八咫小路へ足を踏み入れた瞬間、奎星は思わず声を上げた。
「去年より人多くね!?」
「毎年そう言う人いるよ」
隣を歩く伊織が、眼鏡の位置を直しながら淡々と答える。
「でも多いって!」
「お盆だからでしょ」
楓は押し寄せる人の流れを器用に避けながら、通りの先へ目を向けた。
「一般社会の盆休みと重なるから、帰省してる魔法使いも来るし」
「祭りなんだから、人が多いに決まってんだろ!」
日向はむしろ楽しそうだった。頭上を泳いでいく紙細工の金魚を見上げながら、片手には串焼きを握っている。八咫小路へ入ってから、まだ五分も経っていない。
奎星はそこで、ふと後ろを振り返った。
「岳どこ?」
「もういない」
伊織が答える。
「え!?」
「いる」
楓が通りの先を指差した。
十メートルほど先に、屋台の明かりに照らされた岳の姿がある。両手にはすでに食べ物が抱えられていた。
「速っ!」
「今年も準備運動してる」
伊織が眼鏡を押し上げる。
「祭り、まだ始まったばっかだぞ!?」
「始まってる」
岳は当然のように答えた。
「何食ってんの?」
「揚げ餅」
「その右は?」
「焼き団子」
「左は?」
「揚げ餅」
「今食ってるのは?」
「焼き鳥」
「手、何本あるんだよ!」
「二本」
「そういう意味じゃねえ!」
日向が声を上げて笑った。
「去年と何も変わってねえな!」
「お前もな!」
「俺は変わったぞ!」
「どこが?」
「プロ候補!」
「まだ候補な!」
「うるせえ!」
五人の声は、祭りの喧騒へ溶けていった。
今年の八咫小路も、去年と同じようでいて、どこか違っていた。古い木造商家の軒先には色とりどりの提灯が連なり、淡い青や桃色、金色の魔法灯が、暮れかけた通りを柔らかく照らしている。頭上では紙で作られた魚が尾を揺らしながら泳ぎ、道端の射的屋では小さな狸の置物が、的にされるのを嫌がって逃げ回っていた。
屋台からは、焼けた醤油の香ばしい匂い、甘い蜜の匂い、油の匂いが絶え間なく流れてくる。笛の音や太鼓の響き、呼び込みの声と笑い声が、夏の夜へ向かう空気の中で一つに混ざっていた。
「お」
奎星が足を止めた。
「何?」
日向が振り返る。
「見ろ」
奎星が通りの向こうを指差す。
小さな作務衣姿の集団が、屋台の間を縫うように歩いていた。
「……天ぷら?」
「レンコン!」
先頭にいた天ぷらが奎星を見つけ、両手を高く上げる。その後ろには、モンジャ、チクワ、キナコ、オデン、ツクネ。普段はマホウトコロの厨房や大食堂、倉庫で働いている小妖たちが、今日は揃って八咫小路へ繰り出していた。
ただし、いつものように盆を運んではいない。
「わたあめ持ってる!」
「ワタアメ!」
天ぷらが胸を張る。身体とほとんど変わらない大きさの綿菓子が、その小さな腕に抱えられていた。
「それ、前見えんの?」
「ミエル!」
「絶対見えてねえだろ!」
「オボン、ヤスミ!」
「お盆休み!?」
「ヤスミ!」
奎星の目が輝いた。
「休みあるんだ!」
「あるに決まってるでしょ」
楓が呆れたように言う。
「働かせ続ける気だったの?」
「いや、だって普段ずっといるから!」
「彼らにも生活があります」
伊織が静かに補足した。
「そうだよなあ」
奎星は妙に感心した様子で天ぷらたちを見た。
「天ぷらも祭り来るんだな」
「クル!」
「何すんの?」
「タベル!」
「岳と同じじゃん!」
その声に反応して、岳が振り返る。
「仲間」
「仲間できた!」
「ツクネ!」
少し後ろから呼ばれた岳が、真顔のまま親指を立てた。
「ツクネ」
「会話成立してんの何なの!?」
小妖たちは今日ばかりは仕事から離れ、屋台を覗き、光る飴を買い、魔法金魚を追いかけていた。普段は生徒たちへ料理を運んでいる彼らが、今日は自分のために食べ物を抱えている。その姿が何となくおかしくて、奎星は笑った。
「いいな」
「何が?」
楓が訊く。
「いや」
奎星は、祭りを楽しむ小妖たちと、隣にいる四人の友人を見渡した。
「みんな休みって感じ」
楓は一瞬だけ奎星を見て、それから小さく笑った。
「今日はそういう日でしょ」
*
学生最後の夏祭り。
そう言葉にしてしまえば、少し大袈裟に聞こえた。けれど、五人の間に特別な計画があったわけではない。記念写真を撮るでもなく、卒業について語り合うでもなく、去年と同じように屋台を覗き、くだらないことで騒ぎ、食べたいものを食べているだけだった。
「奎星!」
「何!?」
「これ食え!」
日向が、何かを奎星へ放り投げた。
「うおっ!」
奎星は慌てて受け止める。手の中に落ちてきたのは、見たことのない具材が刺さった串だった。
「何これ」
「分からん!」
「分からんもん投げんな!」
「買ったら店主が『八咫特製』って言ってた!」
「中身は!?」
「聞いてねえ!」
「食わせんなよ!」
「奎星」
岳が串を覗き込む。
「うまい」
「もう食ったの!?」
「三本目」
「なら大丈夫か」
「岳を毒見に使わないで」
楓が呆れた声を挟む。
奎星は恐る恐る串へかじりついた。甘辛い味が口の中に広がる。
「うま!」
「だろ!」
「何これ!?」
「だから知らねえって!」
「伊織!」
「僕に訊かないで」
「解析!」
「食べ物を術式みたいに言わないで」
射的の屋台では、日向が本気になった。
「あれ、絶対取る!」
「何?」
楓が日向の視線を追う。
「箒の模型!」
「お前、本物持ってるでしょ」
「だから欲しいんだよ!」
「理屈が分からない」
「コレクション!」
日向は五発の弾を撃ち込んだが、一発も当たらなかった。
「…………」
「プロ候補」
伊織が淡々と言う。
「うるせえ!」
「動かない的」
「うるせえ!」
「時速ゼロ」
「やめろ!」
その横で、岳が一発で巨大な菓子袋を落とした。
「…………」
「何で?」
日向が本気で落ち込む。
「狙った」
「俺も狙ったわ!」
「外した」
「知ってる!」
楓は屋台の端に掛けられていた狐面を、何となく手に取った。すると日向が、間髪入れずに言う。
「似合うじゃん」
楓の手が止まった。
「……何が?」
「それ」
「そう?」
「うん」
「…………」
「買えば?」
「…………」
「何?」
「何でもない」
楓は狐面を元の場所へ戻した。
「買わねえの?」
「うるさい」
「何で怒んの!?」
そのやり取りを横で聞きながら、奎星は笑っていた。
本当に楽しかった。岳が食べすぎることも、日向が騒ぎ続けることも、楓が怒り、伊織が横から冷静に刺すことも、すべていつも通りだった。
けれど、来年から五人がどこにいるのかは分からない。
日向はプロのクィディッチ選手になっているかもしれない。岳は魔法生物の保護区にいるかもしれない。伊織は術式解析の道へ進み、楓は魔法省で働いているかもしれない。自分も、禍祓官になっているかもしれない。
そう考えると、今こうして五人で歩いている時間は、思っていた以上に貴重なのだろう。
それでも。
奎星の視線は、何度も人混みの向こうへ向かった。
薄手の羽織。
黒い髪。
小柄な姿。
見回りをしている教師。
けれど、探している姿はどこにも見えない。
「奎星」
「ん?」
「何見てんの?」
日向だった。
「別に」
「ふーん」
「何だよ」
「何でもねえ」
日向は串焼きを口へ運んだ。
奎星も、何事もなかったように屋台へ視線を戻す。
しかし数分後には、また人混みを見ていた。十分後にも、同じように通りの先を窺っている。花火の案内札のそばに教師らしき姿を見つけるたび、奎星は反射的に顔を向けた。
だが、違った。
高宮だった。
「うわ」
「何で今『うわ』って言ったの?」
楓が訊く。
「何でもない!」
さらに歩く。
向こうに黒髪が見える。
奎星はまた振り返る。
けれど、それも知らない人だった。
日向は何も言わなかった。ただ、奎星が祭りを楽しんでいることも、笑っていることも、食べていることも、騒いでいることも知っていた。その一方で、彼がずっと何かを探していることにも気づいていた。
いや。
誰かを探している。
昨日、大食堂へ一緒に帰ってきた教師。
洞窟で一晩を過ごした教師。
奎星がもう一年以上、口を開けば名前を出している女。
日向は隣を歩く友人を一度だけ見た。そして、何も言わなかった。
言えば面倒なことになる。
何より、本人は自分がどれほど分かりやすいのか、まるで分かっていないらしい。
「日向!」
「ん?」
「何笑ってんの?」
「別に」
「怪しい!」
「何でもねえって」
*
日が落ちるにつれて、人の数はさらに増えていった。
去年も通った大通りは、両側を屋台に挟まれ、頭上には何百もの提灯が浮かんでいる。灯りの一つ一つが風に揺れ、通りを行き交う人々の顔へ、赤や青の色を流していた。
「人やば!」
奎星が声を上げる。
「だから離れないでって言ってるでしょ!」
楓が振り返った。
「去年、誰かさんが迷子になったんだから!」
「今年は十八!」
「成人して悪化してどうすんのよ!」
「精神年齢は?」
伊織が訊く。
「伊織!」
「十六?」
「下がってんじゃん!」
岳は人混みの中でも妙に安定していた。周囲の人々が押し合い、流されていく中で、彼だけは大きな岩のようにその場に留まっている。
「岳だけ絶対流されなさそう」
日向が言った。
「重いから?」
「殴るぞ」
「すみません!」
そのとき、通りの奥から大きな歓声が上がった。
「何?」
楓が背伸びをする。
人の頭越しに、巨大な山車が見えた。去年とは違う、三本脚の烏を模した山車だった。翼には無数の魔法灯が取り付けられ、羽根が動くたび、青白い光が波のように走っている。
「うお!」
奎星の目が輝いた。
「すげえ!」
「寄るな!」
楓が叫ぶ。
しかし、もう遅かった。
山車を見ようと、道の両側から人が一斉に中央へ寄ってくる。反対側からは通り抜けようとする集団が押し寄せ、さらに屋台から出てきた客が流れへ加わった。
「ちょ!」
日向の肩が押された。
「うわっ!」
奎星の身体も横へ流される。
「奎星!」
楓の声が聞こえた。
「待っ――」
「うわああああ!」
「押すなってえええ!」
人の波に飲まれた。
奎星の身体が大きく横へ流れ、日向も同じ流れに巻き込まれる。楓の頭が一瞬だけ見え、その向こうに伊織の姿があった。岳だけは頭一つ分高かったため、しばらく見えていたが、それすら人の流れに遮られて消えていった。
「楓ぇ!」
日向が叫ぶ。
「日向!?」
「こっち!」
「無理!」
さらに人が押し寄せる。
二人はそのまま大通りの脇へ押し出された。
数十秒後、ようやく人波が途切れた。二人は、祭りの中心から少し外れた静かな横道に立っていた。
「…………」
「…………」
奎星と日向は、ほとんど同時に周囲を見回した。
「楓?」
「いねえ」
「岳」
「いねえ」
「伊織」
「いねえ」
二人の視線が重なる。
去年なら、焦っていたかもしれない。すぐに人混みへ戻り、友人たちを探そうとしたかもしれない。
けれど今年は、違った。
奎星がゆっくりと頷く。
日向も頷いた。
二人の拳が上がり、こつん、と音を立ててぶつかる。
言葉はなかった。必要もなかった。
一人は、見回り中の教師を探している。
もう一人は、さっきまで狐面を手にしていた幼馴染を探している。
友人たちとはぐれたのは、あくまで偶然だった。完全に、どうしようもない偶然である。
ならば、仕方がない。
二人は真剣な顔のまま、反対方向を指差した。奎星は右へ、日向は左へ向く。もう一度だけ頷き合うと、二人はそれぞれの目的地へ散っていった。
時として2人の間に言葉はいらない。友情とはそういうものである。
*
スズメを見つけるのに、三分もかからなかった。
「あ!」
奎星の目が輝く。
去年は、曲がり角でぶつかった。
今年は違った。
人混みの少し向こうに、薄手の羽織が見える。顎の辺りで揃った黒い髪。腰には杖があり、腕には見回りの腕章が巻かれている。スズメは、泣きそうな顔をした子どもへ、落ち着いた声で道を教えていた。
「スズメちゃん!」
呼び声に、スズメが振り返る。
奎星は人混みを縫うように走ってきた。その顔を見た瞬間、スズメは何となく事情を察したらしい。
「蓮根君」
「迷子になっちゃった!」
奎星は満面の笑みで言った。
「…………」
「迷子!」
「随分嬉しそうな迷子ですね」
「仕方ないよな!」
「何がです?」
「人多いし!」
「そうですね」
「友達とはぐれちゃった!」
「そうですか」
「困ったなぁ!」
「顔がまったく困っていません」
「困ってる!」
「どの辺りが?」
「心!」
「随分元気そうですね」
「身体は元気!」
スズメは大きく息を吐いた。
「……やれやれ」
声だけを聞けば、呆れているようだった。
けれど、その口元には、ごく薄い笑みが浮かんでいる。奎星はそれを見つけると、さらに嬉しそうな顔をした。
「昨日言ってたじゃん!」
「何をです?」
「迷子の生徒と回ることはあるかもって!」
「言いましたね」
「俺!」
奎星は自分を指差した。
「迷子!」
「成人男性です」
「生徒でもある!」
「こういうときだけ学生を使わないでください」
「最終学年!」
「強調しなくて結構です」
それでもスズメは、奎星を追い返さなかった。
「見回りの邪魔はしないでくださいね」
「しない!」
「屋台へ急に走らない」
「はい!」
「立入禁止区域へ入らない」
「今年は絶対入らない!」
「妙なものを拾わない」
「拾わない!」
「知らない魔法具へ触らない」
「…………」
「蓮根君?」
「触らない!」
「今の間は何です?」
「昨日の反省!」
「昨日ではありません。一昨日からです」
「細かい!」
二人は並んで歩き出した。
去年と同じだった。
いや、去年とは違っていた。
あのときは偶然だった。人混みに流され、友人とはぐれ、曲がり角の先でたまたまぶつかった。
今年は、奎星が最初からスズメを探していた。
そしてスズメも、そのことを知らないわけではなかった。
「そういえば」
しばらく歩いたところで、スズメが言った。
「何?」
「去年は失礼なことを言われましたね」
「去年?」
「ここで」
「何か言ったっけ?」
スズメが奎星を見る。
「私にぶつかったときです」
「…………」
「覚えていませんか?」
「何だっけ」
「『大丈夫? お兄ちゃん、前見てなくて』」
「…………」
奎星の歩幅が一瞬乱れた。
「言ったかなあ?」
「言いました」
「覚えてないなぁ」
「そのあと、私を見て明らかに動揺していました」
「気のせいじゃね?」
スズメの目が細くなる。
「子供だと思っていましたよね?」
「え、え〜?」
奎星は露骨に視線を逸らした。
「覚えてないなぁ」
「顔に書いてあります」
「記憶ない!」
「八重子さんの記憶まで見ている人が、都合よく去年だけ忘れないでください」
「そこ比較すんの!?」
「本当に失礼ですね」
「でもさ!」
「はい?」
「今は絶対間違えないよ!」
「…………」
「百メートル先でもスズメちゃんって分かる!」
スズメが足を止めた。
奎星も二歩進んでから振り返る。
「何?」
「……いいえ」
「褒めたんだけど」
「褒め方がおかしいです」
「何で!?」
「普通は、そこまで探しません」
「探したよ?」
「そうでしょうね」
「めっちゃ探した」
「わざわざ言わなくて結構です」
スズメは再び歩き出した。先ほどよりも、ほんの少しだけ歩調が速い。
「待って!」
*
途中、奎星の足が止まった。
「あ」
少し離れた通りの向こうに、日向の姿が見えた。その隣には楓がいる。
どういう経緯で見つけたのかは分からない。楓は何か言いながら日向の腕を叩き、日向は笑いながらそれを避けている。片手には、りんご飴が二つ握られていた。
その日向が、ふとこちらを見る。
目が合った。
「…………」
「…………」
奎星は何も言わない。
日向も何も言わない。
ただ、ほんの僅かに日向が顎を上げた。奎星も同じように返す。
それだけだった。
二人は何事もなかったように、それぞれの隣へ視線を戻した。
「何です?」
スズメが訊く。
「何でもない!」
「今、朝比奈君がいたような」
「気のせい!」
「水無瀬さんも」
「祭りだからな!」
「そうですね」
スズメはそれ以上追及しなかった。
奎星も振り返らない。
男同士には、言葉にしなくていいこともある。
*
やがて、祭りの空気が変わり始めた。
太鼓の音が少しずつ遠のき、笛の音も途切れていく。屋台の呼び込みが一度止まり、人々が申し合わせたように空を見上げた。八咫小路の提灯が一斉に少しだけ暗くなり、夜空の広さが急に近くなる。
「そろそろ?」
奎星が訊く。
「はい」
スズメが空を見上げた。
ひゅるるるる――。
細い音が、夜空へ昇っていく。
奎星も顔を上げた。
ぱんっ、と乾いた音がして、金色の光が開く。
「おお……!」
最初の金色の火花はすぐには消えなかった。夜空へ長い尾を引きながら残り、やがて三本脚の鳥へ姿を変える。巨大な翼が広がり、八咫小路全体へ金色の光が降り注いだ。
歓声が通りを揺らす。
「ちゃんと三本!」
「本番ですから」
「昨日のやつ、やっぱ調整中だったんだな!」
「そうでしょうね」
金色の鳥は夜空を一周し、無数の星へほどけていった。続いて青い龍が現れ、赤い狐が駆け、銀色の魚が人々の頭上を泳いで散っていく。普通の花火ではありえない形が次々と夜空へ浮かび、光の残滓を残して消えていった。
奎星は夢中で空を見ていた。
そして、ふと隣を見る。
やはり、スズメも花火に見入っていた。
口がほんの少し開いている。黒い瞳が、夜空を走る光を追っていた。そこには教師らしい落ち着いた表情も、研究者としての鋭さもなかった。ただ花火を見上げる、一人の女性の顔があった。
去年も見た。
昨日も見た。
そして今日も。
「…………」
奎星は何となく笑った。
「何です?」
スズメが気づく。
「いや」
「また見ていましたね」
「花火見てた」
「私は花火ではありません」
「光ってたよ」
「反射です」
「綺麗だった」
「花火が?」
「うん」
奎星は一拍置いた。
「まあ」
「…………」
「それだけじゃないけど」
スズメは前を向いた。
「花火を見てください」
「はい」
また一つ、夜空に大きな花が咲いた。
二人はしばらく何も話さなかった。周囲には歓声があり、笑い声があり、子どもたちのはしゃぐ声もある。それなのに、二人の周囲だけが妙に静かに感じられた。
「蓮根君」
「ん?」
スズメが空を見たまま言った。
「私、ずっと八重子さんが言っていたことを考えていました」
奎星の表情が少し変わる。
自分のやりたいことへ、というところで途切れた八重子の言葉が、彼の中にも残っていた。
「……うん」
「八重子さんは、あなたに何かを継がせようとはしませんでした」
「うん」
「何かを果たせとも言わなかった」
「うん」
「あなた自身が、自分のやりたいことへ辿り着くことを望んでいた」
奎星は黙っていた。
「ならば……」
スズメが隣を見る。金色の花火が、その顔を一瞬だけ照らした。
「蓮根君は、何をしたいのです?」
「俺?」
「はい」
奎星は少し考えた。
禍祓官になることは、もう決めている。教師という道も、まだ心のどこかに残っている。強くなりたい。人を助けたい。知らないことを知りたい。やりたいことなら、いくつもあった。
けれど。
奎星は赤い花火を見上げ、それから隣のスズメへ視線を移した。彼女は返事を急かさず、ただ静かに待っている。
一年前と同じ場所。
一年前と同じ人。
それでも、自分はもう一年前の自分ではなかった。
「俺さ」
「はい」
「毎年」
奎星は空を見上げたまま言った。
「こうやって、スズメちゃんと一緒にいたいよ」
スズメの瞳が僅かに動いた。
「…………」
「来年も」
ぱんっ、と夜空へ光が広がる。
「再来年も」
また一つ、花火が開く。
「その次も」
スズメは何も言わなかった。
奎星は笑った。大声ではない。いつものように勢いだけで言っているようにも見える。けれど、その言葉には、いつもより少しだけ慎重な響きがあった。
「祭りじゃなくてもいいけど」
「…………」
「飯食ったり」
「はい」
「どっか行ったり」
「はい」
「くだらない話したり」
「…………」
「こういうの」
奎星は少し照れたように頬を掻いた。
「ずっと続いたらいいなって思う」
スズメは、すぐには答えられなかった。
花火が上がり、歓声が響く。大勢の人がいるはずなのに、奎星の言葉だけが妙にはっきりと聞こえていた。
「……蓮根君」
「だから」
奎星が続ける。
「俺、卒業したい」
スズメが息を止めた。
洞窟でも聞いた言葉だった。
――俺、絶対、卒業するから。
あのときは、互いの顔が近すぎた。触れそうになって、奎星が自分で頬を叩いた。その直後に、彼はそう言った。
何を意味していたのか。
スズメには分かっている。
たぶん、かなり前から。
「……はい」
それだけ答えた。
「ちゃんと卒業する」
「はい」
「補習なしで」
「それは頑張ってください」
「そこ急に現実!」
「卒業したいのでしょう?」
「したい!」
「でしたら試験を通ってください」
「雰囲気!」
「単位は雰囲気では取得できません」
「今いいとこだったじゃん!」
「事実です」
「スズメちゃん!」
奎星が笑う。
スズメも、ほんの少しだけ笑った。
それで助かった気がした。あまりに真っ直ぐな言葉をまともに受け止め続けていたら、きっと自分の気持ちが顔に出てしまっていた。
*
未来の話をしたのは、初めてだったような気がした。
進路の話なら、これまでにも何度もしている。禍祓官になりたい。教師という道も少し考えている。卒業後の仕事や生活についても、洞窟で話した。
けれど、今の言葉はそれとは違った。
来年。
再来年。
その次。
そこに、自分がいた。
蓮根奎星が思い描いた未来の景色の中に、烏丸スズメがごく自然に立っていた。
特別な言葉ではない。
好きだとも言われていない。付き合ってほしいとも、何かを約束してほしいとも言われていない。
ただ、毎年一緒にいたい。
それだけだった。
なのに、どうしようもなく嬉しかった。
スズメは夜空を見上げた。そうしていなければ、隣の少年を見てしまいそうだった。
そして、嬉しいと思った直後、胸の奥に別の感情が生まれた。
怖い。
小さく、けれど確かな恐れだった。
奎星が卒業する。それは、ずっと望んできたことだ。
最初に彼と会ったとき、彼は魔法をほとんど知らず、杖の持ち方すら危うかった。補習ばかりで、無茶をして、何度叱っても危険へ飛び込んでいった。それでも少しずつ学んだ。魔法を。戦い方を。人を守ることを。そして、自分で選ぶことを。
教師として、卒業してほしいと思うのは当然だった。卒業しなければ本人も困る。単位を取って、進路へ進み、一人で歩けるようになってほしい。そう願ってきた。
ずっと。
それなのに、卒業したら、教師と生徒ではなくなる。
毎日学校で会う理由がなくなる。補習へ呼ぶ理由も、研究室へ来る理由も、授業のあとに話す理由も、何かあれば叱る理由もなくなる。朝になれば校舎のどこかにいると知っていることさえ、当たり前ではなくなる。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
おかしな話だった。
関係が変わることを望んでいるはずなのに、今の関係を失うことが怖い。教師と生徒のままではいけないと分かっているからこそ、奎星も自分も、そこで立ち止まっている。
卒業すれば、その線はなくなる。
けれど、線がなくなったあとに、二人の間に何が残るのかは誰にも分からない。
奎星は禍祓官になるかもしれない。忙しくなり、別の人間関係を作り、自分の知らない場所へ行き、自分の知らない人と会う。それが当然だった。そのための卒業なのだから。
教師が、生徒の未来を狭めてどうする。
分かっている。
分かっているのに。
来年も、再来年も、その次も、今と同じように自分を探してくれるのだろうか。人混みの中で、百メートル先からでも見つけたと笑い、何の迷いもなく隣へ来てくれるのだろうか。
それとも、いつか、そうではなくなるのだろうか。
「スズメちゃん?」
声がして、スズメは我に返った。
「はい」
「どうした?」
「いいえ」
「花火見てなかった」
「見ています」
「絶対考え事してた」
「少しだけです」
「何?」
「秘密です」
「最近、秘密多くない?」
「教師には秘密もあります」
「便利だな、教師!」
「便利ではありません」
奎星が少し首を傾げた。
「…………」
「何です?」
「いや」
奎星は笑った。
「来年聞く」
スズメの胸が、また一度だけ強く鳴った。
「…………」
「来年なら教えてくれるかもじゃん」
「どうでしょう」
「じゃあ再来年」
「なぜ延長するのです?」
「いつか聞けるまで」
「しつこいですね」
「知ってるだろ」
「よく知っています」
スズメは、困ったように、ほんの少しだけ笑った。
その返事をした自分に、胸の奥がまた温かくなる。
来年。
その言葉を、今度は自分も拒まなかった。
*
八咫祭の終わりは、始まりほど派手ではなかった。
最後の大きな花火が夜空へ昇り、金色の三本脚の鳥が夜空を一周する。翼からこぼれた光が星のように八咫小路へ降り注ぎ、地面へ届く前に一つずつ消えていった。
歓声が起こる。
やがて提灯の灯りが元の明るさへ戻り、止まっていた太鼓も再び鳴り始めた。屋台では最後の商品を売ろうと声が飛び、人々は少しずつ出口へ向かい始める。
「あー」
奎星が空を見上げた。
「終わった」
「そうですね」
「早くね?」
「十分見ました」
「祭りって、終わると急に寂しくなるよな」
「そういうものかもしれません」
人の流れが、ゆっくりと外へ向かっていく。
奎星とスズメも、その流れに沿って歩き出した。肩が触れるほど近くはない。けれど、離れてもいない。いつもの距離だった。
「みんな探さないと」
「そうしてください」
「日向は見つけた」
「水無瀬さんといましたね」
「見てたの!?」
「見回りをしていますので」
「何でも見てんな!」
「仕事です」
「俺のことも?」
「迷子の生徒ですから」
「まだ迷子扱い!?」
「友人たちと合流するまでは」
「じゃあ」
奎星が少し笑った。
「もうちょっと迷子でいいや」
「駄目です」
「即答!」
スズメは前を向いた。
けれど、その足はほんの僅かにゆっくりだった。
急いで合流させようと思えば、できる。式紙を飛ばすことも、教員同士で連絡を取ることもできる。
それでも、あと数分くらいなら。
そう思ってしまった。
教師としては、褒められたことではない。
「スズメちゃん」
「はい?」
「来年も絶対来ような」
また、奎星は簡単に言う。
「…………」
「再来年も」
「先ほど聞きました」
「確認」
「何度も確認しないでください」
「忘れるかもしれないじゃん」
「あなたが?」
「スズメちゃんが」
「忘れません」
その言葉は、ほとんど反射的に口から出ていた。
奎星が一瞬だけ黙る。
それから、嬉しそうに笑った。
「そっか」
スズメは少しだけ後悔した。
そんな顔をされるなら、もっと考えてから答えればよかった。
けれど、言い直したくはなかった。
*
少し先、祭りの出口付近で大きな声がした。
「奎星ー!」
「あ」
日向だった。
隣には楓がいて、その少し後ろに伊織と岳がいる。岳の手には、祭りの終わりとは思えないほど大量の食べ物が抱えられていた。
「見つけた!」
奎星が手を上げる。
「やっとかよ!」
「お前もな!」
「こっちはすぐ楓見つけた!」
「余計なこと言わなくていい!」
楓が日向の背中を叩く。
「いてぇ!」
「何であんた、はぐれた直後に反対方向行ったのよ!」
「人の流れ!」
「嘘つけ!」
「流された!」
「自分から走ってたでしょ!」
「見てたの!?」
「見えてたわよ!」
奎星は日向を見る。
日向も奎星を見る。
二人は同時に視線を逸らした。
「怪しい」
伊織が言った。
「何が!?」
二人の声が重なる。
「反応」
「何もねえ!」
「何もない!」
「声まで揃ってる」
「伊織!」
岳がスズメへ向き直った。
「先生」
「はい?」
「これ」
岳が袋を差し出す。
「何です?」
「水羊羹」
奎星の目が見開かれた。
「お前、買ってたの!?」
「売ってた」
スズメも少し驚いた顔をする。
「……ありがとうございます」
「二個」
岳がもう一つ取り出した。
奎星が奪うように受け取る。
「俺の!?」
「違う」
「え」
「俺の」
「何で見せた!?」
「食べる」
「ここで!?」
「帰りながら」
「自由すぎんだろ!」
五人の笑い声が、祭り帰りの人々の間へ混ざっていく。
スズメは少し離れた場所で、その姿を見ていた。
一年前も、同じように見た。
迷子だった奎星が、四人の友人たちのもとへ戻っていく背中を。
あのときは、ただの生徒だった。
少なくとも、そう思っていた。
今は。
「スズメちゃん!」
人混みの向こうから、奎星が振り返る。
「何してんの! 帰ろ!」
当然のように呼ぶ。
まるで、一緒に帰ることまで決まっているように。
スズメは小さく息を吐いた。
「今行きます」
歩き出す。
卒業してほしい。
自分の道へ進んでほしい。
一人で立てる人になってほしい。
心からそう思っている。
なのに、まだ卒業しないでほしい。
明日も学校で会いたい。授業へ来てほしい。くだらない質問をしてほしい。研究室の扉を勝手に開けてほしい。そして、「蓮根君」と呼べば、今のように振り返ってほしい。
矛盾している。
教師としては、ひどく身勝手だった。
けれど、その二つはどちらも本当だった。
卒業してほしい。
卒業してほしくない。
早く。
でも、まだ少しだけ。
そんなことを考えながら、烏丸スズメは、四人の友人に囲まれて笑っている少年のもとへ歩いていった。
八咫小路の頭上には、もう花火はなかった。ただ最後の残光だけが、夏の夜の奥で、ゆっくりと消えていった。