爆発の直前、蓮根奎星が考えたのは、自分のことではなかった。
第零書庫の床を走っていた青白い光が、壁を伝い、天井へ駆け上がる。無数の書架が軋み、古代の巻物が一斉に震え始めた瞬間、奎星は反射的に振り返った。
そこには、まだ自力で立つこともできない烏丸スズメがいた。
「スズメちゃん!」
考えて選んだ行動ではなかった。ただ、彼女を自分の身体の内側へ隠すように、奎星は両腕でスズメを抱き込んだ。そのまま床へ伏せた直後、耳を破るような轟音が響き、凄まじい衝撃が背中を襲った。
天井から砕けた石が降り注ぎ、古代の書架が次々と倒れていく。巻物や羊皮紙が暴風に巻き上げられ、書庫の中を鳥の群れのように舞い乱れた。奎星は歯を食いしばりながら、片手でスズメの後頭部を覆う。背中や肩へ瓦礫がぶつかるたびに呻き声が漏れたが、それでも腕だけは決して緩めなかった。
やがて、世界を真っ白に染めていた光が消えた。
しばらくの間、何も聞こえなかった。耳鳴りだけが、頭の奥で高く鳴り続けている。
第零書庫には灰色の煙が満ちていた。倒れた書架の隙間から青白い火花が小さく弾け、封印の破れた巻物が誰にも触れられていないのに頁をめくっている。天井から崩れ落ちた石の粉が、霧のようにゆっくりと降っていた。
奎星は横向きに倒れたまま、腕の中にいるスズメへ視線を落とした。
距離が近い。
あまりにも近かった。
スズメも同じことに気づいたらしく、煙に濡れた睫毛を震わせながら、すぐ目の前にある奎星の顔を見上げていた。
「……蓮根君?」
「怪我、ない……?」
奎星の声は掠れていた。
頬には細い切り傷が走り、額から流れた血が片方の眉へかかっている。制服は背中から肩にかけて大きく破れ、瓦礫を受けたせいで全身が煤だらけだった。
自分のほうが明らかに酷い有様なのに、最初に出てきた言葉はそれだった。
スズメは一瞬、何を言われたのか理解できないような顔をした。それから眉を寄せ、痛む腕を動かして奎星の肩を掴む。
「何をしているんですか……!」
「何って……庇った」
「見れば分かります! なぜあなたが私を庇っているのですか!」
「だって、危なかったし……」
「あなたのほうがボロボロでしょう!」
怒っている。
けれど、その声はいつもの叱り方とは違っていた。声の奥に、隠しきれない震えが混じっている。
奎星はそんなスズメの顔を見て、少しだけ安心したように笑った。
「よかった。元気じゃん」
「元気ではありません!」
「怒鳴れるなら大丈夫だろ」
「その理屈はどこで覚えたのですか!」
「今考えた」
「考えてから喋ってください!」
スズメが言い返した、そのときだった。
瓦礫の向こうから、石の砕ける音がした。
二人は同時に顔を上げる。
煙の中で、一つの影が動いた。
「……馬鹿な」
久我朔弥だった。
倒れた書架を押し退けながら、よろめくように立ち上がる。額から血が流れ、いつも隙なく整えられていた髪は乱れ、濃灰色の長衣も肩から大きく裂けていた。
それでも、右手には杖が握られている。
奎星の神代榊の杖は、久我から数メートル離れた瓦礫の中へ転がっていた。
久我は自分の手を見つめ、それから奎星へ視線を移した。その表情に、もはや教師だった頃の穏やかさは残っていない。
「ありえない……」
何かに取り憑かれたように首を振りながら、久我は一歩前へ出た。
「アバダ・ケダブラだぞ……死の呪文だ。防御不能、反対呪文なし。直撃すれば死ぬ。それを……素手で?」
奎星はスズメを庇うように身体を起こそうとした。しかし腕へ力を込めた瞬間、背中に焼けるような痛みが走る。
「っ……!」
身体が動かない。
爆発の衝撃をまともに受けたせいで、脚もまだ感覚が鈍かった。それでも奎星は歯を食いしばり、スズメの前へ出ようとする。
久我はその姿を見ていた。
信じられないものを前にした恐怖と、それを解明したい研究者としての欲望が混じり合い、目だけが異様なほど大きく開かれている。
「貴様は……」
杖が上がった。
「貴様は、なんなんだっ!」
「蓮根君!」
久我が杖を振る。
「クルーシオ!」
赤い光が走った。
奎星の胸へ命中した瞬間、全身の神経を一本ずつ焼かれたような激痛が身体を貫いた。
「っぐ、ああああああああっ!!」
背中が反り返る。指が痙攣し、肺の中にあった空気が一気に押し出された。
頭の中が真っ白になるほどの痛みだった。
これまで怪我をしたことならある。骨折も、転んで膝を擦りむいたことも、喧嘩で殴られたこともあった。しかし、これはそのどれとも違う。
痛みそのものを、魔法で身体へ直接流し込まれている。
「奎星!」
スズメが身体を起こし、倒れ込む奎星を抱き留めた。
「久我先生、やめなさい!」
久我は聞いていなかった。
杖先を奎星へ向けたまま、目を細める。
「……弱い?」
クルーシオは確かに奎星を苦しめている。しかし、久我の知る呪文とは明らかに違っていた。
本来なら、まともに受けた人間は身体を動かす余裕など残らない。思考さえ奪われ、ただ痛みから逃れようと悲鳴を上げ続けるはずだった。
なのに奎星は、スズメの衣服を片手で掴みながら、苦痛の中でも意識を失っていない。
それどころか。
奎星の皮膚の下で、先ほどと同じ青白い光が微かに明滅していた。
「何だ……これは」
久我がさらに魔力を込める。
奎星の喉から、押し殺せない悲鳴が漏れた。それでも呪文は深く入らない。奎星の身体へ触れた瞬間、クルーシオそのものが濁り、力を失っていく。
まるで、魔法そのものがこの少年を傷つけることを拒絶しているかのようだった。
久我は数秒後、苛立ったように杖を振り下ろして呪文を止めた。
「はっ……は……」
奎星はスズメの腕の中で荒い呼吸を繰り返していた。全身から力が抜け、額には冷たい汗が浮かんでいる。
スズメは震える手で奎星の頬に触れた。
「蓮根君、私を見てください」
奎星の焦点が、ゆっくりと合う。
「……スズメちゃん」
「はい」
「これ……めっちゃ痛いな……」
「喋らなくていいです」
「御影先生……これ食らったことあんのかな……」
「今それを考えますか!?」
奎星は弱々しく笑った。
スズメは泣きそうなほど眉を寄せる。
「本当に、あなたという人は……」
その瞬間、轟音が響いた。
今度は爆発ではない。
第零書庫へ続く石扉が、外側から強引に吹き飛ばされた音だった。
煙が大きく揺れる。
「全員、動くな」
低い声が響いた。
久我の表情が固まる。
スズメが振り返り、奎星も痛む身体を少しだけ起こして入口を見た。
そこに立っていたのは、御影玄一郎だった。
普段と同じ黒灰色の長衣をまとっているが、裾は走ってきたため大きく乱れている。左頬の傷を横切るように鋭い目が久我を捉え、右手にはすでに杖が握られていた。
その後ろから、三人の生徒が顔を出す。
「奎星!」
楓だった。
「奎星!」
岳が続く。
伊織は周囲を見回しながら、短く言った。
「……生きてるね」
奎星が目を丸くする。
「お前ら……なんで」
「お前が昼飯の途中で消えたからだよ!」
岳が怒鳴った。
「勝手にいなくなって、先生たちまで走り回っていたら心配するでしょう!」
楓も珍しく声を荒らげる。
伊織は倒れた書架と黒焦げになった床、それからスズメに抱かれている奎星を見て、眼鏡の奥の目を細めた。
「心配して正解だったみたいだ」
御影が片手を上げる。
「三人とも、そこから動くな」
その一言で、誰も前へ出なかった。
御影は久我を見たまま、左手を開く。掌の上には、小さな黒い石が載っていた。
黒曜石。
奎星の顔が変わる。
久我も、それを見た。
「訓練場を調べ直した」
御影の声は静かだった。
「決闘円の縁に埋め込まれていた。魔力増幅術式を刻んだ黒曜石だ」
スズメが息を呑む。
御影は続けた。
「藤森の診断と残留魔力も照合した。蓮根が放った魔力は、発動直前までは適正だった」
奎星が御影を見る。
「……先生」
御影の視線が、一度だけ奎星へ向いた。
「蓮根」
「……はい」
「お前の魔法は完璧だった」
奎星の目が大きくなる。
たった一言だった。
けれど、昨日から胸の中へ刺さったままだったものが、ほんの少しだけ抜けた。
御影は再び久我を見る。
その表情からは、教師としての温度が完全に消えていた。
かつて日本の魔法犯罪者たちが何度も見た顔。
禍祓官、御影玄一郎の顔だった。
「久我朔弥」
久我は黙ったまま杖を構える。
「言い逃れはできんぞ」
楓が黒曜石を見る。それから久我へ視線を移した。
「日向を傷つけたのも……あんただったのね……!」
怒りが顔へ浮かぶ。
楓は杖を抜いた。
「水無瀬」
御影の声が飛ぶ。
楓が止まった。
「下がれ」
冷たく、有無を言わせない声だった。
楓は唇を噛んだ。
日向が壁へ叩きつけられた光景。目を覚まさなかった時間。泣きながら名前を呼んだ自分。
怒りは消えない。
それでも御影の背中を見て、楓は杖を下ろした。
「……はい」
御影が一歩前へ出る。
久我との距離は十メートル。煙の中で、二人の教師が互いへ杖を向けた。
御影は低い声で告げる。
「日本魔法法・禁呪取締条項、ならびにマホウトコロ校内非常保安規則に基づく」
杖先が久我の胸へ向く。
「久我朔弥。殺人未遂、許されざる呪文の行使、魔力増幅による生徒への傷害、および第零書庫への不法侵入と禁制魔術書窃取の現行犯として――」
御影の目が細くなる。
「禍祓官の名において、貴様を拘束する」
久我の口元が歪んだ。
「……御影玄一郎」
その名前を、噛み締めるように呼ぶ。
「元、でしょう?」
「試してみろ」
久我の杖が動いた。
先に撃った。
「ステューピファイ!」
赤い閃光が走る。
御影は避けなかった。杖先を僅かに動かす。
「プロテゴ」
盾が現れ、呪文を弾き返す。
その直後には、御影はもう次の動作へ入っていた。
「エクスペリアームス!」
久我が横へ飛ぶ。赤い光が肩を掠めた。
しかし、その着地点を御影は読んでいた。
「インカーセラス!」
無数の縄が床から伸びる。
久我が杖を振る。
「ディフィンド!」
縄が切断された。
その瞬間、御影の杖先が再び光る。
「ステューピファイ!」
久我はぎりぎりで盾を張った。爆発が起こり、足元が滑る。
一歩。
二歩。
久我の顔から、余裕が消えていく。
「速い……!」
奎星は息を忘れて見ていた。
派手な炎も、雷も、巨大な爆発もない。
それなのに、何が起きているのかほとんど追えない。
御影は一つの呪文を撃つたび、その次の位置を取っている。相手の杖、肩、足、視線、魔法を放つ前の僅かな動き。そのすべてを見ていた。
久我が攻撃呪文を選ぶ前には、御影はすでに防御する場所へいる。久我が防御を考えた瞬間には、別方向から次の呪文が飛んでくる。
「コンフリンゴ!」
久我が叫んだ。
爆発呪文が床へ着弾し、御影の周囲で石が吹き飛ぶ。煙が視界を覆った。
久我はその中へ次の呪文を撃ち込もうとする。
「ステューピ――」
「遅い」
声が横からした。
久我が顔を向ける。
御影がいる。
煙の中を真正面から抜けたのではない。爆発の直前に、死角へ移動していたのだ。
「エクスペリアームス」
小さな呪文だった。
けれど、久我の右手から杖だけが綺麗に飛んだ。
宙を回った杖は、御影の手へ収まる。
「な……」
久我の手には、何も残っていない。
御影は自分の杖を久我へ向けたまま、もう片方の手で奪った杖を持っている。
「ここまでだ、久我」
静かな声だった。
勝ち誇りもしない。息すら、ほとんど乱れていない。
奎星は目を見開いていた。
御影が以前話していた、雪山での一件。相手を殺さず、杖だけを飛ばしたという話の意味が、ようやく目の前で分かった。
「……やべえ」
奎星の口から、素直な声が漏れる。
こんな状況なのに、ほんの一瞬だけ憧れが恐怖を上回った。
「マジで……かっけえ……」
スズメが、ほんの少し呆れた顔で奎星を見る。
「今ですか?」
「だって……」
「あなたは重傷ですよ」
「それとこれとは別……」
「別ではありません」
その間にも、御影は久我から目を離していなかった。
「両手を頭の後ろへ」
久我は俯いていた。
肩が小さく揺れている。
御影の眉が寄る。
久我は笑っていた。
「……ふ」
楓が顔を顰める。
「何がおかしいの」
「ふふ……ははは……」
久我はゆっくり顔を上げた。目の奥に、もう教師の面影はない。
「確かに」
笑いながら、左手を長衣の内側へ入れる。
御影の杖先が即座に動いた。
「手を出すな」
「御影玄一郎」
久我の指が何かを掴んだ。
「お前は確かに強い」
「久我」
「現代の魔法使いとしては、な」
御影の目が鋭くなる。
久我が取り出したのは、黒曜石だった。
しかし、訓練場に仕掛けられていたものとは違う。
拳ほどの大きさがある。真っ黒な石の内部で、無数の文字が赤く蠢いていた。
スズメの顔色が変わる。
「それは……」
「さすが烏丸先生」
久我が嬉しそうに笑う。
「分かりますか?」
黒曜石の中で、古代文字が次々と形を変えている。まるで生き物のようだった。
「この石には、今この第零書庫から取り込んだ古代魔術が記録されている」
「何をしたのですか……?」
スズメの声に、初めて明確な焦りが混じった。
「術式の意味も分からず、複数の古代魔術を一つの媒体へ――」
「理解する必要などありません」
久我は笑った。
「発動できればいい」
「馬鹿なことを……! 古代魔術はそんな単純なものではありません!」
「だから面白いのでしょう?」
黒曜石が脈打った。
久我の手首へ、赤い光が這い上がる。
御影が杖を向け直す。
「捨てろ」
「御影玄一郎」
久我はもう、御影の命令を聞いていなかった。
「お前は確かに、現代最強クラスの魔法使いかもしれない」
御影の表情は変わらない。
「だが」
久我の笑みが歪む。
「古代魔術までは知らんだろう?」
黒曜石が割れた。
亀裂の間から、赤黒い光が噴き出す。
それは久我の掌から腕へ、腕から首へ、一瞬で這い上がった。
「久我先生!」
スズメが叫ぶ。
久我の身体が大きく反り返る。
「ぐっ……は、はは……!」
笑っている。
痛みに身体を震わせながら、それでも笑っていた。
黒曜石の中に閉じ込められていた古代文字が、一つずつ石から抜け出して宙へ浮かび、久我の周囲を高速で旋回し始める。
床が震えた。
倒れていた書架が、誰にも触れられていないのにゆっくりと浮き上がる。
空気が重くなる。
奎星の右手が、再び熱を持った。
「……何だよ、これ」
掌に、先ほどの青白い紋様が薄く浮かび始める。
スズメがそれを見る。
そして、久我を見る。
「蓮根君」
声が低くなる。
「私から離れないでください」
「え?」
「絶対に」
久我の足元で、石床が音を立てて割れた。
赤黒い光が亀裂から噴き上がる。髪が風もないのに逆立ち、皮膚の下を黒い筋が走り、いつもの穏やかな顔が苦痛と歓喜の入り混じった異様な表情へ変わっていく。
御影が、初めて半歩後ろへ下がった。
それを見て、奎星の表情から完全に笑みが消える。
「御影先生が……下がった?」
御影は久我を見据えたまま、低く言った。
「全員、下がれ」
黒曜石が、完全に砕けた。
そして、その中にあったものが久我朔弥の身体へ一気に流れ込んだ。
第零書庫を満たす魔力が、悲鳴を上げるように激しく揺れ始めた。