「店主」
「にゃあ」
「中入るぞ」
「にゃ」
からん、と音を立てて引き戸が閉じる。
奎星は気づかなかった。スズメも気づかなかった。二人はただ、並んで空を見ていた。
ひゅるるるる――。
白い光が高く昇る。
どん。
今度の花火は大きかった。白から金へ、金から青へと色を変えた光が細長く伸び、やがて翼の形になって夜になりかけた空へ広がっていく。
「……鳥」
スズメが呟いた。
「三本脚じゃないな」
「試し打ちですから」
「失敗?」
「調整中なのでは?」
「でも綺麗」
「はい」
その返事は、とても自然だった。
奎星は花火ではなく、スズメの横顔を見ていた。黒い髪に青や金や赤の光が映り、頬の輪郭が一瞬ごとに違う色へ染まっていく。
昨夜の洞窟で近づいた距離。閉じた目。自分で自分を叩いた頬。そして、口にした言葉。
――俺、絶対、卒業するから。
まだ、その約束は変わっていない。今すぐ何かを変えるつもりもなかった。
けれど、ふと思った。
明日、またここへ来たい。
今度は調査でも、地下施設でも、古代魔術でも、神代榊でもない。ただ、スズメと。
奎星は彼女の方へ身体を向けた。
「スズメちゃん」
「はい?」
スズメも振り向いた。目が合う。
ほんの一瞬、奎星の胸が速くなる。けれど、今度は自分を叩かなかった。代わりに、まっすぐ笑った。
「明日」
「はい」
奎星は、空へ咲く花火にも負けないほど明るい声で言った。
「一緒に祭りいこ!」
その向こうで、次の花火が夜になりかけた空へ昇っていった。