マホウトコロ   作:西野圭吾

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第13話 迷子の生徒

 

「一緒に祭りいこ!」

 

 奎星の声が、夕暮れの八咫小路へ飛んだ。

 

 その向こうで、ひゅるるるる、と細い音が空へ昇っていく。やがて、どん、と腹の底へ響く音がして、青い花火が夜になりかけた空へ開いた。

 

 まだ本番ではない。明日の八咫祭に向けた試し打ちなのだろう。それでも、古い商家の屋根や石畳、並んで立つ二人の顔まで、一瞬だけ鮮やかな青に染めるには十分な大きさだった。

 

 光が消える。

 

 スズメは何も言わなかった。

 

 奎星の笑顔が、少しずつ固まっていく。

 

 次の花火が上がった。ひゅるるるる、と夜空へ伸びた音が、今度は赤い光を呼び込む。けれど、スズメはやはり黙ったままだった。奎星の眉が、わずかに下がる。

 

 さっきまでなら、何でもない沈黙だった。スズメが考えているのだろうとか、花火を見ているのだろうとか、その程度に思えたはずだ。

 

 けれど、今は違う。

 

 自分から誘った。それも、調査でも勉強でも、杖の話でもない。祭りへ、二人で行こうと誘ったのだ。

 

 奎星の頭の中で、ついさっきまで存在しなかった不安が、急に大きくなっていく。

 

 ――いや、待て。急だったか?

 

 ――教師と生徒だから?

 

 ――そもそも去年も見回りだったじゃん。

 

 ――ていうか俺、一緒にって言った?

 

 ――言った。

 

 ――めっちゃ言った。

 

 スズメはまだ黙っている。

 

 奎星の肩が、目に見えて落ちていった。

 

「……ダメ?」

 

 空木の店で、百五十年前の自分がどうのと騒いでいた男とは思えない、頼りない声だった。

 

 スズメがようやく奎星を見る。そこには、困ったように眉を下げた十八歳の少年がいた。期待と不安を隠しきれず、ただ返事だけを待っている。もし尻尾があったなら、今ごろ完全に垂れ下がっていただろう。

 

 スズメは、ほんの少しだけ目を逸らした。

 

「……ダメではありません」

 

 奎星の顔が、ぱっと明るくなる。

 

「じゃあ!」

 

「ダメではありませんが」

 

 その一言で、奎星の表情が止まった。

 

「…………が?」

 

「今年も見回りがありますので」

 

 顔から光が消えた。

 

「…………」

 

「申し訳ありません」

 

 スズメは本当に申し訳なさそうだった。だからこそ、奎星は両手を広げて叫んだ。

 

「えええええええ!?」

 

 声が八咫小路いっぱいに響き、閉じたはずの空木の店の中から、猫の「にゃっ」という驚いた声まで聞こえた気がした。

 

「声が大きいです」

 

「だって!」

 

「教師ですから」

 

「去年もそれ言ってた!」

 

「今年も教師です」

 

「そこ変わってない!」

 

「当たり前です」

 

「祭りなのに!」

 

「祭りだから見回るのです」

 

「休もうよ!」

 

「教師全員がそれを言ったら、誰が見回るのです?」

 

「御影先生!」

 

「押しつけないでください」

 

「高宮先生!」

 

「同じです」

 

「早瀬先生!」

 

「一人ずつ売らないでください」

 

「じゃあ校長先生!」

 

「最終手段みたいに言わないでください」

 

 奎星は頭を抱えた。夕暮れの熱が残る石畳の上で、さっきまでの勢いが嘘のようにしぼんでいく。

 

「マジかぁ……」

 

「それに」

 

 スズメが続けた。

 

「今年は学生最後の夏休みでしょう」

 

 奎星が顔を上げる。

 

「うん」

 

「でしたら、友人たちと回った方がいいですよ」

 

 その言葉に、奎星の口が少し閉じた。

 

 友人たち。

 

 日向、岳、伊織、楓。

 

 今年の夏休みは、それぞれが自分の進路へ向かって動いている。日向はクィディッチの遠征とセレクション、岳は魔法生物保護の実習、伊織は術式解析官を目指した補習、楓は教育管理局への進路を見据えた勉強に追われている。

 

 去年までは、夏休みになれば当然のように全員で集まると思っていた。けれど、もう学生最後の夏だ。来年も同じように集まれるとは限らない。

 

「……うん」

 

 奎星は少しだけ俯いた。

 

 分かっている。スズメの言うことは正しい。だから、無理を言うつもりはなかった。

 

「そっか」

 

「はい」

 

「じゃあ、仕方ないな」

 

 そう言って笑おうとしたが、たぶんうまく笑えてはいなかった。

 

 スズメは、そんな奎星の顔を数秒見つめていた。それから、ほんの少しだけ声を和らげる。

 

「……でも」

 

「ん?」

 

「友人とはぐれた」

 

 一拍置いて、スズメは続けた。

 

「迷子の生徒と回ることは、あるかもしれませんね」

 

 奎星の目が止まった。

 

「…………え?」

 

 スズメはもう前を向いていた。

 

「帰りましょうか、蓮根君」

 

「待って」

 

 スズメが歩き出す。

 

「スズメちゃん」

 

「行きますよ」

 

「今のどういう意味?」

 

「今日はもう十分歩きました」

 

「いや、そこじゃなくて!」

 

「私はシャワーが浴びたいです」

 

「俺も浴びたいけど!」

 

「では帰りましょう」

 

「ちょっと待って!」

 

 スズメの歩調は変わらない。奎星は慌ててその横へ追いついた。

 

「友達とはぐれた迷子って」

 

「はい」

 

「去年の俺じゃん」

 

「そうですね」

 

「十七歳だから迷子じゃないって言ったじゃん、俺!」

 

「今年は十八歳ですね」

 

「そこじゃねえ!」

 

「成人した迷子です」

 

「もっと恥ずかしくなった!」

 

 スズメの口元が、ほんの僅かに上がった。

 

 奎星はそれを見逃さなかった。

 

「あ!」

 

「何です?」

 

「今笑った!」

 

「笑っていません」

 

「絶対笑った!」

 

「気のせいです」

 

「またそれ!」

 

 スズメは振り返らない。けれど、その歩調は先ほどより少しだけ速くなっていた。

 

「じゃあ!」

 

 奎星も追いかける。

 

「明日、俺がもし迷子になったら!」

 

「仮定の話には答えません」

 

「見つけてくれるってこと!?」

 

「八咫祭では迷子にならないよう、友人たちから離れないでください」

 

「どっち!?」

 

「行きますよ」

 

「スズメちゃん!」

 

「蓮根君」

 

「何!?」

 

 スズメが足を止めた。奎星も、その隣で立ち止まる。

 

 振り返った彼女は、少し疲れた顔をしていた。それでも、妙に真剣な表情で言う。

 

「私は」

 

「うん」

 

「本当にシャワーが浴びたいのです」

 

 洞穴で一晩を過ごし、山を歩き、電車を乗り継ぎ、魔法省へ行き、そのまま八咫小路まで来たのだ。奎星は三秒ほど黙った。

 

「…………俺も」

 

「では帰ります」

 

「はい」

 

 二人は再び歩き出した。

 

 五歩、十歩と進んだところで、奎星がまた口を開く。

 

「でもさっきのどういう意味!?」

 

「知りません」

 

「スズメちゃ〜ん!」

 

     *

 

 マホウトコロへ戻ったころには、すっかり夜になっていた。

 

 南硫黄島の空には星が浮かび、海から吹く夜風が、昼間の東京とは比べものにならないほど涼しい。見慣れた羊脂玉の校舎は魔法灯に照らされ、白い壁が淡い青色に浮かび上がっていた。

 

「帰ってきた……」

 

「今日二回目ですね」

 

「今度こそ家って感じ」

 

「寮です」

 

「ほぼ家」

 

「卒業したら出ていく場所です」

 

「急に寂しいこと言うなよ!」

 

 奎星は肩を落とした。

 

 スズメはそのまま教員区画へ向かうのかと思われたが、足は大食堂の方へ向いた。

 

「飯?」

 

「夕食です」

 

「腹減った!」

 

「さっきまで疲れたと言っていたでしょう」

 

「疲労と腹は別!」

 

「便利な身体ですね」

 

「十八年間これでやってます」

 

「今後が心配です」

 

 大食堂の扉が近づく。

 

 夏休み、それもお盆の時期だ。普段なら学校に残っている生徒はかなり少ない。補習や研究、実習、教員の手伝いなど、それぞれの事情を抱えた者だけが残っているため、いつもなら長机の半分ほどしか埋まらないはずだった。

 

 だから奎星も、静かな夕食を想像していた。

 

 しかし、扉を開けた瞬間、その予想は見事に裏切られた。

 

「だからそれは俺のだって!」

 

「名前書いてないでしょ!」

 

「俺が持ってきたんだよ!」

 

「共有部分に置いた時点で共有物」

 

「その理論だと冷蔵庫終わるぞ!?」

 

「食べた」

 

「岳ぅぅぅぅ!!」

 

「うまかった」

 

「お前が一番駄目だろ!!」

 

 奎星は扉の前で立ち止まった。

 

 騒がしい。ものすごく騒がしい。

 

 大食堂の中央付近に、水無瀬楓、岩戸岳、伊織、そして朝比奈日向がいた。

 

「だから俺のプリンだったんだって!」

 

 日向の声が響く。

 

 奎星の目が一気に大きくなった。

 

「日向!!」

 

 声に気づいた日向が振り返る。一瞬だけ驚いた顔をしたが、次の瞬間には、それ以上に大きな笑顔を浮かべていた。

 

「奎星ぇ!」

 

 日向も立ち上がる。

 

 二人は互いに駆け寄り、ぱんっと強く手を合わせた。そのまま手を握り、引き寄せるように肩をぶつけ合う。鈍い音がして、二人とも同時に顔をしかめた。

 

「いてぇ!」

 

「お前から来ただろ!」

 

「日向、ちょっとデカくなった!?」

 

「なってねえよ!」

 

「筋肉増えてね!?」

 

「飛びまくってたからな!」

 

「うわ、腹立つ!」

 

「何でだよ!」

 

 二人は顔を見合わせて笑った。

 

 楓が呆れたように頬杖をつく。

 

「外国映画みたいな挨拶してる」

 

「一年ぶりみたいだね」

 

 伊織が言った。

 

「何日?」

 

 岳が訊く。

 

「そこ数える必要ある?」

 

 楓が返す。

 

「体感一か月!」

 

 奎星は日向の肩を叩いた。

 

「お前いつ帰ってきたの!?」

 

「今日!」

 

「言えよ!」

 

「今会ったからいいだろ!」

 

「そういう問題じゃねえ!」

 

「お前もどこ行ってたんだよ!」

 

「山!」

 

「雑!」

 

「地下!」

 

「もっと分かんねえ!」

 

「あと魔法省!」

 

「いつものやつじゃん!」

 

「いつものじゃない!」

 

「蓮根君」

 

 後ろから声がした。

 

 奎星が振り返ると、スズメが大食堂へ入ってくるところだった。

 

「あ」

 

 さっきまでの勢いを、奎星は少しだけ引っ込める。

 

「スズメちゃんもおかえり」

 

「烏丸先生です」

 

「学校だから?」

 

「学校でなくてもです」

 

「さっきずっとスズメちゃんだったじゃん」

 

「それはあなたが勝手に呼んでいるだけです」

 

「烏丸先生、お疲れさまです」

 

 楓が頭を下げる。

 

「お疲れさまです、水無瀬さん」

 

「先生も今戻ったんですか?」

 

「はい」

 

「こいつと?」

 

 日向が奎星を指差した。

 

「はい」

 

 日向の目が細くなる。

 

 奎星は嫌な予感を覚えた。

 

「何だよ」

 

「別に」

 

「その顔何?」

 

「何でもねえよ」

 

「絶対何かあるだろ」

 

「あとで聞く」

 

「怖っ」

 

「ご飯にしたら?」

 

 楓が二人を遮った。

 

「そうだ、腹減った!」

 

 奎星が席へ向かった、そのときだった。

 

 大食堂の奥から、小さな足音が聞こえてきた。

 

「ゴハン!」

 

「お!」

 

 天ぷらたちだった。

 

 数人の小妖が、自分たちの身体ほどもある盆を両手で抱え、料理を運んでくる。味噌汁、焼き魚、煮物、白飯。別の小妖は山盛りの唐揚げを運び、その後ろでは茶碗を積んだ一匹が、崩さないよう慎重に歩いていた。

 

「天ぷら!」

 

「レンコン!」

 

「久しぶり!」

 

「キョウ、イタ!」

 

「いつもいるだろ!」

 

「イル!」

 

「そうだよな!」

 

 奎星は笑いながら、料理の載った盆を受け取った。そこで、ふと手を止める。

 

「……お盆なのに働いてんだな」

 

 天ぷらが奎星を見る。

 

「オボン!」

 

「うん」

 

「テンプラ、オボン、ハコブ!」

 

「…………」

 

 奎星が盆を見る。天ぷらも盆を見る。

 

「オボン!」

 

「いや」

 

 奎星は首を振った。

 

「そのお盆じゃなくて」

 

「オボン?」

 

「そっちもお盆だけど」

 

「オボン!」

 

「ややこしい!」

 

「何を小妖相手に一人で混乱してんのよ」

 

 楓が呆れた。

 

「だってお盆にお盆運んでる!」

 

「偶然でしょ」

 

「奇跡じゃん!」

 

「どこが?」

 

 天ぷらが胸を張った。

 

「テンプラ、オボン、ハコブ!」

 

「偉い!」

 

「エライ!」

 

「話が終わった……」

 

 楓が額を押さえた。

 

     *

 

「で!」

 

 奎星は唐揚げを一つ口へ放り込みながら、日向へ身を乗り出した。

 

「どうだった!?」

 

「何が?」

 

「セレクション!」

 

「ああ」

 

 日向がにやりと笑う。その顔を見ただけで、奎星にはだいたいの結果が分かった。

 

「お前」

 

「ぶちかましてきた」

 

「マジ!?」

 

「当然」

 

「うおお!」

 

「うるさい」

 

 楓が言う。

 

 日向は止まらなかった。

 

「向こうのコーチ、最初は『学生だし様子見るか』みてえな顔してたんだよ」

 

「うん!」

 

「一本目で抜いた」

 

「何人!?」

 

「二人」

 

「うおっ!」

 

「二本目で決めた」

 

「何を!?」

 

「そりゃゴールだろ!」

 

「マジかよ!」

 

 奎星が机を叩く。周囲にいた夏季補習中の生徒たちが、何事かと振り返った。

 

 日向はさらに得意げに胸を張る。

 

「そのあと別の練習試合も出されてさ」

 

「うん!」

 

「そこでまた取った」

 

「二回!?」

 

「二回」

 

「お前やば!」

 

「だろ?」

 

「日向」

 

 伊織が淡々と言った。

 

「途中で箒から落ちた話は?」

 

「今いらねえだろ、それ!」

 

「落ちたの!?」

 

 奎星が爆笑する。

 

「着地したんだよ!」

 

「地面に?」

 

「結果だけ見ればな!」

 

「落ちてんじゃん!」

 

「攻めた結果だ!」

 

「顔から?」

 

「肩!」

 

「惜しい!」

 

「何がだよ!」

 

 日向が奎星の肩を叩き、奎星は笑いながら身をかわした。

 

「でも」

 

 楓が口を挟む。

 

「結果は本当に良かったみたいよ」

 

「へえ?」

 

「何チームかから話が来てるんだって」

 

 奎星の動きが止まった。

 

「…………話?」

 

 日向が鼻の下を擦った。

 

「まあ」

 

「何」

 

「二軍契約だけど」

 

「…………」

 

「いくつかオファー来てる」

 

 数秒の沈黙が落ちた。

 

 奎星は完全に停止していたが、次の瞬間、椅子を鳴らして立ち上がった。

 

「マジィ!?」

 

 大食堂が震えた。

 

「でけえ!」

 

「日向、プロ!?」

 

「まだ決めてねえって!」

 

「すげえじゃん!」

 

 奎星は日向の両肩を掴んだ。

 

「お前、プロじゃん!」

 

「だから二軍だって!」

 

「プロはプロだろ!」

 

「まあな!」

 

「うおおおお!」

 

「うおおおお!」

 

 二人で叫ぶ。

 

「うるさい!」

 

 楓の声が飛んだが、今日は止める人間が悪かった。

 

 日向が勢いよく自分の椅子へ片足を乗せる。続いてもう片方の足まで上げ、とうとう椅子の上に立った。

 

「だがな!」

 

「おう!」

 

「俺は!」

 

 日向は拳を握り、食堂中を見渡した。

 

「こんな契約で収まる器じゃねえからな!」

 

「降りなさい!」

 

 楓が叫ぶ。

 

「二軍だ〜!?」

 

 日向が拳を突き上げる。

 

「違う!」

 

「何が!?」

 

「俺が狙うのは一軍!」

 

「うおおお!」

 

「いや!」

 

 日向の目が燃えた。

 

「かくなる上は!」

 

「おう!」

 

「スタメン確約契約だって取ってやるよ!!」

 

「うおおおおおおお!!」

 

 奎星まで隣の椅子へ片足を乗せた。

 

 ぱちぱちぱちぱちぱち、と周囲から拍手が起こる。夏休み中も補習や研究で学校に残っていた生徒たちまで、何となく勢いに巻き込まれて声を上げた。

 

「朝比奈ー!」

 

「頑張れー!」

 

「一軍行けー!」

 

「スタメン取れー!」

 

「ほら見ろ!」

 

 日向が両腕を広げる。

 

「みんな俺の時代を待ってる!」

 

「待ってないわよ!」

 

 楓が日向の足を掴もうとする。

 

「やめろ! プロ選手の脚だぞ!」

 

「まだ学生!」

 

「未来のプロ選手!」

 

「ならなおさら椅子から降りなさい!」

 

「楓!」

 

「何!?」

 

「俺がプロになったらサインやる!」

 

「いらない!」

 

「今なら予約できるぞ!」

 

「いらない!」

 

「二枚がいい?」

 

「枚数の問題じゃない!」

 

 岳が食事を続けながら言った。

 

「売れるかも」

 

 楓が動きを止める。

 

「岳まで何言ってんのよ!」

 

「初期サイン」

 

「お前分かってんじゃん!」

 

 日向が岳を指差した。

 

「投資」

 

 伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「プロ入り前の署名なら、希少価値は出るかもしれない」

 

「伊織!?」

 

「ただし一軍定着できなければ」

 

「続き言うな!!」

 

「日向!」

 

 奎星が椅子へ上がる。

 

「俺も今のうちに百枚くらい書いてもらう!」

 

「転売する気満々じゃねえか!」

 

「違う! 老後の資産!」

 

「もっと悪い!」

 

 大食堂は、完全に収拾がつかなくなっていた。

 

 普段なら、御影の低い声で「椅子から降りろ」と言われるところだ。あるいは高宮が、怒鳴って無理やり引き摺り下ろされただろう。だが、今日はどちらもいない。他の教師も席を外しており、残っている教員は少なかった。

 

 だから、奎星と日向はますます調子に乗った。

 

「日向ー!」

 

「おう!」

 

「一軍!」

 

「一軍!」

 

「スタメン!」

 

「スタメン!」

 

「日本代表!」

 

「そこまで行く!!」

 

「世界一!」

 

「取る!!」

 

「もう話が広がりすぎ!」

 

 楓が叫んだ、そのときだった。

 

「……やれやれ」

 

 静かな声がした。

 

 奎星の背筋を、冷たいものが走る。

 

 日向も動きを止めた。

 

 二人の視線が、同時に横へ向く。

 

 スズメが立っていた。

 

 さっきまで静かに食事を取っていたはずの彼女の右手には、杖が握られている。

 

「…………日向」

 

「…………何だ」

 

「スズメちゃん、杖抜いてる」

 

「見えてる」

 

「何する気だと思う?」

 

「分からん」

 

「逃げる?」

 

「逃げる」

 

 二人は同時に椅子から飛び降りた。

 

「うわあああ!」

 

「逃げろおお!」

 

「蓮根君!」

 

「朝比奈君!」

 

 左右へ散る。

 

「何で俺まで!?」

 

「日向が始めたから!」

 

「お前も椅子乗っただろ!」

 

「一瞬!」

 

「同罪だ!」

 

「待ちなさい!」

 

「嫌だあああ!」

 

 補習組の生徒たちが笑い出した。

 

 楓は深く息を吐き、伊織は何事もなかったように食事を続けている。岳は、奎星が置いていった唐揚げへ視線を向けていた。

 

「岳」

 

 楓が先に言った。

 

「駄目よ」

 

「まだ何もしてない」

 

「顔に書いてある」

 

「…………」

 

「返しなさい」

 

「まだ取ってない」

 

「その手を戻して」

 

 岳の手が、静かに自分の皿へ戻った。

 

     *

 

 夜の男子寮談話室は、昼間の大食堂とは別の場所のように静かだった。

 

 窓の外では虫が鳴き、遠くから波の音が聞こえている。夏休み中の寮には帰省している生徒も多く、普段ならあちこちの部屋から聞こえてくる話し声も、今夜はほとんどなかった。

 

 長椅子の中央に奎星が座り、その正面に日向、横の椅子に伊織がいる。岳は少し離れたところで、どこから持ってきたのか煎餅を食べていた。

 

「で?」

 

 日向が言った。

 

「全部話せ」

 

「何が?」

 

「お前が山で何してたか」

 

「長いぞ」

 

 奎星が言う。

 

「いいから」

 

「マジで長い」

 

「俺の遠征話より?」

 

「比べ物にならん」

 

「じゃあ聞く」

 

 奎星は少し考えた。

 

「どっから?」

 

「最初」

 

 伊織が即答した。

 

「小萱村から」

 

「やっぱそこ?」

 

「地下施設だけでは成立しない」

 

「ですよね」

 

「飯は?」

 

 岳が訊いた。

 

「何が?」

 

「小萱行った日」

 

「今そこ!?」

 

「弁当?」

 

「……弁当食った」

 

「中身」

 

「いる!?」

 

「必要」

 

「何に!?」

 

「話の流れ」

 

「絶対いらない!」

 

 日向が机を叩いた。

 

「いいから始めろって!」

 

「分かったよ!」

 

 奎星は、ようやく話し始めた。

 

 小萱へ向かったこと。何度進んでも道を逸らされ、ようやく古い山道を見つけたこと。地下へ続く巨大な石の入口、そこにいた石像、保管庫、そしてさらに奥で現れた巨大な守護者。

 

「待て」

 

 日向が止めた。

 

「何?」

 

「石像何体?」

 

「最初三体」

 

「壊した?」

 

「壊した」

 

「お前、そういうとこ変わんねえな」

 

「先に殴ってきたんだよ!」

 

「で?」

 

「そのあとデカいの来て」

 

「何メートル?」

 

「四メートルくらい?」

 

「でっか」

 

「天井崩れてさ」

 

「うん」

 

「スズメちゃんが止めて」

 

「うん」

 

「俺が抱えて逃げた」

 

 日向が止まった。

 

「…………抱えて?」

 

「うん」

 

「どうやって?」

 

「どうって」

 

 奎星は両腕を出した。

 

「こう」

 

「…………」

 

「何だよ」

 

「いや」

 

 日向は一度だけ深く息を吸い、座り直した。

 

「続けて」

 

「何その顔」

 

「いいから」

 

「で、洞窟逃げて」

 

「二人で?」

 

「うん」

 

「出口塞がって?」

 

「うん」

 

「夜になって?」

 

「うん」

 

「泊まった?」

 

「うん」

 

 日向の目が、みるみる大きくなっていく。

 

「お前」

 

「何?」

 

「洞窟で一晩!?」

 

「声でけえ!」

 

「スズメちゃんと!?」

 

「だから声!」

 

「二人で!?」

 

「二人しかいねえんだから二人だろ!」

 

「何もなかったのか!?」

 

「何がだよ!」

 

「何かだよ!」

 

「ねえよ!」

 

 奎星の顔が僅かに赤くなった。日向の目が鋭くなる。

 

「あった顔じゃん」

 

「ねえって!」

 

「今赤くなった!」

 

「暑い!」

 

「夜だぞ!」

 

「夏!」

 

「南硫黄島でも今涼しいぞ!」

 

「うるせえ!」

 

「奎星」

 

 伊織が呼んだ。

 

「何!?」

 

「八重子さんが使った術式」

 

「そっちの話か……」

 

「外へ至る魔力経路だけを閉じた、という理解でいい?」

 

「う、うん」

 

「魔力そのものは残した」

 

「そう」

 

「その術式が母親から君へ、何らかの形で残留した可能性がある」

 

「スズメちゃんはそう言ってた」

 

「第零書庫での死の呪文への反応と同一原理の可能性」

 

「まだ仮説だけど」

 

「清弦が残した古代魔術?」

 

「そう!」

 

 伊織の目が、はっきりと輝いた。

 

「つまり」

 

「おう」

 

「君が幕末で清弦に古代魔術を残すよう言ったこと自体が、百五十年以上後の君の生存条件に関与した可能性がある?」

 

「そうなんだよ!」

 

「おかしい」

 

「だろ!?」

 

「時間因果としてかなりおかしい」

 

「だよな!」

 

「でも成立している」

 

「怖いだろ!?」

 

「非常に興味深い」

 

「そこなんだよ、お前は!」

 

「で」

 

 岳が言った。

 

「昼」

 

「何?」

 

「山降りたあと」

 

「…………」

 

「何食べた?」

 

「お前、ずっと飯の話しかしてねえじゃん!」

 

「大事」

 

「唐揚げ定食!」

 

「大盛り?」

 

「普通!」

 

「何個?」

 

「覚えてねえよ!」

 

「五?」

 

「知らん!」

 

「六?」

 

「何で増やしてくんだよ!」

 

「魚は?」

 

「スズメちゃんが焼き魚定食!」

 

「何の魚?」

 

「知らねえ!」

 

「見なかった?」

 

「見たけど種類まで覚えてねえ!」

 

 岳は少し残念そうに煎餅を齧った。

 

「話、戻していい?」

 

「いい」

 

「お前が止めてたんだよ!」

 

 奎星は続けた。

 

 地下の石室で見つけた白灰色の球体。触れた瞬間に見えた八重子の記憶。魔法省、眞田、小萱村が隠された理由、八重子と神代冥司、母親へ施された古代魔術、九重院へ託された神代榊、そして自分へ向けられた八重子の最後の言葉。

 

 そこまで話すころには、日向もさすがに茶化さなくなっていた。

 

「……ばあちゃん、すげえな」

 

 ぽつりと言う。

 

「うん」

 

「全部知ってたんだな」

 

「多分、全部ではないと思う」

 

「でも」

 

 日向は背もたれへ寄りかかった。

 

「お前のこと、めちゃくちゃ考えてたんだな」

 

 奎星は少し黙った。

 

「……うん」

 

 その返事だけは静かだった。

 

「それで?」

 

 伊織が訊く。

 

「杖は?」

 

「あ、そう!」

 

 奎星が神代榊を取り出すと、さっきまでの沈んだ空気が一気に変わった。

 

「これがやべえんだよ!」

 

「その話を待っていた」

 

「だと思った!」

 

「俺も」

 

 日向が言う。

 

「お前は絶対違うだろ」

 

「いや、ちょっと気になる」

 

「ちょっとかよ!」

 

 奎星は、空木の店で分かったことを話した。

 

 何代もの魔力が層として残っていたこと。最深部に青白い魔力があったこと。それが奎星自身のものだったこと。そして、幕末で神代榊が完成した日、清弦よりも先にその杖へ魔力を流したのが自分だったこと。

 

「待って」

 

 日向が両手を上げる。

 

「待って待って」

 

「何?」

 

「つまり」

 

 日向は神代榊を指差した。

 

「それ、清弦の杖なんだろ?」

 

「うん」

 

「でもお前の杖なんだろ?」

 

「今はな」

 

「でも昔もお前が使った?」

 

「そう」

 

「清弦より先に?」

 

「そう!」

 

「百五十年前?」

 

「そう!」

 

「お前が?」

 

「そうだって!」

 

 日向は頭を抱えた。

 

「意味分かんねえ!!」

 

「だろ!?」

 

「俺のクィディッチの話が、急にめちゃくちゃ普通に感じる!」

 

「プロ契約が普通になる話ある!?」

 

 伊織は顎へ手を当てていた。

 

「でも、閉じた時間構造として考えれば」

 

「考えられるの!?」

 

「物体の因果だけなら矛盾はない」

 

「マジ?」

 

「神代榊は平坂によって作られた。その直後、未来から来た君が最初に使用した。その後、清弦とその子孫が百五十年以上使い、九重院校長が現代の君へ渡す。そして君が過去へ持っていき――」

 

「待って待って待って!」

 

 日向が遮った。

 

「頭痛くなる!」

 

「俺も最初そうなった!」

 

「伊織、よく普通の顔で言えるな!」

 

「事実を並べただけ」

 

「事実が普通じゃねえんだよ!」

 

 岳が煎餅を食べ終えた。

 

「で」

 

「まだ飯!?」

 

「晩飯」

 

「さっき一緒に食っただろ!」

 

「奎星の唐揚げ、一個残ってた」

 

「お前まさか食った!?」

 

「楓に止められた」

 

「楓ナイス!」

 

「食べたかった」

 

「俺のだよ!」

 

 四人の声が談話室へ響いた。

 

 久しぶりだった。

 

 こうして、どうでもいいことで話が逸れるのも、日向が大声を出すのも、岳が食べ物の話をするのも、伊織が誰も求めていないほど正確に物事を整理するのも、何も変わっていない。ここに楓がいれば、きっと全員まとめて怒られていただろう。

 

 奎星は、そんなことを思いながら笑った。

 

「何だよ」

 

 日向が言う。

 

「いや」

 

「気持ち悪い」

 

「急に悪口!」

 

「何笑ってんだよ」

 

「別に」

 

 奎星は長椅子へ身体を預けた。

 

「帰ってきたなって」

 

「お前がな」

 

「お前もだろ」

 

「明日いる?」

 

「いる」

 

 日向が笑った。

 

「祭り行くだろ?」

 

 奎星の目が僅かに動いた。

 

「……行く」

 

「岳も?」

 

「行く」

 

「伊織」

 

「行くよ」

 

「楓も来るって」

 

「じゃあ」

 

 日向は両手を頭の後ろへ組んだ。

 

「去年と同じだな」

 

 その言葉に、四人の間へ少しだけ静けさが落ちた。

 

 去年。初めての八咫祭。五人で歩き、奎星が迷子になり、岳が大食いをし、花火を見た。そして、その夜に起きたこと。

 

 全員が、同じ記憶を思い出していた。

 

 日向がゆっくり口を開く。

 

「今年は」

 

「言うな」

 

 奎星が止める。

 

「まだ何も言ってねえだろ」

 

「分かる」

 

「今年こそ」

 

「やめろ!」

 

「何の問題も」

 

「フラグ立てんな!」

 

「起きないといいな」

 

「言ったああああ!」

 

 日向が笑う。

 

「何だよ!」

 

「去年それで森入っただろ!」

 

「俺が言ったわけじゃねえ!」

 

「鬼火鳥いたし!」

 

「岳が鳴き声聞いたからだろ!」

 

 二人の視線が岳へ向く。

 

 岳は平然としていた。

 

「今年は入らない」

 

「絶対だぞ!」

 

「多分」

 

「多分つけんな!」

 

「鳥がいたら?」

 

「助ける」

 

「ほらあああ!」

 

「怪我してたら仕方ない」

 

「それはそうだけど!」

 

「奎星」

 

 伊織が言った。

 

「大丈夫」

 

「何が!?」

 

「去年より全員、経験は増えている」

 

「お」

 

「仮に何か起きても」

 

「そこまで!」

 

「対処能力は高い」

 

「起きる前提で話すな!」

 

 日向が吹き出した。岳も僅かに笑い、奎星も結局つられて笑った。

 

 明日は八咫祭。学生として迎える、最後の夏の祭りだ。

 

 去年と同じ五人で、去年とは少し違う自分たちで歩く。そして、もしかすると、友人とはぐれた迷子の生徒を見つけてくれる教師も、どこかを見回っているかもしれない。

 

「よし」

 

 奎星が立ち上がった。

 

「寝る!」

 

「早くね?」

 

「疲れてんだよ!」

 

「洞窟泊まりだもんな」

 

 日向がにやにやする。

 

「そこ拾うな!」

 

「何もなかった?」

 

「寝ろ!!」

 

「顔赤いぞ!」

 

「日向ァ!」

 

 二人の声が男子寮へ響いた。

 

「消灯」

 

 伊織が時計を見る。

 

「あと十二分」

 

「まだいける!」

 

「何が?」

 

「日向殴る時間!」

 

「来いよ!」

 

「廊下出るなよ」

 

 岳が言った。

 

「先生来る」

 

 二人が同時に動きを止めた。

 

「……寝よう」

 

「……そうだな」

 

 経験は増えていた。

 

 ほんの少しだけ。

 

     *

 

 やがて男子寮の灯りが、一つ、また一つと消えていった。

 

 窓の向こうには、南硫黄島の夜空が広がっている。海は静かで、校舎も静かだった。昼間の騒がしさが嘘のように遠のき、夜の学校は、明日を待つために息を潜めているようだった。

 

 奎星の枕元では、神代榊が何も言わずに横たわっている。

 

 明日は八咫祭。

 

 去年は、祭りの夜に鬼火鳥を追って森へ入り、黒曜石を見つけ、そこからまた新しい事件が始まった。

 

 今年こそは、誰も怪我をせず、変なものを拾わず、立入禁止の場所へも入らず、過去へ飛ばされることもなく、記憶を失うこともなく、巨大な石像に追われることもなく、ただ屋台を回って、馬鹿なことを言い、花火を見て帰る。

 

 そんな普通の祭りになりますように。

 

 たぶん四人とも、似たようなことを願っていた。

 

 そして、その夜は眠りについた。

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