「一緒に祭りいこ!」
奎星の声が、夕暮れの八咫小路へ飛んだ。
その向こうで、ひゅるるるる、と細い音が空へ昇っていく。やがて、どん、と腹の底へ響く音がして、青い花火が夜になりかけた空へ開いた。
まだ本番ではない。明日の八咫祭に向けた試し打ちなのだろう。それでも、古い商家の屋根や石畳、並んで立つ二人の顔まで、一瞬だけ鮮やかな青に染めるには十分な大きさだった。
光が消える。
スズメは何も言わなかった。
奎星の笑顔が、少しずつ固まっていく。
次の花火が上がった。ひゅるるるる、と夜空へ伸びた音が、今度は赤い光を呼び込む。けれど、スズメはやはり黙ったままだった。奎星の眉が、わずかに下がる。
さっきまでなら、何でもない沈黙だった。スズメが考えているのだろうとか、花火を見ているのだろうとか、その程度に思えたはずだ。
けれど、今は違う。
自分から誘った。それも、調査でも勉強でも、杖の話でもない。祭りへ、二人で行こうと誘ったのだ。
奎星の頭の中で、ついさっきまで存在しなかった不安が、急に大きくなっていく。
――いや、待て。急だったか?
――教師と生徒だから?
――そもそも去年も見回りだったじゃん。
――ていうか俺、一緒にって言った?
――言った。
――めっちゃ言った。
スズメはまだ黙っている。
奎星の肩が、目に見えて落ちていった。
「……ダメ?」
空木の店で、百五十年前の自分がどうのと騒いでいた男とは思えない、頼りない声だった。
スズメがようやく奎星を見る。そこには、困ったように眉を下げた十八歳の少年がいた。期待と不安を隠しきれず、ただ返事だけを待っている。もし尻尾があったなら、今ごろ完全に垂れ下がっていただろう。
スズメは、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……ダメではありません」
奎星の顔が、ぱっと明るくなる。
「じゃあ!」
「ダメではありませんが」
その一言で、奎星の表情が止まった。
「…………が?」
「今年も見回りがありますので」
顔から光が消えた。
「…………」
「申し訳ありません」
スズメは本当に申し訳なさそうだった。だからこそ、奎星は両手を広げて叫んだ。
「えええええええ!?」
声が八咫小路いっぱいに響き、閉じたはずの空木の店の中から、猫の「にゃっ」という驚いた声まで聞こえた気がした。
「声が大きいです」
「だって!」
「教師ですから」
「去年もそれ言ってた!」
「今年も教師です」
「そこ変わってない!」
「当たり前です」
「祭りなのに!」
「祭りだから見回るのです」
「休もうよ!」
「教師全員がそれを言ったら、誰が見回るのです?」
「御影先生!」
「押しつけないでください」
「高宮先生!」
「同じです」
「早瀬先生!」
「一人ずつ売らないでください」
「じゃあ校長先生!」
「最終手段みたいに言わないでください」
奎星は頭を抱えた。夕暮れの熱が残る石畳の上で、さっきまでの勢いが嘘のようにしぼんでいく。
「マジかぁ……」
「それに」
スズメが続けた。
「今年は学生最後の夏休みでしょう」
奎星が顔を上げる。
「うん」
「でしたら、友人たちと回った方がいいですよ」
その言葉に、奎星の口が少し閉じた。
友人たち。
日向、岳、伊織、楓。
今年の夏休みは、それぞれが自分の進路へ向かって動いている。日向はクィディッチの遠征とセレクション、岳は魔法生物保護の実習、伊織は術式解析官を目指した補習、楓は教育管理局への進路を見据えた勉強に追われている。
去年までは、夏休みになれば当然のように全員で集まると思っていた。けれど、もう学生最後の夏だ。来年も同じように集まれるとは限らない。
「……うん」
奎星は少しだけ俯いた。
分かっている。スズメの言うことは正しい。だから、無理を言うつもりはなかった。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、仕方ないな」
そう言って笑おうとしたが、たぶんうまく笑えてはいなかった。
スズメは、そんな奎星の顔を数秒見つめていた。それから、ほんの少しだけ声を和らげる。
「……でも」
「ん?」
「友人とはぐれた」
一拍置いて、スズメは続けた。
「迷子の生徒と回ることは、あるかもしれませんね」
奎星の目が止まった。
「…………え?」
スズメはもう前を向いていた。
「帰りましょうか、蓮根君」
「待って」
スズメが歩き出す。
「スズメちゃん」
「行きますよ」
「今のどういう意味?」
「今日はもう十分歩きました」
「いや、そこじゃなくて!」
「私はシャワーが浴びたいです」
「俺も浴びたいけど!」
「では帰りましょう」
「ちょっと待って!」
スズメの歩調は変わらない。奎星は慌ててその横へ追いついた。
「友達とはぐれた迷子って」
「はい」
「去年の俺じゃん」
「そうですね」
「十七歳だから迷子じゃないって言ったじゃん、俺!」
「今年は十八歳ですね」
「そこじゃねえ!」
「成人した迷子です」
「もっと恥ずかしくなった!」
スズメの口元が、ほんの僅かに上がった。
奎星はそれを見逃さなかった。
「あ!」
「何です?」
「今笑った!」
「笑っていません」
「絶対笑った!」
「気のせいです」
「またそれ!」
スズメは振り返らない。けれど、その歩調は先ほどより少しだけ速くなっていた。
「じゃあ!」
奎星も追いかける。
「明日、俺がもし迷子になったら!」
「仮定の話には答えません」
「見つけてくれるってこと!?」
「八咫祭では迷子にならないよう、友人たちから離れないでください」
「どっち!?」
「行きますよ」
「スズメちゃん!」
「蓮根君」
「何!?」
スズメが足を止めた。奎星も、その隣で立ち止まる。
振り返った彼女は、少し疲れた顔をしていた。それでも、妙に真剣な表情で言う。
「私は」
「うん」
「本当にシャワーが浴びたいのです」
洞穴で一晩を過ごし、山を歩き、電車を乗り継ぎ、魔法省へ行き、そのまま八咫小路まで来たのだ。奎星は三秒ほど黙った。
「…………俺も」
「では帰ります」
「はい」
二人は再び歩き出した。
五歩、十歩と進んだところで、奎星がまた口を開く。
「でもさっきのどういう意味!?」
「知りません」
「スズメちゃ〜ん!」
*
マホウトコロへ戻ったころには、すっかり夜になっていた。
南硫黄島の空には星が浮かび、海から吹く夜風が、昼間の東京とは比べものにならないほど涼しい。見慣れた羊脂玉の校舎は魔法灯に照らされ、白い壁が淡い青色に浮かび上がっていた。
「帰ってきた……」
「今日二回目ですね」
「今度こそ家って感じ」
「寮です」
「ほぼ家」
「卒業したら出ていく場所です」
「急に寂しいこと言うなよ!」
奎星は肩を落とした。
スズメはそのまま教員区画へ向かうのかと思われたが、足は大食堂の方へ向いた。
「飯?」
「夕食です」
「腹減った!」
「さっきまで疲れたと言っていたでしょう」
「疲労と腹は別!」
「便利な身体ですね」
「十八年間これでやってます」
「今後が心配です」
大食堂の扉が近づく。
夏休み、それもお盆の時期だ。普段なら学校に残っている生徒はかなり少ない。補習や研究、実習、教員の手伝いなど、それぞれの事情を抱えた者だけが残っているため、いつもなら長机の半分ほどしか埋まらないはずだった。
だから奎星も、静かな夕食を想像していた。
しかし、扉を開けた瞬間、その予想は見事に裏切られた。
「だからそれは俺のだって!」
「名前書いてないでしょ!」
「俺が持ってきたんだよ!」
「共有部分に置いた時点で共有物」
「その理論だと冷蔵庫終わるぞ!?」
「食べた」
「岳ぅぅぅぅ!!」
「うまかった」
「お前が一番駄目だろ!!」
奎星は扉の前で立ち止まった。
騒がしい。ものすごく騒がしい。
大食堂の中央付近に、水無瀬楓、岩戸岳、伊織、そして朝比奈日向がいた。
「だから俺のプリンだったんだって!」
日向の声が響く。
奎星の目が一気に大きくなった。
「日向!!」
声に気づいた日向が振り返る。一瞬だけ驚いた顔をしたが、次の瞬間には、それ以上に大きな笑顔を浮かべていた。
「奎星ぇ!」
日向も立ち上がる。
二人は互いに駆け寄り、ぱんっと強く手を合わせた。そのまま手を握り、引き寄せるように肩をぶつけ合う。鈍い音がして、二人とも同時に顔をしかめた。
「いてぇ!」
「お前から来ただろ!」
「日向、ちょっとデカくなった!?」
「なってねえよ!」
「筋肉増えてね!?」
「飛びまくってたからな!」
「うわ、腹立つ!」
「何でだよ!」
二人は顔を見合わせて笑った。
楓が呆れたように頬杖をつく。
「外国映画みたいな挨拶してる」
「一年ぶりみたいだね」
伊織が言った。
「何日?」
岳が訊く。
「そこ数える必要ある?」
楓が返す。
「体感一か月!」
奎星は日向の肩を叩いた。
「お前いつ帰ってきたの!?」
「今日!」
「言えよ!」
「今会ったからいいだろ!」
「そういう問題じゃねえ!」
「お前もどこ行ってたんだよ!」
「山!」
「雑!」
「地下!」
「もっと分かんねえ!」
「あと魔法省!」
「いつものやつじゃん!」
「いつものじゃない!」
「蓮根君」
後ろから声がした。
奎星が振り返ると、スズメが大食堂へ入ってくるところだった。
「あ」
さっきまでの勢いを、奎星は少しだけ引っ込める。
「スズメちゃんもおかえり」
「烏丸先生です」
「学校だから?」
「学校でなくてもです」
「さっきずっとスズメちゃんだったじゃん」
「それはあなたが勝手に呼んでいるだけです」
「烏丸先生、お疲れさまです」
楓が頭を下げる。
「お疲れさまです、水無瀬さん」
「先生も今戻ったんですか?」
「はい」
「こいつと?」
日向が奎星を指差した。
「はい」
日向の目が細くなる。
奎星は嫌な予感を覚えた。
「何だよ」
「別に」
「その顔何?」
「何でもねえよ」
「絶対何かあるだろ」
「あとで聞く」
「怖っ」
「ご飯にしたら?」
楓が二人を遮った。
「そうだ、腹減った!」
奎星が席へ向かった、そのときだった。
大食堂の奥から、小さな足音が聞こえてきた。
「ゴハン!」
「お!」
天ぷらたちだった。
数人の小妖が、自分たちの身体ほどもある盆を両手で抱え、料理を運んでくる。味噌汁、焼き魚、煮物、白飯。別の小妖は山盛りの唐揚げを運び、その後ろでは茶碗を積んだ一匹が、崩さないよう慎重に歩いていた。
「天ぷら!」
「レンコン!」
「久しぶり!」
「キョウ、イタ!」
「いつもいるだろ!」
「イル!」
「そうだよな!」
奎星は笑いながら、料理の載った盆を受け取った。そこで、ふと手を止める。
「……お盆なのに働いてんだな」
天ぷらが奎星を見る。
「オボン!」
「うん」
「テンプラ、オボン、ハコブ!」
「…………」
奎星が盆を見る。天ぷらも盆を見る。
「オボン!」
「いや」
奎星は首を振った。
「そのお盆じゃなくて」
「オボン?」
「そっちもお盆だけど」
「オボン!」
「ややこしい!」
「何を小妖相手に一人で混乱してんのよ」
楓が呆れた。
「だってお盆にお盆運んでる!」
「偶然でしょ」
「奇跡じゃん!」
「どこが?」
天ぷらが胸を張った。
「テンプラ、オボン、ハコブ!」
「偉い!」
「エライ!」
「話が終わった……」
楓が額を押さえた。
*
「で!」
奎星は唐揚げを一つ口へ放り込みながら、日向へ身を乗り出した。
「どうだった!?」
「何が?」
「セレクション!」
「ああ」
日向がにやりと笑う。その顔を見ただけで、奎星にはだいたいの結果が分かった。
「お前」
「ぶちかましてきた」
「マジ!?」
「当然」
「うおお!」
「うるさい」
楓が言う。
日向は止まらなかった。
「向こうのコーチ、最初は『学生だし様子見るか』みてえな顔してたんだよ」
「うん!」
「一本目で抜いた」
「何人!?」
「二人」
「うおっ!」
「二本目で決めた」
「何を!?」
「そりゃゴールだろ!」
「マジかよ!」
奎星が机を叩く。周囲にいた夏季補習中の生徒たちが、何事かと振り返った。
日向はさらに得意げに胸を張る。
「そのあと別の練習試合も出されてさ」
「うん!」
「そこでまた取った」
「二回!?」
「二回」
「お前やば!」
「だろ?」
「日向」
伊織が淡々と言った。
「途中で箒から落ちた話は?」
「今いらねえだろ、それ!」
「落ちたの!?」
奎星が爆笑する。
「着地したんだよ!」
「地面に?」
「結果だけ見ればな!」
「落ちてんじゃん!」
「攻めた結果だ!」
「顔から?」
「肩!」
「惜しい!」
「何がだよ!」
日向が奎星の肩を叩き、奎星は笑いながら身をかわした。
「でも」
楓が口を挟む。
「結果は本当に良かったみたいよ」
「へえ?」
「何チームかから話が来てるんだって」
奎星の動きが止まった。
「…………話?」
日向が鼻の下を擦った。
「まあ」
「何」
「二軍契約だけど」
「…………」
「いくつかオファー来てる」
数秒の沈黙が落ちた。
奎星は完全に停止していたが、次の瞬間、椅子を鳴らして立ち上がった。
「マジィ!?」
大食堂が震えた。
「でけえ!」
「日向、プロ!?」
「まだ決めてねえって!」
「すげえじゃん!」
奎星は日向の両肩を掴んだ。
「お前、プロじゃん!」
「だから二軍だって!」
「プロはプロだろ!」
「まあな!」
「うおおおお!」
「うおおおお!」
二人で叫ぶ。
「うるさい!」
楓の声が飛んだが、今日は止める人間が悪かった。
日向が勢いよく自分の椅子へ片足を乗せる。続いてもう片方の足まで上げ、とうとう椅子の上に立った。
「だがな!」
「おう!」
「俺は!」
日向は拳を握り、食堂中を見渡した。
「こんな契約で収まる器じゃねえからな!」
「降りなさい!」
楓が叫ぶ。
「二軍だ〜!?」
日向が拳を突き上げる。
「違う!」
「何が!?」
「俺が狙うのは一軍!」
「うおおお!」
「いや!」
日向の目が燃えた。
「かくなる上は!」
「おう!」
「スタメン確約契約だって取ってやるよ!!」
「うおおおおおおお!!」
奎星まで隣の椅子へ片足を乗せた。
ぱちぱちぱちぱちぱち、と周囲から拍手が起こる。夏休み中も補習や研究で学校に残っていた生徒たちまで、何となく勢いに巻き込まれて声を上げた。
「朝比奈ー!」
「頑張れー!」
「一軍行けー!」
「スタメン取れー!」
「ほら見ろ!」
日向が両腕を広げる。
「みんな俺の時代を待ってる!」
「待ってないわよ!」
楓が日向の足を掴もうとする。
「やめろ! プロ選手の脚だぞ!」
「まだ学生!」
「未来のプロ選手!」
「ならなおさら椅子から降りなさい!」
「楓!」
「何!?」
「俺がプロになったらサインやる!」
「いらない!」
「今なら予約できるぞ!」
「いらない!」
「二枚がいい?」
「枚数の問題じゃない!」
岳が食事を続けながら言った。
「売れるかも」
楓が動きを止める。
「岳まで何言ってんのよ!」
「初期サイン」
「お前分かってんじゃん!」
日向が岳を指差した。
「投資」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「プロ入り前の署名なら、希少価値は出るかもしれない」
「伊織!?」
「ただし一軍定着できなければ」
「続き言うな!!」
「日向!」
奎星が椅子へ上がる。
「俺も今のうちに百枚くらい書いてもらう!」
「転売する気満々じゃねえか!」
「違う! 老後の資産!」
「もっと悪い!」
大食堂は、完全に収拾がつかなくなっていた。
普段なら、御影の低い声で「椅子から降りろ」と言われるところだ。あるいは高宮が、怒鳴って無理やり引き摺り下ろされただろう。だが、今日はどちらもいない。他の教師も席を外しており、残っている教員は少なかった。
だから、奎星と日向はますます調子に乗った。
「日向ー!」
「おう!」
「一軍!」
「一軍!」
「スタメン!」
「スタメン!」
「日本代表!」
「そこまで行く!!」
「世界一!」
「取る!!」
「もう話が広がりすぎ!」
楓が叫んだ、そのときだった。
「……やれやれ」
静かな声がした。
奎星の背筋を、冷たいものが走る。
日向も動きを止めた。
二人の視線が、同時に横へ向く。
スズメが立っていた。
さっきまで静かに食事を取っていたはずの彼女の右手には、杖が握られている。
「…………日向」
「…………何だ」
「スズメちゃん、杖抜いてる」
「見えてる」
「何する気だと思う?」
「分からん」
「逃げる?」
「逃げる」
二人は同時に椅子から飛び降りた。
「うわあああ!」
「逃げろおお!」
「蓮根君!」
「朝比奈君!」
左右へ散る。
「何で俺まで!?」
「日向が始めたから!」
「お前も椅子乗っただろ!」
「一瞬!」
「同罪だ!」
「待ちなさい!」
「嫌だあああ!」
補習組の生徒たちが笑い出した。
楓は深く息を吐き、伊織は何事もなかったように食事を続けている。岳は、奎星が置いていった唐揚げへ視線を向けていた。
「岳」
楓が先に言った。
「駄目よ」
「まだ何もしてない」
「顔に書いてある」
「…………」
「返しなさい」
「まだ取ってない」
「その手を戻して」
岳の手が、静かに自分の皿へ戻った。
*
夜の男子寮談話室は、昼間の大食堂とは別の場所のように静かだった。
窓の外では虫が鳴き、遠くから波の音が聞こえている。夏休み中の寮には帰省している生徒も多く、普段ならあちこちの部屋から聞こえてくる話し声も、今夜はほとんどなかった。
長椅子の中央に奎星が座り、その正面に日向、横の椅子に伊織がいる。岳は少し離れたところで、どこから持ってきたのか煎餅を食べていた。
「で?」
日向が言った。
「全部話せ」
「何が?」
「お前が山で何してたか」
「長いぞ」
奎星が言う。
「いいから」
「マジで長い」
「俺の遠征話より?」
「比べ物にならん」
「じゃあ聞く」
奎星は少し考えた。
「どっから?」
「最初」
伊織が即答した。
「小萱村から」
「やっぱそこ?」
「地下施設だけでは成立しない」
「ですよね」
「飯は?」
岳が訊いた。
「何が?」
「小萱行った日」
「今そこ!?」
「弁当?」
「……弁当食った」
「中身」
「いる!?」
「必要」
「何に!?」
「話の流れ」
「絶対いらない!」
日向が机を叩いた。
「いいから始めろって!」
「分かったよ!」
奎星は、ようやく話し始めた。
小萱へ向かったこと。何度進んでも道を逸らされ、ようやく古い山道を見つけたこと。地下へ続く巨大な石の入口、そこにいた石像、保管庫、そしてさらに奥で現れた巨大な守護者。
「待て」
日向が止めた。
「何?」
「石像何体?」
「最初三体」
「壊した?」
「壊した」
「お前、そういうとこ変わんねえな」
「先に殴ってきたんだよ!」
「で?」
「そのあとデカいの来て」
「何メートル?」
「四メートルくらい?」
「でっか」
「天井崩れてさ」
「うん」
「スズメちゃんが止めて」
「うん」
「俺が抱えて逃げた」
日向が止まった。
「…………抱えて?」
「うん」
「どうやって?」
「どうって」
奎星は両腕を出した。
「こう」
「…………」
「何だよ」
「いや」
日向は一度だけ深く息を吸い、座り直した。
「続けて」
「何その顔」
「いいから」
「で、洞窟逃げて」
「二人で?」
「うん」
「出口塞がって?」
「うん」
「夜になって?」
「うん」
「泊まった?」
「うん」
日向の目が、みるみる大きくなっていく。
「お前」
「何?」
「洞窟で一晩!?」
「声でけえ!」
「スズメちゃんと!?」
「だから声!」
「二人で!?」
「二人しかいねえんだから二人だろ!」
「何もなかったのか!?」
「何がだよ!」
「何かだよ!」
「ねえよ!」
奎星の顔が僅かに赤くなった。日向の目が鋭くなる。
「あった顔じゃん」
「ねえって!」
「今赤くなった!」
「暑い!」
「夜だぞ!」
「夏!」
「南硫黄島でも今涼しいぞ!」
「うるせえ!」
「奎星」
伊織が呼んだ。
「何!?」
「八重子さんが使った術式」
「そっちの話か……」
「外へ至る魔力経路だけを閉じた、という理解でいい?」
「う、うん」
「魔力そのものは残した」
「そう」
「その術式が母親から君へ、何らかの形で残留した可能性がある」
「スズメちゃんはそう言ってた」
「第零書庫での死の呪文への反応と同一原理の可能性」
「まだ仮説だけど」
「清弦が残した古代魔術?」
「そう!」
伊織の目が、はっきりと輝いた。
「つまり」
「おう」
「君が幕末で清弦に古代魔術を残すよう言ったこと自体が、百五十年以上後の君の生存条件に関与した可能性がある?」
「そうなんだよ!」
「おかしい」
「だろ!?」
「時間因果としてかなりおかしい」
「だよな!」
「でも成立している」
「怖いだろ!?」
「非常に興味深い」
「そこなんだよ、お前は!」
「で」
岳が言った。
「昼」
「何?」
「山降りたあと」
「…………」
「何食べた?」
「お前、ずっと飯の話しかしてねえじゃん!」
「大事」
「唐揚げ定食!」
「大盛り?」
「普通!」
「何個?」
「覚えてねえよ!」
「五?」
「知らん!」
「六?」
「何で増やしてくんだよ!」
「魚は?」
「スズメちゃんが焼き魚定食!」
「何の魚?」
「知らねえ!」
「見なかった?」
「見たけど種類まで覚えてねえ!」
岳は少し残念そうに煎餅を齧った。
「話、戻していい?」
「いい」
「お前が止めてたんだよ!」
奎星は続けた。
地下の石室で見つけた白灰色の球体。触れた瞬間に見えた八重子の記憶。魔法省、眞田、小萱村が隠された理由、八重子と神代冥司、母親へ施された古代魔術、九重院へ託された神代榊、そして自分へ向けられた八重子の最後の言葉。
そこまで話すころには、日向もさすがに茶化さなくなっていた。
「……ばあちゃん、すげえな」
ぽつりと言う。
「うん」
「全部知ってたんだな」
「多分、全部ではないと思う」
「でも」
日向は背もたれへ寄りかかった。
「お前のこと、めちゃくちゃ考えてたんだな」
奎星は少し黙った。
「……うん」
その返事だけは静かだった。
「それで?」
伊織が訊く。
「杖は?」
「あ、そう!」
奎星が神代榊を取り出すと、さっきまでの沈んだ空気が一気に変わった。
「これがやべえんだよ!」
「その話を待っていた」
「だと思った!」
「俺も」
日向が言う。
「お前は絶対違うだろ」
「いや、ちょっと気になる」
「ちょっとかよ!」
奎星は、空木の店で分かったことを話した。
何代もの魔力が層として残っていたこと。最深部に青白い魔力があったこと。それが奎星自身のものだったこと。そして、幕末で神代榊が完成した日、清弦よりも先にその杖へ魔力を流したのが自分だったこと。
「待って」
日向が両手を上げる。
「待って待って」
「何?」
「つまり」
日向は神代榊を指差した。
「それ、清弦の杖なんだろ?」
「うん」
「でもお前の杖なんだろ?」
「今はな」
「でも昔もお前が使った?」
「そう」
「清弦より先に?」
「そう!」
「百五十年前?」
「そう!」
「お前が?」
「そうだって!」
日向は頭を抱えた。
「意味分かんねえ!!」
「だろ!?」
「俺のクィディッチの話が、急にめちゃくちゃ普通に感じる!」
「プロ契約が普通になる話ある!?」
伊織は顎へ手を当てていた。
「でも、閉じた時間構造として考えれば」
「考えられるの!?」
「物体の因果だけなら矛盾はない」
「マジ?」
「神代榊は平坂によって作られた。その直後、未来から来た君が最初に使用した。その後、清弦とその子孫が百五十年以上使い、九重院校長が現代の君へ渡す。そして君が過去へ持っていき――」
「待って待って待って!」
日向が遮った。
「頭痛くなる!」
「俺も最初そうなった!」
「伊織、よく普通の顔で言えるな!」
「事実を並べただけ」
「事実が普通じゃねえんだよ!」
岳が煎餅を食べ終えた。
「で」
「まだ飯!?」
「晩飯」
「さっき一緒に食っただろ!」
「奎星の唐揚げ、一個残ってた」
「お前まさか食った!?」
「楓に止められた」
「楓ナイス!」
「食べたかった」
「俺のだよ!」
四人の声が談話室へ響いた。
久しぶりだった。
こうして、どうでもいいことで話が逸れるのも、日向が大声を出すのも、岳が食べ物の話をするのも、伊織が誰も求めていないほど正確に物事を整理するのも、何も変わっていない。ここに楓がいれば、きっと全員まとめて怒られていただろう。
奎星は、そんなことを思いながら笑った。
「何だよ」
日向が言う。
「いや」
「気持ち悪い」
「急に悪口!」
「何笑ってんだよ」
「別に」
奎星は長椅子へ身体を預けた。
「帰ってきたなって」
「お前がな」
「お前もだろ」
「明日いる?」
「いる」
日向が笑った。
「祭り行くだろ?」
奎星の目が僅かに動いた。
「……行く」
「岳も?」
「行く」
「伊織」
「行くよ」
「楓も来るって」
「じゃあ」
日向は両手を頭の後ろへ組んだ。
「去年と同じだな」
その言葉に、四人の間へ少しだけ静けさが落ちた。
去年。初めての八咫祭。五人で歩き、奎星が迷子になり、岳が大食いをし、花火を見た。そして、その夜に起きたこと。
全員が、同じ記憶を思い出していた。
日向がゆっくり口を開く。
「今年は」
「言うな」
奎星が止める。
「まだ何も言ってねえだろ」
「分かる」
「今年こそ」
「やめろ!」
「何の問題も」
「フラグ立てんな!」
「起きないといいな」
「言ったああああ!」
日向が笑う。
「何だよ!」
「去年それで森入っただろ!」
「俺が言ったわけじゃねえ!」
「鬼火鳥いたし!」
「岳が鳴き声聞いたからだろ!」
二人の視線が岳へ向く。
岳は平然としていた。
「今年は入らない」
「絶対だぞ!」
「多分」
「多分つけんな!」
「鳥がいたら?」
「助ける」
「ほらあああ!」
「怪我してたら仕方ない」
「それはそうだけど!」
「奎星」
伊織が言った。
「大丈夫」
「何が!?」
「去年より全員、経験は増えている」
「お」
「仮に何か起きても」
「そこまで!」
「対処能力は高い」
「起きる前提で話すな!」
日向が吹き出した。岳も僅かに笑い、奎星も結局つられて笑った。
明日は八咫祭。学生として迎える、最後の夏の祭りだ。
去年と同じ五人で、去年とは少し違う自分たちで歩く。そして、もしかすると、友人とはぐれた迷子の生徒を見つけてくれる教師も、どこかを見回っているかもしれない。
「よし」
奎星が立ち上がった。
「寝る!」
「早くね?」
「疲れてんだよ!」
「洞窟泊まりだもんな」
日向がにやにやする。
「そこ拾うな!」
「何もなかった?」
「寝ろ!!」
「顔赤いぞ!」
「日向ァ!」
二人の声が男子寮へ響いた。
「消灯」
伊織が時計を見る。
「あと十二分」
「まだいける!」
「何が?」
「日向殴る時間!」
「来いよ!」
「廊下出るなよ」
岳が言った。
「先生来る」
二人が同時に動きを止めた。
「……寝よう」
「……そうだな」
経験は増えていた。
ほんの少しだけ。
*
やがて男子寮の灯りが、一つ、また一つと消えていった。
窓の向こうには、南硫黄島の夜空が広がっている。海は静かで、校舎も静かだった。昼間の騒がしさが嘘のように遠のき、夜の学校は、明日を待つために息を潜めているようだった。
奎星の枕元では、神代榊が何も言わずに横たわっている。
明日は八咫祭。
去年は、祭りの夜に鬼火鳥を追って森へ入り、黒曜石を見つけ、そこからまた新しい事件が始まった。
今年こそは、誰も怪我をせず、変なものを拾わず、立入禁止の場所へも入らず、過去へ飛ばされることもなく、記憶を失うこともなく、巨大な石像に追われることもなく、ただ屋台を回って、馬鹿なことを言い、花火を見て帰る。
そんな普通の祭りになりますように。
たぶん四人とも、似たようなことを願っていた。
そして、その夜は眠りについた。