マホウトコロ   作:西野圭吾

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シーズン9 宵星と常若の庭
第1話 総力戦


 午前四時五十分。

 

 南硫黄島の空には、まだ夜の名残が深く沈んでいた。海と空の境目だけが薄く青み始め、訓練場の石床には夜露が細く光っている。潮を含んだ風が頬を撫で、遠くでは波の砕ける音が、眠りから覚めきらない島の静けさをかすかに揺らしていた。

 

「おはよーございまーす……」

 

 蓮根奎星は、半分眠った顔で訓練場へ入った。返事はない。いつものことだった。

 

 中央には、すでに御影玄一郎が立っている。奎星は欠伸を一つ噛み殺し、腰の神代榊へ手をかけながら近づいたが、御影の前に置かれたものを見て足を止めた。

 

 机だった。

 

 椅子もある。机の上には分厚い参考書と問題用紙、その横には削った鉛筆が一本置かれている。

 

 奎星は手にした神代榊と机を見比べ、それから御影へ視線を移した。

 

「何これ」

 

「座れ」

 

「いや、朝練」

 

「座れ」

 

「俺、杖持ってきたんだけど」

 

「置け」

 

「朝練は!?」

 

「これだ」

 

「机じゃん!!」

 

 まだ眠っていた訓練場へ奎星の声が響き、近くの木から鳥が一羽、迷惑そうに飛び立った。御影は眉一つ動かさない。

 

「昨日言ったはずだ。筆記を通れ」

 

「だからって朝練まで!?」

 

「あと十三日だ」

 

「数えるなよ!」

 

「座れ」

 

「せめて走らせてくれ!」

 

「珍しいことを言うな」

 

「勉強より走る方がいい!」

 

「なら十周走ってからやるか」

 

「座ります」

 

 即答だった。

 

 奎星は神代榊を腰へ戻し、観念したように椅子へ腰を下ろす。御影が問題用紙を一枚、机の中央へ置いた。

 

「制限時間三十分」

 

「朝の五時前だぞ」

 

「始めろ」

 

「人権」

 

「始めろ」

 

「はい」

 

 奎星は鉛筆を握った。

 

 一問目で眉が寄り、二問目でさらに寄る。三問目まで進んだところで、とうとう鉛筆が止まった。

 

「先生」

 

「何だ」

 

「これ、実戦だったらどうすればいい?」

 

「試験だ」

 

「いや、だからこの状況になったらさ」

 

「問題に答えろ」

 

「俺なら相手を先にぶっ倒して――」

 

「答案に書くな」

 

「でも解決するぞ?」

 

「書くな」

 

「禍祓官なのに?」

 

「禍祓官だからだ」

 

「難しいなぁ……」

 

 奎星は頭を掻き、もう一度紙へ向かった。しばらく考えたあと、教科書の頁を思い出すように視線を動かし、鉛筆の先を紙へ戻す。

 

「……これ」

 

 小さく呟きながら、答えを書いた。

 

「昨日、高宮先生が言ってたやつだ。こっちは……土御門先生の」

 

 御影は少し離れた場所で腕を組み、何も言わずに見ていた。夜明け前の訓練場には、奎星の鉛筆が紙を擦る音だけが響いていた。

 

     *

 

 三十分後、奎星は勢いよく顔を上げた。

 

「終わった!」

 

「あと二分ある」

 

「終わったって!」

 

「見直せ」

 

「した!」

 

「もう一度やれ」

 

「信用なさすぎない!?」

 

「あると思うか」

 

「御影先生!!」

 

 東の空が、ようやく明るくなり始めていた。

 

     *

 

 そこから、蓮根奎星の地獄が始まった。

 

「次です」

 

「まだあんの!?」

 

「あります」

 

「さっき二時間やったよな!?」

 

「休憩もしましたよ」

 

「十分!」

 

「十分も、です」

 

「土御門先生、笑顔で怖いこと言うようになったよね!?」

 

「前からです」

 

 午前中、奎星は教室の机へ縛りつけられたように座らされていた。正面には問題集、右には参考書、左には過去問題。その向こうには教師がいる。逃げ道はどこにもなかった。

 

「蓮根!」

 

「はい!」

 

「ここ! 理由まで書け!」

 

「答え合ってるじゃん!」

 

「記述問題だ!」

 

「気持ちを汲んで!」

 

「採点官に言え!」

 

「高宮先生から言っといて!」

 

「知らん!」

 

 別の方向から、間髪入れずに声が飛ぶ。

 

「蓮根君」

 

「はい……」

 

「この場合に必要となる手続きは?」

 

「えー……」

 

「昨日やりましたよ」

 

「やった」

 

「はい」

 

「めちゃくちゃやった」

 

「では答えてください」

 

「…………」

 

「蓮根君?」

 

「今、脳の奥から引っ張り出してます」

 

「頑張ってください」

 

「引っかかってんだよ!」

 

 午前中だけで、奎星の机には何枚もの答案が積み上がった。赤い丸や線、書き直しを促す文字が紙面を埋めている。

 

「俺の紙だけ夕焼けみたいになってんだけど」

 

「間違えるからだ!」

 

「風情の話してんの!」

 

「勉強しろ!」

 

     *

 

 昼になると、奎星は大食堂の椅子へ倒れ込むように座った。目の前には白飯、味噌汁、焼き魚、煮物。立ち上る湯気が、ようやく訪れた救いのように見える。

 

「いただきます!」

 

 箸を取って魚へ伸ばしたところで、背後から声がした。

 

「蓮根」

 

 手が止まる。

 

 ゆっくり振り返ると、高宮が立っていた。

 

「休憩は十二時四十分までだ」

 

「今何時?」

 

「十二時二十三分」

 

「飯に十七分しかねえ!!」

 

「食え!」

 

「味わわせろよ!」

 

「喋ってる暇があるなら食え!」

 

「それはそう!」

 

 奎星は慌てて焼き魚へ箸を伸ばした。

 

     *

 

 午後になると、場所が別の教室へ移っただけで、目の前にあるものは変わらなかった。

 

「これ昨日やった!」

 

「では答えられますね」

 

「そういうことになるの!?」

 

「なります」

 

「罠じゃん!」

 

「勉強です」

 

「最近、先生たち全員スズメちゃんみたいになってない!?」

 

「烏丸先生です」

 

 背後から声がした。

 

 奎星が振り返る。

 

「いた!」

 

「何ですか、その反応は」

 

「本人!」

 

「失礼ですね」

 

「助かったぁ……」

 

 奎星の顔が、心の底から緩んだ。

 

     *

 

 魔法史研究室だけは、本当に救いだと思っていた。

 

 見慣れた本棚、古い紙の匂い、窓から流れ込む潮風。机の上には資料が積まれ、その向こうには烏丸スズメがいる。

 

 奎星は椅子へ座った瞬間、机へ上半身を投げ出した。

 

「帰ってきた……」

 

「どこからです?」

 

「戦場」

 

「校内です」

 

「朝からずっと勉強してんだぞ」

 

「知っています」

 

「御影先生までだぞ」

 

「知っています」

 

「朝練が筆記になった」

 

「良いことですね」

 

「どこが!?」

 

 奎星が顔を上げる。スズメは何事もなかったように紙を揃えていた。その落ち着き払った姿を見ているうちに、奎星の顔にも少しだけ笑みが戻る。

 

「まあいいや」

 

「何がです?」

 

「魔法史だろ?」

 

「はい」

 

「勝った」

 

「まだ何も始まっていませんが」

 

「だってスズメちゃんじゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「ここならちょっと喋りながら――」

 

 どさり、と分厚い問題集が目の前へ置かれた。

 

「…………」

 

「本日の範囲です」

 

「待って」

 

「何です?」

 

「いつものやつは?」

 

「いつもの?」

 

「なんかこう……清弦の資料見たりさ」

 

「しません」

 

「古代魔術の話とか」

 

「しません」

 

「神代榊の――」

 

「しません」

 

「葛切り」

 

「食べません」

 

「まだ何も言ってない!」

 

「顔で分かります」

 

「じゃあさ」

 

「問題一」

 

「話聞いて!」

 

 スズメは問題文の最初へ指を置いた。

 

「近代魔法行政制度が成立する以前の――」

 

「そういや清弦のことで思い出したんだけど」

 

「問題一」

 

「鈴ちゃんとの――」

 

「問題一」

 

「俺、ちょっと気になってることが――」

 

「蓮根君」

 

 静かな声だった。

 

 奎星が止まる。スズメは真っ直ぐ彼を見ている。

 

「御影先生を超える禍祓官になるのでしょう?」

 

「くっ!」

 

 奎星は胸を押さえた。

 

「それ出すのずるくない!?」

 

「ご自分で言ったのでしょう」

 

「昨日の俺ぇ……!」

 

「では、問題一」

 

「はい……」

 

 奎星は鉛筆を握った。

 

     *

 

 三十分、一時間、二時間。本当に、最初から最後まで勉強だった。

 

 一度、窓の向こうをウミツバメが横切った。

 

「今、鳥が」

 

「見えています」

 

「綺麗だな」

 

「そうですね。次です」

 

 失敗。

 

「腹減った」

 

「夕食まで一時間です」

 

「なんかない?」

 

「ありません」

 

「冷たい」

 

「次です」

 

 これも失敗。

 

 さらに一度、机へ額をつけた。

 

「五分」

 

「駄目です」

 

「三分」

 

「駄目です」

 

「一分」

 

「蓮根君」

 

「はい!」

 

 やはり駄目だった。

 

 それでも、問題を解く時間だけは少しずつ変わっていった。

 

「これは?」

 

 スズメが訊く。

 

「えっと……」

 

 奎星は紙を見つめ、眉を寄せた。鉛筆の先が机を小さく叩く。やがて、記憶の底から言葉を引き上げるように答えを書いた。

 

 スズメが答案へ目を通す。

 

「正解です」

 

「お」

 

「次です」

 

「もうちょい褒めて!」

 

「正解です」

 

「同じ!」

 

「正解したのですから十分でしょう」

 

「成長を!」

 

「では、次も正解してください」

 

「厳しい!」

 

 それでも、奎星は次の問題へ向かった。今度は、さっきより少しだけ早く答えを書いた。

 

     *

 

 夕食の時間には、奎星はもう限界だった。

 

「つ、疲れた……」

 

 席へ着くなり、日向、楓、岳、伊織の顔を見回す。いつもの四人が揃っている。ようやく愚痴をこぼせると思った、その瞬間だった。

 

 どん、と目の前へ分厚い参考書が置かれた。置いたのは伊織である。

 

「食べながらでも勉強できるでしょ」

 

「お前! 伊織!? なんで!?」

 

「仕方ないでしょ」

 

「何が仕方ないんだよ!」

 

「頼まれたから」

 

「誰の差金だ!?」

 

 奎星は勢いよく振り返った。

 

 教師席には、御影、高宮、土御門、坪田、早瀬、スズメ、その他の教師たちが並んでいる。そして全員が、こちらを見ていた。

 

 奎星の肩が落ちる。

 

「学校全体かよ……」

 

「諦めろ」

 

 日向が味噌汁を飲みながら言った。

 

「俺ら友達だろ!?」

 

「だから言ってる」

 

「助けろよ!」

 

「何から?」

 

「教育」

 

「無理」

 

「即答すんな!」

 

 奎星は仕方なく参考書を開いた。片手に箸、片手に頁を持つ。

 

「食いにくい!」

 

「両手使うからだよ」

 

 伊織が言う。

 

「じゃあどうすんだよ!」

 

「読んであげる」

 

「お前、今日だけは優しいな」

 

「第一問」

 

「撤回!」

 

 向かいで楓が笑った。岳は何も言わず、奎星の皿に残っている天ぷらを見ている。

 

「食わないなら」

 

「食う!」

 

 奎星は皿を自分の方へ引き寄せた。

 

     *

 

 その頃、教師席でも蓮根奎星の話題が続いていた。

 

「午前中、一度寝ました」

 

 スズメが言うと、高宮の眉間に皺が寄った。

 

「寝たのか」

 

「五分ほどです」

 

「起こせ!」

 

「起こしました」

 

「起きましたか?」

 

 土御門が訊く。

 

「三回目で」

 

「相変わらずじゃないか!」

 

「ですが」

 

 スズメは湯呑みを置いた。

 

「前よりは良くなっています」

 

「前よりは、な」

 

 高宮が腕を組む。

 

「三択に四番を書いていましたから」

 

「まだその話する!?」

 

 遠くから奎星の声が飛んできた。どうやら聞こえていたらしい。

 

「参考書を読みなさい!」

 

 スズメの声が返る。

 

「はい!」

 

 教師席で、何人かが笑った。

 

 坪田が奎星の方へ目を向ける。参考書を開いたまま、日向と何か言い合っている。伊織に頁を指され、楓にも注意され、その隙に岳が天ぷらへ箸を伸ばしていた。

 

「……あ」

 

 奎星が岳の箸を掴む。

 

「俺の!」

 

「見てなかった」

 

「見てなくても俺の!」

 

 坪田が肩を揺らす。

 

「結局、いつも通りですね」

 

「そうですね」

 

 スズメも奎星を見た。

 

「まだまだ問題児ですが」

 

「そこは変わらないんだな」

 

 高宮が言う。

 

「はい」

 

「即答するな」

 

     *

 

 夕食が終わる頃には、奎星は椅子へ深く沈み込んでいた。

 

「もう字見たくねえ……」

 

「夜、自習でしょ」

 

 楓が言う。

 

「言うな……」

 

「あと十三日」

 

 伊織が続けた。

 

「お前も言うな……」

 

 そのとき、小さな声がした。

 

「レンコン!」

 

「ん?」

 

 奎星が顔を上げると、天ぷらが小さな両手で包みを抱えて立っていた。

 

「天ぷら!」

 

「オヤツ!」

 

「マジ!?」

 

 包みの中には、小さな饅頭が二つ入っている。奎星の目が輝いた。

 

「いいの!?」

 

「レンコン!」

 

 天ぷらは胸を張った。

 

「ガンバレ!」

 

 奎星の顔が、一瞬だけ止まる。次の瞬間、彼は天ぷらを抱きしめた。

 

「天ぷら!! ありがとな!!」

 

「ワッ!」

 

「お前だけだよ俺に優しいの!」

 

「オヤツ!」

 

「そうだよな!!」

 

「会話成立してんの?」

 

 楓が訊く。

 

「してる!」

 

 そのやり取りを、近くの長机にいた下級課程の生徒たちが見ていた。

 

 一人の小さな男の子が声をかける。

 

「はすねせんぱい」

 

「ん?」

 

「しけん?」

 

「そう!」

 

「がんばれ〜!」

 

「おお!」

 

 別の子も顔を上げた。

 

「はすねせんぱい、がんばれ〜!」

 

 もう一人が続き、やがてその声は食堂のあちこちへ広がっていった。

 

「蓮根先輩、頑張ってくださーい!」

 

「受かってー!」

 

「がんばれー!」

 

「お前ら……!」

 

 奎星は饅頭を片手に持ったまま立ち上がった。

 

「みんなありがと〜!!」

 

 両手を振る。

 

「頑張るからなー!!」

 

 ぱちぱち、と拍手が起こった。奎星はさらに大きく手を振る。

 

「絶対受かるからなー!!」

 

 日向が真顔でその様子を見ていた。

 

「最近のこのノリなんなんだよ」

 

「私たちも受験あるんだけどね」

 

 楓が呟く。

 

 岳は飯を食べながら言った。

 

「奎星が問題児だから」

 

「聞こえてるぞ!!」

 

「ほら、人気者」

 

 伊織が参考書を閉じた。

 

「嬉しいでしょ」

 

「めっちゃ嬉しい!!」

 

 奎星はまた手を振った。

 

     *

 

 夜の男子寮談話室では、普段では考えられない光景が広がっていた。長机の上には参考書、ノート、問題集、単語帳が並び、いつもなら菓子の袋や雑誌、クィディッチ用品が転がっている場所が、その日だけは妙に学生らしい空気に包まれている。

 

「留年してたまるかあああ!」

 

 三年の男子が一人、頭を抱えて叫んだ。

 

「俺は卒業する!」

 

「俺もだ!」

 

「絶対卒業してやる!」

 

「卒業して何すんだよ!」

 

「金持ちになる!」

 

「どうやって!」

 

「知らん!」

 

「駄目じゃねえか!」

 

「金持ちになってキャバクラ行くんだよ!」

 

「おおおお!」

 

「夢でけえ!」

 

「でかくねえよ!」

 

 奎星が突っ込んだ。

 

「まず就職しろ!」

 

「お前に言われたくねえ!」

 

「俺は禍祓官になるんだぞ!」

 

「まだ筆記受かってねえだろ!」

 

「受かる!」

 

「じゃあ俺も受かる!」

 

「何に!?」

 

「全部!」

 

「雑!」

 

 岳が顔を上げた。

 

「俺は」

 

「何!?」

 

「腹減った」

 

「お前だけ平常運転!」

 

 笑い声が男子寮へ響いた。

 

 そのとき、談話室の扉が開いた。

 

 御影が立っている。

 

 全員が一斉に黙った。

 

 御影は部屋を見回し、ただ一言だけ呟いた。

 

「黙れ」

 

 それだけ言って、扉を閉める。

 

 しばらく、誰も喋らなかった。

 

 やがて奎星が小声で言う。

 

「怖っ」

 

「聞こえるぞ」

 

 伊織が言った。

 

「黙れ!」

 

     *

 

 午前零時を過ぎると、男子寮はすっかり静まり返っていた。消灯時間からもしばらく経ち、廊下には遠くから聞こえる波の音だけが残っている。

 

 御影玄一郎は、見回りのために廊下を歩いていた。各部屋の灯りは消えている。だが、談話室の前まで来たところで、扉の隙間から明かりが漏れているのに気づいた。

 

 御影は小さく息を吐き、扉を開けた。

 

 中で誰かが騒いでいるわけではなかった。長机の端に、奎星が一人で突っ伏している。右手には鉛筆が握られ、頬の下には参考書が敷かれていた。開かれたノートには、乱れた文字が何行も並んでいる。

 

 御影は机のそばまで歩み寄り、ノートへ目を落とした。赤い線の引かれた答えや、途中まで書いて消された跡。その端に、他の文字より大きく、乱雑な字が残っている。

 

《絶対に受かってやる》

 

 御影はしばらくそれを見つめていた。

 

 やがて奎星の手から鉛筆を抜き、ノートと参考書を閉じる。それから眠ったままの身体へ腕を回し、そのまま抱き上げた。

 

「……重くなったな」

 

 誰にも聞こえない声だった。

 

     *

 

 四人部屋では、日向が相変わらず寝相の悪さを発揮していた。布団から片足が出ている。いや、片足どころか、身体の半分ほどが寝台からはみ出している。どうやって眠ればそうなるのか、御影には分からなかった。

 

 岳は壁側を向いて眠り、伊織は布団を頭まで被っている。

 

 御影は奎星を空いている寝台へ下ろし、布団を掛けた。その瞬間、日向の足が勢いよく跳ね上がる。御影は無言で半歩避けた。

 

 日向は眠ったままだった。

 

 御影はもう一度だけ奎星を見たが、何も言わずに部屋を出た。扉が静かに閉じる。

 

     *

 

 それから十三日。

 

 九月十一日。一次筆記試験前日。

 

「次!」

 

「一般社会における――」

 

「それ昨日やった! 答えは――」

 

「正解です」

 

「次!」

 

「近代魔法史において――」

 

「待って、それスズメちゃんの!」

 

「烏丸先生です」

 

「今そこ直さなくていいだろ!」

 

「答えてください」

 

「はい!」

 

 教室の中央で、奎星は一人、椅子へ座っていた。その周囲を高宮、土御門、坪田、早瀬、スズメ、御影ら教師たちが取り囲んでいる。ほとんど尋問のような光景だった。

 

「次!」

 

「はい!」

 

「違う!」

 

「待って! 今の惜しくない!?」

 

「惜しい!」

 

「じゃあ半分!」

 

「本番に半分はない!」

 

「ケチ!」

 

「次です」

 

「休ませろ!」

 

「今休みました」

 

「三十秒!」

 

「十分です」

 

「どこが!?」

 

 紙が飛び、質問が飛ぶ。奎星は答え、間違え、直し、また答える。

 

「そこまで出てるなら思い出せ!」

 

「今出す!」

 

「早くしろ!」

 

「急かすと引っ込むんだよ!」

 

「何がだ!」

 

「答え!」

 

「知るか!」

 

 少し離れた机で、伊織と楓がその光景を見ていた。

 

「この期間でここまで詰め込んだのはすごいな」

 

 伊織が眼鏡を直す。

 

「そうね」

 

 楓も頷いた。

 

「学校全体が本気出したら、あのバカも少しはマシになるのね」

 

「聞こえてなくてよかったね」

 

「もう頭いっぱいでしょうね」

 

 その通りだった。

 

「蓮根!」

 

「はい!」

 

「これは!」

 

「えっと――」

 

 奎星の目が動く。

 

 机の上に並ぶ紙と文字。頭の中には、魔法法規、魔法史、呪術理論、魔法薬、魔法生物、対闇魔術、魔法犯罪史。教師たちの声。何度も間違えた問題。何度も赤で直された文字。

 

「……あ」

 

 鉛筆が走った。

 

「これ!」

 

「正解!」

 

「よっしゃ!」

 

「次!」

 

「まだ!?」

 

「次です!」

 

 教師たちも疲弊しきっていた。高宮の声は少し掠れ、土御門の手元には何杯目か分からない茶がある。坪田は机へ肘をつきながら問題集をめくり、スズメの赤筆も朝からほとんど止まっていない。御影ですら、いつもよりわずかに目の下が重かった。

 

 それでも、誰もやめなかった。

 

「次!」

 

「はい!」

 

「これは?」

 

「…………」

 

 奎星の眉が寄る。

 

 教室中の視線が、彼へ集まった。誰も口を挟まない。奎星が自分の力で答えへ辿り着くのを待っている。

 

「…………分かった!」

 

 羽根筆が走った。

 

「これだ!」

 

 奎星が答案を持ち上げる。スズメが受け取り、目を通した。

 

「どう!?」

 

 スズメが顔を上げる。

 

「正解です」

 

「っしゃああああ!!」

 

 奎星が立ち上がった。

 

「終わり!?」

 

「本日は」

 

「終わったあああ!」

 

 そのまま椅子へ倒れ込む。

 

「もう無理……」

 

「明日が本番だぞ」

 

 御影が言った。

 

「今それ言う?」

 

「事実だ」

 

「知ってる……」

 

 奎星が机へ頬をつけたとき、教室の扉が開いた。

 

「あら」

 

 穏やかな声が響く。

 

「ずいぶん壮観ですね」

 

 全員が振り返った。

 

「校長先生……」

 

 奎星も顔を上げる。

 

 九重院紫苑が立っていた。教室を見回す。教師たち、大量の問題集、赤だらけの答案。そして、その中央で半分燃え尽きている奎星。

 

 九重院は、少しだけ笑った。

 

「蓮根君」

 

「はい……」

 

「顔を上げてください」

 

「はい」

 

 奎星は身体を起こした。九重院が近づく。いつもの穏やかな表情だった。

 

「ここまで、よく頑張りましたね」

 

 奎星の目が、わずかに開く。

 

「え」

 

「何です?」

 

「いや」

 

 奎星は周囲を見回した。

 

「今、褒められた?」

 

「褒めましたよ」

 

「校長先生に?」

 

「私が言いましたので」

 

「マジ?」

 

「蓮根」

 

 御影の声が飛ぶ。

 

「すみません」

 

 奎星は慌てて姿勢を正した。

 

 九重院は笑った。

 

「去年のあなたなら、分からない問題を前にしたとき、まず逃げる方法を考えていたでしょうね」

 

「…………まあ」

 

「否定しないのですね」

 

「そこはもう」

 

「ですが今は」

 

 九重院は、机に積まれた答案へ目を向けた。

 

「間違えても、もう一度考えるようになりました」

 

 スズメが静かに奎星を見る。

 

「分からなければ、人に訊くようになりました」

 

 九重院の視線が、再び奎星へ戻る。

 

「そして、自分で決めた道のために、こんな時間まで机へ向かえるようになった」

 

 教室が静かになった。

 

 奎星は、珍しく何も言わなかった。やがて、少しだけ鼻の下を擦る。

 

「……へへ」

 

「調子に乗るな」

 

 御影が言った。

 

「御影先生!」

 

 教室に笑いが起きる。

 

「まだ何もしてないだろ!」

 

「顔がしている」

 

「顔!?」

 

 九重院も小さく笑った。

 

「蓮根君」

 

「はい」

 

「明日、あなたがこの一年で学んできたことを、きちんと書いてきてください」

 

「…………」

 

「魔法で学校を救ったことも」

 

 神代榊。黒曜の門。

 

「過去へ行ったことも」

 

 清弦。鈴。八重子。

 

「大きな魔力を持っていることも」

 

 そんなものは、明日の答案用紙には書けない。

 

「筆記試験では、何の加点にもなりません」

 

「急に厳しい!」

 

「当然です」

 

 九重院は笑った。

 

「ですから、勉強したことを書いてきてください」

 

 奎星も笑った。

 

「うす!」

 

     *

 

 翌朝、空はよく晴れていた。

 

 転移区画には朝の光が差し込み、白い床の上に窓枠の影が長く伸びている。奎星は制服を着て、腰に神代榊を差し、左手首には銀色の腕時計をつけていた。肩に掛けた鞄の中には、筆記具と受験票が入っている。昨日まで何度も開いていた参考書は、もう入っていない。

 

「忘れ物は?」

 

 楓が訊く。

 

「ない!」

 

「本当に?」

 

 伊織が続ける。

 

「確認した!」

 

「受験票」

 

「ある!」

 

「筆記具」

 

「ある!」

 

「時計」

 

「つけてる!」

 

「神代榊」

 

「ある!」

 

「それは筆記にいらないでしょ」

 

「お守り!」

 

 日向が奎星の肩を叩いた。

 

「落ちんなよ」

 

「誰に言ってんだ」

 

「蓮根奎星」

 

「フルネームやめろ!」

 

 岳が小さな包みを差し出した。

 

「何これ」

 

「食べ物」

 

「見れば分かる」

 

「途中で腹減る」

 

「岳……!」

 

 奎星は包みを受け取り、感動したように岳を見た。

 

「お前、分かってんな!」

 

「食べ過ぎないでよ」

 

 楓が言う。

 

「眠くなるから」

 

「母親か!」

 

「心配してるの!」

 

「分かってる!」

 

 少し離れた場所には、教師たちもいた。高宮、土御門、坪田、御影、そしてスズメ。

 

 奎星がそちらへ目を向けると、御影と視線が合った。

 

「御影先生」

 

「何だ」

 

「行ってくる」

 

「ああ」

 

「受かってくる」

 

「ああ」

 

「そしたら次、実技な」

 

「まず今日を通れ」

 

「分かってるよ!」

 

 奎星はスズメを見る。

 

「スズメちゃん」

 

「烏丸先生です」

 

「今日くらいいいじゃん!」

 

「今日だからです」

 

「意味分かんねえ!」

 

 それでも、二人とも笑っていた。

 

「行ってくる」

 

「はい」

 

 スズメも、ほんの少しだけ笑った。

 

「行ってらっしゃい」

 

 奎星は転移陣へ入った。白い光が足元から立ち上がる。

 

 彼は一度だけ振り返った。

 

 日向、楓、岳、伊織。いつも怒られて、いつも助けられてきた友達と教師たち。その向こうには、いつの間にか自分が帰る場所になっていた学校がある。

 

「絶対受かってくるからな!!」

 

「早く行け!」

 

 日向が叫ぶ。

 

「遅刻するわよ!」

 

 楓。

 

「受験票なくすなよ」

 

 伊織。

 

「帰ったら飯」

 

 岳。

 

「縁起でもないことを言うな!」

 

 高宮。

 

「落ち着いて解いてきてくださいね」

 

 土御門。

 

「蓮根」

 

 最後に、御影が呼んだ。

 

「はい!」

 

「行け」

 

 奎星は笑った。

 

「おう!!」

 

 光が強くなる。

 

 次の瞬間、蓮根奎星の姿は消えていた。

 

 九月十二日。禍祓官採用一次筆記試験。

 

 魔法を知って、一年と少し。授業中に眠り、三択問題に四番を書き、補習を重ね、何度も赤点と追試の影に怯えた。それでも、自分で選んだ未来へ進むために、奎星はここまで来た。

 

 蓮根奎星は、人生でたぶん一番本気の筆記試験へ挑んだ。

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