マホウトコロ   作:西野圭吾

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最終話 夏の先へ

 八月二十九日。

 

 南硫黄島を包む夏は、八月の終わりを迎えても、まだ終わるつもりなどないらしかった。日が沈んだあとも、昼間に蓄えられた熱と湿気は校舎の壁に残り、開け放たれた大食堂の窓からは、夜の海風に乗って虫の声が流れ込んでくる。夏休みも残りわずかとなり、帰省していた生徒たちも少しずつ島へ戻り始めていた。そのため、大食堂には久しぶりに、普段の賑やかさが戻りつつあった。

 

 夕食はとうに終わっている。食器はほとんど片づけられ、厨房の奥では天ぷらたち小妖が、食器を重ねる小さな音を立てながら後片づけをしていた。それなのに、大食堂の中央に置かれた長机の周囲だけは、妙に人が多い。

 

 奎星は、その長机の前に座っていた。右手には羽根筆、左手には一枚の願書。けれど、彼が向き合っているのは紙だけではなかった。

 

 右を見れば、日向、楓、岳、伊織。その少し後ろには、同じ三年生の生徒たちが何人も立っている。左を見れば、土御門、坪田、早瀬、高宮。少し離れた場所では御影が腕を組み、その隣にはスズメまでいた。

 

 奎星は正面へ向き直り、紙へ視線を落とした。そこには、まだ何も書かれていない。もう一度、周囲を見回す。誰も動かない。誰も帰らない。全員が、彼の手元を見守っている。

 

「…………」

 

「書かないの?」

 

 楓が訊いた。

 

「書くよ」

 

「じゃあ書けば?」

 

「書くけどさ」

 

 奎星は羽根筆を握ったまま、とうとう声を張り上げた。

 

「そんな見られたら書きづらいだろ!!」

 

「お前が心配だから見てやってんだろうが!」

 

 間髪を入れず、高宮の怒鳴り声が返ってきた。

 

「何で願書を書くためだけに、こんな人数が集まってんだよ!」

 

「お前だからだ!」

 

「理由になってねえ!」

 

「十分なってる!」

 

「名前くらい書けるって!」

 

「進路希望調査を一か月近く鞄へ入れっぱなしにしていたのは誰だ!」

 

「昔の話!」

 

「三か月前だろう!」

 

「最近じゃん!」

 

「認めた!」

 

 周囲から笑い声が上がった。奎星は不満そうに頬を膨らませながらも、ようやく紙へ向き直る。

 

 真っ白な紙の一番上には、黒い文字で《禍祓官採用選考 願書》と印刷されていた。

 

 この一年、何度も口にしてきた名前だった。

 

 一年前、魔法を知ったばかりの頃の奎星にとって、禍祓官とは、御影がかつて就いていた仕事という程度のものだった。強くて、格好よくて、危険な場所へ赴き、人を助ける。最初は、そのくらいの認識しかなかった。

 

 けれど、その後に実際の現場を見た。

 

 第零書庫。鬼火鳥。黒曜の環。朝凪島。星帰り。記憶施設。そこで目にしたものは、単純な強さや華やかさとはほど遠かった。御影から聞かされた話も同じだった。禍祓官は、強ければ務まる仕事ではない。戦うだけでもない。待ち、調べ、記録し、ときには立ち止まり、逃げ、誰かを呼ぶ。そして、最後には必ず帰ってくる。

 

 それでも、知れば知るほど、奎星はその仕事をやりたいと思うようになった。

 

「ほら」

 

 土御門が奎星の横から願書を覗き込んだ。

 

「まずは氏名ですよ」

 

「そこは分かる!」

 

「本当に?」

 

「土御門先生まで!?」

 

「確認です」

 

 奎星は羽根筆へインクをつけ、紙の上へ慎重に先端を下ろした。《氏名》と書かれた欄の横へ、ゆっくりと自分の名前を記していく。

 

《蓮根奎星》

 

「…………」

 

「おお」

 

 日向が感心したように声を上げた。

 

「名前、書けたじゃん」

 

「舐めんな!」

 

「第一関門突破」

 

 伊織が淡々と言う。

 

「願書に第一関門とかないから!」

 

「まだ住所があります」

 

「書けるわ!」

 

「郵便番号」

 

「書ける!」

 

「生年月日」

 

「書ける!!」

 

 岳が横から紙を覗き込んだ。

 

「五月二十八日」

 

「知ってんの?」

 

「誕生日」

 

「覚えてたんだ」

 

「ケーキ食った日」

 

「そっちかい」

 

 奎星は騒がしい外野を無視しようと努めながら、一つずつ欄を埋めていった。住所、生年月日、在籍校、希望職種。書き進めるたび、ただの紙だったはずのものが、少しずつ自分の未来へ近づいてくる。

 

 それは妙な感覚だった。

 

 この夏、奎星は、自分が生まれるずっと前から続いていたものをいくつも知った。小萱村。蓮根清弦。白川鈴。蓮根八重子。母へ施された古い魔法。閉じられた魔力の道。百五十年以上にわたって蓮根家の中を巡り、最後には自分へ戻ってきた神代榊。そして、その杖へ最初に魔力を流したのが、ほかならぬ自分自身だったこと。

 

 自分の中にある力がどこから来たのか。なぜ十七歳まで魔法を知らずに生きていたのか。なぜ八重子が何も語らなかったのか。すべてが分かったわけではない。第零書庫で何が起きたのかも、あの死の呪文がなぜ消えたのかも、まだ仮説の先にある。

 

 それでも、もう自分が何者なのか分からないとは思わなかった。

 

 そして、知ったからといって、やりたいことが変わったわけでもなかった。

 

「次」

 

 楓が願書の下の方を指差した。

 

「ここ」

 

「分かってるって」

 

 奎星は紙へ目を落とす。

 

《志望理由》

 

 羽根筆の先が、そこで止まった。

 

 周囲の空気も、ほんの少しだけ静かになる。

 

「何?」

 

 日向が訊いた。

 

「いや」

 

 奎星は頭を掻いた。

 

「これ、何書けばいい?」

 

「そこから!?」

 

 高宮の声が飛んだ。

 

「だって!」

 

「進路相談で何をしていたんですか!」

 

「いっぱい話した!」

 

「なら書け!」

 

「書くのと喋るのは違うじゃん!」

 

「同じです!」

 

「違う!」

 

「蓮根君」

 

 坪田が苦笑しながら口を挟んだ。

 

「自分がどうしてなりたいと思ったのか、そのまま書けばいいんじゃない?」

 

「そのまま?」

 

「うん」

 

「御影先生が格好よかったから?」

 

「最初の一行としては正直ですね」

 

 土御門が笑う。

 

「書くな」

 

 御影が低い声で言った。

 

「何で!?」

 

「志望理由が俺になる」

 

「いいじゃん!」

 

「よくない」

 

「じゃあ、『人を助けたい』」

 

「抽象的」

 

 伊織が言った。

 

「伊織は黙ってて!」

 

「事実」

 

「分かってる!」

 

 奎星は頭を抱えた。

 

「願書むずっ!」

 

「地下遺跡には平気で入るのに」

 

 楓が言う。

 

「それとこれとは別!」

 

「幕末には行けるのに」

 

 日向も続けた。

 

「行きたくて行ったんじゃねえ!」

 

「巨大石像とは戦える」

 

 伊織が言う。

 

「願書は殴っても終わんないだろ!」

 

「殴るという発想を捨ててください」

 

 スズメが静かに言った。

 

「してない!」

 

「今しました」

 

「言っただけ!」

 

 また笑いが起こった。

 

 奎星はしばらく紙を睨んでいたが、やがて、少しずつ羽根筆を動かし始めた。

 

 格好いいと思った。強くなりたいと思った。誰かを助けられる人になりたいと思った。

 

 けれど、それだけではない。

 

 現場で何もできなかったこともある。怖かったこともある。誰かに助けてもらったこともある。一人ではどうにもならないと知った。戦わないという選択があることも、逃げることが必要なときも、帰ることまでが仕事なのだということも知った。

 

 それでも、自分は現場へ行きたい。必要なときに動ける人になりたい。危険を止められる人になりたい。

 

 そのすべてを、そのまま文章にすることはできなかった。何度も書き直し、言葉を選び直しながら、奎星なりの文章へ変えていく。

 

 途中から、誰も口を挟まなくなった。大食堂の隅で交わされていた話し声も、いつの間にか遠のいている。奎星が紙へ向かう姿を、皆が黙って見守っていた。

 

 時間はかかった。

 

 それでも、最後の一文字まで書き終える。

 

「…………終わった」

 

 奎星が羽根筆を置いた。

 

「まだです」

 

 高宮が言った。

 

「え!?」

 

「裏面」

 

「裏あんの!?」

 

「あります!」

 

「聞いてない!」

 

「最初に説明しました!」

 

「覚えてない!」

 

「お前ぇぇぇ!!」

 

 大食堂に、再び怒鳴り声が響き渡った。

 

     *

 

「つっかれた……」

 

 それから二十分後、奎星は長机へ突っ伏していた。願書はようやくすべての欄が埋まり、今は土御門と高宮が誤字や記入漏れを確認している。

 

「地下施設より疲れた」

 

「それはないでしょ」

 

 楓が言った。

 

「精神的に!」

 

「願書でそこまで消耗する人、初めて見た」

 

「伊織、お前もう出したんだっけ?」

 

「先週」

 

「岳は?」

 

「出した」

 

「楓」

 

「とっくに」

 

「…………」

 

 奎星は顔だけを上げた。

 

「何で俺だけ今日なの?」

 

「「後回しにしたから」」

 

 三人の声が、ほとんど同時に重なった。

 

「裏切り者!」

 

「何の?」

 

 伊織が訊く。

 

「学生生活最後まで一緒にいようぜ!」

 

「願書は別」

 

「冷てえ!」

 

「俺もまだ出してねえぞ!」

 

 日向が胸を張った。

 

「おお!」

 

「俺は契約先を決めてねえから!」

 

「事情が違う!」

 

「でも未提出仲間!」

 

「お前にはオファー来てんじゃん!」

 

「羨ましいか?」

 

「ちょっと!」

 

「素直!」

 

 日向が笑った。

 

「まあ、お前も受かれよ」

 

「受かる!」

 

「筆記な」

 

「…………」

 

 奎星の笑顔が止まった。

 

 日向がにやりとする。

 

「忘れてた?」

 

「忘れてない」

 

「顔」

 

「忘れてない!」

 

 伊織が机の端に置かれていた受験案内を手に取った。

 

「一次試験」

 

「言わなくていい!」

 

「九月十二日」

 

「知ってる!」

 

「あと二週間」

 

「言うな!」

 

「正確には十四日」

 

「もっと嫌!」

 

「内容は筆記。魔法法規、呪術理論、魔法生物、魔法薬、対闇魔術、魔法犯罪史――」

 

「全部言うなあああ!」

 

 奎星が頭を抱える。日向がその肩を叩いた。

 

「実技ならな」

 

「そうなんだよ!」

 

「お前、絶対そっちの方が楽だよな」

 

「百倍楽!」

 

「普通、逆じゃない?」

 

 楓が呆れたように言う。

 

「だって魔法撃つんだろ!?」

 

「内容はまだ分からないでしょう」

 

 スズメが言った。

 

「でも実技!」

 

「だからといって、試験官へ全力で魔法を撃っていいという意味ではありません」

 

「分かってるよ!」

 

「本当に?」

 

「何でみんな今日、俺を信用しないの!?」

 

 伊織は受験案内を裏返した。

 

「二次試験は十月十七日」

 

「うん」

 

 奎星は頷いたが、次の瞬間、ふと動きを止めた。

 

「…………十七?」

 

「十月十七日」

 

「星迎祭って」

 

「十五日」

 

 楓が答えた。

 

「…………」

 

 奎星の眉が寄る。

 

「二日後?」

 

「二日後」

 

「…………」

 

「どうしたの?」

 

「いや」

 

 奎星は妙に真剣な顔になった。

 

「実技が星迎祭の二日後か……祭り、楽しめんのかな、俺」

 

 一拍置いて、伊織が言った。

 

「そもそも一次で落ちて、それどころじゃないかも」

 

「どうしてそういうことを言うんだ〜!」

 

 奎星が飛びかかり、伊織の胸ぐらを掴んだ。

 

「ちょっ」

 

「俺だって頑張ろうとしてんだぞ!」

 

「だから現実的な可能性を」

 

「今いらない現実!」

 

「苦しい」

 

「励ませ!」

 

「一次通過率を考えると」

 

「数字出すな!」

 

「蓮根ぇ!」

 

 高宮の怒鳴り声が飛んだ。

 

「禍祓官は人の胸ぐらを掴まないぞ!」

 

「確かに!」

 

 奎星は伊織から手を離した。

 

「納得するんだ」

 

 伊織が襟を直す。

 

「高宮先生も奎星の扱い方わかってきたな」

 

 日向が呟いた。

 

「でも大丈夫だよ」

 

 楓が言った。

 

「何が?」

 

「一次」

 

「…………」

 

 奎星は疑うように楓を見る。

 

「何、その顔」

 

「今までの流れで、優しい言葉が来ると思わなかった」

 

「失礼ね!」

 

「だって伊織が落ちるって!」

 

「可能性を言っただけ」

 

「ほら!」

 

「大丈夫」

 

 楓はもう一度、はっきりと言った。

 

「先生たち、やる気だから」

 

「先生たち?」

 

「はい」

 

 土御門がにこりと笑った。

 

 その笑顔を見た瞬間、奎星の胸に嫌な予感が広がった。

 

「…………何?」

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「明日の予定をお伝えしますね」

 

「明日?」

 

 高宮が一枚の紙を持ち上げた。

 

「朝食後からだ」

 

「何が?」

 

「試験対策」

 

「…………」

 

「午前二時間」

 

「…………」

 

「昼食後、一時間」

 

「…………」

 

「夕食前に確認試験」

 

「…………」

 

「夜は自習」

 

「…………」

 

 奎星はゆっくりと周囲を見回した。早瀬がいる。坪田がいる。土御門がいる。高宮がいる。御影がいる。そして、スズメがいる。

 

「待って」

 

「何です?」

 

 スズメが訊いた。

 

「まさか」

 

 奎星は高宮の持つ紙を指差した。

 

「みんな?」

 

「得意分野ごとに担当します」

 

 土御門が答えた。

 

「全員!?」

 

「全員ではありません」

 

「よかった!」

 

「他にもいます」

 

「増えるの!?」

 

 日向が吹き出した。

 

「学校総動員じゃん!」

 

「笑うな!」

 

「すげえ!」

 

「俺一人の筆記試験だぞ!?」

 

「だからだろう」

 

 御影が言った。

 

 奎星が振り返る。

 

「御影先生までやんの!?」

 

「やる」

 

「筆記だぞ!?」

 

「知っている」

 

「勉強、教えられるの!?」

 

 御影の目が細くなった。

 

「蓮根」

 

「マズった」

 

「今の発言は覚えておく」

 

「すみませんでした!」

 

 奎星は即座に頭を下げた。

 

「早い」

 

 楓が笑った。

 

「何でそこまで……」

 

 奎星は机へ突っ伏したまま呟いた。

 

「別に俺、学校代表とかじゃないじゃん」

 

「そうですね」

 

 スズメが答える。

 

「じゃあ」

 

「ですが」

 

 スズメは奎星の言葉を遮った。

 

「ここまで補習をして、ここまで試験を受けて、ここまで何度も落第の危機を回避して、ここまで進路について考えてきた生徒が」

 

 彼女は淡々とした口調のまま、奎星を見た。

 

「あと二週間の筆記試験で落ちたら、教師として少々納得がいきません」

 

「温情の言い方が怖い!」

 

「温情だと思っていたのですか?」

 

「違うの!?」

 

「結果を出してください」

 

「圧!」

 

 高宮が腕を組んだ。

 

「こっちは一年以上、お前の補習に付き合ってるんだ!」

 

「高宮先生、途中からだろ!」

 

「回数の問題ではない!」

 

「ほんっとうに憎たらしいガキだな!」

 

「あ、その台詞久しぶり!」

 

「喜ぶな!」

 

 坪田が笑い、土御門も口元を押さえる。大食堂の端に残っていた生徒たちまで、面白そうにこちらを見ていた。

 

 奎星は、その顔を一人ずつ見た。

 

 先生。友達。同級生。補習で何度も一緒になった生徒たち。試験前になると眠そうな顔で机へ向かい、問題集を解き、魔法薬を失敗させ、呪文を間違え、再試験の日には揃って胃を痛めた仲間たち。結果が悪ければ慰め合い、少しでも良ければ大騒ぎしてきた。

 

 思えば、自分一人でここまで来たことなど、一度もなかった。

 

 奎星は願書へ目を落とした。自分の名前。自分で書いた志望理由。そして、一番下に残された署名欄。そこだけが、まだ空白だった。

 

「蓮根君」

 

 スズメが呼んだ。

 

「ん!?」

 

 奎星が顔を上げる。

 

 スズメは机の向こうへ回り、少しだけ身を屈めて、座っている奎星と視線の高さを合わせた。黒い髪が頬へ掛かり、周囲の騒がしさの中で、その声だけが妙にはっきりと届く。

 

「卒業するのでしょう」

 

 奎星の動きが止まった。

 

 八咫祭の夜、花火の下で自分が口にした言葉を思い出す。

 

 来年も。再来年も。その次も。ずっと一緒にいたい。

 

 だから、卒業したい。

 

 洞窟でも言った。絶対に卒業する、と。

 

 その言葉が何を意味するのかを、スズメはもう知っている。

 

「…………」

 

 奎星は彼女を見つめた。それから、ふっと笑う。

 

「……ああ!!」

 

 勢いよく立ち上がった。

 

「お」

 

 日向が声を上げる。

 

「何?」

 

 楓が見る。

 

 奎星は椅子から立ち上がっただけではなかった。次の瞬間には、机へ片足を乗せている。

 

「蓮根?」

 

 高宮の声が低くなった。

 

 奎星はもう片方の足も上げ、願書の置かれた机の上へ完全に立ち上がった。

 

「蓮根!!」

 

 高宮が叫ぶ。

 

「聞けえええええ!!」

 

 奎星の声が、それを上回った。

 

 大食堂中の視線が集まる。食事を終えて談笑していた生徒も、宿題をしていた生徒も、補習帰りの生徒も、教師も小妖も、全員が机の上に立つ奎星を見上げていた。

 

 日向の口元が上がる。

 

「始まった」

 

「絶対ろくなことじゃない」

 

 楓が額を押さえた。

 

 奎星は胸を張り、拳を握る。

 

「私、蓮根奎星は!!」

 

「何で急に『私』なんだよ!」

 

 日向が笑う。

 

「静粛に!!」

 

「お前が一番うるせえ!」

 

「禍祓官試験を!」

 

 奎星は構わず続けた。

 

「合格、突破するとともに!!」

 

 一度、大きく息を吸う。

 

「この学校を来年卒業することを、ここに誓います!!」

 

 一瞬、大食堂が静まり返った。

 

 次の瞬間、歓声が爆発する。

 

「うおおおおおおおおお!!」

 

「蓮根ー!」

 

「絶対受かれよー!」

 

「卒業しろー!」

 

「補習終わらせろー!」

 

「一次で落ちるぞー!」

 

「最後のやつ誰だあああ!」

 

 奎星が叫び返す。

 

 拍手が起こった。一人、二人と始まった音は、あっという間に大食堂全体へ広がっていく。机を叩く音、椅子を鳴らす音、口笛、歓声、笑い声。そのすべてが混ざり合い、古い校舎の天井を揺らした。

 

「奎星ー!」

 

 日向が拳を突き上げる。

 

「通れえええ!」

 

「通る!!」

 

「卒業しろー!」

 

 楓も笑いながら手を叩いている。

 

「する!!」

 

「補習なし!」

 

 伊織が言った。

 

「それは努力する!!」

 

「弱くなった」

 

「そこは誓えない!」

 

 岳も拍手していた。

 

「受かったら」

 

「何!?」

 

「飯」

 

「奢る!」

 

「言った」

 

「あ」

 

「聞いた」

 

 伊織が淡々と続ける。

 

「証人多数」

 

「待って!」

 

「撤回不可」

 

「禍祓官の給料が入ってからな!?」

 

 特に大きな拍手を送っているのは、夏休み中も奎星と同じ教室に残っていた生徒たちだった。去年も今年も、補習で何度も同じ教室へ集められた者たち。眠い目を擦りながら問題集を解き、魔法薬を失敗させ、呪文を間違え、再試験の日には揃って胃を痛めた仲間たちだった。

 

 彼らは知っている。蓮根奎星が、どれほど勉強を得意としていないかを。同時に、どれだけ最後には机へ戻ってくるかも。

 

「蓮根ー!」

 

「頑張れー!」

 

「一次突破ー!」

 

「卒業ー!」

 

「禍祓官ー!」

 

「うおおおおお!!」

 

 奎星も拳を突き上げた。

 

 その瞬間、腰の辺りを何かに掴まれた。

 

「え」

 

 ぐい、と強く引かれる。

 

「うわっ!」

 

 机の上から引きずり下ろされ、奎星は床へ尻餅をついた。

 

「いってぇ!」

 

 顔を上げると、御影が立っていた。

 

「調子に乗るな」

 

「何だよ!」

 

「机に立つな」

 

「今いいとこだったじゃん!」

 

「知らん」

 

「みんな盛り上がってた!」

 

「だから何だ」

 

「御影先生、ノリ悪っ!」

 

 御影は奎星を見下ろしていた。いつもと変わらない顔だった。訓練場で何度も自分を地面へ転がした顔。最初に魔法を教えた教師。強くなりたいと思ったきっかけ。禍祓官という仕事を知ったきっかけ。

 

 一年前、何も知らなかった自分が、初めて追いつきたいと思った背中だった。

 

 奎星は床に座ったまま、その顔を見上げた。それから、にっと笑う。

 

「見てろよ、御影先生!」

 

「何だ」

 

 奎星は立ち上がった。

 

「あんたを超える禍祓官になってやる!!」

 

「おおおおおおお!!」

 

 また大食堂が沸いた。

 

「言ったあああ!」

 

 日向が叫ぶ。

 

「御影超え!」

 

「でかく出た!」

 

 楓まで笑っている。

 

 御影は何も言わなかった。ただ、ほんの僅かに口元を上げる。

 

「やってみろ」

 

 短い言葉だった。

 

 奎星の目が輝く。

 

「おう!!」

 

「ただし」

 

「何!?」

 

「まず筆記を通れ」

 

「余韻!!」

 

 大食堂が爆笑に包まれた。

 

「それと!」

 

 今度は高宮の声が飛ぶ。

 

「願書を書き終えてから誓え!!」

 

「そうだった!!」

 

「署名欄が空白です!」

 

 土御門が願書を掲げる。

 

「クッソォ!」

 

「戻れ!」

 

「はい!!」

 

 奎星は大急ぎで机へ戻った。

 

     *

 

 しばらくして、さっきまであれほど騒がしかった大食堂も、ようやく落ち着きを取り戻した。何人かの生徒は寮へ戻り、教師たちもそれぞれの仕事へ戻っていく。それでも、日向たち四人はまだ近くに残っていた。

 

 奎星は再び椅子へ座り、今度こそ最後の欄へ羽根筆を置いた。

 

《本人署名》

 

 書き始める。

 

 最初の一画だけ、少し震えた。

 

 奎星は、その震えを見つめた。

 

 石像と戦ったときは震えなかった。幕末へ飛ばされたときも、巨大な守護者に追われたときも、恐怖はあったが、手が止まることはなかった。それなのに、ただ名前を書くだけの今、指先がわずかに震えている。

 

「蓮根君」

 

 スズメの声がした。

 

 奎星は顔を上げなかった。

 

「大丈夫です」

 

「…………」

 

「ゆっくりで構いません」

 

「うん」

 

 奎星はもう一度、紙へ目を落とした。

 

 腰には神代榊がある。百五十年以上前、自分が最初に魔力を通した杖。その杖を清弦が使い、何代もの蓮根家の人間が使い、八重子が使い、そして今、自分のもとへ戻ってきた。

 

 家族は、自分へ何かを強制するためにそれを残したわけではない。清弦も、八重子も、母も、誰も、自分に禍祓官になれとは言わなかった。

 

 八重子が最後に残した言葉を思い出す。

 

 ――自分のやりたいことに。

 

 先祖が決めた道ではない。杖が決めた道でも、魔力が決めた道でもない。英雄だからでも、生き残ったからでもない。

 

 自分で見て、自分で聞いて、怖いことも知った。それでも、自分で選んだ。

 

 奎星は羽根筆を動かした。

 

《蓮根奎星》

 

 最後の一文字まで書き終える。

 

 今度は、手は震えなかった。

 

「…………よし」

 

 羽根筆を置く。

 

 スズメが願書を手に取り、上から下まで確認していく。

 

「どう?」

 

「住所」

 

「間違えた!?」

 

「合っています」

 

「脅かすなよ!」

 

「確認しただけです」

 

「心臓止まるかと思った!」

 

「それでは禍祓官になる前に困ります」

 

「縁起悪い!」

 

 スズメは最後の署名まで目を通し、それから静かに頷いた。

 

「問題ありません」

 

「…………」

 

 奎星は数秒、動かなかった。

 

「終わり?」

 

「はい」

 

「マジ?」

 

「はい」

 

「願書?」

 

「願書です」

 

「出せる?」

 

「出せます」

 

「…………」

 

 奎星はゆっくりと両手を上げた。

 

「終わったあああああ!」

 

「やっとかよ!」

 

 日向が笑う。

 

「願書一枚で騒ぎすぎ!」

 

 楓も笑った。

 

「提出するまで終わってない」

 

 伊織が言う。

 

「持ってく途中でなくす可能性」

 

 岳が続けた。

 

「お前ら最後まで信用しろよ!」

 

「先生に預けなさい」

 

 楓が即答する。

 

「俺、十八!」

 

「関係ない!」

 

「成人!」

 

「なおさら自分の管理能力に責任を持ちなさい!」

 

「言い方!」

 

 笑いながら、奎星は願書を封筒へ入れた。封をする。ほんの薄い、一通の封筒だった。

 

 剣でもない。魔法具でもない。古代の記録でもない。何かの秘密が眠っているわけでもない。

 

 ただ、自分の名前と、自分が行きたい場所が書かれている。

 

 それだけだった。

 

     *

 

 大食堂を出ると、南硫黄島の夜は静かだった。昼間の暑さは少しだけ薄れ、海から涼しい風が吹いてくる。空には星が浮かび、羊脂玉の校舎は淡い月明かりを受けて、白く静かに佇んでいた。

 

「あと二週間かあ……」

 

 奎星が歩きながら呟く。

 

 隣にはスズメがいた。

 

「十四日です」

 

「数えなくていいって」

 

「現実です」

 

「伊織みたいなこと言うなよ」

 

「試験日は変わりません」

 

「分かってる」

 

 奎星は両手を頭の後ろへ組んだ。

 

「明日から勉強?」

 

「はい」

 

「朝から?」

 

「はい」

 

「夜まで?」

 

「適度な休憩はあります」

 

「逃げ道!」

 

「ありません」

 

「やっぱり!」

 

 スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

「でも」

 

 奎星が言う。

 

「受かるよ」

 

「そうしてください」

 

「絶対」

 

「はい」

 

「卒業もする」

 

「それもお願いします」

 

「冷静だなぁ」

 

「教師ですから」

 

「じゃあさ」

 

「何です?」

 

「受かったら褒めてよ」

 

「考えておきます」

 

「そこ考える必要ある!?」

 

「結果を見てからです」

 

「ケチ!」

 

「まだ受験もしていません」

 

「先払い!」

 

「何を先払いするのです?」

 

「褒め!」

 

「ありません」

 

「即答!」

 

 二人の声が、夜の回廊へ響いた。

 

 少し前を、日向たちが歩いている。

 

「奎星ー!」

 

 日向が振り返った。

 

「何!?」

 

「早く来い!」

 

「待てって!」

 

「明日、朝から勉強なんだろ!」

 

「だから何!?」

 

「最後の自由時間!」

 

「嫌な言い方すんな!」

 

 日向が笑う。楓が呆れ、伊織は何かを言い、岳は手に持った夜食らしき包みを開けようとしている。

 

 奎星は走り出した。

 

 数歩進んだところで、ふと振り返る。

 

「スズメちゃん!」

 

「走らないでください」

 

「俺頑張るよ!」

 

「聞いていますか?」

 

「聞いてる!」

 

「では歩いてください」

 

「はーい!」

 

 返事だけして、また走る。

 

「蓮根君!」

 

 怒られた。

 

 奎星は笑った。

 

 夏休みは、もうすぐ終わる。

 

 この一年で、過去へ行った。失われた時間を何度もやり直した。百五十年以上前の先祖と喧嘩をし、祖母の記憶を見て、自分の家に隠されていたものを知った。自分の力がどこから来たのかも、自分の杖が誰より先に自分を知っていたことも、たくさん知った。

 

 けれど、知ったからといって、未来まで決まっているわけではない。

 

 八重子は何も命じなかった。清弦も何も残さなかった。杖だって、ただ長い時間を覚えていただけだ。

 

 なら、ここから先は自分で決めればいい。

 

「日向!」

 

「遅え!」

 

「待て!」

 

「走るなって怒られてただろ!」

 

「お前も走ってんじゃん!」

 

「俺は怒られてねえ!」

 

「じゃあ俺もいい!」

 

「どういう理屈よ!」

 

 楓の声が飛ぶ。

 

 五人の笑い声が、夜の校舎へ広がっていく。

 

 その少し後ろを、スズメが歩いていた。

 

 奎星がまた振り返る。

 

 ちゃんといる。

 

 だから、前を向いた。

 

 九月十二日。一次筆記試験。

 

 十月十五日。星迎祭。

 

 十月十七日。二次実技試験。

 

 その先には卒業がある。そのさらに先には、自分が選んだ仕事がある。

 

 まだ遠い。

 

 けれど、進む道はもう決まっていた。

 

 蓮根奎星は、夏の終わりを自分の足で走っていった。

 

     *

 

 同じ夜。

 

 東京のどこかで、一枚の紙が暗い机の上へ置かれた。

 

 明かりはついていない。窓から差し込む街の光だけが、紙の端を薄く照らしている。そこには、いくつかの日付が並んでいた。

 

 九月十二日。一次筆記試験。

 

 そして、十月十七日。二次実技試験。

 

 誰かの指が、その日付をゆっくりとなぞった。

 

 紙が一枚めくられる。受験者に関する欄。そこは、ほとんど見られなかった。さらに一枚、当日の運営、会場、配置、そして実技試験に立ち会う魔法使いたちの一覧へと進む。

 

 しばらくして、紙が静かに閉じられた。

 

 十月十七日。

 

 まだ、夏が終わったばかりだった。

 

マホウトコロ シーズン8 「夏影と石の守り人」完




次章、ついに最終シーズンです!
乞うご期待!
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