マホウトコロ   作:西野圭吾

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第14話 来年も、再来年も

 

 八咫小路へ足を踏み入れた瞬間、奎星は思わず声を上げた。

 

「去年より人多くね!?」

 

「毎年そう言う人いるよ」

 

 隣を歩く伊織が、眼鏡の位置を直しながら淡々と答える。

 

「でも多いって!」

 

「お盆だからでしょ」

 

 楓は押し寄せる人の流れを器用に避けながら、通りの先へ目を向けた。

 

「一般社会の盆休みと重なるから、帰省してる魔法使いも来るし」

 

「祭りなんだから、人が多いに決まってんだろ!」

 

 日向はむしろ楽しそうだった。頭上を泳いでいく紙細工の金魚を見上げながら、片手には串焼きを握っている。八咫小路へ入ってから、まだ五分も経っていない。

 

 奎星はそこで、ふと後ろを振り返った。

 

「岳どこ?」

 

「もういない」

 

 伊織が答える。

 

「え!?」

 

「いる」

 

 楓が通りの先を指差した。

 

 十メートルほど先に、屋台の明かりに照らされた岳の姿がある。両手にはすでに食べ物が抱えられていた。

 

「速っ!」

 

「今年も準備運動してる」

 

 伊織が眼鏡を押し上げる。

 

「祭り、まだ始まったばっかだぞ!?」

 

「始まってる」

 

 岳は当然のように答えた。

 

「何食ってんの?」

 

「揚げ餅」

 

「その右は?」

 

「焼き団子」

 

「左は?」

 

「揚げ餅」

 

「今食ってるのは?」

 

「焼き鳥」

 

「手、何本あるんだよ!」

 

「二本」

 

「そういう意味じゃねえ!」

 

 日向が声を上げて笑った。

 

「去年と何も変わってねえな!」

 

「お前もな!」

 

「俺は変わったぞ!」

 

「どこが?」

 

「プロ候補!」

 

「まだ候補な!」

 

「うるせえ!」

 

 五人の声は、祭りの喧騒へ溶けていった。

 

 今年の八咫小路も、去年と同じようでいて、どこか違っていた。古い木造商家の軒先には色とりどりの提灯が連なり、淡い青や桃色、金色の魔法灯が、暮れかけた通りを柔らかく照らしている。頭上では紙で作られた魚が尾を揺らしながら泳ぎ、道端の射的屋では小さな狸の置物が、的にされるのを嫌がって逃げ回っていた。

 

 屋台からは、焼けた醤油の香ばしい匂い、甘い蜜の匂い、油の匂いが絶え間なく流れてくる。笛の音や太鼓の響き、呼び込みの声と笑い声が、夏の夜へ向かう空気の中で一つに混ざっていた。

 

「お」

 

 奎星が足を止めた。

 

「何?」

 

 日向が振り返る。

 

「見ろ」

 

 奎星が通りの向こうを指差す。

 

 小さな作務衣姿の集団が、屋台の間を縫うように歩いていた。

 

「……天ぷら?」

 

「レンコン!」

 

 先頭にいた天ぷらが奎星を見つけ、両手を高く上げる。その後ろには、モンジャ、チクワ、キナコ、オデン、ツクネ。普段はマホウトコロの厨房や大食堂、倉庫で働いている小妖たちが、今日は揃って八咫小路へ繰り出していた。

 

 ただし、いつものように盆を運んではいない。

 

「わたあめ持ってる!」

 

「ワタアメ!」

 

 天ぷらが胸を張る。身体とほとんど変わらない大きさの綿菓子が、その小さな腕に抱えられていた。

 

「それ、前見えんの?」

 

「ミエル!」

 

「絶対見えてねえだろ!」

 

「オボン、ヤスミ!」

 

「お盆休み!?」

 

「ヤスミ!」

 

 奎星の目が輝いた。

 

「休みあるんだ!」

 

「あるに決まってるでしょ」

 

 楓が呆れたように言う。

 

「働かせ続ける気だったの?」

 

「いや、だって普段ずっといるから!」

 

「彼らにも生活があります」

 

 伊織が静かに補足した。

 

「そうだよなあ」

 

 奎星は妙に感心した様子で天ぷらたちを見た。

 

「天ぷらも祭り来るんだな」

 

「クル!」

 

「何すんの?」

 

「タベル!」

 

「岳と同じじゃん!」

 

 その声に反応して、岳が振り返る。

 

「仲間」

 

「仲間できた!」

 

「ツクネ!」

 

 少し後ろから呼ばれた岳が、真顔のまま親指を立てた。

 

「ツクネ」

 

「会話成立してんの何なの!?」

 

 小妖たちは今日ばかりは仕事から離れ、屋台を覗き、光る飴を買い、魔法金魚を追いかけていた。普段は生徒たちへ料理を運んでいる彼らが、今日は自分のために食べ物を抱えている。その姿が何となくおかしくて、奎星は笑った。

 

「いいな」

 

「何が?」

 

 楓が訊く。

 

「いや」

 

 奎星は、祭りを楽しむ小妖たちと、隣にいる四人の友人を見渡した。

 

「みんな休みって感じ」

 

 楓は一瞬だけ奎星を見て、それから小さく笑った。

 

「今日はそういう日でしょ」

 

     *

 

 学生最後の夏祭り。

 

 そう言葉にしてしまえば、少し大袈裟に聞こえた。けれど、五人の間に特別な計画があったわけではない。記念写真を撮るでもなく、卒業について語り合うでもなく、去年と同じように屋台を覗き、くだらないことで騒ぎ、食べたいものを食べているだけだった。

 

「奎星!」

 

「何!?」

 

「これ食え!」

 

 日向が、何かを奎星へ放り投げた。

 

「うおっ!」

 

 奎星は慌てて受け止める。手の中に落ちてきたのは、見たことのない具材が刺さった串だった。

 

「何これ」

 

「分からん!」

 

「分からんもん投げんな!」

 

「買ったら店主が『八咫特製』って言ってた!」

 

「中身は!?」

 

「聞いてねえ!」

 

「食わせんなよ!」

 

「奎星」

 

 岳が串を覗き込む。

 

「うまい」

 

「もう食ったの!?」

 

「三本目」

 

「なら大丈夫か」

 

「岳を毒見に使わないで」

 

 楓が呆れた声を挟む。

 

 奎星は恐る恐る串へかじりついた。甘辛い味が口の中に広がる。

 

「うま!」

 

「だろ!」

 

「何これ!?」

 

「だから知らねえって!」

 

「伊織!」

 

「僕に訊かないで」

 

「解析!」

 

「食べ物を術式みたいに言わないで」

 

 射的の屋台では、日向が本気になった。

 

「あれ、絶対取る!」

 

「何?」

 

 楓が日向の視線を追う。

 

「箒の模型!」

 

「お前、本物持ってるでしょ」

 

「だから欲しいんだよ!」

 

「理屈が分からない」

 

「コレクション!」

 

 日向は五発の弾を撃ち込んだが、一発も当たらなかった。

 

「…………」

 

「プロ候補」

 

 伊織が淡々と言う。

 

「うるせえ!」

 

「動かない的」

 

「うるせえ!」

 

「時速ゼロ」

 

「やめろ!」

 

 その横で、岳が一発で巨大な菓子袋を落とした。

 

「…………」

 

「何で?」

 

 日向が本気で落ち込む。

 

「狙った」

 

「俺も狙ったわ!」

 

「外した」

 

「知ってる!」

 

 楓は屋台の端に掛けられていた狐面を、何となく手に取った。すると日向が、間髪入れずに言う。

 

「似合うじゃん」

 

 楓の手が止まった。

 

「……何が?」

 

「それ」

 

「そう?」

 

「うん」

 

「…………」

 

「買えば?」

 

「…………」

 

「何?」

 

「何でもない」

 

 楓は狐面を元の場所へ戻した。

 

「買わねえの?」

 

「うるさい」

 

「何で怒んの!?」

 

 そのやり取りを横で聞きながら、奎星は笑っていた。

 

 本当に楽しかった。岳が食べすぎることも、日向が騒ぎ続けることも、楓が怒り、伊織が横から冷静に刺すことも、すべていつも通りだった。

 

 けれど、来年から五人がどこにいるのかは分からない。

 

 日向はプロのクィディッチ選手になっているかもしれない。岳は魔法生物の保護区にいるかもしれない。伊織は術式解析の道へ進み、楓は魔法省で働いているかもしれない。自分も、禍祓官になっているかもしれない。

 

 そう考えると、今こうして五人で歩いている時間は、思っていた以上に貴重なのだろう。

 

 それでも。

 

 奎星の視線は、何度も人混みの向こうへ向かった。

 

 薄手の羽織。

 

 黒い髪。

 

 小柄な姿。

 

 見回りをしている教師。

 

 けれど、探している姿はどこにも見えない。

 

「奎星」

 

「ん?」

 

「何見てんの?」

 

 日向だった。

 

「別に」

 

「ふーん」

 

「何だよ」

 

「何でもねえ」

 

 日向は串焼きを口へ運んだ。

 

 奎星も、何事もなかったように屋台へ視線を戻す。

 

 しかし数分後には、また人混みを見ていた。十分後にも、同じように通りの先を窺っている。花火の案内札のそばに教師らしき姿を見つけるたび、奎星は反射的に顔を向けた。

 

 だが、違った。

 

 高宮だった。

 

「うわ」

 

「何で今『うわ』って言ったの?」

 

 楓が訊く。

 

「何でもない!」

 

 さらに歩く。

 

 向こうに黒髪が見える。

 

 奎星はまた振り返る。

 

 けれど、それも知らない人だった。

 

 日向は何も言わなかった。ただ、奎星が祭りを楽しんでいることも、笑っていることも、食べていることも、騒いでいることも知っていた。その一方で、彼がずっと何かを探していることにも気づいていた。

 

 いや。

 

 誰かを探している。

 

 昨日、大食堂へ一緒に帰ってきた教師。

 

 洞窟で一晩を過ごした教師。

 

 奎星がもう一年以上、口を開けば名前を出している女。

 

 日向は隣を歩く友人を一度だけ見た。そして、何も言わなかった。

 

 言えば面倒なことになる。

 

 何より、本人は自分がどれほど分かりやすいのか、まるで分かっていないらしい。

 

「日向!」

 

「ん?」

 

「何笑ってんの?」

 

「別に」

 

「怪しい!」

 

「何でもねえって」

 

     *

 

 日が落ちるにつれて、人の数はさらに増えていった。

 

 去年も通った大通りは、両側を屋台に挟まれ、頭上には何百もの提灯が浮かんでいる。灯りの一つ一つが風に揺れ、通りを行き交う人々の顔へ、赤や青の色を流していた。

 

「人やば!」

 

 奎星が声を上げる。

 

「だから離れないでって言ってるでしょ!」

 

 楓が振り返った。

 

「去年、誰かさんが迷子になったんだから!」

 

「今年は十八!」

 

「成人して悪化してどうすんのよ!」

 

「精神年齢は?」

 

 伊織が訊く。

 

「伊織!」

 

「十六?」

 

「下がってんじゃん!」

 

 岳は人混みの中でも妙に安定していた。周囲の人々が押し合い、流されていく中で、彼だけは大きな岩のようにその場に留まっている。

 

「岳だけ絶対流されなさそう」

 

 日向が言った。

 

「重いから?」

 

「殴るぞ」

 

「すみません!」

 

 そのとき、通りの奥から大きな歓声が上がった。

 

「何?」

 

 楓が背伸びをする。

 

 人の頭越しに、巨大な山車が見えた。去年とは違う、三本脚の烏を模した山車だった。翼には無数の魔法灯が取り付けられ、羽根が動くたび、青白い光が波のように走っている。

 

「うお!」

 

 奎星の目が輝いた。

 

「すげえ!」

 

「寄るな!」

 

 楓が叫ぶ。

 

 しかし、もう遅かった。

 

 山車を見ようと、道の両側から人が一斉に中央へ寄ってくる。反対側からは通り抜けようとする集団が押し寄せ、さらに屋台から出てきた客が流れへ加わった。

 

「ちょ!」

 

 日向の肩が押された。

 

「うわっ!」

 

 奎星の身体も横へ流される。

 

「奎星!」

 

 楓の声が聞こえた。

 

「待っ――」

 

「うわああああ!」

 

「押すなってえええ!」

 

 人の波に飲まれた。

 

 奎星の身体が大きく横へ流れ、日向も同じ流れに巻き込まれる。楓の頭が一瞬だけ見え、その向こうに伊織の姿があった。岳だけは頭一つ分高かったため、しばらく見えていたが、それすら人の流れに遮られて消えていった。

 

「楓ぇ!」

 

 日向が叫ぶ。

 

「日向!?」

 

「こっち!」

 

「無理!」

 

 さらに人が押し寄せる。

 

 二人はそのまま大通りの脇へ押し出された。

 

 数十秒後、ようやく人波が途切れた。二人は、祭りの中心から少し外れた静かな横道に立っていた。

 

「…………」

 

「…………」

 

 奎星と日向は、ほとんど同時に周囲を見回した。

 

「楓?」

 

「いねえ」

 

「岳」

 

「いねえ」

 

「伊織」

 

「いねえ」

 

 二人の視線が重なる。

 

 去年なら、焦っていたかもしれない。すぐに人混みへ戻り、友人たちを探そうとしたかもしれない。

 

 けれど今年は、違った。

 

 奎星がゆっくりと頷く。

 

 日向も頷いた。

 

 二人の拳が上がり、こつん、と音を立ててぶつかる。

 

 言葉はなかった。必要もなかった。

 

 一人は、見回り中の教師を探している。

 

 もう一人は、さっきまで狐面を手にしていた幼馴染を探している。

 

 友人たちとはぐれたのは、あくまで偶然だった。完全に、どうしようもない偶然である。

 

 ならば、仕方がない。

 

 二人は真剣な顔のまま、反対方向を指差した。奎星は右へ、日向は左へ向く。もう一度だけ頷き合うと、二人はそれぞれの目的地へ散っていった。

 

 時として2人の間に言葉はいらない。友情とはそういうものである。

 

     *

 

 スズメを見つけるのに、三分もかからなかった。

 

「あ!」

 

 奎星の目が輝く。

 

 去年は、曲がり角でぶつかった。

 

 今年は違った。

 

 人混みの少し向こうに、薄手の羽織が見える。顎の辺りで揃った黒い髪。腰には杖があり、腕には見回りの腕章が巻かれている。スズメは、泣きそうな顔をした子どもへ、落ち着いた声で道を教えていた。

 

「スズメちゃん!」

 

 呼び声に、スズメが振り返る。

 

 奎星は人混みを縫うように走ってきた。その顔を見た瞬間、スズメは何となく事情を察したらしい。

 

「蓮根君」

 

「迷子になっちゃった!」

 

 奎星は満面の笑みで言った。

 

「…………」

 

「迷子!」

 

「随分嬉しそうな迷子ですね」

 

「仕方ないよな!」

 

「何がです?」

 

「人多いし!」

 

「そうですね」

 

「友達とはぐれちゃった!」

 

「そうですか」

 

「困ったなぁ!」

 

「顔がまったく困っていません」

 

「困ってる!」

 

「どの辺りが?」

 

「心!」

 

「随分元気そうですね」

 

「身体は元気!」

 

 スズメは大きく息を吐いた。

 

「……やれやれ」

 

 声だけを聞けば、呆れているようだった。

 

 けれど、その口元には、ごく薄い笑みが浮かんでいる。奎星はそれを見つけると、さらに嬉しそうな顔をした。

 

「昨日言ってたじゃん!」

 

「何をです?」

 

「迷子の生徒と回ることはあるかもって!」

 

「言いましたね」

 

「俺!」

 

 奎星は自分を指差した。

 

「迷子!」

 

「成人男性です」

 

「生徒でもある!」

 

「こういうときだけ学生を使わないでください」

 

「最終学年!」

 

「強調しなくて結構です」

 

 それでもスズメは、奎星を追い返さなかった。

 

「見回りの邪魔はしないでくださいね」

 

「しない!」

 

「屋台へ急に走らない」

 

「はい!」

 

「立入禁止区域へ入らない」

 

「今年は絶対入らない!」

 

「妙なものを拾わない」

 

「拾わない!」

 

「知らない魔法具へ触らない」

 

「…………」

 

「蓮根君?」

 

「触らない!」

 

「今の間は何です?」

 

「昨日の反省!」

 

「昨日ではありません。一昨日からです」

 

「細かい!」

 

 二人は並んで歩き出した。

 

 去年と同じだった。

 

 いや、去年とは違っていた。

 

 あのときは偶然だった。人混みに流され、友人とはぐれ、曲がり角の先でたまたまぶつかった。

 

 今年は、奎星が最初からスズメを探していた。

 

 そしてスズメも、そのことを知らないわけではなかった。

 

「そういえば」

 

 しばらく歩いたところで、スズメが言った。

 

「何?」

 

「去年は失礼なことを言われましたね」

 

「去年?」

 

「ここで」

 

「何か言ったっけ?」

 

 スズメが奎星を見る。

 

「私にぶつかったときです」

 

「…………」

 

「覚えていませんか?」

 

「何だっけ」

 

「『大丈夫? お兄ちゃん、前見てなくて』」

 

「…………」

 

 奎星の歩幅が一瞬乱れた。

 

「言ったかなあ?」

 

「言いました」

 

「覚えてないなぁ」

 

「そのあと、私を見て明らかに動揺していました」

 

「気のせいじゃね?」

 

 スズメの目が細くなる。

 

「子供だと思っていましたよね?」

 

「え、え〜?」

 

 奎星は露骨に視線を逸らした。

 

「覚えてないなぁ」

 

「顔に書いてあります」

 

「記憶ない!」

 

「八重子さんの記憶まで見ている人が、都合よく去年だけ忘れないでください」

 

「そこ比較すんの!?」

 

「本当に失礼ですね」

 

「でもさ!」

 

「はい?」

 

「今は絶対間違えないよ!」

 

「…………」

 

「百メートル先でもスズメちゃんって分かる!」

 

 スズメが足を止めた。

 

 奎星も二歩進んでから振り返る。

 

「何?」

 

「……いいえ」

 

「褒めたんだけど」

 

「褒め方がおかしいです」

 

「何で!?」

 

「普通は、そこまで探しません」

 

「探したよ?」

 

「そうでしょうね」

 

「めっちゃ探した」

 

「わざわざ言わなくて結構です」

 

 スズメは再び歩き出した。先ほどよりも、ほんの少しだけ歩調が速い。

 

「待って!」

 

     *

 

 途中、奎星の足が止まった。

 

「あ」

 

 少し離れた通りの向こうに、日向の姿が見えた。その隣には楓がいる。

 

 どういう経緯で見つけたのかは分からない。楓は何か言いながら日向の腕を叩き、日向は笑いながらそれを避けている。片手には、りんご飴が二つ握られていた。

 

 その日向が、ふとこちらを見る。

 

 目が合った。

 

「…………」

 

「…………」

 

 奎星は何も言わない。

 

 日向も何も言わない。

 

 ただ、ほんの僅かに日向が顎を上げた。奎星も同じように返す。

 

 それだけだった。

 

 二人は何事もなかったように、それぞれの隣へ視線を戻した。

 

「何です?」

 

 スズメが訊く。

 

「何でもない!」

 

「今、朝比奈君がいたような」

 

「気のせい!」

 

「水無瀬さんも」

 

「祭りだからな!」

 

「そうですね」

 

 スズメはそれ以上追及しなかった。

 

 奎星も振り返らない。

 

 男同士には、言葉にしなくていいこともある。

 

     *

 

 やがて、祭りの空気が変わり始めた。

 

 太鼓の音が少しずつ遠のき、笛の音も途切れていく。屋台の呼び込みが一度止まり、人々が申し合わせたように空を見上げた。八咫小路の提灯が一斉に少しだけ暗くなり、夜空の広さが急に近くなる。

 

「そろそろ?」

 

 奎星が訊く。

 

「はい」

 

 スズメが空を見上げた。

 

 ひゅるるるる――。

 

 細い音が、夜空へ昇っていく。

 

 奎星も顔を上げた。

 

 ぱんっ、と乾いた音がして、金色の光が開く。

 

「おお……!」

 

 最初の金色の火花はすぐには消えなかった。夜空へ長い尾を引きながら残り、やがて三本脚の鳥へ姿を変える。巨大な翼が広がり、八咫小路全体へ金色の光が降り注いだ。

 

 歓声が通りを揺らす。

 

「ちゃんと三本!」

 

「本番ですから」

 

「昨日のやつ、やっぱ調整中だったんだな!」

 

「そうでしょうね」

 

 金色の鳥は夜空を一周し、無数の星へほどけていった。続いて青い龍が現れ、赤い狐が駆け、銀色の魚が人々の頭上を泳いで散っていく。普通の花火ではありえない形が次々と夜空へ浮かび、光の残滓を残して消えていった。

 

 奎星は夢中で空を見ていた。

 

 そして、ふと隣を見る。

 

 やはり、スズメも花火に見入っていた。

 

 口がほんの少し開いている。黒い瞳が、夜空を走る光を追っていた。そこには教師らしい落ち着いた表情も、研究者としての鋭さもなかった。ただ花火を見上げる、一人の女性の顔があった。

 

 去年も見た。

 

 昨日も見た。

 

 そして今日も。

 

「…………」

 

 奎星は何となく笑った。

 

「何です?」

 

 スズメが気づく。

 

「いや」

 

「また見ていましたね」

 

「花火見てた」

 

「私は花火ではありません」

 

「光ってたよ」

 

「反射です」

 

「綺麗だった」

 

「花火が?」

 

「うん」

 

 奎星は一拍置いた。

 

「まあ」

 

「…………」

 

「それだけじゃないけど」

 

 スズメは前を向いた。

 

「花火を見てください」

 

「はい」

 

 また一つ、夜空に大きな花が咲いた。

 

 二人はしばらく何も話さなかった。周囲には歓声があり、笑い声があり、子どもたちのはしゃぐ声もある。それなのに、二人の周囲だけが妙に静かに感じられた。

 

「蓮根君」

 

「ん?」

 

 スズメが空を見たまま言った。

 

「私、ずっと八重子さんが言っていたことを考えていました」

 

 奎星の表情が少し変わる。

 

 自分のやりたいことへ、というところで途切れた八重子の言葉が、彼の中にも残っていた。

 

「……うん」

 

「八重子さんは、あなたに何かを継がせようとはしませんでした」

 

「うん」

 

「何かを果たせとも言わなかった」

 

「うん」

 

「あなた自身が、自分のやりたいことへ辿り着くことを望んでいた」

 

 奎星は黙っていた。

 

「ならば……」

 

 スズメが隣を見る。金色の花火が、その顔を一瞬だけ照らした。

 

「蓮根君は、何をしたいのです?」

 

「俺?」

 

「はい」

 

 奎星は少し考えた。

 

 禍祓官になることは、もう決めている。教師という道も、まだ心のどこかに残っている。強くなりたい。人を助けたい。知らないことを知りたい。やりたいことなら、いくつもあった。

 

 けれど。

 

 奎星は赤い花火を見上げ、それから隣のスズメへ視線を移した。彼女は返事を急かさず、ただ静かに待っている。

 

 一年前と同じ場所。

 

 一年前と同じ人。

 

 それでも、自分はもう一年前の自分ではなかった。

 

「俺さ」

 

「はい」

 

「毎年」

 

 奎星は空を見上げたまま言った。

 

「こうやって、スズメちゃんと一緒にいたいよ」

 

 スズメの瞳が僅かに動いた。

 

「…………」

 

「来年も」

 

 ぱんっ、と夜空へ光が広がる。

 

「再来年も」

 

 また一つ、花火が開く。

 

「その次も」

 

 スズメは何も言わなかった。

 

 奎星は笑った。大声ではない。いつものように勢いだけで言っているようにも見える。けれど、その言葉には、いつもより少しだけ慎重な響きがあった。

 

「祭りじゃなくてもいいけど」

 

「…………」

 

「飯食ったり」

 

「はい」

 

「どっか行ったり」

 

「はい」

 

「くだらない話したり」

 

「…………」

 

「こういうの」

 

 奎星は少し照れたように頬を掻いた。

 

「ずっと続いたらいいなって思う」

 

 スズメは、すぐには答えられなかった。

 

 花火が上がり、歓声が響く。大勢の人がいるはずなのに、奎星の言葉だけが妙にはっきりと聞こえていた。

 

「……蓮根君」

 

「だから」

 

 奎星が続ける。

 

「俺、卒業したい」

 

 スズメが息を止めた。

 

 洞窟でも聞いた言葉だった。

 

 ――俺、絶対、卒業するから。

 

 あのときは、互いの顔が近すぎた。触れそうになって、奎星が自分で頬を叩いた。その直後に、彼はそう言った。

 

 何を意味していたのか。

 

 スズメには分かっている。

 

 たぶん、かなり前から。

 

「……はい」

 

 それだけ答えた。

 

「ちゃんと卒業する」

 

「はい」

 

「補習なしで」

 

「それは頑張ってください」

 

「そこ急に現実!」

 

「卒業したいのでしょう?」

 

「したい!」

 

「でしたら試験を通ってください」

 

「雰囲気!」

 

「単位は雰囲気では取得できません」

 

「今いいとこだったじゃん!」

 

「事実です」

 

「スズメちゃん!」

 

 奎星が笑う。

 

 スズメも、ほんの少しだけ笑った。

 

 それで助かった気がした。あまりに真っ直ぐな言葉をまともに受け止め続けていたら、きっと自分の気持ちが顔に出てしまっていた。

 

     *

 

 未来の話をしたのは、初めてだったような気がした。

 

 進路の話なら、これまでにも何度もしている。禍祓官になりたい。教師という道も少し考えている。卒業後の仕事や生活についても、洞窟で話した。

 

 けれど、今の言葉はそれとは違った。

 

 来年。

 

 再来年。

 

 その次。

 

 そこに、自分がいた。

 

 蓮根奎星が思い描いた未来の景色の中に、烏丸スズメがごく自然に立っていた。

 

 特別な言葉ではない。

 

 好きだとも言われていない。付き合ってほしいとも、何かを約束してほしいとも言われていない。

 

 ただ、毎年一緒にいたい。

 

 それだけだった。

 

 なのに、どうしようもなく嬉しかった。

 

 スズメは夜空を見上げた。そうしていなければ、隣の少年を見てしまいそうだった。

 

 そして、嬉しいと思った直後、胸の奥に別の感情が生まれた。

 

 怖い。

 

 小さく、けれど確かな恐れだった。

 

 奎星が卒業する。それは、ずっと望んできたことだ。

 

 最初に彼と会ったとき、彼は魔法をほとんど知らず、杖の持ち方すら危うかった。補習ばかりで、無茶をして、何度叱っても危険へ飛び込んでいった。それでも少しずつ学んだ。魔法を。戦い方を。人を守ることを。そして、自分で選ぶことを。

 

 教師として、卒業してほしいと思うのは当然だった。卒業しなければ本人も困る。単位を取って、進路へ進み、一人で歩けるようになってほしい。そう願ってきた。

 

 ずっと。

 

 それなのに、卒業したら、教師と生徒ではなくなる。

 

 毎日学校で会う理由がなくなる。補習へ呼ぶ理由も、研究室へ来る理由も、授業のあとに話す理由も、何かあれば叱る理由もなくなる。朝になれば校舎のどこかにいると知っていることさえ、当たり前ではなくなる。

 

 胸の奥が、わずかに痛んだ。

 

 おかしな話だった。

 

 関係が変わることを望んでいるはずなのに、今の関係を失うことが怖い。教師と生徒のままではいけないと分かっているからこそ、奎星も自分も、そこで立ち止まっている。

 

 卒業すれば、その線はなくなる。

 

 けれど、線がなくなったあとに、二人の間に何が残るのかは誰にも分からない。

 

 奎星は禍祓官になるかもしれない。忙しくなり、別の人間関係を作り、自分の知らない場所へ行き、自分の知らない人と会う。それが当然だった。そのための卒業なのだから。

 

 教師が、生徒の未来を狭めてどうする。

 

 分かっている。

 

 分かっているのに。

 

 来年も、再来年も、その次も、今と同じように自分を探してくれるのだろうか。人混みの中で、百メートル先からでも見つけたと笑い、何の迷いもなく隣へ来てくれるのだろうか。

 

 それとも、いつか、そうではなくなるのだろうか。

 

「スズメちゃん?」

 

 声がして、スズメは我に返った。

 

「はい」

 

「どうした?」

 

「いいえ」

 

「花火見てなかった」

 

「見ています」

 

「絶対考え事してた」

 

「少しだけです」

 

「何?」

 

「秘密です」

 

「最近、秘密多くない?」

 

「教師には秘密もあります」

 

「便利だな、教師!」

 

「便利ではありません」

 

 奎星が少し首を傾げた。

 

「…………」

 

「何です?」

 

「いや」

 

 奎星は笑った。

 

「来年聞く」

 

 スズメの胸が、また一度だけ強く鳴った。

 

「…………」

 

「来年なら教えてくれるかもじゃん」

 

「どうでしょう」

 

「じゃあ再来年」

 

「なぜ延長するのです?」

 

「いつか聞けるまで」

 

「しつこいですね」

 

「知ってるだろ」

 

「よく知っています」

 

 スズメは、困ったように、ほんの少しだけ笑った。

 

 その返事をした自分に、胸の奥がまた温かくなる。

 

 来年。

 

 その言葉を、今度は自分も拒まなかった。

 

     *

 

 八咫祭の終わりは、始まりほど派手ではなかった。

 

 最後の大きな花火が夜空へ昇り、金色の三本脚の鳥が夜空を一周する。翼からこぼれた光が星のように八咫小路へ降り注ぎ、地面へ届く前に一つずつ消えていった。

 

 歓声が起こる。

 

 やがて提灯の灯りが元の明るさへ戻り、止まっていた太鼓も再び鳴り始めた。屋台では最後の商品を売ろうと声が飛び、人々は少しずつ出口へ向かい始める。

 

「あー」

 

 奎星が空を見上げた。

 

「終わった」

 

「そうですね」

 

「早くね?」

 

「十分見ました」

 

「祭りって、終わると急に寂しくなるよな」

 

「そういうものかもしれません」

 

 人の流れが、ゆっくりと外へ向かっていく。

 

 奎星とスズメも、その流れに沿って歩き出した。肩が触れるほど近くはない。けれど、離れてもいない。いつもの距離だった。

 

「みんな探さないと」

 

「そうしてください」

 

「日向は見つけた」

 

「水無瀬さんといましたね」

 

「見てたの!?」

 

「見回りをしていますので」

 

「何でも見てんな!」

 

「仕事です」

 

「俺のことも?」

 

「迷子の生徒ですから」

 

「まだ迷子扱い!?」

 

「友人たちと合流するまでは」

 

「じゃあ」

 

 奎星が少し笑った。

 

「もうちょっと迷子でいいや」

 

「駄目です」

 

「即答!」

 

 スズメは前を向いた。

 

 けれど、その足はほんの僅かにゆっくりだった。

 

 急いで合流させようと思えば、できる。式紙を飛ばすことも、教員同士で連絡を取ることもできる。

 

 それでも、あと数分くらいなら。

 

 そう思ってしまった。

 

 教師としては、褒められたことではない。

 

「スズメちゃん」

 

「はい?」

 

「来年も絶対来ような」

 

 また、奎星は簡単に言う。

 

「…………」

 

「再来年も」

 

「先ほど聞きました」

 

「確認」

 

「何度も確認しないでください」

 

「忘れるかもしれないじゃん」

 

「あなたが?」

 

「スズメちゃんが」

 

「忘れません」

 

 その言葉は、ほとんど反射的に口から出ていた。

 

 奎星が一瞬だけ黙る。

 

 それから、嬉しそうに笑った。

 

「そっか」

 

 スズメは少しだけ後悔した。

 

 そんな顔をされるなら、もっと考えてから答えればよかった。

 

 けれど、言い直したくはなかった。

 

     *

 

 少し先、祭りの出口付近で大きな声がした。

 

「奎星ー!」

 

「あ」

 

 日向だった。

 

 隣には楓がいて、その少し後ろに伊織と岳がいる。岳の手には、祭りの終わりとは思えないほど大量の食べ物が抱えられていた。

 

「見つけた!」

 

 奎星が手を上げる。

 

「やっとかよ!」

 

「お前もな!」

 

「こっちはすぐ楓見つけた!」

 

「余計なこと言わなくていい!」

 

 楓が日向の背中を叩く。

 

「いてぇ!」

 

「何であんた、はぐれた直後に反対方向行ったのよ!」

 

「人の流れ!」

 

「嘘つけ!」

 

「流された!」

 

「自分から走ってたでしょ!」

 

「見てたの!?」

 

「見えてたわよ!」

 

 奎星は日向を見る。

 

 日向も奎星を見る。

 

 二人は同時に視線を逸らした。

 

「怪しい」

 

 伊織が言った。

 

「何が!?」

 

 二人の声が重なる。

 

「反応」

 

「何もねえ!」

 

「何もない!」

 

「声まで揃ってる」

 

「伊織!」

 

 岳がスズメへ向き直った。

 

「先生」

 

「はい?」

 

「これ」

 

 岳が袋を差し出す。

 

「何です?」

 

「水羊羹」

 

 奎星の目が見開かれた。

 

「お前、買ってたの!?」

 

「売ってた」

 

 スズメも少し驚いた顔をする。

 

「……ありがとうございます」

 

「二個」

 

 岳がもう一つ取り出した。

 

 奎星が奪うように受け取る。

 

「俺の!?」

 

「違う」

 

「え」

 

「俺の」

 

「何で見せた!?」

 

「食べる」

 

「ここで!?」

 

「帰りながら」

 

「自由すぎんだろ!」

 

 五人の笑い声が、祭り帰りの人々の間へ混ざっていく。

 

 スズメは少し離れた場所で、その姿を見ていた。

 

 一年前も、同じように見た。

 

 迷子だった奎星が、四人の友人たちのもとへ戻っていく背中を。

 

 あのときは、ただの生徒だった。

 

 少なくとも、そう思っていた。

 

 今は。

 

「スズメちゃん!」

 

 人混みの向こうから、奎星が振り返る。

 

「何してんの! 帰ろ!」

 

 当然のように呼ぶ。

 

 まるで、一緒に帰ることまで決まっているように。

 

 スズメは小さく息を吐いた。

 

「今行きます」

 

 歩き出す。

 

 卒業してほしい。

 

 自分の道へ進んでほしい。

 

 一人で立てる人になってほしい。

 

 心からそう思っている。

 

 なのに、まだ卒業しないでほしい。

 

 明日も学校で会いたい。授業へ来てほしい。くだらない質問をしてほしい。研究室の扉を勝手に開けてほしい。そして、「蓮根君」と呼べば、今のように振り返ってほしい。

 

 矛盾している。

 

 教師としては、ひどく身勝手だった。

 

 けれど、その二つはどちらも本当だった。

 

 卒業してほしい。

 

 卒業してほしくない。

 

 早く。

 

 でも、まだ少しだけ。

 

 そんなことを考えながら、烏丸スズメは、四人の友人に囲まれて笑っている少年のもとへ歩いていった。

 

 八咫小路の頭上には、もう花火はなかった。ただ最後の残光だけが、夏の夜の奥で、ゆっくりと消えていった。

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