第1話 総力戦
午前四時五十分。
南硫黄島の空には、まだ夜の名残が深く沈んでいた。海と空の境目だけが薄く青み始め、訓練場の石床には夜露が細く光っている。潮を含んだ風が頬を撫で、遠くでは波の砕ける音が、眠りから覚めきらない島の静けさをかすかに揺らしていた。
「おはよーございまーす……」
蓮根奎星は、半分眠った顔で訓練場へ入った。返事はない。いつものことだった。
中央には、すでに御影玄一郎が立っている。奎星は欠伸を一つ噛み殺し、腰の神代榊へ手をかけながら近づいたが、御影の前に置かれたものを見て足を止めた。
机だった。
椅子もある。机の上には分厚い参考書と問題用紙、その横には削った鉛筆が一本置かれている。
奎星は手にした神代榊と机を見比べ、それから御影へ視線を移した。
「何これ」
「座れ」
「いや、朝練」
「座れ」
「俺、杖持ってきたんだけど」
「置け」
「朝練は!?」
「これだ」
「机じゃん!!」
まだ眠っていた訓練場へ奎星の声が響き、近くの木から鳥が一羽、迷惑そうに飛び立った。御影は眉一つ動かさない。
「昨日言ったはずだ。筆記を通れ」
「だからって朝練まで!?」
「あと十三日だ」
「数えるなよ!」
「座れ」
「せめて走らせてくれ!」
「珍しいことを言うな」
「勉強より走る方がいい!」
「なら十周走ってからやるか」
「座ります」
即答だった。
奎星は神代榊を腰へ戻し、観念したように椅子へ腰を下ろす。御影が問題用紙を一枚、机の中央へ置いた。
「制限時間三十分」
「朝の五時前だぞ」
「始めろ」
「人権」
「始めろ」
「はい」
奎星は鉛筆を握った。
一問目で眉が寄り、二問目でさらに寄る。三問目まで進んだところで、とうとう鉛筆が止まった。
「先生」
「何だ」
「これ、実戦だったらどうすればいい?」
「試験だ」
「いや、だからこの状況になったらさ」
「問題に答えろ」
「俺なら相手を先にぶっ倒して――」
「答案に書くな」
「でも解決するぞ?」
「書くな」
「禍祓官なのに?」
「禍祓官だからだ」
「難しいなぁ……」
奎星は頭を掻き、もう一度紙へ向かった。しばらく考えたあと、教科書の頁を思い出すように視線を動かし、鉛筆の先を紙へ戻す。
「……これ」
小さく呟きながら、答えを書いた。
「昨日、高宮先生が言ってたやつだ。こっちは……土御門先生の」
御影は少し離れた場所で腕を組み、何も言わずに見ていた。夜明け前の訓練場には、奎星の鉛筆が紙を擦る音だけが響いていた。
*
三十分後、奎星は勢いよく顔を上げた。
「終わった!」
「あと二分ある」
「終わったって!」
「見直せ」
「した!」
「もう一度やれ」
「信用なさすぎない!?」
「あると思うか」
「御影先生!!」
東の空が、ようやく明るくなり始めていた。
*
そこから、蓮根奎星の地獄が始まった。
「次です」
「まだあんの!?」
「あります」
「さっき二時間やったよな!?」
「休憩もしましたよ」
「十分!」
「十分も、です」
「土御門先生、笑顔で怖いこと言うようになったよね!?」
「前からです」
午前中、奎星は教室の机へ縛りつけられたように座らされていた。正面には問題集、右には参考書、左には過去問題。その向こうには教師がいる。逃げ道はどこにもなかった。
「蓮根!」
「はい!」
「ここ! 理由まで書け!」
「答え合ってるじゃん!」
「記述問題だ!」
「気持ちを汲んで!」
「採点官に言え!」
「高宮先生から言っといて!」
「知らん!」
別の方向から、間髪入れずに声が飛ぶ。
「蓮根君」
「はい……」
「この場合に必要となる手続きは?」
「えー……」
「昨日やりましたよ」
「やった」
「はい」
「めちゃくちゃやった」
「では答えてください」
「…………」
「蓮根君?」
「今、脳の奥から引っ張り出してます」
「頑張ってください」
「引っかかってんだよ!」
午前中だけで、奎星の机には何枚もの答案が積み上がった。赤い丸や線、書き直しを促す文字が紙面を埋めている。
「俺の紙だけ夕焼けみたいになってんだけど」
「間違えるからだ!」
「風情の話してんの!」
「勉強しろ!」
*
昼になると、奎星は大食堂の椅子へ倒れ込むように座った。目の前には白飯、味噌汁、焼き魚、煮物。立ち上る湯気が、ようやく訪れた救いのように見える。
「いただきます!」
箸を取って魚へ伸ばしたところで、背後から声がした。
「蓮根」
手が止まる。
ゆっくり振り返ると、高宮が立っていた。
「休憩は十二時四十分までだ」
「今何時?」
「十二時二十三分」
「飯に十七分しかねえ!!」
「食え!」
「味わわせろよ!」
「喋ってる暇があるなら食え!」
「それはそう!」
奎星は慌てて焼き魚へ箸を伸ばした。
*
午後になると、場所が別の教室へ移っただけで、目の前にあるものは変わらなかった。
「これ昨日やった!」
「では答えられますね」
「そういうことになるの!?」
「なります」
「罠じゃん!」
「勉強です」
「最近、先生たち全員スズメちゃんみたいになってない!?」
「烏丸先生です」
背後から声がした。
奎星が振り返る。
「いた!」
「何ですか、その反応は」
「本人!」
「失礼ですね」
「助かったぁ……」
奎星の顔が、心の底から緩んだ。
*
魔法史研究室だけは、本当に救いだと思っていた。
見慣れた本棚、古い紙の匂い、窓から流れ込む潮風。机の上には資料が積まれ、その向こうには烏丸スズメがいる。
奎星は椅子へ座った瞬間、机へ上半身を投げ出した。
「帰ってきた……」
「どこからです?」
「戦場」
「校内です」
「朝からずっと勉強してんだぞ」
「知っています」
「御影先生までだぞ」
「知っています」
「朝練が筆記になった」
「良いことですね」
「どこが!?」
奎星が顔を上げる。スズメは何事もなかったように紙を揃えていた。その落ち着き払った姿を見ているうちに、奎星の顔にも少しだけ笑みが戻る。
「まあいいや」
「何がです?」
「魔法史だろ?」
「はい」
「勝った」
「まだ何も始まっていませんが」
「だってスズメちゃんじゃん」
「烏丸先生です」
「ここならちょっと喋りながら――」
どさり、と分厚い問題集が目の前へ置かれた。
「…………」
「本日の範囲です」
「待って」
「何です?」
「いつものやつは?」
「いつもの?」
「なんかこう……清弦の資料見たりさ」
「しません」
「古代魔術の話とか」
「しません」
「神代榊の――」
「しません」
「葛切り」
「食べません」
「まだ何も言ってない!」
「顔で分かります」
「じゃあさ」
「問題一」
「話聞いて!」
スズメは問題文の最初へ指を置いた。
「近代魔法行政制度が成立する以前の――」
「そういや清弦のことで思い出したんだけど」
「問題一」
「鈴ちゃんとの――」
「問題一」
「俺、ちょっと気になってることが――」
「蓮根君」
静かな声だった。
奎星が止まる。スズメは真っ直ぐ彼を見ている。
「御影先生を超える禍祓官になるのでしょう?」
「くっ!」
奎星は胸を押さえた。
「それ出すのずるくない!?」
「ご自分で言ったのでしょう」
「昨日の俺ぇ……!」
「では、問題一」
「はい……」
奎星は鉛筆を握った。
*
三十分、一時間、二時間。本当に、最初から最後まで勉強だった。
一度、窓の向こうをウミツバメが横切った。
「今、鳥が」
「見えています」
「綺麗だな」
「そうですね。次です」
失敗。
「腹減った」
「夕食まで一時間です」
「なんかない?」
「ありません」
「冷たい」
「次です」
これも失敗。
さらに一度、机へ額をつけた。
「五分」
「駄目です」
「三分」
「駄目です」
「一分」
「蓮根君」
「はい!」
やはり駄目だった。
それでも、問題を解く時間だけは少しずつ変わっていった。
「これは?」
スズメが訊く。
「えっと……」
奎星は紙を見つめ、眉を寄せた。鉛筆の先が机を小さく叩く。やがて、記憶の底から言葉を引き上げるように答えを書いた。
スズメが答案へ目を通す。
「正解です」
「お」
「次です」
「もうちょい褒めて!」
「正解です」
「同じ!」
「正解したのですから十分でしょう」
「成長を!」
「では、次も正解してください」
「厳しい!」
それでも、奎星は次の問題へ向かった。今度は、さっきより少しだけ早く答えを書いた。
*
夕食の時間には、奎星はもう限界だった。
「つ、疲れた……」
席へ着くなり、日向、楓、岳、伊織の顔を見回す。いつもの四人が揃っている。ようやく愚痴をこぼせると思った、その瞬間だった。
どん、と目の前へ分厚い参考書が置かれた。置いたのは伊織である。
「食べながらでも勉強できるでしょ」
「お前! 伊織!? なんで!?」
「仕方ないでしょ」
「何が仕方ないんだよ!」
「頼まれたから」
「誰の差金だ!?」
奎星は勢いよく振り返った。
教師席には、御影、高宮、土御門、坪田、早瀬、スズメ、その他の教師たちが並んでいる。そして全員が、こちらを見ていた。
奎星の肩が落ちる。
「学校全体かよ……」
「諦めろ」
日向が味噌汁を飲みながら言った。
「俺ら友達だろ!?」
「だから言ってる」
「助けろよ!」
「何から?」
「教育」
「無理」
「即答すんな!」
奎星は仕方なく参考書を開いた。片手に箸、片手に頁を持つ。
「食いにくい!」
「両手使うからだよ」
伊織が言う。
「じゃあどうすんだよ!」
「読んであげる」
「お前、今日だけは優しいな」
「第一問」
「撤回!」
向かいで楓が笑った。岳は何も言わず、奎星の皿に残っている天ぷらを見ている。
「食わないなら」
「食う!」
奎星は皿を自分の方へ引き寄せた。
*
その頃、教師席でも蓮根奎星の話題が続いていた。
「午前中、一度寝ました」
スズメが言うと、高宮の眉間に皺が寄った。
「寝たのか」
「五分ほどです」
「起こせ!」
「起こしました」
「起きましたか?」
土御門が訊く。
「三回目で」
「相変わらずじゃないか!」
「ですが」
スズメは湯呑みを置いた。
「前よりは良くなっています」
「前よりは、な」
高宮が腕を組む。
「三択に四番を書いていましたから」
「まだその話する!?」
遠くから奎星の声が飛んできた。どうやら聞こえていたらしい。
「参考書を読みなさい!」
スズメの声が返る。
「はい!」
教師席で、何人かが笑った。
坪田が奎星の方へ目を向ける。参考書を開いたまま、日向と何か言い合っている。伊織に頁を指され、楓にも注意され、その隙に岳が天ぷらへ箸を伸ばしていた。
「……あ」
奎星が岳の箸を掴む。
「俺の!」
「見てなかった」
「見てなくても俺の!」
坪田が肩を揺らす。
「結局、いつも通りですね」
「そうですね」
スズメも奎星を見た。
「まだまだ問題児ですが」
「そこは変わらないんだな」
高宮が言う。
「はい」
「即答するな」
*
夕食が終わる頃には、奎星は椅子へ深く沈み込んでいた。
「もう字見たくねえ……」
「夜、自習でしょ」
楓が言う。
「言うな……」
「あと十三日」
伊織が続けた。
「お前も言うな……」
そのとき、小さな声がした。
「レンコン!」
「ん?」
奎星が顔を上げると、天ぷらが小さな両手で包みを抱えて立っていた。
「天ぷら!」
「オヤツ!」
「マジ!?」
包みの中には、小さな饅頭が二つ入っている。奎星の目が輝いた。
「いいの!?」
「レンコン!」
天ぷらは胸を張った。
「ガンバレ!」
奎星の顔が、一瞬だけ止まる。次の瞬間、彼は天ぷらを抱きしめた。
「天ぷら!! ありがとな!!」
「ワッ!」
「お前だけだよ俺に優しいの!」
「オヤツ!」
「そうだよな!!」
「会話成立してんの?」
楓が訊く。
「してる!」
そのやり取りを、近くの長机にいた下級課程の生徒たちが見ていた。
一人の小さな男の子が声をかける。
「はすねせんぱい」
「ん?」
「しけん?」
「そう!」
「がんばれ〜!」
「おお!」
別の子も顔を上げた。
「はすねせんぱい、がんばれ〜!」
もう一人が続き、やがてその声は食堂のあちこちへ広がっていった。
「蓮根先輩、頑張ってくださーい!」
「受かってー!」
「がんばれー!」
「お前ら……!」
奎星は饅頭を片手に持ったまま立ち上がった。
「みんなありがと〜!!」
両手を振る。
「頑張るからなー!!」
ぱちぱち、と拍手が起こった。奎星はさらに大きく手を振る。
「絶対受かるからなー!!」
日向が真顔でその様子を見ていた。
「最近のこのノリなんなんだよ」
「私たちも受験あるんだけどね」
楓が呟く。
岳は飯を食べながら言った。
「奎星が問題児だから」
「聞こえてるぞ!!」
「ほら、人気者」
伊織が参考書を閉じた。
「嬉しいでしょ」
「めっちゃ嬉しい!!」
奎星はまた手を振った。
*
夜の男子寮談話室では、普段では考えられない光景が広がっていた。長机の上には参考書、ノート、問題集、単語帳が並び、いつもなら菓子の袋や雑誌、クィディッチ用品が転がっている場所が、その日だけは妙に学生らしい空気に包まれている。
「留年してたまるかあああ!」
三年の男子が一人、頭を抱えて叫んだ。
「俺は卒業する!」
「俺もだ!」
「絶対卒業してやる!」
「卒業して何すんだよ!」
「金持ちになる!」
「どうやって!」
「知らん!」
「駄目じゃねえか!」
「金持ちになってキャバクラ行くんだよ!」
「おおおお!」
「夢でけえ!」
「でかくねえよ!」
奎星が突っ込んだ。
「まず就職しろ!」
「お前に言われたくねえ!」
「俺は禍祓官になるんだぞ!」
「まだ筆記受かってねえだろ!」
「受かる!」
「じゃあ俺も受かる!」
「何に!?」
「全部!」
「雑!」
岳が顔を上げた。
「俺は」
「何!?」
「腹減った」
「お前だけ平常運転!」
笑い声が男子寮へ響いた。
そのとき、談話室の扉が開いた。
御影が立っている。
全員が一斉に黙った。
御影は部屋を見回し、ただ一言だけ呟いた。
「黙れ」
それだけ言って、扉を閉める。
しばらく、誰も喋らなかった。
やがて奎星が小声で言う。
「怖っ」
「聞こえるぞ」
伊織が言った。
「黙れ!」
*
午前零時を過ぎると、男子寮はすっかり静まり返っていた。消灯時間からもしばらく経ち、廊下には遠くから聞こえる波の音だけが残っている。
御影玄一郎は、見回りのために廊下を歩いていた。各部屋の灯りは消えている。だが、談話室の前まで来たところで、扉の隙間から明かりが漏れているのに気づいた。
御影は小さく息を吐き、扉を開けた。
中で誰かが騒いでいるわけではなかった。長机の端に、奎星が一人で突っ伏している。右手には鉛筆が握られ、頬の下には参考書が敷かれていた。開かれたノートには、乱れた文字が何行も並んでいる。
御影は机のそばまで歩み寄り、ノートへ目を落とした。赤い線の引かれた答えや、途中まで書いて消された跡。その端に、他の文字より大きく、乱雑な字が残っている。
《絶対に受かってやる》
御影はしばらくそれを見つめていた。
やがて奎星の手から鉛筆を抜き、ノートと参考書を閉じる。それから眠ったままの身体へ腕を回し、そのまま抱き上げた。
「……重くなったな」
誰にも聞こえない声だった。
*
四人部屋では、日向が相変わらず寝相の悪さを発揮していた。布団から片足が出ている。いや、片足どころか、身体の半分ほどが寝台からはみ出している。どうやって眠ればそうなるのか、御影には分からなかった。
岳は壁側を向いて眠り、伊織は布団を頭まで被っている。
御影は奎星を空いている寝台へ下ろし、布団を掛けた。その瞬間、日向の足が勢いよく跳ね上がる。御影は無言で半歩避けた。
日向は眠ったままだった。
御影はもう一度だけ奎星を見たが、何も言わずに部屋を出た。扉が静かに閉じる。
*
それから十三日。
九月十一日。一次筆記試験前日。
「次!」
「一般社会における――」
「それ昨日やった! 答えは――」
「正解です」
「次!」
「近代魔法史において――」
「待って、それスズメちゃんの!」
「烏丸先生です」
「今そこ直さなくていいだろ!」
「答えてください」
「はい!」
教室の中央で、奎星は一人、椅子へ座っていた。その周囲を高宮、土御門、坪田、早瀬、スズメ、御影ら教師たちが取り囲んでいる。ほとんど尋問のような光景だった。
「次!」
「はい!」
「違う!」
「待って! 今の惜しくない!?」
「惜しい!」
「じゃあ半分!」
「本番に半分はない!」
「ケチ!」
「次です」
「休ませろ!」
「今休みました」
「三十秒!」
「十分です」
「どこが!?」
紙が飛び、質問が飛ぶ。奎星は答え、間違え、直し、また答える。
「そこまで出てるなら思い出せ!」
「今出す!」
「早くしろ!」
「急かすと引っ込むんだよ!」
「何がだ!」
「答え!」
「知るか!」
少し離れた机で、伊織と楓がその光景を見ていた。
「この期間でここまで詰め込んだのはすごいな」
伊織が眼鏡を直す。
「そうね」
楓も頷いた。
「学校全体が本気出したら、あのバカも少しはマシになるのね」
「聞こえてなくてよかったね」
「もう頭いっぱいでしょうね」
その通りだった。
「蓮根!」
「はい!」
「これは!」
「えっと――」
奎星の目が動く。
机の上に並ぶ紙と文字。頭の中には、魔法法規、魔法史、呪術理論、魔法薬、魔法生物、対闇魔術、魔法犯罪史。教師たちの声。何度も間違えた問題。何度も赤で直された文字。
「……あ」
鉛筆が走った。
「これ!」
「正解!」
「よっしゃ!」
「次!」
「まだ!?」
「次です!」
教師たちも疲弊しきっていた。高宮の声は少し掠れ、土御門の手元には何杯目か分からない茶がある。坪田は机へ肘をつきながら問題集をめくり、スズメの赤筆も朝からほとんど止まっていない。御影ですら、いつもよりわずかに目の下が重かった。
それでも、誰もやめなかった。
「次!」
「はい!」
「これは?」
「…………」
奎星の眉が寄る。
教室中の視線が、彼へ集まった。誰も口を挟まない。奎星が自分の力で答えへ辿り着くのを待っている。
「…………分かった!」
羽根筆が走った。
「これだ!」
奎星が答案を持ち上げる。スズメが受け取り、目を通した。
「どう!?」
スズメが顔を上げる。
「正解です」
「っしゃああああ!!」
奎星が立ち上がった。
「終わり!?」
「本日は」
「終わったあああ!」
そのまま椅子へ倒れ込む。
「もう無理……」
「明日が本番だぞ」
御影が言った。
「今それ言う?」
「事実だ」
「知ってる……」
奎星が机へ頬をつけたとき、教室の扉が開いた。
「あら」
穏やかな声が響く。
「ずいぶん壮観ですね」
全員が振り返った。
「校長先生……」
奎星も顔を上げる。
九重院紫苑が立っていた。教室を見回す。教師たち、大量の問題集、赤だらけの答案。そして、その中央で半分燃え尽きている奎星。
九重院は、少しだけ笑った。
「蓮根君」
「はい……」
「顔を上げてください」
「はい」
奎星は身体を起こした。九重院が近づく。いつもの穏やかな表情だった。
「ここまで、よく頑張りましたね」
奎星の目が、わずかに開く。
「え」
「何です?」
「いや」
奎星は周囲を見回した。
「今、褒められた?」
「褒めましたよ」
「校長先生に?」
「私が言いましたので」
「マジ?」
「蓮根」
御影の声が飛ぶ。
「すみません」
奎星は慌てて姿勢を正した。
九重院は笑った。
「去年のあなたなら、分からない問題を前にしたとき、まず逃げる方法を考えていたでしょうね」
「…………まあ」
「否定しないのですね」
「そこはもう」
「ですが今は」
九重院は、机に積まれた答案へ目を向けた。
「間違えても、もう一度考えるようになりました」
スズメが静かに奎星を見る。
「分からなければ、人に訊くようになりました」
九重院の視線が、再び奎星へ戻る。
「そして、自分で決めた道のために、こんな時間まで机へ向かえるようになった」
教室が静かになった。
奎星は、珍しく何も言わなかった。やがて、少しだけ鼻の下を擦る。
「……へへ」
「調子に乗るな」
御影が言った。
「御影先生!」
教室に笑いが起きる。
「まだ何もしてないだろ!」
「顔がしている」
「顔!?」
九重院も小さく笑った。
「蓮根君」
「はい」
「明日、あなたがこの一年で学んできたことを、きちんと書いてきてください」
「…………」
「魔法で学校を救ったことも」
神代榊。黒曜の門。
「過去へ行ったことも」
清弦。鈴。八重子。
「大きな魔力を持っていることも」
そんなものは、明日の答案用紙には書けない。
「筆記試験では、何の加点にもなりません」
「急に厳しい!」
「当然です」
九重院は笑った。
「ですから、勉強したことを書いてきてください」
奎星も笑った。
「うす!」
*
翌朝、空はよく晴れていた。
転移区画には朝の光が差し込み、白い床の上に窓枠の影が長く伸びている。奎星は制服を着て、腰に神代榊を差し、左手首には銀色の腕時計をつけていた。肩に掛けた鞄の中には、筆記具と受験票が入っている。昨日まで何度も開いていた参考書は、もう入っていない。
「忘れ物は?」
楓が訊く。
「ない!」
「本当に?」
伊織が続ける。
「確認した!」
「受験票」
「ある!」
「筆記具」
「ある!」
「時計」
「つけてる!」
「神代榊」
「ある!」
「それは筆記にいらないでしょ」
「お守り!」
日向が奎星の肩を叩いた。
「落ちんなよ」
「誰に言ってんだ」
「蓮根奎星」
「フルネームやめろ!」
岳が小さな包みを差し出した。
「何これ」
「食べ物」
「見れば分かる」
「途中で腹減る」
「岳……!」
奎星は包みを受け取り、感動したように岳を見た。
「お前、分かってんな!」
「食べ過ぎないでよ」
楓が言う。
「眠くなるから」
「母親か!」
「心配してるの!」
「分かってる!」
少し離れた場所には、教師たちもいた。高宮、土御門、坪田、御影、そしてスズメ。
奎星がそちらへ目を向けると、御影と視線が合った。
「御影先生」
「何だ」
「行ってくる」
「ああ」
「受かってくる」
「ああ」
「そしたら次、実技な」
「まず今日を通れ」
「分かってるよ!」
奎星はスズメを見る。
「スズメちゃん」
「烏丸先生です」
「今日くらいいいじゃん!」
「今日だからです」
「意味分かんねえ!」
それでも、二人とも笑っていた。
「行ってくる」
「はい」
スズメも、ほんの少しだけ笑った。
「行ってらっしゃい」
奎星は転移陣へ入った。白い光が足元から立ち上がる。
彼は一度だけ振り返った。
日向、楓、岳、伊織。いつも怒られて、いつも助けられてきた友達と教師たち。その向こうには、いつの間にか自分が帰る場所になっていた学校がある。
「絶対受かってくるからな!!」
「早く行け!」
日向が叫ぶ。
「遅刻するわよ!」
楓。
「受験票なくすなよ」
伊織。
「帰ったら飯」
岳。
「縁起でもないことを言うな!」
高宮。
「落ち着いて解いてきてくださいね」
土御門。
「蓮根」
最後に、御影が呼んだ。
「はい!」
「行け」
奎星は笑った。
「おう!!」
光が強くなる。
次の瞬間、蓮根奎星の姿は消えていた。
九月十二日。禍祓官採用一次筆記試験。
魔法を知って、一年と少し。授業中に眠り、三択問題に四番を書き、補習を重ね、何度も赤点と追試の影に怯えた。それでも、自分で選んだ未来へ進むために、奎星はここまで来た。
蓮根奎星は、人生でたぶん一番本気の筆記試験へ挑んだ。