八月二十九日。
南硫黄島を包む夏は、八月の終わりを迎えても、まだ終わるつもりなどないらしかった。日が沈んだあとも、昼間に蓄えられた熱と湿気は校舎の壁に残り、開け放たれた大食堂の窓からは、夜の海風に乗って虫の声が流れ込んでくる。夏休みも残りわずかとなり、帰省していた生徒たちも少しずつ島へ戻り始めていた。そのため、大食堂には久しぶりに、普段の賑やかさが戻りつつあった。
夕食はとうに終わっている。食器はほとんど片づけられ、厨房の奥では天ぷらたち小妖が、食器を重ねる小さな音を立てながら後片づけをしていた。それなのに、大食堂の中央に置かれた長机の周囲だけは、妙に人が多い。
奎星は、その長机の前に座っていた。右手には羽根筆、左手には一枚の願書。けれど、彼が向き合っているのは紙だけではなかった。
右を見れば、日向、楓、岳、伊織。その少し後ろには、同じ三年生の生徒たちが何人も立っている。左を見れば、土御門、坪田、早瀬、高宮。少し離れた場所では御影が腕を組み、その隣にはスズメまでいた。
奎星は正面へ向き直り、紙へ視線を落とした。そこには、まだ何も書かれていない。もう一度、周囲を見回す。誰も動かない。誰も帰らない。全員が、彼の手元を見守っている。
「…………」
「書かないの?」
楓が訊いた。
「書くよ」
「じゃあ書けば?」
「書くけどさ」
奎星は羽根筆を握ったまま、とうとう声を張り上げた。
「そんな見られたら書きづらいだろ!!」
「お前が心配だから見てやってんだろうが!」
間髪を入れず、高宮の怒鳴り声が返ってきた。
「何で願書を書くためだけに、こんな人数が集まってんだよ!」
「お前だからだ!」
「理由になってねえ!」
「十分なってる!」
「名前くらい書けるって!」
「進路希望調査を一か月近く鞄へ入れっぱなしにしていたのは誰だ!」
「昔の話!」
「三か月前だろう!」
「最近じゃん!」
「認めた!」
周囲から笑い声が上がった。奎星は不満そうに頬を膨らませながらも、ようやく紙へ向き直る。
真っ白な紙の一番上には、黒い文字で《禍祓官採用選考 願書》と印刷されていた。
この一年、何度も口にしてきた名前だった。
一年前、魔法を知ったばかりの頃の奎星にとって、禍祓官とは、御影がかつて就いていた仕事という程度のものだった。強くて、格好よくて、危険な場所へ赴き、人を助ける。最初は、そのくらいの認識しかなかった。
けれど、その後に実際の現場を見た。
第零書庫。鬼火鳥。黒曜の環。朝凪島。星帰り。記憶施設。そこで目にしたものは、単純な強さや華やかさとはほど遠かった。御影から聞かされた話も同じだった。禍祓官は、強ければ務まる仕事ではない。戦うだけでもない。待ち、調べ、記録し、ときには立ち止まり、逃げ、誰かを呼ぶ。そして、最後には必ず帰ってくる。
それでも、知れば知るほど、奎星はその仕事をやりたいと思うようになった。
「ほら」
土御門が奎星の横から願書を覗き込んだ。
「まずは氏名ですよ」
「そこは分かる!」
「本当に?」
「土御門先生まで!?」
「確認です」
奎星は羽根筆へインクをつけ、紙の上へ慎重に先端を下ろした。《氏名》と書かれた欄の横へ、ゆっくりと自分の名前を記していく。
《蓮根奎星》
「…………」
「おお」
日向が感心したように声を上げた。
「名前、書けたじゃん」
「舐めんな!」
「第一関門突破」
伊織が淡々と言う。
「願書に第一関門とかないから!」
「まだ住所があります」
「書けるわ!」
「郵便番号」
「書ける!」
「生年月日」
「書ける!!」
岳が横から紙を覗き込んだ。
「五月二十八日」
「知ってんの?」
「誕生日」
「覚えてたんだ」
「ケーキ食った日」
「そっちかい」
奎星は騒がしい外野を無視しようと努めながら、一つずつ欄を埋めていった。住所、生年月日、在籍校、希望職種。書き進めるたび、ただの紙だったはずのものが、少しずつ自分の未来へ近づいてくる。
それは妙な感覚だった。
この夏、奎星は、自分が生まれるずっと前から続いていたものをいくつも知った。小萱村。蓮根清弦。白川鈴。蓮根八重子。母へ施された古い魔法。閉じられた魔力の道。百五十年以上にわたって蓮根家の中を巡り、最後には自分へ戻ってきた神代榊。そして、その杖へ最初に魔力を流したのが、ほかならぬ自分自身だったこと。
自分の中にある力がどこから来たのか。なぜ十七歳まで魔法を知らずに生きていたのか。なぜ八重子が何も語らなかったのか。すべてが分かったわけではない。第零書庫で何が起きたのかも、あの死の呪文がなぜ消えたのかも、まだ仮説の先にある。
それでも、もう自分が何者なのか分からないとは思わなかった。
そして、知ったからといって、やりたいことが変わったわけでもなかった。
「次」
楓が願書の下の方を指差した。
「ここ」
「分かってるって」
奎星は紙へ目を落とす。
《志望理由》
羽根筆の先が、そこで止まった。
周囲の空気も、ほんの少しだけ静かになる。
「何?」
日向が訊いた。
「いや」
奎星は頭を掻いた。
「これ、何書けばいい?」
「そこから!?」
高宮の声が飛んだ。
「だって!」
「進路相談で何をしていたんですか!」
「いっぱい話した!」
「なら書け!」
「書くのと喋るのは違うじゃん!」
「同じです!」
「違う!」
「蓮根君」
坪田が苦笑しながら口を挟んだ。
「自分がどうしてなりたいと思ったのか、そのまま書けばいいんじゃない?」
「そのまま?」
「うん」
「御影先生が格好よかったから?」
「最初の一行としては正直ですね」
土御門が笑う。
「書くな」
御影が低い声で言った。
「何で!?」
「志望理由が俺になる」
「いいじゃん!」
「よくない」
「じゃあ、『人を助けたい』」
「抽象的」
伊織が言った。
「伊織は黙ってて!」
「事実」
「分かってる!」
奎星は頭を抱えた。
「願書むずっ!」
「地下遺跡には平気で入るのに」
楓が言う。
「それとこれとは別!」
「幕末には行けるのに」
日向も続けた。
「行きたくて行ったんじゃねえ!」
「巨大石像とは戦える」
伊織が言う。
「願書は殴っても終わんないだろ!」
「殴るという発想を捨ててください」
スズメが静かに言った。
「してない!」
「今しました」
「言っただけ!」
また笑いが起こった。
奎星はしばらく紙を睨んでいたが、やがて、少しずつ羽根筆を動かし始めた。
格好いいと思った。強くなりたいと思った。誰かを助けられる人になりたいと思った。
けれど、それだけではない。
現場で何もできなかったこともある。怖かったこともある。誰かに助けてもらったこともある。一人ではどうにもならないと知った。戦わないという選択があることも、逃げることが必要なときも、帰ることまでが仕事なのだということも知った。
それでも、自分は現場へ行きたい。必要なときに動ける人になりたい。危険を止められる人になりたい。
そのすべてを、そのまま文章にすることはできなかった。何度も書き直し、言葉を選び直しながら、奎星なりの文章へ変えていく。
途中から、誰も口を挟まなくなった。大食堂の隅で交わされていた話し声も、いつの間にか遠のいている。奎星が紙へ向かう姿を、皆が黙って見守っていた。
時間はかかった。
それでも、最後の一文字まで書き終える。
「…………終わった」
奎星が羽根筆を置いた。
「まだです」
高宮が言った。
「え!?」
「裏面」
「裏あんの!?」
「あります!」
「聞いてない!」
「最初に説明しました!」
「覚えてない!」
「お前ぇぇぇ!!」
大食堂に、再び怒鳴り声が響き渡った。
*
「つっかれた……」
それから二十分後、奎星は長机へ突っ伏していた。願書はようやくすべての欄が埋まり、今は土御門と高宮が誤字や記入漏れを確認している。
「地下施設より疲れた」
「それはないでしょ」
楓が言った。
「精神的に!」
「願書でそこまで消耗する人、初めて見た」
「伊織、お前もう出したんだっけ?」
「先週」
「岳は?」
「出した」
「楓」
「とっくに」
「…………」
奎星は顔だけを上げた。
「何で俺だけ今日なの?」
「「後回しにしたから」」
三人の声が、ほとんど同時に重なった。
「裏切り者!」
「何の?」
伊織が訊く。
「学生生活最後まで一緒にいようぜ!」
「願書は別」
「冷てえ!」
「俺もまだ出してねえぞ!」
日向が胸を張った。
「おお!」
「俺は契約先を決めてねえから!」
「事情が違う!」
「でも未提出仲間!」
「お前にはオファー来てんじゃん!」
「羨ましいか?」
「ちょっと!」
「素直!」
日向が笑った。
「まあ、お前も受かれよ」
「受かる!」
「筆記な」
「…………」
奎星の笑顔が止まった。
日向がにやりとする。
「忘れてた?」
「忘れてない」
「顔」
「忘れてない!」
伊織が机の端に置かれていた受験案内を手に取った。
「一次試験」
「言わなくていい!」
「九月十二日」
「知ってる!」
「あと二週間」
「言うな!」
「正確には十四日」
「もっと嫌!」
「内容は筆記。魔法法規、呪術理論、魔法生物、魔法薬、対闇魔術、魔法犯罪史――」
「全部言うなあああ!」
奎星が頭を抱える。日向がその肩を叩いた。
「実技ならな」
「そうなんだよ!」
「お前、絶対そっちの方が楽だよな」
「百倍楽!」
「普通、逆じゃない?」
楓が呆れたように言う。
「だって魔法撃つんだろ!?」
「内容はまだ分からないでしょう」
スズメが言った。
「でも実技!」
「だからといって、試験官へ全力で魔法を撃っていいという意味ではありません」
「分かってるよ!」
「本当に?」
「何でみんな今日、俺を信用しないの!?」
伊織は受験案内を裏返した。
「二次試験は十月十七日」
「うん」
奎星は頷いたが、次の瞬間、ふと動きを止めた。
「…………十七?」
「十月十七日」
「星迎祭って」
「十五日」
楓が答えた。
「…………」
奎星の眉が寄る。
「二日後?」
「二日後」
「…………」
「どうしたの?」
「いや」
奎星は妙に真剣な顔になった。
「実技が星迎祭の二日後か……祭り、楽しめんのかな、俺」
一拍置いて、伊織が言った。
「そもそも一次で落ちて、それどころじゃないかも」
「どうしてそういうことを言うんだ〜!」
奎星が飛びかかり、伊織の胸ぐらを掴んだ。
「ちょっ」
「俺だって頑張ろうとしてんだぞ!」
「だから現実的な可能性を」
「今いらない現実!」
「苦しい」
「励ませ!」
「一次通過率を考えると」
「数字出すな!」
「蓮根ぇ!」
高宮の怒鳴り声が飛んだ。
「禍祓官は人の胸ぐらを掴まないぞ!」
「確かに!」
奎星は伊織から手を離した。
「納得するんだ」
伊織が襟を直す。
「高宮先生も奎星の扱い方わかってきたな」
日向が呟いた。
「でも大丈夫だよ」
楓が言った。
「何が?」
「一次」
「…………」
奎星は疑うように楓を見る。
「何、その顔」
「今までの流れで、優しい言葉が来ると思わなかった」
「失礼ね!」
「だって伊織が落ちるって!」
「可能性を言っただけ」
「ほら!」
「大丈夫」
楓はもう一度、はっきりと言った。
「先生たち、やる気だから」
「先生たち?」
「はい」
土御門がにこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、奎星の胸に嫌な予感が広がった。
「…………何?」
「蓮根君」
「はい」
「明日の予定をお伝えしますね」
「明日?」
高宮が一枚の紙を持ち上げた。
「朝食後からだ」
「何が?」
「試験対策」
「…………」
「午前二時間」
「…………」
「昼食後、一時間」
「…………」
「夕食前に確認試験」
「…………」
「夜は自習」
「…………」
奎星はゆっくりと周囲を見回した。早瀬がいる。坪田がいる。土御門がいる。高宮がいる。御影がいる。そして、スズメがいる。
「待って」
「何です?」
スズメが訊いた。
「まさか」
奎星は高宮の持つ紙を指差した。
「みんな?」
「得意分野ごとに担当します」
土御門が答えた。
「全員!?」
「全員ではありません」
「よかった!」
「他にもいます」
「増えるの!?」
日向が吹き出した。
「学校総動員じゃん!」
「笑うな!」
「すげえ!」
「俺一人の筆記試験だぞ!?」
「だからだろう」
御影が言った。
奎星が振り返る。
「御影先生までやんの!?」
「やる」
「筆記だぞ!?」
「知っている」
「勉強、教えられるの!?」
御影の目が細くなった。
「蓮根」
「マズった」
「今の発言は覚えておく」
「すみませんでした!」
奎星は即座に頭を下げた。
「早い」
楓が笑った。
「何でそこまで……」
奎星は机へ突っ伏したまま呟いた。
「別に俺、学校代表とかじゃないじゃん」
「そうですね」
スズメが答える。
「じゃあ」
「ですが」
スズメは奎星の言葉を遮った。
「ここまで補習をして、ここまで試験を受けて、ここまで何度も落第の危機を回避して、ここまで進路について考えてきた生徒が」
彼女は淡々とした口調のまま、奎星を見た。
「あと二週間の筆記試験で落ちたら、教師として少々納得がいきません」
「温情の言い方が怖い!」
「温情だと思っていたのですか?」
「違うの!?」
「結果を出してください」
「圧!」
高宮が腕を組んだ。
「こっちは一年以上、お前の補習に付き合ってるんだ!」
「高宮先生、途中からだろ!」
「回数の問題ではない!」
「ほんっとうに憎たらしいガキだな!」
「あ、その台詞久しぶり!」
「喜ぶな!」
坪田が笑い、土御門も口元を押さえる。大食堂の端に残っていた生徒たちまで、面白そうにこちらを見ていた。
奎星は、その顔を一人ずつ見た。
先生。友達。同級生。補習で何度も一緒になった生徒たち。試験前になると眠そうな顔で机へ向かい、問題集を解き、魔法薬を失敗させ、呪文を間違え、再試験の日には揃って胃を痛めた仲間たち。結果が悪ければ慰め合い、少しでも良ければ大騒ぎしてきた。
思えば、自分一人でここまで来たことなど、一度もなかった。
奎星は願書へ目を落とした。自分の名前。自分で書いた志望理由。そして、一番下に残された署名欄。そこだけが、まだ空白だった。
「蓮根君」
スズメが呼んだ。
「ん!?」
奎星が顔を上げる。
スズメは机の向こうへ回り、少しだけ身を屈めて、座っている奎星と視線の高さを合わせた。黒い髪が頬へ掛かり、周囲の騒がしさの中で、その声だけが妙にはっきりと届く。
「卒業するのでしょう」
奎星の動きが止まった。
八咫祭の夜、花火の下で自分が口にした言葉を思い出す。
来年も。再来年も。その次も。ずっと一緒にいたい。
だから、卒業したい。
洞窟でも言った。絶対に卒業する、と。
その言葉が何を意味するのかを、スズメはもう知っている。
「…………」
奎星は彼女を見つめた。それから、ふっと笑う。
「……ああ!!」
勢いよく立ち上がった。
「お」
日向が声を上げる。
「何?」
楓が見る。
奎星は椅子から立ち上がっただけではなかった。次の瞬間には、机へ片足を乗せている。
「蓮根?」
高宮の声が低くなった。
奎星はもう片方の足も上げ、願書の置かれた机の上へ完全に立ち上がった。
「蓮根!!」
高宮が叫ぶ。
「聞けえええええ!!」
奎星の声が、それを上回った。
大食堂中の視線が集まる。食事を終えて談笑していた生徒も、宿題をしていた生徒も、補習帰りの生徒も、教師も小妖も、全員が机の上に立つ奎星を見上げていた。
日向の口元が上がる。
「始まった」
「絶対ろくなことじゃない」
楓が額を押さえた。
奎星は胸を張り、拳を握る。
「私、蓮根奎星は!!」
「何で急に『私』なんだよ!」
日向が笑う。
「静粛に!!」
「お前が一番うるせえ!」
「禍祓官試験を!」
奎星は構わず続けた。
「合格、突破するとともに!!」
一度、大きく息を吸う。
「この学校を来年卒業することを、ここに誓います!!」
一瞬、大食堂が静まり返った。
次の瞬間、歓声が爆発する。
「うおおおおおおおおお!!」
「蓮根ー!」
「絶対受かれよー!」
「卒業しろー!」
「補習終わらせろー!」
「一次で落ちるぞー!」
「最後のやつ誰だあああ!」
奎星が叫び返す。
拍手が起こった。一人、二人と始まった音は、あっという間に大食堂全体へ広がっていく。机を叩く音、椅子を鳴らす音、口笛、歓声、笑い声。そのすべてが混ざり合い、古い校舎の天井を揺らした。
「奎星ー!」
日向が拳を突き上げる。
「通れえええ!」
「通る!!」
「卒業しろー!」
楓も笑いながら手を叩いている。
「する!!」
「補習なし!」
伊織が言った。
「それは努力する!!」
「弱くなった」
「そこは誓えない!」
岳も拍手していた。
「受かったら」
「何!?」
「飯」
「奢る!」
「言った」
「あ」
「聞いた」
伊織が淡々と続ける。
「証人多数」
「待って!」
「撤回不可」
「禍祓官の給料が入ってからな!?」
特に大きな拍手を送っているのは、夏休み中も奎星と同じ教室に残っていた生徒たちだった。去年も今年も、補習で何度も同じ教室へ集められた者たち。眠い目を擦りながら問題集を解き、魔法薬を失敗させ、呪文を間違え、再試験の日には揃って胃を痛めた仲間たちだった。
彼らは知っている。蓮根奎星が、どれほど勉強を得意としていないかを。同時に、どれだけ最後には机へ戻ってくるかも。
「蓮根ー!」
「頑張れー!」
「一次突破ー!」
「卒業ー!」
「禍祓官ー!」
「うおおおおお!!」
奎星も拳を突き上げた。
その瞬間、腰の辺りを何かに掴まれた。
「え」
ぐい、と強く引かれる。
「うわっ!」
机の上から引きずり下ろされ、奎星は床へ尻餅をついた。
「いってぇ!」
顔を上げると、御影が立っていた。
「調子に乗るな」
「何だよ!」
「机に立つな」
「今いいとこだったじゃん!」
「知らん」
「みんな盛り上がってた!」
「だから何だ」
「御影先生、ノリ悪っ!」
御影は奎星を見下ろしていた。いつもと変わらない顔だった。訓練場で何度も自分を地面へ転がした顔。最初に魔法を教えた教師。強くなりたいと思ったきっかけ。禍祓官という仕事を知ったきっかけ。
一年前、何も知らなかった自分が、初めて追いつきたいと思った背中だった。
奎星は床に座ったまま、その顔を見上げた。それから、にっと笑う。
「見てろよ、御影先生!」
「何だ」
奎星は立ち上がった。
「あんたを超える禍祓官になってやる!!」
「おおおおおおお!!」
また大食堂が沸いた。
「言ったあああ!」
日向が叫ぶ。
「御影超え!」
「でかく出た!」
楓まで笑っている。
御影は何も言わなかった。ただ、ほんの僅かに口元を上げる。
「やってみろ」
短い言葉だった。
奎星の目が輝く。
「おう!!」
「ただし」
「何!?」
「まず筆記を通れ」
「余韻!!」
大食堂が爆笑に包まれた。
「それと!」
今度は高宮の声が飛ぶ。
「願書を書き終えてから誓え!!」
「そうだった!!」
「署名欄が空白です!」
土御門が願書を掲げる。
「クッソォ!」
「戻れ!」
「はい!!」
奎星は大急ぎで机へ戻った。
*
しばらくして、さっきまであれほど騒がしかった大食堂も、ようやく落ち着きを取り戻した。何人かの生徒は寮へ戻り、教師たちもそれぞれの仕事へ戻っていく。それでも、日向たち四人はまだ近くに残っていた。
奎星は再び椅子へ座り、今度こそ最後の欄へ羽根筆を置いた。
《本人署名》
書き始める。
最初の一画だけ、少し震えた。
奎星は、その震えを見つめた。
石像と戦ったときは震えなかった。幕末へ飛ばされたときも、巨大な守護者に追われたときも、恐怖はあったが、手が止まることはなかった。それなのに、ただ名前を書くだけの今、指先がわずかに震えている。
「蓮根君」
スズメの声がした。
奎星は顔を上げなかった。
「大丈夫です」
「…………」
「ゆっくりで構いません」
「うん」
奎星はもう一度、紙へ目を落とした。
腰には神代榊がある。百五十年以上前、自分が最初に魔力を通した杖。その杖を清弦が使い、何代もの蓮根家の人間が使い、八重子が使い、そして今、自分のもとへ戻ってきた。
家族は、自分へ何かを強制するためにそれを残したわけではない。清弦も、八重子も、母も、誰も、自分に禍祓官になれとは言わなかった。
八重子が最後に残した言葉を思い出す。
――自分のやりたいことに。
先祖が決めた道ではない。杖が決めた道でも、魔力が決めた道でもない。英雄だからでも、生き残ったからでもない。
自分で見て、自分で聞いて、怖いことも知った。それでも、自分で選んだ。
奎星は羽根筆を動かした。
《蓮根奎星》
最後の一文字まで書き終える。
今度は、手は震えなかった。
「…………よし」
羽根筆を置く。
スズメが願書を手に取り、上から下まで確認していく。
「どう?」
「住所」
「間違えた!?」
「合っています」
「脅かすなよ!」
「確認しただけです」
「心臓止まるかと思った!」
「それでは禍祓官になる前に困ります」
「縁起悪い!」
スズメは最後の署名まで目を通し、それから静かに頷いた。
「問題ありません」
「…………」
奎星は数秒、動かなかった。
「終わり?」
「はい」
「マジ?」
「はい」
「願書?」
「願書です」
「出せる?」
「出せます」
「…………」
奎星はゆっくりと両手を上げた。
「終わったあああああ!」
「やっとかよ!」
日向が笑う。
「願書一枚で騒ぎすぎ!」
楓も笑った。
「提出するまで終わってない」
伊織が言う。
「持ってく途中でなくす可能性」
岳が続けた。
「お前ら最後まで信用しろよ!」
「先生に預けなさい」
楓が即答する。
「俺、十八!」
「関係ない!」
「成人!」
「なおさら自分の管理能力に責任を持ちなさい!」
「言い方!」
笑いながら、奎星は願書を封筒へ入れた。封をする。ほんの薄い、一通の封筒だった。
剣でもない。魔法具でもない。古代の記録でもない。何かの秘密が眠っているわけでもない。
ただ、自分の名前と、自分が行きたい場所が書かれている。
それだけだった。
*
大食堂を出ると、南硫黄島の夜は静かだった。昼間の暑さは少しだけ薄れ、海から涼しい風が吹いてくる。空には星が浮かび、羊脂玉の校舎は淡い月明かりを受けて、白く静かに佇んでいた。
「あと二週間かあ……」
奎星が歩きながら呟く。
隣にはスズメがいた。
「十四日です」
「数えなくていいって」
「現実です」
「伊織みたいなこと言うなよ」
「試験日は変わりません」
「分かってる」
奎星は両手を頭の後ろへ組んだ。
「明日から勉強?」
「はい」
「朝から?」
「はい」
「夜まで?」
「適度な休憩はあります」
「逃げ道!」
「ありません」
「やっぱり!」
スズメの口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「でも」
奎星が言う。
「受かるよ」
「そうしてください」
「絶対」
「はい」
「卒業もする」
「それもお願いします」
「冷静だなぁ」
「教師ですから」
「じゃあさ」
「何です?」
「受かったら褒めてよ」
「考えておきます」
「そこ考える必要ある!?」
「結果を見てからです」
「ケチ!」
「まだ受験もしていません」
「先払い!」
「何を先払いするのです?」
「褒め!」
「ありません」
「即答!」
二人の声が、夜の回廊へ響いた。
少し前を、日向たちが歩いている。
「奎星ー!」
日向が振り返った。
「何!?」
「早く来い!」
「待てって!」
「明日、朝から勉強なんだろ!」
「だから何!?」
「最後の自由時間!」
「嫌な言い方すんな!」
日向が笑う。楓が呆れ、伊織は何かを言い、岳は手に持った夜食らしき包みを開けようとしている。
奎星は走り出した。
数歩進んだところで、ふと振り返る。
「スズメちゃん!」
「走らないでください」
「俺頑張るよ!」
「聞いていますか?」
「聞いてる!」
「では歩いてください」
「はーい!」
返事だけして、また走る。
「蓮根君!」
怒られた。
奎星は笑った。
夏休みは、もうすぐ終わる。
この一年で、過去へ行った。失われた時間を何度もやり直した。百五十年以上前の先祖と喧嘩をし、祖母の記憶を見て、自分の家に隠されていたものを知った。自分の力がどこから来たのかも、自分の杖が誰より先に自分を知っていたことも、たくさん知った。
けれど、知ったからといって、未来まで決まっているわけではない。
八重子は何も命じなかった。清弦も何も残さなかった。杖だって、ただ長い時間を覚えていただけだ。
なら、ここから先は自分で決めればいい。
「日向!」
「遅え!」
「待て!」
「走るなって怒られてただろ!」
「お前も走ってんじゃん!」
「俺は怒られてねえ!」
「じゃあ俺もいい!」
「どういう理屈よ!」
楓の声が飛ぶ。
五人の笑い声が、夜の校舎へ広がっていく。
その少し後ろを、スズメが歩いていた。
奎星がまた振り返る。
ちゃんといる。
だから、前を向いた。
九月十二日。一次筆記試験。
十月十五日。星迎祭。
十月十七日。二次実技試験。
その先には卒業がある。そのさらに先には、自分が選んだ仕事がある。
まだ遠い。
けれど、進む道はもう決まっていた。
蓮根奎星は、夏の終わりを自分の足で走っていった。
*
同じ夜。
東京のどこかで、一枚の紙が暗い机の上へ置かれた。
明かりはついていない。窓から差し込む街の光だけが、紙の端を薄く照らしている。そこには、いくつかの日付が並んでいた。
九月十二日。一次筆記試験。
そして、十月十七日。二次実技試験。
誰かの指が、その日付をゆっくりとなぞった。
紙が一枚めくられる。受験者に関する欄。そこは、ほとんど見られなかった。さらに一枚、当日の運営、会場、配置、そして実技試験に立ち会う魔法使いたちの一覧へと進む。
しばらくして、紙が静かに閉じられた。
十月十七日。
まだ、夏が終わったばかりだった。
マホウトコロ シーズン8 「夏影と石の守り人」完
次章、ついに最終シーズンです!
乞うご期待!